閑話
中原の覇王・曹操が長江の赤壁において未曾有の大敗を喫し、中華の地が果てしのない泥沼の戦乱へと突入していった西暦二百七年の後半。
血と疫病、そして権謀術数が渦巻く大陸から東シナ海を隔てた遥か東の果て、日本国の風景は、それとは全く対極にある『別の意味での狂騒』に包まれていた。
兵士の怒号や剣の交わる音は、そこにはない。
代わりに響き渡っているのは、無数の木槌が大地を叩く重低音。切り出された巨大な石を運ぶ牛車の車輪の軋み。そして、泥に塗れながら汗を流す大御宝たちと、それを指揮する下級官僚たちの活気に満ちた声であった。
大内裏の奥深くで、右大臣・広庭や次期天皇たる皇太子たちが冷徹な算段を巡らせているその足元で。日本国の国内インフラは、世界史上類を見ないほどの凄まじい速度で、文字通り『国のかたち』を物理的に書き換えようとしていたのである。
現在、この世界線の日本国を貫く大動脈――主要な幹線道路は、すでに大陸のいかなる帝国の街道をも凌駕する独自の規格によって整備されつつあった。
その道幅、およそ『三箇六丈(約11メートル)』。
現代の二車線道路にも匹敵する広大な幅員を持つその道路は、ただ土を平らに均しただけの獣道ではない。市街地を外れた郊外の区間においては、極めて高度な土木技術が注ぎ込まれた『土留め縁石道路』が標準採用されていた。
「よし、突き固めろ! 灰を混ぜた土を、中央が一番高くなるように盛るんだ! 雨水が滞りなく外側へ流れるように、美しい曲線を描け!!」
現場監督である下級官僚の指示が飛ぶ。
路面の構造は、深く掘り下げた基礎の上に砕石を敷き詰め、その上に粘土と砂、そして『火山灰』を絶妙な比率で混ぜ合わせた特殊な土を被せ、重い木槌と石のローラーでカチカチになるまで突き固められている。
火山灰を混ぜることでポゾラン反応が起き、単なる土とは比較にならない硬度と耐水性を持つ路面が完成するのだ。
そして、その道路の断面は真っ平らではない。
中央部が緩やかに盛り上がり、左右の端に向かって傾斜していく、いわゆる『かまぼこ型』の形状を成していた。
「雨が降ったぞ! 水の捌け具合を確認しろ!」
南方の激しい雨が降り注いでも、大和の幹線道路に水たまりができることはない。
かまぼこ型の傾斜に沿って路面を滑り落ちた雨水は、道路の両脇に設置された『高速排水木造のU字側溝』へと勢いよく吸い込まれていく。
防腐処理を施された分厚い木板を精巧に組み合わせたこの巨大な側溝は、大量の雨水を一瞬にして川へと逃がし、道路の地盤が水で緩み、泥濘と化すのを完璧に防いでいた。
「素晴らしい……。これならば、大雨の翌日であっても、重い荷を積んだ牛車が車輪をとられることなく、全速力で駆け抜けることができる」
この強靭な兵站と物流の血脈こそが、大和国の異次元の国力を支える最大の武器であった。
だが、大和の官僚たちの飽くなき探究心は、この『木と土の完成形』に留まることを良しとしなかったのである。
「……木造の側溝と石の土留めは確かに優秀ですが、数年に一度は防腐処理のやり直しと、腐った木板の交換が必要です。全国の道路網が拡大し続ける現在、その維持費と木材の消費量は、いずれ国庫を圧迫します」
大内裏の土木省。
広庭たちトップ官僚ではなく、日々現場で泥に塗れている二十代から三十代の若き実務官僚(技術屋)たちが、一枚の新しい設計図と、灰色の固いブロックを会議の卓に叩きつけた。
「そこで、この『混凝土』の本格導入を提案します」
