ディオゲネスの間   作:なのさま

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今に生きていなければ、私もディオゲネスのようになりたかった。


炎 天下

 夜は、火の色をしていた。

 

 本能寺の梁が鳴る。

 ぱち、ぱち、と小さくはじけていたものが、いつしかばりばりと骨の割れるような音へ変わっていた。障子はすでに焼け落ち、襖の向こうもこちらもなく、ひとつの炎が堂内を満たしていた。煙は濃く、熱は肌を刺す。人の叫び、鎧のぶつかる音、床板を踏み抜く音、どこかで女が泣く声、それらが火の唸りに呑まれて、もはや何が何だか判然としない。

 

 織田信長は、焼け残った一間の隅に立っていた。

 

 衣は乱れ、髪も解け、肩口にはすでに浅からぬ傷があった。だが、その目だけはまだ死んでいなかった。眼前に広がる火を見ても、狼狽の色は薄い。驚きはあった。怒りもあった。だが、それらはもう、燃え盛る堂の中でこそ澄んでいた。

 

 明智。

 

 その名を、声には出さなかった。出したところで火が答えるわけでもない。

 

 裏切りなど、信長にとって未知ではなかった。人は利で動き、恐れで動き、怨みで動く。昨日まで膝を折った者が、今日は刃を向ける。天下布武の道は、その繰り返しであった。驚くに値するのは謀反それ自体ではない。ただ、それがついにこの夜、この寺、この時に来たということだけだった。

 

 信長は短く息を吐いた。

 

 まだ生きている。

 だが、ほどなく死ぬ。

 

 本能寺はすでに火の牢であり、己はその中央にいる。生き延びたとして、その先に何がある。都を捨て、天下を捨て、織田の名を捨てて、どこへ行く。

 いや、それより先に、信長という男はそこまでして生き延びたいのか。

 

 そこまで考えたところで、急に熱が遠のいた。

 

 火の音も、人の声も、煙の苦さも、するすると引いていった。

 足の裏から板の感触が消えた。

 夜気も、血の匂いも消えた。

 

 

 

 信長は、瞼を上げた。

 

 そこには昼があった。

 

 白い日差しが地に満ちている。雲は高く薄く、風は乾いていた。山でも野でもない、名のつけがたい広がりがどこまでも続いていた。草木は乏しく、ただ光だけがあった。先ほどまで火に囲まれていたはずなのに、今は熱ではなく、静かな陽射しが肌に触れている。

 

 その真ん中に、大きな(かめ)があった。

 

 (かめ)のそばに、一人の男が寝そべっている。痩せた身体に古びた布をまとい、日焼けした皮膚を惜しげもなく晒している。髭は伸び放題で、頭髪も乱れ、乞食と見まがう姿であった。だが、その眼だけが妙に澄んでいた。王を見ても頭を下げぬ目であった。

 

「来たか」

 

 男は言った。

 

 声は低く、からからに乾いていた。

 信長はしばらく黙って相手を見た。

 

「ここはどこだ」

 

「名前などない。どこにもなく、どこにでもある場所だ」

 

 男はそう言って、少し笑った。

 信長は眉をひそめた。

 

「何者だ、汝」

 

()()()()()()

 

 聞き覚えのない名であった。南蛮の坊主か、唐土の隠者か。いや、そのどちらでもよい。夢であろう、と信長は思った。死に際の迷いか、魔の見せる戯れか。いずれにせよ、堂の中で火に包まれている現実より、この白い光景の方がよほど真ではない。

 

 それでも、そこに立つ自分の意識だけは妙に明晰だった。

 

「面妖な夢よ」

 

 信長が言うと、男は鼻で笑った。

 

「人は、理解できぬものをすぐ夢だの妖だのと呼ぶ。名をつければ扱えると思うらしい」

 

 信長はその言い草に、わずかに口元を歪めた。

 不遜な男であった。

 だが、おもしろいとも思った。

 

「ならば問う。わしを知っておるか」

 

「知っているとも。よく焼ける男だ」

 

「織田信長よ」

 

「だから何だ」

 

 その返しが、あまりにあっさりしていて、信長は一瞬言葉を失った。

 織田信長。

 その名を口にすれば、畿内の大名も、堺の商人も、寺社も公家も、たいていは顔色を変える。恐れるか、媚びるか、憎むか、いずれにせよ、無反応ではいられぬ。

 だがこの男は、まるで()()()()()()の名でも聞いたような顔をしている。

 

