比企景明と益州の班竣との間で、誰にも気付かれることなく交わされ続けた「ひらがな」による密書の往復。
権威と権力を分離し、血を流さずに二つの州を統合するための『律令』の細部調整は、およそ一年という途方もない時間を費やし、ついに完全なる合意へと達していた。
そして、その裏の算段が仕上がったのと時を同じくして。
表の盤面においても、荊州の主・劉琦の願いを受けた劉備が、ついに大軍を伴って西の益州へとその重い腰を上げたのである。
「……此度の益州への行軍。表向きは、劉琦様と劉璋様という同宗の君主の間を取り持ち、両州の護りを盤石なものとするための『平和的な使節団』である」
出陣の朝。
諸葛亮は、整然と並ぶ荊州の精鋭たちを前に、白羽の扇を揺らしながらそう宣言した。
だが、その背後に並ぶ数万という軍勢の威容を見れば、それが単なる使節団でないことは火を見るよりも明らかであった。
「……平和的な使節、ね」
陣列の端で軍馬を引いていた景明は、心の中で冷たく吐き捨てた。
諸葛亮や龐統たち学士には、初めから対等な同盟を結ぶ気など毛頭ない。
この大軍の真の目的は、益州の国境を越え、圧倒的な武力をもって劉璋の宮廷にプレッシャーをかける『軍事的恫喝』である。
「我々の傘下に入るか、それともこの軍勢に蹂躙されるか」という、ヤクザ顔負けの二者択一を突きつけ、強引に益州を乗っ取るための血塗られた行軍であった。
「景明殿。此度の西征も、長丁場になる。兵站の算段、頼りにしていますよ」
馬上の諸葛亮が、景明に向かって涼やかな笑みを向ける。
「承知している。全軍の胃袋は、この俺が確実に満たしてご覧に入れよう」
景明もまた、完璧な実務官僚の仮面を被り、淀みなく答えた。
彼もまた、劉備の軍に「兵站の最高責任者」として同行していた。
諸葛亮たちは武力による恫喝で益州を奪い取ろうとしている。だが、景明の懐には、この一年間かけて班竣と共に練り上げた『共同代表制』の最終法案が忍ばせられていた。
劉備と劉璋が対面する、その歴史的な会談の瞬間。
学士たちが牙を剥くよりも一瞬早く、景明と班竣が内側と外側から同時に動いて『法の網』を被せ、彼らの武力恫喝を無力化し、無血での統合を既成事実化してしまう。
景明にとってこの行軍は、己の所属する陣営の天才軍師たちを完全に出し抜き、歴史の歯車を法治国家へと捻じ曲げるための、命懸けの『獅子身中の暗闘』の始まりであった。
劉備が主力の大半を率いて西へ向かう中、背後となる荊州の防衛は、決して疎かにできるものではない。
北の曹操、東の孫権という二つの巨大な脅威が、常に荊州の豊かな土地を虎視眈々と狙っているからだ。
「兄者、西の事は安心くだされ。この荊州は、俺が青龍偃月刀に懸けて護り抜いてみせまする」
劉備の留守を預かる総司令官として江陵の城に残ったのは、義弟にして軍神と謳われる猛将・関羽であった。
その武勇と統率力は天下無双。関羽が睨みを利かせている限り、敵もそう容易くは手出しができない。
だが、劉備は決して「関羽の武勇」だけでこの四面楚歌の土地を護り切れるとは考えていなかった。
関羽は義に厚く、誇り高いが故に、敵の卑劣な『謀略』や『搦め手』に対しては、足元をすくわれる脆さがあったからである。
「雲長(関羽)。そなたの武勇は天下の誰もが知るところだ。だが、背後の護りを盤石にするため、この二人にそなたの補佐を任せたい」
劉備が関羽の脇に配置したのは、徐庶と法正という、極めて優秀な二人の天才軍師であった。
徐庶のバランスの取れた大局観と防衛戦術。そして、法正の常識に囚われない奇策と、敵の謀略を未然に察知して叩き潰す冷徹な眼力。
関羽という『最強の盾』の裏に、この二人の『鋭い知恵の刃』を仕込むことで、荊州の防衛体制は文字通り、一分の隙もない完璧な要塞へと仕上がっていたのである。
そして、劉備の軍勢が西へと旅立ち、江夏(こうか)の屋敷が静けさを取り戻した頃。
中庭では、鋭い風を切る音が連続して響き渡っていた。
「……ふっ! しっ!!」
