大陸において、劉備の大軍勢が長江を遡り、西蜀の運命を懸けた巨大な政略と法戦が渦巻いていた西暦二百九年。
血生臭い中原の騒乱から遠く離れた東の果て、日本国の首都・長岡京の大内裏は、新春の荘厳な空気に包まれていた。
正月。それは極東の島国において、新たな年神を迎える神聖な節目であると同時に、若者たちが大人としての責任と武具を身に帯びる『元服の儀』が執り行われる季節であった。
大内裏の広場。幾千もの近衛兵と高官たちが居並ぶ中、一人の少年が、輝かしい大人の衣と武具を身にまとい、力強い足取りで玉座の前へと進み出た。
名を、
日本国の裏の支配者にして、冷徹なる算段の怪物たる右大臣・広庭を父に持ち。
北方の原野を駆け抜けた誇り高き蝦夷の女戦士・於呂を母に持つ。
二つの全く異なる強烈な血脈を受け継いで生を受けた、大和国の次代を担う若き猛虎であった。
「……見事な体躯だ。あの広庭様の御子とは思えんほどの、逞しき武骨さよ」
並み居る武官たちが、速風の姿を見て感嘆の溜息を漏らす。
元服を迎えた速風の姿は、冷徹な事務官である父・広庭の面影を残しつつも、その身体つきは完全に母・於呂のそれを受け継いでいた。
厳しい北の大地で鍛え上げられた蝦夷由来の骨格は、同年代の若者たちと比べても頭一つ飛び抜けて大きく、その肩幅や分厚い胸板は、すでに歴戦の戦士の風格を漂わせている。
そして何より、彼が最も得意とするのは、蝦夷の血がもたらした『絶技とも呼べる馬術』であった。
幼き頃より母の背に負われ、馬の嘶きと共に育った彼は、鞍がなくとも馬と一体化して野野を駆け巡る。その風を切り裂くような神速の騎乗姿から、『速風』という名が与えられたのである。
父から受け継いだ明晰な頭脳と、母から受け継いだ圧倒的な野性。
日本国という巨大なシステムの恩恵を一身に受けて育った、まさに新時代を象徴する最高傑作であった。
その元服の儀を、上座から誰よりも目を細めて見守っている老人がいた。
大和国の精神的支柱であり、かつて列島を剣一つで平定して回った生ける伝説。
速風の祖父である、大和健・仲哀(ちゅうあい)。御年六十三歳である。
「おお……おお! 見ろ、我が孫のあの立派な姿を! まったく、広庭の奴には似ず、ワシの若い頃にそっくりではないか!」
大和健は、普段の威厳ある顔を完全に崩し、孫の晴れ姿に手放しで喜んでいた。
彼はこの速風を、幼い頃から目に入れても痛くないほどに溺愛していた。冷徹すぎて可愛げのない息子(広庭)とは違い、真っ直ぐに武を愛し、馬を駆る速風の姿が、大和健の武人の血を大いに刺激したからである。
だが、大和健の愛は、ただ甘やかすだけのものではない。
彼は孫の類稀なる武の才能を見抜くと、自ら木剣を握り、厳しい『剣術』の稽古を直接叩き込んだ。さらに、戦場における陣形の取り方、兵站の重要性、そして大将としての心構えといった『軍学』のすべてを、惜しみなく速風の脳髄に叩き込んでいたのである。
「武勇だけでは、中原の化物どもには通じぬ。だが、算段だけでも国は守れぬ。……速風よ、お前はワシの武と、お前の父の知の両方を束ねる強き鉾となれ」
大和健のその苛烈な英才教育に、速風は一度も音を上げることはなかった。彼は素直に祖父を尊敬し、泥に塗(まみ)れながらその武と学を己の血肉へと変えていったのである。
元服の儀が滞りなく終わると、速風の『最初の任地(所属部隊)』が正式に発表された。
安全な後方の近衛部隊でも、大内裏の事務方でもない。
日本国が世界に誇る最精鋭にして、最強の物理的破壊力。
『重装騎弓兵』の部隊への配属であった。
