プロローグ
天宮小春が自らの「美しさ」を自覚したのは、ようやく自我が芽生え始めた五歳の頃だった。
鏡の中にいたのは、人形のように整った目鼻立ちと、吸い込まれるような漆黒の瞳を持つ少女だった。だが、その背後に映り込む景色は、およそ美しさとは無縁のものだった。
床に散らばったビールの空き缶、借金の督促状、そして不機嫌そうに煙草を燻らす父親。
「小春、今日はオーディションだ。いいか、しっかり笑えよ。落ちたら今日の晩飯は抜きだ」
父親の言葉に嘘はなかった。
小春が生まれた時から、天宮家はどん底だった。父は定職につかず、たまに持ってくる金も競艇やパチンコで霧散した。母はそんな父に愛想を尽かすどころか、共依存のように縋り付き、僅かな小銭を求めて小春を「市場」へと連れ出した。
最初は可愛らしい子供服のカタログモデルだった。
しかし、小春の持つ「男受けする美貌」が業界人の目に留まるのに時間はかからなかった。前世の男としての記憶を持つ小春は、大人が自分に何を求めているかを本能的に理解していた。首の角度、瞳の潤ませ方、そして「無垢」を装った唇の開き方。
小春が笑顔を売るたびに、家の食卓には肉が並び、父親の機嫌が良くなった。
だが、その幸せは長くは続かない。稼いだ金はすぐに父親の浪費とギャンブルに消え、家計は常に自転車操業だった。小春の稼ぎは「生活のため」ではなく、両親の「欲望のガソリン」に過ぎなかったのだ。
小学校に通うようになる頃には、小春は「知る人ぞ知る」美少女ジュニアモデルとして、ネットの一部で熱狂的な支持を集めていた。
仕事の内容は、次第にエスカレートしていく。
「小春ちゃん、今日はこのフリルが付いた下着を着てみようか。そう、もう少し恥ずかしそうに胸の前で手をクロスして……」
清潔なスタジオの中で、大人たちがカメラを構える。
小学生用のジュニア下着。法律の隙間を縫うような、際どいアングル。
普通の子供なら泣き出すか、不気味に思うような状況でも、小春は無心でシャッター音に合わせてポーズを変えた。
(……気持ち悪い。けれど、これをやめれば家は終わる)
前世の記憶が、冷徹に現状を分析する。自分は今、商品として磨かれている。価値が高まれば高まるほど、自由は遠のき、両親という名の寄生虫に吸い尽くされる。
だが、拒否権はなかった。小春が撮影を嫌がれば、母は狂ったように泣き叫び、父は拳を振り上げる。
学校での立場も、彼女を追い詰めた。
「天宮さん、雑誌に出てたよね」
「なんか、エッチな格好してたって男子が言ってたよ」
女子たちからは汚物を見るような疎外感。男子たちからは、小学生とは思えない卑俗な好奇の視線。
休み時間の教室で、小春はいつも一人だった。窓の外を見上げ、空を流れる雲を数える。
自由になりたい。どこか遠くへ、誰も自分を知らない場所へ行きたい。
小学校高学年になる頃には、天宮家の家計は破綻寸前まで加速していた。
小春がどれだけ働いても、それ以上のスピードで父が借金を重ねてくるのだ。
「もっとだ。もっと金になる仕事はないのか!」
父の怒鳴り声が、薄いアパートの壁に響く。
母は、すっかり虚ろになった目で小春を見つめる。
「小春……お前がもっと頑張れば、お父さんも優しくなるのよ」
その時、小春は悟った。
このままでは、自分は死ぬまでこの親たちに食い物にされる。より過激な、より「金になる」仕事に突き落とされるだろう。
(……逃げなきゃ。法的に、物理的に、この連中が手の届かない場所へ)
小春は、学校の図書室で必死に調べ物をした。
この国で、親の干渉を完全に排除し、親から自立できる唯一の道。
それは、全寮制の瑞穂冒険者学園への入学だった。
そこは才能のある者が集う聖域であり、一度入学すれば、一年後の卒業までの間は国家が身分を保証する。親であっても、学園の敷地内に勝手に入ることは許されない。