「天下を目の前にした男ぞ」

 

 信長が言うと、ディオゲネスは(かめ)にもたれたまま空を見た。

 

「天下、と」

 

「そうだ。群雄割拠の乱世を終わらせ、国をひとつの秩序の下に置く。それを為そうとした」

 

「ほう」

 

「笑うな」

 

「笑ってはおらぬ。ただ、いつの世も似たようなことを言う者がいるものだと思っただけだ。秩序、統一、平和。名は立派だが、その下に人を並べるのは、たいてい一人の()だ」

 

 信長の目が細くなった。

 

「欲で何が悪い」

 

「悪いとは言わん。人が大きなことを為すのは、たいてい欲による。だが欲を()()と呼び替えると、少し滑稽になる」

 

 信長はしばし黙り、それから低く笑った。

 

「滑稽、か。そう申すなら申せ。天下を欲したのは事実よ。天下なくして、乱は収まらぬ。敵は敵を呼び、国は裂け、寺は兵を持ち、民は搾られる。誰かが断ち切らねば、世はいつまでも濁ったままよ」

 

「だから、おぬしが断ち切ると」

 

「そうだ」

 

「なぜ、おぬしなのだ」

 

 風が吹いた。

 乾いた風であった。

 白い地は陽に照らされているだけで、何の答えも持たぬ顔をしていた。

 

 信長はすぐには答えなかった。

 なぜ自分なのか。

 これまで考えたことがないわけではない。だが考える時はいつも、答えはすでに決まっていた。力があるから。才があるから。誰よりも見えているから。ためらわぬから。

 そして何より、他の誰にもできぬと思っていたから。

 

「できる者が為すしかなかろう」

 

 信長はそう答えた。

 

 ディオゲネスは片目を開けた。

 

「できる者、か。便利な言葉だ。

 できる者は王になる。

 できる者は国を取り、城を焼き、人を従わせる。

 では訊こう。おぬしは、人を従わせることはできた。

 人の心を終わらせることはできたか」

 

 信長は眉をひそめた。

 

「終わらせる?」

 

「争いの種だ。

 ()()()()()()()()()

 おぬしは城を落とし、寺を焼き、将を討ち、法を変えた。

 だが、それらを人の内から抜けたか」

 

「……抜けぬ」

 

「ならば、おぬしの天下は、何を終わらせる」

 

 その問いは、日差しのようにまっすぐだった。

 

 信長は少し笑った。

 

「何もかも、とは申さぬ。世に仏国土を作るつもりはない。人の欲が絶えぬことなど、わしも承知しておる。だが、欲が欲のまま噛み合い、無数の小競り合いとなって民を磨り潰すよりは、ひとつの大きな力の下に置いた方が()()だ」

 

「まし、か」

 

「そうだ。人が善くならずとも、世の仕組みは整えられる」

 

 ディオゲネスはそこで初めて、少しだけ身体を起こした。

 

「それは、その通りだろう。

 人は善人にならずとも、市場は立つし、道も通じるし、税も取れる。

 だが、おぬしがいま焼け死にかけているのは、その“仕組み”の外で燃える人の心によるのではないか」

 

 信長の頬が、わずかに引きつった。

 

 明智。

 その名が、再び胸の底に落ちた。

 

 信長は本能寺の変を、まだ完全には理解していなかった。なぜか。いつからか。どこで綻びたか。考える時間などなかった。

 だが今、眼前の男は、答えではなく別の形をした問いを寄こしている。

 

「裏切りなど、天下取りにはつきものよ」

 

 信長は言った。

 

「そうだろうな。

 おぬしは“敵”とはよく戦った。

 だが“味方”とは、どうであった」

 

 信長は何も言わなかった。

 

 部下を使い、競わせ、功には報い、逆らえば容赦なく断った。

 それが信長のやり方であった。

 甘えた顔をした忠義より、恐れと利によって結ばれた秩序の方が確かだと思っていた。いや、今でもそう思っている部分はあった。人はしばしば、情より計算の方が裏切らぬ。

 だが、計算で結ばれた者が、計算を変えた時どうなるか。

 それもまた、信長はよく知っていたはずだった。

 

「おぬしは強い」とディオゲネスが言った。

 