それは、火山灰、石灰、砂、砂利、そして水を混ぜ合わせて型に流し込み、化学反応によって人工的な石を作り出す、古代ローマにも匹敵する極東のオーバーテクノロジーであった。
「現在、一部の港湾施設や城壁の基礎に使われているこの混凝土を、幹線道路の『土留め縁石』と『排水溝』に全面採用するのです。
木材を切り出し、石工が石を削る手間を考えれば、型枠に流し込むだけで同一規格の強靭な縁石を大量生産できる混凝土の方が、長期的には圧倒的に安上がりであり、耐久性は半永久的です」
「なるほど……。既存の木造側溝を取り外し、順次この混凝土の側溝へと造り替えていくというわけか」
下からのボトムアップによる意見書と立案計画は、非常に理にかなっていた。
広庭や次期天皇がトップダウンで大方針を決める一方で、大和国というシステムは、こうした現場の官僚たちが自発的に「より合理的で、より費用対効果の高い手法」を考え出し、国を動かしていくという『分厚い官僚層』の力によって支えられていたのである。
かくして、大和の街道は、土と木から、灰色の強靭な『混凝土の道』へと、少しずつ、しかし確実に脱皮を始めていった。
だが、若き官僚たちの野心は、単なる側溝のアップデートだけでは満足しなかった。
彼らが大内裏の中枢へと叩きつけてきた数々の立案計画の中には、時の最高権力者たちですら目を剥くような、常軌を逸した『巨大プロジェクト』がいくつも混ざり込んでいた。
その筆頭が、『小山〜山北間・大深度隧道掘削計画』である。
「……本気で言っているのか、君たちは。山を、真っ直ぐにぶち抜く気か?」
広庭の下で財務を取り仕切る幹部官僚が、提出された分厚い計画書を見て絶句した。
現在の静岡県駿東郡小山町から、神奈川県足柄上郡山北町へと至るルート。そこは、関東平野と東海地方を隔てる峻険(しゅんけん)な山地であり、古くから交通の最大の難所として、物流の大きなボトルネックとなっていた。
「はい。山を越えるために重い荷車を牛に引かせ、曲がりくねった峠道を何日もかけて越えるのは、物流の算段として『極めて非効率』です。……ならば、山そのものに穴を開け、平坦な道を通せばよいのです」
立案者の若き土木官僚は、目をギラギラと輝かせながら即答した。
「馬鹿を言え! あれだけの硬い岩盤の山だぞ。手掘りでどれだけの犠牲が出るか。それに、深く掘れば必ず地下水が湧き出し、落盤で生き埋めになる!」
「ご安心を。そのための『混凝土』です」
若き官僚は、設計図を誇らしげに広げた。
「落盤を防ぐため、掘り進めると同時に、隧道の壁面と天井を強固な混凝土で覆い固めていくのです。湧き出る地下水も、混凝土の壁の裏側に導水管を仕込み、先程の『高速排水側溝』に接続して外へ逃がします」
「……」
幹部官僚たちは言葉を失った。理論上は、可能である。もしこれが完成すれば、大和国の東西の物流速度は劇的に跳ね上がり、経済効果は計り知れない。
「だが、予算と期間はどうする。これほどの難工事、数ヶ月で終わるはずがない」
「試算によれば。完成までに『十年』。そして、年間国家予算の『二分から三分』を、この一本の穴を掘るためだけに毎年注ぎ込み続ける必要があります」
「なっ……狂っているのか! 国家予算の数分を、十年だぞ!? たかが一本の道を通すためだけに!」
「『たかが』ではありません。この隧道が開通した暁に得られる経済効果と、関所による通行税の回収率を計算式に当てはめれば。……三十年後には確実に黒字に転換し、その後は日本国に永遠の富をもたらす『黄金の穴』となります」
一人の下級官僚が、国家の数十年にわたる帳尻を完璧に弾き出してみせたのである。
