バビロンの夜は湿っていた。
窓の外に風はあるにはあったが、それはマケドニアの山から降りる乾いた風ではなく、川と泥と植物の匂いを含んだ、まとわりつくような風だった。灯火は静かに揺れ、薬草を煮た匂いと汗の匂いが部屋の中にこもっている。寝台のまわりには人の気配があった。将たち、医師、召使い、見張り。誰もが足音を忍ばせ、声を低くしていた。
アレキサンダーは目を閉じていた。
眠っているわけではなかった。
ただ、目を開けるたびに、天井の高さと、自分の手の動かなさを知らされるのが煩わしかった。
この手はまだ若い。
傷も浅くはないが、老人の手ではない。
それなのに、その手を持つ体の方が、先に世界から遠ざかろうとしている。
彼はゆっくり息をした。胸の奥で熱がくぐもった。
水が欲しかった。
だが水を飲んでも、乾きは喉から退かず、体のもっと深いところに残りつづけた。
彼は何度も熱に浮かされる夢を見た。
グラニコスの川。
イッソスの狭い地。
ガウガメラの平原。
インドの雨。
踏み荒らされた土。
馬の首筋。
盾に当たる矢の音。
敵が崩れる瞬間の、あの異様に静かな感覚。
どの夢にも、前へ進む自分がいた。
立ち止まる自分は、そこにはいなかった。
それが今は、ただ寝台の上にいる。
世界は広かった。
幼いころ、父はギリシアの外を語った。アジア。果てのない国々。富。怪物。神々の土地。
若いころ、彼はそれを聞いて自分の胸の内にも同じように果てのないものがあると思った。
そこへ出ていかねばならぬ。
自分の外にある世界が広いのなら、自分の中にある欲望もまた、それに応じる大きさでなければならない。
王子としてではなく、王としてでもなく、アキレウスの後を歩く者として、彼はそう信じた。
だが、いま自分が終わろうとしているこの部屋は、驚くほど狭い。
世界を押し広げてきた者の終わりにしては、あまりに狭く、静かだ。
彼は目を開けようとしたが、その前に眠りが底から浮き上がってきた。
それは落ちるというより、何か明るい場所へ引かれるような感覚だった。
目を開けると、空があった。
どこまでも高く、乾いて、ほとんど雲のない空だった。
バビロンの湿り気はなく、病の匂いも、人の気配もなかった。光は強いのに鋭すぎず、物の輪郭だけをはっきりと立たせていた。地面は白く、ところどころ浅く裂け、草は乏しかった。風だけが、何にも属さぬように吹いていた。
アレキサンダーはゆっくり体を起こした。
熱はない。
痛みもない。
だが、それで生き返ったとは思わなかった。
むしろ、死と生のあいだに置かれた、どちらにも属さぬ場所へ来たように思えた。
少し先に、大きな
そのそばに、一人の男がいた。
痩せて、日に焼け、ほとんど裸同然の姿で、布を一枚肩に引っかけているだけだった。髭は伸び、髪は乱れ、乞食にも見える。だが、その姿に卑屈さはひとかけらもなかった。恥じるためには、人はまず他人の秩序を受け入れていなければならない。この男には、それが最初から欠けているように見えた。
男は
「遅かったな」
声は低く、乾いていた。
アレキサンダーはしばらく相手を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「おまえか」
男の口元がわずかに動いた。
「覚えていたか」
「忘れるはずがない」
ディオゲネス。
コリントス。
眩しい昼。
周囲にいた家臣たちの緊張した顔。
王の前にありながら、少しも王を見ないその男の目。
そして、ただ一言。
──そこを
あの言葉は、侮辱というより衝撃だった。
多くの者は王の前で自分を小さくする。恐れ、欲し、媚び、計算し、王という存在の光を借りて自分を定めようとする。
だがこの男は違った。
彼にとって、王は太陽より重要ではなかった。
