【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
――そして。
過去の俺がイングラシアでの全ての用事を終え、テンペストへと帰還する予定の当日。
「……来たか」
執務室で待機していた俺は、シエルからの警告よりもわずかに早く、その『異物』の接近を感知し、静かに立ち上がった。
《西方より、明確な敵意を持った三つの強力な波長が接近しています。この波長……特有のユニークスキルを保有する『異世界人』ですね》
(ああ、間違いない。ファルムスが送り込んできた先遣隊――ショウゴ、キョウヤ、キララの三人組だ)
実のところ、『万能感知』によって街の四方にファルムスの部隊が結界の陣を設営し始めた時点から、すでに奴らの動向は完全に把握していた。
だが、あえて手は出さずに放置していたのだ。事前の会議で決まった通り、ファルムスをこちらの策へ引き込むためであり、同時に、一応ではあるがやってきた異世界人たちが説得に応じる余地があるかどうかを見極めるためでもある。
元の歴史では、こいつらが町で理不尽な難癖をつけ、シオンやゴブゾウをはじめとする多くの仲間たちが犠牲になる悲劇の引き金となった。
だが、今回は違う。
奴らの行動パターンも、その姑息な能力も、俺とシエルは既に全て把握している。
「リグルド! ベニマル!」
俺が思念伝達で呼びかけると、即座に幹部たちが緊迫した気配を返してきた。
「はっ! いかがなされましたか、未来のリムル様!」
「予定通り、ネズミどもが紛れ込んできた。ただちに事前の取り決め通り『特別避難態勢』を発動しろ。町にいる一般の住人、および滞在中の人間の商人や冒険者たちを、一人残らず速やかに安全な迷宮へ避難させるんだ」
「承知いたしました! ただちに誘導を開始します!」
リグルドの力強い返事と共に、町中に密かに配置されていた警備隊が迅速に動き出す。
ゲルド率いる猪人族(ハイオーク)たちは、商人や一般住人の避難誘導を迅速に進めつつ、他の街道からの敵襲に備えた強固な防衛配置へと就いていた。
商人たちには「大規模な魔物の群れが接近しているため、安全のため一時的な避難をお願いする」という尤もらしい理由を告げ、パニックを起こさせないよう極めてスムーズに誘導が進められていく。
同時に、ユーラザニアからの避難民受け入れに向けて動いていた部隊も、迎撃の邪魔にならないよう完全に配置を切り替えた。
また、ソウエイとその配下たちには、念のために町の四方に設営された敵の結界陣の監視へと回ってもらっている。
(さてと。町の中を荒らされる前に、入り口で手厚く『おもてなし』をしてやるとするか)
俺は執務室の窓から外へ飛び出し、テンペストの西側正門へと向かった。
ここにはすでに、ベニマル、シオン、ハクロウ、ゴブタ、そしてヨウムやミュウランたちと言った面々が、いつでも武器を抜ける態勢で集結していた。
「ヨウムにミュウラン。お前たちは人間の商人たちや仲間と一緒に、迷宮へ避難してくれててよかったんだぞ?」
俺が気遣うように声をかけると、ヨウムは大剣を肩に担ぎ直してニッと笑った。
「へっ、水臭いこと言わないでくれよ、未来のリムルの旦那。俺たちは、あんたらに散々世話になってるんだ。仲間達は避難させたが、せめて俺くらいはこういう厄介な時こそ一番に力にならせてもらわねえと、男が廃るってもんだぜ」
「ええ。私もヨウムさんと同じ気持ちです。少しでも恩返しをさせてください」
ミュウランもヨウムの隣で静かに、しかし固い決意を秘めた瞳で頷いた。
その義理堅い言葉に、俺は少しだけ口元を緩めた。
「……そうか。なら、無理のない範囲で頼む」
俺が短く応えると、ベニマルが静かな怒りを孕んだ赤い瞳を細めて尋ねてきた。
「未来のリムル様、避難は順調に進んでおります。……して、獲物は?」
ベニマルが、静かな怒りを孕んだ赤い瞳を細めて尋ねてくる。
「もうすぐそこまで来ている。……だが、まずは俺が前に出て話しかけ、奴らの出方を見る。お前たちは俺の合図があるまで、絶対に手を出さないでくれ」