鋼の札甲を身に纏い、馬にも強固な装甲を施し、疾走する馬上から強力な複合弓を放つ。さらに近接戦闘においては、蝦夷の太刀を振るって敵陣を粉砕する、一騎当千の重装騎兵部隊である。
「親王殿下。我らが部隊へようこそおいでくださいました」
部隊の練兵場へと足を踏み入れた速風を出迎えたのは、顔に無数の傷を持つ歴戦の部隊長や、屈強な古参の騎兵たちであった。彼らの態度は恭しいが、その目には「皇族の坊ちゃんに、この過酷な騎兵の務めが果たせるのか?」という、武人特有の品定めをするような鋭い光が宿っていた。
だが、そんな彼らに対して、祖父である大和健から、事前に一つの強烈な『言明』が下されていた。
『――ワシの孫がそちらへ行く。武具を与え、馬を与えよ。だが、決して皇族としての特別扱いは無用である。しごき、叩き上げよ。遠慮はするな』
部隊長が、ニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべた。
「……とのことですが。殿下、我々のような荒くれ者は、手加減というものを存じ上げませぬ。もし馬上から振り落とされ、泥水を啜ることになっても、泣いて大内裏へ逃げ帰らないでくださいよ?」
歴戦の兵からの、明確な挑発。
だが、元服を終えたばかりの若き親王は、その言葉に怯むどころか、母譲りの野性味溢れる獰猛な笑みを口元に浮かべた。
「逃げ帰るものか。……俺の駆る風に、貴様らが振り落とされないよう、精々しっかりと手綱を握っておくことだな」
中原で権謀術数が激突するその裏側で。
極東の島国には、鉄と血と冷徹な算段のすべてを受け継いだ若き猛虎が、その真新しい牙を研ぎ澄まし、日本国の重装騎兵と共に、いよいよ歴史の表舞台へとその力強い第一歩を踏み出した。
―――
長江を遡上し、さらにその先の険しい山道を徒歩で進む。
劉備が率いる数万の荊州軍にとって、西の益州――いわゆる「蜀」の地へと至る道程は、想像を絶する過酷なものであった。
「……これが『蜀道は青天に上るよりも難し』と謳われる所以か」
切り立った断崖絶壁にへばりつくようにして造られた木造の桟道を歩きながら、兵たちは眼下の深い谷底を見て足を踏み外しかけた。
船での遡上に半月、さらに険しい山越えに半月。総じて一ヶ月を要するその道のりは、大軍の行軍そのものが一つの軍事作戦と言えるほどの難事業であった。
しかし、この長く苦しい旅路の最中。
劉備の陣営に付き従う三人の『規格外の頭脳』たちは、疲労に喘ぐ兵士たちとは全く異なる、それぞれ別の次元の思考を脳内で巡らせ続けていた。
一人は、臥龍こと諸葛亮。
彼は、崖の上から険しい山脈を見下ろし、この物理的な『壁』をいかにして取り払うかを考えていた。
(この交通の要衝を切り開き、安定した物資の輸送路を確保できねば、益州を完全な統治下に置くことはできない。……内政の根幹として、まずはどの山を崩し、どこに新たな道を通すべきか)
一人は、鳳雛こと龐統。
彼は、通過していく益州の関所や防衛設備を睨みつけ、極めて攻撃的な謀略を編み上げていた。
(関所の守りは堅いが、指揮系統に隙がある。この険しい蜀の地を『どうやって奪うか』。劉璋の首をどの段階で刎ね、どの城を急襲すれば、最も少ない出血でこの国を簒奪できるか)
そして最後の一人は算段官・比企景明。
彼は、一歩、また一歩と進む輜重隊の荷車の轍を見つめながら、他の二人とは全く逆の『統合』の算段を回していた。
(班竣との間で律令の同盟が成った時、この過酷な道をどうやって兵站の『大動脈』に作り変えるか。米一粒の輸送コストを計算し直し、関所の税を撤廃し、両州の血液を完全に循環させるには……)
内政の覇道、簒奪の謀略、そして法と兵站による統合。