鋭い呼気と共に、銀色の長戟が空を裂き、庭の落ち葉を竜巻のように巻き上げている。
武器を振るっていたのは、景明の妻であり、かつての飛将・**呂綏であった。
産後から一年。彼女は、母となったことで少しだけ丸みを帯びた身体を、再び戦場での極限の動きに耐え得る『武人の肉体』へと引き戻すべく、猛烈な鍛錬を再開していたのだ。
「……だめだな。踏み込みの速度が、以前よりよ落ちている。刃の軌道も少しブレる」
呂綏は、うっすらと汗をかいた額を拭いながら、己の掌の感覚を確かめるように戟を回した。
彼女は、景明の西征には同行せず、荊州に残ることを選んだ。
理由は単純である。
縁側の日だまりの中、侍女に抱かれて無邪気に笑っている、愛娘の存在だ。
「あー、あー!」
母親の姿を見て、小さな手を伸ばして喜ぶ娘。
「……お前を置いて、戦の空気が漂う西蜀へ行くのは、忍びないからな」
呂綏は、武器を置き、縁側に歩み寄ると、汗も拭かずに娘を抱き上げた。
飛将として、愛する夫の背中を護るために最前線へ立ちたいという武人の本能。
しかしそれ以上に、この小さな命を戦火の危険から遠ざけ、絶対に護り抜きたいという、母親としての底知れぬ愛情と優しさ。
「……算段の化物め。お前の仕掛けた大博打、せいぜい派手に勝ってこい。だが、もしお前の目論見が外れ、お前が窮地に陥ったその時は」
呂綏は、娘の柔らかな頬に自らの頬をすり寄せながら、西の空を鋭い眼光で睨み据えた。
「訛りきった身体を削り直した私が。お前が護りたかったこの子を背負い、天下のどこであろうと、必ずお前を助けに駆け抜けてやる」
武力による簒奪を目論む天才軍師たちと、法による無血統合を企む極東の算段官の、相容れぬ巨大な歯車を乗せた劉備の軍勢は。
それぞれの陣営に深く、熱い想いを残しながら、険しい西蜀の山道へとその重い歩みを進めていくのであった。
―――
西暦二百八年末。
荊州の主力たる劉備の大軍勢が、ついに西の益州へと向けて出立したという報せは、間諜の早馬によって、直ちに隣国である孫呉(の首脳部――大都督・周瑜の耳にも届けられていた。
「……動いたか、劉備。やはり諸葛亮の狙いは、益州の乗っ取りであったか」
建業の宮廷。
届いた報告書に目を通した周瑜の美しい顔に、冷酷で、しかし喜びに満ちた笑みが浮かんだ。
劉備が自ら数万の精鋭を引き連れて西へ向かったということは、すなわち『荊州の守りが手薄になった』ことを意味している。
三呉周辺の平定と内政に専念し、次なる南下策への準備を進めていた周瑜にとって、この荊州の「虎の留守」は、千載一遇の好機であった。
「我が君、孫権様。そして諸将よ。今こそ我ら孫呉が、荊州の喉元に食い込むための『大義名分』を創り出す時です」
周瑜は、居並ぶ将たちに向かって高らかに宣言した。
「武力をもって正面から長江を遡れば、曹操を利する泥沼の戦になりかねない。……故に、我々は水面下で動く。荊州の内部から崩壊を促す『離間の計』を仕掛けるのだ」
周瑜の刃が狙いを定めたのは、劉備の留守を預かり、荊州の総司令官として江陵の城に座す男。
軍神・関羽であった。
「関羽雲長。万夫不当の豪傑であり、その義理堅さと実直さは天下に轟いている。……だが、同時にあの男は、己の武と義に絶対の自信を持つが故に、極めて『融通の効かない』人物でもある」
周瑜は、関羽という人間の本質を正確に見抜いていた。
関羽は、目下の者や民衆には優しいが、己と同等以上の士大夫に対しては、その傲慢なまでの誇り高さゆえに、見下した態度をとることが多い。
「その『傲慢さ』を利用するのだ。荊州内部の土着の豪族たちや、下級の役人たちの中に間諜を潜り込ませ、関羽に対する不満を煽り立てろ。……『関羽は荊州の民を蔑んでいる』『劉備がいない今、関羽は己の王国を築こうとしている』とな」
周瑜の描いた絵図面は、極めて陰湿で効果的であった。
荊州内部に『反・関羽』の派閥を意図的に育て上げ、内乱の火種を作る。そして、実直すぎる関羽がその不満分子たちを「不義の輩」として強引に武力で弾圧した瞬間を狙い、孫呉が『不当に虐げられた荊州の民を救う』という完璧な大義名分を掲げて、堂々と軍を差し向ける。