俺の言葉に、シオンやベニマルたちは短く「はっ」と頷いて武器を下段に構え直した。
ヨウムやミュウランも油断なく前方を睨み据えている。
正門の向こう、街道の土煙の先に、三人の男女の姿がうっすらと見え始めた。
俺たちの完璧な迎撃態勢など露知らず、ヘラヘラと下品な笑い声を上げながら歩いてくる異世界人たち。
俺は冷たい眼差しで彼らを見据えながら、静かに愛刀ーーー希望(エルピス)の柄を握りしめた。
「あーあ、なんだよこれ。出迎えにしては物騒じゃん?」
先頭を歩いていた体格の良い男――ショウゴ・タグチが、立ち並ぶ俺たちを見て肩を竦め、ヘラヘラと笑い声を上げた。
その後ろから、細身の剣士キョウヤ・タチバナと、小柄な少女キララ・ミズタニが続く。
「ほんとほんと。魔物の国って聞いてたけど、なんだか人間ぶった格好しててウケるー」
「油断するなよ、ショウゴ、キララ。一応、武装して待ち構えてるみたいだからな。……まあ、大したことなさそうだが」
三人は、俺たちが放つ静かな殺気などまるで感じ取れていない様子で、ピクニックにでも来たかのような軽い足取りで正門の前に立ち止まった。
「ファルムス王国の先遣隊だな。何の用だ」
俺が一歩前に出て冷たく言い放つと、ショウゴは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「はっ、魔物のくせに人間の言葉を喋ってんじゃねえよ。俺たちはただの視察だよ、視・察。お前らみたいな化け物が、人間の真似事して生意気に国を作ってるって聞いたから、ちょっとからかって……いや、教育してやろうと思ってさ」
「そうそう! なのにいきなり武器とか向けてきちゃって、ひどーい! 私たち、まだ何もしてないのに!」
キララがわざとらしく同情を引くような甲高い声を上げる。
俺はそんな彼女の白々しい芝居にため息をつき、極めて冷静な声で事実を突きつけた。
「くだらない演技はやめろ。お前たちがファルムス王国によって異世界から召喚された存在だっていうのは、最初から知っている」
「……はっ?」
俺の言葉に、ヘラヘラしていた三人の顔から一瞬だけ余裕が消えた。
まさか辺境の魔物が、自分たちの素性を知っているとは思わなかったのだろう。
俺はその動揺を見逃さず、さらに言葉を続ける。
「俺はお前たちと無駄な血を流すつもりはない。もし、ここで敵対行動をやめてファルムスとの縁を切るというなら……お前たちが元の世界に帰れるように、俺が取り計らってやってもいい。どうだ?」
それは、かつて同じように召喚されて苦しんでいたシズさんや、子供たちを見てきた俺なりの、最後の温情だった。
だが――その提案を聞いた三人は顔を見合わせ、数秒の沈黙の後、腹を抱えて爆笑し始めた。
「あははははっ! 元の世界に帰るぅ!? 馬鹿じゃねーの!?」
「マジウケる! なんでこんなチート能力もらったのに、わざわざ退屈な元の世界に戻らなきゃなんないのよ!」
ショウゴとキララがゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
キョウヤもまた、冷笑を浮かべて腰の剣に手をかけた。
「ファルムスの連中に使われるのは気に食わないが、この力で好き勝手できるこの世界は最高に楽しいんでね。それに、君たちみたいな魔物を蹂躙しろって大義名分まであるんだ。ここで力をつけておけば、僕らも自由になれるかもしれないからね」
自分勝手な欲望と、他者の命をオモチャとしか思っていない傲慢な言葉。
それがあいつらの、はっきりとした「答え」だった。
これ以上、歩み寄る余地は欠片もない。
俺は静かに目を伏せ、冷たく吐き捨てた。
「言葉が通じるだけマシかと思ったが……どうやら最初から話すだけ無駄のようだな」
「あ? なんだよその態度は。ムカつくなぁ。……おい、キララ。やっちまえ」
ショウゴが顎でしゃくると、キララは「りょーかいっ」と軽薄にウインクをした。
そして、彼女は俺たちに向かって一歩前に出ると、底意地の悪い笑みを浮かべて叫んだ。
