視点は再び、赤壁の戦火を乗り越え、次なる『益州問題』へと揺れ動く荊州の陣営へと戻る。
劉琦の純粋な善意と、劉備の生真面目な仁徳。
そして、その裏で益州の完全な簒奪を企む、諸葛亮や龐統たち荊州の学士陣。
陣営の内部で相反する二つの思惑が火花を散らす中、比企景明が独自に仕掛けた『律令による共同代表制』という第三の罠に、伏龍と鳳雛の二人は未だ明確には気が付いていなかった。
「……どうにも、妙な気配がするな」
ある夜の軍議の後。
龐統は、手元の酒杯を弄びながら、諸葛亮に向かってポツリとこぼした。
「比企景明の奴だ。兵站の再編を口実にしてはいるが、裏で妙に立ち回っている。我々の『益州入り』の算段に対して、何か別の絵図面を引いているのではないか?」
「ええ。私も同感です。あの男が、我々の敷いたレールの上を大人しく歩くとは思えません」
二人の天才は、己たちの立てた完璧な戦略の足元に、得体の知れない影が忍び寄っていることを肌で感じ取っていた。
彼らは景明の真意を暴くため、ことあるごとに彼を自陣の酒宴へと招き、強い酒を勧めては巧妙な話術で誘導を試みた。
「景明殿。これからの益州との交渉、兵站の観点からはどう動くべきとお考えかな?」
だが、景明はどれほど酒を煽ろうとも、その鉄面皮をピクリとも崩さない。
のらりくらりと実務的な数字の話に終始し、己の政治的な腹の底については、一言半句たりとも漏らすことはなかったのである。
「大将(景明)から、何か特別な指示は受けていないか?」
学士たちは、景明本人から聞き出すことを諦め、今度は彼の麾下にある事務官や、護衛を務める新野騎兵たちにまで探りを入れた。
しかし、返ってくる答えはすべて同じであった。
「いや? 旦那からは、明日の兵糧の割り振りの指示しか受けてねえが」
「特別な動きなど、何も聞いておりません」
徹底した秘匿。
『相手を完全に騙すには、まず味方から』という兵法の基本を、景明は異常なまでの精緻さで実行していた。彼は、自らの妻である呂綏以外の誰にも、己の企みを語っていなかったのである。
味方すらも駒として扱うその徹底ぶりは、相手の攻め手をギリギリまで『受け』の姿勢で引きつけ、陣形を堅固に固め切った後に、相手の致命的な隙を突いて一撃で盤面をひっくり返すという、極東の盤上遊戯における老獪な『受け師』の戦法そのものであった。
しかし、どれほど隠密に事を進めようとも、天下の奇才たちの目を完全に欺き通すことは不可能である。
学士たちの執拗な調査の末、ついに一つの小さな、しかし決定的な『事実』だけが浮かび上がってきた。
「……景明の放った間諜が、西の益州へ向けて『一通の密書』を届けたようです」
「益州へ文を出しただと? 一体、誰宛てに、何を書いたというのだ!」
龐統は、報告を受けて苛立たしげに卓を叩いた。
「我々を出し抜いて、単独で劉璋と裏交渉でもしているのか? だが、あの男には益州との間に何のパイプもないはずだ。なぜ、これほどまでに己の策略を閉ざし、我々から隠そうとする?」
龐統の明晰な頭脳をもってしても、景明の目的が全く見えてこなかった。
無理もない。彼ら中原の学士たちの視界は、知らず知らずのうちに、彼ら自身が盲信する『儒教的価値観』という分厚い霞に覆われていたからである。
儒教の理において、天に太陽は一つであり、権力と権威は常に『ただ一人の君主』に集約されなければならない。
「二つの州の君主を並び立たせ、法によって権力を分離し、実務者が国を動かす」という景明の『極東のシステム』は、彼らの常識の完全に外側――死角にあったのだ。
「……分からない。奴の描く絵図面は、まるで深い霞の向こうにあるようだ」
龐統は、忌々しげに頭を掻きむしった。