(才能なんてない。魔法適性も、身体能力も、私は『普通』だ。けれど……)
小春は、鏡に向かって「営業用」の完璧な笑顔を作った。
今持っているこの容姿を、美貌を、そして男を狂わせる知識さえも、すべて武器にしよう。
たとえ泥を啜ってでも、両親から自由になる。
「中学校に行ったら、もっとすごいビデオに出るって約束するから。だから、私を冒険者学園の受験に行かせて」
小春が両親にそう告げたとき、彼女の心は完全に凍りついていた。
公立の中学校に進学した小春は、迷わず「冒険実技部」の門を叩いた。
現代において冒険者はエリート職だ。難関である瑞穂冒険者学園への切符を掴むためには、学力以上に「ダンジョン内での立ち回り」という実績と、実技への適性が不可欠になる。
小春の適性は、絶望的なまでに「普通」だった。
放出できる魔力量は平均値。剣筋の鋭さも凡庸。だが、彼女には誰にも真似できない武器があった。「前世の男としての視点」と、生き延びることへの異常な執念だ。
「天宮、お前は本当に……嫌な戦い方をするな」
部活動の模擬戦後、対戦相手の男子部員が苦々しく吐き捨てた。
小春は魔法を直接攻撃に使わず、相手の視界を僅かに屈折させたり、足元の土を泥に変えたりといった、極めて小規模な「嫌がらせ」に特化させた。そして、相手が苛立ち、姿勢を崩した刹那に最短距離で木刀を突き立てる。
華やかさはない。だが、その合理的で狡猾な立ち回りは、確実に彼女の評価を「実戦向き」へと押し上げていった。
一方で、家庭環境は限界を迎えようとしていた。
小春がジュニアモデルとして稼いできた金は、完全に底を突いていた。父の借金は膨らみ、家には荒っぽい声の男たちが取り立てに来るようになる。
「小春、もうジュニアなんて甘いこと言ってられないんだよ」
梅雨時、母が震える手で一枚の契約書を差し出した。
それは、裏社会と繋がりのある制作会社との、特別な専属契約書だった。
「これに出れば、お父さんの借金は全部チャラになる。瑞穂への受験料も、寮費の予備だって出してくれるって。お願い、小春……お前しかいないんだ」
小春は、目の前に並べられた契約書と、泣き縋る母を冷徹な目で見つめた。
(ああ、ついにこの時が来たか)
逃れられない運命なら、いかに高く自分を売るか。小春は静かにペンを取り、条件を書き加えた。
「撮影は夏休みの間だけ。その代わり、私の演技指導には一切口を出さないで。それと、報酬の半分は私の個人口座に直接振り込むこと」
それは、少女が自らを最強の「商品」として差し出し、同時に家族への復讐を誓った瞬間だった。
夏休み。小春は人生のすべてを賭けたイメージビデオの撮影に臨んだ。
決定的な露出こそないものの、前世で「男が何を好み、何に最も欲情するか」を知り尽くしている小春の演技は、演出家の想像を遥かに超えていた。
極小の布地を纏ったポーズ、湿った視線、そして法に触れる限界を攻めた過激な衣装の着こなし。
「聖女のような無垢さ」と「こちらを誘うような卑俗さ」を完璧に使い分けたその映像は、発売されるや否や爆発的なヒットを記録する。
そして9月。登校初日、校門をくぐった瞬間に突き刺さる視線。
それはこれまでの「美少女モデルへの興味」とは明らかに違った。
「この美少女の、見せてはいけない姿を見た」という全能感に満ちた、汚泥のような欲望の視線だ。
「おい……あれ、小春だろ?」
「マジかよ、昨日見たぜ。あの衣装、ヤバすぎた……」
廊下を歩くだけで、背後から卑猥な指笛が鳴る。
部活動の部室に行けば、男子部員たちの目は血走っていた。
「天宮、お前……あんな格好して、剣の練習なんてよくできるな」
顧問の教師ですら、小春の体を見る目に理性が欠けていた。
ビデオ発売から一ヶ月。小春は部活動を退部せざるを得なくなった。
