ディオゲネスの間   作:なのさま

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非 資本

 その夜、()()()()はほとんど眠っていなかった。

 

 眠っていなかったというより、身体だけが椅子と寝台のあいだを往復し、意識は原稿と咳のあいだで擦り減っていた。机の上には紙が積み重なり、紙の上には書き損じと書きかけが幾層にも重なり、その上にランプの煤が薄く降りていた。部屋は暖かいとは言えず、石炭の火は意地のように赤く残っているだけだった。窓の外では、ロンドンの夜気が湿っていた。通りをゆく馬車の音がときおり遠くに軋み、そのたびに部屋の静けさが逆に深くなる。

 

 マルクスは咳き込んだ。

 

 咳が胸の奥を引き裂くたび、身体というものが思想の道具ではなく、思想に先立つ重荷であることを嫌でも思い知らされた。世界の運動法則、資本の自己増殖、労働の疎外、階級闘争──それらを追っている頭の一方で、皮膚は痒み、肺は軋み、胃は鈍くもたれ、目は紙の上で霞んでいく。

 

 彼はペンを置いた。

 インクは乾きかけ、指先は黒ずみ、爪のあいだにも墨が入り込んでいた。こういう手を見ると、自分が工場の労働者とは違うやり方で、だがやはり何かに酷使されている気がするときがあった。もちろん、それを同一視するのは愚かだ。彼には書く自由があり、思考する時間があり、理論を構成する誇りがある。だが自由と誇りがあることは、身体の疲弊を帳消しにはしない。

 

 彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

 ガラスに映る自分の顔は、以前よりずっと老けて見えた。額は広く、目の下はくぼみ、髭は乱れている。革命の理論を組み上げる者の顔というより、紙と借金と病気に埋もれた家父長の顔だった。

 

 ふと、彼は思った。

 もし世界が変わったとして、その新しい世界にこの顔は似合うだろうか。

 

 その問いはすぐに退けた。感傷は思考を鈍らせる。重要なのは自分の顔ではなく、社会の構造である。にもかかわらず、今夜はなぜか、その種の個人的な問いがいつもより深く居座った。

 

 机に戻り、紙の余白に何か書こうとしたが、言葉が出てこなかった。

 その代わり、強い疲労が急に全身へ降りてきた。

 彼は椅子に座ったまま、目を閉じた。

 

 

 

 そこには日光があった。

 

 ロンドンの鈍い灰色の光ではない。もっと容赦なく、もっと平等で、もっと無関心な日光だった。雲は高く、空は乾いていた。地面は白く、ところどころ亀裂が走り、何も育たぬ土地のように見えた。町でも村でもなく、荒野というには整いすぎ、神話の舞台というには生々しすぎる、奇妙な場所だった。

 

 マルクスは立っていた。

 咳はない。胸の痛みもない。身体は軽い。だがその軽さは、若返ったというより、自分から余計な歴史が一時的に剥ぎ取られた感じに近かった。

 

 少し先に、大きな(かめ)があった。

 

 そして、そのそばに一人の男が寝そべっていた。痩せて、日に焼け、ほとんど裸同然の格好で、布を一枚肩にひっかけているだけだった。髭は伸び放題で、足は裸足で、だらしないと言えばこれ以上ないほどだらしない。だが、そのだらしなさが少しも卑屈でない。むしろ、身なりという規則そのものを鼻で笑っているような姿だった。

 

 男は片肘をつき、マルクスを見た。

 

「来たか」

 

 声は乾いていた。

 マルクスは眉を上げた。

 

「ここはどこだ」

 

「眠りそこねた者の、余分な場所だ」

 

「ずいぶん詩人のような言い方をするな」

 

「お前の本の方が、よほど長い比喩でできている」

 

 男はそう言って笑った。

 マルクスは少しむっとしたが、同時に、妙な面白さも感じた。夢の中であることはわかっていた。わかっているからこそ、この男の無遠慮さは不快でありながら魅力的だった。

 

「君は誰だ」

 

()()()()()()

 

 その名を聞いて、マルクスは思わず足を止めた。

 

