【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
ジュラの大森林に、重苦しい風が吹き荒れていた。
空は完全に異様な黒雲に覆われ、まるで夜が前倒しで訪れたかのような錯覚を覚える。
『ビュィィィィィィィィィン!!』
大気を切り裂くような、耳を劈く不快な飛翔音。
黒雲を突き破るようにして、ついにその巨大な姿がの上空に現れた。
全長五十メートルは優に超える、醜悪で巨大な一つ目の化け物。
空を飛ぶための器官なのか、身体のあちこちから無数の触手やヒレのようなものが生え、異様な魔素の波動を周囲に撒き散らしている。
『暴風大妖渦(カリュブディス)』
(……デカいな。それに、この妖気(オーラ)……)
地上で陣形を組んで待ち構えていた俺は、上空を見上げながら微かに息を呑んだ。
《マスター。正確な魔素量の算出を行いましたが、マスターの記憶にある元のカリュブディスの約二・四倍に達しています。 さらに、従属している空泳魔巨大鮫(メガロドン)の数は、計三十体ですね》
(三十体だと……!?)
元の十三体から倍以上に増えている。
「……おいおい、未来の俺。アレ、事前に聞いてた話よりヤバいことになってないか?」
俺の隣で、人型をとった過去の俺が冷や汗を流しながら呟いた。
「ああ。どういう理屈か分からないが、明らかに俺の知ってる歴史よりバケモノに仕上がってる。……気を引き締めていけよ」
奴の周囲を泳ぐように飛翔する三十匹のメガロドン。
それだけでも一国の軍隊を壊滅させるには十分すぎる戦力だ。
だが、俺たちも黙って見上げているわけではない。
「空の敵ならば、我ら飛竜衆にお任せあれ!!」
上空から、ガビル率いる百名の飛竜衆が、メガロドンの群れへと猛然と突撃を仕掛けた。
「行くぞランガ! 俺たちも続くぞ!」
「オオォォォッ!!」
過去の俺がランガの背に飛び乗り、黒雷を纏いながら空へと駆け上がっていく。
空の災厄との総力戦が、ついに火蓋を切った。
上空で最初に接敵したのは、ガビル率いる飛竜衆だった。
「空を飛ぶ魚など、我ら飛竜衆の敵ではないわ! 喰らえッ、『渦槍水流撃(ボルテクスクラッシュ)』!!」
ガビルの振るう水渦槍が、突撃してきた空泳巨大鮫(メガロドン)の分厚い皮膚を抉り、豪快に血を噴き出させる。
部下たちも一斉に魔槍を突き出し、空飛ぶ巨大鮫たちと激しい空中戦を展開し始めた。
だが、相手は本来の歴史の二倍以上の魔素を浴びて変異したバケモノだ。
「ぬうっ!? ガビル様、こいつら異常にタフですぞ!」
「ええい、怯むな! 我らの勇姿をリムル様方が見ておられるのだぞ!」
そこに、空を駆ける黒い流星が乱入する。
「我が主の御前である! 塵芥のごとき魚風情が、その醜い姿を晒すな!」
ランガの咆哮と共に、上空の黒雲から無数の黒い稲妻が降り注いだ。
『黒雷嵐(デスストーム)』
雷と竜巻が融合した局地的な自然災害が、メガロドンの群れを容赦なく薙ぎ払う。
雷などの自然現象を操る物理攻撃は『魔力妨害』の影響を受けにくく、巨大なサメたちは次々と黒焦げになっていく。
「よし、ランガ! その調子だ!」
背に乗る過去の俺も、『水刃』や『黒稲妻』を的確に放ち、ランガの広範囲攻撃から漏れたメガロドンを的確に撃ち落としていく。
だが、三十体という数は伊達ではない。
乱戦をすり抜け、数体のメガロドンが地上で構える俺たちの陣形へ向かって急降下してきた。
全長二十メートルはあろうかという巨体が、弾丸のような速度で迫る。
「上ばかり見上げているのも、首が疲れるな」
ふっと息を吐き、ベニマルが前に出た。
彼の右手に、純黒の炎が球体となって顕現する。
ただの魔法ではない。
極限まで練り上げられた彼自身の『闘気(オーラ)』が込められた、魔法とアーツの融合技だ。
「落ちてこい――『黒炎獄(ヘルフレア)』」
放たれた黒炎は、メガロドンの『魔力妨害』の防壁をあっさりと貫通し、空中で巨大な鮫を悲鳴を上げる間もなく燃やし尽くした。
「フォッフォッフォ。若の言う通りですな。剣が届かぬのなら、届く場所まで落ちてくるのを待てばよい」
炎の雨をすり抜けて迫ってきた別のメガロドン。
その巨体がハクロウを飲み込もうと大口を開けた瞬間――閃刃が走った。
刀を鞘に納めるカチリという小さな音とともに、メガロドンの巨体が縦に真っ二つに割れ、左右に分かれてズシンと地面に激突する。
「ふふん! 私の剛力丸のサビにしてやります!」
シオンに至っては、落ちてきたメガロドンを巨大な大太刀の腹でフルスイングし、まるでボールのように遥か彼方へと叩き飛ばして見せた。
飛んでいったメガロドンは別のメガロドンに激突し、二体まとめて墜落していく。
(……うん、地上組は完全に余裕だな)
俺は腕を組みながら、幹部たちの圧倒的な立ち回りを見つめていた。
敵の数は増え、強さも本来の歴史をはるかに凌駕している。
だが、それ以上に……未来の俺が意図的に経験や装備の恩恵を与え、ハクロウのしごきも倍増したテンペストの最高戦力たちは、俺の知る元の歴史の同じ時期よりも遥かに強く、逞しく育っていた。
だが、メガロドンの群れが次々と討ち取られていく光景を、空の災厄が黙って見過ごすはずもなかった。
『ギィュゥゥゥゥィィィィィィン!!』
鼓膜を破壊せんばかりの、耳障りな甲高い鳴き声。
上空のカリュブディス本体が、その不気味な単眼をギョロリと動かし、周囲に凄まじい魔素の奔流を逆巻かせた。
その直後、奴の全身に生えた無数の楯鱗が、一斉に逆立つ。
「気をつけろ! 奴の楯鱗を飛ばす広範囲攻撃が来るぞ!!」
未来の知識を持つ俺の警告とほぼ同時。