きっかけは、部室の裏で数人の男子生徒に囲まれたことだった。
「どうせビデオであんなポーズしてんだろ? 俺たちにも見せろよ。減るもんじゃないだろ?」
その目は、もはや同じ人間を見るものではなく、画面越しに消費する「モノ」を見る目だった。
小春は、懐に隠し持っていた護身用の短剣の柄に手をかけ、冷たく言い放った。
「……触らないで。今の私に構ってる暇があるなら、勉強でもしたら? 私はあんたたちなんか眼中にないから」
実害が出る前の、咄嗟の判断だった。彼女は学校の施設を一切使わず、独学で鍛える道を選んだ。
夜の河川敷、あるいは深夜の誰もいない公園。
小春は独り、木刀を振り、魔力を循環させる。
ビデオの売上で密かに手に入れた、高性能な重力重りを四肢に付け、限界まで自分を追い込む。
(笑えばいい。抜けばいい。蔑めばいい)
月光の下で、小春の黒髪が美しく舞う。
流れる汗も、荒い吐息も、すべては瑞穂冒険者学園という「隔離施設」へ逃げ込むための投資。
そこへ行けば、少なくとも一年は親からは離れられる。
才能は「普通」。
環境は「最悪」。
だが、その心に宿る火は、誰にも消せないほどに黒く、鋭く燃え上がっていた。
中学を卒業する年の冬。受験シーズン真っ只中においても、小春に安らぎの場所はどこにもなかった。
学校の教室は、彼女にとって「好奇の檻」でしかなかった。イメージビデオの反響は衰えるどころか、ネットを通じて拡散し続け、小春が廊下を通るたびに男子生徒たちがスマートフォンを隠しながら卑猥な笑みを交わす。
しかし、彼女は折れなかった。
放課後、周囲が塾や部活動に勤しむ中、小春は一人、街外れの古い森林公園や、魔素の溜まる下水道の入り口付近で剣を振った。
独学は非効率だったが、誰の視線も気にしなくて済む。小春は前世のゲーム知識や軍事的な立ち回りの論理を応用し、自身の「普通」な能力を最大化する戦術を研ぎ澄ませた。
魔法で敵の平衡感覚を狂わせ、姿勢が崩れた瞬間に、重力重りで鍛えた脚力で最短距離を詰め、喉元を突く。
その動きは、もはや中学生の部活動レベルではなく、泥の中で生き残るための「狩り」の動きに変質していた。
家の中もまた、別の地獄だった。
イメージビデオで得た莫大な収益の半分は、約束通り小春の個人口座に振り込まれていたが、残りの半分を両親はわずか数ヶ月で使い果たしていた。
「小春、次の撮影の話が来てるわよ。今度はもっと『攻めた』内容なら、単価が三倍になるって……」
「受験があるから、今は無理」
「受験? 冒険者学園なんて、そんな不確かなものより、今ある金を稼ぐ方が大事だろ!」
父親が食卓を叩き、怒鳴り散らす。
彼らにとって、小春は夢を追う娘ではなく、金の卵を産み続ける機械に過ぎなかった。
小春は無言で自室へ戻り、内側から鍵をかける。
通帳に記された、自分の「価値」の残高を見つめる。
(あと少し。入学金と寮費、それから当面の生活費。これさえあれば、私はこの家から消えられる)
そのために、彼女は自分の「性的価値」を最大化して売ったのだ。その自覚が、彼女を冷徹な刃へと変えていた。
迎えた二月。小春は瑞穂冒険者学園の試験会場にいた。
全国から「神童」や「怪物」と呼ばれる少年少女が集まる場所。そこでも、小春の容姿は異彩を放っていた。
「おい、あれ……天宮小春じゃないか?」
「嘘だろ、受験に来たのかよ。実技、できるのか?」
ざわめきを無視し、小春は試験に臨む。
筆記試験は、前世の教育経験を活かして高得点を叩き出した。
問題の実技試験。対戦相手は、名門の道場に通う精鋭の少年だった。
「ビデオの女の子が相手かよ。手加減してやるから……」
少年の言葉が終わる前に、小春の魔法が発動した。彼の足元の影が微かに揺らぎ、奥行きの感覚を奪う。
「えっ」
少年がよろめいた瞬間、小春の木刀が彼の首筋にピタリと止まっていた。