 犬儒派。(かめ)。王を嘲った哲学者。所有を軽蔑し、社会の虚飾を剥ぎ、必要の最小限へ身を縮めた男。教養として知ってはいた。だが知っていることと、目の前にいることは別である。

 

「なるほど」とマルクスは言った。

 

「夢にしては趣がある」

 

「お前の夢だ。私のせいにするな」

 

 ディオゲネスは地面に転がっていた小石を拾い、指のあいだで弄んだ。

 

「で、お前はあれだろう。金持ちどもが太る仕組みを延々書き立てている男だ」

 

「延々書き立てている、か。雑だが、間違ってはいない」

 

「本質は、たいてい雑な方がよく見える」

 

 マルクスは(かめ)の近くまで歩いた。

 風は乾いており、奇妙に心地よかった。

 

「私の仕事を知っているのか」

 

「少しはな。

 お前は、所有が人間を歪めることを知っている。

 富が労働から切り離され、作った()が作った()に隷属する、その仕組みを暴こうとしている」

 

「その通りだ」

 

「だが、そのわりにお前は、ずいぶん多くの紙に囲まれて生きている」

 

 マルクスは苦く笑った。

 

「私の紙は、工場主の金庫とは違う」

 

「そうだろうな。

 だが囲まれていること自体は似ている」

 

 マルクスはその言葉をすぐには退けなかった。

 たしかに、彼は書物に囲まれていた。原稿、抜き書き、注釈、統計、報告、引用。理論を練るという営みは、対象を支配するためではなく理解するためのはずだ。だが理解のために集めたものが、いつしか人を埋めることもある。

 

「それで」とディオゲネスが言った。

 

「お前は何をしに来た。革命の設計図でも描きに来たのか」

 

「夢の中の対談に設計図は要らない。むしろ君の方こそ、何をしている。(かめ)の中に自由でも詰めているのか」

 

「日向を浴びている」

 

「それだけか」

 

「それだけだ」

 

 その答えのあまりの簡潔さに、マルクスは思わず笑った。

 

「君の哲学は、歴史に対してあまりに無関心だ」

 

「お前の理論は、個人の呼吸に対してあまりに無関心だ」

 

 その返しは速かった。

 マルクスは口を閉じた。

 

 しばらく風だけが吹いていた。

 

「君の立場は知っている」とマルクスは言った。

 

「所有を切り詰め、制度を軽蔑し、名誉や権力を嘲る。だがそれは、個人的な自由の技法にすぎない。飢えた大衆に向かって、(かめ)に入れと言うわけにはいかない」

 

「もちろんだ」

 

 ディオゲネスはあっさり答えた。

 

「私は大衆に向かって(かめ)に入れなどと言わん。

 入ってみたければ入ればよいし、嫌ならやめればよい。

 だが、お前の方は違う。お前は人々に向かって、まず世界をひっくり返せと言う」

 

「世界をひっくり返さなければ、人々は(かめ)を選ぶ自由すら持てない」

 

「本当にそうか?」

 

 ディオゲネスは身体を起こした。

 

「お前は、貧困が人を鎖につなぐことを知っている。

 それは正しい。

 飢えている者に節制を説くのは、金持ちの悪趣味だ。

 だが、お前はその先で、制度を変え、所有を変え、生産関係を変えれば、人間も変わると思っている節がある」

 

「思っている“節”ではない。物質的条件が意識を規定するのは、歴史の明白な事実だ」

 

「半分だけ正しい」

 

「半分?」

 

「そうだ。

 人間は腹の空き方によって考える。

 寒さや病によって卑屈にもなる。

 だから条件は重要だ。

 だが、人間は条件だけでは終わらぬ。

 豊かになれば、今度は豊かさの中で新しい鎖を作る。

 余計な欲望を増やし、余計な比較をし、余計な所有を誇る。

 お前が工場主を追い払っても、人々の魂の中に小さな工場主が棲みつくならどうする」

 

 マルクスは顔をしかめた。

 

「それは道徳の問題として語るべきではない。私は説教師ではない」

 

「知っている。お前は説教師を軽蔑している。そこは好ましい」

 

