四國志   作:丸亀導師

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日本 2

 

洛陽の宮城より発せられた漢の使節団を乗せた船団は、黄河を下り、見渡す限りの青が広がる渤海(ぼっかい)へと漕ぎ出していた。

船団の中核を成すのは、漢の造船技術と国威の結晶とも言える巨大な「楼船(ろうせん)」である。深く頑強な竜骨を持ち、甲板の上には三層にも重なる豪奢な楼閣がそびえ立つ。朱塗りの柱と鮮やかな極彩色の瓦で飾られたその姿は、海に浮かぶ宮殿そのものであった。

船内には、大和国の無知を啓蒙し、再び中華の足元へと平伏させるための莫大な金銀財宝、そして儒教の経典や歴史書が山のように積み込まれている。

 

「ふん。いかに東夷の蛮族が海に慣れていようと、我が大漢帝国のこの楼船の威容を見れば、己のちっぽけさを思い知り、ひれ伏すに違いない」

 

楼閣の最上階で、海風に絹の衣をなびかせながら、正使として派遣された文官が傲慢に笑った。彼は洛陽の腐敗した宮廷政治を泳ぎ抜いてきただけの男であり、武の何たるかも、海の恐ろしさも知らぬ者であった。

 

船団は、荒れる外洋を避けるように遼東半島の沿岸を伝って南下し、後漢の出先機関である帯方郡(たいほうぐん)へと寄港した。そこで水と食糧、そして水夫の一次的な補給を受けると、休む間もなくさらに南へと歩みを進めた。

 

彼らの右舷には、中華の属国とされる朝鮮半島の小国群(馬韓・辰韓など)の沿岸線が延々と続いている。かつてであれば、漢の楼船が通り過ぎるだけで、沿岸の小国の民は浜辺に平伏し、貢ぎ物を差し出したものである。

 

だが、現在の彼らの視線は違った。沿岸の民は漢の船団を遠巻きに見つめるだけであり、その目にはかつてのような絶対的な畏怖はなく、むしろ「海を支配する別の何か」を恐れているかのような、不気味な静けさが漂っていた。

 

楼船の甲板の下、暗く湿った船倉の近くでは、水夫や下働きに扮した数名の男たちが、その沿岸の異様な空気を鋭い眼光で観察していた。曹操孟徳が放った間者たちである。

 

(……半島の民は、漢の威光などとうに忘れている。彼らが真に恐れ、従属しているのは、さらに南に控える大和国の影だ)

 

間者の頭目は、荒縄を編む手を休めることなく、脳内で地図を描き、情勢を刻み込んでいく。洛陽の文官たちが美酒に酔いしれている間にも、彼らの眼は一切の油断なく周囲の海を測り続けていた。

 

 

船団が朝鮮半島の南端を越え、さらに南西へと進路をとった時、海の色と波のうねりが劇的に変化した。

そこは、無数の大小の島々が海面から突き出し、複雑な海峡を形成する「多島海(現在の観梅島周辺)」と呼ばれる水域であった。

 

深く巨大な竜骨を持つ漢の楼船にとって、この海域はまさに迷宮にして死地である。潮流は島々の間を縫うようにして幾重にも渦を巻き、海面下には見えない岩礁が無数に潜んでいる。

 

「舵をしっかり握れ! 岩にぶつかるぞ!」

 

「潮の満ち引きが早すぎる! 船が流される!」

 

楼船の船長や水夫たちの間に、焦燥と恐怖の声が響き始めた。風に頼る巨大な帆船は、このような複雑な海流と狭い水路の中では、その巨体が完全に裏目に出る。旋回が遅れれば、即座に座礁して海の藻屑となるからだ。

正使の文官も、先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、揺れる船室の柱にしがみつきながら青ざめていた。

その時である。

 

多島海の入り組んだ岩陰から、一つの鋭い影が、まるで海面を滑るようにして姿を現した。

 

「前方に船影! あれは……漢の船ではありませぬ!」

 

見張りの水夫が悲鳴のように叫んだ。

間者たちも、甲板の隙間からその姿を凝視した。

波を切り裂きながら接近してくるその船は、漢の船のような極彩色の装飾や巨大な楼閣を持っていない。鋭く尖った船首、白と黒のみで構成された直線的な船体。そして何より異様なのは、船体の側面に「楯板」と「竹束」が隙間なく張り巡らされていることであった。

 