審判の教師が目を見張る。才能は平凡だが、実戦における「急所」への嗅覚が、他の受験生とは一線を画していた。
結果は――合格。
ただし、特待生やAクラスではない。実力が拮抗する者が集まる「真ん中のクラス」。
小春にとって、それは十分すぎる結果だった。
三月。
春のうららかな陽射しが差し込む、天宮家の古びた玄関。
瑞穂冒険者学園の指定である、真新しいセーラー服に身を包んだ小春は、足元に置いた大きめのボストンバッグの持ち手をぎゅっと握りしめていた。
いよいよ明日から、全寮制の冒険者学園での生活が始まる。
この息の詰まる家から、そして自分を金食い虫としてしか見ていない両親から離れられる。小春の胸には、微かな解放感と、立派な冒険者になって自分の人生を切り開くという希望が入り交じっていた。
「小春。忘れ物はないか?」
背後から声がかかり、小春は振り返った。
見送りに来た父親と母親。二人の顔には、娘の門出を祝うような笑顔が浮かんでいた。だが、その瞳の奥には、親としての愛情とは全く違う、ひどく打算的で濁った光がへばりついている。
「……うん。大丈夫」
「そうか。……あのな、小春。冒険者学校ではダンジョンでの実習もあると聞いている。危険な魔物も出るだろう。だが、お前は絶対に無茶をしてはいけないよ。怪我だけは、絶対にするな」
父親のその言葉は、表面上は娘を心配する親のそれに聞こえた。
だが、続く言葉が、小春の足元から一瞬にして体温を奪い去った。
「お前も知っての通り、うちには莫大な借金がある。……実はな、お前が学校を卒業した後の『働き口』について、債権者の方々とすでに契約を済ませてきたんだ」
「……え?」
小春の口から、間の抜けた声が漏れた。
「とても良い条件だったのよ」
母親が、さも素晴らしいことのように手を打ち合わせた。
「お前が卒業後、彼らが手掛ける『特別な映像作品』に出演して借金を返済していくという契約よ。もちろん、若くて傷のない綺麗な体じゃないとマニアには高く売れないから、一年後の卒業と同時に専属の女優として引き渡すことで合意しているわ」
それは、娘を裏社会の非合法なビデオ撮影の被写体として売り飛ばすという、あまりにも残酷な宣告だった。
だが、両親の顔には一切の罪悪感がない。むしろ、借金の肩代わりとなる優秀な「商品」を育て上げたことに満足すらしているようだった。
「いいか、小春。これは正式な契約だ。もしお前がダンジョンで死んだり、あるいは体に消えないような大きな傷を作って『商品価値』を下げたり、逃げ出したりしてみろ。……うちには、とんでもない額の違約金が請求されることになっているんだ」
父親が一歩近づき、小春の肩を強く、痛いほどに掴んだ。
「だから、絶対に体を傷つけるな。お前の体は、俺たちの借金を返すための大切な『資産』なんだからな。……一年間、傷一つつけず、必ずこの家に帰ってくるんだぞ」
親からの愛情だと思っていた言葉は、すべて「商品管理」のための警告だった。
小春は、血の気が引き、足の先から全身が冷たく凍りついていくのを感じた。
この人たちにとって、私は人間ではない。
カメラの前で使い潰されるだけの、ただの換金アイテムだ。
「……わかっ、た……」
震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。
両親は満足そうに頷くと、「いってらっしゃい」と手を振って、薄暗い家の中へと戻っていった。
玄関の扉が閉まり、一人残された小春は、春の温かい風の中でガタガタと震えていた。
逃げ場など、どこにもない。
卒業すれば、否応なしにカメラの回る地獄の底へと突き落とされる。契約という名の絶対的な鎖が、すでに彼女の首に固く巻き付いていたのだ。
(……嫌だ。絶対に、嫌……!)