あの時アレキサンダーは、その無礼を怒るより先に、ひどく面白いと思った。
そして同時に、少しだけ羨ましかったのかもしれない。
「おまえはまだ生きていたのか」とアレキサンダーは言った。
「さあな。生きていようと死んでいようと、さほど重要ではないだろう」
ディオゲネスはそう言って、また日に当たった。
その身の置き方には、ひどく無駄がなかった。
兵もいらぬ。
幕僚もいらぬ。
馬も剣もいらぬ。
ただ、そこにいて足りている。
「ここはどこだ」
アレキサンダーが問うと、ディオゲネスは答えた。
「おまえが、まだ何かを征服できると思い込まなくてすむ場所だ」
アレキサンダーは少し笑った。
「相変わらずだな」
風が吹いた。
乾いた風だった。
アレキサンダーは
足取りは軽かった。
現実の体は重く、汗に濡れ、熱に侵されているのに、ここでは青年の頃のように動ける。
「では訊こう」とアレキサンダーは言った。
「おまえは私をどう見ている」
「進み続けた男だ」
「それだけか」
「それでだいたい足りている。
おまえは止まるのが嫌いだった。
国を取り、町を建て、川を越え、山を越え、名を刻み、なお先を見た。
立ち止まると、自分が小さくなる気がしたのだろう」
アレキサンダーは、すぐには答えなかった。
事実だったからだ。
「私は小さくなどなかった」
やがて彼は言った。
「私には世界が狭かったのだ。
前にあるものは、越えられるなら越えるしかなかった。
それが私の力の証明であり、運命でもあった」
「運命」
ディオゲネスはその語を口の中で転がすように言った。
「人はしばしば、自分の性癖を運命と呼ぶ」
アレキサンダーは眉をひそめた。
「性癖だと?」
「そうだ。
おまえは大きいものを愛した。
戦の規模、勝利の響き、兵の列、地図の広がり、自分の名の長さ。
それは才能でもある。
だが同時に、癖でもある」
アレキサンダーは少し笑った。
「おまえは、英雄をずいぶん小さく言う」
「おまえは、自分をずいぶん大きく言う。
その中間あたりが、たいてい人間のいる場所だ」
その返答に、アレキサンダーは笑いを深くした。
ひどく無礼で、ひどく正直だった。
「私はアジアを征服した」
「多くの者がそう言うだろうな」
「事実だ」
「そうかもしれぬ。
だが、征服とは何だ。
おまえが通り過ぎた後、なおその土地には人が住み、水が流れ、子が生まれ、言葉が残る。
兵を置き、税を取り、名を刻んでも、それで本当に手に入ったと言えるのか」
アレキサンダーは答えた。
「完全に手に入るなど思ってはいない。
だが秩序を与えることはできる。
諸王を打ち砕き、一つの意志の下に道を通し、混じり合わぬ世界を結びつけることはできる」
「結びつけたかったのか」
「そうだ」
「それとも、おまえ自身の名の下に結ばれているのを見たかったのか」
その問いは、鋭く、逃げ場がなかった。
アレキサンダーは少し黙った。
結びつけたかった。
それは本当だ。
ギリシアとペルシア。
西と東。
征服ではなく混合を、後には彼も夢見た。
だが、それがすべて他者のための理想だったかと言われれば、違う。
その巨大な結び目の中心に、自分の名がなければならなかったことも、また事実だった。
「両方だ」と彼は言った。
ディオゲネスは頷いた。
「正直だな」
しばらく二人は黙っていた。
空は高く、風は乾いていた。
この場所には軍旗も、馬の
そのことが、アレキサンダーには少し奇妙だった。
彼の生は、つねに音の中にあった。進軍の足音。鬨の声。宴。詩人の朗誦。将たちの議論。勝利の報。
静けさの中に置かれると、自分というものが音に押し広げられていたのか、それとも音の中でしか存在を確かめられなかったのか、わからなくなる。
「おまえは」とディオゲネスが言った。
「なぜそこまで先を欲した」
「先があったからだ」