「あんたたち、目障りなのよ! 全員まとめて、死んじまえ!」
その瞬間、彼女のユニークスキル『狂言師』が発動した。
術者の言葉を強制的に信じ込ませ、相手の精神を支配して自死すらも実行させる恐るべき能力。
不可視の凶悪な波動が、俺たちを包み込もうと空間を伝播する――その刹那。
(シエル、やれ)
《はい。キララのユニークスキル『狂言師』の解析は既に完了しています。彼女の魂からスキルを分断し、未来永劫、封印しておきましょう》
俺が指先を軽く鳴らした瞬間。
キララの放った精神支配の波動は、結界に弾かれるどころか、発動した事実そのものがなかったかのように完全に霧散して消滅した。
「……え? あ、あれ……?」
キララが困惑したように瞬きをする。
もう一度、頭の中でスキルの発動を念じようとしているのが分かったが、無駄だ。
スキルの発動感覚そのものが、彼女の魂からすっぽりと抜け落ちているのだから。
「ちょっと、どういうこと!? 私のスキルが……スキルが、出ないっ!?」
「あぁ? 何手間取ってんだよキララ。さっさと……」
ショウゴが舌打ちをしてキララを睨むが、彼女のパニックが演技ではないことに気づき、初めてその顔からヘラヘラとした余裕の笑みが消えた。
「お前のその厄介な口は、二度と開かないようにしておいた。これ以上、俺の仲間にその汚い言葉を向けるな」
俺が冷ややかに告げると、ショウゴの顔が怒りと驚愕で歪んだ。
「てめぇ……! ただの魔物じゃねえのか!」
俺たちが自分たちの能力すらも最初から知悉し、完全に無力化してきた。
その異常事態を察知したショウゴは、咄嗟に後方へと飛び退きながら、ファルムスの短距離用秘匿魔法通信で背後に控えているはずの部隊へと指示を飛ばした。
『おい、ふざけんな! 話が違うぞ、こいつら完全に俺たちを待ち伏せしてやがった! さっさとアレをやれ!』
ちょうどその時。
後方でヨウムと共に構えていたミュウランの脳内にも、遠く離れたジスターヴにいる魔王クレイマンからの氷のような思念が響き渡っていた。
『――ミュウラン。ファルムスの軍勢が動いたぞ。今すぐ予定通り、町全体を覆う「魔法無効領域(アンチマジックエリア)」を展開しろ』
焦りと苛立ちの混じった、非情な命令。
だが、すでに未来のリムルによって呪縛を完全に解き放たれている彼女は、その主の声を内心で冷ややかに一蹴した。
(……滑稽ね、クレイマン。私はとうに、あなたの操り人形ではないわ)
ミュウランは魔法を展開するそぶりすら見せず、ただ隣に立つヨウムの背中を気遣うように、静かに杖を握り直すだけだった。
本来の歴史であれば、彼女が張った結界と西方聖教会の結界が合わさることで、テンペストの魔物たちを絶望の淵に沈める「二重結界」が完成するはずだった。
だが、彼女が完全にこちら側に寝返っている今、その最悪の事態は回避されたのだ。
ショウゴの怒声に呼応するように、正門の周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
空を覆うように、四方の地面から紫がかった巨大な魔力の壁が立ち上る。
ファルムス王国所属の西方聖教会神殿騎士団が展開する広域結界。
外界から魔素を完全に遮断し、内部にいる魔物の力を著しく削ぐ結界――『四方印封魔結界(プリズンフィールド)』が、俺たちの頭上を覆い尽くしていった。
「……なるほど。事前の想定通りの展開だな」
だが、俺は顔色一つ変えずに結界を見上げた。
この程度の結界など、俺の実力とシエルの演算能力をもってすれば、展開された瞬間に構造を解析し、一瞬で解除・逆利用できる手筈だった。
(さっさとこんな不快な結界は消し飛ばして、こいつらを捕縛するぞ、シエル)
《はい。結界の解析および、術式の破棄プロセスへ移行しま――》
シエルの頼もしい返答が脳内に響いた、まさにその瞬間だった。
「――っ!?」
ドクン、と。
俺の魂の奥底で、かつてイングラシア王都の宿屋で一度だけ感じたことのある、あの不気味で暴力的なノイズが弾けた。
(な、なんだ……!? また、あの時と同じ……!)