これこそが、日本の官僚組織の恐ろしさであった。中原の英傑たちが「天下統一の覇権」や「名誉」のために血を流している間に、日本の若者たちは「三十年後の物流コスト削減」のために、山に巨大な風穴を開ける算段に熱狂していたのだ。
さらに、別の土木局の官僚たちからは、トンネル構想に勝るとも劣らない、極めて革新的なインフラ計画が提出されていた。
『長距離運搬用・牛車専用軌道の敷設』である。
「……かまぼこ型の土留め道路は確かに優秀ですが、それでも土と灰の路面では、重い荷を積んだ牛車の車輪との間に『摩擦』が生じます。摩擦は、牽引する牛の体力を奪い、輸送速度を著しく低下させます」
彼らが着目したのは、道路の摩擦抵抗の削減であった。
「そこで、路面の一部に、混凝土を用いて『真っ直ぐな二本の深い溝』を延々と掘り進めます。そして、その溝の中に、表面を極限まで滑らかに鉋掛けし、油を染み込ませた『硬木の板』を隙間なく嵌め込むのです」
「……つまり、牛車の車輪を、その木板のレールの上だけを走らせるようにするのか」
「御意。土の上を走るのに比べ、滑らかな木板の上を走れば、車輪の摩擦抵抗は劇的に減少します。試算では、同じ頭数の牛で、これまでの三倍の重量の荷を、半分の時間で運ぶことが可能となります。……さらに、車輪が溝に嵌っているため、カーブで荷車が脱輪して横転する事故も完全に防ぐことができます」
それは、蒸気機関こそ存在しないものの、現代の鉄道や路面電車の概念に極めて近い、『人力と牛力による原始的な専用軌道システム』の誕生であった。
「この牛車専用軌道を、主要な貿易港から内陸の工業地帯へと真っ直ぐに繋げば。日本の物流網は、まさに中原のいかなる水軍の船よりも早く、陸上を飛ぶように駆け抜ける巨大な血脈となるでしょう!」
若き官僚たちは、狂気にも似た熱意をもって、これらのプロジェクトを少しずつ、しかし着実に御前会議の承認をもぎ取り、実地での敷設工事へと移していったのである。
混凝土の側溝。足柄の巨大トンネル。そして木製レールの牛車軌道。
これら下からのボトムアップによるインフラ計画は、国家の未来を切り拓く極めて優秀なプロジェクトであった。
だが、ここで大和国は、一つの巨大な、そして極めて物理的な『壁』にぶち当たることとなる。
「……予算は、大御宝からの税収と、中原への武器や薬草の輸出で潤沢にあります。技術もあります。……ですが、圧倒的に『人手』が足りません!!」
土木省の長官が、御前会議の席で頭を抱えて絶叫した。
「足柄のトンネル工事に数万。牛車軌道の敷設に数万。……それに加えて、稚足彦親王と、久仁彦親王が推し進めておられる『挹婁の苑』の巨大計画が、現在進行形で進行中なのです!」
そう。現在の次期天皇と親王の兄弟は、国家予算の数パーセントを注ぎ込み、日本海側の港湾整備と新しい外洋船の建造という、未曾有の海洋開拓事業の泥沼に足を踏み入れている真っ最中であった。
トップダウンの巨大プロジェクト(北方の海)と、ボトムアップの巨大プロジェクト(国内の山と陸)。
二つの巨大なインフラ整備が同時に走り出したことで、大和国内の土木作業員、石工、木工、そして彼らを養うための食糧生産を担う人員が、完全に枯渇してしまったのである。
「殿下! 右大臣様! どうかお願いです、奴隷でも中原からの難民でも構いません。我々に、人手を……筋肉と腕を、幾らでもいいから与えてください! このままでは、現場の官僚たちも、大御宝たちも、過労で倒れてしまいます!」