見えないものはないのと同じだ。しかし、そこに確実に「何か」があるという不気味さだけが、天才の自尊心をチクチクと刺激し続けていた。
その傍らで、諸葛亮は静かに羽扇を揺らしながら、暗い夜の闇を見つめていた。
(……比企景明という男は、無駄な手は一切打たない。あの理知的な男が、単なる挨拶や探りのために、我々に隠れて益州へ文を送るはずがない)
諸葛亮の胸の奥で、警鐘がガンガンと鳴り響いていた。
証拠はない。論理的な推測も届かない。だが、中華全土の盤面を俯瞰する臥龍の『直感』が、冷酷なまでの確信をもって告げていた。
(景明殿の狙いは、我々学士たちにとって……決定的に『都合の悪いこと』に違いない)
諸葛亮たちが描く大戦略は、劉備を御輿(みこし)とし、劉琦の死後に荊州を掌握し、その軍事力をもって益州を「奪い取る」ことで、曹操に対抗しうる巨大な基盤を築くことである。
もし、景明がその『血塗られた奪取』を嫌い、劉備の善意を裏打ちするような「平和的な統合」の手段を、益州の誰かと結託して裏で構築してしまえば。
我々学士が用意した戦略は、根底から崩れ去り、無用の長物と化してしまう。
「……急がねばなりませんね、士元(龐統)」
諸葛亮は、羽扇をピタリと止め、恐ろしいほどの冷気を帯びた瞳で龐統を見た。
「景明殿の張った霞が晴れる前に。我々は、劉備様を物理的に『益州へ出兵』させるための既成事実を、力ずくで創り上げる必要があります」
極東の算段官が仕掛けた、法と律令による『無血の罠』。
それに本能的な危機感を抱いた荊州の天才たちは、見えない敵の動きを封じ込めるべく、自らの牙を剥き出しにして、強引に歴史の歯車を回し始めようとしていた。
―――
荊州の拠点・江夏にある比企景明の屋敷。
その最も奥まった場所にある彼の私室は、数日前から完全に外界から遮断され、異様な静寂と、むせ返るような墨の匂いに包まれていた。
「……誰も中へ入れるな。俺が呼ぶまで、食事の時以外は扉を開けることを禁ずる」
景明が新野騎兵から選りすぐった忠実な従者たちにそう厳命して以来、私室の扉は重く閉ざされたままであった。
薄暗い部屋の中。
景明の机の上と床には、漢の初代相国・
それだけではない。歴代の漢の皇帝たちがこれまでに発布してきた無数の『詔』の写しや、過去の判例、行政記録の木簡が、足の踏み場もないほどに散乱している。
「……違う。この詔の解釈では、権威の分散が認められない。こちらの判例の隙間を突くしかないか」
景明は、血走った目でそれらの膨大な漢の法制史を睨みつけながら、手元の真新しい木簡札に、猛烈な速度で筆を走らせていた。
一つの木簡札に、これでもかというほど極小の文字がビッシリと書き込まれていく。墨が尽きれば即座に摺り直し、また書く。
その執念と集中力は、戦場で敵の首を狙う武将のそれよりも、遥かに凄絶で狂気じみていた。
景明がこの密室でたった一人で行おうとしていたこと。
それは、大漢帝国四百年の歴史の中で誰も成し得なかった、否、誰も想像すらできなかった『国基本理念の書き換え』であった。
彼が目指すのは、荊州の劉琦と益州の劉璋という、同宗の二人の君主を並立させ、実務の権力を第三者に委ねるというシステムである。
だが、中華の常識たる「儒教」の枠組みの中では、「天に二日なし」が絶対の真理である。二人の君主を並立させれば、必ずどちらかが正統で、どちらかが偽物という論理になり、最後は血みどろの殺し合いになる。
この呪縛を論理的に突破し、なおかつ中原の人間たちに「これは正当な漢の法に則ったものである」と納得させるためには、どうすればよいか。
(……漢の『律』と、過去の『詔』の文脈を極限まで拡大解釈し、そこに我が大和が誇る『令』の機構を接ぎ木して、完璧な整合性を取る!)