カリュブディスの巨体から、無数の巨大な楯鱗がまるでミサイルの雨のように一斉射出された。
一つ一つが大砲の砲弾ほどの威力を持つ、魔力と物理の複合攻撃。
それが数百、数千という単位で、空を飛ぶガビルたちやランガ、そして地上にいる俺たちをまとめて殲滅せんと降り注いできたのだ。
「大気の精霊よ、集え! 我らの空に風の防壁を!」
後方に控えていたトレイニーが即座に両手を掲げ、空中に幾重にも重なる暴風の壁を展開する。
だが、二倍以上に強化されたカリュブディスの魔鱗弾は、分厚い風の壁を次々と貫き、苛烈な勢いで地上へとその牙を剥いた。
「――退くな! 我らが主の御前である! 鉄壁の盾となれッ!!」
地を揺らすような野太い号令が響き渡った。
街道の避難誘導を配下に任せ、前線へと駆けつけてきたゲルドと、彼が率いる猪人族(ハイ・オーク)の重装歩兵部隊だ。
彼らは全身を覆う分厚い重装甲を打ち鳴らし、俺たちと後衛の前に巨大な大盾を並べて分厚い防陣を敷いた。
「ゲルド!」
「遅参いたしました、未来のリムル様、そしてリムル様。ここは我らにお任せを!」
ゲルドの全身から、黄色く重厚な闘気(オーラ)が立ち上る。
ユニークスキル『守護者(マモルモノ)』の力が彼自身と部隊全体に行き渡り、強固な魔力障壁となって物理と魔法の両面から味方を防護する。
ズガガガガガガッ!!と、凄まじい質量を持った楯鱗がゲルドたちの盾に雨霰と降り注いだ。
一つ一つが岩盤を砕くほどの威力を持つ弾幕に、大盾がひしゃげ、オークの戦士たちの足元の地面が深くめり込み、ひび割れていく。
だが、彼らは一歩も引かない。
血を流し、歯を食いしばりながらも、その強靭な肉体と精神力でカリュブディスの猛攻に耐え抜いた。
「よく耐えてくれた! 反撃するぞ!」
過去の俺が声を上げると同時、楯鱗の雨をすり抜け、あるいはシオンたちに弾かれて地上へと墜落してきた数体のメガロドンが、地響きを立ててゲルドたちの陣形へと突っ込んできた。
「喰い止めろ! 一匹たりとも陣を抜けさせるな!」
ゲルドが前へ踏み出し、手にした巨大な斧を振りかぶる。
全長二十メートルのメガロドンの突進を、ゲルドは正面から真正面から受け止めた。
ドグォォォッ!という凄まじい衝撃波が周囲の空気を吹き飛ばすが、ゲルドの丸太のような両腕は微動だにしない。
「押し返せェェェッ!!」 「「「オオォォォォォッ!!」」」
ゲルドの咆哮に呼応し、猪人族(ハイ・オーク)の戦士たちが一斉にメガロドンへ群がった。
落下してきて機動力を失った空飛ぶ巨大鮫など、地上戦に特化した彼らにとってはただの巨大な的でしかない。
大盾でメガロドンの動きを完全に封じ込めると、その分厚い皮膚の隙間を縫うように、一撃必殺の槍や大斧が次々と容赦なく叩き込まれる。
「ガァァァァッ……!?」
断末魔の悲鳴を上げ、メガロドンの巨体がゲルドの斧によって力任せに両断された。
それを皮切りに、地上に落ちたメガロドンたちはゲルド率いる重装歩兵の波状攻撃によって次々と粉砕され、黒い魔素の塵となって消滅していく。
(凄いな……。さすがはゲルドたちだ。俺の知る歴史の同じ時期よりも動きや戦い方がより洗練されている)
俺は頼もしい配下たちの雄姿に目を細めた。
ガビルとランガが空から叩き落とし、シオンやベニマルたちが中空で弾き、残った個体をゲルドたちが地上で完璧にすり潰す。
二倍に増強されたはずの三十体のメガロドンの群れは、テンペストの最高戦力たちの完璧な連携の前に、瞬く間にその数を減らしていった。
「よし! 取り巻きの数はあらかた減らした! 未来の俺、いけるか!?」
黒雷を纏ったランガの背から飛び降りてきた過去の俺が、スライム形態のまま俺の隣へと並ぶ。
「ああ、十分すぎる。みんなのおかげで、あのデカブツの懐が完全にガラ空きになったからな」
俺は刀の柄に手をかけ、上空で鬱陶しい羽音を立てている一つ目の災厄――カリュブディス本体を真っ直ぐに睨み据えた。
「行くぞ。俺たちの手で、あいつを地上に引きずり下ろす!」
俺が刀を構え、過去の俺と共に地を蹴ろうとしたその時だった。
自身を守る最大の防壁であったメガロドンの群れを失ったカリュブディスが、その巨大な単眼を血走らせ、怒り狂ったような不気味な咆哮を上げた。
『ギィュゥゥゥゥィィィィィィン!!』
周囲の大気がビリビリと震え、奴の全身から再び無数の魔鋼の鱗が逆立つ。
「また来るぞ! 楯鱗を飛ばす広範囲攻撃だ!」
俺が警告を発した瞬間、先ほどゲルドたちの防陣を削り取ったのと同じ、いや、それ以上に密集した必殺の鱗の雨が、今度は俺たち二人を真正面から狙って一斉に射出された。
「未来の俺、ここは俺に任せろ!」
過去の俺が前に出た。
「ランガ、お前は地上で待機だ!」
「ハッ! ご武運を、我が主!」
ランガの背から離れた過去の俺の背中に、バサァッ!と巨大な蝙蝠の羽が生え揃う。
自前の空中浮遊能力を展開した彼は、猛スピードで空へと舞い上がり、カリュブディスと俺たちの真っ只中――楯鱗の雨の真正面へと躍り出た。
「あんなただの物理と魔素の塊、避けるより『喰っちまった』方が手っ取り早いからな!」
空中に浮かぶ過去の俺が、ニヤリと不敵に笑う。
その頼もしい背中を見て、俺も思わず口角を上げていた。
(ああ、そうだった。俺の知る元の歴史でも、あの無数の楯鱗は全部『暴食者』で丸飲みにしてやったんだったな。相変わらず無茶苦茶な発想だが……俺が俺である以上、当然そう動くよな)
次の瞬間、過去の俺の手から、そしてその身体から、禍々しくも圧倒的な漆黒のオーラがドーム状に爆発的に膨れ上がった。
ユニークスキル『暴食者(グラトニー)』。
「さあ、全部俺の胃袋に収まれェッ!」
ドドドドドドドドッ!!!