平和で豊かな大和国の大内裏に響き渡るのは、血生臭い暗殺の密談でも、領土を巡る悲壮な決意でもない。
ただひたすらに、「予算はあるから、とにかく労働力が欲しい!」という、健全極まりない、しかし切実な『高度経済成長期ゆえの悲鳴』であった。
「……まったく。景気の良い悲鳴だことだ」
報告書から顔を上げた広庭は、宮中の中庭を駆け回る若き官僚たちを窓から見下ろし、呆れたように小さく息を吐いた。
「自分たちで勝手に山に穴を開ける計画を立てておきながら、人手が足りないと泣きついてくるとはな。……まあ良い。中原の戦乱から逃れてきた流民たちを、難民としてではなく『労働力』として安く買い叩き、現場に送り込んでやれ。彼らとて、戦火で殺されるよりは、日本で泥に塗れて飯を食う方が幸せであろう」
広庭のその冷徹な算段によって、中原で家を失った多くの民たちが、長江の泥沼から、日本のトンネル工事の泥へとその身を移し、命を繋いでいくことになる。
―――
日本国の津々浦々、川という川の畔では、大小無数の『水車』が絶え間なく回っていた。
この時代、人口に比して遥かに高度な日本国の研磨切削技術や生産力を担保していたのは、間違いなくこの水力という自然のエネルギーであった。
米や小麦の脱穀、製粉作業はもちろんのこと。
だが、それでも大和国の『労働力』は常に圧倒的な不足状態にあった。
その最大の理由は、大和国に中原のような『奴隷制度』が存在しないからである。
労働力はすべて、自由民である大御宝か、あるいは対価を支払って雇う移民に頼らざるを得ない。どれだけ国が豊かになり、子供が産まれようとも、中原から難民が流入しようとも、数としては年間数万程度の増加に過ぎない。
しかも、人間が一人前の労働力に育つには、十数年という長い歳月が必要なのである。
後世の歴史を知る者ならば、こう疑問に思うかもしれない。
「水車で足りないのなら、蒸気機関を発明して使えば良いのではないか?」と。
しかし、この時代のいかなる文明であれ、蒸気機関の実用化に至ることは絶対にあり得なかった。
奴隷労働の有無や思想の問題ではない。理由はただ一つ、『冶金技術が決定的に足りていない』という、越えられない物理的な壁が存在したからである。
水を熱して発生する膨大な蒸気の『圧力』。それを閉じ込め、ピストンを動かすためには、極めて強靭で均質な鋼のシリンダーと、精密な密閉技術が必要となる。
当時の鋳鉄や青銅では、その圧力に耐えきれずに木っ端微塵に吹き飛んでしまう。かといって、大和国が世界に誇る木材加工技術を極めようとも、木材では到底あの圧力には耐えられず、何より熱と水分ですぐに腐ってしまうのだ。
鋼が足りない。強度が足りない。
故に、この世界線の日本国においても、動力の限界は依然として『水と風と牛』の範疇に留まらざるを得なかったのであった。
そんな大和国の地方、とある山間部の土木現場に、一人の男がいた。
名を、
彼は、大内裏で国家の算段を回す広庭たちのような上級官僚ではない。
地方の『国学(地方の学校)』を出て『寮試(中央試験)』には落ち、国司の『大試験(地方公務員試験)』には辛うじて合格したものの、中央の中枢で働けるほど優秀というわけでもなく、かと言ってクビになるほど無能でもない、ごく平凡な『下級官僚(地方官吏)』であった。
彼の主な仕事は、土木工事の現場における測量や、人足たちの管理。今で言うところの『現場監督』である。
毎日泥にまみれ、図面と睨み合いながら、山を切り崩し、溝を掘る。派手さはないが、日本のインフラを末端で支える、実直な男であった。
