ディオゲネスの間   作:なのさま

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灰 聖女

 朝はまだ来ていなかった。

 だが夜も、もはや完全には夜ではなかった。

 

 牢の小窓の向こうに、鈍い色の空があった。黒ではなく、鉛を水で溶いたような色である。夜明けは近いのだろう、と()()()()は思った。そう思ったところで、胸のうちに何かが和らぐことはなかった。今日、自分は焼かれる。夜が明けようと、明けまいと、そのことに違いはない。

 

 石壁は冷えていた。

 鎖は、寝返りをうつたび短く鳴った。

 湿った藁の匂いに、鉄と黴の匂いが混じっていた。

 

 眠っていたわけではない。

 けれど目を閉じれば、しばしば遠い畑の光景が戻ってきた。ドンレミの風、羊の鳴く声、母の手つき、教会の鐘。生まれた土地の記憶は、遠ざかったのではなく、むしろ今ほど近くに迫ってきたことはなかった。人は死ぬ前、自分の始まりに戻るのかもしれない。

 

 ジャンヌは両手を胸の前で組んだ。指は細く、ところどころ荒れていた。剣を握り、旗を掲げ、馬の手綱を引いてきた手である。だがいまその手は、ただ少女の手に見えた。十九の娘の手だ。

 わたしは本当に、あれほどの場所まで行ったのだろうか。

 オルレアンの城壁。

 ランスの戴冠。

 軍勢の叫び。

 王の顔。

 あれらは現実だったのか。

 それとも、こちらの牢と同じく、神が一時だけ見せた幻だったのか。

 

 声は、もうずいぶん聞こえなかった。

 

 かつては確かにあった。

 呼びかける声、促す声、慰める声。

 ミカエル、カトリーヌ、マルグリット。彼らの名を、彼女は何度も唇に乗せた。最初は光とともに来た。のちには祈りの奥で、火よりも鋭く、鐘よりも澄んで響いた。

 だがこの数日は、沈黙の方が深かった。

 

 わたしは見放されたのだろうか。

 そう考えたことがないわけではない。

 だが、そう考えるたび、彼女は自分を恥じた。

 神の沈黙を、人の愛情のように受け取ってはならない。神は近くもあれば遠くもある。その遠さに耐えることもまた、信仰の一部なのだと、誰かが言っていた気がする。けれど、その言葉を口にする者は、たいてい火刑台の下にいる。

 

 牢の外で足音がした。

 見張りの兵だろう。低い笑い声がひとつして、また遠のいた。

 

 ジャンヌは目を閉じた。

 

 眠ろうとしたのではない。

 ただ、もう一度だけ、火に包まれる前でない光の中に立ちたいと思ったのかもしれない。

 

 

 

 そこには風があった。

 

 最初に気づいたのは、それだった。

 石の匂いも、湿りも、鎖の重さも消えていた。空気は乾いており、頬を撫でる風は冷たくも熱くもなかった。

 

 ジャンヌはゆっくり目を開けた。

 

 見たことのない土地だった。

 麦畑も森もなく、塔も城壁もない。白く乾いた地面がどこまでも広がっている。空は高く、雲は薄い。朝なのか昼なのかも判然としない。世界から余計なものが削ぎ落とされたような静けさがあった。

 

 少し先に、大きな(かめ)があった。

 

 そしてそのそばに、一人の男がいた。

 痩せて、日に焼け、髭は伸び放題で、布を一枚まとっているだけの、乞食のような格好だった。だが彼は少しも惨めに見えなかった。惨めという感情は、自分を他人の目から見る者に宿る。この男は他人の目など最初から相手にしていないように見えた。

 

 男は(かめ)にもたれ、半ば寝そべるようにして、ジャンヌを見ていた。

 

「来たか」

 

 彼は言った。

 

 声は低く、乾いていた。

 ジャンヌは思わずあたりを見回した。

 そこに人の姿は彼以外なかった。

 

「ここはどこですか」

 

「おまえが、名のない場所に耐えられるなら、どこでもない」

 

 男はそう言って、少し笑った。

 ジャンヌは眉を寄せた。

 

