四國志   作:丸亀導師

9 / 10
日本 4

 

玉座の御簾の傍らで、右大臣・広庭皇子は、静かに引き下がっていく漢の使節団の背中を、氷のように冷たい、しかし微かに熱を帯びた眼差しで見送っていた。

 

広間の空気が緩み、周囲の大臣たちの中には、中華の使者が最終的に大和の礼法に屈して平伏した姿を見て、微かな優越の息を漏らす者もいたかもしれない。しかし、広庭の心中には、嘲笑も驕りも一切生じていなかった。

むしろ、彼の警戒心は謁見の前よりも一段と鋭く跳ね上がっていた。

 

(あの男……ただの虚栄に塗れた俗物ではなかったか)

 

広庭の脳裏で、算盤の珠が弾かれる。

最初こそ漢の『揖譲(ゆうじょう)』の礼で意地を通そうとした正使であったが、女帝の声の正体を知り、そして『東漢(とうかん)』という言葉の真意を悟った瞬間、彼は己の面子を完全に捨て去り、最も屈辱的な平伏という手段を選んだ。

それは恐怖に屈したと見ることもできる。だが、広庭の計算は違った。

 

「己の置かれた絶望的な状況を即座に正確に理解し、この場で無惨に死ぬことよりも、生き延びて任を果たすために、最も屈辱的な作法を即座に受け入れた」のだとしたらどうだ。

 

何百年もの間、中華思想の絶対的な頂点に立ってきた漢の高級官僚が、その強烈な矜持をへし折ってまで「実」を取る。それがいかに困難で、どれほどの精神の切り替えを要することか。すべてを理解した上でその地の作法に則ることができる者が、果たしてどれだけいるだろうか。

 

「……中原の龍は、病に伏してもなお、根底より侮れる相手ではないということか」

 

広庭は誰に聞こえるでもなく、微かに呟いた。

遠からず、漢は内から崩壊する。しかし、その死骸から這い出してくる者たちは、この正使のように即座に状況に適応し、冷徹に大和の脅威を認識する者たちかもしれない。

太政官の役人たちが、使節を歓待するための豪奢な宴の準備を進めている。だが、広庭は静かに思案に耽っていた。

 

(あの正使とは、直接言葉を交わさねばなるまい。上辺の外交辞令ではない、腹の底を探り合う真の対話を。……如何にして、彼の口を開かせるか)

 

一方、大内裏の傍らにある客館。

 

使節団に充てがわれた広大な部屋に足を踏み入れた正使は、そのまま糸が切れたように座り込み、深く項垂れていた。

 

部屋には、正使に付き従ってきた幾人かの文官や書記官、そして荷運びを装った下働きの者たちが控えていた。彼らは皆、謁見の間で何が起きたのか、なぜ正使がこれほどまでに生気を失っているのかを聞きたくてたまらなかった。しかし、部屋を支配する重苦しい空気と、正使の背中から放たれる異様な気迫に圧され、誰一人として口を開くことができなかった。

 

どれほどの時間が流れただろうか。

 

不意に、正使がゆっくりと顔を上げた。

その表情には、洛陽を出立した時の傲慢さも、済州島で顔を引き攣らせた恐怖すらも消え失せていた。そこにあったのは、冷たい水で顔を洗ったかのように研ぎ澄まされた、一人の「漢の官僚」としての凄絶な覚悟であった。

正使はゆっくりと立ち上がると、部屋にいる全員を見回し、極めて低く、しかし地の底から響くような落ち着いた声で話し始めた。

 

「……皆の者、よく聞け」

 

従者たちは息を呑み、姿勢を正した。

 

「我らは、とてつもない過ちを犯していた。この地は、我らが教え諭すべき未開の島などではない。洛陽をも凌駕する、恐るべき理で編み上げられた巨大な怪物だ」

 

正使の言葉に、部屋の空気が凍りついた。

 