「子供の答えだな」
「ではおまえなら、どう答える」
「足りなかったからだろう」
アレキサンダーはその言葉に、すぐ反発を覚えた。
「私は欠けてはいない」
「そうか。
では、なぜインドまで行った。
なぜ兵が疲れ、馬が倒れ、雨と泥にまみれてもなお、さらに先を見た。
なぜ帰るという言葉を、敗北のように嫌った」
アレキサンダーは目を細めた。
あの時の兵たちの顔がよみがえった。疲労、反抗、恐れ、飽和。
彼だけがまだ先を見ていた。
彼だけがまだ、自分の欲望と地平線の長さがつり合っていると思っていた。
「世界の果てを見たかった」
「それで」
「そこへ自分の歩みを届かせたかった」
「なぜ」
またその問いだった。
単純で、逃れにくい。
なぜ。
神々に並びたいから。
父を越えたいから。
英雄譚の中に自分の名を刻みたいから。
自分がただの一人の王ではないと、自分自身に証明したいから。
言葉は幾つもある。
どれも真実の一部で、どれも全部ではなかった。
「私が、私であるためだ」
ようやくアレキサンダーは言った。
ディオゲネスはその答えを聞いて、少しだけ笑った。
「なるほど。
おまえは、自分を静かに持っていられぬ男だったのだな」
その言い方は、妙に胸へ入った。
静かに持っていられぬ。
たしかに彼は、ただ生きているだけでは足りなかった。常に何か大きなものを通して、自分の大きさを確かめなければならなかった。
それが王の条件だったのか。
それとも自分の病だったのか。
「おまえは違うのか」とアレキサンダーは言った。
「おまえは、何も持たずに自分でいられると?」
「だいたいそうだ」
「羨ましいと思えと言うのか」
「別に言わぬ。
だが、おまえは昔、少し羨ましそうな顔をしたぞ」
アレキサンダーはそこで笑った。
「やはり見ていたか」
「当然だ。
おまえは笑っていたが、内心では少し驚いていた。
『なぜこの男は、自分の前で何も欲しがらぬのか』とな」
「その通りだ」
あの時、彼は本当に驚いたのだ。
王に何も求めぬ者。
王の力を日差しより重く見ない者。
その自由は、侮辱というより、一つの別の王権のように見えた。
いや、王権ですらない。
王など必要としない、一つの完結だった。
「私は」とアレキサンダーは静かに言った。
「おまえを見て、ふと思ったことがある」
「何だ」
「もし私がアレキサンダーでなかったなら、ディオゲネスになりたいと」
ディオゲネスは、それを聞いて少し目を細めた。
「言ったな」
「言った」
「そしておまえは、結局アレキサンダーのままだった」
「当然だ。
私は
「知っている」
「おまえもまた、軍を率いぬ」
「もちろんだ」
二人のあいだを風が通った。
その風は、争いを煽るでもなく、和解を求めるでもなく、ただ通り過ぎた。
「おまえは、幸福だったか」
ディオゲネスがふいに問うた。
アレキサンダーはその問いに、すぐには答えられなかった。
幸福。
勝利の歓喜は知っている。
戦場の高揚も、愛も、酒も、友との笑いも、神話の中心に自分がいると感じるような瞬間も知っている。
だが幸福という語には、それよりもっと鈍く、静かな充足の感じがある。
それは、自分の生にはあまり似つかわしくなかった。
「幸福ではなかったかもしれぬ」と彼は言った。
「だが、燃えていた」
「そうだろうな」
「燃えることは悪いか」
「悪くはない。
だが燃えるものは、たいてい長く持たぬ」
アレキサンダーは笑った。
「いまの私に言うには、あまりに正確だ」
「おまえは若く死ぬ。
そのことが悔しいか」
今度の問いには、彼はすぐ答えた。
「悔しい」
その一語は、驚くほど素直に出た。
「まだ先があった」
「そう思っているのはおまえだけではあるまい。
たいていの死者は、少し先を残して死ぬ」
「だが私は」
「おまえは特別だと思いたいのだな」