全く違う三つの巨大な絵図面が、一ヶ月の過酷な道中の中で幾度も描かれては消え、また再構築されていったのである。
そして。
長きにわたる行軍の末、劉備の大軍勢は、ついに益州の首府である『成都』の平野へと辿り着いた。
「おお……これが、西蜀の都か」
険しい山脈を抜けた先に広がる、豊かで広大な盆地。荊州軍の兵士たちから、歓喜と安堵のどよめきが上がる。
成都の城内では、劉璋が百官を引き連れ、手厚い歓迎の準備を整えて待っていた。
だが、劉備は己の数万の軍勢を、そのまま成都の城下へと雪崩れ込ませるような愚行は犯さなかった。彼は諸葛亮と龐統の進言に従い、軍勢を幾つかの部隊に分割し、成都を取り囲む周辺の要衝(
「此度の大軍、一つの場所に留まれば益州の兵糧に多大な負担をおかけしてしまう。ゆえに、軍を分散させ、兵站上の負荷を減らすための配慮でございます。また、万が一曹操や異民族が動いた際の、即応体制を整えるためでもあります」
諸葛亮は、益州の迎えの使者に対して、涼しい顔でそう説明した。
表向きは、実に理にかなった『兵站上の理由』であり、同盟国に対する気遣いである。
だが、その実態は全く違う。
(……くくっ。これで、網は完全に張られた)
龐統は、扇で口元を隠しながら、腹の底で暗い嘲笑を漏らしていた。
軍の分散。それはすなわち『成都という心臓部を、物理的に全方位から包囲した』ということである。
もし交渉が決裂し、劉璋が敵対行動に出た瞬間、分散していた荊州軍が一斉に牙を剥き、成都を瞬時に地図から抹殺する。
これは諸葛亮と龐統が仕掛けた、逃げ場のない『軍事的恫喝』。
益州という国全体を、数万の刃で「人質」にとっているのと同じ、極めて冷酷な侵略の布陣であった。
「……完璧な布陣だな。あれでは、益州側は指一本動かせまい」
成都の郊外に設けられた自軍の陣所で、兵糧の最終確認を終えた比企景明は、周辺に散らばった味方の陣形を見渡し、感情のない声で呟いた。
諸葛亮と龐統の狙いなど、彼には百も承知であった。彼らは、圧倒的な武力を背景にして、劉璋から益州の統治権を「合法的に譲り受けた」という形の簒奪を狙っているのだ。
だが、景明は彼らのその強引なやり方を、声高に批判することはしなかった。
ここで学士たちを非難し、益州を庇うような真似をすれば、即座に「内通者」として自分自身が排除されるだけである。
景明は、極東の大和国で磨き上げた、己の根幹たる思考を貫いていた。
それは、相手の攻勢をあえてすべて受け入れ、盤面を支配されたように見せかけながら、水面下で強固な防衛陣を築き上げ、相手の力が最も伸びきったその瞬間に、カウンターの一撃で盤面を完全にひっくり返すという、徹底した『受け』の戦術である。
(……やらせておけばいい。孔明と龐統に、武力で盤面を包囲させたという『驕り』を与えておけ)
景明は、懐に忍ばせた一本の木簡――班竣と練り上げた『共同代表制』の最終法案の重みを、服の上からそっと確かめた。
相手が数万の刃で成都を人質に取ろうとも、関係ない。
この後行われる劉備と劉璋の歴史的会談の席で。景明と班竣が、この『法の網』を両君主の頭上から被せ、「同盟の証」として合意させてしまえば。
その瞬間から、荊州軍が益州へ刃を向けることは『国家の法への叛逆』となり、数万の大軍は一切の身動きが取れなくなる。武力という最強の矛を、法という最強の盾で完全に無力化できるのだ。
「……ここから先は、俺一人だ」
景明は、誰にも聞こえない声で呟き、静かに目を閉じた。
妻である飛将・呂綏は荊州に残してきた。屈強な新野騎兵たちも、この会議の場では役に立たない。