「あなたは誰ですか」

 

()()()()()()

 

 聞いたことのない名だった。フランスの聖人でもなければ、聖書の人物でもない。異教の名のようにも思えた。

 夢なのだろう、とジャンヌは思った。死の前に見る最後の試練か、あるいは悪魔の惑わしか。そう思って十字を切ろうとしたが、なぜかその手は途中で止まった。悪魔なら、もっと巧妙に聖なる顔をするのではないか。この男は聖らしさというものに、まるで関心がないように見えた。

 

「異教の人ですか」

 

「そうかもしれぬ。

 だが、異教かどうかでしか人を測れぬのなら、信仰というものも窮屈だな」

 

 その言い方に、ジャンヌは少しむっとした。

 

「わたしは神を疑いません」

 

「そうか。では、おまえは自分を疑わぬのか」

 

 風が吹いた。

 ジャンヌはすぐには答えられなかった。

 

 自分を疑う。

 そのことを、彼女は人前では決して口にしなかった。裁判でもそうだった。司教たちがいかに言葉を仕掛け、罠を編み、彼女の口から矛盾を引き出そうとしても、ジャンヌは神から受けた使命を否定しなかった。

 だが、疑いがなかったわけではない。

 わたしは本当に、神に選ばれていたのか。

 あの声は、本当に天から来たのか。

 もしそうなら、なぜいま、わたしはこんなところにいるのか。

 

「黙るのは、よいことだ」

 

 ディオゲネスが言った。

 

「人は自分にとって本当に痛い問いほど、すぐ答えたがる」

 

 ジャンヌは男を見つめた。

 

「あなたは、わたしを嘲りたいのですか」

 

「いいや。

 権力者なら嘲っただろう。

 兵士なら罵ったかもしれぬ。

 僧なら諭しただろう。

 だが私は、そのどれでもない。

 ただ、おまえが何を持って火の前に立とうとしているのか見に来た」

 

 ジャンヌはその言葉を理解しきれなかった。

 けれど、なぜかその場を離れようとは思わなかった。

 

 彼女は少し進み、(かめ)から離れた地面に立った。

 足元は裸だった。砂とも土ともつかぬ白い地である。熱くも冷たくもない。ただ、生きている地面の感触ではなく、何かがいったん尽きたあとに残った大地のように思えた。

 

「あなたは何者なのです」

 

 ジャンヌはもう一度問うた。

 

 ディオゲネスは肩をすくめた。

 

(かめ)のそばで暮らし、王をからかい、人の虚飾を笑った男だ」

 

「王を……?」

 

「おまえは王のために戦ったのだろう」

 

 ジャンヌの表情がわずかに変わった。

 シャルル。ランスで戴冠したときの、あの男の横顔が脳裏に浮かんだ。ジャンヌは彼を愛していたわけではない。だが、王となるべき者として、神に示された者として、疑わず押し出した。王冠は彼の頭上に乗り、歓声は天井を揺らした。あの瞬間、たしかに世界は定まったと思った。

 

「わたしは、王のために戦ったのではありません」

 

 ジャンヌは言った。

 

「神のためです。フランスのためです」

 

「なるほど」

 

「笑わないでください」

 

「笑ってはいない。

 ただ、神と国と王とを、人はずいぶん器用に重ねるものだと思っただけだ」

 

 ジャンヌは言い返そうとしたが、言葉がすぐには出なかった。

 たしかに、彼女にとってそれらは深く結びついていた。神はフランスを救うことを望まれ、シャルルはそのための王であり、自分はその手足として立たされたのだと信じていた。だがその結びつきは、彼女のうちであまりに自然だったため、切り分けて考えたことがなかった。

 

「あなたには、使命というものがわからないのですね」

 

 ようやく彼女はそう言った。

 

「わかるとも。

 だが使命という言葉は、人を強くするが、(くら)くもする。

 おまえは、自分が呼ばれたと感じた。

 それは本当だろう。

 だが人は天啓に頼れば、自分がどこまで自分で決め、どこから先を“声”に委ねているのか、曖昧になる」

 