アレキサンダーは少し黙った。
そうだ。
特別でありたかった。
そのために生きたと言ってもよい。
英雄譚においても、現実においても、ただ多くの王の一人として終わることに耐えられなかった。
「そうだ」と彼は言った。
ディオゲネスは頷いた。
「その方がよい。
死に際にまで謙虚なふりをする者は、みじめに見える」
アレキサンダーは声を立てて笑った。
この男は本当に、慰めることを知らない。
だがその無慈悲さの中に、変な清潔さがあった。
空の色が、少しだけ変わり始めていた。
乾いた光の中に、どこか熱の匂いが戻り始める。
バビロン。
病床。
汗。
薬。
人々の気配。
そこへ戻るのだと、アレキサンダーには分かった。
彼はしばらく黙って、
この男は最初に会った時と少しも変わらぬように見えた。
いや、夢の中では、人はたいてい変わらぬ顔で現れる。
変わるのは見る側の方なのだろう。
アレキサンダーはゆっくり立ち上がった。
立ち上がると、斜めから差していた光が遮られた。彼の影が長く伸び、地の上を渡って、
それは奇妙に懐かしい光景だった。
王として初めてこの男に会ったあの日、たしかにこんなふうに、自分の身体は他人の日向を奪ったのだった。
ディオゲネスはその影の中で目を細めた。
不快そうでもあり、少し面白がっているようでもあった。
アレキサンダーは、その顔を見て、わずかに口元を動かした。
「今一度問う」と彼は言った。
「欲しいものは無いか?」
その言葉は、若い日の自分の中から、そのまま出てきたようだった。
与える者として立つ声。
望めば何でも差し出せると、少なくともその瞬間には信じていた者の声だった。
ディオゲネスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、影の落ちた自分の膝と、その向こうにある光とを見ていた。
やがて、彼は顔を上げた。
「そこをどいてくれ」
乾いた声だった。
少しも力んでいないのに、昔とまったく同じ形で、王の大きさを無にしてしまう声だった。
一瞬、アレキサンダーは黙った。
それから、不意に笑った。
大声ではなかった。
だが、若い日の驚きと、いまようやくそれを本当に理解したという気配とが、ひとつに混じった笑いだった。
ディオゲネスもまた笑った。
それは勝ち誇る笑いではなく、人が最後まで人でしかないことを見てしまった者の、乾いた、明るい笑いだった。
影が揺れた。
光が崩れた。
白い地面も、
アレキサンダーは目を開けた。
バビロンの部屋だった。
湿った空気。
薬の匂い。
灯火。
人の気配。
熱はなお深く、身体は重い。
何も変わってはいなかった。
それでも彼の口元には、かすかに笑みが残っていた。
側にいた者は、その笑みの意味を知らなかった。
だがアレキサンダー自身には、それで十分だった。
欲しいものは無いか。
かつてそう問うた若い王は、世界のほとんどを欲しがっていた。
そして最後に、あの男はまた同じように、王にできることの限りを、たった一言で示してみせた。
──そこをどいてくれ。
アレキサンダーは目を閉じた。
その言葉は敗北のようでもあり、妙に澄んだ赦しのようでもあった。
少なくとも、王の影よりも光の方が長く残るのだということを、彼は最後に知った。
窓の外で、夜が少しずつ薄れていく。
世界は自分の熱とは無関係に、また朝へ向かっている。
そのことが、前ほど不当には思えなかった。
彼は静かに息をした。
世界を持つことはできなかった。
だが、世界へ向かって進みつづけた自分の形だけは、最後にようやく、自分の目でも見えた気がした。
熱はなお重い。
終わりも近い。
それでも、その朝の手前の静けさは、昨夜よりほんの少しましだった。
そして彼は、何も命じずに、しばらくそのまま目を閉じていた。