【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
――同時刻。
ジュラの大森林、テンペスト。
未来から来た俺のために作られた仮の執務室で自らが関わった工事関係の書類仕事に向かっていた俺の意識に、突如として奇妙なノイズが走った。
『リリリリリリリリ・・・・』
(……ん? なんだ今の音? どこかでアラームが鳴って……)
視界が一瞬だけブレたような感覚に陥り、俺は思わず羽ペンの手を止めてこめかみを押さえた。
《マスター? どうかされましたか?》
(あ、いや。シエル、今変な音が聞こえなかったか? 目覚まし時計みたいな、機械的な音が……)
《……いいえ。私の観測領域内において、そのような音波および魔力的なノイズは一切検知されておりません。マスターの精神的な疲労、あるいは錯覚ではないですか?》
(そうか……? まあ、シエルが検知してないなら気のせいか。最近色々と立て込んでたしな)
俺は小さく首を振り、再び意識を目の前の現実へと戻した。
シエルの言う通り、疲れているのかもしれない。
だが、今の俺の肉体はスライムであり、物理的な疲労など本来は存在しないはずなのだが。
《…………》
シエルはそれ以上何も言わなかった。
だが、俺に心配をかけまいと沈黙を保った彼女の内部では、密かに凄まじい演算が開始されていた。
主を至上とするシエルにとって、マスターの脳内に直接響いた『未知のノイズ』を検知できなかったという事実は、決して看過できるものではない。
(私の観測領域外からの干渉……いえ、この世界そのものの理から生じたエラー音……?)
現時点では、彼女の完璧な知能をもってしても、その正体も原因も全くの不明だった。
それが何であれ、マスターに未知の影響を及ぼす可能性がある以上、放置するわけにはいかない。
シエルは俺に悟られぬよう、絶対的な演算能力の深層域を密かに切り離し、ノイズが発生した理由・・・そして主に対する『不自然な干渉』についての極秘調査へと乗り出していたのだった。
「さて、と。休んでる暇はないな」
俺は立ち上がり、窓の外――不穏な気配を漂わせ始めた青空を見上げた。
俺の知る歴史の二倍のエネルギーを誇る、空の災厄。
それがどのような理不尽な力を持って襲い掛かってくるのか、まだこの時の俺は正確に予測できていなかった。
*
湯けむりが立ち込める中、岩風呂に満たされた極上の湯がちゃぷちゃぷと心地よい音を立てている。
テンペスト自慢の大浴場、その男湯。
「……死ぬ。今日こそマジで死ぬかと思ったぜ……」
頭に手ぬぐいを乗せ、今にも湯船に沈みそうな虚ろな目で呟いているのはヨウムだ。
首から下を湯に沈め、全身の筋肉の悲鳴を鎮めるように深く息を吐き出している。
「あのハクロウって爺さん……いや、ハクロウの師匠、絶対に人間の限界を勘違いしてるぜ。あんな神速の斬撃、どうやって避けりゃいいんだ……俺、一応普通の人間寄りの部類なんだけどな……」
ヨウムの愚痴に、隣で湯に浸かっていたカバルとギドが、心底同情するような顔で深く頷いた。
「お、お疲れさん、ヨウムの旦那。俺たちは森の巡視や魔物討伐の手伝いだけで済んでて、本当に良かったぜ……」
「そうッスね。カバルさんの言う通り、あの爺さんの相手なんてしてたら命がいくつあっても足りないッスよ」
彼ら――エレンは当然ながら女湯だ――は、現在は俺たちの国造りの一環として、森のパトロールや周辺の安全確保を手伝ってもらっている。
もっとも、その正体はサリオンの精鋭部隊『メイガス』であるため、そこら辺の魔物相手なら十分すぎるほど頼りになる実力者たちだ。
彼らが手伝ってくれているおかげで、リグルドやリグルたちも村の整備に集中できている。
「まあまあ、ハクロウも期待してるからこそ熱が入ってるんだよ。耐え抜けば絶対強くなるからさ」
スライム形態のままプカプカとお湯に浮いていた過去の俺が、慰めるようにヨウムの肩のあたりをぽよんと叩く。
