プロローグ
俺が最初に覚えた感覚は、ぬくもりではなく、かすかな駆動音だった。
天井を這い回る監視カメラの首が振れる音。そして、おむつを替える介護ロボットのシリコンの指先の冷たさ。
「……あ、あ……」
声を出そうとしても、喉が未発達でかすれた音しか出ない。
前世、50代で孤独死したあの湿り気のあるアパートの記憶が、この清潔すぎて無菌室のような保育所とあまりにかけ離れていて、脳がバグを起こしそうになる。
ある時、ミルクを運んできたドローンの鏡面仕上げの平坦なボディに、自分の顔が映った。
驚愕した。そこにいたのは、前世の俺を苦しめた脂ぎった醜い顔ではなく、天使そのものだった。透き通るような肌、陽の光を吸い込んだような金の髪。赤ん坊でありながら、すでに完成された奇跡のような造形。
(……なんだ、この美少女は。これが、俺なのか?)
周囲を見渡せば、隣のベッドも、その隣も、赤ん坊は全員女の子だった。
男の気配が一切ない。たまに来る職員も、無機質な笑顔を貼り付けた女性だけ。俺は直感した。ここは普通の場所じゃない。
3歳を過ぎると、俺の身体能力と知能は周囲の子供たちを圧倒し始めた。
そりゃそうだ、中身は有名大卒の50男だ。積み木を積むのも、ひらがなを覚えるのも、他の子がヨダレを垂らしている間に終わらせてしまう。
だが、俺が最も時間を費やしたのは、窓ガラスに映る自分を研究することだった。
どう首を傾げれば可愛く見えるか。どうすれば、このレンズの向こうにいるであろう誰かの心を掴めるか。
「天音ちゃん、本当にお利口さんね」
保育士が褒めるが、その目は俺を見ていない。俺の頭上にあるカメラの、その先の数字を見ている。
この頃には気づいていた。俺たちは育てられているのではない。磨かれているのだ。市場に出る前の宝石として。
俺は時折、あえてカメラを見つめて小首を傾げ、ふわりと笑ってみせた。
そのたびに、廊下の管理モニターの数値が跳ね上がるのを俺は見逃さなかった。
前世、誰にも見向きもされなかった俺が視線で支配している。その快感と、得体の知れない恐怖が混ざり合い、俺の背筋を冷たく撫でた。
就学前、俺たちは基礎教育と称して、徹底的に美意識を叩き込まれた。
肌の手入れ、優雅な立ち振る舞い、そして男性という存在への憧憬。
「いつか、あなたたちを愛してくれる素晴らしい王子様が現れます」
教育ビデオの中で、美化された男性のホログラムが語りかける。
だが、俺の記憶にある男は、もっと泥臭くて、加齢臭がして、社会の歯車としてすり減っている存在だ。この世界の男の扱いは、まるで神か、あるいは貴重な家畜に対するそれのように歪んでいる。
ある夜、俺は消灯後の寄宿舎で、自分の小さな手を眺めていた。
平均的な身長、細身ながらも、同年代の誰よりも完成されたシルエット。
鏡を見なくてもわかる。俺は今、この世界で最も価値のある個体になりつつある。
(……俺は、この顔で、この身体で、一体何を売らされるんだ?)
この華奢な肩にかかる期待という名の重圧に、吐き気がした。
そして、運命の小学校入学式。
俺は、自分の価値に値段がつけられる瞬間が来たことを、本能で悟っていた。
ランドセルを背負い、俺はカメラに向かって最高の無垢な少女を演じながら、教室の扉を開けた。
桜並木を模したホログラムが舞う校門をくぐり、俺――青空 天音は、指定された1年A組の教室に足を踏み入れた。
教室内には、俺と同じように選りすぐられた美少女たちが並んでいる。だが、自分で言うのもなんだが、俺が横を通るたびに全員が美貌に息を呑むのがわかった。前世、キモ顔の男性だった頃には、物理的に道を開けられることはあっても、見惚れて道を開けられることなんて一度もなかった。
席に着くと、教卓に立つ女性教師が、無機質な笑みを浮かべて口を開いた。
「皆さん、入学おめでとう。今日からあなたたちは、この国の『希望』として歩み始めます」
教師が指をパチンと鳴らすと、教室の四隅、そして机の一台一台から、ハイスペックな広角レンズがせり出してきた。
「さあ、最初の授業です。常に『視られている』ことを意識しなさい。今、この瞬間から、あなたたちの生活はライブ配信サイト『エデン・チャンネル』を通じて、障壁の向こう側――男性世界に全公開されます」
教室にざわめきが広がる。教師は淡々と、この世界の残酷な等価交換を説明していく。
「食事、着替え、トイレ、そして就寝時。カメラは24時間、あなたたちのすべてを捉えます。男性たちはその映像を見て、自分の推しに投資をします。その投資額上位4名の男性に対し、あなたたちは18歳になったら4人産む義務があります。もちろん物理的な接触はありません、人工授精です」
その瞬間、俺の脳裏に前世で読んだ数々のSF小説やネットの書き込みがフラッシュバックした。
(……ああ、やっぱり。やっぱりディストピア転生だったか!)