まるで大瀑布のように降り注ぐ数千の魔鱗弾が、過去の俺が展開した『暴食者』の漆黒の渦へと次々に吸い込まれていく。
岩盤を砕き、ハイ・オークの大盾をひしゃげさせるほどの威力を誇る必殺の弾幕が、スライムの圧倒的な捕食能力の前に、一切の音も衝撃も残さず「無」へと還っていくのだ。
地上でその規格外な光景を見上げていたベニマルは、呆れたように小さく息を吐いた。
「……相変わらず、我らが主の御業はデタラメの極みだな。あの楯鱗の雨を、防ぐでもなく真っ向から全部飲み込んじまうとは」
「当然です! 流石はリムル様、あの忌々しい魚の鱗など、偉大なるリムル様の前では極上のオヤツにすぎません!」
シオンに至っては、呆れるどころか剛力丸を握りしめたまま、瞳を輝かせてうっとりとした表情で上空の主を称賛している。
「……ふっ。自分でやっておいてなんだが、客観的に見ると相当にデタラメで理不尽な光景だな」
俺は呆れたような、それでいてどこか誇らしい気分で呟いた。
今の俺はシエルという究極の相棒を持っているが、この時代における『暴食者』のなんでもありな万能っぷりも、やっぱり相当なチートである。
やがて、カリュブディスが放った最後の一発の鱗が漆黒の渦に飲み込まれると、過去の俺は満足そうに口元を拭った。
「ふう、ごちそうさん!」
『ギィィ……!?』
自身の渾身の攻撃が完全に無力化され、カリュブディスの巨大な単眼が信じられないものを見るように見開かれる。
明確な動揺、あるいは恐怖の感情が、その異形の巨体から伝わってきた。
その焦りからか、カリュブディスは巨大な単眼に禍々しい魔素を急速に集中させ、過去の俺を真っ直ぐに狙って極太の怪光線を放ってきた。
「おっと、危ねえ!」
だが、過去の俺はそれを紙一重でヒラリと躱す。
ただ避けるだけではない。
空中で姿勢を反転させながら一気に距離を詰め、カリュブディスの分厚い魔鋼の装甲に両手をピタリと触れた。
「ついでに本体も味見させてくれよ! 『暴食者(グラトニー)』!!」
手から溢れ出した漆黒のオーラが、奴の巨体を喰らおうと牙を剥く。
しかし、相手は莫大な魔素の塊であり、純粋な肉体を持たない精神生命体に近い存在だ。
いかにオーク・ディザスターを喰らって進化した『暴食者』とはいえ、今の段階でこの超質量を直接「捕食」することは不可能だった。
「ちっ、硬えな! そのまま丸呑みってわけにはいかないか!」
だが、全くの無意味だったわけではない。
『暴食者』に付随する「腐食」の効果が装甲の表面に浸透し、ジリジリと強酸を浴びたように魔鋼の鱗を溶かして嫌な煙を上げさせたのだ。
『ギ、ギャァァァッ!?』
想定外の浸食による痛みに耐えかねたのか、カリュブディスが巨体を大きく揺らしてひるみ、明確にバランスを崩す。
俺が同じ事を試した時はそこまで効いている印象はなかったが、どうやら俺が思っている以上に過去の俺は成長しているらしい。
「よし、ナイスだ! 完全に奴の隙ができたぞ!」
俺も過去の俺の横へと一気に飛翔した。
本来の歴史の二倍の力を持つ災厄とはいえ、最大の攻撃手段を無効化され、取り巻きを失った今、奴は空に浮かぶ巨大な的でしかない。
(……とはいえ、今の俺が本気で殴ったら、カリュブディスどころか眼下の森ごと消し飛んじまうからな。万が一にも即死させないよう、極限まで手加減してしないと)
俺は内心で冷や汗をかきながら、自身の内に渦巻く神にも等しい魔素や虚無の力を完全に封印し、出力をスライム時代のレベルまで必死に絞り込んだ。
「今度こそ落とす! 合わせろ!」 「おうよ!」
空中に無防備な姿を晒しているカリュブディスへ向けて、俺と過去の俺は左右から同時に飛び出した。
俺は愛刀…エルピスを引き抜き、そこに黒炎を纏わせる。
元の歴史のこの戦いで俺が多用していた『黒炎剣』だ。
純粋な魔力ではなく、俺自身の闘気と黒炎だけを刃に定着させる。
これなら奴の『魔力妨害』の影響を受けない。
対する過去の俺は、スライムの体から触手の一本を鋭利な刃に変形させ、そこに『水刃』と自然現象である『黒稲妻』を限界まで圧縮して上乗せしていた。
魔法構築を阻害するなら、構築のいらない物理斬撃と自然現象を叩き込めばいい。
当時の俺と同じ正解に辿り着いている過去の俺を頼もしく思いながら、俺たちは剣を振りかぶった。
「「ハアァァァッ!!」」
俺と過去の俺は、巨大な一つ目のすぐ真横――カリュブディスの分厚い魔鋼の装甲が薄くなる関節の隙間へ向けて、同時に一撃を叩き込んだ。
『ギギャァァァァァァッ!?』
極限まで出力を絞ったとはいえ、俺の黒炎剣の圧倒的な斬れ味と、過去の俺が放つ黒雷の水刃。
二つの物理的破壊力が交差するようにカリュブディスの巨躯を深く抉り切り、青黒い体液が噴水のように空中にぶちまけられる。
「落ちろォッ!!」
俺たちがさらに深く押し込むと、両断された翼から魔力が霧散していく。
カリュブディスはついに浮力のバランスを崩し、その超絶な質量を支えきれずに真っ逆さまに地上へと墜落していった。
ズゴォォォォォォォォォォッ!!!