大和国が誇る沿岸防衛と一撃離脱に特化した遊撃艦、「関船」である。

関船は、多島海の複雑な渦潮など全く意に介していなかった。

甲板の両舷に並んだ数十丁の「和櫓(やまとろ)」が、一つの巨大な生き物の足のように、一糸乱れぬ動きで水を掻いている。風に頼らず、櫓の推力のみで複雑な海流をねじ伏せ、信じがたい加速と旋回で、瞬く間に漢の楼船の真正面へと立ち塞がった。

 

(……なんという操船術だ。巨大な竜骨を持たぬ平底船でありながら、波に飲まれず、あの速度で水路を駆けるとは)

 

曹操の間者は、目にした光景を一つ残らず脳裏に焼き付けた。

 

「——いずこの船か。目的を告げよ」

 

銅鑼の音が響いた直後、関船の甲板から、よく通る澄んだ声が海風に乗って届いた。拡声のための筒を通しているのか、波音に掻き消されることなく、漢語で正確に発音されたその言葉は、命令としての絶対的な響きを持っていた。

 

日本の関船は、この多島海周辺に出没する不審船や賊徒を狩るため、定期的にこの海域を警備している哨戒部隊であった。彼らにとって、漢の巨大な楼船といえども、己が縄張りに侵入してきた一個の標的に過ぎない。

 

楼船の船長は、正使の文官に震える声で指示を仰いだ。文官は虚勢を張り、甲板に進み出ると大声で怒鳴り返した。

 

「我らは、大漢帝国の天子より遣わされた正式なる使節団である! そなたらの大王に、皇帝陛下の御恩と威光を伝えるべく参った! 道を空け、我らを都まで案内せよ!」

 

その傲慢な宣言に対し、関船の船長は表情一つ変えることはなかった。大和の兵たちは、十七条憲法・第十条『忿(いかり)を絶ち(いかり)を棄てよ』の教えの通り、感情で動くことはない。

関船の船長は、竹簡を手にしたまま、いくつか矢継ぎ早に質問を投げかけた。

 

「漢の使節であることは聞き置いた。なれど確認する。乗員の数は。兵糧の備蓄日数は。積荷の大まかな目録は何か。また、帯方郡を出立してより何日を経過しているか」

 

「な、なんだと! 大漢の使節に対して、下賤の役人のような尋問をする気か!」

 

「お答え願おう。海に素性は関係ない。数と理が合わぬ船は、すべて賊船と見なし、この場で撃ち沈める」

 

関船の楯板の一部が音もなく開き、そこから青銅の重石弓の黒々とした銃口——いや、矢尻と石弾が、正確に楼船の吃水線を狙って突き出された。さらにその後方では、無表情な弩兵たちが弦を引き絞っている。

殺気すら伴わない、ただ「作業を遂行する」という冷たい圧迫感。

 

圧倒的な体格差があるにも関わらず、多島海の入り組んだ地形で機動力を奪われている楼船は、もはや巨大な的でしかなかった。

 

楼船の指揮官は、己が置かれている軍事的な絶望を正確に悟った。

 

(……まずい。この距離で船底にあの石弾を叩き込まれれば、竜骨が砕け、船は一溜まりもなく沈む。あちらは本気だ)

 

「お、お待ちくだされ!」

 

指揮官は正使を押し退け、自ら身を乗り出して叫んだ。

 

「乗員は総勢三百名! 兵糧は二月(ふたつき)分! 積荷は皇帝陛下からの下賜品たる金銀絹織物と経典! 帯方郡を出立してよりは、十二日を経過しております!」

 

嘘偽りのない数字であった。

関船の船長は、傍らの書記官にその数字を書き留めさせると、事前に得ていた諜報(帯方郡に潜り込ませている大和の商人の報告)と照らし合わせた。

 

「……計算は合致した。漢の使節団として、その通行を許可する」

 

関船の船長が片手を上げると、突き出されていた青銅石弓が音もなく楯板の奥へと引っ込み、殺伐とした空気がスッと霧散した。

そして関船は、櫓の動きを巧みに操作し、巨大な楼船のすぐ横、手が届きそうな距離にまで滑るように横付けした。楼船が波に煽られて上下に揺れる中、関船はまるで海面に吸い付いているかのように姿勢を乱さない。水密隔壁と平底がもたらす、恐るべき安定性であった。

 

関船の船長が、甲板から楼船を見上げて声をかけた。

 

「使節の者たちよ。これより先の海は、そなたらの深く重い船で越えられるほど甘くはない」

 