ボストンバッグの持ち手を握る手に、白くなるほど力がこもる。
この絶対的な絶望から逃れる方法は、一つしかない。
瑞穂冒険者学園で、借金と違約金をすべて叩き返せるほどの一流の冒険者になること。それしか、この呪われた契約を破棄する道はないのだ。
「絶対に……私自身の力で、未来を切り開いてみせる……!」
まだ死んだ魚の目をしていない、必死な絶望と微かな希望を宿した瞳。
天宮小春は、自らを待ち受ける残酷な運命に抗うため、震える足で学園へと向かう第一歩を踏み出した。
――そのささやかな希望が、入学後わずか数週間で、残酷な才能の壁と男たちの欲望の前に無惨に打ち砕かれることなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
四月の柔らかな陽光が、瑞穂冒険者学園の広大な敷地を照らしていた。
重厚な石造りの校門をくぐり、新入生たちが希望に胸を膨らませて大講堂へと向かう。その中において、天宮小春は一際異質な存在感を放っていた。
「……おい、嘘だろ」
「マジかよ、本当に……」
ざわめきは、彼女が歩を進めるたびに波紋のように広がっていく。
標準よりやや小柄な体型に、吸い込まれるような黒髪。瑞穂の制服に身を包んだ彼女は、日本中の男子が画面越しに夢見た「天宮小春」そのものだった。しかし、その顔に浮かんでいるのは、新入生らしい初々しさではなく、すべてを悟ったような冷めた諦観だった。
大講堂に足を踏み入れた瞬間、小春は無数の「視線の矢」を全身に浴びた。
それは憧憬などではない。あの中学校の廊下で、あるいは放課後の公園で浴びてきたものと同じ、粘りつくような性的な関心だ。
(……この会場にいる男子の九割は、私のビデオを持ってるわね)
小春は無言で、指定されたクラスの席に座る。
隣の席の男子生徒が、あからさまに鼻を鳴らし、そわそわと身体を動かした。彼は小春の横顔を盗み見ては、何度も生唾を飲み込んでいる。
「……なぁ、本物なんだな。あのビデオより、実物の方がずっと……」
彼が何と言おうとしたのか、小春は聞かなかった。ただ前だけを見据え、自分の内側に魔力を循環させる。
この場にいる男子生徒のほとんどが、彼女の肢体を隅々まで、それこそ本人以上に「知っている」という優越感を抱いている。平均10回。それは、彼女という偶像が消費されてきた、最低限の回数に過ぎなかった。
式が始まると、壇上に在校生代表として一人の少女が立った。
金髪を完璧な縦ロールにまとめ、凛とした空気を纏った美女――優秀な生徒のみが進むことができる、上位学年に属する生徒会長の皇華憐だ。
彼女がマイクの前に立つと、会場の卑俗なざわめきが瞬時に静まり返る。
「……新入生の皆さん。瑞穂冒険者学園は、人類の希望である冒険者を育成する聖域です。ここでは実力こそが全てであり、高潔な精神と規律こそが、貴方たちをダンジョンの深淵から守る盾となります」
華憐の声は鈴を転がすように美しいが、その眼差しは刃のように鋭い。
演説の途中、華憐の視線が一瞬だけ小春を射抜いた。
そこに含まれていたのは、明白な「嫌悪」だった。
秩序を重んじる彼女にとって、あのような過激なビデオに出演し、性のアイコンとして君臨する小春は、学園の品位を汚す存在以外の何者でもなかった。
(……嫌われてるわね。いいけど)
小春は内心で自嘲気味に笑う。
期待などしていない。自分はここに友達を作りに来たわけでも、ヒーローになりに来たわけでもないのだから。
静まり返った大講堂。数百名の新入生たちが緊張の面持ちで整列する中、壇上に立った初老の男――この学園の絶対的な支配者である理事長は、マイクの前に立ち、氷のように冷たく、しかし芯に響く声で語り始めた。
「新入生の諸君、学園への入学、誠におめでとう。君たちは今日から、栄えある冒険者への第一歩を踏み出すことになる。……だが、まず最初に、君たちが胸に抱いているであろう『英雄への甘い幻想』を、ここで完全に打ち砕いておこう」