「これより、我らが為すべき使命はただ一つ。皇帝陛下の威光を示すことでも、財宝を下賜することでもない。この『日本(にほん)』と名乗る国のすべてを、丸裸にして持ち帰ることだ」

 

彼は書記官たちを一瞥し、力強く命じた。

 

「この国の成立、そして歴史の成り立ち。莫大な富を生み出し、民を飢えさせぬ経済の仕組み。海流と山々を完全に支配する地理の把握。そして、あの恐るべき軍律と防壁を支えている『算術』をはじめとするあらゆる学問の精度と、それがどのように国の統治や戦の仕掛けへと応用されているか。……目に見えるもの、耳に聞こえるもの、その全てを一つ残らず竹簡に書き留めよ」

 

それは、使節団としての本来の目的の完全な放棄であり、漢の未来を繋ぐための決死の諜報活動への移行宣言であった。

 

「これからの歓待の場において、我らは幾度となく夷狄(いてき)の作法を強いられ、見下され、侮られるであろう。……だが、決して怒りに任せて声を荒げるな」

 

正使は、己自身に言い聞かせるように、両の拳を固く握りしめた。

 

「どれほどの屈辱を味わおうとも、怒りを腹の底へ抑え込み、愚か者を演じ、ただ己の使命のみを遂行せよ。我らが書き留めたその一文字が、将来、大漢帝国をこの化け物から守る唯一の盾となるのだ。……よいな!」

 

その悲痛なまでの命令に、部屋にいた全員が、無言のまま深く、深く頭を下げた。

大和国という圧倒的なシステムの前に立たされたことで、皮肉にも腐敗していた漢の使節団は、強靭な一つの意思の下に結束したのである。

 

そして、部屋の隅で深く頭を下げる下働きの中には、誰にも見えぬ冷たい笑みを浮かべる者たちがいた。彼ら——曹操の放った間者たちにとって、正使のこの覚醒は、自分たちの水面下の情報収集をこの上なく容易にする、最高の「隠れ蓑」となるからであった。

 

 

漢の正使、その名を班稀(はんき)(あざな)唯才(ゆいさい)という。

「班」という姓は、大漢帝国において特別な響きを持つ。かつて『漢書』を編纂した班固(はんこ)や、西域経営で絶大な武功を立てた班超(はんちょう)など、帝国の知と武を支えた名門の家系である。

 

彼、班稀もまた、若い頃はその名に恥じぬ高潔な志と、非凡なる知の才を備えた若き官僚であった。どんな複雑な法や地理も一度読めば暗記し、その理を解き明かす「唯だ才ある者」と将来を嘱望されていた。

 

しかし、霊帝が治める現在の洛陽は、高潔な志など何の値打ちもない腐臭に満ちた泥沼であった。

十常侍(じゅうじょうじ)と呼ばれる宦官たちが権力を私物化し、賄賂と派閥争いだけが出世の唯一の道となっていた時代。清流(せいりゅう)を貫こうとした者たちが次々と処刑され、あるいは野に下っていく中、班稀の心は徐々に折れていった。

 

いつしか彼は、己の才を「朝廷の権力闘争を上手く泳ぎ回るため」だけに行使するようになり、金と地位の欲に負け、見事なまでに堕落した一人の俗物へと成り下がってしまったのである。

今回、彼が「東夷の島国への正使」という貧乏くじを引かされたのも、朝廷の思惑によるものだった。

 

廷臣たちは、遠く危険な海を渡る役目など誰もやりたがらなかった。そこで白羽の矢が立ったのが班稀である。

彼は名門「班」の家柄であり、見栄えが良い。そして何より、彼がかつて持っていた「文章と記憶の非凡な才能」を利用し、皇帝の威光を示す立派な記録を書かせるには丁度良い駒と見なされたのだ。

 

班稀自身も、この任を適当にこなし、東の蛮族から適当な貢ぎ物を巻き上げて洛陽に持ち帰り、己の出世の足がかりにしようとしか考えていなかった。

 

