Nリーグは現実世界のAbemaのMリーグとは一切関係ありません。
プロローグ
かつて麻雀という名の深淵に魅せられ、そしてその闇に呑まれた男がいた。
大学生という輝かしい時間をすべて牌に捧げ、Nリーグという至高の舞台を夢見た青年。しかし、若さゆえの慢心は彼を裏社会のマンション麻雀へと誘い、巧妙なイカサマの罠に嵌めた。
二千万という、学生には到底不可能な負債。夢は潰え、希望は枯れ、残ったのは泥を啜るような絶望と、逃れられぬ借金の重み。そして彼は、何一つ成し遂げられぬまま、惨めにその生涯を閉じた。
次に目覚めた時、彼は「冬見 怜」という名の少女になっていた。
透き通るような肌、背中まで流れる漆黒の長い髪。のちにその肢体は長い四肢と目を引く肉感的な曲線を描き、本人の意思に関わらず周囲の男たちの視線を釘付けにするほどの美貌を具えていく。
しかし、怜の心は空虚だった。
(……もう、どうでもいいのです)
前世のあまりに惨めな結末が、彼女の情熱を完全に凍らせていた。誰に対しても崩さない丁寧な敬語は、敬意ではなく拒絶。彼女はただ、美しい人形のように無気力な日々を過ごしていた。
転機は、小学校高学年の夏に訪れた。
日本の夏を支配する一大イベント――「全国高校麻雀選手権」。前世の野球甲子園に代わり、今や日本全土を熱狂させるのは、四角い牌を操る高校生たちの死闘だった。
「おい怜! 見ろ、オーラスだぞ! 逆転の跳満直撃だ!」
リビングでビール片手に絶叫する父親。怜は冷めた目で、しかしふとテレビの画面に視線を向けた。
そこに映っていたのは、全身全霊を込めて牌を叩きつける高校生たちの姿。流れる汗、震える指先、そして勝利に涙し、敗北に咽び泣く瞳。
(……ああ。そうだ、私は)
胸の奥底、分厚い氷に閉ざされていた場所が、にわかに熱を帯びる。
かつて憧れたNリーグ。知的で、論理的で、一打に己の魂を込めるあの研ぎ澄まされた戦場。あの時、汚い大人たちに踏みにじられた純粋な勝負が、目の前の画面の中で眩いばかりに輝いていた。
(私は、あそこに立ちたかった。あのように、純粋な勝負の中で生きたかったのです)
前世で失ったのは金だけではない。誇りも、夢も、麻雀を愛する心さえも奪われた。だが、この世界なら。この身体なら。
「お父様」
怜は静かに口を開いた。その瞳には、数年ぶりに明確な色が宿っていた。
凛とした黒髪をなびかせ、彼女はテレビの中の熱狂を射抜くように見つめる。
「私、決めました。私も……この大会に出ます」
「おおっ! ついにやる気になったか怜! よーし、パパが特訓に付き合って……」
「いえ、結構です。自分でやりますので」
丁寧だが、有無を言わせぬ冷徹な響き。
かつて夢を断たれた男の執念と、美少女としての新たな器。その二つが混ざり合い、史上最も怜悧で、最も熱い「氷の雀士」が産声を上げた瞬間だった。
テレビからは決着後の様子が流れ続ける、対局室を包む静寂が解け、勝者と敗者の明暗が分かれる。テレビ画面の中、敗北した男子生徒は力なく項垂れ、勝者は歓喜に拳を突き上げている。
かつてNリーグという高潔な戦場を夢見た怜にとって、それは再起を誓うに相応しい熱狂に思えた。……次の瞬間までは。
「さあ! 敗者のパートナーが、勝者にその身を捧げます!」
実況の絶叫とともに、カメラが信じられない光景を映し出した。
敗北した男子生徒の傍らにいたはずの「パートナー」の女子生徒が、吸い寄せられるように勝った男子生徒のもとへ歩み寄る。そして、全国放送のカメラの前で、遮るものもなく、あまりにも生々しい行為が始まった。
「…………は?」
怜の思考が凍結した。
画面の中では、女子生徒と勝者の男の交わりが繰り広げられている。彼女の表情には微かな拒絶と、逃れられぬ運命への絶望が混じっているようにも見えたが、周囲の観客はそれを「勝利の報酬」として当然のように喝采している。
(……コンプライアンスは、どこへ行ったのですか?)