景明の頭脳は、極限まで回転していた。
「権威」と「権力」の分離。
それを実現するため、彼は大和の律令制の概念――すなわち「神聖なる権威から、実務の長へと行政権が法的に委任される」というシステムを、漢の法体系の言語に翻訳し、木簡の上に組み上げていった。
『――左・荊州牧、右・益州牧を並立の権威(二頭君主)とし、両者の合議と承認をもって、中央行政の長たる【大都督(一首魁)】にすべての軍事・行政権を移譲する。大都督は法に従って二州を統治し、私兵を禁じ、官僚組織を……』
矛盾を見つけては削り、過去の詔の文言を引用して正当性を補強し、絶対に抜け穴のない『完全無欠の法典(システム)』へと練り上げていく。
カツン、と。
私室の扉の向こうに、膳を運んできた足音が響いた。
「景明。食事を置いておくぞ。……あまり根を詰めすぎるな」
扉越しに聞こえてきたのは、妻である呂綏の落ち着いた声であった。
「……ああ、すまない。そこに置いておいてくれ」
景明は筆を止めずに答える。
彼は、この法典の編纂において、従者はおろか、唯一の理解者であり愛する妻である呂綏にすら、自分が木簡に何を書き連ねているのかを一切『読ませなかった』。
彼女を信用していないからではない。むしろ、彼女を深く愛し、信頼しているからこそ、見せなかったのである。
(……この木簡の束は、儒教を国教とする大漢帝国の根幹を否定し、国家の在り方を根本から作り変える『大逆の書』だ)
景明は、墨で汚れた指先を見つめた。
もし、この法典が未完成の段階で諸葛亮たち学士の目に触れれば、彼らは即座に景明を「天地の理を乱す異端者」として糾弾し、握り潰しにかかるだろう。
そして、その内容を知っている者がいれば、たとえ妻であっても、不要な政治的リスクに巻き込むことになる。
「……相手を騙し、システムを覆すには、まず味方からだ。この法典が完全に組み上がり、逃げ場のない『既成事実』として孔明や大将の首に巻き付くその瞬間まで、俺の脳内以外、誰の目にも触れさせるわけにはいかない」
景明は、己の孤独な戦場に向かい直し、再び筆を取った。
儒教の霞によって視界を遮られ、力による益州簒奪を企む諸葛亮と龐統。
彼らの描く血塗られた絵図面を、一滴の血も流さずに、ただ圧倒的な『法と論理の暴力』によって無力化するために。
夜が更け、蝋燭の火が尽きかけても。
極東の怪物は、密室の中で一人、次代の国家を縛り上げる「律令の檻」を、狂気のような精密さで編み上げ続けていたのである。
―――
密室での狂気じみた法典編纂を終えた比企景明は、完成した『律令の試案』をそのまま益州へ送るような、不用意な真似は決してしなかった。
長江を遡り、険しい山脈を越えて益州の班竣の下へ至る道程には、常に諸葛亮や龐統の放った間諜の目が光っている。万が一、この法案が彼らに押収されれば、すべての計画が水泡に帰すからだ。
そこで景明は、自らの策を完全に秘匿するため、用意した文を『三つの荷』に小分けにし、時期と経路、そして運ぶ商人を完全に分散させて益州へと放ったのである。
一つ目の荷は、『全文が”ひらがな”のみで構成された文章』。
二つ目の荷は、『漢字と”ひらがな”の対応表』。
そして三つ目の荷に、『考案した律令の試案』。
中原の人間から見れば、「ひらがな」などという文字は存在しない。それはただのミミズが這ったような奇妙な模様、あるいは呪術の護符にしか見えない究極の暗号である。
もし三つのうち一つでも欠ければ、文章の意味は絶対に解読できない。