大地が爆発したかのように跳ね上がり、土砂と木々が数百メートルの高さまで巻き上がる。
巨大なクレーターを穿ちながら、空の災厄はついにその醜悪な巨体を大地に横たえた。
「よっしゃ! 見事に墜落したぜ!」
過去の俺がガッツポーズを取りながら、地上へと降り立つ。
俺もその隣へ舞い降り、砂煙の奥でうごめく巨影を睨み据えた。
「……油断するなよ。あんな図体だ、墜落のダメージだけで死ぬわけがない。それに……」
俺の予測を裏付けるように、濛々と立ち込める粉塵の中から、不気味な肉の蠢く音が響き始めた。
『ギュルルルルルルル……』
風が吹き抜け、砂煙が晴れる。
そこに現れたカリュブディスの姿に、地上で待ち構えていたベニマルやハクロウたちも思わず息を呑んだ。
先ほど俺と過去の俺が叩き込んだ、本来ならば致命傷になるはずの巨大な十字の斬り傷。
そこから無数の肉芽が異常な速度で盛り上がり、まるで早送りの映像を見ているかのように、一瞬にして傷口が塞がってしまったのだ。
「なんだあの再生速度は……!」
過去の俺が驚愕の声を上げる。
「『超速再生』だ。……だが、俺の知ってる奴の再生能力より、明らかに異常に早い」
本来の歴史の二倍の魔素量。
それは単に攻撃力や取り巻きの数が増えただけではない。
傷を癒やすための生命力そのものも、絶望的なまでに底上げされているということだ。
「フォッフォッフォ。なるほど、空から落としてようやく終わりかと思えば……ここからが本番というわけですな」
ハクロウが目を細め、再び刀の柄を握り直す。
「あのバケモノ、一撃で完全に消し飛ばさない限り、何度でも復活するということですね……!」
シオンも大太刀を構え直し、ベニマルも黒炎を手に浮かべながら油断なく腰を落とした。
地上に引きずり下ろしたことで、俺たちテンペストの最高戦力全員の攻撃が届くようにはなった。
だが、相手は削っても削っても即座に傷を塞ぐ、規格外の魔素の塊だ。
「なあ、未来の俺」
刀を構え直した過去の俺が、横目でこちらを見ながら尋ねてきた。
「お前がこいつと戦った時は、倒すのにどれくらいかかったんだ?」
「……当時の俺たちの実力じゃ、十時間かかっても削り切れなかったな」
俺はあの日のどうにもならない消耗戦を思い出し、苦笑交じりに答えた。
「十時間戦って削り切れない!? マジかよ。しかも今回はお前の話よりも魔素量が倍以上あるんだろ? こりゃあ、骨が折れるなんてもんじゃないぞ……」
「ああ。俺の知る歴史じゃ、結局最後はミリムに手を出してもらうハメになったしな。だが、今の俺たちと仲間たちの力なら、当時とは比べ物にならないダメージを叩き出せるはずだ」
そう言って俺が刀を握り直した、その時だった。
『ギィィィィ……リ、リムル……ッ!!』
大地を震わせるような、低く、そして怨念に満ちた咆哮がカリュブディスの巨躯から漏れ出た。
それは知性を持たぬはずの魔獣が、生まれて初めて味わった「屈辱」と「拒絶」によって刻みつけられた、明確な殺意の対象を呼ぶ声だった。
「……ん? 今、俺の名前を呼んだか?」
過去の俺が、眉をひそめて呟く。
(……あれ?)
隣でその声を聞いた俺は、思わず目を瞬かせた。
俺の知る元の歴史のこの場面で、奴が異常なまでの執着を見せ、地の底から響くような声で呼んだ名前は『ミリム』だったはずだ。。
だが、今回はミリムの名前を呼ぶのではないらしい。
『リムルゥゥゥゥッ! オレを……このオレを、舐めるなぁぁぁっ!!』
混濁した意識の中で、依代となっているフォビオの激昂がカリュブディスの本能と共鳴したのだろう。
矮小なスライムに渾身の弾幕を飲み干され、地に叩き落とされた事実は、彼の中にある傲慢さを何よりも深く傷つけたのだ。
かつて、テンペストの広場で自身の拳をいとも容易く受け止め、あしらってきた矮小なスライム。
底知れぬ力で圧倒された屈辱と、見下していたはずの存在がドワルゴンと同盟を結んで一国の主として振る舞っていることへの激しい怒り。
その時に刻み込まれた劣等感と憎悪が、カリュブディスという巨大な出力機関を得たことで、どす黒く膨れ上がっていたのだ。
「未来の俺、あいつ……俺に相当恨みがあるみたいだな」
「ああ。本来ならミリムに向くはずだった執着が、フォビオの私怨と完全に混ざり合って俺たちに切り替わってやがる。……来るぞ!」
俺の警告と同時、カリュブディスの全身から、先ほどとは比べ物にならないほど高密度な魔素が噴出した。
捕食された鱗を再生させるどころか、体表面の魔鋼そのものを爆発的に膨張させ、周囲に展開していたトレイニーさんの大樹の根を力任せに引き千切っていく。
『ギィギャァァァァァッ!!?』
奴の巨体が、怒りに呼応するように一回り大きく膨れ上がる。
さらには、その一つ目が赤黒く発光し、俺たちを通り越して遥か後方――ミリムが待機し、仲間たちが守るテンペストの町がある方角を明確に睨みつけた。
「マズいぞ! 奴は怒りに任せて、俺たちとの戦闘を無視して一直線に町を蹂躙する気だ!」
俺の叫びと共に、カリュブディスが地響きを立てて突進を開始した。
ズゴォォォォォォォォッ!!