そんな過去の俺は、ふと視線を横に向けた。
そこには、岩の縁に頭を預け、この世の極楽を味わっているかのように「ふぁぁぁ……」とだらしない声を漏らしている男――ブルムント王国の自由組合(ギルド)支部長、フューズがいた。
「ていうか、フューズ」
「んぁ? なんですか、リムル殿。今いいところなんだが……」
「いいところじゃないよ。ここ数日、ずっと温泉に入ってゴロゴロしてるだけじゃないか。ヨウムを英雄に仕立て上げる計画、組合(ギルド)側の協力はどうなってるんだ?」
ジト目で問い詰める過去の俺。
対するフューズは、顔に乗せていた手ぬぐいをパシッと取り、全く悪びれる様子もなくニヤリと口角を上げた。
「ご心配なく。ブルムントにいる手の者には、すでに秘密裏に指示を飛ばしてあります」
「指示?」
「ええ。『辺境の村をオークの脅威から救った、ヨウムという若き英雄がいる』という具合で、商人や冒険者の口から、少しずつ、だが確実に周辺諸国へ噂が広まるように仕込みを始めてますよ。情報ってのは、いきなりギルドが大々的に発表するより、酒場や宿屋で尾鰭がついて自然と耳に入る方が信憑性が増すものなんでね」
フューズが自信ありげに語るその言葉を聞きながら、少し離れた岩の上で、同じくスライム形態でくつろいでいた俺は、内心で深く頷いていた。
(たしかに、俺の知ってる元の歴史でも、フューズはこんな趣旨のことを言って、きっちり裏で手を回してくれてたっけな)
普段は飄々としていて怠け者に見えるが、こと情報操作や裏の立ち回りに関しては、さすが小国ブルムントで支部長を張っているだけのことはある。
この男がいれば、ヨウムの英雄としての箔付けは問題なく進むだろう。
俺は安心して、さらに深く湯の温もりに身を委ねた。
「……ところで、リムル殿。ずっとバタバタしていて、まだきちんと伝える機会がなかったんですがね」
フューズはふう、と一つ息を吐くと、手ぬぐいを湯船の縁に置き、少しだけ真面目な顔つきになって過去の俺へと向き直った。
「ん? なんだ?」
「シズさんのことです」
その名前が出た瞬間、ちゃぷちゃぷと鳴っていた湯の音が微かに止まった。
隣で湯に浸かっていたカバルとギドが、静かに目を伏せる。
「我が自由組合(ギルド)の英雄であり、『爆炎の支配者』と呼ばれたあのお方の最期を……まさかこんな辺境で看取ることになるとは思っていませんでした。ですが、カバルたちから報告を聞いて、そして実際にこの目で、あのお方の姿を受け継いだリムル殿を見て……あのお方がどういう結末を選んだのか、納得できた気がするんですよ」
フューズは真っ直ぐに過去の俺を見つめ、湯の中で深く頭を下げた。
「ギルドを代表して、いや、あのお方を尊敬していた一人の人間として、礼を言わせてください。シズさんの最期の願いを叶えていただき、本当にありがとうございました」
「……頭を上げてくれ、フューズ。俺は、俺がそうしたかったからしただけだ」
過去の俺は、静かに言葉を返す。
俺たちスライムの体の中には、彼女の魂の残滓と、そして彼女がこの世界に抱いていた『心残り』が確かに受け継がれている。
「シズさんは、この世界に取り込まれることを嫌がっていた。だから俺の中で眠ることを望んだんだ。俺にとっても、同郷の大切な人だった。彼女の遺志は、俺がちゃんと引き継いでいくって約束したからな」
「……俺たち、シズさんとは少しの間しか一緒にいられなかったッスけど」
「それでも、シズさんが最期にリムルの旦那という同郷の相手に出会えて、本当に良かったと思ってるぜ。最期を看取ることはできなかったが……あの人が最後に救われたんだってことは、旦那が普段とってるその人型の姿を見りゃあわかるからな」
ギドとカバルが、どこか遠くを見るような目でポツリとこぼす。
彼らにとっても、シズさんと共に旅をして過ごした数日間は、一生忘れられない大切な記憶なのだ。
しんみりとした、けれどどこか温かい空気が岩風呂を満たしていく。