——だが、大和国という絶対的な死地が、彼を変えた。

済州島(さいしゅうとう)で、瀬戸内海で、長岡京で、「日本」という名の化け物を突きつけられた。

 

その絶対的な絶望と恐怖の極限状態が、班稀という男の表面にこびりついていた「欲」と「保身」という分厚い殻を、粉々に叩き割ったのである。

客館の薄暗い部屋の中で竹簡に向かっている今の彼に、もはや洛陽の権力争いなどという小さな未練は欠片も残っていなかった。

 

「……筆が、止まらぬな」

 

班稀は、己の手の動きに静かな驚きを覚えていた。

若い頃に持っていた、いや、あの頃以上に研ぎ澄まされた凄絶な集中力が、彼の脳髄を支配していた。

 

海峡の潮の流れ、水車が汲み上げる水路の角度、兵士たちの槍の規格、大内裏の柱の配置、そしてあの広庭(ひろにわ)という右大臣が放った言葉の抑揚のすべて。彼が見聞きした大和国のあらゆる事象が、まるで鏡に映したように脳内に焼き付いており、それが一字一句の狂いもなく竹簡の上に吐き出されていく。

 

(私は、漢の歴史の中で最も恐ろしい敵を、誰よりも早く正確に目撃したのだ。……この記録を残すことこそが、私という人間がこの世に生を受けた真の理由だったのだ)

 

班稀の瞳の奥に、かつて班一族の先祖たちが持っていた「冷徹な歴史の記録者」としての魂が、不気味なほど鮮やかに蘇っていた。

 

彼は今、大和国のすべてを言語化し、分析するという極限の知的工作において、己の生命を燃やし尽くすような歓喜すら感じていた。

 

後の世に編纂される『三国志』や『後漢書』といった正史において、この「班稀」という男の名前が記されることはない。

彼は後漢末期の混乱の中で、群雄たちのように華々しい武功を立てるわけでも、国を傾けるような大政治家になるわけでもない。歴史という巨大な奔流の中では、何千何万といる「名もなき小役人の一人」に過ぎなかった。

 

しかしこの瞬間、西暦一八五年の長岡京において。

 

歴史の表舞台から完全に抹消されたこの一人の文官は、中華という巨大な世界を己の双肩に背負い、たった一本の筆で、異世界の超大国に「知の反撃」を挑み始めていたのである。

 

そして、彼が極限状態で書き残したこの「大和国の真の姿」を記した竹簡は、やがて洛陽の網の目を潜り抜け、彼の下働きに紛れ込んでいた者たちの手に渡り、後の中原の覇者・曹操孟徳の心を永遠に縛り付ける「恐怖の教典」となっていくことを、この時の班稀はまだ知らない。

 

長岡京の客館において、漢の使節団を歓待する盛大な宴が開かれた。

 

広間には、瀬戸内の海で獲れたばかりの新鮮な魚介、奥羽の山々で仕留められた獣肉、そして任那(みまな)を経由して大陸から持ち込まれたであろう希少な香辛料を使った、見たこともないほどの豪奢な料理が次々と運ばれてきた。大和の官吏たちは、先ほどまでの冷徹な表情を嘘のように崩し、見事な笑みを浮かべて言葉巧みに漢の使者たちに杯を勧めてくる。

 

(……見事なものだ。孫子の兵法に則っているのだろう)

 

上座で杯を受ける正使・班稀は、顔に愛想の良い、しかし完全に造り物の笑みを張り付けながら、腹の底で冷たく分析していた。

遠来の敵使を厚遇し、美酒と美味で骨抜きにし、極限まで張り詰めていた警戒心を解かせて腹の内を探る。あるいは、自国の圧倒的な富を惜しげもなく見せつけることで、彼我の国力差を悟らせ、戦意を根本から喪失させる。これは中華の兵法において、古より伝わる定石中の定石である。

 