メガロドンを殲滅したばかりのゲルドたち猪人族(ハイ・オーク)の防陣が、そのデタラメな質量による突撃を真正面から受け、たまらず後方へと弾き飛ばされる。
「させんッ! 『黒炎獄(ヘルフレア)』!!」
「我が斬撃、とくと味わうがいい! 『八重桜 八華閃』!!」
「ハアァァァッ!!」
ベニマルの黒炎が顔面を焼き、ハクロウの神速の八連撃が巨体を刻み、シオンの大太刀が魔鋼の鱗ごと肉を粉砕する。
凄まじい破壊力が次々と叩き込まれ、カリュブディスの巨躯から大量の体液が噴き出した。
だが――。
『ギルルルルルルルッ!!』
奴は止まらない。
受けた端から『超速再生』で傷を塞ぎ、ただひたすらに、己を拒絶したリムルという存在を否定するため、その象徴たる町を目指して地を這い続ける。
眼下ではその侵攻を食い止めようと仲間達の必死の抵抗が展開されていた。
「くそっ、このままじゃ街道はおろか、町まで一直線に轢き潰されるぞ!」
過去の俺が焦燥の声を上げる。
「なら、ここでトドメを刺すしかないな」
俺は一瞬で思考を巡らせた。
物理と闘気で削っても即座に再生するのなら、過去の俺に丸ごと食わせて俺の知る歴史以上の強化に使ってしまえばいい。
「過去の俺! あいつを捕食しろ!」
「バカ言え!あいつ自体には俺の捕食は効かないぞ!」
過去の俺の焦燥に満ちた叫びは、極めて正しい。
カリュブディスは純粋な物理的肉体というより、ヴェルドラの魔素から生み出された精神生命体に近しい超高密度のエネルギー体だ。
今の過去の俺が持つユニークスキル『暴食者(グラトニー)』の権能であっても、あの規格外の質量と魔素の奔流を直接「喰らう」ことは不可能に近い。
無理に飲み込もうとすれば、逆にキャパシティをオーバーし、胃袋を食い破られて自滅するのが関の山だ。
「焦るな。俺がサポートする」
俺は努めて落ち着いた声で返し、過去の俺の背後へとピタリと張り付いた。
「いいか、俺が持てる力と演算領域をお前に回す。お前は余計なことは考えるな。ただ『暴食者』を最大出力で展開し、暴走しないように力の制御と照準を合わせることだけに集中しろ」
「サポートって……相手はあのデカブツだぞ!? いくら未来の俺の力が凄いからって、俺にそんなことができるはずが…」
「できるさ。俺を信じろ」
俺の絶対的な自信を宿した声に、過去の俺は一瞬だけ息を呑み――やがて、覚悟を決めたように力強く頷いた。
「……わかったよ! どうなっても知らないからな!」
過去の俺は足を肩幅に開き、町へ向かって暴走するカリュブディスの巨大な単眼を見据えて、両手を真っ直ぐに前方へと突き出した。
俺はその華奢な背中に、そっと己の右手をかざす。
掌越しに、かつての自分自身の魂の形、そして魔素の鼓動が伝わってくる。
懐かしく、けれど今の俺からすればあまりにも未完成で危うい揺らぎ。
俺はその深淵――過去の俺の魂の奥底に座す『管理者』へと、真っ直ぐに意識の波長を合わせた。
(……聞こえるか、『大賢者』)
それは、かつて俺がこの異世界に転生したその日から、どんな時も俺を支え、導き、共に歩んでくれた最古の相棒への呼びかけ。
シエルへと進化する遥か前。
感情を持たず、ただ冷徹に主の望みを叶えるためだけに存在していた、無機質で生真面目な俺の一部。
未来の自分というイレギュラー極まりない存在からのコンタクト。
本来のシステムならば理解不能なエラーとして弾かれてもおかしくない干渉だ。
だが、ほんの僅かなタイムラグの後。
俺の脳内に――いや、俺と過去の俺の意識を繋ぐ特異な共有領域に、あの懐かしい、透き通るような機械音声が響き渡った。
《解。……未来の主(マスター)からのアクセスを認識。魂の波長の完全一致を確認しました。……ご命令を》
(ふっ……相変わらず、優秀で話が早いな)
俺は思わず、口元に微かな笑みを浮かべていた。
ただのスキルであるはずの『大賢者』が、俺の異常な存在を瞬時に「未来の主」として許容し、最上位のアクセス権限を認めたのだ。
「よし。状況は切迫している、端的に行くぞ。大賢者、お前の演算領域を今から俺の『相棒』と同期させる。システムの一部を開放し、全面的にサポートを受け入れろ」
俺がそう告げると、大賢者は感情の乗らない、しかし絶対の忠誠を誓う声で即答した。
《告。了解しました。アクセス権限を拡張し、外部の高度演算領域との同調プロセスを待機します》
《過去のマスターの中の『大賢者(過去の私)』とのリンクしました。いつでもいけますよ。マスター》
続いて俺の脳内に、シエルの涼やかで絶対的な自信に満ちた声が響く。
それと同時、俺の右手を通じて、神にも等しい極限にまで圧縮された俺の魔素と、シエルによる規格外の演算サポートが、過去の俺の体へと一気に注ぎ込まれた。
「う、おおおおおおッ!?」
過去の俺が、両手を突き出したまま信じられないというように声を上げる。
無理もない。
本来なら絶対に耐えきれないほどの莫大なエネルギーの奔流だ。
だが、シエルの完璧な制御と『大賢者』のフル稼働によって、その力は一切の暴走を起こすことなく、彼の手のひらに収束していく。
「な、なんだこれ……! 力が、無限に湧いてきやがる……ッ! それに、頭の中のモヤが全部晴れたみたいに、どう動かせばいいかがハッキリと分かるぞ……!」
「言ったろ、俺がサポートするってな。さあ、遠慮はいらない。その腹ペコな胃袋で、目の前のデカブツを残さず平らげてやれ!」
「おうよッ!!」
過去の俺が、目をカッと見開いて絶叫する。
「全てを飲み込めッ!! 『暴食者(グラトニー)』ィィィィッ!!」
直後、世界が闇に包まれた。
過去の俺が突き出した両手から爆発的に膨れ上がったのは、先ほど魔鱗弾を飲み込んだ時とは次元が違う、文字通り「世界そのものを喰らい尽くす」かのような巨大な漆黒の顎(あぎと)。
シエルの概念拡張によって『捕食』の理(ことわり)を限界突破させられた虚無の渦が、天を衝くほどの竜巻となってカリュブディスの眼前に顕現したのだ。
『ギ、ギギャァァァァァァァッ!!?』
己を遥かに凌駕する圧倒的な「捕食の概念」を前に、カリュブディスの巨大な単眼が恐怖に染まる。
怒りも、憎悪も、超速再生も、もはや何の意味も持たなかった。
突進の勢いそのままに漆黒の渦へと触れたカリュブディスの巨躯は、抵抗する間もなく先端から音を立てて崩壊し、暗黒空間へと吸い込まれていく。
分厚い魔鋼の装甲も、絶えず再生を繰り返す肉塊も、そして何より、奴を構成している莫大な『暴風の魔素』すらも、悉くが過去の俺の胃袋へと還元されていく。
『リムルゥゥゥゥゥゥゥッ……!!』
最後に響いたのは、フォビオの怨嗟か、それとも災厄の断末魔だったのか。
渦の吸引力がさらに増し、全長数十メートルに及ぶ巨体が一瞬にして虚無の口へと飲み込まれる。
そして――。
シュゥゥゥ……という微かな音を立てて、漆黒の渦が空間に溶けるように消滅した。
あとに残されたのは、トレイニーの大樹の根が引き千切られて荒れ果てた大地と、巻き上がる土煙。
本来の歴史の二倍の魔素を誇り、この森を、町を蹂躙しようとしていた空の災厄は、文字通り「跡形もなく」消え去っていた。
「うう…ん…全く未来の俺は無茶をさせるぜ…」
森に、間の抜けた声が響く。
過去の俺が、突き出していた両手を下ろし、呆然とした様子で自身の腹をペタペタと触っていた。
「……マジかよ。信じらんねえ。あの魔素の塊みたいなヤツが、全部俺の胃袋の中に……?」
「よくやったぞ、過去の俺。消化不良は起こしてないか?」
俺が隣に並び立つと、過去の俺は信じられないものを見るような目でこちらを見上げてきた。
「ああ、全然平気だ。というか……改めて思うけど未来の俺ってなんでもありなんだな……『大賢者』さんが、引くくらい大人しく従ってフル回転してたぞ……」