「……関羽よ。貴様のその美しき義と誇りを、自らの手で首を絞める鎖に変えてやろう」
周瑜が放った無数の間諜たちは、毒を孕んだ影となって、静かに長江を遡り始めた。
しかし。
いかに天下の奇才たる周瑜といえども、この時の彼は、一つだけ致命的な『情報の欠落』を犯していた。
彼の放った間諜たちの報告には、「劉備が諸葛亮や龐統といった主要な軍師たちをすべて益州へ連れて行った」と記されていた。
故に周瑜は、「今の荊州の留守を預かっているのは、知略に疎い関羽と、凡庸な文官たちだけである」と高を括っていたのである。
だが、現実は違った。
劉備は、関羽のその『融通の効かない性格』と『謀略への脆(もろ)さ』を誰よりも理解していたからこそ。
あの比企景明をも唸らせる最高峰の頭脳――大局を視る防衛の要・徐庶と、謀略と奇策の天才・崔州平という二人の軍師を、意図的に荊州へと残していったのだ。
「……ふむ。江東のネズミどもが、随分とぞろぞろと我が荊州の床下へ忍び込んできたようですね」
江陵の軍議の間。
届いた市井の報告書を眺めながら、崔州平が三白眼を細めて冷たい笑いを漏らした。
「劉備様が動かれた以上、周瑜が何の策も仕掛けてこないはずがありません。おそらく、関将軍の誇り高さを逆手に取り、内輪揉めを誘発する『離間の計』でしょうな」
徐庶もまた、手元の竹簡を置き、ため息混じりに正確な予測を立てていた。
周瑜の放った毒は、荊州の民に回るよりも早く、この二人の『防衛の天才たち』によって、完全にその軌道と成分を分析され尽くしていたのである。
「……おい。お前たち、またその話か。もう耳にタコができるほど聞いたぞ」
上座で立派な髭を撫でていた関羽が、眉間に深い皺を刻み、心底鬱陶しそうに唸り声を上げた。
無理もない。徐庶と崔州平の二人は、周瑜の策動を察知して以来、毎日のように、それこそ朝昼晩の食事の度に、関羽の耳元で同じ注意を繰り返し囁き続けていたからだ。
「ええ、何度でも申し上げますとも、関将軍」
徐庶は、関羽の不機嫌な顔を全く意に介さず、一歩前に進み出た。
「東の孫呉から、貴方様を陥れるための間諜が多数入り込んでいます。彼らは必ず、貴方様を怒らせ、誇りを傷つけ、無理な行動を引き起こすように『挑発』を仕掛けてきます。……どうか、相手の挑発には絶対に乗らないでください」
「そうだ」と、崔州平がさらに冷徹な声で後を引き継ぐ。
「相手の策謀の裏を読み、見抜いて叩き潰すのは、我々軍師の仕事です。将軍がご自身の勘や誇りだけで動けば、奴らの仕掛けた泥沼の罠に嵌まります。怪しい動きがあれば、必ず! 基本的に! 事前に我々に相談し合うこと。よろしいですね?」
「ぬぅ……」
関羽は、己の武と義を軽んじられたようで面白くなかったが、彼らが主君・劉備から直接「自分を補佐せよ」と命じられた優秀な男たちであることは認めていた。
「我らは、軍神と謳われる貴方様のように、武勇の理や兵たちの熱き気概の導き方までは分かりませぬ」
徐庶が、最後に深く頭を下げ、関羽の自尊心をしっかりと立てた。
「だからこそ、将軍はただ、この荊州の絶対的な守護神として、実直に、堂々とそこに座し、武を振るうべき時だけ振るっていただければ良いのです。……泥に塗れる裏の仕事は、我々がすべて請け負いますゆえ」
「……相分かった。お前たちがそこまで言うのなら、背中の護りは任せよう」
関羽は、ため息をつきながらも、ついにその鬱陶しい二人の進言を深く受け入れ、力強く頷いた。
実直で融通の効かない軍神が、己の弱点を補うために、決して自尊心に溺れず「知の刃」を素直に受け入れた瞬間であった。
かくして。
江東の美周郎が自信満々に放った『離間の計』は。
軍神の武と、二人の軍師の頭脳が完璧に噛み合った、荊州の『三位一体の絶対防壁』の前に、いかなる火種を起こすこともできぬまま、静かに、そして確実にすり潰されていく運命にあったのである。