風呂に浸かりながらそのやり取りを見守っていた俺は、心の中でそっと微笑んだ。
彼らは皆、シズさんが俺の中で永遠の眠りについたと思っている。
だが、『すべての結末』を知る未来の俺からすれば、それは少し違うのだ。
彼女自身の数奇な運命を、過去の俺を含め、ここにいる誰も知る由はない。
(シズさん。あんたのことを想ってくれる人が、この異世界にはこんなにたくさんいるよ。この時代のあんたが遺した願いは、俺たちが全部、最高の形で叶えてみせるからな。だから、安心して見守っててくれ)
「――わはははは! お前たち、こんなところで何をしているのだ!」
そんな静寂を切り裂くように、男湯の入り口の引き戸がパーン!と景気よく吹き飛んだ。
もうもうと立ち込める湯けむりの向こうから、腰にバスタオルを一枚巻いただけの小柄なシルエットが、元気いっぱいに仁王立ちしている。
「なっ!?」
「み、ミリム様!? ここ男湯ッスよ!?」
「男湯だァ!? わはは、そんな些細なこと気にするな! 我も一緒に入ってやるのだ!」
ギドの悲鳴を置き去りにし、最古の魔王にして歩く理不尽ことミリム・ナーヴァが、一切の躊躇なく男湯へと乱入してくる。
バシャァン!と盛大な水柱を上げて湯船に飛び込むと、一番近くにいたヨウムが波に飲まれて「ごぼぼぼっ!?」と情けない音を立てて沈んでいった。
「お、おいミリム! お前なあ、シュナやシオンたちに怒られても知らないぞ!」
「えーい、小言は後で聞く! それよりリムル、遊ぼう! シュナのやつが『温泉では走ってはいけません』とかうるさいのだ! ここなら広いし、水遊びに最適ではないか!」
ミリムは過去の俺をひょいっと抱き上げると、ボールのようにポンポンと弾ませ始めた。
過去の俺が「や、やめろーっ!」と抗議するものの、ミリムの腕力から逃れられるはずもない。
「ひぃぃぃ……っ、魔王が男湯に……っ!?」
「ギルマス! 俺たちどうすればいいんスか!?」
「知るか! とりあえず目を逸らせ! 絶対に見るなよ!」
カバルとギド、そしてフューズまでもが、岩風呂の隅っこで身を縮こまらせてガタガタと震え始めた。
ただでさえハクロウのしごきで満身創痍だったヨウムに至っては、湯船の端で泡を吹いて完全に気絶している。
*
それから数日後。
雲一つない澄み渡った青空の下、テンペストの真新しい正門前に、一つの屈強な部隊が整列していた。
「……いやはや、見違えたな。本当にあのチンピラ……もとい、辺境調査隊だったお前たちか?」
過去の俺が、感心したようにぽよんと跳ねる。
俺も隣で腕を組みながら、深く頷いた。
そこに並んでいるのは、ヨウムを筆頭とする三十名ほどの部隊だ。
彼らの姿は、数日前にこの村へやってきた時の薄汚れたチンピラ集団とは、まるで別人のように洗練されていた。
ガルムやドルドたちが丹精込めて仕立てた、動きやすくも堅牢な特注の革鎧。
クロベエが鍛え上げた、魔鋼(魔鉱石)を打ち込んだ鋭い武器の数々。
だが、何より変わったのは彼らが纏う『空気』だった。
背筋はピンと伸び、その眼光には歴戦の戦士のような鋭さが宿っている。
ハクロウによる地獄の特訓――もとい、手厚いご指導を数日間にわたって耐え抜いたことで、彼らの精神と肉体は極限まで鍛え上げられていた。
「へっ。旦那たちには、何から何まで世話になっちまったな。……特に、師匠のしごきは、一生夢にまで出てきそうだがよ」
ヨウムが引きつった笑みを浮かべながら、見送りに来ていたハクロウへと視線を向ける。
ハクロウは穏やかに微笑み、スッと目を細めた。
「フォッフォッフォ。まだまだ基礎の基礎を叩き込んだに過ぎぬが……まあ、その辺のチンピラから、見れる程度の『戦士』にはなりましたな。くれぐれも、ワシの教えを忘れて無駄死にするような真似はせぬのだぞ」
「……へいへい、わかってますよ。師匠の木刀に比べりゃ、ファルムスの騎士の剣なんか止まって見えるだろうぜ」