「だから、他人の()()に苛立つ。

 おぬしは速い。

 だから、他人の()()を怠慢と見る。

 おぬしは見える。

 だから、他人の見えぬところを()()と切り捨てる。

 大抵の王はそうだ。

 だが強い者にとっての当然は、弱い者にとっては炎になる」

 

 炎。

 

 その言葉に、信長は本能寺の熱を思い出した。

 延暦寺も、長島も、焼いた。

 焼くべきだと思って焼いた。

 ためらいはなかった。

 火は恐れを教える。

 火は逆らう者に、秩序の値を教える。

 

 では今、自分を包むこの火は何だ。

 

「わしを責めに出たか」

 

 信長は静かに言った。

 

「責めるつもりはない。

 責めるのは僧侶の仕事だ。

 私はただ、おぬしが何を持ってここまで来たかを見ている」

 

「何を持って、だと」

 

「空になって死ぬか、まだ何か持ったまま死ぬかだ」

 

 信長は鼻で笑った。

 

「妙なことを申す。人は死ねば皆、空よ」

 

「そうとも限らぬ。

 地位や城や黄金を持って死ぬ者はいない。

 だが、自分をどう見ていたかは最後まで離れぬ」

 

 信長はふと、自分の手を見た。

 ここでは血も煤もついていない。

 若い頃、尾張のうつけと呼ばれた頃のような手にも見えた。まだ何者でもなく、だが何者にもなれると信じていた頃の手だ。

 

「汝は、権力を(あざけ)る口ぶりだな」

 

 信長が言うと、ディオゲネスは笑った。

 

「当然だ。権力とは、人が自分の不足を外に増築したものだ。

 従う者が多いほど、自分が大きくなった気がする。

 褒める声が増えるほど、自分が確かになった気がする。

 だが、おぬしも知っておろう。

 城が高くなるほど、眠りは浅くなる」

 

 信長は答えなかった。

 

 たしかに、眠りは浅かった。

 安土にあっても、甲州に兵を出した夜も、京で茶を飲んだ後も、心のどこかは常に起きていた。敵の動き、味方の顔色、将来の手、裏切りの芽、明日の利。

 天下が近づくほど、静けさは遠のいた。

 だが、それは当然の代価だと思っていた。大きなことを為す者に、安眠など無用であると。

 

「眠りを失うほどの価値があったか」

 

 ディオゲネスが問うた。

 

 信長は空を見上げた。

 青い。

 本能寺の空は今ごろ、煙で黒く濁っているだろう。

 この白い場だけが、妙に静かだった。

 

「価値はあった」

 

 信長はゆっくりと言った。

 

「わしが道を切り開かねば、まだこの国は古びた権威と腐ったしきたりに縛られておった。楽市を開き、南蛮と通じ、寺社の驕りを挫き、新しきものを入れた。敵を斬っただけではない。道も作った」

 

「それはそうだろう」

 

「ならば」

 

「だが、それとおぬしが救われるかは別だ」

 

 信長はその言葉に、わずかに目を細めた。

 

「救いなど求めてはおらぬ」

 

「そうか。

 ならば訊き方を変えよう。

 おぬしは満ちていたか」

 

 信長は笑った。

 今度は乾いた、短い笑いであった。

 

「満ちる、だと。天下を前にして、なお満ちるなどあるものか」

 

「ないのだろうな」

 

 ディオゲネスは頷いた。

 

「王という生き物は、手を伸ばし続ける。

 昨日までの勝ちは今日の不足になる。

 十城を得れば十一城目が要る。

 敵を討てば、次の敵が生まれる。

 そうして死ぬまで“あと少し”の中にいる。

 それが幸福ならよいが、おぬしの顔はそうは見えぬ」

 

 信長は黙った。

 

 幸福。

 その語は、己にはずいぶん遠いものに思えた。

 快はあった。勝つ快、従わせる快、新しきものを見る快、茶の湯の一碗に静まる快、美しきものを手にする快。

 だが幸福という、もっと鈍く温いものは、自分の生には似合わぬ気がしていた。

 

「わしは幸福のために生きたのではない」

 

 信長は言った。

 

「では、何のために」

 

「わしでなければ成らぬ世のために」

 

 ディオゲネスはそこで、ふっと笑った。

 

「ようやく本音が出た。

 天下そのものではない。

 “わしでなければ”だ」

 

 信長は反論しかけて、やめた。

 

 否定しきれなかった。

 