「わたしは神の声に従っただけです」

 

「だけ、か。

 従うというのは便利だな。

 自分の勇気も、自分の欲も、自分の誇りも、すべて“神に従っただけ”の中に隠せる」

 

 ジャンヌの胸に、かすかな痛みが走った。

 

「わたしに欲などありません」

 

「本当に?」

 

 ディオゲネスはまるで責めずに言った。

 

「名誉もか。

 兵に囲まれ、旗を見上げられ、自分が先に立てば男たちが進む、その感じもか。

 王の前で、誰よりも近く神の意志を口にできることもか。

 おまえは清い娘なのだろう。

 だが清い者はしばしば、自分の欲を欲と認めぬ」

 

 ジャンヌは頬を紅潮させた。怒りか、羞恥か、自分でもわからなかった。

 

「わたしは、自分のために戦ったのではありません」

 

「そうだろう。

 だが、自分のためでないことと、自分の中に誇りがないことは同じではない」

 

 その言葉は、火ではなく、針のように刺さった。

 ジャンヌは思い出していた。甲冑をまとった日のことを。兵たちの視線。城門の上の敵。自分の旗が風をはらむ白さ。誰かが恐れて退くとき、自分のうちに湧き上がる熱。

 それは神への献身だけだったのか。

 それともそこには、たしかに「わたしが為している」という感覚もあったのか。

 

「……それは罪なのでしょうか」

 

 彼女は小さく言った。

 

「さあな。

 私は司祭ではない。

 だが、自分の中にあるものを見ずに清さを語る者は、危うい」

 

 ジャンヌは空を見上げた。

 空は高く、何も答えなかった。

 神の沈黙とこの空の沈黙は、どこか似ていた。

 

「おまえは、()()か」

 

 しばらくして、ディオゲネスが訊いた。

 

 ジャンヌはその問いに、最初はすぐ答えられなかった。

 怖くない、と言うことはできた。裁判でも、人々の前でも、そうしてきた。神が自分をお見捨てにならぬかぎり、火も苦痛も、最後には意味を持つのだと信じていた。

 だが今、この名のない場所で、見知らぬ男の前に立っていると、その答えはあまりに軽く思えた。

 

「怖いです」

 

 彼女は言った。

 

 その一言が出ると、胸の奥で何かが崩れるような気がした。

 

「火が怖いです。

 焼けることが。

 叫んでしまうかもしれないことが。

 最後の最後で、神を信じきれないかもしれないことが。

 人々が見ている前で、みじめに死ぬことが」

 

 風が彼女の髪を揺らした。

 ディオゲネスは黙って聞いていた。慰めようとはしなかった。そのことがかえって、ジャンヌには救いのように思えた。慰めはしばしば、相手の恐れを小さく扱う。だがこの男は恐れを恐れとして、そのまま置いていた。

 

「それでよい」

 

 やがて彼は言った。

 

「火を怖がらぬ者は、火を知らぬ。

 みじめを怖がらぬ者は、人の目に無頓着なだけだ。

 おまえは神の娘かもしれぬが、まず人間なのだろう」

 

 人間。

 その言葉は、裁判のあいだ、彼女には侮辱に近い響きだった。男たちは彼女の幻視を笑い、若い娘の思い上がりだと決めつけ、彼女を下へ引きずり戻そうとした。

 だがこの男の言う「人間」は、それとは違った。軽蔑ではなく、逃れられぬ条件の名として響いた。

 

「あなたは神を信じないのですか」

 

 ジャンヌが問うと、ディオゲネスは少し首を傾げた。

 

「神々というものがあるとしても、多くの者が思うほど、彼らはおまえたちの裁判に興味はあるまい」

 

「そんなことは……」

 

「人間はしばしば、神の名を借りて、自分の秩序を絶対にしようとする。

 おまえを裁いた者たちもそうだろう。

 そしておまえ自身もまた、神の声に従うという(てい)で、自分の確信を絶対にした」

 

 ジャンヌは息を呑んだ。

 

「わたしは、神を騙ってはいません」

 