さらに景明は、「全てが届かない」「返信がない」「数ヶ月遅れて届く」といった事態が起きた場合、即座に『どの地点で誰に奪われたか』を把握できるよう、何重ものフェイルセーフを組み込んでいたのである。
幸いなことに、荊州の天才学士たちは、劉備を物理的に益州へ出兵させるための「軍事的・外交的」な大義名分作りに奔走し始めていた。彼らの目は『軍隊の動線』や『諸将の派閥』に向けられており、一介の商人が運ぶ「護符のようなガラクタ」にまで、本格的な警戒の網は張られていなかった。
景明の用意周到な三つの密書は、誰の目にも留まることなく、無事に西の益州へと辿り着いたのである。
益州の都・成都。
内政の全権を握る班竣は、時間差で届いた三つの奇妙な木簡の束を前に、自らの執務室で静かに息を呑んでいた。
「……これが、中原の常識を破壊する『新しい法の形』か」
班竣は、二つ目の荷である『漢字対応表』を傍らに置き、一つ目と三つ目の荷に記された奇妙な曲線を、一文字ずつ丁寧に中原の『漢文』へと翻訳していく作業に取り掛かった。
浮かび上がってくるのは、ただの軍事同盟の提案ではない。
荊州牧・劉琦と、益州牧・劉璋という同宗の君主を、いかにして殺し合わせることなく並立させ、かつ、中央の共同代表に権力を移譲させるか。
それを担保するための、緻密極まりない『官僚機構の階層(省庁の役割)』、『税の徴収と分配の法則』、『刑罰の基準』。
日本国の律令をベースに、大漢帝国の九章律と過去の詔を完璧に接ぎ木した、狂気的なまでに美しい『国家システムの設計図』であった。
「……恐ろしい男だ、比企景明。これをたった一人で組み上げたというのか」
翻訳を進める班竣の手が、武者震いのようにカタカタと鳴った。
儒教という巨大な呪縛を、「法」という物理的な鎖で縛り上げ、血を流すことなく二つの州を一つに統合する。亡き兄・班稀が命を懸けて守り抜いたこの益州を、曹操にも孫呉にも喰われない『絶対不可侵の独立国家』へと昇華させるための、唯一にして最強の算段がそこにあった。
だが、班竣もまた、極東の理の片鱗を受け継いだ冷徹なる算段官である。
景明から送られてきた律令の試案をただ盲目的に受け入れるほど、安い男ではなかった。
「……この第五条。荊州側の軍事権限が強すぎる。これでは、いざという時に我ら益州の兵糧が、劉備軍の都合のいいように吸い上げられる危険性がある」
「この第七条の人事権も駄目だ。益州の土着の豪族たちが反発し、内乱の火種になる」
班竣は、翻訳した漢文の試案を冷徹な目で睨みつけ、益州側の国益を損なう箇所や、現実の統治において不満が爆発しそうな部分を、徹底的に『修正』していった。
妥協は一切しない。互いが完全に対等な立場で統合されなければ、この律令システムはいずれ必ず破綻するからだ。
「……よし。これで我々の要求はすべて組み込んだ」
修正を終えた班竣は、景明が使っていた『漢字対応表』を逆に引き、自らが書き直した漢文の法案を、再びあの奇妙な曲線――『ひらがな文』へと変換し直した。
「これを、再び三つに分けて荊州へ送り返せ。決して誰にも見られるな」
信頼できる部下に密書を託し、班竣は東の空を見上げた。
「さあ、比企景明。お前が真に私と天下の算段を回すに足る怪物ならば、この益州からの『法の反撃』を、どう打ち返してくる?」
―――
それからというもの。
荊州の江夏と、益州の成都という、遠く離れた二つの都市の間で。
中原の天才軍師たちが誰も気付かぬまま、ひらがなという暗号を用いた『激しい法の打ち合い』が、極秘裏に開始された。
景明は、班竣から送り返されてきた修正案を読み、益州側のしたたかな要求に舌打ちをしながらも、それをさらに調整し、荊州の学士たちが反発できないギリギリの落とし所を探って、再びひらがなで送り返す。