理事長は鋭い視線で講堂を見渡した。新入生たちの間に、微かな動揺が走る。
「かつて、この学園は『最強の武』と『至高の魔術』を育てることだけに特化していた。そして数十年前に、学園史に残る天才たちばかりを集めた最強のパーティーが卒業していった。彼らの剣は竜の鱗を断ち、魔法は山を吹き飛ばしたという。……だが、彼らは初陣のダンジョンで、あっけなく全滅した」
講堂の空気が、ピンと張り詰める。
「魔物に敗れたのではない。恐るべき罠にかかったわけでもない。彼らは『飢え』と『仲間割れ』で死んだのだ。
彼らは己の強さを過信し、高価な武具ばかりに金をかけ、予備のポーションや保存食を買う資金を惜しんだ。そして、ギリギリの極限状態の中で、戦利品の分配を巡って疑心暗鬼に陥り、殺し合い、自滅した。
……どれほど圧倒的な力を持っていようとも、リソースの管理と、仲間の信用を維持する『打算』を持たない者は、ダンジョンという冷酷な密室では生き残れない。それが、先人たちが残した血の教訓だ」
理事長はそこで言葉を区切り、手元の端末を軽く叩いた。
講堂の巨大モニターに、無機質な『数字』――『0』が表示される。
「ゆえに、この学園では通貨、ましてや君たちの家柄など、ただの鉄屑であり紙切れに過ぎない。この瑞穂冒険者学園は、敷地全体が一つの『巨大な疑似ダンジョン』である。
今日から君たちの命運を握るのは、たった一つ。学園が君たちの成果に応じて支給する『実績ポイント』のみだ」
モニターの『0』が、カチカチと音を立てて増えていく。
「座学での優秀な成績、実習での討伐成果、あるいは学園が発行する雑務クエストの達成。それらすべてがポイントに変換される。
そして、食堂での温かい食事も、ふかふかのベッドも、新しい武器も、高位の魔導書の閲覧権も、すべてこのポイントでしか買い取ることはできない。
努力し、結果を出した者は豊かな生活とさらなる力を得る。結果を出せない者は、冷たい床で飢えを凌ぐことになる」
理事長の瞳の奥で、冷酷な計算の光が瞬いた。
「そして最も重要なのは、このポイントが『生徒間で自由に譲渡できる』ということだ。
剣士は傷を癒やせない。魔術師は敵の牙を防げない。君たちは、自分に足りないものを他者から補わなければならない。その時、空虚な友情や口約束ではなく、『己の稼いだポイント』を対価として支払い、他者の協力を買い取るのだ。
『俺の盾になってくれたらポイントを払おう』。
『私の回復魔法が必要ならポイントを頂戴』。
そうやって、他者と己の命の価値を数値化し、冷徹に天秤にかけよ。ポイントとは、君たちの『生存能力』であり、同時に『他者からの信用』を可視化した、血の通った数字なのだ」
理事長は両手を広げ、まるで盤上の駒たちを歓迎するように薄く笑った。
「力なき者は知恵を絞り、知恵なき者は体を張れ。己の持てるすべてを『数字』に変換し、この学園という残酷なダンジョンを生き抜いてみせよ。
無力なまま淘汰されるか、それとも計算高き生存者として卒業の日を迎えるか。君たちの一年間に、大いに期待している」
やがて閉式が告げられ、新入生たちは各々のホームルームへと移動を始める。
小春が立ち上がると、再び周囲の視線が集まる。後ろの席の男子たちが、彼女の歩き方に合わせて何かを囁き合っている。
「……あいつ、ビデオ通りのケツしてるな」
「最高だな」
そんな声を聞き流しながら、小春は大講堂を後にした。
四月の初旬、瑞穂冒険者学園での生活が本格的に始動した。
小春が所属するクラスは、学力も実技も「良くも悪くも平均的」な生徒が集まる吹き溜まりだ。だが、小春という特異点が存在するせいで、クラス内の空気は常に異様な熱を帯びていた。
午前中に行われた魔法実技の授業。
広大な屋外訓練場で、生徒たちは指定された的へ向かって初級の攻撃魔法を放っていた。
「次、天宮小春」