 天下布武。

 それは単に乱世の終焉を意味していたのではない。

 自分がその中心に立つということを、どこまでも含んでいた。

 誰でもよい秩序では足りなかった。自分が築く秩序でなければならなかった。

 それを否定すれば、信長という男の大半が崩れてしまう。

 

「ならば何だ。欲したら悪か」

 

「悪とは言わん。

 ただ、おぬしは自分の欲の大きさをよく知っていた方がよい。

 それを民のため、世のため、とばかり言うと、最後に自分で自分が見えなくなる」

 

 信長は長く息を吐いた。

 

 妙な男であった。

 僧のように地獄を説くでもなく、家臣のように慰めるでもなく、ただ切先のような言葉を差し出してくる。腹立たしいが、嘘はない。

 

「汝ならどう生きる」

 

 信長が訊くと、ディオゲネスは(かめ)を叩いた。

 

「私はこれで足りる」

 

「足りるものか」

 

「足りる。

 足りぬと思うから、人は余計なものを積み上げる。

 余計なものが増えるほど、守るものが増え、恐れが増える。

 恐れが増えるほど、人は他人を支配したくなる。

 王とは、大抵その()にかかった者だ」

 

「では、天下など取るに値せぬと」

 

「私にはな。

 だが、おぬしには値したのだろう。

 問題は、値したものを得る前に死ぬことではない。

 得ても足りぬと知りながら、なお手を伸ばし続けることだ」

 

 白い光が、少しずつ揺らぎ始めた。

 遠くで、また火の音がした気がした。

 本能寺。

 (うつつ)の熱が、夢の縁からにじんでくる。

 

 信長はそれを感じながら、静かに言った。

 

「わしは、ここで終わるか」

 

「おそらくな」

 

「天下には届かぬか」

 

「知らぬ。

 届いたところで、おぬしはそれを“足りた”とは呼ばぬ気もするが」

 

 信長はふっと笑った。

 

「たしかに」

 

 それは、この夢に入って初めて、自嘲の混じった笑いだった。

 

「ならば」とディオゲネスが言った。

 

「最後にひとつだけ問う。

 おぬしは、自分の生を()()だったと思うか」

 

 火の音が近づいてくる。

 熱が戻る。

 煙の匂いが、かすかに鼻を刺す。

 

 信長は少し考えた。

 裏切られた。

 焼かれる。

 天下は目前で崩れる。

 だが、それでもなお、自分の生を無と呼ぶことはできぬと思った。

 

「無駄ではない」

 

 信長は答えた。

 

「わしは、わしの見たいものを追った。

 多くを壊し、多くを作った。

 人に恨まれ、人を動かし、世を変えた。

 それで十分とは申さぬ。

 だが、無駄とも申さぬ」

 

 ディオゲネスは頷いた。

 

「ならばよい。

 王の死にしては、ましな方だ」

 

「無礼な男よ」

 

「今さら礼などいるか?」

 

 その言葉とともに、白い世界は裂けた。

 

 

 

 熱が戻った。

 

 煙が喉を焼いた。

 火はすでにすぐそこまで来ていた。天井の一部が崩れ、火の粉が雨のように落ちる。現世の音が、一気に耳へ流れ込んできた。家臣の声がする。誰かが信長を呼んでいる。

 

 信長は、ゆっくりと目を開いた。

 

 本能寺であった。

 夢は終わった。

 だが、なぜか心は先ほどより静かだった。

 

 天下はここで断たれる。

 それでよい、とは言わぬ。

 惜しい。無念もある。

 明智への怒りもある。

 だが、己の生までが虚しくなるわけではない。

 

 信長は立ち上がった。

 炎が目前で揺れている。

 死は近い。

 それでも背筋はまだ折れていなかった。

 

 ふと、夢の中の男の顔がよぎった。

 (かめ)のそばに寝そべり、王の名にも動じぬ眼で自分を見た男。

 

 日向を好む男、か。

 

 信長は焼ける堂の中で、ほんのわずかに笑った。

 

「面白き男よ」

 

 そして、炎の向こうへ歩み出た。

 

 夜は燃えていた。

 都の空を染めるその火は、天下人の最期にしては、あまりに大きく、あまりに明るかった。

 だがその明るさの中で、織田信長は、少なくとも最後の一瞬だけは、誰の目でもなく、自分の目で自分を見ていた。

 

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