西蜀において、比企景明と班竣が仕掛けた『二頭一首魁』による歴史的な同盟成立の報せは。
幾頭もの早馬を乗り継ぎ、またたく間に長江を下って、劉備の留守を預かる荊州の首府・江陵へと届けられた。
「おお……! 兄者たち、見事に益州との同盟を成し遂げられたか!」
軍議の間で報告の木簡を読み上げた関羽は、立派な髭を撫で上げ、腹の底から響くような歓喜の声を上げた。
その傍らに控える徐庶と崔州平の二人の天才軍師も、安堵と感嘆の息を漏らす。
「血を流さずに両州の軍事と兵站を統合するとは。……我が君と、あの景明殿の算段、見事と言う他ありませ」
「これで、我が荊州の『後顧の憂い』は完全に絶たれました。いよいよ、前だけを向いて戦うことができますな」
背後となる西の国境が絶対の安全圏となり、さらには益州の豊かな物資と兵力が劉備の指揮下に入った。
この事実上の「超巨大陣営の誕生」を受け、江陵の劉備陣営は直ちに苛烈な外交戦へと打って出た。
すなわち、中原の覇王・曹操に対する『正式な対立(宣戦布告)』の天下への発布である。
「曹操は漢室を牛耳る逆臣であり、我ら劉琦と劉璋を頂く両州の同盟軍こそが、天子の御心に応える正統なる官軍である」という大義名分を、中華全土に向けて高らかに宣言したのであった。
―――
劉備陣営からの痛烈な布告。
この巨大な地殻変動に対し、最も敏感に、そして複雑な反応を示したのは、東の江東に座す孫呉の陣営――大都督・周瑜であった。
「……やりおった。諸葛亮め、あの険しい益州をたった一月で完全に丸め込みおったか!」
建業の宮廷。
周瑜は、手元の報告書を強く握りしめ、美しき顔に隠しきれない『焦り』を浮かべていた。
彼が荊州の裏で仕掛けた離間の計は、徐庶と法正の完璧な防衛網によってすでに無力化されている。その上、劉備が益州という巨大な後ろ盾を完全に手に入れたとなれば、孫呉が荊州を奪い取る隙など、もはや針の穴ほども残されていない。
「大都督。いかがなさいますか。劉備の勢力がこれ以上拡大するのは……」
「分かっている。……だが、今彼らと敵対するのは下策の極みだ」
周瑜は、苛立ちを深呼吸で腹の底へと押し込み、冷徹な理性を叩き起こした。
「直ちに、劉備殿と劉璋殿の下へ、同盟成立を歓迎し、祝賀する旨の使者を送れ。我ら孫呉もまた、曹操を討つための同志であると、天下に広く喧伝するのだ」
表向きは満面の笑みで拍手を送り、反曹操の連帯をアピールする。
だが、周瑜の頭脳はすでに次なる生存戦略へと切り替わっていた。
「……劉備陣営の巨大化は早すぎる。我々も、曹操への牽制は程々に留め、一刻も早く三呉周辺の内政を終わらせねばならん。急ぎ、南部の未開地へ軍を進め、影響力を拡大するのだ!」
北を睨む曹操、西を飲み込んだ劉備。
天下の覇権争いから置いていかれることへの強烈な焦燥感が、美周郎の『南下政策』へと猛烈な拍車をかけていくのであった。
そして。
劉備陣営からの堂々たる宣戦布告を叩きつけられた中原の許昌では、大漢帝国を牛耳る覇王が、激しい怒りの炎を燃え上がらせていた。
「……おのれ劉備! 耳のデカい田舎者が、思い上がりおって!!」
ガシャンッ!