《マ…ター……深層か…、………精神干渉…………防衛……》
(シ、シエル……!?)
シエルの焦ったようなアラートが、途中でブツリと途切れる。
外界の音も、周囲の景色も、一瞬にして俺の認識から急速にフェードアウトしていった。
視界が激しく明滅し、平衡感覚が完全に狂う。
まるで底なし沼に引きずり込まれるような圧倒的な重圧が、俺の意識を無理やりシャットダウンしようと襲いかかってきたのだ。
「が、ぁ……っ!」
俺は呻き声を上げ、たまらずその場に膝をついた。
竜種核装着剣―――エルピスを取り落とし、地面に両手をついて激しく息を乱す。
「リムル様!?」
「旦那! どうしたんだ!?」
背後に控えていたベニマルとヨウムが、ただ事ではない俺の様子に血相を変えて駆け寄ってくる。
シオンも悲鳴のような声を上げ、ハクロウも鋭い目つきで周囲への警戒を最大まで引き上げた。
「……くそ、っ……今、ここで……!」
薄れゆく意識の中で、俺は必死に自我を繋ぎ止めようと抗った。
だが、あの時と同じように、脳内に直接響いてくる不気味な三つの声のノイズが、俺の思考を容赦なくかき乱していく。
結界のせいで倒れたのではない。
それよりも遥かに深く、得体の知れない『何か』が、この最悪のタイミングを狙いすましたかのように、俺の魂そのものを内側から食い破ろうとしていたのだ。
俺の体から、ふわりと陽炎のように、魔素とも違う不可解な光の粒子が立ち上り始めた。
それはまるで、俺という存在の輪郭そのものがブレて、世界から剥がれ落ちようとしているかのような異常な現象だった。
「なんだぁ? 偉そうに啖呵切ってたからどんだけの化け物かと思えば、結界張られただけで虫の息じゃねえか!」
結界の外側近くからこちらの様子を窺っていたショウゴが、俺の異変に気づいて下品な笑い声を上げた。
俺が先ほどキララのスキルを完全に無効化したことで一時的に警戒していたようだが、俺が膝を突き、謎の粒子を立ち上らせて苦しんでいるのを見て、彼らはそれを『結界の効果』、あるいは俺の決定的な『隙』だと完全に誤認したのだ。
「あははっ! ダッサ! ざまぁみろっての!」
スキルを封じられてパニックに陥っていたキララも、俺の無様な姿を見て再び調子を取り戻し、醜く顔を歪めて嘲笑う。
「……どうやら、ただのハッタリだったみたいだな。それじゃあ、まずはそのボスの首から貰うとしようか」
細身の剣士であるキョウヤが、チャキリ、と腰の剣を抜いた。
俺の不調という絶好のチャンスを見出した三人の異世界人から、明確でねっとりとした殺意が膨れ上がる。
「おい、キョウヤ! 俺が先にあの生意気なボスをぶっ潰す! お前らは周りの雑魚どもを片付けろ!」
「はいはい、わかってるよ。……さあて、人間様の強さってやつを、たっぷりと教えてやるよ!」
ショウゴが地面を蹴り飛ばし、結界の恩恵を受けたままの人間離れした身体能力で、真っ直ぐに俺へと突進してくる。
キョウヤもまた、流麗な足取りでそれに続いた。
「リムル様に触れるな、下等生物めが!!」
「旦那には指一本触れさせねえぞ!!」
激昂したシオンが剛力丸を構えて前に飛び出し、ヨウムも大剣を振り被って即座に迎撃へと動く。
ハクロウとベニマルも、俺を背後で護りながら臨戦態勢に入った。
俺の意識がノイズに激しく侵食され、視界が白く明滅していく中で、ついに両陣営の激しい戦闘の火蓋が切って落とされた。
激突する剣と剣の音、シオンの怒号、ショウゴの嘲笑。
周囲で繰り広げられているはずの激しい戦闘の喧騒が、水底に沈んだように急速に遠ざかっていく。
(シエル……どうした、返事を……)
内なる相棒へ呼びかけようとする俺の意識を塗り潰すように、突如として脳内に甲高い音が鳴り響いた。
――リリリリリリリリリ・・・・!