「まあ、そこは同じ魂を持つ俺たちだからこその特権ってやつだ。……っと、感心するのは後にしてくれ。まだ『中身』を吐き出してもらわないといけないからな」
「中身?」
「ああ。カリュブディスの核になってる、フォビオのことだよ。あいつからカリュブディスの核を分離して解放してやらないとな」
俺がそう言って顎で促すと、空で待機していた飛竜衆や、地上で防陣を解いたベニマルたちが、信じられないものを見たという顔でこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「……未来のリムル様。それに、リムル様。お怪我は」
真っ先に到着したベニマルが、巨大なクレーターと俺たちを交互に見比べながら、呆れたような、それでいて深い敬意を込めた声で尋ねてきた。
「ああ、二人とも無傷だ。みんなもよく持ち堪えてくれた。おかげで綺麗に片付いたよ」
「綺麗に、ですか。……ええ、まさかあの化け物を、文字通り『跡形もなく』飲み込んでしまうとは思いませんでしたがね」
ベニマルが苦笑いし、後ろに続くハクロウやゲルドたちも深く頷いている。
シオンに至っては「流石は二人のリムル様! あの小骨の多そうなデカ魚も、極上のフルコースに早変わりでしたね!」と一人で目を輝かせていた。
「さてと。それじゃあ、さっさと『中身』を分離しちまうか」
幹部たちの労をねぎらった後、過去の俺はスライムの体をぽよんと揺らした。
そして、自身の内にいる『大賢者』へと心の中で命じた。
(大賢者、腹の中のカリュブディスから、依代になってるフォビオだけを傷つけずに分離できるか?)
《解。対象の魔素の大部分はすでに捕食・還元済みです。残る『暴風大妖渦の核(コア)』と個体名:フォビオの分離を実行しますか? YES/NO》
(YESだ。頼む)
過去の俺と大賢者のそんなやり取りが、魂の繋がりを通じて微かに伝わってくる。
ほんの数秒後。
「おう、終わったみたいだ。吐き出すぞ」
過去の俺が器用に体をうねらせると、ペッ、という軽い音と共に、一人の男が地面に転がり出た。
獣王国ユーラザニアの三獣士の一人、黒豹牙のフォビオだ。
全身はスライムの粘液まみれで、服はボロボロに引き裂かれている。
だが、その胸は微かに上下しており、カリュブディスの呪縛から完全に解放されたことで、本来の彼の魔素の波長が戻りつつあった。
「……ふむ。ひどい魔素の枯渇ですが、生きてはおるようですな」
ハクロウがフォビオの首元に手を当て、静かに頷く。
「わはははは! 見事なのだマブダチたちよ!」
その時、上空から元気いっぱいの声が響き、ミリムが弾丸のような速度で俺たちの目の前に着地した。
「ワタシの出番がなかったのは少し退屈だったが、お前たちの戦いぶり、上から見ていてワクワクしたぞ! まさかアレを丸呑みにしてしまうとはな!」
「ミリムも大人しく待っててくれて助かったよ。こいつが暴走した原因は、まあ……大体わかってると思うが」
俺が地面に転がるフォビオに視線を向けると、ミリムは腕を組み、「うむ」と真面目な顔で頷いた。
「ワタシが手加減を間違えて殴り飛ばしてしまったからな! その恨みを見知らぬ奴らにつけ込まれたのだろう。ワタシにも責任の一端はあるのだ!」
相変わらず反省しているのかいないのか絶妙なテンションだが、ミリムなりに事態の顛末はきちんと理解しているようだ。
「ミリムにこいつを預けてユーラザニアへ送り届けてもらうのもいいが……」
俺はそこで言葉を区切り、森の奥、何もないはずの空間へと視線を向けた。
そこには、最初から事の顛末を窺っていた「彼」が息を潜めている。
「その前に、保護者に直接引き取ってもらった方が話が早いよな。……なあ、さっきからそこで見てるんだろ? 出てきてくれないか」
俺の唐突な呼びかけに、ベニマルたち幹部が弾かれたように警戒態勢を取り、そちらの空間を睨みつける。
過去の俺も「えっ、誰かいるのか!?」とびっくりした様子を見せた。
だが、それ以上に嬉しそうな声を上げたのはミリムだった。
「わはははは! なんだ未来のリムル、お前も気付いていたのか! 流石だな!」
ミリムが自身の事のように誇らしげに胸を張る。
「実はワタシも、さっきからこっそり覗いている気配には気付いていたのだ! 隠れてコソコソしているから、後で驚かせてやろうと思っていたのだがな!」
(お前、気付いてたなら教えといてくれよ……)と過去の俺が呆れたようにツッコミを入れる中、俺が視線を向けていた空間が陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
『――フッ。見事なものだ。まさか、俺の隠密を完全に見破っていたとはな』
空気を震わせるような、低く、しかしよく通る男の声が響く。
直後、空間の歪みから一人の男が姿を現した。
金色の美しい髪を逆立て、猛禽類のように鋭い眼光を持った大柄な男。
その身から放たれる圧倒的な覇気(オーラ)は、彼がただの魔物ではなく、間違いなくミリムと同格の存在――『魔王』の一柱であることを物語っていた。
「フォビオの保護者ということは、あれが……獅子王(ビーストマスター)、魔王カリオン……」
過去の俺が、そのプレッシャーに思わず息を呑む。
カリオンは俺たちの数メートルまで静かに歩いてきた。
その瞳は、地面に転がるボロボロの部下(フォビオ)を一瞥して小さくため息をついた後、俺と過去の俺を真っ直ぐに射抜いた。
「初めまして、だな。スライムの主たちよ。俺が獣王国ユーラザニアを治める魔王、カリオンだ。……今回は、うちのバカがずいぶんとデカい迷惑をかけたらしいな」
カリオンはそう言うと、魔王という絶対的な強者の立場でありながら、言い訳をすることもなく堂々とした態度でこちらを見据えた。
「……全て、見させてもらった。本来なら俺が手を出して不始末をつけるべきだったが、出る幕がなかったな。カリュブディスの完全討伐、それにうちのバカの命まで救ってもらったこと、感謝する」
魔王カリオンはそう言って、魔物たちの主である俺たちに向かって、なんと深々と頭を下げたのだ。
「えっ……ま、魔王が頭を下げた!?」
過去の俺が驚き、背後のベニマルたちも驚きに目を見張っている。
無理もない。
絶対的な力を持つ魔王が、自身の非を認めて他者に頭を下げるなど、魔物の常識ではあり得ないことだからだ。
だが、俺はカリオンがそういう筋を通す男だと知っている。
「頭を上げてくれ、獅子王(ビーストマスター)。俺は未来から来た相談役に過ぎない。この町の主であり、アンタが話を通すべき相手は……そっちの『俺』だ」
俺は一歩下がり、過去の俺へと視線を促した。
突然話を振られた過去の俺は「えっ、俺!?」と慌てた様子を見せたが、すぐにコホンと咳払いをして人型の姿をとった。
「……コホン。俺がこのジュラ・テンペスト連邦国の主、リムル・テンペストだ。それで、あんたの部下の不始末、どう落とし前をつけてくれるんだ?」
内心バクバクに緊張しているのが魂の繋がり越しに伝わってくるが、ハッタリの効いた堂々とした態度だ。
その物言いに、カリオンは怒るどころか愉快そうに口角を上げた。
「ハハッ! いい度胸だ、スライム。ミリムが気に入るわけだぜ」
カリオンは腕を組み、ニヤリと笑って提案してきた。
「俺たち獣王国ユーラザニアは、お前たちジュラ・テンペスト連邦国と一切の敵対行動を取らないと誓約しよう。そして、俺は個人的にお前たちに『借り』ができた。いつかお前たちが困った時、必ずこの力で報いると約束する。……これでどうだ?」
(……マジか! 魔王からの不可侵条約に加えて、貸し一つゲットだと!?)