曹操は、執務室の机の上の竹簡や硯を、力任せに床へと払い落とした。
持病の頭痛が、怒りでドクン、ドクンと激しく脈打ち、視界が赤く染まる。
「皇帝陛下の御威光を借り、この私を逆臣と呼ぶか! 益州の山猿と、荊州の病狐が手を結んだところで、所詮は烏合の衆! ……ええい、あの忌々しい『益荊』の賊軍どもめ!!」
曹操は、新たに誕生した同盟勢力を、激しい憎悪と侮蔑を込めて『益荊』と呼んで罵った。
だが、どれほど怒りを爆発させようとも、曹操はすぐに軍を南下させることができない。
あの班稀が処刑されて以来、曹操軍の兵站は致命的な目詰まりを起こしており、数十万の大軍を動かして長江や蜀道へ送り込むだけの『算段』が組めないからだ。
自軍の機能不全と、敵の急激な巨大化。その板挟みのストレスが、曹操の精神と肉体を限界まで削り取っていた。
「……父上。どうか、お怒りをお鎮めください。御身体の毒にございます」
荒れ狂う執務室の中。
床に散乱した竹簡を、静かに、そして極めて冷静な手つきで拾い集める一人の若者がいた。
曹操の次男であり、政務を代行し始めている曹丕である。
「丕か……! 見たか、あの劉備どものふざけた布告を! 今すぐ十万の兵を動かせ! 奴らを長江の藻屑にしてくれる!」
頭を抱えながら怒鳴る父に対し。
曹丕は、一切の感情を交えない、氷のように冷たい声で返答した。
「不可能です。現在の我が軍の兵站状況では、南方の防衛線を維持するのが精一杯。ここで無謀な外征を行えば、北方の烏桓や西涼の馬超に背後を突かれます。……今は、怒りに身を任せる時ではありません」
曹丕の言葉は、かつての覇王・曹操であれば自ら瞬時に弾き出していたであろう『冷酷な事実』であった。
「……ッ、貴様、この私に意見する気か!」
「事実を申し上げているまでです。……兵站の再構築と、南方の防衛線の強化は、私が手配いたします。父上は華佗の薬をお飲みになり、どうかお休みください」
曹丕は、怒りに震える父に深く頭を下げると、拾い集めた書類の束を抱え、静かに執務室を後にした。
その冷静沈着にして、実務を的確に回す若き才の姿を。
回廊に控えていた荀彧をはじめとする曹操軍の文官や重臣たちは、畏敬と一抹の恐れをもって見つめていた。
(……丞相の御怒りを正面から受け止め、あれほど見事に政務を回されるとは。もはや、曹丕様の御実力は疑いようもない)
感情を制御できなくなりつつある強大なる『炎の覇王』と。
その背後で、確実に国政の実権を掌握していく『氷の冷刃』。
西暦二百九年。
益州と荊州の同盟という巨大な地殻変動を契機として。中原の曹操陣営の内側でもまた、静かに、しかし決定的な『次代の実力者への世代交代』の頭角が、天下の歴史に向かってその鋭い切っ先を露わにし始めていたのである。
―――
西蜀における荊州との歴史的な同盟成立。
その巨大な地殻変動の余波は、中原を揺るがせただけでなく、東シナ海の荒波を越え、商人や海賊に身をやつした『間者』たちの手によって、いち早く極東の日本国へと届けられていた。
「……見事。孔明と龐統の武力簒奪を完全に封じ込め、あの益州を無血で劉備の手に落とすとは」
長岡京の大内裏。
もたらされた詳細な報告書を読み終えた右大臣・広庭は、珍しくその冷徹な顔に、深い感嘆と喜びの入り混じった笑みを浮かべた。
日本国からすれば、この『益荊同盟』の成立は、まさに「願ったり叶ったり」の最高の結果であった。
もし劉備軍が益州を力で奪い、内部崩壊を起こしていれば、曹操が容易く南下して中華を統一してしまう。逆に劉備が曹操を滅ぼしてしまえば、巨大化した中華帝国が再び海を越えて東へ牙を剥く可能性がある。