ある時のこと。
山仲は、現場の近くの山間部に住む村人から、切実な相談を持ちかけられた。
「お役人様。畑に水を送りたいのですが、川まで遠くて困っているのです」
普通の役人であれば、「そんな不便なところに村(があるのが悪い。引っ越せ」と一蹴して終わりだろう。
しかし、村人の話によれば、昔はすぐ近くに沢が流れており、水には困っていなかったらしい。だが、数年前の地震か地滑りの影響で水脈が変わってしまい、沢が枯れてしまったのだという。
幸い、水田ではなく果樹園であったため、雨水だけでも何とか木は生きていたが、やはり収穫量は落ち、このままでは先細りになるのは明白であった。
「うーむ……。困ったな」
山仲は、果樹園の斜面を見上げながら腕を組んだ。
水を送るための揚水水車を作るにしても、そもそも近くに水が流れていないのだから回しようがない。
風車を使って水を汲み上げようにも、このような入り組んだ斜面では安定した風は得られず、設置工事も現実的ではなかった。
「すぐには解決できそうにない。役所に持ち帰って、少し考えさせてくれ」
山仲は村人にそう告げると、重い足取りで任地の役所へと戻った。
彼は特別に頭が切れるわけではないが、現場の困りごとを「仕方ない」と見捨てるには、少しばかり生真面目すぎる性分であった。
水車が使えない場所へ、どうやって水を運ぶか。
山仲が頭を悩ませていた頃、彼は地方都市の内部における『水道網』の保守点検の仕事も兼任していた。
この時期の日本国では、主要な都市の内部に、すでに原始的だが高度な上水道が整備されていた。
水源から水を引く仕組みはこうである。まず、郊外の高台に貯水池を設け、そこから都市へ向けて緩やかな傾斜をつけて『陶器で作られた排水管』を地中に埋設する。
水は高きから低きへ流れる性質を利用し、都市の各所に設けられた井戸(貯水槽)へと自動的に水を供給するシステムであった。
陶器の管は、それ自体は割れやすい。
そのため、管の周囲を分厚い木材の枠で囲み、麻の繊維と漆喰(でガチガチに固定し、地中の土の重さや、上を馬車が通る『外からの圧力』に十分に耐えられるように設計されていた。
だが。
都市の水道管理において、山仲たち現場の役人を悩ませる、一つの『不可解な問題』が頻発していた。
「……また管が割れたか。今年に入って三度目だぞ」
時折、地中に埋められた陶器の水道管が、何の前触れもなく『割れる』という現象が起きていたのである。
「掘り返して調べてみろ。上が崩れたのか? それとも地震か?」
「いえ、山仲様。周囲の木枠も土も無傷です。外側から何かの強い力が加わって押し潰されたような痕跡はありません」
誰もが不思議に思っていた。
外圧には耐えられるように、あれほど堅牢に作られているはずの管が、なぜ突然割れるのか。原因不明のまま、役人たちはその都度、割れた管を新しいものに交換するしかなかった。
偶然、その現象の『真実』が、山仲の目の前で起こるまでは。
その日、山仲は、新設されたばかりの市街地の給水所において、水を通すための最終確認を行っていた。
「よし、高台の水門を開け! 水を流し込め!」
山仲の合図で、高台の貯水池から一気に水が管の中へと解き放たれる。
ゴオォォォッという低い音と共に、地中の陶管を水が走ってくるのが足裏の振動で伝わってきた。
「問題ないな。水門の栓を閉じろ! 流れを止めるんだ!」
テストを終え、水門の木の栓が急激にバコンッ! と閉じられた。
水流が、急激に遮断されたその瞬間であった。
バリンッッ!!
