夜の庭は、昼よりもよく整って見えた。
昼には弟子たちが行き来し、若い声が飛び交い、砂地には足跡が増え、オリーブの影も落ち着かず揺れる。だが夜になると、それらはみな見えなくなり、柱廊も木々も、最初からそこにあるべき形に戻るようだった。形が、使用から解放されて静まるのである。
アカデメイアの一隅の部屋には、蝋燭が一本だけ灯っていた。
机の上には書きかけの蝋板があり、柱の影が床に長く落ちている。部屋は寒くはなかったが、年を取ると、寒さは気温より先に関節へ来る。プラトンは肩の上に薄い外套をかけたまま、長く机に向かっていた。
手はまだ字を書く。
だが以前より、書く前の時間が長くなった。
若い頃は、思索はしばしば前へ溢れた。問いが問いを呼び、対話は自然に次の段へ登っていった。
いまは違う。
一つの言葉を書く前に、その言葉がいくつの誤解を連れてくるかを先に思う。
善、国家、魂、教育。
どれも必要な言葉でありながら、どれも口にした途端に固まりすぎる。
形を与えることは、真理に近づくと同時に、それを狭めることでもあるのだと、年をとるにつれて彼は知った。
窓の外では、風がかすかに木の葉を動かしていた。
その音は海のようではなく、何か思慮深い生き物の寝返りのようでもあった。
プラトンは目を上げ、部屋の暗がりを見た。
若い頃には、思想は世界を導くものに思えた。
哲学者が真に善を知り、それをもって都市を形づくるなら、人間の生もより正しい秩序の中へ置けるはずだ、と。
その考えを、彼はいまだ捨ててはいなかった。
だが、シラクサの失敗は、その考えの周囲に永く消えぬ陰を落とした。
人は、善を知るだけでは善く統治しない。
知を受ける側にも、知を形にする側にも、欲望と恐れと誤解がある。
国家は対話篇ほど従順ではない。
魂もまた、定義ほど単純ではない。
それでも彼は書く。
諦めたからではない。
諦めきれぬからでもない。
ただ、真に近づこうとした生が、最後までその運動をやめられないだけなのかもしれなかった。
彼は蝋板の上に、短く一行を書いた。
そして、それを自分で読み返し、少し眉を寄せた。
言葉が正しすぎるとき、人はそこからこぼれるものの方を気にし始める。
部屋の空気は静かだった。
遠くで、弟子の誰かが咳をした気がした。
それもすぐに消え、夜だけが残った。
プラトンは目を閉じた。
眠るつもりだったのか、ただ考えを少し離したかったのか、自分でもはっきりしなかった。
だが、意識は思ったより早く、どこか乾いた明るみへ沈んでいった。
最初にあったのは、光だった。
アテナイの光よりも乾いており、陰影のあいだの移ろいが少なかった。物はまず輪郭として立ち、そのあとから意味を与えられるような光である。
プラトンは目を開けた。
高い空があった。
白っぽい地面が遠くまで続き、草は乏しく、ところどころに浅いひびが走っている。都市でも野でもなく、人工と自然のどちらへもまだ十分には傾いていない場所に見えた。
風は乾いていて、衣の裾を軽く動かした。
少し先に、大きな
そのそばに、一人の男が寝そべっていた。痩せて、ほとんど裸に近く、古びた布を一枚肩に引っかけているだけだった。髭は伸び、足は裸足で、乞食のような姿である。だが、その姿に恥じらいはなく、むしろ人間が恥じるためにまとっている多くのものの方が、余計であるとでも言いたげだった。
男は片肘をつき、プラトンを見て言った。
「年を取ったな」
声は低く、乾いていた。
プラトンはしばらく相手を見つめた。
知っている顔だった。
いや、顔というより態度を知っていた。
その身一つで都市の価値づけを嘲るような、あの不快なほど自由な在り方を。
「君か、
男は鼻で笑った。
「覚えていたか」
「忘れる方が難しい」
ディオゲネス。
ソクラテス以後のアテナイが生んだ、最も粗暴で、最も単純で、そして最も都市を困らせる種類の哲学者。
あるいは哲学者と呼ぶこと自体が、彼にとっては侮辱かもしれない。
彼は論証より先に生活を突きつける。
定義より先に身振りで笑う。
問いの前に、そもそもその問いを問う生活そのものが滑稽ではないかと突き返してくる。
プラトンは、そんな彼を決して好かなかった。
だが、軽蔑だけでもなかった。
「ここはどこだろう」とプラトンが訊くと、ディオゲネスは