―――
劉備を総大将とする数万の軍勢は、長江の激しい流れに逆らい、西の益州を目指してゆっくりと、しかし確実に遡上を続けていた。
「帆を張れ! 風を逃すな! 流れに押し負けるな!」
水夫たちの荒々しい怒号が、川面にこだまする。
両岸には、険しい断崖絶壁が天を突くようにそびえ立っていた。長江の難所、三峡へと差し掛かるこの水路は、大軍を進めるには極めて困難な道程である。しかし、連なる船団に掲げられた『劉』の軍旗は、決して退くことなく西へ西へとその切っ先を向けていた。
諸葛亮や龐統たち学士が「軍事的恫喝」として動かしたこの大軍勢。
しかし、その勇猛な船団の中央付近――波の揺れが最も少ない安全な位置を進む一隻の大型船には、屈強な武将たちとは全く不釣り合いな、豪奢な装飾の施された『船室』が設けられていた。
その薄絹の帳の向こうで、じっと川面を見つめている一人の少女がいた。
名を、劉靖。字を阿珠という。
劉備の二人の娘のうちの一人であり、年の頃は十三、四歳。まだあどけなさの残る可憐な少女であったが、その瞳の奥には、年齢に似合わぬ深い理知と、静かな諦観の色が宿っていた。
「……阿珠様。風が冷とうございます。窓をお閉めください」
付き添いの侍女が、心配そうに声をかける。
「平気よ。もう少しだけ、風に当たっていたいから」
劉靖は、静かに首を振り、再び後方の景色――東の荊州へと続く川のうねりへと視線を戻した。
彼女が、父である劉備の過酷な行軍に付き従い、危険な長江を遡って西蜀へと向かっている理由。
それは、彼女が「ただの同行者」ではないからだ。
劉備は、この娘・劉靖を、益州牧である劉璋――あるいはその一族の有力者――への『輿』とするつもりで連れてきていたのである。
表向きは「荊州と益州の絆をより強固なものとするための、平和的な政略結婚」である。
劉備自身、愛する娘を他国へ嫁がせることには酷く心を痛めていた。しかし、劉璋の警戒心を解き、益州との関係を盤石にするためには、血の繋がりによる「担保」がどうしても必要であった。
劉靖は、非常に『聡い』娘であった。
諸葛亮たち軍師が、自分という存在を「益州内部へ食い込むための政治的な楔」として利用しようとしていることも。そして、父である劉備が、天下の万民を救うという巨大な大義のために、己の娘を犠牲にしなければならないという血の涙を流していることも。
十三という若さでありながら、彼女はそのすべての『大人の思惑』を正確に汲み取っていた。
だからこそ彼女は、出立の際、ただの一度も「行きたくない」と泣き喚くことはなかった。父の悲痛な顔を見たくなかったからだ。彼女は自らの思いを完全に押し殺し、従順な娘として、静かに輿の船へと乗り込んだのである。
だが、どれほど聡く、己を殺す術を知っていようとも。
彼女もまた、血の通った一人の少女である。その胸の奥底には、決して誰にも言えない、切なく熱い『秘めたる思い』があった。
(……本当であれば。私は、あの荊州の地で……劉琦様と共に、ありたかった)
劉靖の脳裏に浮かぶのは、荊州の若き君主・劉琦の、青白くも優しげな笑顔であった。
病弱でありながら、常に民と国を思い、誰に対しても温かく接してくれた劉琦。戦乱と無骨な武将たちばかりに囲まれて育った劉靖にとって、劉琦のその静かで穏やかな佇まいは、少女の心に芽生えた、淡く、しかし決して消えることのない『初恋』そのものであった。
政略の道具になるのなら。劉璋のような見知らぬ西の君主ではなく、せめて劉琦様の側室として、その病の床に寄り添い、共に短い生を生きたかった。
しかし、そのささやかな願いが叶うことは、ついぞなかった。
政治の算段において、すでに完全に劉備の庇護下(傀儡)にある劉琦との婚姻は、劉備陣営にとって「何の軍事的・外交的利益も生み出さない」からである。
彼女の価値は、遠く離れた益州を縛り付けるための鎖として使われてこそ、初めて光るものだったのだ。
そして、劉靖の心をさらに複雑に掻き乱していたのが、彼女の『双子の妹』の存在であった。