山仲の足元、ちょうど地表に露出していた点検用の陶管の継ぎ目から、凄まじい破裂音が響き渡った。
同時に、砕け散った陶器の破片と共に、行き場を失った水が、まるで天を衝くような勢いで『噴水』となって真上へと激しく噴き出したのである。
「うわあっ!?」
山仲は全身に泥水を浴びながら、尻餅をついた。
「な、なんだ!? 外からは何も衝撃を与えていないぞ!」
慌てふためく人足たちをよそに。
泥だらけになった山仲太郎丸の目は、噴き出す水柱と、砕け散った陶管の断面に釘付けになっていた。
(……外からじゃない。木枠も、固定の麻紐も関係ない。管は、外の圧力に負けたんじゃない)
山仲の脳裏に、一つの強烈な事実が閃いた。
勢いよく流れていた水が、急激にせき止められた時。
その水が持っていた「前へ進もうとする勢い」は行き場を失い、逃げ場を求めて管の内側から強烈な『圧力』となって膨張し、陶器を内側から食い破ったのだ。
(※のちに『ウォーターハンマー現象(水撃作用)』と呼ばれる物理現象である)
「……水が、内側から陶器を打ち砕いた。あの重い木枠ごと、弾き飛ばして……」
山仲は、震える手で、空に向かって噴き出し続けている水柱に触れた。
水車のように「流れの力」を使うのではない。
蒸気機関のように「熱の力」を使うわけでもない。
水そのものが生み出す、『内側から外へ向かって押しのけようとする、目に見えない圧力(水圧)』の存在。
「……これだ」
山仲は、泥だらけの顔に、不敵で、興奮に満ちた笑みを浮かべた。
あの山間部の村人の、枯れた果樹園。
水車が回せなくても。この『密閉された管の中で生まれる、水が内側から押しのける力』をうまく制御し、方向を定めてやることができれば。
「……水を、高いところへ『押し上げる』ことができるかもしれないぞ!」
蒸気機関を生み出す鋼を持たぬ極東の島国で。
一人の平凡な現場官吏が偶然目撃した『水道管の破裂』は、のちに日本国の治水と揚水技術を劇的に進化させる「圧力(水圧・大気圧の応用)」という、見えざる物理法則の扉をこじ開けた瞬間であった。
―――
日本国の若き次期天皇・稚足彦親王と、その弟・久仁彦親王が主導し、国家予算の数パーセントを湯水のように注ぎ込んでいる巨大海洋開拓事業。
大陸北東部、挹婁の苑への北方交通路の確立。
大内裏の老官僚たちが「予算と人手を食いつぶす泥沼」と顔をしかめ、広庭が冷ややかな視線を送るこのプロジェクトは、実際のところ、遅々として進んでいなかった。
しかし、それは決して彼らの計画が杜撰だったからでも、現場が怠慢だったからでもない。
この事業が直面していたのは、人為的なミスなどではなく、地球上で最も凶悪な自然環境の一つ――『冬の日本海』という名の絶対魔境であった。
「……また一隻、試験航海に出た船が戻りませんでした。おそらく、越前沖の荒波に呑まれて転覆したものかと」
「そうか……。乗組員の家族には、手厚く補償をしてやってくれ」
長岡京の一室で、稚足彦と久仁彦は、届いたばかりの悲痛な報告書を前に深く頭を抱えていた。
無理もない。
彼らが挑もうとしている冬の日本海は、のちに16世紀から18世紀にかけて大洋を支配する西洋の巨大なガレオン船であっても、航行は極めて困難と評されるほどの『死の海』なのである。
大陸から吹き下ろす猛烈な
発生する波の高さは、優に『三階建ての建物(約十メートル)』に匹敵し、文字通り海が壁となって船に襲い掛かる。
さらに恐ろしいのは、日本海が大陸と日本列島に囲まれた『巨大な内海』であるという点だ。外洋の太平洋と違い、波が減衰する距離がないため、凄まじく高い波が『極端に短い周期』で、休む間もなく連続して船体を打ち据えるのである。
そして、極めつけの絶望。