しかし、強固な法によって結びついた益荊同盟が誕生したことで、北の曹操、西の劉備、東の孫権という三つの勢力が、互いに完全に牽制し合う『三国鼎立』の盤面が事実上完成したのである。
「これで、中原は向こう数十年間、泥沼の勢力均衡から抜け出せまい。……我々には、莫大な『時間』が手に入ったということだ」
広庭の言葉に、御簾の奥に座す天皇・和那比売も、静かに頷いた。
「ええ。この数十年の間に、大和国をさらに富ませ、強固な兵を育て上げるのです。中原の覇者が誰になろうとも、我が国の勢力圏を侵そうなどという気を微塵も起こさせないほどの……圧倒的な国力を持つ、強き島国へと」
しかし、広庭の頭脳には、この完璧な算段を中原で組み上げた『一人の男』に対する、極めて巨大な疑問符が浮かび上がったままであった。
「……それにしても。この『二頭一首魁』という日本国に極めて近い律令の概念を、あの野蛮な中原の地で完璧に組み上げた男……比企景明か…」
広庭は、報告書に記されたその名を指の腹でなぞった。
彼ら大和国の首脳部は、間諜からの情報や、これまでの彼の規格外の行動から、「比企景明という男が、決して漢の人間ではない」ことだけは、すでに完全に察知していた。
だが、『どこの誰で、何故日本っぽい名前の男なのか』ということは、全く把握できていなかった。
(かつて大陸へ渡った
広庭の持つ情報網をもってしても、景明の素性は完全に分厚いベールに包まれていた。
だが、広庭はそれ以上、彼の正体を無理に暴こうとはしなかった。
「……どこの誰であろうと構わん。彼が意図しているにせよ、していないにせよ。結果としてあの男の算段は、我が日本国を守るための最強の防波堤を大陸に築き上げてくれたのだからな」
広庭は、遥か西の空――名も知らぬ極東の同胞がいるであろう方角に向けて、静かな畏敬の念を込めて杯を掲げた。
「広庭。お前も、あの見知らぬ算段官に、少しだけ羨望を覚えているのではないですか?」
和那比売が、優しく、しかしどこか寂しげな声で問いかけた。
「……否定はいたしません。我が肉体も、少しずつ老いを感じるようになりましたからな」
彼らもまた、確実に歳を重ねていた。あと数年、長くとも十年以内には、確実に国の実権を次の世代へと譲り渡さねばならない時期が来ている。
「我々が創り上げたこの国の形も、現状維持のままではいずれ腐敗します。次の世代の若者たちが、中原の脅威を完全に跳ね返せる『新しい国の形』を築き上げなければならない」
和那比売と広庭は、静かに、しかし確かな決意をもって、己の権力を手放し、次代の若者たちへ国を託すための『世代交代への助走』を始めていた。
そして、その大人たちの期待を一身に背負い、すでに大内裏の奥深くで猛烈な勢いで動き始めている若者たちがいた。
次代の天皇となるべき皇太子・稚足彦親王。
そして、その実弟であり、広庭の薫陶を直接受けて次期右大臣となることが運命づけられている若き俊英・久仁彦である。
「……兄上。中原からの報告書、読みましたか。あの『益荊』の同盟、法で君主を二つに分けるなど、我々の律令にもない極めて高度な法的拘束です」
久仁彦は、興奮冷めやらぬ様子で、兄である稚足彦の執務室へと駆け込んでいた。
「ああ、読んだよ。君主の権威と実務の完全分離……。中原の戦乱という極限状態が生み出した、奇跡のような法制だ」
稚足彦もまた、目を輝かせて分厚い木簡の束を広げていた。
彼らの周囲には、大和国が誇る『若きエリート官僚たち』がズラリと顔を揃え、中原の法制や税収システムを徹底的に分析し、議論を戦わせていた。
彼ら次世代の目標は、すでに一つに定まっている。