班稀が真に戦慄したのは、この東の果ての島国が、中華の書物や思想を単に「模倣」しただけではないという点であった。彼らは儒教や兵法を国家の血肉として完全に呑み込み、そこから不要な感情を削ぎ落とし、大和独自の極めて洗練された「理」としてこの宴を完璧に実践しているのである。

 

宴が進むにつれ、班稀に付き従ってきた書記官や水夫たちは、見事に大和の酒に呑み込まれていった。

 

大和の酒は、中原の粗末な濁り酒とは比較にならぬほど澄み切っており、喉越しが良く、そして恐ろしいほどに酔いの回りが早かった。済州島での絶望的な要塞の目撃、関門海峡での死の恐怖、そして大内裏での謁見。彼らの精神は、すでに限界まで擦り切れていた。その極限の緊張状態から突如として解放され、極上の歓待を受けたのだ。無理もないことであった。

 

やがて、幾人かの部下が呂律の回らぬ口で大声を上げたり、酌をする大和の女官にだらしなく絡んだり、あるいは畳の上に無様に倒れ伏して嘔吐するといった醜態を晒し始めた。

大漢帝国の使節としてはあるまじき失態である。平時の中原であれば、班稀は即座に彼らを怒鳴りつけ、国威を汚した罪で厳罰に処していただろう。

 

だが、今の彼は微動だにせず、ただ静かに杯を傾けるだけであった。

 

(構わぬ。今は存分に酔い潰れるがいい。お前たちのその無様な姿こそが、最高の盾となるのだ)

 

彼らの醜態は、大和側に対する「漢の使節は酒に溺れる無能な者たちである」という見事な目くらましになる。そして何より、彼らは人間である以上、ここで一度精神を弛緩させなければ、間違いなく狂い死んでいた。班稀は、部下たちの失態すらも己の計算の内に組み込み、決して咎めようとはしなかった。

 

周囲が酒の熱に浮かされ、正体を無くしていく中、班稀の意識だけは氷の刃のように研ぎ澄まされていた。

彼は大和の役人に勧められるままに酒を口に含み、心地よさそうに目を細めて喉を潤す素振りをしながらも、決して酔いの毒を脳髄には届かせていなかった。彼の視線は、宴の喧騒を通り抜け、ただ一点のみに固定されていた。

 

右大臣・広庭皇子。

 

宴の末席で、同じように杯を手にしているあの男。この大和という化け物国家の頭脳であり、一切の感情を排して算盤を弾く冷徹なる懐刀。

 

班稀は確信していた。あの男が、ただの饗応だけでこの夜を終わらせるはずがない。必ず、この酔狂の隙を突き、邪魔者がすべて意識を失った密室の状況を作り出して「真の外交」を仕掛けてくるはずだ。

夜が更け、広間を支配していた喧騒が嘘のように静まり返っていった。

 

漢の使節団の大半は前後不覚となって寝こけ、大和側の官吏たちもまた、接待の役目を終えたかのように次々と酔いつぶれ、あるいは静かに広間から姿を消していた。

部屋を照らす油灯の火が、チロチロと揺れている。いびきと寝息だけが響く薄暗い広間の中で、その時を正確に見計らったかのように、一つの影が音もなく動いた。

広庭皇子である。

 

彼は手にしていた杯を音もなく畳に置くと、一切の足音を立てずに、滑るようにして班稀の正面へと歩み寄ってきた。その足取りには、先程まで彼も酒を呷っていたはずなのに、微塵の乱れも、酒の匂いすらも感じさせなかった。

 

広庭が、班稀の目の前で静かに座を下ろし、その底知れぬ冷たく澄んだ眼差しを向けてくる。

 

周囲の者たちがすべて意識を手放したこの薄暗い密室で、二つの異なる国の「理」が、ついに何の装飾もなく正面から衝突しようとしていた。

 

班稀は、手元の杯をゆっくりと畳に置いた。

顔に張り付いていた上辺だけの笑みを、薄皮を剥がすように消し去る。その双眸には、宴の酔客のそれではない、一人の覚醒した漢の官僚としての凄烈な光が宿っていた。

 