「……風が強すぎる上に、波の飛沫が氷点下の空気で急激に冷やされ、帆に付着した瞬間に『分厚い氷』となって張り付くのです。帆が凍りつけば風を孕むこともできず、ただの重りとなって船のバランスを崩すだけです」
波の連打と、凍りつく帆。
どれほど堅牢な船体を造ろうとも、大自然は無慈悲な物理法則をもって、日本の挑戦者たちを冷たい海底へと引きずり込んでいた。
この世界線における日本国の船は、元々かなり独特で高度な進化を遂げていた。
船の基本構造は、船底に敷かれた『かわら』と呼ばれる分厚く幅広な
さらに、船の内部には『横板』を幾枚も挟み込み、船内をいくつもの区画に分割する『隔壁構造』を採用していた。
これは、大陸で発展した、いわゆる『ジャンク船』の構造に極めて近い。
隔壁があるため、万が一船体に穴が空いても浸水が一部の区画に留まり、沈没を免れる。外洋を航行するための「強度」と「生残性」を持たせるという目的において、この構造は非常に優れていた。
また、「かわら」は底が平らであるため、水の抵抗が少なく、波の穏やかな瀬戸内海や沿岸部での『直進性』と『速度』においては、無類の性能を発揮した。
しかし。
この『船底が下に突出していない』という構造こそが、冬の日本海においては致命的な欠陥となった。
「……駄目だ! 船底が平らすぎるせいで、波のうねりを横から受けた時の『踏ん張り』が全く利かねえ!」
造船所の親方が、図面を叩きつけて叫ぶ。
平底の船は、波に乗るのには適しているが、横波を受けた際の『極端な横揺れ』に対する復元力が著しく低いのだ。
三階建ての波が短い周期で横から連続して叩きつけてくれば、平底の和船は為す術なく横転し、水面にお腹を見せて転覆してしまう。
「どうする親方! このままじゃ、何度船を出しても海の藻屑だぞ!」
「……諦めるな! 殿下たちが国庫の底を叩いてまで作れと仰ってんだ! 大和の木工の意地を見せてやれ!!」
稚足彦たちの無謀とも言える計画の下で。
しかし、日本の船大工たちは、決して大自然の猛威の前に心を折られてはいなかった。彼らは、木屑と汗に塗れながら、この魔の海を克服するための『前代未聞の試行錯誤』へと突入していったのである。
「横揺れに弱いのは、船の底が平らで、水の中に『抵抗』となる引っ掛かりがないからだ。……ならば、力技で抵抗を作ってやればいい!」
船大工たちが最初に行った対処法は、極めて単純かつ合理的なものであった。
船尾に取り付けられている『舵』を、異常なまでに大きく、そして深く水中に沈み込むように設計し直したのである。
巨大な板となった舵が水中に深く突き刺さることで、それが一種のスタビライザーの役割を果たし、船体下部の水の抵抗を増やして横揺れを抑え込もうという算段であった。
「おう、確かに揺れはマシになったぞ! これならいけるか!?」
しかし、試験航海の結果は非情であった。
舵を大きくしたことで一定の安定性は得られたものの、日本海の短い周期の連波を完全に殺し切るには至らず、結局は横転を免れなかった。それに、舵が大きすぎると操作が極端に重くなり、荒れ狂う嵐の中で船の向きを変えることができなくなってしまったのだ。
「クソッ、舵だけじゃ足りねえ! 船全体の底の形状を根本から変えなきゃ駄目だ!」
次に彼らが着手したのは、和船のアイデンティティでもあった「かわら」の改造であった。
平たい底の船の真ん中に、巨大で分厚い一本の木材を、水中に深く突き出すようにして取り付けたのだ。
「……これだ。船底に『背骨』のような突起を持たせる。これが水中に深く刺さることで、横波を受けても船体が踏ん張り、元の姿勢に戻ろうとするはずだ!」
それは、遠く離れた西洋の帆船が持つ『
突き出た竜骨を取り付けたことで、船の復元力は劇的に向上した。横波を受けても、船はダルマのように立ち上がることができるようになった。
だが、日本海はまだ彼らを許さなかった。
メシャァァッ!!