 ディオゲネスは笑った。

 

「だが、道徳の話をしているのではない。習慣の話をしている。

 人は制度に作られる。

 その通りだ。

 だが人はまた、制度が崩れたあとにも、古い仕草を身体に残している。

 お前は歴史の大きな流れを語るが、人間がパンを食うときの手つきまでは書けぬ」

 

 マルクスは反射的に反論しようとしたが、やめた。

 この男の言うことは粗く、だが完全に外れているわけではなかった。

 

「君の問題は」とマルクスは言った。

 

「歴史を軽視することだ。君は個人の自由を知っているかもしれないが、個人を生み出す社会関係を見ない。君の清貧は、奴隷制の都市で成り立った貴族的特権の裏返しにすぎない。全員がディオゲネスにはなれない」

 

「なれる必要もない」

 

「だが全員がなれない自由は、しばしば一部の余裕ある者の遊戯になる」

 

「それもそうだろうな」

 

 ディオゲネスは意外にも、あっさり頷いた。

 

「私は万人のための処方箋ではない。

 だが、お前の方もまた、万人のためと言いながら、世界を巨大な工房として見すぎる。

 労働、分配、生産、所有。

 お前の言葉はみな必要だ。

 だがその言葉の中で、人間はいつ休むのだ」

 

「自由な労働の中でだ」

 

「労働の中でしか自由を考えられぬのか」

 

 その問いに、マルクスは一瞬黙った。

 

 もちろん、彼は労働を賛美しているわけではない。疎外された労働をこそ批判しているのだ。だが、人間を歴史的存在として捉えるとき、労働はどうしても中心へ来る。自然への働きかけ。自己の外化。世界の形成。

 それに対して、この男はまるで別の場所から問いかけている。

 働くことではなく、足りること。

 作ることではなく、不要を減らすこと。

 変革ではなく、脱落。

 

「君は怠惰を神聖化しているだけではないのか」

 

 マルクスは言った。

 

「人間の尊厳は、単に所有を捨てることではなく、自らの力を社会的に現実化するところにある」

 

「立派な言い方だ」

 

 ディオゲネスは地面に寝そべり直した。

 

「だが、力を現実化するという言葉の中に、支配したい欲望が紛れこむことはないか。

 人間は自分の力を試したがる。

 するとすぐ、自分の力を世界の規模に拡張したがる。

 都市を作り、法律を作り、理論を作り、革命を作る。

 その熱意が悪いとは言わん。

 だがその熱意はしばしば、自分の中の余白を埋める」

 

「それは君にも言えるだろう。

 (かめ)の中へ退却して世界を見下すのは、敗北した貴族の高慢とどう違う」

 

 ディオゲネスは片目だけ開けた。

 

「違わぬところもあるかもしれぬ。

 だから私は自分を聖人とは呼ばぬ」

 

 マルクスはそこで、ほんの少し興味を深くした。

 

「君は自分を正しいと思っているのではないのか」

 

「私は、多くの者より軽いと思っているだけだ」

 

「軽い?」

 

「そうだ。

 持ち物が少ない。

 欲しいものが少ない。

 褒められたい気持ちも少ない。

 だから他人に使われにくい。

 この“軽さ”は、制度以前の自由だ」

 

 マルクスは腕を組んだ。

 

「だが、それは個人的な技法だ。資本は個人の節制では崩れない」

 

「もちろん崩れぬ。

 だが、お前の革命もまた、欲望の方向を一つも問い直さずに進めば、結局は別の資本を作るだけかもしれぬ」

 

 マルクスはその言葉に、はっきりと不快を覚えた。

 

「君はあまりに歴史的媒介を軽んじる。人間の欲望もまた社会的に形成される。商品形態が人間に一定の欲望を教え込み、競争が比較を()い、所有が自我の形を歪める。だから問題は欲望一般ではなく、その歴史的な形態だ」

 

「そうだろう」

 

 ディオゲネスは頷いた。

 