彼の言葉は、もはや尋問ではなく、理に基づいた純粋な通告であった。

 

「この周辺は海流が入り乱れ、岩礁が牙を剥いている。さらに、大陸の乱れに乗じて海へ逃げ出した賊徒どもが時たまに出没するゆえ、十分な注意が必要だ。そなたらの船では、急な旋回も、賊の小舟を追うこともできまい」

 

楼船の指揮官は、ぐうの音も出なかった。まさに彼が恐れていたことそのものだったからだ。 

 

「我が大和国が定めた、貿易と外交に使用される正規の海路が存在する。我らが案内するので、後を着いてくるがよい。ただし、指定した航路から一丁でも外れた場合は、機密保持のため即座に攻撃の対象となる。心せよ」

 

それは、親切心からの護衛ではない。「自分たちの目の届く、決められたレールの上以外は一歩も歩かせない」という、徹底した管理と支配の宣言であった。

 

「……承知いたしました。ご案内、感謝いたします」

 

楼船の指揮官は、頭を下げるしかなかった。見栄を張って案内を拒否すれば、数刻後には確実に座礁して死ぬという現実が、眼前の荒れ狂う渦潮として見えていたからだ。正使の文官は屈辱に顔を歪めていたが、もはや何も言うことはできなかった。

 

「帆を降ろせ。これよりは櫓の推力で我らに着いてこい。面舵へ転舵!」

 

関船からの号令とともに、和櫓が一斉に水を掻く。

漆黒の船体が、多島海の複雑な水路を、まるで海流の理そのものを知悉(ちしつ)しているかのように滑らかに進み始めた。

漢の楼船は、その黒き水先案内人の背中を、見えない鎖で繋がれたかのように、ただ大人しく追従していくことしかできなかった。

 

(……完全な敗北だ。戦わずして、すでに手綱を握られている)

 

船底でその一部始終を聞いていた曹操の間者は、深く息を吐いた。

彼らの操船技術、地形の把握、そして一切の感情を排した冷徹な対応。大和の哨戒船たった一隻に、漢が誇る巨大楼船が赤子のように扱われているのである。

 

大和の関船が導く先は、日本列島の入り口にあたる巨大な要衝——「済州島(さいしゅうとう)」であった。

 

多島海の複雑な迷宮を抜け、日本国の関船に先導された漢の楼船(ろうせん)は、やがて視界いっぱいに広がる巨大な島の影へと行き当たった。

 

済州島(さいしゅうとう)

 

黄海と東シナ海を分け、大陸、朝鮮半島、そして日本列島を結ぶ絶対的な交通の要衝である。大和国にとってこの島は、単なる中継地点ではない。大陸の動静を監視し、半島への軍事力投射を支え、同時に莫大な富を生み出す「密貿易の拠点」にして、強固な前線基地であった。

 

島の北岸と南岸には、それぞれ地形を活かした天然の良港が整備されている。関船に導かれた楼船が静かに滑り込んだのは、大陸側に面した北岸の巨大な港であった。

 

楼船の甲板から港の全容を見渡した漢の使節たちは、その光景に言葉を失った。

港を囲む高台には、幾つもの堅牢な砦が築かれていた。かつて大和が列島防衛のために築いた巨大な「水城(みずき)」よりは規模が小さいものの、その構造は極めて実戦的である。朱塗りの装飾など一切なく、切り出されたままの無骨な石垣の上に、黒い瓦を葺いた矢倉が等間隔で並んでいる。

 

さらに恐るべきは、その矢倉の狭間から、港に侵入する船を正確に狙い撃つための青銅石弓の砲列が、幾重にも重なるようにして睨みを効かせていることであった。

 

「……あれは、すべて我らを狙っているのか」

 

正使の文官が、恐怖に顔を引き攣らせて呟いた。

港は、完全に要塞化されていた。万が一、入港した船が敵対行動をとれば、高所からの十字砲火によって、港という「生簀(いけす)」の中で確実にすり潰される。地形と火線を計算し尽くした、防衛陣地であった。

 

港の岸壁には、大和の陸上部隊が整列していた。

その数、およそ千数百名。大陸の数万の軍勢から見れば小規模な部隊である。しかし、彼らが放つ威圧感は、黄巾の徒数万にも勝るものであった。

千数百の兵たちは、誰一人として列を乱さず、微動だにせず直立している。彼らの手には規格化された長柄の槍が握られ、その切先は陽の光を反射して、まるで一面の「鋼の麦畑」のように冷たく輝いていた。

 

部隊長と思しき武官が手旗を振ると、千数百の兵が一糸乱れぬ動きで道を空け、楼船の接岸を待ち受ける陣形へと即座に移行した。そこには、漢の軍営でよく見られるような怒声も、無駄な動きも一切ない。

船底の暗がりからその様子を監視していた曹操の間者は、背筋に冷たいものを感じていた。

(……なんだ、この軍律は。たかだか辺境の島に配置された守備隊が、皇帝の近衛兵ほどの統制を保っているだと?)