「叔母上が即位されてから、まもなく三十年が経つ。……我々は、即位後十五年の節目に発布するための『改定憲法』を、今から描き始めなければならない」
稚足彦が、力強く宣言した。
「現在の我が国の法制は、まだ建国期の『応急処置』の色が濃い。これからの数十年、富国強兵を成し遂げ、中原のどの国よりも豊かで強固な社会システムを創り上げるためには、国全体の動きを俯瞰し、より精緻で、より民に寄り添った『完璧な憲法』が必要です」
久仁彦が、兄の言葉を補足し、若き官僚たちを鼓舞する。
西暦二百九年。
中原で三つの巨大な陣営が血で血を洗う覇権争いと政治劇に明け暮れているその裏で。
極東の島国では、戦乱の火の粉を完璧に弾き返すための、若き才能たちによる『新たなる法治国家の設計図』の執筆が、熱狂と希望の中で、力強くその筆を下ろされようとしていたのである。
―――
長岡京の大内裏において、右大臣・広庭や天皇・和那比売が、中原に現れた「比企景明」という謎の算段官の素性について首を捻っていた頃。
その中原からの報告書に記された『比企景明』という名を聞いて、ただ一人、心の奥底で雷に打たれたような衝撃と、奇妙な納得感を覚えていた男がいた。
前王にして、生ける伝説。六十三歳となる大英雄・大和健である。
(……比企、景明。ヒキ、ケイメイ……ヒオキ、か)
大和健は、報告書を読み上げる孫の速風の声を遠くに聞きながら、目を閉じ、遥か昔の記憶を呼び起こしていた。
広庭や和那比売は知らない。だが、大和健には直感として分かったのである。
和那比売が天皇として即位して間もない頃。大和国の激動と重圧から逃げ出した、一人の『馬鹿な末の弟』の姿を。
名を、日置王。
月が青白く照らす夜。大和健は、国を捨てて逃げ出そうとしたその弟を斬り捨てることもできたはずだった。だが、彼はその時、どうしても弟を殺すことができず、命を助け、どこへなりとも行けと見逃したのである。
『……あの大馬鹿者が。中原へ渡り、化け物どもの中で国を動かす算段を回しているというのか』
確たる証拠など何一つない。
だが、幾多の死線を潜り抜けてきた大和健の『神秘的な直感』が、それが血を分けた弟であると告げていた。
生き延び、遥か西の果てで己の生きる道を見つけ、天下の歴史を捻じ曲げるまでの怪物へと成長した弟。その仄(ほのか)な気配を海越しに感じ取った老英雄の口元に、深い、深い会心の笑みが漏れた。
大和健が目を開けると、そこには、次なる時代を創り上げようと熱を帯びる若者たちの姿があった。
大和国において、『憲法』とは不変のものではない。天皇が即位して十五年の節目ごとに、時代に合わせて改定されるという明確な定めがあった。
和那天皇の憲法はすでに発布され、国を強固に支えている。
そして今、皇太子である稚足彦と次期右大臣の久仁彦たちは、いずれ訪れる己の治世(次の十五年の節目)に向けて、中原の法制すらも取り入れた『次代の改定憲法』を、今から猛烈な勢いで編纂し始めていた。
(……もう、ワシがこの都に留まり、睨みを利かせる必要はないな)
大和健は、頼もしく成長した孫たちや、国を完全に盤石なものとした娘と息子の背中を見て、確かな安堵を覚えた。
大和国は、もう大丈夫だ。己が血塗られた剣を振るって守らなくとも、彼らの創る『法』が、この国を永遠に護り抜いていくだろう。
その日の夕刻。
大和健は、普段着のまま、ふらりと和那比売と広庭の執務室へと姿を現した。
「父上? いかがなさいましたか、そのような身軽な格好で」
広庭が、不思議そうに顔を上げる。
大和健は、天下を平定した伝説の覇王とは思えないほど、極めて穏やかな、まるで近所の庭へ梅の花でも見に行くような気軽さで、二人に言った。
「うむ。……『少し散歩をして来る』」