「騙ったとは言わぬ。

 だが、神を語る者は常に危うい。

 なぜなら、人の口から出る時点で、それはすでに人の声だからだ」

 

 その言葉は、彼女にとって残酷だった。

 もしそうなら、自分は何を信じればよいのか。

 あの声も。

 あの光も。

 あの確信も。

 すべて、人の内から出ただけのものだというのか。

 

 だがディオゲネスは、彼女の顔を見て、続けた。

 

「勘違いするな。

 それで、おまえのしたことがただの嘘になるとは言わぬ。

 人は神を完全には語れぬ。

 だが、語れぬからといって、何も真でないとは限らぬ。

 おまえは確かに、人々を動かした。

 絶望の中にいた兵を立ち上がらせた。

 王を王にした。

 問題は、それをどう名づけるかではない。

 おまえが最後に、自分の中の何を握って立つかだ」

 

 ジャンヌはしばらく黙っていた。

 火刑台のことを思った。広場。薪。群衆。司祭たちの顔。自分の名を罵る者、泣く者、ただ見物する者。

 その中で自分は何を握って立つのか。

 

 神か。

 フランスか。

 王か。

 それとも、自分の見たものを最後まで裏切らぬという、ただ一つの意志か。

 

「わたしは」と彼女は言いかけ、言葉を失った。

 自分でも、何を言うつもりだったのかわからない。

 

「おまえは、聖女でいたいのか」

 

 ディオゲネスが問うた。

 

 ジャンヌははっとして、彼を見た。

 

「そんなこと……」

 

「望んでいないか」

 

 その問いは、あまりにも鋭かった。

 彼女は生きたいと願っていた。救われたいとも願っていた。だがそれと同時に、自分の死が無意味な敗北として終わることに耐えられなかったのも事実だった。もし死ぬなら、その死には意味があってほしい。神に受け入れられた証であってほしい。後の人々が、自分をただの狂女ではなく、神のために死んだ娘として記憶してくれたら。

 その願いが、全くなかったとは言えなかった。

 

「それは……傲慢でしょうか」

 

 彼女は小さく言った。

 

「傲慢かもしれぬ。

 だが人間は多かれ少なかれそういうものだ。

 死に際にさえ、自分の生に形を欲しがる。

 無意味のまま落ちることを恐れる。

 おまえだけではない」

 

 ジャンヌは胸の前で手を握った。

 祈りの形だった。だがいま、その手は祈りのためだけではなかった。自分がばらばらにならぬため、両手で自分をつなぎ止めているような感じがした。

 

「では、どうすればよいのです」

 

「大げさなことを求めるな。

 火の前に立つなら、火の前に立て。

 自分の恐れを、神のための言葉で飾りすぎるな。

 清さも、勇気も、信仰も、おまえが思うほど一枚ではない。

 怖くてもよい。

 揺れてもよい。

 それでもなお、自分の見たものを見たと言うなら、それで十分だ」

 

 十分。

 その言葉が、ジャンヌにはひどく遠く聞こえた。彼女の人生には、十分という尺度がほとんどなかった。もっと神に従わねばならず、もっと強くあらねばならず、もっと清く、もっと真でなければならなかった。

 だがこの男は、足りるという言葉を知っているようだった。

 それが奇妙に羨ましかった。

 

「あなたは、何も持っていないのですね」

 

 ジャンヌがそう言うと、ディオゲネスは笑った。

 

「よく見ろ。

 空、風、(かめ)、陽。

 十分、持っている」

 

「人を愛したことは」

 

「あるかもしれぬ。

 だが、愛もまた所有に変わると腐っていく」

 

「神は?」

 

「さあな。

 だが、おまえのように神を欲しがる者を見るのは、嫌いではない」

 

 ジャンヌは、その答えに少しだけ笑った。

 自分が笑ったことに、自分で驚いた。

 

 空が変わり始めていた。

 

 高く薄かった光が、少しずつ赤みを帯びていく。最初は朝焼けかと思った。だが違った。それは朝の色ではなく、火の色だった。

 

 ジャンヌはそれを見て、息を止めた。

 現実が戻ってくるのだとわかった。

 