班竣もまた、それを受け取り、益州の豪族たちの顔を立てつつ、中央集権の強度を保つための微細な単語の変更を行い、投げ返す。
剣の交わりは一度もない。
しかし、そこには確かに、数十万の人命と二つの州の運命を懸けた、極限の『暗闘』が存在していた。
「……面白い。この班竣という男、俺の意図を完全に理解した上で、極めて合理的に帳尻を合わせてきやがる」
景明は、夜の私室で暗号を解読しながら、口角を微かに上げていた。
「……比企景明。貴方の仕掛けた法の抜け穴は塞がせてもらった。これで、権力は完全に均衡する」
班竣もまた、成都の執務室で、疲労に目をこすりながらも充実した笑みを浮かべていた。
表舞台では、劉備の善意と、諸葛亮の簒奪計画が、いよいよ益州へ向けて物理的な軍を動かそうと準備を進めている。
しかしその裏で、景明と班竣という二人の怪物が、互いの姿を見ることも、肉声を聞くこともないまま、ひらがなという糸を通じて共鳴し合い、強固な『律令の楔』を完成させようとしていた。
この、何者にも邪魔されることのない静かで緻密な半年の月日が。
のちに三国鼎立(さんごくていりつ)の形を根底から歪め、中華の歴史上に類を見ない『巨大な法治国家』を誕生させるための、最も重要で、最も奇跡的な『沈黙の準備期間』となったのである。
―――
益州の班との間で交わされていた、ひらがなによる『律令法案』の打ち合い。
それはおよそ半年の間、完全に秘匿されたまま順調に続いていたが――ある日を境に、パタリと途絶えた。
待てども待てども、返信の荷が届かない。
「……なるほど。ついに尻尾を掴まれたか」
比企景明は、自室で届かなかった荷の時期を計算し、極めて冷静に状況を把握していた。誰かに暗殺されたわけではない。あの異常に鼻の利く荊州の天才学士たちが、ついに景明の放った密使を捕縛したのである。
その推測通り。
諸葛亮と龐統の陣幕には、捕らえられた商人と、彼が隠し持っていた『木簡の束』が並べられていた。
「……士元(龐統)。これを、どう見ますか?」
「どうもこうもあるか。ただのミミズの這った跡か、あるいは道士の使う『呪符』にしか見えんぞ」
諸葛亮と龐統は、押収した木簡を前にして完全に思考を停止させていた。
中原のいかなる古文書を探ろうとも、日本国独自の表音文字である『ひらがな』の概念など存在しない。文脈はおろか、それが文字であることすら認識できないのだから、解読など絶対に不可能であった。
だが、文字は読めずとも、「景明が我々に隠れて、益州へ得体の知れない密書を送っていた」という『事実』だけは、言い逃れのしようのない明確な裏切りの証拠であった。
「……許さん。我らの目を盗み、益州と裏で通じるとは。この落とし前、必ずつけてくれるわ!」
龐統は、解読不能の木簡を鷲掴みにし、怒りの炎を燃やして立ち上がった。
翌日、劉備を交えた諸将が集う軍議の席において。
龐統は、突然その場に木簡の束を叩きつけ、比企景明に向かって鋭く牙を剥いた。
「比企景明殿! 貴殿が裏で益州の者と通じ、このような得体の知れない密書を幾度も交わしていたという事実。この場ではっきりと釈明していただこう!」
場が騒然となる。
張飛や趙雲ら武将たちが驚いて景明を見る中、龐統は立て板に水のごとく、景明の不審な動きと、味方である自分たちを騙して裏工作を行っていた事実を激しく糾弾し始めた。
「この暗号文は、我々荊州の軍を売るための密約か!? なぜ我々軍師に一切の相談もなく、このような真似をしたのだ!」