俺は思わず両手で顔を覆い、ガックリと机に突っ伏して頭を抱えた。
「管理社会」「24時間監視」「繁殖の義務」。テンプレを全部乗せしたような地獄の設定だ。しかも中身が50男の俺に「魅力的な女になれ」だと? 無理ゲーにもほどがある。
だが、教師は俺の絶望を恥じらいか感激だと勘違いしたのか、言葉を続けた。
「これからのあなたたちを育てるのは、あなたたちに惚れ込んだ男たちが投資したお金です。多く投資できるいい男の子供を産むためにも、常に男に見られることを意識し、魅力的になりなさい。……ホームルームは以上です」
教師が去った後、教室は異様な熱気に包まれた。
隣の席の少女は、すでにカメラに向かって上目遣いでポーズを決めている。
(……狂ってる。)
俺は、机に据え付けられたレンズを指の隙間から見つめた。
レンズの奥、何百万人という男たちの視線が、熱を帯びて俺を舐めるように見ているのが肌でわかる。
(いいだろう。とりあえず歴史くらいは調べておくか……)
ホームルームが終わるやいなや、私は逃げ出すようにして図書室へと向かった。
廊下を歩く間も、天井のドローンがしつこく後を追ってくる。私はあえて一度もレンズを見なかった。この奇跡の造形を持った美少女が、何かに思い詰めたような表情で歩く姿……それ自体が、画面の向こうの男たちには極上の物語として映るはずだ。
図書室は、驚くほど静かだった。
私は「近代史:2020年〜2040年」と背表紙に書かれた分厚い資料を棚から引き抜き、一番奥の席に陣取り読み始めた。
ページをめくる指が止まる。
2020年代、そこには急激に加速する歪みの記録があった。
◇2022年:『真実の愛と権利を守る女性党』結成
最初は過激なカルト政党だと鼻で笑われていたらしい。だが、彼女たちが掲げたスローガンは、当時の社会を震撼させた。
「私たちの理念を支持する男性には、必ず『誰かの父親』になる権利を約束します」
当時、自由恋愛の果てに持てる男が女性を独占し、数多くの男性が一生誰にも愛されず、子孫を残せないまま孤独死していく……そんな実質的一夫多妻制が限界に達していた。
資料によれば、この政党は最初、人権団体やメディアから「人間を繁殖の道具にしている」と猛烈な非難を浴びたという。しかし、彼女たちが解党に追い込まれることはなかった。
その理由は、皮肉にも彼女たちの政策が唯一機能した少子化対策だったからだ。
資本主義と自由恋愛に任せた結果、下がり続けていた出生率。それを、この政党は支持の見返りとしての出産という形で無理やり反転させた。実際に子供を授かった男性たちの「初めて人生に意味が持てた」という熱狂的な体験談は、倫理的な批判を綺麗事として押し流すほどの濁流となった。
「……前世の俺も、この数字を見せられたら黙り込んでいただろうな」
喉の奥がヒリついた。
批判されようが、ディストピアと呼ばれようが、現実に誰も救えなかった男性たちに子供を与え、国の人口減少を食い止めた。その実績こそが、2030年に彼女たちが議席の95%を握る巨大政党へと化ける原動力となったのだ。
◇2030年:分断の完成
そして2030年。
「男女の不要な摩擦を消し、出産効率を最大化する」という大義名分のもと、国は物理的な壁で男女を分断。女性は選ばれる女神として国営施設で管理され、男性は投資家兼労働力として壁の向こうに押し込められた。それは今も続いている。
「これは、自由の代わりに『役割』を与えられた、国家規模の救済である」
解説文にはそう書かれていた。
私は資料を閉じ、窓の外を見た。遠くにそびえ立つ、巨大なコンクリートの壁。あの中には、たくさんの前世の俺が、画面越しにしか見られない幻影に金を注ぎ込み、疑似的な幸福と父親になる権利を買わされている。
「……悪い世界ではないのかも、しれないな。少なくとも、一人ぼっちで死ぬよりは」
思わず独り言が漏れた。
だが、その数字上の救済の代償として、目の前のカメラに生活のすべてを、魂の尊厳すらも切り売りしている少女たちはどうなる?