妹の名は、劉華。字を阿嬌という。
劉靖と全く同じ年齢、同じ顔立ちをして生を受けた双子の姉妹。
劉靖が西の果てへと嫁に出される一方で、妹の劉華は、関羽が守る江陵の城――すなわち、劉琦のいる荊州の地へと『残る』ことになっていた。
理由は明確である。姉を益州への人質(輿)とするならば、妹は万が一のための予備、あるいは荊州の内部を固めるための駒として温存しておく方が合理的だからだ。
(……阿嬌は、荊州に残った。劉琦様のいる、あの城に)
劉靖は、袖口をギュッと固く握りしめた。
妹を憎んでいるわけではない。双子の妹は、彼女の半身とも言える大切な家族だ。
しかし、自分が想い人を永遠に諦め、見知らぬ土地へ身売り同然で向かっているというのに。よりによって自分と同じ顔をした妹が、愛する劉琦のすぐ側で、今まで通りの平穏な日々を送り続けるという事実。
――なぜ、私だったのか。なぜ、阿嬌ではなかったのか。
そんな暗い感情が、ほんの一瞬だけ胸を過る。
それは、己を殺して大人になろうとする少女の心に生じた、少しばかりの『癪に障る』という、どうしようもない人間らしい嫉妬であった。
「……駄目よ、阿珠。そんなことを思っては。私は父上のため、大漢帝国のために、西へ行くのだから」
劉靖は、自らの内に芽生えたその黒い感情を、細く息を吐き出すと共に、グッと心の奥底へと飲み込み、堪(こら)えた。
彼女は、どこまでも聡く、そして気高い娘であった。
「……阿珠様」
侍女が、再び気遣わしげに声をかける。
「大丈夫よ。ただ……この長江の景色を、しっかりと目に焼き付けておきたいの」
劉靖は、事あるごとに船室の窓から身を乗り出し、船団の後方――過ぎ去っていく東の空を振り返り続けた。
船が進むたびに、彼女の愛した荊州の地は、霧の向こうへと霞んで消えていく。
あの空の下に、大好きな父が守ろうとする民がいる。
あの空の下に、自分と同じ顔をした妹がいる。
そして、あの空の下に。自分が生涯ただ一人、密かに心から慕った、病の君主がいる。
『さようなら……私の、初恋』
激しい水しぶきを上げながら、船団は力強く川を遡っていく。
少女はどこまでも名残惜しそうに、何度も、何度も、遠ざかる故郷の船列を振り返り続けるのであった。
その頃。
彼らの出立した故地であり、今や劉備陣営の最大の後方基地となっている荊州の江陵城。その奥深くに設けられた荊州牧・劉琦の私室へと続く回廊を、薬湯の乗った盆を掲げて静かに歩く一人の少女がいた。
名を、劉華。字を阿嬌という。
つい先日、父・劉備と共に益州への輿として旅立っていった劉靖と全く同じ顔、同じ背丈を持つ、十三、四歳の双子の妹である。
「…………」
阿嬌は、湯気を立てる薬の匂いを嗅ぎながら、ふと自分の横の『虚空』を見つめた。
いつもであれば、姉である阿珠と二人、小鳥のように連れ立ってこの廊下を歩き、劉琦の部屋へと向かっていたはずだった。だが、もう隣に阿珠の姿はない。彼女は、見知らぬ西の果てへと、父の政略の駒として連れ去られてしまったのだ。
(……お姉様。貴女も、劉琦様のことがお慕いしていたのにね)
阿嬌は、盆の縁を握る指先に少しだけ力を込めた。
双子である阿嬌には、姉がどれほど己の心を殺し、劉琦への慕情を隠して船に乗ったか、痛いほどによく分かっていた。同じ顔を持ち、同じ人を好きになった姉。その不憫な運命を思えば、胸が締め付けられるような寂しさを覚える。
だが、それと同時に。
阿嬌の胸の奥底には、その寂しさを塗り潰すほどの、甘く、黒く、そして抗いがたい『優越感』がドロリと渦巻いていた。
(ごめんなさい、お姉様。……でも、これで劉琦様のお傍に居られるのは、私だけになったわ)
恋敵でもあった姉を、結果的に出し抜いた形になったという事実。
阿嬌の可憐な唇の端が、ほんの僅かに吊り上がる。彼女は、姉のように己を押し殺して耐え忍ぶだけの、ただの従順な少女ではなかった。その美しい容貌の裏に、獲物を狙う肉食獣のような野心と計算高さを秘めた、紛れもない『女豹』であった。