「だが私はこう言っている。

 形態を変えたあとにも、人間はまた何かを欲するだろう。

 そのとき、お前は再び制度を作って対応するのか。

 さらに制度を。

 さらに計画を。

 さらに再編を。

 そうしているうちに、お前の世界には、(かめ)一つ分の無用さも残らなくなるかもしれぬ」

 

 マルクスは息を吐いた。

 この男は議論を体系化しない。その代わり、要点だけを裸のまま突いてくる。体系がないから粗暴だ。だが粗暴であるぶん、こちらが理論の壁の後ろへ隠れにくい。

 

「では、君は人類に何を勧める」

 

「勧めない」

 

「無責任だな」

 

「責任という言葉は、しばしば支配の別名だ」

 

「それは詭弁だ」

 

「そうかもしれぬ。

 だが私は、お前のように“人類”という巨大な主語をあまり信用しない。

 目の前の人間は、たいてい空腹で、疲れていて、少し見栄っ張りで、少し臆病だ。

 その者に何が要るかを考える方が、ずっと誠実だ」

 

 マルクスは少し歩いた。

 白い地面の上には、自分の靴の跡がほとんど残らない。

 

「私が語る“人類”は抽象ではない」と彼は言った。

 

「それは歴史的に形成された類的存在としての人間だ。

 個々人の偶然的な境遇を越えて、人間が人間らしく生きうる条件を問うことは、抽象ではなく、むしろ最も具体的な仕事だ」

 

「よくできた言葉だ」

 

「茶化すな」

 

「茶化してはいない。

 ただ、お前の言う“人間らしく”の中に、どれだけの余白があるのか知りたいのだ。

 皆が働き、学び、議論し、共同体に参与し、自己を発展させる。

 結構なことだ。

 だが、日向で何もしない自由は、そこにあるか」

 

 マルクスは立ち止まった。

 

 日向で何もしない自由。

 その言葉は、一見すると怠惰の賛美にすぎない。だが同時に、どこか根本的な問いでもあった。人間解放とは、何かをする能力の拡大だけではなく、強制された意味から外れて無用でいられる能力でもあるのではないか。

 

 彼はそのことを、十分に考えたことがなかったわけではない。だがそれを言語化する前に、いつも生産や分配や所有の問題が前面へ出てきた。現実があまりに悲惨だからだ。悲惨の前では、無用の自由は贅沢に見える。

 しかし本当にそうか。

 悲惨を除去することの先には、何があるのか。

 ただもっと組織された有用性だけなら、それは解放と呼べるのか。

 

 ディオゲネスは彼の沈黙を見て、少し笑った。

 

「ようやく、お前も少し(かめ)に近づいたな」

 

「近づいてはいない」

 

「お前は(かめ)には入らぬ。

 だが、それでよい。

 お前はお前のやり方で、大きな鎖を壊そうとしている。

 私は、小さな鎖を鼻で笑っている。

 敵が同じとは限らぬが、少し隣り合ってはいるかもしれぬ」

 

 マルクスはその言葉を聞き、苦笑した。

 

「奇妙な同盟だ」

 

「同盟など組まぬ。

 お前はすぐ組織を作りたがる」

 

「それが歴史を動かすからだ」

 

「それが人を疲れさせもする」

 

 風が吹いた。

 夢の荒地には、何もない。

 だがその何もなさの中で、二人の言葉だけが妙に重く残った。

 

 しばらくして、マルクスはふいに訊いた。

 

「君は幸福なのか」

 

 ディオゲネスは空を見たまま答えた。

 

「幸福という言葉は、ずいぶん商売染みた匂いがする。

 だが、軽い。

 それで十分だ」

 

「私は軽くない」

 

「知っている。

 お前は多くの死者と多くの未完を背負っている顔をしている」

 

 その言い方が、不意に胸へ入った。

 多くの未完。

 まさにそれだった。

 

 書き切れぬもの。変えきれぬ現実。失われた者たち。家族への負い目。病。借金。理論の遅れ。歴史の苛酷さ。

 

 彼は世界の巨大な運動を把握しようとしてきた。だがその分だけ、個人的な未完もまた増えていた。

 

「人間は」とマルクスはゆっくり言った。

 