 

楼船がゆっくりと岸壁へ近づくにつれ、港の停泊区画の全貌が明らかになってきた。

 

そこには、大和国がこれまで大陸に対して行ってきた「壮大な欺瞞(ぎまん)」の痕跡と、その欺瞞をかなぐり捨てた「真の姿」が、無造作に混在していた。

 

港の片隅には、みすぼらしい木造船や、朝鮮半島の小国の様式を真似て造られた偽装船が、役割を終えた抜け殻のように何隻も係留されている。

 

大和は数百年の間、このような「ボロな和船」や「属国の船」に偽装することで、密貿易を行い、大陸の商人や官僚の目を誤魔化し続けてきたのだ。「東夷の船など、波を越えるのがやっとの小舟である」という中華の常識は、大和国が意図的に作り上げた幻影に過ぎなかった。

そして今、その後ろには、偽装の必要を無くした大和の「真の姿」が誇らしげに横たわっていた。

 

「見ろ……、あの船の大きさは……」

 

漢の指揮官が指差した先には、大和の最新鋭の大型貿易船が堂々と錨を下ろしていた。

軍用の安宅船をさらに一回り大きくし、貨物の積載に特化させたその巨体は、漢の楼船に匹敵、あるいはそれ以上の容積を持っている。甲板には巨大な巻き上げ機が設置され、任那から運ばれてきた鉄の塊や、大陸の戦乱から逃れてきた商人たちが持ち込んだ物資が、凄まじい効率で積み下ろされている。

 

つい最近まで、大和はこのような大型船を他国の目に触れる場所には決して置かなかった。

 

しかし、洛陽での「日出処の天子」の宣言を経て、大和は大陸に対する姿勢を完全に変えたのである。もはや弱者の仮面を被る必要はない。我らはこれほどの富と船を動かす力を持っているのだと、あえて大っぴらに大型の貿易船を置き始めたのである。

 

「……我々は、騙されていたのだ」

 

正使の文官は、甲板の縁に手をつき、崩れ落ちるように呟いた。

 

「数百年の長きにわたり……我ら中華は、この恐るべき化け物のような国を、無害な蛮族だと信じ込まされていたというのか……」

 

自分たちが積み込んできた、中華の威信を示すための絹や書物、そして金銀財宝。

それらが、この圧倒的な港の機能美と、規格外の大型船を前にして、どれほどちっぽけで滑稽な「虚栄」に過ぎないかを、彼らはここに至ってようやく悟らされたのである。

 

「接岸用意! 帆を畳め!」

 

漢の楼船が岸壁に近づくと、日本の港湾役人が、旗と太鼓の音だけで正確な接岸位置を指示してきた。

中華の誇る楼船は、大和の関船に引かれ、大和の役人の指示に従い、大和の砦の石弓に狙われながら、この圧倒的な要塞島の港へと、まるで鎖に繋がれた獣のように力なく繋留されたのである。

船底で息を潜める曹操の間者たちは、この屈辱的な光景を冷静に脳裏に刻み込んでいた。

 

(洛陽の阿呆どもが思い描いていた『中華の威光』など、この海を渡った瞬間に消え失せた。ここはもはや、漢の理が通用する世界ではない)

 

間者の頭目は、静かに仲間たちに合図を送った。

 

(……よく見ろ。港の構造、兵の数、船の造り。すべてを我らの主君、曹操孟徳様へ持ち帰るのだ。真の戦いは、この国の正体を知ることから始まる)

 

大漢帝国の使節団は、大和国の威容を前にして、本土の土を踏む前にすでに精神の背骨を完全にへし折られていた。そして、大和国の首都・長岡京への本当の旅は、ここからが始まりに過ぎなかった。

 

 

済州島の堅牢な港に楼船(ろうせん)を繋留された後、漢の正使たる文官と数名の従者は、武装した大和の兵に促されるまま、港の高台にある砦より少し離れた一棟の建物へと案内された。