「劉琦様。お薬の刻限にございます」
阿嬌が恭しく部屋の扉を開けると、そこには、寝台ではなく執務机の前に座り、竹簡に目を通している若き君主の姿があった。
「ああ、阿嬌か。すまないね、毎日手数をかけさせて」
劉琦は、顔を上げて優しく微笑んだ。
かつて、継母や異母弟からの暗殺の恐怖に怯え、さらには曹操の南下という絶望的な重圧の下で、文字通り「死の淵」を彷徨っていた劉琦。
しかし、赤壁の戦いを経て曹操が退き、劉備という絶対的な庇護者を得たことで、彼の心を蝕んでいた『心労』は劇的に軽減されていた。
精神的な重圧から解放されたことが功を奏したのか、最近の彼はめっきり床に伏せることが減り、顔色にも少しずつ血の気が戻りつつあった。
「劉琦様、あまりご無理をなさらないでくださいませ。まだお加減が……」
「いや、大丈夫だ。最近は随分と身体が軽い。……劉備殿が西の益州との折衝に赴いてくれている今、荊州の主である私が、いつまでも寝込んでいるわけにはいかないからね」
劉琦は、阿嬌から薬湯を受け取り、ゆっくりと飲み干した。
彼は、自分でも驚くほど体調が回復傾向にあることを実感していた。そして、命の危機が遠のいたことで、彼の頭の中には、今まで考える余裕すらなかった『荊州の行く末』という現実的な課題が重くのしかかり始めていたのである。
(……私がこうして生き長らえた以上、荊州の統治を盤石にするためには、早く世継ぎを考えねばならない。だが、私には……)
劉琦には、正室がいなかった。
病弱であり、いつ死ぬとも知れなかった彼に、有力な豪族が娘を嫁がせるはずもなかったからだ。
だが、状況は変わった。荊州の正統な主として立った今、彼の傍らに「妻」という存在が空席であることは、政治的に極めて不安定な状態を意味していた。
劉琦がふと視線を落とすと、そこには、空になった薬湯の椀を受け取る阿嬌の姿があった。
十三、四歳という若さながら、劉備の血を引く気高さと、女性としての妖艶な美しさを蕾のように綻ばせ始めている少女。
「……阿嬌。お前は、寂しくはないのかい? 姉の阿珠が遠くへ行ってしまって」
「寂しくなど、ございません」
阿嬌は、真っ直ぐに劉琦の目を見つめ返し、艶やかな笑みを浮かべた。
「私には、ここに、お護りすべき大切な方がおられますから」
その日の午後。
阿嬌は、劉琦の部屋を下がると、その足で真っ直ぐに江陵城の一角――劉備の留守を預かる最高首脳たちが集う、軍議の間へと向かった。
(……父上が西へ行き、あの底知れぬ諸葛亮もいない今が、最大の好機)
阿嬌は、自らの内に流れる『乱世の血』を滾(たぎ)らせていた。
もしこのまま待っていれば、自分もいずれ、父の政略のためにどこかの知らない武将の下へ嫁がされるかもしれない。
自分の運命は、自分で決める。自分が最も価値のある存在になれる場所は、自らの牙で奪い取る。
「……お邪魔いたします。関羽将軍。それに、徐庶殿、崔州平殿」
突然軍議の間に姿を現した主君の娘に、三人の男たちは驚きの表情を浮かべた。
「阿嬌様。いかがなさいましたか、このようなむさ苦しい場所に」
関羽が、威儀を正して立ち上がる。
「皆様方に、折り入ってご相談したい儀がございます。……他でもない、我が主君・劉琦様の『正室』の件についてです」
阿嬌は、堂々とした足取りで部屋の中央に進み出ると、一切の臆病さを見せることなく、言葉を紡いだ。
「ご存知の通り、劉琦様は順調に快方へ向かっておられます。それは大変喜ばしいことですが……正室の居ない若き君主の寝所は、周囲の豪族たちから見れば『格好の標的』に他なりません。もし、荊州の土着の豪族が強引に娘を劉琦様に宛がい、外戚として権力を握れば……父上がせっかく築き上げた荊州の統治は、内側から崩れることになりませんか?」
その極めて論理的で、政治の急所を突いた阿嬌の言葉に。
関羽は目を瞬かせ、徐庶と崔州平は、ハッと息を呑んで互いの顔を見合わせた。
「……そこで、私の提案です」
阿嬌は、三人の顔を順に見据え、美しくも恐ろしい女豹の微笑を浮かべた。