「おまえが、場所の定義を先に作らなくても歩ける場所だ」
プラトンは少し笑った。
「相変わらず、礼儀というものを知らないらしい」
「おまえは相変わらず、礼儀を知の入り口だと思っているらしい」
風が吹いた。
乾いた風だった。
それは、対話を促すでも止めるでもなく、ただ二人のあいだを通り過ぎた。
プラトンはゆっくり歩いて、
この男に近づきすぎると、議論が始まる前に服の意味まで失いそうな気がしたからだ。
ディオゲネスは、それを見て少しだけ笑ったようだった。
「まだ距離を測るか」
「距離は、対話の形を決める」
「おまえはすぐ形の話をする」
「人は形なしには考えにくいからね」
「人は形のせいで考え損ねもする」
プラトンはその返答を否定しなかった。
年を取ると、若い頃ほど即座には否定しなくなる。
相手が自分の敵であっても、敵の言葉の中にこちらの影が少し混じっていることを知るからだ。
「では訊こう」とプラトンは言った。
「君は、私をどう見ている」
ディオゲネスは少し考える素振りを見せてから答えた。
「世界に
「それは悪いことか」
「悪いとは言わん。
だが、おまえは物がそこにあるだけでは落ち着かぬ。
善の位階を与え、魂を分け、国家を配列し、教育を整え、各人にふさわしい場所を考える。
おまえの頭の中では、何もかもが少し整いすぎている」
プラトンはその言葉を受けて、すぐには返さなかった。
整いすぎている。
その批判は、若い頃なら軽く退けただろう。
だが今は、そこに一理あるのを認めざるをえない部分があった。
「整えなければ、都市は欲望の叫び合いになる」
やがて彼は言った。
「人はただ欲するままに生きればよい存在ではない。
魂には秩序が要る。
国家にも秩序が要る。
そうでなければ、強い欲望と大きな声の持ち主が、つねに全体を引きずる」
「そしておまえは、その秩序を誰が与えるかまで決めたがる」
「知る者が導くべきだとは思っている」
「ほらな」
ディオゲネスは言った。
「おまえはすぐ人を並べる。
知る者、導かれる者。
理性、気概、欲望。
上、中、下。
便利なものだ。
だが、人間はおまえの比喩のようには、きれいに分かれぬ」
プラトンは静かに息を吐いた。
「分かれぬからこそ、分けて考える必要がある。
思考とは、混ざったものを見分けることだ」
「生活とは、見分けきれぬまま生きることだ」
その返答は速かった。
プラトンは少し黙り、そのあいだに風がまた吹いた。
「君は」とプラトンが言った。
「私の書いた国家を笑うだろう」
「笑うとも。
子どもも、女も、戦士も、支配者も、詩人も、みなうまい具合に並べられている。
まるで人間が家具のようだ」
「家具ではない。
それぞれにふさわしい働きを持つ魂だ」
「ふさわしい、か。
おまえはその言葉が好きだな」
「何か問題でも」
「ある。
人は“ふさわしい”と言い始めると、すぐに他人を箱へ入れたがる。
おまえの国家は整っている。
だが整いすぎた都市は、たいてい息苦しい」
プラトンは少し眉を寄せた。
「息苦しさと秩序を混同しているのではないか」
「おまえは秩序と支配を混同していないか」
その問いは、思ったより深く入った。
プラトンはすぐに反論したくなった。
だが、シラクサのことが頭をよぎった。
哲人王。
教育された支配。
知による統治。
理想は立派だった。
だが現実の宮廷では、知はすぐに恐れと虚栄と猜疑に絡め取られた。
人をより善い形へ導くつもりが、かえって人を型にはめようとする暴力に近づくこともある。
そのことを、彼は無知な若者ではなく、失敗を知った老人として認めざるをえなかった。
「……混同しないようにしたつもりではある」と彼は言った。
「つもり、だろうな」
ディオゲネスはあっさり言った。
「おまえの書くものは立派だ。
だが立派なものほど、人はその立派さで他人を押さえつけたがる」
「それは、書いた者の罪ではなく、使う者の問題だ」
「半分だけそうだ。
だが、おまえは言葉の強さを知っている。
知っている以上、そこから生まれる冷たさにも、少しは責任がある」
プラトンはその言葉を受けて、空を見た。
夢の空は、いつも答えを与えない。
だが答えの与えられなさ自体が、ひとつの答えのように感じられることがある。
「では君は」とプラトンが言った。