圧倒的な武力と権謀術数が支配する成都の宮廷へと、ただ『身一つ』で乗り込み、中原の天才軍師たちと正面から殴り合う。
極東の怪物は、いよいよ訪れる運命の決戦に向けて、その静かで冷酷な『反撃の牙』を、腹の底で深く、深く研ぎ澄ませていた。
―――
西蜀の首府・成都。
四方を険しい山々に囲まれながらも、その内部には広大で豊かな平野が広がり、中原の戦火を免れた数十万の民が平穏な暮らしを営む巨大な都市である。
その成都の城内を、宮廷へと向かって真っ直ぐに敷かれた大路を、一つの小規模な集団が進んでいた。
成都の郊外に数万の大軍を待機させ、選び抜かれたわずかな護衛と幕僚のみを引き連れて歩を進める、荊州(けいしゅう)の総大将・劉備の一行である。
「……随分と、見られているな」
列の中腹を歩く比企景明は、周囲から突き刺さる無数の視線に、微かに目を細めた。
大路の両脇には、中原の戦乱を生き抜いてきた「荊州の精鋭たち」を一目見ようと、成都の市井(しせい)の人々が溢れかえっていた。だが、その瞳に宿っているのは、英雄を称えるような熱狂ではない。
それは、長きにわたる平和を脅かしかねない異邦人に対する『奇異』と『警戒』の色**であった。
「……無理もない。彼らにとって我々は、血の匂いを纏ってやって来た不吉な武装集団に他ならないのだからな」
景明は、感情を殺した無表情のまま、油断なく周囲の空気を探っていた。
その警戒に満ちた民衆の眼差しを、全く別の角度から冷徹に値踏みしている者たちがいた。
諸葛亮と、龐統である。
(……豊かな都だ。民の顔には栄養が満ち、衣も擦り切れてはいない。これだけの人口と富を養う土壌……やはり、我が君の覇業の基盤とするには申し分のない土地)
諸葛亮は、白羽の扇で口元を覆いながら、沿道の民衆を俯瞰するように眺めていた。
(だが、兵としての覇気はない。温室で育った羊の群れだ。……我々が劉璋(りゅうしょう)を退け、武をもってこの成都を掌握した時。この市井の民のうち、果たして『どれだけが我が君に平伏し、下るか』)
龐統もまた、酷薄な笑みを隠しながら、群衆の数と反乱の可能性を脳内で高速で弾き出していた。
彼ら中原の天才学士にとって、民衆とは「統治されるべき数字」であり、権力者が誰になるかによってすげ替えられる盤面の駒に過ぎなかった。
しかし。
大和国という、ボトムアップでインフラと律令が構築されていく社会の理を知る景明の思考は、彼らとは根本的に異なっていた。
(……孔明。龐統。お前たちは、力で首魁をすげ替えれば国が手に入ると思っている。だが、それは間違いだ)
景明は、沿道の民の視線から、先頭を歩く『劉備』の広い背中へと視線を移した。
劉備が今、この警戒の眼差しを浴びながら何を考えているのか。大義への使命感か、それとも己の非情さへの葛藤か。景明には分からないし、興味もなかった。
(上に立つ者がどれほど崇高な理想を掲げようと、どれほど巧妙な謀略を張り巡らせようと。最後に田を耕し、税を納め、兵として血を流すのは、彼ら『市井の民』だ。……民の生活を豊かにする算段がない力だけの支配は、必ず内側から崩壊する)
英雄が未来を創るのではない。結局のところ、市井が未来を決めるのだ。
だからこそ景明は、諸葛亮の『武力による簒奪』を阻止し、班竣と共に『法による無血統合』をこの成都に根付かせねばならないと、己の覚悟をより一層硬い岩のように打ち固めていた。
やがて、大路の突き当たりに、堅牢な城壁に囲まれた益州の宮廷がその巨大な姿を現した。
「これより先は、帯剣と多人数での立ち入りを禁ずる! 護衛の数も最小限に留めよ!」
宮廷の巨大な門の前で、益州の近衛兵たちが鋭い声で劉備一行を制止した。