怜の脳裏に、前世で見た洗練されたNリーグの光景が浮かぶ。
清潔なユニフォーム、厳格なルール、そして何より、競技者への敬意。麻雀とは知性のぶつかり合いであり、人間としての格を示すゲームだったはずだ。
(なぜ……なぜ、神聖な知的ゲームの場に、このような肉欲という不純物が混じっているのですか? これはスポーツではなく、ただの野蛮な見世物ではありませんか)
「ガハハハ! 見ろよ怜! これぞ高校麻雀の醍醐味、勝者総取り(ウィナー・テイクス・オール)だ! あの娘、嫌がってるフリして身体は正直だなぁ、おい!」
リビングに響く、父親の下卑た笑い声。ビールを煽りながら、画面の痴態に目を細めるその姿は醜悪に見えた。
怜は、ゆっくりと首を動かした。
その視線は、もはや絶対零度。室温を数度下げたかのような錯覚を抱かせるほど、鋭利で、冷酷な眼差しが父親を貫く。
「……お父様」
「ん、あ? なんだ怜、お前もあんな風に……」
「黙ってください。死ぬほど不快です」
その声には、怒りすら超えた深い拒絶が込められていた。父親は蛇に睨まれた蛙のように、喉を鳴らして言葉を飲み込む。
怜はテレビの電源を、指先ひとつで叩き切った。
黒い画面に、冷徹な美貌を持つ自分の姿が映り込む。この美貌も、この世界では報酬としてしか見られない可能性があることを、彼女は瞬時に理解した。
だが。
(いいでしょう。あのような『汚物』がこの競技の正解だというのなら――)
怜は静かに、しかし力強く拳を握りしめた。
前世の雪辱を果たすため。そして、汚された麻雀の尊厳を取り戻すため。
(私が勝って、すべてを書き換えて差し上げます。絆も、愛も、勝利の報酬とやらも……私の打牌で、すべて氷漬けにして葬り去りましょう)
知的で、冷徹で、誰よりも正しく打つ。
コンプライアンスも論理も欠如した狂った世界で、冬見 怜の孤独な宣戦布告が、静かな部屋に響いた。
Side:父親
「……あ、あれ?」
冬見家のリビング。テレビの画面内では、全国大会の熱戦を終えた勝者が、敗者のパートナーであった美少女を勝者の権利として抱き、生々しい睦み合いを繰り広げている。この世界では、勝負の熱狂がそのまま生殖のエネルギーへと直結するのは当たり前。勝てば官軍、抱けば英雄。なんとも健康的で、実に麻雀甲子園らしい、清々しい夏の光景だ。
それを眺める私の隣には、ずっと無気力だった愛娘、怜がいる。
(よ、よし……! 食いついてるぞ!)
私は内心でガッツポーズを作った。
怜は、前世で何かあったのかと思うほど、子供らしい活気がなかった。何を聞いても「はい」「いいえ」の敬語ばかり。そんな娘が、さっき自分から大会に出ると言い出したのだ。
思春期の入り口に立つ娘に、少し刺激が強かったかとも思ったが、この世界じゃこれが「青春」のスタンダード。何かに熱中し、誰かを求め、全力で生きる。その活力を、怜にも取り戻してほしかった。
「ガハハハ! 見ろよ怜! これぞ高校麻雀の醍醐味、勝者総取り(ウィナー・テイクス・オール)だ! あの娘、嫌がってるフリして身体は正直だなぁ、おい! 怜もあんな風にいい男見つけてな……」
親心ゆえの、精一杯の激励。
お前もあんな風に、誰かと熱くぶつかり合ってほしい。そんな願いを込めて、デレデレと鼻の下を伸ばしながら娘の方を振り返ったのだが。
「…………っ」
背筋に、氷柱を叩き込まれたような衝撃が走った。
怜が、私を見ていた。
黒髪を静かに揺らし、その怜悧な美貌に軽蔑という名の極低温を宿して。
(な、なんだ……この殺気は……?)
彼女の瞳は、もはや父親を見るそれではない。
不潔な害虫か、あるいは理解不能な言語を喚く家畜を見るような、絶対零度の眼差し。
「……お父様」
「ん、あ? なんだ怜、お前もあんな風に……」
「黙ってください。死ぬほど不快です」
「あ、はい……すみません……」
思わず反射的に謝ってしまった。
冷たい。いや、痛い。
娘に活力を取り戻させたかっただけなのだが、どうやら私は、取り返しのつかない「何か」を踏み抜いてしまったらしい。
滝のように冷や汗が流れ落ちる。
画面の中では、まだ勝者が勝利の報酬を堪能しているが、我が家のリビングはすでに北極圏より寒かった。
怜は、テレビのスイッチを無造作に消すと、スッと立ち上がった。
その将来を期待させる美貌は、さっき画面に映っていた女子生徒よりも遥かに男を狂わせる魅力を放っているが、今の彼女から発せられるオーラは、触れれば指が凍りつくほどに鋭利だ。
(……やっちまった。元気づけるつもりが、とんでもない怪物を目覚めさせちゃったんじゃなかろうか……)
無言で部屋を去る娘の背中を、私はただ、汗を拭いながら震えて見送るしかなかった。