【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
序章 歪む盤面と魔王の策謀
傀儡国ジスターヴ。
その中心にそびえ立つ城の一室で、不快な破砕音が響き渡った。
「……忌々しいジュラの森の魔人め。私の盤面を勝手に荒らした借りは大きいぞ」
クレイマンは、床に叩きつけたワイングラスの残骸を冷ややかに見下ろした。
真紅の液体が、高級な絨毯に染みを作っていく。
新たな魔王を擁立し、自身の覚醒へと利用するための計画。
その要となるはずだったゲルミュッドは死に、オーク・ディザスターは名も知れぬ魔人とその配下どもに討ち取られた。
手に入るはずだった強大な軍勢を失ったのは確かに痛手だ。
だが、クレイマンにとってゲルミュッドの死そのものは、さほど嘆くべきことではなかった。
(まあいい。オークの軍勢は失ったが、代わりに別の面白い手札が手に入ったと思えばな)
ふと、クレイマンの頭の奥でズキリとした痛みが走る。
魔王として『人形傀儡師(マリオネットマスター)』の二つ名を持つ彼は本来は極めて慎重な策士である。
だが、今の彼の精神には、彼自身も気づかぬうちに『異物』が混入していた。
いつ、どこで、誰に植え付けられたものか。
それすらも自覚できないほど深く静かな、何者かによる巧妙で絶対的な精神支配。
それが彼の思考を密かに歪め、不自然なほどの焦燥感と、自らの策に対する盲目的な自信を肥大化させているのだ。
「ええい、頭が痛い……。だが、これでいい。ミリム、カリオン、そしてフレイ……あの目障りな魔王どもに貸しを作り、私の掌の上で踊らせてやればいいのだ」
こめかみを押さえ、歪な笑みを浮かべるクレイマン。
そこに、軽い足音とともにふらりと扉が開かれた。
「どないしたんやクレイマン。えらい物騒な顔しとるみたいやないか」
飄々とした声とともに現れたのは、道化の面を被った男――中庸道化連の副会長であり、クレイマンの頼れる同胞、ラプラスだった。
「ラプラスか……すまない、少し考え事をしていてね」
「しゃあないわな。ゲルミュッドは死んでまうし、オーク・ディザスターも得体の知れん魔人にやられてもうた」
「気にするな。駒などいくらでも代わりは利く。それより、例の件はどうなった?」
ラプラスは肩をすくめ、手をヒラヒラと揺らした。
「ジュラの大森林の件やけどな、お前の言う通り、魔王ミリムはまだあのスライムの町に滞在しとるみたいや。しかも、例の魔人にえらく懐いとる」
「……やはりか。ならば計画通りだ。『暴風大妖渦(カリュブディス)』を完全復活させ、あの町へと誘導する」
クレイマンは邪悪に目を細めた。
「『天空女王(スカイクイーン)』フレイは今、自身の天敵とも言えるカリュブディス復活の兆しにひどく怯え、頭を悩ませている。私が獣王国の阿呆を唆してカリュブディスを復活させ、それを偶然あのスライムの町に滞在しているミリムに討伐させるよう仕向けるんだ。そうすれば、フレイは私に多大な恩義を感じるだろう」
「なるほどなあ。フレイにデカい貸しを作れれば、あいつを利用してミリムやカリオンを今後出し抜くのも容易になるって寸法か。相変わらずワルよのう」
「フフ……そういうことだ。だが、問題なく進んでいるのだろうね?」
「それがな、クレイマン。そのカリュブディスの件なんやけど……ちょっと妙なことになっとるんや」
ラプラスは普段のおどけた態度を少しだけ引っ込め、面越しの目を細めてクレイマンを見た。
「ワイの調べたところ、今のカリュブディスから立ち上っとる魔素の量が、事前の計算の『倍』近くに膨れ上がっとるんや。おまけにな、誰かが外から手を加えたような魔力干渉の痕跡も、呪術の跡も一切見当たらんかった。まるで世界そのものが、勝手にカリュブディスを急成長させたみたいな……ホンマに気味が悪いんや」
「……なんだと?」
クレイマンは目を丸くした。
「倍だと? 馬鹿な。いくらヴェルドラの魔素の残滓とはいえ、あのような短期間でそこまで異常な成長を遂げるはずがない。仲間の中で、誰か細工を行った者はいるのか?」
「おらんおらん! ワイもティアもフットマンも、そんな危ない橋を渡るメリットがあらへんがな。あんさんの指示した通り、フォビオを焚きつけた後は完全にノータッチや」
ラプラスの言葉に嘘はない。
長年の付き合いであるクレイマンにはそれが分かった。
だが、だとすれば一体なぜ、カリュブディスは何の痕跡も残さずに不自然なまでの力を得たというのか。
(……ジュラの大森林で、私の預かり知らぬ何かが起きているというのか……?)
クレイマンの歪んだ精神が、微かな疑心暗鬼を生み出す。
だが、肥大化した傲慢さがすぐにそれを塗り潰した。
「……まあいい。原因が何であれ、カリュブディスが強くなる分には、こちらの計画にとっても都合が良い。あの忌々しい魔人の町を徹底的に蹂躙した上でミリムが始末してくれれば、より確実な恩をフレイに売れるというものだ」
クレイマンの冷酷な呟きは、誰に届くこともなく夜の闇へと溶けていく。
ただ、肥大化した傲慢と迫り来る災厄の影だけが、静かにその牙を剥き始めていた――。