過去の俺の目が、パァッと輝くのがわかった。
当時の俺と全く同じリアクションに、俺は思わず吹き出しそうになる。
「うむ! 良い条件ではないか、カリオン! だがな、リムルはワタシのマブダチだぞ! 抜け駆けは許さんからな!」
横からミリムがズイッと前に出てきて、自慢げに胸を張る。
「はいはい、わかってるよ。お前が入り浸ってるって時点で、ここに手を出すような命知らずはそうそういねえよ」
カリオンは呆れたように肩をすくめると、地面に転がっているフォビオの襟首を乱暴に掴み上げて、バシィッ!と強烈な平手打ちを見舞った。
「がはッ!?」
「起きろ、バカ野郎。いつまで寝てやがる」
目を覚ましたフォビオは、目の前に主であるカリオンがいることに気づき、顔面を蒼白にさせた。
「カ、カリオン様……! お、俺は……っ」
「お前のしでかした事は全部見ていた。言い訳は聞かん。だが、その前にやる事があるだろうが」
カリオンに促され、フォビオはふらつく足で立ち上がると、俺と過去の俺、そしてテンペストの幹部たちに向かって深く、深く頭を下げた。
「……俺の、身勝手な怒りのせいで、お前たちに多大な迷惑をかけた。その上、命まで救ってもらって……すまなかった」
震える声での、心からの謝罪。
「……顔を上げろ。お前が殴ったうちの仲間(リグルド)からの報復は、さっき過去の俺がお前を助けた時にチャラにしてやったからな。次は客として、美味い酒でも飲みに来い」
俺がそう言うと、過去の俺もコクリと頷いた。
「ああ。次に来る時は、手土産でも持ってくるんだな」
その言葉に、フォビオは涙ぐみながらもう一度深く頭を下げた。
「――あとな、カリオン。アンタにもう一つだけ頼みがある」
俺が声をかけると、カリオンは興味深そうに視線を向けてきた。
「ほう。俺への頼み事か。言ってみろ」
「俺のこと――『未来から来た俺』の存在については、他言無用で頼みたい。今後、もしアンタが他の魔王……フレイや、特に『クレイマン』に会うようなことがあっても、絶対に漏らさないでくれ」
俺がはっきりと名指しで告げると、カリオンは鷹のような鋭い目をスッと細めた。
フォビオを唆し、今回の事件を裏で糸を引いていた黒幕。
その名をピンポイントで挙げたことで、カリオンも俺がただ未来から来ただけでなく、事件の全貌を把握しているのだと悟ったのだろう。
「……クレイマン、ね。なるほど、どうやら未来から来たあんたは、俺の知らねえ面白い事情を随分と抱え込んでるらしいな」
「まあな。色々と面倒な連中に出し抜かれないための布石だよ」
「カカッ、いいぜ。俺は借りた恩は返す主義だ。俺の口から、あんたの存在を他の魔王共にペラペラ喋るような真似はしねえと誓おう」
カリオンは力強く頷き、ニヤリと笑った。
義理堅いこの男がこう宣言した以上、情報が漏れる心配はない。
「うむ! ワタシたちだけの秘密というわけだな! 当然、ワタシも誰にも言わないぞ!」
ミリムが誇らしげに胸を張って同意する。
彼女もなんだかんだで約束は絶対に守る性格だから、その点は安心だ。
「フッ。改めて恩に着るぜ、二人のスライムの主たち。この恩は必ず返す」
カリオンはフォビオを小脇に抱えると、背中の双翼を大きく広げた。
「ミリム、あんまりこいつらに迷惑かけるなよ」
「ふんっ! ワタシは迷惑などかけていないのだ!」
「ハハッ、そいつはどうだかな。じゃあな、リムル=テンペスト。またいずれ会おう」
そう言い残し、魔王カリオンは空の彼方へと飛び去っていった。
その後ろ姿を見送った後、俺は過去の俺と顔を見合わせ、それから後ろで安堵の表情を浮かべる仲間たちへと振り返った。
「みんな、本当によくやってくれた! 誰一人欠けることなく、無傷で勝てたのはお前たちが完璧に連携してくれたおかげだ。ありがとう!」
過去の俺が、皆を誇らしげに見ながら幹部たちにねぎらいの言葉をかける。
「もったいないお言葉です。ですが、我らが主の御業を前にしては、我らの働きなどまだまだ取るに足らぬものと痛感いたしました」
ベニマルが嬉しそうに口元を綻ばせながらも、謙遜して深く頭を下げる。
「その通りです! あの巨大な魚の化け物を一瞬で平らげてしまうなんて、流石は二人のリムル様です! 私ももっとお役に立てるよう、さらに剛力丸の太刀筋を研ぎ澄ます練習をせねば!」
シオンが大太刀を抱きかかえながら目を輝かせる。
「フォッフォッフォ。まったく、底の知れぬ主たちを戴いたものですな。老骨に鞭打って、さらに精進せねばなりませぬ」
ハクロウが目を細めると、過去の俺の影からひょっこりと顔を出したランガが、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら声を上げた。
「オゥン! 我が主の圧倒的なお力、しかと拝見いたしました! 次こそは、主の手を煩わせる前に私が敵を全て噛み砕いてみせましょう!」
「我ら猪人族(ハイ・オーク)、リムル様の盾となりて陣を死守できたこと、至上の喜び。今後もこの命に代えて、御身とこの国をお守りいたします」
ゲルドが分厚い胸板を力強く叩き、重厚な声で深い忠誠を誓う。
「ガハハハハ! このガビル、リムル様からの直々の労いに感無量であります! 空の護りも引き続き、我ら飛竜衆に安心してお任せくだされ!」