鳳雛の鋭い
もし、この場にいるのが同年代の血気盛んな若者であったなら、龐統の圧倒的な論理と気迫に呑まれ、言葉に詰まってボロを出していただろう。中原の天才が放つ圧力とは、それほどまでに凄まじいものなのだ。
しかし。比企景明は、龐統よりも遥かに『年上』であった。
日本国という巨大な官僚組織の中で、嫉妬、足の引っ張り合い、責任の擦り付け合いといった、あらゆる「根回しと裏工作の泥沼」をくぐり抜けてきた、生粋の『実務官僚』である。
天才たちの舌戦など、彼からすればただの『若者の激昂』に過ぎなかった。
「……その木簡は、確かに俺が益州へ送ったものだ」
景明は、一切の動揺を見せず、平然と密書の存在を認めた。
そのあまりに堂々とした態度に、逆に龐統の方が「えっ?」と一瞬たじろいでしまう。
「なぜ密書を送ったのか、だと? 簡単なことだ。今、我々の周囲には、許昌へと逃げ帰った曹操の間諜が腐るほど潜り込んでいるからだ」
景明は、諸葛亮と龐統を一瞥し、わざとらしく大きな溜息を吐いた。
「大将と劉琦様が、益州と連携したいと本気で願っておられるのは周知の事実。
だからこそ、俺はその事前の『調整』を裏で行っていた。
……もし、そのやり取りを誰もが読める普通の漢文で送れば、どうなるか? 曹操の間諜に内容を読まれ、劉璋殿の耳に入る前に、連携の策を根底から妨害されるだろうが」
景明は、机をトントンと指先で叩いた。
「だからこそ、絶対に曹操陣営に解読されない『暗号』を使った。そして、情報漏洩を極限まで防ぐため、俺の従者にすら、お前たち学士にすら、その内容を伏せたのだ。
……味方を騙してすまなかったな。だが、お前たちがいかに天才であろうと、酒の席でうっかり口を滑らせないという保証が、俺にはなかったものでね」
完璧な言い抜けであった。
「益州との連携という大将の願いを叶えるため」「曹操から情報を守るため」。
これらを盾に取られては、龐統がいかに「裏切りの証拠だ」と吠えようとも、それ以上の追及はただの『いちゃもん』に成り下がってしまう。
「詭弁だ! ならばなぜ、我々に一言の相談も……ッ!」
龐統がさらに食い下がろうとしたその時。
「……やめよ、士元」
上座で黙って聞いていた劉備が、静かに、しかし威厳のある声でそれを制止した。
「景明が曹操に情報を漏らさぬために、あえて泥を被って隠密に動いてくれていたのだ。その忠義を、これ以上疑うのは私の本意ではない」
「我が君! しかし……!」
「ならん。我らは今、曹操という脅威を前に、ようやく一つにまとまったばかりだ。このような内輪揉めで、優秀な人材同士が争うことなど、私は見たくない」
劉備の決断は、極めて明確であった。
彼は、諸葛亮や龐統の頭脳を愛していると同時に、赤壁を陰で支え切った景明の兵站能力も絶対に失いたくなかったのである。両者の言い分を尊重しつつ、景明の「曹操側に漏れ出ないための暗号である」という理屈を、劉備は完全に信じ、龐統の糾弾を却下したのだ。
「……申し訳ありませんでした、景明殿。私の、行き過ぎた疑いであったようだ」
諸葛亮が、龐統をたしなめるように深く頭を下げた。だが、その羽扇の奥の瞳には、景明に対するさらなる警戒の光が宿っていた。
「気にするな。俺も秘密主義が過ぎた」
景明は、静かに酒杯を干した。
場数が違った。天才たちの論理を、泥臭い経験と年齢の差でいとも容易く受け流した極東の怪物は、心の中で小さく安堵の息を吐きながら、益州との『最後の帳尻合わせ』へと向けて、次なる算段を練り始めるのであった。
―――
同じ頃。