教師に呼ばれ、小春が指定位置に立つ。彼女が杖を構えた瞬間、周囲にいた男子生徒たちの会話がピタリと止み、何十対もの視線が彼女の背中に突き刺さった。
彼女が放った火球は、的の中心から少し逸れた場所に当たり、小規模な爆発を起こした。魔力量も、発動速度も、平均値そのもの。特筆すべき点は何もない。
だが、男子たちの関心は魔法の威力などにはなかった。
杖を振り抜いた際に強調される細い腰のライン。制服のブラウス越しに透ける肌。そして、息をつくたびに微かに上下する胸の膨らみ。彼らは「伝説のビデオ」の中で見た小春の姿を、目の前の現実に重ね合わせて脳内で反芻しているのだ。
(……見すぎよ、馬鹿みたい)
小春は表情を一切崩さず、所定の位置へ戻る。
自分がどれだけ無能だろうと、彼らにとっては「抜けるか、抜けないか」が全てだった。
昼休み。
小春は食堂の喧騒を避け、中庭の隅にあるベンチで一人、購買で買った簡素なサンドイッチを齧っていた。
孤立は計算通りだった。女子からはビデオの一件で蛇蝎のごとく嫌われ、男子からは神聖化されすぎていて(あるいは下心を隠しきれず)誰も安易に近づいてこない。
「あの、天宮さん……だよね?」
不意に、ふんわりとした甘い声が鼓膜を揺らした。
顔を上げると、そこには桃色の髪を揺らす、絵に描いたような可憐な少女が立っていた。癒術科の特待生であり、学園のアイドルとしてすでに名高い白雪結愛だ。
「一人で食べてるの? よかったら、一緒にお昼、どうかなって思って」
結愛の瞳には、打算や嫌悪はなく、純粋な「同情」が浮かんでいた。劣悪な環境から這い上がってきた(と噂されている)哀れな少女への、無自覚な施し。
小春は、結愛の後方で数人の男子生徒が心配そうに見守っているのを見逃さなかった。
(ああ、眩しいこと。自分が絶対的な『善』の側にいるって、一ミリも疑ってない顔)
小春は冷めた内心を完璧な愛想笑いで隠し、首を横に振った。
「ありがとう、白雪さん。でも、私……まだ少し、人と話すのが苦手で。お腹も痛いから、ここで休んでるね」
「そっか……うん、無理しないでね。何かあったら、いつでも言って!」
結愛は心底安心したような、どこか自己満足に浸ったような笑顔を残して去っていった。
光の当たる道を歩く彼女たちには、一生交わることのない泥濘がここにある。
小春は冷え切ったサンドイッチを飲み込みながら、自らの端末の残高表示を静かに見つめていた。
入学から数週間。天宮小春は、誰よりも早く訓練場に現れ、誰よりも遅くまで木剣を振り、魔力制御の基礎反復を繰り返していた。
両親が契約した『特別な映像作品』、その専属女優の契約破棄の違約金。卒業と同時に裏社会へ売り飛ばされるという地獄の未来を回避するためには、この学園で「実績」を挙げ、自らの自由を買い取るしかない。だからこそ、彼女は必死に泥を啜るように努力した。
だが、冷酷な現実がすぐに彼女の前に立ちはだかった。
(……魔力量、平均値。敏捷性、平均値。……どうやっても、Aクラスのトップ層には届かない)
端末に表示される自分のステータス画面を見つめ、小春は奥歯を噛み締めた。
勇者の圧倒的な身体能力や、上位生徒の暴力的な魔力。彼ら「本物の天才」が一度のダンジョン実習で稼ぎ出すポイントは、小春が血反吐を吐いて稼ぐポイントを容易く凌駕していた。
このままでは、違約金はおろか、日々の生活費を稼ぐだけで一年が終わってしまう。
その一方で、小春をさらに絶望させたのは、周囲の「男たち」の反応だった。
「おい、見ろよ。天宮のやつ、汗で訓練着が張り付いて……すげえエロいな」
「冒険者なんてやめとけよ。俺がポイント払ってやるから、今夜相手してくれないかな」
彼らは小春の「努力」や「冒険者としての価値」には一切見向きもしなかった。
彼らの視線は常に、彼女の細い腰、汗ばむ首筋、白い太ももに粘着質にまとわりついている。冒険者を志す者たちが集うはずのこの学園で、小春に向けられる評価は、吐き気がするほど純粋な「性的な商品価値」でしかなかったのだ。