そこは軍事拠点たる砦の無骨さとは異なり、簡素ながらもどこか研ぎ澄まされた美しさを持つ、事務用の館であった。白漆喰の壁と黒い柱の直線的な意匠は長岡京のそれと同じであり、一切の装飾を排した実用性が、かえって彼らを威圧した。

 

「こちらへ」

 

大和の兵が静かに引き戸を開ける。

正使が足を踏み入れたその部屋は、それほど広い空間ではなかった。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、漢の文官たちは思わず足元に視線を落とした。

 

青々とした植物の香りが、微かに鼻腔をくすぐる。

大和の建物の大半が冷たい木板の床であるのに対し、この広間には一面に「畳」と呼ばれる分厚い敷物が、寸分の隙間もなく敷き詰められていた。(へり)を黒い布で真っ直ぐに仕立てられたその敷物は、踏みしめると微かな弾力があり、足の裏から独特の温もりを伝えてくる。

 

中華の宮廷に敷かれた絨毯(じゅうたん)の極彩色の豪奢さとは対極にある、静謐で禁欲的な空間。しかし、この一部屋にのみ特別に敷き詰められた畳が、ここが大和国における「他国との接見の場」であることを、何よりも雄弁に物語っていた。

だが、正使の文官の目を真に釘付けにし、その胸の奥に激しい怒りを呼び起こしたのは、部屋の(しつら)えではなかった。

 

広間の奥、畳の上に真っ直ぐな姿勢で座している一人の男がいた。済州島の港と入出港の算段を束ねる、大和国の官吏である。

白と黒の有職装束(ゆうそくしょうぞく)を隙なく纏ったその官吏は、漢の使節が部屋に入ってきても、立ち上がることも、頭を下げることもなかった。ただ、氷のように冷たく澄んだ瞳で、正使を真っ直ぐに見据えている。

 

(無礼千万な……!)

 

正使は怒りで頬を震わせた。彼の不満の理由は、官吏の態度だけではない。彼が座している「位置」そのものが、漢の使節に対する最大の侮辱であったからだ。

 

この畳敷きの広間には、南北の軸に座するに十分な広さがある。

中華の絶対的な礼法において、君主や上位の者は「南面(なんめん)」——すなわち北を背にして南を向いて座るのが絶対の理である。そして臣下や朝貢国の使者は、北に向かって平伏する。それが、天地の理であり、君臣の分を弁えるということだ。

だが、目の前の大和の官吏は、あろうことか『西側』を背にして座っていた。

 

西に座し、東を向く。

 

それはつまり、招き入れた漢の使節を『東』に座らせ、西を向かせるということである。これは君臣の謁見ではない。同格の賓客、あるいは主客(ホストとゲスト)の対等な関係を示す座り方であり、もっと言えば「漢の天子の代理である正使を、中華の礼法の枠組みから完全に外して扱う」という、無言にして強烈な拒絶の意思表示であった。

 

(東夷の小役人風情が、我ら大漢の使者を対等に扱うつもりか! 本来ならば、庭先に平伏して皇帝陛下の(みことのり)を聞くべき身分の分際で!)

 

正使の胸中に、業火のごとき憤怒が燃え上がった。今すぐこの場を蹴り立ち、大喝して無礼を咎め立ててやりたかった。

しかし——正使は、喉の奥まで出かかった怒鳴り声を、ギリッと奥歯を噛み締めて堪えた。

 

背後には、彼らの楼船に正確に狙いをつけている砦の青銅石弓がある。港には千数百の槍衾が控えている。ここでもし己の面子にこだわって刃傷沙汰になれば、使節団は一人残らず海の底へ沈められ、洛陽へ帰ることは永遠に叶わなくなる。

 

大和の官吏は、漢の使者がこの「西座」の意味に気づき、不快感を抱くことすら完全に計算し尽くした上で、あえてこの席に座っているのだ。

正使は屈辱に震える足を引きずりながら、官吏の向かい——東側の座へと力なく腰を下ろした。

 

「遠路、我らが大和国の海へよくぞ参られた」

 

正使が座につくのを見届けると、官吏が静かに口を開いた。その声には歓迎の熱も、敵対の刺もなく、ただ淡々と事物を処理する響きだけがあった。

 

「済州の港を預かる官吏として、漢の使者に問う。何用にてこの海域へ立ち入られたか。また、最終の目的地はいずこか」

 

外交の辞令も、皇帝への賛美もない。ただ必要な情報のみを要求するその問いに、正使は必死に漢の威厳を振り絞って答えた。

 