和那比売と広庭は、その言葉に深い意味があるとは微塵も思わず、「お気をつけて」と微笑んで見送った。
だが。
それが、長岡の都における、大和健の最後の姿となった。
六十三歳の巨大な老英雄は、その言葉を最後に、愛用の剣一本だけを携え、大内裏から忽然と姿を消したのである。
『少しの散歩』
大和健にとってのそれは、常人の歩幅とは次元が違った。
彼は、かつての『征東』の記憶をなぞるように、ただ一人、北へ北へと歩みを進めた。
都の喧騒を離れ、陸奥の深い森を抜け、津軽の荒れ狂う海を小舟で渡る。
彼が目指したのは、大和国の支配がまだ及んでいない未踏の極寒の地。蝦夷のさらに奥に広がる広大な大地――『渡島』であった。
中原で、逃がした弟が己の命を燃やして巨大な算段を回しているように。
大和健もまた、死の床で老いさらばえることなど望まなかった。彼は、自らの内に滾る武人の血が完全に冷え切る前に、まだ見ぬ最後の闘争の地を求めて、果てしない北の大地へと足を踏み入れたのである。
――それから数年後。
日本国から渡島へと渡った開拓民や交易商たちの間で、奇妙で恐ろしい、しかしどこか胸を熱くさせる一つの『伝説』が囁かれるようになる。
渡島の各地に点在する、深くえぐられた巨大な爪痕が残る岩山。
そして、その地を治めるアイヌの伝承に語り継がれる、
『巨大な熊の神と、それと素手で殴り合い、大笑いしながら戦い続けたという、山のように巨大な人間の男の物語』を。
極東の島国の歴史を形作った最大の巨星は、その晩年において一切の権力を捨て去り、ただ一人の武人として、白銀に染まる北の大地で真の『神話』へと昇華していった…。
―――
極東の島国で若き才能たちが次代の法典を編み、中原で三つの巨大な国家が睨み合いを続けていた頃。
地球を大凡半周ほど西へと向かった先――地中海世界を支配する超大国、ローマ帝国の東方拠点の一つである小アジアの都市『ニコメディア』において。
古くからこの地で交易を営んできた一つの由緒ある商家が、今まさに存亡の危機に瀕していた。
事の発端は、数十年前にローマ帝国全土を無慈悲に蹂躙した『アントニヌスの疫病(天然痘などの大規模感染症)』であった。
数百万とも言われる市民や兵士が命を落とし、帝国の人口は激減。税収の減少と労働力不足は、かつて「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と謳われた帝国の屋台骨に決定的なヒビを入れたのである。
さらに近年、北方のゲルマン人や東方のパルティア(あるいはササン朝)といった外敵の脅威が増す中、帝国は対外的な防衛網を維持するため、極端な統制経済へと舵(かじ)を切り始めていた。
軍需物資の強制買い上げ、法外な特別税、そして一部の商業の国有化(国家による統制)である。
「……また、総督府から臨時の徴税の知らせか。このままでは、我が家は破産し、元老院階級の国営商人にすべてを呑み込まれてしまう」
商家の跡継ぎである若き青年・マルコスは、薄暗い帳場で羊皮紙の帳簿を睨みつけながら、深いため息を吐いた。
かつて海を渡って自由な交易で富を築いた彼の家系も、今や国家の重税と特権商人の圧力という巨大な波に溺れまいと、必死に足掻くことしかできない泥沼の状況に陥っていたのである。
その日の午後。
マルコスは、没落の危機にある家の資金を少しでも増やすため、ニコメディアの港に立ち寄った東方交易のキャラバン(中継商人)と交渉を行っていた。
香辛料、絹、ガラス細工。
見慣れた品々が並ぶ中、アラビア海からペルシャ湾を抜けてやって来たという浅黒い肌の中継商人が、勿体ぶるように一つの小さな木箱を開けた。
「……ローマの若旦那。今日は特別だ。