ある日の深夜、薄暗い女子寮の一室。
小春はベッドの上で膝を抱え、端末の光を見つめていた。
(……このまま真っ当に努力しても、絶対に違約金は払えない。卒業したら、結局見知らぬ男たちに体を汚され続ける地獄が待っている)
その事実は、重い鉛のように彼女の心を押し潰そうとしていた。
だが、その時。彼女の脳裏に、理事長が入学式で放った言葉が蘇った。
『――己の持てるすべてを数字に変換し、この学園というダンジョンを生き抜いてみせよ』
小春の視線が、鏡に映る自分自身の姿――男たちが熱狂し、欲情する「自分の肉体」へと向かう。
冒険者としての才能はない。しかし、この体に対する男たちの需要は、狂気を帯びているほどに高い。優秀層の男たちは、使い切れないほどの莫大なポイントを持て余している。
(卒業後に裏社会でタダ働きさせられるくらいなら……今、ここで。自分の意思でこの体を売り払い、彼らのポイントを根こそぎ奪い取ればいい)
それは、人としての尊厳を完全に投げ捨てる悪魔の計算式だった。
だが、小春の中で「恐怖」や「羞恥」という感情が、スッと冷たく凍りついていくのを感じた。尊厳で借金は返せない。プライドで自由は買えない。
彼女は端末の画面を閉じ、絶対零度の決意と共に立ち上がった。
翌日の放課後。小春は一人、最上階の理事長室のドアを叩いた。
革張りのソファに座る理事長は、突然の来訪者である小春を、面白そうな、そしてすべてを見透かしたような目で迎え入れた。
「……それで、天宮くん。私に直接の直訴とは、何事かな?」
「確認したいことがあって参りました。この学園のポイントシステムについてです」
小春の声には、入学当初にあった焦りや怯えは一切なかった。ただ淡々と、業務連絡をするような平坦なトーンだった。
「理事長は入学式で、『生徒間で自由にポイントを譲渡できる』と仰いました。……もし私が、生徒に『性的なサービス』を提供し、その対価としてポイントを受け取った場合。それは学園のルールに違反し、退学の対象になりますか?」
その言葉に、理事長はわずかに目を見開いた後、喉の奥で低く笑い声を上げた。
「……くくっ、ははは! なるほど。君のご両親のことは知っている。冒険者としての才能に見切りをつけ、己の最大の『武器』を使って富をかき集める決断をしたというわけか」
「違反か、違反ではないか。それだけをお答えください」
小春の死んだ魚のような瞳に見つめられ、理事長はニヤリと唇を歪めた。
「……違反ではない。この学園では、ポイントのやり取りはすべて『当事者間の合意による正当な取引』とみなされる。君が己の体を商品とし、男たちがそれに価値を見出してポイントを払うのなら、それは立派な『需要と供給』だ」
理事長は立ち上がり、窓の外に広がる学園の景色を見下ろした。
「倫理や道徳など、ダンジョンの底では一文の価値もない。己の持てるリソースを極限まで活用し、泥を啜ってでも生き残ろうとするその執念。……それもまた、立派な『生きる力』だ。私は教育者として、君のその生存戦略を黙認し、歓迎しよう」
学園の絶対者からの、冷酷で完璧なお墨付き。
その言葉を聞いた瞬間、天宮小春という少女の中で、最後の人間らしさが完全に死に絶えた。
「……ありがとうございます、理事長。安心しました」
小春は深く一礼し、理事長室を後にした。
歩き出す廊下の先には、優秀層の男たちが、獲物を狙うようなギラギラとした目でこちらを見ている。
しかし、小春はもう怯えなかった。彼女にとって、彼らはもはや恐怖の対象ではなく、自分を自由へと導くための「ポイントの詰まった財布」に過ぎない。
(さあ、稼ぎましょう。私の心も体も、すべてを数字に変えて)
四月の終わり。
瑞穂冒険者学園に、誰よりも冷酷で、誰よりも強靭な精神を持つ「学園一の公衆便所」が、その狂気的な営業を静かに開始した。