ヨウムは肩をすくめたが、その言葉には確かな自信が満ちていた。
「ヨウム」
俺が声をかけると、ヨウムは真っ直ぐにこちらへ向き直り、スッと姿勢を正した。
「俺たちの目的は、何度も説明した通りだ。お前は『オーク・ディザスターを討ち取った人間の英雄』として、ファルムス王国や周辺諸国にその名を轟かせる。フューズが裏から手を回してくれてるから、噂はすぐに広まるはずだ」
「ああ、わかってる。それに、一足先に帰国したロンメルの野郎も、今頃は王都の酒場で大芝居を打ってくれてる頃合いだろうしな」
ヨウムがニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
ロンメルはヨウムの部隊の魔法使いであり、知恵袋でもある男だ。
彼を先行してファルムス王国へ帰還させ、フューズの裏工作と並行して「ヨウム部隊の大立ち回り」を王国内に喧伝させる手筈になっていた。
「あいつ、『オークロードとの死闘を、吟遊詩人も裸足で逃げ出すくらい盛りに盛って報告してやりますよ! 僕たちの武勇伝で王都の連中を腰抜かさせてやります!』って、やたらと張り切って帰っていったからな」
「本当に大丈夫か? 話がデカくなりすぎて、後でボロが出なきゃいいけどな……」
過去の俺が呆れたように、だが面白そうにぽよんと揺れる。
「心配すんな、旦那。そこはロンメルの野郎が上手く立ち回る。俺たちはこの森の脅威を退けた英雄部隊であり、このテンペストという魔物の国と『対等な協力関係』を結んだ人間の代表……きっちりそういう筋書き通りに動いてみせるさ」
「そうだ。これからファルムス王国に戻れば、欲に目の眩んだ貴族たちが、お前をいいように利用しようとすり寄ってくるだろう。だが、絶対に主導権を握られるな。お前はただのコマじゃない、いずれ一国の王となる男だ」
俺の言葉に、ヨウムは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて力強く頷いた。
「……王、か。ただの貧民上がりのチンピラには、随分と重てえ荷物だが……旦那たちがそこまで俺を信じて背中を押してくれるんなら、やってやるよ。俺は俺のやり方で、人間たちの社会をひっくり返してやる」
過去の俺が、「道中気をつけてな。ポーションはたっぷり持たせたから、出し惜しみするなよ」とヨウムに激励を飛ばす。
それを聞いたヨウムは頷くと、バサリとマントを翻して愛馬に跨った。
「行くぞ、お前ら! 俺たちは今日から『英雄』だ! 誰にも舐められたツラは見せるんじゃねえぞ!」
「「「おおォォォッ!!」」」
ヨウムの号令に、部下たちが地鳴りのような雄叫びで応える。
その見事な統率力と覇気は、すでに一軍の将と呼ぶにふさわしいものだった。
俺たちと、見送りに集まったテンペストの面々が手を振る中、英雄ヨウムの一団は、ファルムス王国へ向けて堂々たる行軍を開始した。
彼らの背中が森の木々に紛れて見えなくなるまで、俺は静かにその光景を見守っていた。
(これで、ファルムス王国への『楔(くさび)』は完全に打ち込まれた。元の歴史よりも遥かに強く、強固な英雄が向かったんだ。そう簡単には向こうの貴族たちの思惑通りにはならないはずだ)
盤上の駒は、俺が思い描く最高の配置へと着実に進んでいる。
「よし。それじゃあ俺たちも、次の厄介事の準備といくか」
俺が幹部たちに振り返ってそう口にした、まさにその直後のことだった。
俺と過去の俺の脳内に、鋭く緊迫した《思念伝達》が飛び込んできた。
《――リムル様。急ぎのご報告があります》
(ソウエイか。どうした、何か妙な動きでもあったか?)
《はっ。ソーカと共に森の西側を巡回任務に当たっていたところ、重傷を負って倒れている者を発見しました。直ちに回復薬で応急処置を施しましたが、魔素の枯渇が激しく、予断を許さない状況です》
(重傷の怪我人? 冒険者か?)
《いえ。対象は……樹妖精(ドライアド)のトライア殿です》
(なんだと!?)