「ただ軽くなるために生きているのではない。

 自分の外へ出て、世界を変え、自分自身を作り変える。

 その運動の中にこそ、人間の真の豊かさがある」

 

「そうだろう」

 

 ディオゲネスは、否定しなかった。

 

「だが、豊かさが重さにしか見えなくなったとき、人はどこかで立ち止まって、自分が何を余計に背負ったのかを見る必要がある。

 お前はそれを、社会の規模で考える。

 私は、身体の規模で考える。

 違いはそのくらいだ」

 

 マルクスはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。

 

「そのくらい、か。ずいぶん大きな違いだ」

 

 

 ディオゲネスは(かめ)に背を預けた。

 

「そろそろ戻るぞ。

 お前の机はまだ紙で埋まっているだろう」

 

「君は戻らないのか」

 

「私は最初からここにいる。

 あるいはどこにもいない。

 お前のように住所を必要とせぬ」

 

「最後に一つだけ」

 

 マルクスは言った。

 

「もし本当に、人間が搾取から解放され、必要の専制から解き放たれたなら、その先に何があると思う」

 

 ディオゲネスは目を細めた。

 日差しが彼の頬の皺に入っていた。

 

「ようやく、まともな問いをしたな」

 

 彼はそう言って、少し考えた。

 

「たぶん、大したものではない。

 人は食い、眠り、愛し、笑い、くだらぬことで争い、また日向に座る。

 だが、その“くだらなさ”に、他人の血と時間が大量に混じらぬなら、それで十分ましだ」

 

 マルクスはその答えを聞いて、すぐには口を開かなかった。

 あまりに素朴だ。

 だが同時に、解放という言葉が本来持っていたはずの温度を、そこに少し感じた。

 

 歴史の終局ではない。

 偉大な完成でもない。

 ただ、人間が人間であることを、より少ない屈辱で引き受けられる状態。

 その中には、労働も思考もあるだろう。だが同時に、日向に座る時間もなければならないのかもしれない。

 

「では」とディオゲネスが言った。

 

「働け、病人」

 

「ずいぶんな激励だ」

 

「励ましてはいない。

 お前は働かずにはいられぬ顔をしている。

 それならせめて、自分の革命が新しい勤勉の宗教にならぬよう気をつけろ」

 

 その言葉とともに、風が強くなった。

 白い地面がまぶしく揺れ、(かめ)の輪郭がほどけ始める。

 マルクスは目を細めた。

 

 最後に見えたのは、日向の中で少しも眩しがらずに寝そべっている男の姿だった。

 

 

 

 マルクスは椅子の上で目を開けた。

 

 ランプはほとんど燃え尽きていた。

 窓の外はまだ暗いが、夜明けの気配がガラスの向こうに薄く差していた。部屋には紙の匂い、煤の匂い、冷えた石炭の匂いが戻っていた。胸の奥にはまた鈍い痛みがあり、喉には咳が潜んでいた。

 

 夢だった。

 それは明らかだった。

 

 だが、机の上の原稿を見たとき、彼はほんの少しだけ、それまでと違う距離を感じた。書かなければならない。もちろんそうだ。資本は放っておいて崩れない。搾取は個人の節制では終わらない。理論はなお必要だ。

 そのことは何一つ変わらない。

 

 だが同時に、彼は思った。

 人間の解放を、ただ生産の再編成としてだけ書いてはならない。

 必要の王国を越えるということは、単に貧困の廃絶だけではなく、強制された有用性からの解放でもあるのではないか。

 人間が、自らの能力を発展させる自由。

 そしておそらく、何の目的もなく日向に座る自由もまた、その中に含まれるのではないか。

 

 彼は紙を一枚引き寄せた。

 すぐに一つの文が書けたわけではない。

 ただ、いつもとは少し違う種類の余白が、頭の中にできていた。

 

 窓の外がわずかに明るくなった。

 マルクスは咳を一つし、それからペンを取った。

 

 革命の理論家の机の上に、日向の男が残したものは何一つなかった。

 (かめ)も、砂も、乾いた風もない。

 

 それでも、その朝の最初の一行は、彼にしては珍しく、少しだけ呼吸しやすかった。

 

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