言葉を交わすまでもない。

両者の間に目に見えない火花が散り、本性のみを懸けた凄絶な知の斬り合いが、今、静かに幕を開けたのである。

 

寝息と油灯(ゆとう)の微かな爆ぜる音だけが響く薄暗い広間。

漢の正使・班稀(はんき)の眼前に音もなく座を下ろした右大臣・広庭皇子は、卓の上に置かれていた酒器を手に取ると、班稀の空の杯へ、とくとくと澄んだ酒を注いだ。

 

「……毒は入っておらぬよ。もっとも、そなたは今宵、一滴の酒も血に巡らせてはいないようだが」

 

広庭の言葉は、宴の席での外交辞令とは全く違う、氷のように冷たく、一切の装飾を削ぎ落とした「剥き身の刃」そのものであった。

班稀は、注がれた杯には手を触れず、広庭の底知れぬ双眸を真っ直ぐに射返した。

 

「主が真の顔を見せる前に、客が正体を失うわけには参りませぬゆえ」

 

「見事な胆力だ」

 

広庭の唇の端が、僅かに吊り上がった。それは笑みというよりも、優れた武具を値踏みするような冷徹な評価の形であった。

二人の間に、目に見えない幾本もの刀剣が交錯する。

互いの呼吸、視線の僅かな動きから、相手の思考の深さと裏の裏を読み合う、凄絶な鍔迫り合いの沈黙が続いた。

不意に、広庭がその沈黙を切り裂き、まるで茶飲み話でもするかのように他愛のない口調で語り始めた。

 

「そなたの姓は『(はん)』というそうだな。……『漢書』を編纂し、中華の歴史を確固たるものとした班固(はんこ)。そして、西域の砂漠を平定し、帝国の版図を広げた班超(はんちょう)。中原の知と武を支えた、実に稀有なる血脈だ。……かつて我らが取り寄せた書物の中にも、彼らの名と業績は詳細に記されていた」

 

班稀の背筋に、氷柱(つらら)を突き立てられたような悪寒が走った。

ただの知識のひけらかしではない。広庭は「我々はそなたの祖先が何をしたか、漢の歴史がいかに作られたかを、そなたらと同じ深さで完全に把握している」と告げているのだ。

遠き海の彼方の島国が、漢の内情から個人の血統に至るまでを、すでに掌握しているという底知れない諜報力と知識欲。

 

「優れた記録者の血を引くそなたならば、我らの真の姿を正確に理解できるかもしれぬ」

 

広庭は、杯をゆっくりと指先で回しながら、静かに言葉を継いだ。

 

「そなたら中原の者は、我らを『未開の島から近年になって現れた夷狄(いてき)』と見なしている。だが、班唯才(はんゆいさい)よ。我ら大和の国と大陸との関わりが、いつ始まったかを知っているか?」

 

班稀は無言のまま、広庭の次の言葉を待った。

彼の脳内で、漢の歴史書に記された「倭」に関する記述が猛烈な勢いで検索されるが、確たる古い記録など存在しなかった。

 

「今から九百年余り昔のことだ。そなたらの歴史で言うところの『春秋』の時代。中原の南方に覇を唱えていた『楚()』という国へ、我らが祖先は初めて海を渡り、使者を送った」

 

「……九百年、だと!?」

 

班稀は、必死に保っていた鉄の仮面を打ち砕かれ、思わず低い悲鳴のような声を漏らした。

始皇帝が中原を統一する遥か昔。漢という国が産声を上げる数百年も前から、この島国は海を渡る技術を持ち、大陸の動乱をその目で観察していたというのか。

 

にわかには信じがたい。しかし、多島海を意のままに駆け抜けたあの関船の操舵術と、関門海峡の要塞を思えば、彼らがそれほど古くから海神の理を支配していたとしても、決して荒唐無稽な話ではなかった。

 

しかし

 