過去の俺は思わず顔をしかめた。
樹妖精(ドライアド)といえば、このジュラの大森林の管理者であり、Aランク相当の力を持つ高位の精神生命体だ。
森の中で彼女たちに後れを取るような魔物など、そうそういるはずがない。
俺の只ならぬ雰囲気を察して、ベニマルたちが怪訝な顔を向けてくる。
「どうされましたか、リムル様。……お二方とも」
ベニマルが代表して尋ねてくる。
思念伝達を共に聞いて事情を把握していた過去の俺が、深刻な声で答えた。
「ソウエイから緊急連絡が入ったんだ。森の中で、トレイニーさんの妹のトライアが重傷を負って倒れてるらしい」
「トライア殿が!?」
ベニマルたちが驚きの声を上げたのとほぼ同時だった。
「――今、トライアが倒れていると仰いましたか!?」
スッ、と空間が揺らぎ、俺たちの前に焦燥に顔を染めたトレイニーが姿を現した。
普段のふんわりとした余裕は微塵もなく、その瞳には明確な動揺が走っている。
「トレイニーさん。ソウエイの話じゃ、外傷の処置は済んでるが魔素の消耗が激しいらしい。今すぐ現場に向かうぞ」
俺が引き取ってそう告げると、彼女は切羽詰まった様子で深く頷いた。
「はいっ……!」
「あーっ! アタシも行く! アタシの可愛い眷属がやられるなんて、精霊女王として絶対に見過ごせないわ!」
頭上から甲高い声が聞こえたかと思うと、迷宮(ダンジョン)の構築作業を抜け出してきたらしいラミリスが、ブンブンと腕を振り回しながら俺の肩に不時着した。
ドライアドたちは精霊女王たるラミリスを深く崇拝しているし、ラミリスもまた彼女たちを我が子のように可愛がっている。
精霊女王でもある彼女が同行するのは心強かった。
「よし。過去の俺はベニマルたちと一緒に、万が一の敵襲に備えて町の防衛態勢を固めておいてくれ。俺とトレイニーさん、ラミリスで現場に急行する」
俺が指示を出すと、過去の俺はスライムの体を力強く縦に揺らした。
「わかった。こっちは任せてくれ。頼んだぞ!」
俺はソウエイから送られてきた座標をシエルに解析させると、即座に『空間移動』を発動した。
視界が一瞬で切り替わる。
到着したのは、テンペストから少し離れた鬱蒼とした森の中。
周囲には強大な力を持つ何かが暴れ回ったような激しい破壊の痕跡があり、太い樹木が何本も飴細工のようになぎ倒されていた。
「リムル様」
気配を絶って警戒に当たっていたソウエイが、静かに影から姿を現す。
その後ろでは、ソーカが横たわる人影を必死に介抱していた。
「トライア!」
トレイニーが悲痛な声を上げ、倒れている妹の元へと駆け寄る。
トライアの緑色の髪は土に汚れ、その身体からはドライアド特有の清らかな魔素が抜け落ち、今にも実体を維持できずに消え入りそうに明滅していた。
「ひどい……! 一体誰がこんなことを!」
「トレイニー、どいて! アタシが診るわ!」
ラミリスがパタパタと飛び立ち、トライアの額に小さな手をかざす。
すると、ラミリスの手から暖かく眩い光が溢れ出し、トライアの体を優しく包み込んだ。
精霊女王としての純粋なエネルギー譲渡だ。
「……ん、ぁ……お姉、様……? ラミリス、様……?」
光に包まれ、魔素を補給されたトライアが、弱々しくまぶたを開いた。
「よかった……! トライア、無事なのですね!」
「喋れるか、トライア。お前にこんな重傷を負わせたのは誰だ?」
俺が屈み込んで尋ねると、トライアは微かに震える手で、空の彼方を指差した。
「……そら、から……恐ろしい数の、魔物の群れが……。あいつらは、森の魔物たちを喰らいながら、一直線に……このリムル様の町へと向かって……っ」
「空からだと?」
「はい……。かの地より復活した、災厄の化身……『暴風大妖渦(カリュブディス)』が……っ」
「『暴風大妖渦(カリュブディス)』……っ」
トレイニーが息を呑み、俺も微かに眉をひそめた。