「私を、劉琦様の正室としてくださいませ。私と劉琦様が結ばれれば、荊州の旧臣たちも納得し、何より……父上と荊州の関係は、切っても切れない『血の縁』として永遠に担保されるはずです」
「……っはは!」
沈黙を破ったのは、法正の堪えきれない笑い声であった。
「恐れ入りました。まさか、我が君の御息女に、これほどまでの政治眼と度胸が備わっておいでとは!」
崔州平と徐庶の二人の天才軍師は、目の前の可憐な少女が提示した策の『完璧さ』に、心地よい戦慄すら覚えていた。
学士たちにとって、劉備が荊州を実質的に支配している現在の状況は、あくまで「劉琦の客将」という名目に過ぎず、長期的には正統性の弱さがアキレス腱となっていた。
だが、もし劉備の娘である阿嬌が劉琦の正室になればどうなるか。
劉備は名実ともに荊州牧の『義父』となり、荊州の統治権に絶大な発言権と大義名分を持つことができる。仮に劉琦に万が一のことがあっても、その妻である阿嬌を通じて、劉備が荊州を継承する権利が合法的に発生するのだ。
「……確かに、これほどうってつけの算段はありません。徐庶殿、いかがです?」
「ええ。荊州の防衛と内政の安定を考えるなら、最上の手です。阿嬌様が劉琦様のお傍に居てくだされば、我々としてもこれほど心強いことはない」
二人の軍師は、瞬時にこの婚姻がもたらす天文学的な政治的メリットを弾き出し、全面的な賛意を示した。
「……うむ。俺は小難しい理屈は分からんが」
関羽が、立派な髭を撫でながら、満足げに深く頷いた。
「兄者(劉備)の愛娘が、この荊州の正統な主と結ばれ、幸せに暮らせるというのであれば、これほどめでたい話はない。……阿嬌様。この関雲長、貴女様の覚悟、確かに承りましたぞ」
「ありがとうございます、皆様」
阿嬌は、優雅に衣の裾を翻し、深く一礼した。
かくして。
諸葛亮という最大の枷が外れ、父である劉備が留守にしている荊州の奥底で。
己の初恋と野望を胸に秘めた若き女豹の跳躍によって、荊州の未来を決定づける巨大な『政略結婚』の歯車が、音もなく、しかし強引に回り始めたのである。
西の果てへ向かった双子の姉の思いを背負いながら。阿嬌は、大義名分という最強の武器を手にした軍師たちの力を借りて、病の君主の隣という『絶対不可侵の玉座』へと、そのしなやかな肢体を滑り込ませていくのであった。
―――
一方
劉備の大軍勢を迎え撃つ側となる、西の益州の都・成都。その宮廷の奥深くにおいて、益州牧である劉璋は、己の玉座の前へ一人の若き男を招き入れていた。
「……呼ばれましてございますか、父上」
静かに頭を下げるその青年は、劉璋の次男である
この年、数えで二十歳を迎えたばかりの若者であった。
彼の顔立ちは、温厚で争いを好まない父・劉璋によく似て、優しく穏やかな線を引いていた。
だが、父子でありながら、その内面に流れる気質には決定的な『違い』があった。
史実においても、そしてこの世界線においても、父である劉璋の人の良さは、しばしば「決断力に欠ける甘さ」として露呈しがちであった。
対して、次男である劉闡は違った。
彼は父の温厚さを受け継ぎながらも、その芯には『流されない誠実さと、強い正義感』を秘めていたのである。
権力に対する欲や執着が全くなく、誰に対しても謙虚に振る舞う。しかし、間違っていることには決して首を縦に振らない、真っ直ぐな大樹のような気風を持った若者であった。
「……おお、闡よ。よく来てくれた。少し、近くへ寄りなさい」
劉璋は、どこか疲労の滲む顔で、愛する次男を手招きした。
「父上。お顔の色が優れません。やはり、東から劉備軍が長江を遡ってきているという報せが、御心に重くのしかかっておいでですか」
劉闡は、父を気遣うように眉を下げた。
劉備軍の接近。それは、表面上は「荊州との同盟関係を盤石にするための平和的な使節」と銘打たれているが、数万という大軍を伴っている以上、それが強烈な軍事的圧力(恫喝)であることは、益州の誰の目にも明らかであった。