「行くのか」とディオゲネスが言った。

 

「行きます」

 

「怖いか」

 

「……はい」

 

「それでよい」

 

 彼は(かめ)にもたれ直し、目を細めた。

 

「火はおまえを痛めるだろう。

 だが、裁くのは火ではない。

 おまえを裁くのは、火に自分の正しさを預けた人間どもだ。

 それを忘れるな」

 

 ジャンヌはその言葉を胸に受けた。

 自分を焼くのは火だ。

 だが自分を殺すのは、火を用いる人間の意志なのだ。

 その単純なことが、なぜかいま初めて、澄んで見えた。

 

「わたしは、神に受け入れられるでしょうか」

 

 最後に彼女は問うた。

 ディオゲネスは肩をすくめた。

 

「知らぬ。

 だが神がいるとして、恐れに膝を折った娘より、恐れを抱えたまま立ち続けた娘を好まぬとも思えぬ」

 

 その答えは慰めではなかった。

 けれど、安い慰めよりずっと深く、彼女の中へ沈んだ。

 

 火の色が強くなる。

 風が熱を帯びる。

 白い地は揺らぎ、(かめ)の輪郭もにじみ始めた。

 

 ジャンヌはディオゲネスを見た。

 この男の名は、地上で自分が知ることのない名だったかもしれない。

 それでも彼は、最後の手前で、自分が自分に嘘をつかぬための言葉を置いていった。

 

「さようなら」

 

 彼女が言うと、ディオゲネスは鼻で笑った。

 

「行け。火が待っている」

 

 それは無慈悲に聞こえた。

 だがその無慈悲さの中に、妙なやさしさがあった。

 火が待っている。

 そうだ。もうそこから目を逸らす時ではない。

 

 

 

 ジャンヌは目を開けた。

 

 石の牢ではなかった。

 すでに広場だった。

 人のざわめきが波のように耳へ流れ込む。薪の匂い。煙の匂い。朝の空気。僧の祈りの声。兵の靴音。

 自分は柱に縛られていた。

 

 空は灰色だった。

 現実の空は、夢のそれよりずっと低く、重たかった。

 

 群衆の向こうに、いくつもの顔があった。憎む目。好奇の目。恐れる目。泣いている者もいた。司祭の一人が十字架を掲げていた。ジャンヌはそれを見た。木の十字だった。粗末だが、たしかに十字だった。

 

 彼女の喉は乾いていた。

 膝は震えていた。

 火を見る前から、身体はもう火を知っているように縮こまっていた。

 

 怖い。

 そのことを、彼女はもう否定しなかった。

 

 だが、その恐れの中で、胸の底にはかすかな芯が残っていた。

 神が自分を選んだかどうか。

 声が本当に天から来たかどうか。

 その全てを、いま完全に証明することはできない。

 それでも、自分は見た。

 自分は聞いた。

 自分はそれに従って生きた。

 そして、恐れながら死ぬ。

 

 それでよいのだ、と彼女は思った。

 少なくとも、いまは。

 

 薪に火が入った。

 最初は小さな音だった。

 やがて熱が上がる。

 

 ジャンヌは十字架を見つめ、声を振り絞った。

 

「イエスよ」

 

 叫びは震えていた。

 聖女のように澄んではいなかった。

 焼かれる十九の娘の声だった。

 

 火は上がる。

 煙が喉を満たす。

 世界は白く、ついで赤く、ついで何も見えなくなる。

 

 その一瞬手前、彼女はふと、名もない乾いた土地と、(かめ)にもたれた男の顔を思い出した。

 王にも司教にも頭を下げぬ、あの澄んだ目を。

 

 そして、ほとんど笑いそうになった。

 こんな時に笑うなど、きっと不敬だろう。

 だが、火の手前でなお、人の虚飾を笑う男のことを思うと、世界は少しだけ軽くなった。

 

 ジャンヌは最後まで、十字を見ていた。

 

 火は彼女を包んだ。

 だが、その恐れも、揺らぎも、祈りも、すべて含めて、彼女はその瞬間たしかに人間であった。

 

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