(……ハッタリだな。900年前の春秋初期に、楚が東の海を支配していた事実はない。あるとすれば、呉と越が長江の河口で争い、海への道が開かれた『700年前』だ。この男、私がどこまで大陸の歴史を正確に把握しているか試しているのだな)

 

驚愕と思考にふける班稀を見据え、広庭はトドメを刺すように言い放った。

 

「大陸は、王朝が代わるたびに戦火で己の歴史を焼き払う。愚かなことだ。……だが、我らは記録を焼かない。九百年前の楚との交易の記録も、秦の盛衰も、新の王莽(おうもう)がもたらした混乱も。すべては我が大内裏の書庫に、虫食い一つない竹簡や木簡として、完全な形で保存されている」

 

広庭は、班稀に向かって静かに右手を差し出した。

 

「班稀よ。そなたには、その書庫へ立ち入る特権を与えよう。我が国がいかにして算術を極め、地理を測り、歴史を積み上げてきたか。我らが収集した大陸の失われた歴史の真実とは何か。……すべてはそこにある。自由に手に取り、読むが良い」

 

それは、広庭が仕掛けた「究極の毒」であった。

 

歴史の真実、知識の深淵。優れた知能を持つ者であればあるほど、その誘惑には絶対に抗えない。

 

しかし、日本国の用意したその膨大な記録を読み解けば、班稀の精神は「漢の官僚」から、大和の圧倒的な理の前に平伏する「大和の理解者」へと完全に作り替えられてしまうだろう。彼は大和国の恐怖と偉大さを、自らの筆で洛陽へと持ち帰る『最も優秀な間者』へと変貌させられるのだ。

 

班稀は、己の置かれた状況の恐ろしさに戦慄した。

眼前の男は、刃も兵も使わず、ただ「歴史」と「記録」という情報だけを用いて、自分という人間の魂を根底から支配しようとしている。

 

(読めば、私はもう二度と、大漢帝国の威光などという虚構を信じられなくなるだろう。……大和の理という名の毒に、骨の髄まで侵される)

 

しかし——。

覚醒した班稀の血の中に流れる『班家(記録者)』としての本能が、その毒を激しく渇望して鳴動していた。

真実を知らずに洛陽へ帰り、無知のまま化け物に喰い殺されるか。それとも、己の精神が壊れることを覚悟で敵の懐に飛び込み、化け物の正体をその目に焼き付けるか。

班稀の選択は、決まっていた。

 

「……右大臣殿。一つ、お伺いしたい」

 

班稀の声は、不思議なほど静かに澄み切っていた。

 

「私がその記録を読み、貴国(にほん)の全貌を知ったとして。私がそれを洛陽へ持ち帰ることを、許されるとお思いか?」

 

「持ち帰るが良い」

 

広庭は、冷酷な笑みを深めた。

 

「すべてを知った上で、そなたらの皇帝がどう動くか。我らはそれを、次の盤上の算段とするのみである」

 

「……狂気の沙汰だ。自らの手の内をすべて晒し、あまつさえ敵を育てるというのか」

 

班稀はゆっくりと姿勢を正し、広庭に向かって深く首を垂れた。それは敗北の礼ではなく、歴史という巨大な深淵に対する、記録者としての純粋な畏敬の念であった。

 

「その狂気なる申し出、大漢の正使として……いや、班家の末裔として、謹んでお受けいたす。この命が尽きるまで、貴国の『理』のすべてを、私の筆で書き写させていただこう」

 

二人の天才による、音のない刃の交錯が終わった。

広庭皇子は己の目論見通り、中原へ恐怖を伝染させるための「苗床」を手に入れた。

 

しかし同時に、班稀という一人の文官もまた、自らの魂を悪魔に売り渡すことと引き換えに、漢を救うための『最強の武器(知識)』を手にする権利を得たのである。

 

夜明けが近づく長岡京の密室で、大和国と大漢帝国の本当の戦争が、静かにその産声を上げたのだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。