「ああ……。諸葛亮という軍師が、我々を力で呑み込もうとしているのは分かっている。だが、班竣が言うには、決して恐れることはないのだと。あの怪物は、すでに劉備たちを法で縛り上げる算段を完了させているらしいからな」
劉璋は、絶対の信頼を寄せる無位の宰相・班竣の名を挙げ、小さく息を吐いた。
班竣が比企景明と一年がかりで裏で構築した『共同代表制』。それを平和裏に成立させ、劉備軍を益州の防波堤として正しく機能させるためには、両州の間に誰もが納得する『強固な楔』を打ち込む必要があった。
「闡よ。今日お前を呼んだのは、他でもない。……その『楔』の役目を、お前に担ってもらいたいのだ」
「楔、にございますか?」
劉闡が不思議そうに首を傾げると、劉璋は意を決したように、重々しく告げた。
「劉備殿の軍勢の中には、彼の愛娘が乗った『輿』が同行している。……お前が、その娘を正室として娶るのだ」
その言葉が意味するものを、聡明な劉闡は瞬時に理解した。
天下に名高き劉備の娘を、益州牧の次男である自分が妻として迎える。
それは、言葉を飾れば「両家の絆を結ぶ政略結婚」であるが、その実態は『互いの裏切りを防ぐための、最高級の政治的人質(担保)の交換』に他ならない。
そして何より、劉闡にはこの縁談に対する『拒否権』が一切なかった。
彼は二十歳という年齢でありながら、その無欲さゆえに、未だ特定の豪族の後ろ盾を持たず、正式な妻(正室)を娶っていなかったからである。
長男である兄にはすでに豪族の血を引く妻がおり、政治的なしがらみが多い。空白の立場であり、かつ益州牧の直系である劉闡の「隣の席」は、荊州という巨大な同盟国の姫君を受け入れるための、これ以上ないほど完璧な『空席』であったのだ。
「……私が、劉備殿の御息女を」
劉闡は、微かに目を伏せた。
「すまない、闡。お前に政治の重荷を背負わせたくはなかったのだが……益州の民を戦火から守り、荊州との対等な関係を築くためには、どうしても劉備殿との『血の繋がり』が必要なのだ」
劉璋は、息子を政略の道具にしてしまう己の不甲斐なさに、血の滲むような思いで頭を下げた。
だが。
劉闡の顔に、怒りや悲壮感は微塵も浮かんでいなかった。
彼は、深く、静かに息を吸い込むと、玉座の父に向かって真っ直ぐに平伏した。
「頭をお上げください、父上。私に、不満などあろうはずがありません」
劉闡の澄み切った声が、宮廷に響く。
「この劉闡、未だ益州の民のために何一つ恩返しができておりませんでした。私の婚姻一つで、この西蜀の地に戦火が及ぶのを防ぎ、民の安寧が保たれるというのであれば。これほど名誉な役目はございません。……喜んで、荊州の姫君をお迎えいたします」
「……闡よ」
我が子のあまりにも真っ直ぐで誠実な言葉に、劉璋はポロポロと安堵と感謝の涙をこぼした。
政略の道具として使われる己の運命を呪うこともなく。
かといって、野心のために荊州の威光を利用しようと企むこともない。
劉闡は、ただ純粋に「国と民を守るための正義」として、己の人生を差し出すことを静かに受け入れたのであった。
政務室を後にし、自室へと戻る回廊を歩きながら。
劉闡は、遥か東の空――長江の方角へと視線を向けた。
(……劉備殿の御息女。おそらくは、十代の若き姫君であろう)
劉闡は、自らに嫁いでくるまだ見ぬ少女の姿を想像した。
故郷を離れ、親兄弟と引き離され、敵になるかもしれない見知らぬ西の山奥へと、たった一人で流されてくる娘。
その胸中がどれほどの不安と悲しみに満ちているか、想像に難くない。彼女もまた、天下の算段の渦に巻き込まれ、運命を強制された『犠牲者』なのだ。
(天下の誰もが、彼女を『荊州からの人質』や『劉備への楔』として見るだろう。……だが、私だけは)
劉闡は、己の胸にそっと手を当てた。
(私だけは、彼女を政治の道具として扱うまい。縁あって我が妻となるからには、この劉闡の誠実さのすべてを懸けて、彼女を護り、慈しもう。……それが、不本意な輿に乗せられた彼女に対する、せめてもの私の『正義』だ。)