険しい山脈に守られた西の果て。益州の都・成都においてもまた、もう一つの凄絶な『説得合戦』が繰り広げられていた。
「……また、南部の豪族たちから『よそ者が政に口出しをするな』という抗議の文が届きましたか。これで今月に入って十通目ですね」
成都の政務室。
益州の実質的な内政と算段のすべてを取り仕切る男・班竣は、山積みになった豪族たちからの抗議文を前に、疲れたように細い目をこすった。
益州の君主である劉璋(りゅうしょう)は、この班竣の底知れぬ計算能力と事務処理能力を高く評価し、彼に全幅の信頼を置いている。班竣が描く図面のおかげで、益州の税収は安定し、民は豊かな暮らしを享受しているのだから当然である。
劉璋は何度も、「君に益州の宰相を与えたい。どうか表に立って、この国を導いてくれ」と懇願してきた。
しかし、班竣はそれを頑なに拒み続けていた。
『私は、中原から流れてきたよそ者に過ぎません。そのような者が高位に就けば、必ずや国に不和をもたらします。……それに、私はただ、家族と共に慎ましく生きたいだけなのです』
権力欲も名誉欲もない。ただの事務官としての薄給と、目立たない下級官僚の地位。それだけを頑なに守り続ける班竣の態度は、彼なりの『益州という閉鎖的な土地で生き残るための、極めて冷徹な防衛術』であった。
益州という土地は、四方を山に囲まれた豊かな盆地であるが故に、極めて『排他的』な風土を持っていた。
古くからこの地を支配してきた土着の豪族たちは、代々の君主である劉璋に対しては深い敬意と臣従を誓っている。劉璋の温厚な性格と善政は、確かに民衆や豪族たちから愛されていた。
しかし、その劉璋の背後で、涼しい顔をして国の帳尻を操作し、政策の糸を引いている『班竣というよそ者』の存在を、豪族たちは苦々しく、そして激しい憎悪をもって嫌悪していたのである。
「我ら益州の血を引かぬ余所者が、劉璋様を誑している!」
「あの細目の算段官め。いずれ益州を乗っ取る気ではないのか!」
もし。
もし班竣が、劉璋の言葉に甘えて『益州の宰相』などの高い官位に就き、表舞台で権力を振るっていればどうなっていたか。
間違いなく、彼は豪族たちの放った暗殺者によって、とうの昔に寝首を掻かれていただろう。
彼が未だに生き長らえ、益州の内政を回し続けられているのは、ひとえに彼が「高い官位を一切持たない、ただの下働き」という姿勢を崩さず、豪族たちに「いつでも叩き潰せる小物である」という錯覚を与え続けていたからに他ならなかった。
だが、今。
景明から送られてきた『荊州と益州の共同代表制』という、国家の形を根底から覆す超巨大プロジェクトを実現させるためには。
班竣は、自らが被ってきた「目立たない下働き」の仮面を脱ぎ捨て、この排他的で厄介な豪族たちを、正面から説き伏せねばならない局面に立たされていたのである。
「断じてならん!! 荊州の連中を、我らが聖域であるこの益州に招き入れるだと!? 言語道断である!」
成都の宮廷に集められた重臣や豪族の長たちが、顔を真っ赤にして怒号を上げた。
班竣が提示した「劉琦様と劉璋様を並立の権威とし、法によって合同政府を築く」という法案は、彼らにとっては『荊州による益州侵略の隠れ蓑』にしか見えなかったのである。
「劉璋様! このような法案、裏で糸を引いているのは劉備の軍師どもに決まっております! 彼らは、我が益州の豊かな兵糧と土地を奪いに来る泥棒ですぞ!」
豪族の一人が、玉座の劉璋に向かって激しく訴えかける。
劉璋は、困り果てたような顔で、その傍らに控える班竣へと助けを求める視線を送った。
「……皆様方のお怒り、ごもっともにございます」