(この音……っ!?)
間違いない。
俺が元の歴史から、この過去の時間へと飛ばされたあの瞬間に聞いた、ひどく耳障りなアラーム音だ。
視界がひどくぼやけ、平衡感覚が完全に消失していく。
現実の景色が白いノイズにまみれて崩れ落ちていく中、俺の目の前に『それ』は唐突に現れた。
地面に這いつくばる俺の顔を、しゃがみ込んで至近距離から覗き込んでくる一つの影。
周囲の景色がどれほどぼやけ、ブレていようとも、その存在だけは異様なほどはっきりと、鮮明に俺の網膜に焼き付いていた。
銀色の髪に、中性的な顔立ち。
それは、俺だ。
間違いなく『俺自身』と全く同じ姿かたちをした幻覚だった。
だが、唯一、決定的に違っている部分がある。
俺の顔をしたその幻覚の瞳は、本来なら黄金色であるはずの部分が、白目ごと底なしの漆黒に染まり抜かれていた。
そして、その黒い泥のような暗闇の中に、不気味に赤く発光する『三つの瞳孔』が浮かび上がり、ギョロリと俺を見据えていたのだ。
(な、なんだ、こいつは……!? 俺の、顔……?)
俺が戦慄して息を呑む中、目の前の『三つの瞳孔を持つ俺』が、にんまりと三日月のように口を歪めて笑った。
そして、その唇が動く。
紡がれたのは、一つの口から発せられているにもかかわらず、全く性質の違う三つの声が不気味に重なり合った、おぞましい不協和音だった。
『よう、『俺』、この世界を楽しんでるか?』
『『私』が楽しいと私も楽しい。『私』は私なんだもの』
『『僕』がこんなに素晴らしい力をもってるなんてね。興味深いよ』
一つは、少し粗暴で飄々とした、男のような声。
一つは、ひどく優しく、しかしどこか歪んだ狂気を孕んだ女のような甘い声。
そしてもう一つは、無機質で理知的な、少年のように冷たい声。
三つの重なる声が、まるで俺の脳髄に直接指を突っ込んでかき回すように、ねっとりと語りかけてくる。
目の前の幻覚から発せられるそれは、明確な敵意でも殺意でもない。
ただ純粋な『歓喜』と、俺という存在に対する異常なまでの『執着』だった。
主が意識を濁らせ、地に崩れ落ちたその背後で――テンペストの幹部たちは、かつてないほどの死地に立たされていた。
「おおおおおおっ!!」
シオンの烈帛の気合とともに振り下ろされた愛刀・剛力丸が、ショウゴの腕に激突する。
ズガァァァン! という重い衝撃音が響き渡り、地面が大きく陥没した。
だが、シオンの凶刃はショウゴの腕を両断するどころか、薄皮一枚すら傷つけることができていなかった。
「へぇ! 結界の中でこれだけ動けるとは、ただの魔物じゃねえな! だが、俺の『金剛身体』の前じゃあ、そんなナマクラは丸太と変わらねえよ!」
ショウゴは獰猛な笑みを浮かべた。極限まで肉体強度を跳ね上げるスキル『金剛身体』
その理不尽なまでの硬度と質量を乗せた剛腕でシオンの刀を強引に弾き返すと、空いた片腕で彼女の腹部へと強烈な拳を叩き込んだ。
「ぐぅっ……!?」
シオンの巨体が後方へ吹き飛ばされ、地面を何度かバウンドして止まる。
平時であれば全くダメージにもならないであろう一撃。
しかし、今の彼女の顔には明らかな苦悶の色が浮かんでいた。
(……体が、重い。魔素が…、力がうまく伝わらない……!)