いくら同盟の使者とはいえ、一国の君主の喉元へ武装したまま通すわけにはいかない。劉備たちはここで厳重に身を改め、不要な武具をすべて預けることを要求された。
「構わん。我らは戦に来たのではない。劉琦様の使者として、友好的な対話のために来たのだ」
劉備は、腰の剣を自ら外し、益州の兵へと素直に差し出した。
それに倣い、諸葛亮たちも身を清め、景明もまた、懐に『律令の法案』だけを忍ばせたまま、丸腰となった。
選りすぐられた数名の屈強な護衛だけを引き連れ、一行は重々しい音を立てて開かれた宮廷の門を潜り抜けた。
(……ここから先は、謀略と論理の殴り合いだ。しくじれば、丸腰の俺たちはこの宮廷で真っ先に首を刎ねられる)
景明の背筋を、ヒヤリとした心地よい死の緊張感が駆け抜けた。
磨き上げられた大理石の床。見上げるほど高い天井と、見事な彫刻が施された柱。
案内された宮廷の最深部――『玉の間』は、益州の富と歴史を象徴するような荘厳な空間であった。
その正面、一段高くなった玉座には。
温厚な顔立ちに極度の緊張を滲ませた益州牧・劉璋が座し、その傍らには、誠実な瞳で劉備たちを見据える若き次男・劉闡、そして、誰よりも冷たい細目を光らせる無位の宰相・班竣が控えていた。
「…………」
静寂が、空間を支配する。
益州の百官たちが息を呑んで見守る中、劉備は護衛たちを下がらせ、諸葛亮、龐統、景明の三人の幕僚だけを従えて、玉座の御前へと進み出た。
そして、劉備は。
天下の英雄としての威圧感を微塵も出さず、あくまで『荊州の客将』としての立場を崩すことなく、玉座の劉璋に向かって、深く、恭しく拝礼の姿勢をとった。
「益州牧・劉璋殿。此度は我が軍勢の急な来訪、
劉備は、ゆっくりと顔を上げると、その手元に恭しく掲げ持っていた『一つの竹簡』を、両手で高々と掲げてみせた。
「私は此度、我が主君である荊州牧・劉琦様からの『直筆の書状』を携え、劉璋殿との間に強固なる盟約を結ぶべく、この成都へと参りました」
劉琦からの書状。
それこそが、劉備たちがこの軍事行軍を「合法的な同盟の使節」と言い張るための、最大にして最強の『大義名分』であった。
様々な者たちの殺気と野心、そして覚悟が火花を散らす、運命の会談が。
この重く閉ざされた成都の玉の間において、ついにその幕を開けたのである。
―――
玉座に座す益州牧・劉璋は、劉備から恭しく差し出された『劉琦の書状』を受け取ると、ゆっくりと紐を解き、その文面に目を通した。
書状には、曹操の脅威に対抗するため、同宗である両者が手を取り合い、荊州と益州を一つの強固な同盟として結びつけるべし、という劉琦の切実な願い(諸葛亮が代筆した完璧な名文)が綴られていた。
だが、劉璋はその書状を通し、文面の裏側に透けて見える「劉備軍の数万の刃」という強烈な圧力をしっかりと受け止めていた。
「……劉琦殿の熱き思い、確かに受け取った。だが、両州の未来を決める重大な事儀である。私の一存で即座に返答を返すことは控えさせていただきたい」
劉璋は、静かに書状を巻くと、劉備たちに向かって温厚な、しかし決して隙を見せない態度で労いの言葉をかけた。
「長きにわたる蜀道の旅、さぞや疲労が溜まっておいでだろう。まずは我が客将として、用意した館でゆっくりと身体を休められよ。……具体的な盟約の話し合いは、後日、改めて場を設けさせていただく」
「御意にございます。我ら、良いお返事を心待ちにしております」
劉備は深く頭を下げ、諸葛亮、龐統、そして比企景明(ひきけいめい)らを引き連れて、恭しく玉の間を後にした。
益州側は、初手での即答を避け、時間稼ぎによる陣形の立て直しを図ったのである。