商人が布をめくった瞬間。
マルコスの目は、そこに鎮座する一粒の宝石に、完全に釘付けにされた。
「……なんだ、これは。真珠、なのか……?」
それは、確かに真珠であった。
ローマにおいて『
しかし、目の前の箱に収められたその真珠は、マルコスの知るいかなる真珠とも違っていた。
大きさこそインド洋産に一歩譲るものの、その表面には、薄い赤色(ピンク色)を帯びた、吸い込まれるような虹色の干渉色(光沢)が浮かび上がっていたのである。
極東の冷たく澄んだ海でしか育たない、神秘的なオーロラのような輝き(あこや真珠などの特有のテリ)であった。
「……美しい」
マルコスは、商人のとしての打算すら忘れ、ただその薄紅の真珠が放つ異次元の美しさに息を呑んだ。
「驚かれたでしょう、若旦那。ローマの貴婦人たちが首から下げているインド産の真珠が、ただの石ころに見えるほどの輝きだ」
中継商人は、誇らしげに髭を撫でた。
「……これを、どこで手に入れた。絹の国(中国)の品か?」
マルコスは、震える手で真珠の入った箱を指差した。
「いや、違う。絹の国の港で、さらに東から来たという奇妙な船乗りから買い取ったのだ。……彼ら曰く、この真珠は、大地の東の果て、海から太陽が昇るという絶海の島国からやって来たらしい」
商人は、声を潜め、まるで神話の国を語るようにその名を口にした。
「その東方の果ての国の名は、『
Iamato,ヤマド
ローマ帝国の地理学において、東の果てはセリカであると認識されている。そのさらに東、地図にすら載っていない海の向こうに存在する国。
「……ヤマドの、薄紅の真珠……」
マルコスの商魂に、猛烈な火が点いた。
この真珠の価値は、計り知れない。もしこれをローマの元老院の貴族や、皇帝の妃に献上すれば、どれほどの値がつくか。
確実に言えるのは、この一粒、いや、この一握りの真珠があれば、首が回らなくなっている自分の商家を完全に建て直し、さらには莫大なお釣りが来るということである。
「若旦那。この真珠、金貨五百枚でどうだ?」
中継商人が、ニヤリと笑って吹っかけてきた。
マルコスは、即座に懐から財布を取り出し、手付金を叩きつけた。
「買う。家の蔵にある品をすべて売り払ってでも、残りの金は用意する」
だが、マルコスの思考は、目の前の真珠を転売して一時的な利益を得ることだけで立ち止まらなかった。
ローマの厳しい統制経済の中で、自由商人が生き残るための唯一の道。それは、国家の役人すらも手出しできない『完全なる独占』である。
(……この中継商人は、何人もの手を経てこの真珠を運んできている。だからこれほど数が少なく、高価なのだ)
マルコスは、薄紅の真珠を手のひらに乗せ、その輝きの中に己の未来のすべてを幻視した。
(もし、私が直接その『Iamato』という国へ赴き、この真珠の交易路を自らの手で独占することができれば……!)
それは、ローマの商人からすれば、完全なる『狂気』に等しい考えであった。
地中海を越え、エジプトを下り、インド洋を横断し、未知の東アジアの海を越える。生きて帰れる保証などどこにもない、地球を半周する命懸けの大航海である。
「……行くぞ」
マルコスは、真珠を握りしめ、顔を上げた。
その瞳には、没落の運命にただ抗うだけの商人の悲壮感はなく。未曾有の富と野望に取り憑かれた、一人の冒険者の鋭い熱が宿っていた。
「船を仕立てる算段を立てろ。……私は、世界の東の果て、『Iamato』へと向かう!」
極東の島国が産み落とした『一粒の真珠』が、遥か西の超大国ローマの若き商人を魅了し、ユーラシア大陸の西と東を結ぶ、途方もない大航海への扉を、今まさに押し開けようとしていた。