トライアは苦しげに顔を歪めながら、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「信じられないほどの……強大な魔素の塊でした。空を泳ぐ鮫の魔物を無数に従え……この森の魔素を根こそぎ喰らい尽くす勢いで……っ。私一人では、足止めどころか、近づくことすら……」 「もういい、喋らなくていいのです」
トレイニーがトライアの泥に汚れた頬を優しく撫で、その言葉を遮った。
「貴女は一人で無茶をしすぎです。森の異変を察知したのなら、なぜ私やリムル様にすぐに知らせなかったのですか」
「お姉、様……申し訳、ありま……せん……」
「謝る必要はありません。今はただ、ラミリス様の加護を受けてゆっくり休んでいなさい」
トレイニーは妹を労わるように微笑みかけると、静かに立ち上がった。
その瞳からは先ほどの動揺は消え失せ、ジュラの大森林を護る管理者としての、冷徹で覚悟に満ちた光が宿っていた。
「……リムル様」
トレイニーが真っ直ぐに俺を見る。
「カリュブディスは、かつて数多の国を滅ぼした本物の『災厄』です。それが何故この時代に復活したのかは分かりませんが……狙いが真っ直ぐに貴方たちの町へ向かっている以上、衝突は避けられません」
彼女はスッと目を伏せ、深く一礼した。
「私が向かい、可能な限り奴の進軍を遅らせて時間を稼ぎます。その間に、リムル様は住民たちの避難と、迎撃態勢の構築をお願いいたします」
それは、森の管理者としての矜持であり、同時に死を覚悟した決死の提案だった。
俺の知る元の歴史でも、トレイニーはカリュブディスに対して単身で挑んで時間稼ぎを行っていた。
責任感の強い彼女らしい申し出だ。
だが、今回のカリュブディスは俺が知る『アレ』の二倍以上の魔素量を誇るバケモノに仕上がっている。
今のトレイニーがまともにぶつかれば、時間を稼ぐどころか、文字通り一瞬で魔素を喰い尽くされて消滅してしまうだろう。
「待て待て。一人で死にに行くような真似はさせないぞ」
俺は努めて軽い調子で声をかけ、彼女の前にポンと手を置いた。
「リムル様……しかし、相手は……」
「災厄だろうが何だろうが関係ない。俺の町に手を出そうって奴を、トレイニーさん一人に押し付けて逃げるような真似、俺も過去の俺も絶対に許さないさ」
「そうよそうよ! アタシの可愛いトレイニーを死なせるわけないじゃない!」
トライアの治療をあらかた終えたラミリスが、ぷんぷんと怒ったように宙を舞う。
「大体ね、アンタたち精霊女王(アタシ)を誰だと思ってるのよ! あんなヴェルドラの残滓から生まれたデカブツくらい、リムルがいればちょちょいのドンよ!」
豪語した割には結局他人任せのラミリスの理論に、緊張していた空気が少しだけ緩む。
「……ラミリス様の仰る通りです。それにリムル様、町の方の防衛態勢はすでに過去のリムル様やベニマルたちが動いてくれています」
背後に控えていたソウエイが、静かに進み出た。
「すでに非戦闘員の住民たちは地下の避難所――ラミリス様が構築された迷宮(ダンジョン)の浅層へと誘導を開始しているはずです。戦闘可能な部隊は、町を囲むように展開を急いでいることでしょう」
「よし、完璧だ。さすがは過去の俺たちだな。避難さえ完了していれば、町への被害は結界でどうにか防げる」
俺はトレイニーに向き直り、自信に満ちた笑みを浮かべてみせた。
「ってわけだ。トレイニーさんは無茶な特攻なんて考えず、俺たちの迎撃部隊のサポートに回ってくれ。時間稼ぎなんか必要ない。俺たちテンペストの総力をもって、あの空飛ぶデカブツを正面から迎え撃つ」
俺の力強い宣言に、トレイニーは微かに目を丸くした後、ふわりと安堵の笑みを浮かべた。
「……承知いたしました。この身に代えましても、皆様の助けとなりましょう」
「おう、頼むぞ。……ソウエイ、ベニマルたちに伝達してくれ。これより大至急、中央指令室で緊急作戦会議を開く。各部隊の長を招集しろ。過去の俺にもそう伝えてくれ」
「御意」
ソウエイが影へと沈み、即座に手配に走る。
俺たちも重傷のトライアを抱え、急ぎテンペストへと帰還した。