「……劉璋殿。温厚な羊という評判でしたが、存外に腹が据わっておいででしたな」
宮廷の回廊を歩きながら、龐統が扇で口元を隠して低い声で笑った。
「ええ。ですが、気になったのは劉璋殿ではありません」
諸葛亮は、冷ややかな視線を前方に向けたまま、ピタリと言い当てた。
「あの玉の間に、『班竣』という男の姿がなかったことです」
荊州の天才学士たちは、事前の間諜の報告により、「現在の益州の内政を裏で牛耳り、豊かな国力を築き上げている『班竣』という恐るべき事務官がいる」という情報を掴んでいた。
当然、これほどの歴史的な会談の場において、劉璋の傍らにその知恵袋が控えているものと予測していたのだ。
だが、実際に玉の間に並んでいたのは、見栄を張った古参の豪族や、名ばかりの重臣たちだけであった。班竣という男は、一般の官吏に過ぎず、上級な役職を賜っていないが故に、あの公式な謁見の場に同席することすら叶わなかったのである。
「表の権力に座らず、裏から君主を操り、国の算段を回す男。……侮れませんね。自尊心で動く豪族などより、よほど厄介な相手だ」
諸葛亮は、その『不在』こそが、班竣という男の不気味さと底知れなさを物語っていると直感した。
「奴が姿を現すとすれば、間違いなく我々と刃を交える『本交渉の席』でしょう。……それと」
龐統が、視線だけをチラリと後方――列の最後尾を歩く比企景明へと向けた。
「我らが陣営の、獅子身中の虫。あの男が益州の懐でどう動くか……。奴から絶対に目を離すなよ、孔明」
「分かっています。景明殿が少しでも不穏な動きを見せれば、その瞬間に切り捨てます」
天才たちの極限の警戒と殺気が、声なき音となって景明の背中に突き刺さる。
だが、景明は表情一つ変えることなく、ただ淡々と、己の『法戦』の舞台が整うのを待ち続けていた。
劉備の一行が完全に宮廷から退出した直後。
玉の間に残された劉璋は、周囲に控える重臣や文官たちを一瞥すると、傍らの近衛兵に短く命じた。
「……班竣を呼べ。大至急、この場へ」
その一言に、玉の間の空気が微かに揺らいだ。
正式な官位を持たない、ただの算段の徒。しかし、この蜀の地を誰よりも豊かにし、税収の設計図を完璧に創り上げた男。
その男を、劉備たちが去った直後のこの最も重要なタイミングで呼び寄せたということは。
(……劉璋様は、あの劉備との交渉を、我ら豪族ではなく、あのよそ者に任せるおつもりか)
(忌々しいが、中原の化物どもを相手に舌戦を繰り広げられるのは、あの男の頭脳しかあるまい……)
居並ぶ諸官たちは、己の無力さを噛み締めながら、不満と、それ以上の『頼らざるを得ない』という冷厳な目算をもって、その男の到着を待った。
やがて。
重い扉が開き、地味な官服に身を包んだ細目の男が、静かな足取りで玉の間へと姿を現した。
班竣である。
「お呼ばれにございますか、劉璋様」
班竣は、周囲の豪族たちの冷たい視線を完全に無視し、玉座の前に進み出て平伏した。
「うむ。班竣よ、よく来てくれた」
劉璋は、玉座から立ち上がり、班竣の眼前まで歩み寄った。
班竣は、これまで再三にわたって「自分はよそ者だから高位は要らない」「目立つ役職に就けば政敵が増える」と、劉璋からの抜擢を固辞し続けてきた。劉璋もその意を汲み、彼を裏方として重用してきた。
しかし、劉備軍という巨大な脅威が喉元にまで迫り、国を懸けた算段の総仕上げを行わねばならない今。
彼を「無位の宰相(肩書きのない裏方)」のままにしておくことは、対外的な交渉において致命的な弱点となる。
劉璋は、周囲の諸官に『一言一句、はっきりと聞き取れるような大きな声』で。
そして、班竣に『絶対に断る隙を与えない』ための、断固たる決意をもって、言葉を放った。