「どう生きるのがよいと考えている?」
「考えているというほどではない」
「聴かせてくれ」
「少なく持て。
少なく欲しがれ。
人に笑われることを恐れるな。
偉い者が通れば、どいて日向に移動しろ。
それくらいだ」
プラトンは思わず笑った。
「それでは国家は作れない」
「知っている。
私は国家を作る気がない」
「そこが私たちの違いだな」
「大きい違いだ」
ディオゲネスは頷いた。
「おまえは国家を考え、私は日向を考える」
「日向だけで人は生きられぬ」
「国家だけでも生きられぬ」
その言葉を、プラトンは軽く聞き流せなかった。
彼は若い頃から、魂の善と都市の善を、どこかで連続したものとみなしてきた。個人の秩序と国家の秩序。教育と法。音楽と体操。
だがこの男は、その連続の途中で一度、すべてを切ってしまう。
そして「日向」と言う。
それは愚かしいほど小さい。
だが、小さいからこそ、こちらの壮大さの盲点を照らしてしまう。
「君は、教育を信じないのか」
プラトンが訊くと、ディオゲネスは少し考えた。
「信じぬわけではない。
だが、おまえたちは教育で人をよくできると思いすぎる。
人は教えられても、なお見栄を張り、なお怯え、なお欲しがる」
「それでも、教えぬよりはよい」
「そうだろうな。
だが、おまえは教えることの中に、少し支配の喜びが混ざるのを見落としている」
プラトンは口を開きかけ、やめた。
教師。
導く者。
より高いものを見た者。
その位置には、たしかに快楽がある。
若い者が耳を傾け、自分の言葉で魂が整えられていくように見える時、人は知らず知らずのうちに、自分の像をそこへ刻もうとする。
彼はその危うさを、知らなかったわけではない。
だが、それを十分に恐れていたかと問われれば、答えにくかった。
風が少し強まった。
プラトンは衣の裾を押さえた。
ディオゲネスは何もしなかった。
布一枚の肩が日にさらされている。
あれは寒くないのだろうか、と一瞬思い、それが自分の癖だと気づいて少し苦笑した。
この男を見れば、つい「足りぬもの」を数えたくなる。
だが本人は、おそらく「余計なもの」を数えてこちらを見ているのだ。
「君は、私を嫌っているのか」
プラトンがそう訊くと、ディオゲネスは意外そうな顔をした。
「嫌ってはいない。
面倒だとは思っている」
「面倒、か」
「おまえは言葉を増やす。
私は減らしたい。
おまえは形を立てる。
私は崩したい。
そういう意味で面倒だ」
プラトンは笑った。
「それは私も同じだ。
君は、何もかも粗末に言いすぎる」
「粗末な言葉で足りることもある」
「だが、言葉を粗末にすれば、魂もまた粗末になるかもしれない」
「立派な言葉ばかりだと、魂が飾りで窒息するかもしれない」
その応酬のあと、二人は同時に少し笑った。
論破ではなかった。
むしろ、どちらも相手を変えられないと知った者同士の、短い和解に近かった。
「私は」とプラトンは静かに言った。
「若い頃より、わからぬことが増えた気がする」
「良いことだ」
ディオゲネスは即座に言った。
「昔は、理念がもっと澄んで見えた。
善は高く、国家はそれに従い、魂は教育によって整えられる。
もちろん今も、それを全く疑ってはいない。
だが、現実に人間と長く接すれば接するほど、理念へ向かう道の方が濁ってくる」
「ようやく、人間を見たのだろう」
「若い頃にも人間は見ていた」
「いや。
おまえは若い頃、人間の中に理想へ向かう形を見ていた。
いまは、人間が形からこぼれるところも見ている」
プラトンは、その言葉にゆっくり頷いた。
たしかにそうかもしれなかった。
「それでも私は」と彼は言った。
「形を捨てる気にはなれない。
人間がこぼれるからといって、器が不要になるわけではない」
「そうだろうな。
私も、おまえに
プラトンは少し微笑んだ。
「
「ほら、すぐに似たものを見つけて並べる」
「それが私の癖だからね」
「知っている」
ディオゲネスは言った。
「そしておまえは、その癖のまま死ぬのだろう」
その言葉には不思議な静けさがあった。
死。
それは今夜の現実ではない。
だが晩年の人間にとって、死はもう「いつか」の言葉ではない。
回廊の曲がり角の向こうに、すでにじっと立っている。
「君は、死をどう見る」