班竣は、群れ立つ豪族たちの殺気を全身に浴びながら、静かに、しかしよく通る声で口を開いた。
「しかし、皆様。感情論で国は守れません。……冷静に、天下の『算段』を見ていただきたい」
班竣は、背後の壁に巨大な中華の地図を広げた。
「曹操は赤壁で敗れたとはいえ、未だ北方に十五万を再編するだけの国力を有しています。一方の孫呉も、長江の水軍を強化し、虎視眈々と領土拡大を狙っている。……では、翻って我が益州の軍事力はいかがか。豊かな兵糧と険しい山脈はあっても、中原の百戦錬磨の精鋭を平地で迎え撃つだけの『矛』が、我々には決定的に欠けているのです」
班竣の冷徹な事実の突きつけに、豪族たちはグッと息を詰まらせた。
「荊州の劉備軍という『天下最強の矛』を、我々の山の外として組み込まねば、数年後、曹操か孫権の軍勢がこの山を越えてなだれ込んできた時、益州は確実に滅びます。
……私が提示したこの『法案』は、劉備軍に益州を奪わせないため、彼らを法という鎖で縛りつけ、対等な関係を強制するための『防御陣』なのです!」
「詭弁だ!! よそ者である貴様の言葉など、誰が信じるものか!」
それでも、豪族たちの反発は収まらなかった。彼らにとって、理屈の正しさよりも「班竣というよそ者が主導している」という事実そのものが許せなかったのだ。
「そこまで言うなら、貴様が荊州と裏で密約を結んでいないという証拠を出せ! なければ、今すぐこの場で斬り捨ててくれる!」
血気盛んな武将が剣の柄に手をかけ、班竣へとにじり寄る。
絶対絶命の危機。
だが、その時であった。
「……皆の者、剣を収めよ。私からの頼みだ」
玉座に座っていた劉璋が、ゆっくりと立ち上がり、争いの輪の中へと歩み出てきたのである。
「劉璋、様……っ」
「班竣の言葉は、私が保証する。彼は、決して益州を売るような男ではない。……彼がこれまで、どれほど私欲を捨て、名誉を捨てて、お前たちやこの益州の民のために働き続けてきたか。私は、ずっとこの目で見てきたのだから」
劉璋の声は、決して大きくも威圧的でもない。
しかし、その言葉には、長年この益州に争いのない善政を敷き、民から心から慕われてきた『仁君としての絶対的な徳』が満ち溢れていた。
「……私は、戦が嫌いだ。民が血を流し、泣く姿を見たくない。劉琦殿も、同じ思いでこの同盟を提案してくれたのだと信じている。……皆、どうか。私が信じたこの男の頭脳に、益州の未来を預けてはくれないか」
劉璋が、自らの臣下たちに向かって、深く頭を下げる。
その君主のあまりにも誠実な姿に、殺気立っていた豪族たちも、ついに毒気を抜かれたように剣から手を離し、次々とその場に平伏していった。
「……劉璋様。貴方様がそこまで仰るのであれば。我ら益州の臣、これ以上は申しません」
静寂が戻った政務室。
班竣は、自らを庇い、頭を下げてくれた劉璋の背中を見つめながら、深く、静かに息を吐き出した。
(……兄上。貴方が命を懸けて守りたかったのは、この温かく、不器用で、しかし誰よりも民を愛する君主のいる国だったのですね)
己の無位の盾は、もう限界に近づいている。これからは、より多くの憎悪と暗殺の刃が己に向けられるだろう。
しかし、班竣に迷いはなかった。
兄・班稀が具五刑に処されながらも守り抜いたこの益州を、再び戦火の泥沼に沈めるわけにはいかない。
比企景明が紡いだ「律令の檻」を、この西蜀の地に完全に根付かせるため。
冷徹なる算段官は、仁君の徳を自らの最大の武器として掲げ、あらゆる政敵の悪意を一身に甘受する覚悟を、静かに、そして確固たるものとして固めるのであった。