「班竣。私は今、お前を『兼
その言葉に、玉の間にどよめきが走った。
大鴻臚。それは、大漢帝国の
「りゅ、劉璋様! それは……!」
さすがの班竣も、その突然の名代としての全権委任に目を見開き、慌てて言葉を返そうとした。
だが、劉璋は班竣の肩を強く掴み、その言葉を遮った。
「断ることは許さん。お前がこの国の裏側で、どれほど民のために算段を回し、誰にも知られぬ泥を被ってきたか。私はすべて知っている。……だが、今日ばかりは表舞台に立ち、お前のその頭脳で、益州の未来を堂々と切り開いてくれ!」
それは、仁君・劉璋が、愛する臣下に対して下した、退路を断つ『最高の君命』であった。
班竣は、劉璋のその震える手と、覚悟に満ちた瞳を見つめ返し……やがて、己の細い目を静かに伏せた。
「……御意。この班竣、身命を賭して『大鴻臚』の責務を全うし、劉備殿の使節団と相対してご覧に入れます」
長きにわたって被り続けてきた「無位」の仮面を脱ぎ捨て、中原の天才たちを迎え撃つべく、その静かなる闘志を燃え上がらせたのである。
「……私は、決して天才などではない」
大鴻臚という重き官位を賜り、退出した班竣は、己の執務室で身支度を整えながら、独り言のように呟いた。
彼の兄である班稀は、極東の算段のすべてを脳内に収め、中原の覇王・曹操すらも手玉に取った本物の怪物であった。その圧倒的な頭脳ゆえに、兄は周囲から『唯才』と呼ばれ、恐れられていた。
班竣はかつて、その兄の底知れぬ才能に激しい嫉妬を抱き、己の凡庸さに苦しんだ過去がある。
だが、兄が死に、益州という巨大な国の帳尻を任されるようになって、彼は一つの真理に辿り着いた。
『天才とは、孤独に盤面を支配する者。しかし、凡庸なる秀才は、人の知恵を束ねて盤面を覆すことができる』と。
「諸葛亮や龐統といった中原の天才どもを相手に、私一人の頭脳で舌戦を挑むなど、傲慢の極み。……ならば、益州の叡智を総動員して当たるまでだ」
班竣は、己の限界を極めて冷静に自覚していた。だからこそ彼は、「他者を頼る」という手段を全く躊躇なく選択できた。
彼は即座に動いた。長年共に汗水流して益州の税収を支えてきた優秀な実務の同僚たち、法制に明るい文官、さらには豪族の中でも特に弁の立つ上司や重臣たちから、選りすぐりの数名を『対劉備軍・特別交渉団』として抜擢し、己の背後にズラリと並べたのである。
一人の圧倒的な天才に対し、強固な組織力と専門知識で対抗する。
それこそが、秀才・班竣が編み出した、最も冷徹で確実な防衛陣であった。
―――
成都の宮廷に設けられた、円卓のごとき広大な交渉の場において。
荊州と益州の両陣営が、ついに真正面からその刃を交える時が来た。
荊州側の席には、主君・劉琦の全権名代たる劉備が中央に座し、その左右を諸葛亮と龐統という二頭の龍と鳳凰が固めている。そして末席には、比企景明が感情の読めない顔で控えている。
対する益州側の席。
劉璋は奥の御簾の裏に控え、全権大鴻臚として中央に座したのは、班竣であった。その背後には、彼が抜擢した益州の優秀な文官たちが、分厚い木簡の束を抱えて壁のように立ち並んでいる。
「大鴻臚・班竣殿とお見受けする。お噂はかねがね」
諸葛亮が、白羽の扇を揺らしながら、涼やかな声で先制の挨拶を放った。
「お初にお目にかかる、諸葛亮殿。貴方のような天下の奇才とお話しできること、益州の田舎役人としては身に余る光栄に存じます」
班竣もまた、細い目をさらに細め、
極めて礼儀正しい応酬。しかし、その声の裏側では、すでに目に見えない殺気が激しく火花を散らしていた。