この完璧な効率社会の裏で、甘い汁を吸っているのは一体誰だ?
私は席を立ち、本を元の場所へ戻した。
図書室を出る瞬間、私はわざと入り口のカメラを見つめ、少しだけ悲しげに、そして決意を秘めたように碧眼を細めてみせた。
「青空 天音」という物語に、一筋の憂いを。
画面の向こう側で、誰かが呼吸を止めた気配がした。
私はそのまま、光の溢れる廊下へと踏み出した。
小学校入学から数ヶ月。俺、青空 天音の周囲は、他の生徒たちとは明らかに違う色を帯び始めていた。
「天音さん、こちらが今日からあなたが使用する特注の学習デバイスと、専用のコンシェルジュ・ドローンです」
教師が恭しく差し出してきたのは、最新鋭のホログラム端末だった。
クラスメイトたちの机には標準モデルが並ぶ中、俺の周りだけがSF映画のようなハイテク機器で固められている。理由は明白だ。俺の配信ランクが、入学早々にして学年でトップに躍り出たからだ。
「……これが『投資』の力か」
前世、有名大学を卒業しても奨学金の返済に追われ、安アパートで震えていた俺にとって、この環境は皮肉にも心地よかった。栄養バランスが完璧に計算された高級レストラン並みの食事、専門の講師によるマンツーマンの英才教育、そして肌のキメを整えるための専用スパ。
男たちの金が、俺という個体を研磨し、さらに価値を高めていく。この合理的な上昇サイクルに、前世のスペック重視だった脳が、ディストピアだと理解しながらも快感を覚えていた。
俺には確信があった。
他の少女たちがカメラに向かってお菓子を食べたり、ダンスを披露したりする中、俺はあえて静寂を売った。
図書室で難しい学術書を読みふけり、ふとした瞬間に窓の外を見て、寂しげに、あるいは慈しむように微笑む。
「君は他の子とは違う」「君なら僕のことを分かってくれるはずだ」
画面の向こうでそう呟いているであろう、男たちの聖域になること。それが、50年の人生を経て辿り着いた、最も効率的な集金術だった。
だが、そんな完璧な女神の仮面が、どうしても剥がれ落ちてしまう瞬間がある。
生活のすべてが中継されるということは、つまり――トイレや入浴すらも、彼らの眼下にあるということだ。
「……くっ」
浴室の脱衣所。四方八方に設置された高精度カメラが、俺の動きに合わせて滑らかにレンズを絞る。
服を脱ぐ指先が、どうしても小刻みに震える。
頭では分かっている。これはこの世界のルールだ。俺への投資額がこれほど高いのは、彼らがこの無防備な瞬間を何よりも心待ちにしているからだと。
湯船に浸かり、膝を抱えて顔を埋める。
まるで巨大なマジックミラー越しに、何十万という男たちの欲望に満ちた視線が、物理的な熱を持って俺の肌を撫で回しているような感覚。
前世、男だったからこそ分かる。彼らが今、どんな顔をして、どんな息遣いでこの画面を凝視しているかを。
(恥ずかしい……。死ぬほど、恥ずかしい……!)
碧眼に涙を浮かべ、羞恥に顔を真っ赤に染めて震える俺。
だが、その拒絶と羞恥が、演出ではない本物の奇跡の美少女の反応として、男たちの独占欲を狂わせる。
俺が恥じらえば恥じらうほど、男たちは「天音ちゃん、愛してる!」「そんな顔をさせるのは僕だけでいい!」と狂喜乱舞し、さらに巨額の金を投げ込むのだ。
「……最低だ、あいつら」
お湯の中に顔を沈めながら、俺は心の中で毒づいた。
だが同時に、その最低な男たちの投資のおかげで、俺は今、世界で最も贅沢な籠の鳥として君臨していた。