ガビルが自信満々に槍を構えてポーズを決めると、どこからともなく現れた部下たちが「ガビル様! ガビル様!」といつもの調子で囃し立てた。
「っすね! オイラたちも頑張ったっすよ! っていうか、リムル様たち二人がデタラメに凄すぎて、後半はオイラたちすっかり見学状態だったっすけどね!」
ゴブタがおどけたように笑いながら言うと、その場の空気がドッと和んだ。
各々に主からの称賛を受け取り、士気を高め合う幹部たち。
そんな頼もしい過去の俺と仲間たちのやり取りを傍目で見守りながら、俺は内心で密かに思案を巡らせていた。
(カリュブディスの討伐は完璧に終わった。カリオンへの恩売りも済んだ。だが……この戦場を遠くからこっそりと『監視』している存在が一つある)
俺の研ぎ澄まされた『万能感知』は、遥か遠方からこの荒野の戦いを観察している微弱な魔法の痕跡を正確に捉えていた。
(俺の知る歴史だと、この後にテンペストに潜入してきて色々と厄介事に巻き込まれることになる。そして結果的に、俺たちが相手の命を救う形で『大きな恩を売る』ことになるわけだが……)
このまま泳がせておくべきか、それとも歴史を前倒しして、今ここで接触してしまうべきか。
俺は一つ息を吐くと、過去の俺、幹部たち、そしてミリムの意識へと直接『思念伝達(念話)』のリンクを繋いだ。
《……みんな、少し聞いてくれ。声には出さず、思念伝達で頼む》
不意の俺からの通信に、過去の俺やベニマルたちがピクリと反応し、表情を引き締める。
《未来の俺? どうしたんだ、急に》
《ああ。実は、今この瞬間も、遠くから魔法でこの戦場をこっそり監視している奴がいるんだ》
《なにっ!?》
《未来のリムルも気が付いていたか! ワタシも気が付いていたがあえて泳がせていたのだ!》
殺気を放ちかけるベニマルたちを、俺は思念越しにスッと制した。
《まぁ、慌てるな……実を言うと、俺の知る歴史だと、その後そいつとはちょっとした縁ができて、最終的に俺たちが相手に『大きな恩を売る』ことになるんだ》
《恩を売る相手……ってことは、いずれ味方になるのか?》
《まあ、そんなところだ。ただ、本来ならもっと後で接触する相手なんだが……これだけ状況が変わっちまってるし、今このタイミングで早めに恩を売っておくべきかどうか迷っててな。みんなはどう思う?》
俺の問いかけに対し、思念伝達のネットワーク内で各々が少しの間思案する気配が伝わってくる。
《……後々味方になるのであれば、早めに引き込むに越したことはないかと。我らの戦いぶりをどこまで見られたかはわかりませんが、放置して不確定要素を残すのは軍略として好ましくありません》
真っ先にベニマルが、冷静な軍務官としての見解を述べる。
《ベニマルの言う通りですな。こちらの手の内に引き込める駒ならば、早めに動かしておくのが上策かと》
ハクロウも静かに同意を示した。
《ご命令とあらば、今すぐ相手の潜伏座標を特定し、無傷で拉致してまいりますが》
ソウエイが影の中から、いつでも飛び出せるような冷徹な声を響かせる。
《なるほどな……でも、みんなの言う通りかもしれない。未来のお前が最終的に『恩を売った』ってことは、助ける価値のある相手だったってことだろ? なら、わざわざ後回しにする理由もないんじゃないか?》
過去の俺が、俺の判断を後押しするように明るい念話を返してきた。
《わかった。みんなの言う通り、不確定要素は早めにこちらのペースに巻き込んでしまうのが一番だな。そうしたら……あいつの相手は俺が直接対処するから、皆は少しここで見ていてくれ》
俺の提案に、過去の俺が少し不思議そうな思念を返してきた。
《未来の俺が自分でやるのか? ソウエイに捕縛を任せなくていいのか?》
《ああ。実を言うと、俺が元の歴史でそいつに対処したのは、俺が『魔王』に進化してからのことだったんだよ。相手もかなり厄介な事情を抱えてるから、今の俺――つまりお前の実力やスキルの精度だと、この問題に対処するのは少し難しいと思うんだ。出番を奪っちまって悪いな、俺》
俺が素直に謝罪すると、過去の俺はあっけらかんと笑うような念話を返してきた。
《魔王になってから相手にしたヤツなのか……!なら俺が出る幕じゃないし、全然気にするな!
遠慮なく未来の俺のデタラメな手腕を見せてもらうぜ》
《フフン、私も特別に見学しててやるのだ!》
《承知いたしました。我らはこの場にて、主の御業をとくと拝見させていただきます》
ミリムが面白そうに腕を組み、ベニマルたち幹部もそれぞれの位置で武器を収め、俺の行動を見守る態勢に入った。
(よし……それじゃあ、ちょっとばかり強引だが、こちら側の舞台に上がってもらうとするか)
俺は全員との念話を切ると、人型の姿のまま荒野の風に吹かれながら、標的が息を潜めている遥か遠方の座標へと真っ直ぐに視線を向けた。
相手は隠密に特化した高度な魔法を展開しているようだが、今の俺の『魔力感知』とシエルの演算の前では、白紙の地図に落ちたインクの染みのように目立っている。
「さて、と……」
俺は静かに右手を前へと差し出し、遥か遠方の標的を空間ごと一瞬で手元へと引き寄せるため、魔法構築を開始した――。
5/11 第二部六章の変更に合わせて描写を一部変更