「さて。劉琦殿からの『両州の同盟』の願書。我が君・劉璋様も、そのお言葉を受け入れることに吝(やぶさ)かではございません」
班竣が、単刀直入に本題を切り出した。
「おぉ、それは重畳! では、早速……」
「しかし、条件がございます」
身を乗り出そうとした劉備の言葉を、班竣がピシャリと遮った。
「同盟を結ぶにあたり、最も重要なのは両者の『格付け』でございます。劉璋様と劉琦殿は、共に大漢帝国に連なる同宗の血筋。しかし、年齢と治世の長さにおいて、我が君・劉璋様が劉琦殿よりも遥かに『年長』かつ『格上』であらせられることは、天下の誰もが認める事実」
班竣は、バンッと卓を叩き、強気の要求を突きつけた。
「故に、同盟の盟主はあくまで『益州牧・劉璋様』とし、荊州牧・劉琦殿はその『臣下』として傘下に入っていただく。……これが、我らが同盟を結ぶための第一条件にございます!」
これには、劉備はおろか、控えていた益州の文官たちすらも内心で驚愕した。
喉元に数万の刃を突きつけられている状態でありながら、班竣は「劉璋を上位にする」という、極めて強気で一方的な要求をふっかけてきたのである。
だが、末席で黙って聞いていた景明だけは、その要求の『真意』を正確に理解し、心の中でニヤリと笑った。
(……見事だ、班竣。初手でわざと無理難題を叩きつけ、相手の譲歩を引き出すための『高さ』を設定したな)
班竣の本当の狙いは、劉璋を上位にすることではない。景明と共に練り上げた『両君主を完全な対等とする律令制』へと着地させることだ。
だが、最初から「対等にしよう」と言えば、強気な荊州側は「我々を上にしろ」と押し込んでくる。だからこそ、班竣はあえて「益州を上にしろ」と激しくふっかけることで、交渉のスタート地点を強引に自分たちの方へと引き寄せたのである。
「……ふふっ。大鴻臚殿は、随分と気の利いた冗談を仰る」
その班竣の強烈なふっかけに対し。
諸葛亮は、羽扇の動きをピタリと止め、その涼やかな瞳にゾッとするような冷気を宿して反発した。
「年齢が上であれば格上であるなど、戦国の世において通用する道理ではございません。……劉琦様は、赤壁において天下の逆臣・曹操の十五万を打ち破り、漢室の正統なる守護者としての『大義』を天下に示された御方。その武勲と大義名分において、戦火から逃れて山奥に籠もっていた劉璋殿が、どうして劉琦様の上に立てるとお思いか」
諸葛亮の反撃は、極めて論理的かつ苛烈であった。
彼は言葉の端々に、荊州軍が赤壁で示した『圧倒的な軍事力』というカードを明確にちらつかせていた。
「それに、我が君が率いる数万の精鋭は、現在成都の周辺にて『休息』をとっております。彼らは曹操軍を打ち破った熱気を未だ冷ましておらず、もし劉琦様が理不尽な扱いを受けたと知れば……どのような行動に出るか、私にも抑えきれぬやもしれませんな」
同盟の席における、堂々たる軍事的恫喝。
「劉琦を下に置くというなら、成都を囲んでいる数万の兵が黙っていないぞ」という、諸葛亮の静かで残酷な脅迫であった。
「……ッ」
班竣の背後に立つ益州の文官たちが、そのあからさまな武力の圧力に息を呑み、額に冷や汗を浮かべる。
武力を背景に「荊州を上にしろ」と迫る諸葛亮。
年齢と地の利を盾に「益州を上にしろ」とふっかける班竣。
互いに一歩も譲らぬ格付けの応酬。
だが、この緊迫した探り合いこそが、第三の道――『完全なる対等』という極東の算段を盤面に叩きつけるための、最も理想的で、最も不可欠な『儀式』であった。
両陣営の思惑が激突し、火花を散らす交渉の席。
極東の怪物は、未だ懐に木簡を忍ばせたまま、諸葛亮と班竣の舌戦が極限の沸点に達する『その一瞬』を、息を潜めて待ち続けていた。