「駄目だ親方! 竜骨が波の力に耐えきれず、船底から剥がれちまった! 船体が折れるぞ!!」
船底に突き出た竜骨は、凄まじい横波のエネルギーをモロに受ける。その結果、船体と竜骨を繋ぎ止めている部分に尋常ではない負荷が集中し、船そのものが波の力でへし折られてしまったのだ。
「……強度が足りねえ。隔壁構造だけじゃ、竜骨の生み出す捻れの力に耐えきれねえんだ」
親方は、血の滲むような思考の末に、一つの結論に辿り着いた。
「おい。船の内部に、隔壁とは別に……外板を内側から支える『骨』を通せ」
「骨、ですか?」
「ああ。人間のあばら骨のように、竜骨から船べりに向かって、湾曲した太い木材を何本も等間隔に配置して、外板とガッチリ固定するんだ。そうすれば、波の衝撃が船全体に分散される!」
かくして。
ジャンク船由来の『強固な水密隔壁』を持ちながら。
西洋船の如き『深く突き出た竜骨』と、それを支える『肋骨』の構造を合わせ持つ。
和船の伝統と、荒海を乗り越えるための革新が融合した、全く新しい船の構造。
のちに『
「……見よ。新しい船が、あの高波を越えたぞ!!」
日本海を見下ろす断崖の上で、試験航海を見守っていた役人たちが歓声を上げた。
折衷構造の新型船は、三階建ての波を横から受けても大きく傾くにとどまり、深い竜骨と肋骨の働きによって、見事に元の姿勢へと復元してみせたのだ。
だが、自然の脅威は波だけではない。
「……帆が! 飛沫が凍りついて、帆が使い物にならなくなりました! 船が風を掴めず、このままでは波間に停滞してしまいます!」
氷点下の風が、船の動力を完全に奪い去った。
西洋のガレオン船であれば、帆を失えばただ風と波に流されるだけの巨大な棺桶と化す絶望的な状況である。
しかし、この世界線の大和国の船には、西洋船にはない『最後の希望』――あるいは『究極の物理的根性』とも呼べる機能が備わっていた。
『櫓』である。
「帆を畳めェッ!! これより、全乗組員は船体下部の漕ぎ手席へ回れ!!」
船長の怒号が、凍てつく甲板に響き渡る。
「帆が凍ろうが、風が止もうが関係ねえ! 腕の力で海を押し退けろ! 漕げェッ!!」
日本の船は、左右の舷側に無数の『櫓(オールよりも水をかく効率の高い、日本独自の推進具)』を備えていた。
いかなる最新の造船技術を注ぎ込もうとも、最後に行き着くのは、大御宝たちの『筋肉』と『血の滲むような労働力』であった。
数十人の漕ぎ手たちが、凍える手を擦り合わせながら一斉に櫓を押し引きし、波のうねりに合わせて強引に船を前へと進めていく。
「……素晴らしい」
長岡京の執務室で、ついに「試験航海成功、船は無事に帰還せり」という報告を受け取った稚足彦は、安堵のあまり机に突っ伏した。
「船大工たちの執念と、乗り組み員たちの命懸けの櫓漕ぎ。……これこそが、我々日本の国力そのものだ」
久仁彦もまた、疲労の色濃い顔に、確かな誇りの笑みを浮かべた。
「ええ。これだけの手間と試行錯誤、そして途方もない技術の融合があったのです。……父上や老官僚たちが何と言おうと、予算を湯水のように食い潰すのは『当然の帰結』というものでしょう」
冬の日本海。
世界最悪の海をねじ伏せるため、日本国の船大工たちは、木と鉄と知恵のすべてを振り絞り、和洋(この世界では和と未知)の枠を超えた奇跡の船を生み出した。
それは、中原の殺し合いとは無縁の場所で、極東の島国がひっそりと、しかし確実に『世界の大洋へと繋がる扉』をこじ開けた、偉大なる技術的敗北と勝利の歴史であった。