プラトンが問うと、ディオゲネスは肩をすくめた。
「日向の終わりか、別の日向への移動か。
どちらでも大差ない」
「魂については」
「知らぬ。
おまえはそこに美しい言葉を与えるだろうな」
「探りたいとは思っている」
「知っている。
おまえは、見えぬものにも形を与えたがる」
プラトンはその言い方に、小さく笑った。
「それはたしかに、私の悪い癖かもしれない」
「悪いと決めることもない。
ただ、おまえはおまえの方法で世界を整えずにはいられぬ。
私は私の方法で、余計なものを蹴飛ばさずにはいられぬ。
それだけだ」
光が、少しずつ変わり始めていた。
乾いた空気の底に、夜の庭の匂いが戻ってくる。オリーブの葉。石の床。蝋燭の溶けた匂い。
プラトンは、それが夢の終わりの気配だと知った。
「戻るようだ」
彼が言うと、ディオゲネスは
「そうだろうな」
「最後に一つだけ訊こう」
「まだあるのか」
「老人は、最後の一つを何度も言いたがるのさ」
「面倒だな」
プラトンは微笑んでから、静かに訊いた。
「よく生きるとは、何だろう」
ディオゲネスはしばらく黙った。
風だけが二人のあいだを通った。
やがて彼は言った。
「なくても平気なものを増やすことだ」
プラトンはその言葉を、胸の中でゆっくり反芻した。
なくても平気なものを増やす。
それは、欲望を切り詰めることでもあり、自由を増やすことでもある。
彼の言葉で言い換えるなら、魂のうちで欲する部分を静め、理性がそれに煩わされずにいられる状態とも言えるかもしれなかった。
だが、ディオゲネスはそんなふうには言わない。
彼はただ「なくても平気」と言う。
その粗さの中に、妙に逃げがたい真実があった。
「では、よく考えるとは」
プラトンが続けて問うと、ディオゲネスは少し笑った。
「自分の立派な考えで、自分をごまかしすぎぬことだ」
プラトンは、その答えに思わず声を立てて笑った。
夢の中でそんなふうに笑うとは思っていなかった。
「それは、私への最後の批判か」
「おまえへの、というより、考える者すべてへのな」
光が白くほどけ始める。
プラトンはディオゲネスを見た。
この男は、自分の書くどの対話篇にも収まりきらないだろうと思った。
彼を定義すれば、定義の方が先に壊れる。
それでも、こうして対話したことは、何かの役には立つのかもしれない。
少なくとも、自分の言葉の輪郭を、少しだけ見直す役には。
「さようなら、ディオゲネス」
彼が言うと、男は少し笑った。
「面倒だから、もう来るなよ」
その声を最後に、白い地面は消えた。
プラトンは目を開けた。
アカデメイアの部屋だった。
蝋燭は短くなり、窓の外にはまだ夜の残る庭が見えた。オリーブの葉が、かすかに風で鳴っている。
何も変わっていなかった。
蝋板も、老いた手も、そのままだった。
だが彼はすぐには机に向かわなかった。
ただしばらく、椅子に深く腰かけたまま、自分の両手を見ていた。
国家を書く手。
対話を書く手。
魂に形を与えようとしてきた手。
そして、その形の外へいつも何かがこぼれていくのを、いまはもう知っている手。
よく生きるとは、なくても平気なものを増やすこと。
よく考えるとは、自分の立派な考えで自分をごまかしすぎぬこと。
その二つの言葉は、粗く、哲学としては不満足で、しかし妙に消えがたかった。
彼は机の上の蝋板を引き寄せた。
すぐに何かを書き始めたわけではない。
ただ、しばらくその白い面を見ていた。
若い頃なら、ここから定義を始めただろう。
いまは少し違う。
まず、定義の外に落ちるものの形を、見落とさぬようにしたいと思った。
窓の外が、ほんのわずかに明るみ始めていた。
夜の庭は、昼よりよく整って見えた。
だが、その整いは人の手によるものだけではない。風も、影も、沈黙も、そこに含まれている。
プラトンは小さく息を吐き、ようやく蝋板に一行を書いた。
書いたあと、その言葉を消さなかった。
まだ不十分だと思ったが、不十分であることを、すぐ訂正で埋めたくもなかった。
それは晩年の知にとって、若い頃より少しだけ重要な節制のように思えた。
庭の向こうで、鳥が一羽鳴いた。
朝が近づいていた。
プラトンはその音を聞きながら、しばらく何も足さずに座っていた。
形を与える前に、形の外にあるものを、もう少しだけそのまま見ていたかった。