「我らは、大漢帝国の天子より遣わされた使節である! 皇帝陛下の広大無辺なる御恩と威光を、そなたらの大王に伝えるべく、数多の下賜品(かしひん)を携えて参った。最終の目的地は、当然ながらそなたらの都……長岡京である!」

 

虚勢を張った声が、藺草の香る部屋に響く。

官吏は、その大仰な言葉の装飾をすべて削り落とし、「漢の使者、長岡京での謁見を希望」という事実のみを、手元の竹簡にさらさらと「かな文字」で書き留めた。

 

「承知した。長岡京までの通行を許可する」

 

官吏は筆を置くと、無表情なまま正使を見据えた。

 

「なれど、ここから先の海は、これまでそなたらが渡ってきた沿岸の波とは理が異なる。通行を許可するにあたり、我が国より航海上の幾つかの『条件』を提示させてもらう」

 

「条件、だと?」

 

正使は眉をひそめた。「皇帝陛下の使節に向かって、道中を指図するというのか!」

 

「いかにも。これは、そなたらを無事に都へ送り届けるための、我らなりの『善意』と心得よ」

 

官吏の口から出た「善意」という言葉は、恐ろしいほど冷え切っていた。

 

「一つ。これより先、玄界灘から瀬戸内の海に至るまで、我らが手配する水先案内の船を必ず先頭に立たせよ。そなたらの楼船は、これに一切の遅れなく着いてくること」

 

官吏は、容赦なく大和の理を突きつけていく。

 

「そなたらは、この海域の季節の風向を知らぬ。黒潮と親潮が交わる海流の速さも知らぬ。ましてや、干満によって姿を現す暗礁の位置も知らぬ。己の船の竜骨の深さを過信し、勝手な航路をとれば、半日と持たずに岩に腹を裂かれ、海に呑まれることとなろう」

 

正使は反論しようと口を開きかけたが、多島海で自らの楼船が為す術もなく潮に流されかけた恐怖を思い出し、言葉に詰まった。官吏の言うことは、嫌になるほど正しい事実であった。

 

「二つ。我が国が指定した港以外での投錨、および停泊を固く禁ずる。もし案内船の指示を無視して勝手な海域へ立ち入った場合、または列島の沿岸を無断で測量する素振りを見せた場合は、即座に間者と見なし、全船を撃ち沈める」

 

「ば、馬鹿な! 我らは正使ぞ!」

 

「海に溺れれば、正使も水夫も同じ死骸に過ぎぬ。沈められたくなければ、我らの定めた航路という『掟』の上だけを歩くことだ」

 

官吏の言葉には、一片の揺らぎもなかった。

彼が提示した条件は、海を知らぬ漢の船を保護するための純粋な「善意(安全上の配慮)」という形をとっていた。しかしその本質は、漢の使節団から航行の自由を完全に奪い、目隠しをしたまま手縄を引いて歩かせるという、徹底的な「監視と管理」の宣告であった。

 

広間は、重苦しい沈黙に包まれた。

 

正使の額からは、じっとりと冷たい汗が流れ落ちていた。

 

皇帝の威光を示し、蛮族を教え諭すために来たはずだった。

 

しかし現実はどうだ。港に入った瞬間から、いや、多島海で彼らの船に出会った瞬間から、自分たちは一切の主導権を奪われ、ただ彼らの冷徹な計算と理の掌の上で転がされているだけではないか。

 

ここで条件を拒否すれば、航海の安全は保証されず、大和の武力によって海の藻屑とされる。洛陽に帰ることも、任務を果たすこともできない。

正使の心の中で、中華の官僚としての一握りの誇りが、音を立てて砕け散った。

 

「…………承知、した」

 

正使は、震える声で絞り出すように答えた。

西座の官吏に向かって深く頭を下げるその姿は、皇帝の威信を背負った使者ではなく、完全に敵の軍門に降った敗者のそれであった。

 

「よろしい。では、潮が満ちるのを待ち、明日の朝に出立といたす」

 

官吏は淡々とそれだけを告げると、竹簡を巻き、静かに立ち上がった。

 

漢の使節団は、大和の真なる玄関口・済州島において、皇帝の権威も、船の操舵権も、そして己の面子をも完全に剥ぎ取られた。彼らに残されたのは、ただ大和国の「水先案内」という名の鎖に引かれ、未知なる長岡京へと連行されていくという、逃れられぬ事実だけであった。

 

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