ミュウランが『魔法無効領域』を展開しなかったことで最悪の「二重結界」こそ免れたものの、結界内で生気を奪われる苦痛は決して軽くはない。
普段の彼女たちが持つ理不尽なまでの圧倒的な身体能力は、今や見る影もなく削ぎ落とされている。
「シオン! 無理に攻めるな、ここは……っ!」
ベニマルが叫びながら加勢しようとするが、彼自身もまた、手足に鉛を巻き付けられたような重圧に顔を歪めていた。
得意とする黒炎などの魔法攻撃は完全に封殺され、頼みの綱である身体能力すらも人間サイズにまで落ち込んでいる。
彼は崩れ落ちたリムルの前に立ち塞がり、外側から放たれる魔法の余波や、キララの遠距離からの妨害を刀で弾き落とすだけで精一杯だった。
「チィッ……厄介なことになりやがった!」
ヨウムが大剣を構え、シオンへの追撃を狙うショウゴの前に割って入る。
人間であるヨウムはこの結界による影響を直接受けてはいない。
だが、それでも目の前の異世界人が放つ異常な覇気と身体能力には、ハクロウの鍛錬を受け英雄となった彼でさえ冷や汗を流さざるを得なかった。
「ミュウラン、旦那の容態はどうだ!?」
「……外傷はありません! ですが、意識が完全に混濁しており、自力で立ち上がるのは不可能な状態です!」
リムルを庇うように屈み込んだミュウランが、悲痛な声で叫び返す。
彼女もまた魔人の魔法使いである以上、魔素を断たれたこの結界の中では強みの大半を奪われ、ただの非力な女性に等しい状態にまで陥っていた。
一方、少し離れた場所では、ハクロウとキョウヤの刃が交錯していた。
キンッ!
ガキンッ!!
目にも留まらぬ速さで打ち合われる剣戟。
「ほう……爺さん、魔物にしてはなかなかの剣術を持ってるようだ。結界の中で僕の太刀筋が見切れるとはね」
キョウヤが薄ら笑いを浮かべながら、余裕の態度で剣を振るう。
対するハクロウの額には、びっしりと脂汗が浮かんでいた。
(……いけませんな。ただでさえ動きが普段の半分以下に落ちているというのに、あの若者の剣……太刀筋が『不自然に』変化しおる)
キョウヤのユニークスキル『切断者(キリサクモノ)』
空間そのものを切り裂く刃と、相手の動きを完璧に把握する眼。
ハクロウの卓越した技術をもってしても、結界による深刻な弱体化の中では、その理不尽なスキルによる攻撃を躱し、いなすだけで限界だった。
「どうしたどうした! さっきまでの威勢の良さはどこにいったんだよ、化け物ども!」
ショウゴが狂ったように笑いながら、ヨウムと、再び立ち上がったシオンを相手に暴れ狂う。
彼のユニークスキル『乱暴者(アバレモノ)』による底上げされた強靭な肉体と暴力的なオーラは、弱体化した魔物たちを明確に凌駕し始めていた。
「黙れ……ッ! リムル様の御前で、調子に乗るなァァ!!」
シオンが口端から血を流しながらも剛力丸を大上段に構え、渾身の力で振り下ろす。
だが、ショウゴはそれを嘲笑いながら、あえて正面から拳を突き出し、強引にその一撃を打ち砕きにかかる。
ベニマルはギリッと歯を食いしばり、刀の柄を握る手に力を込めた。
(くそっ……俺の『黒炎』さえ使えれば、こんな奴ら……!)
だが、今は耐えるしかない。
背後で意識を失っているリムルを絶対に守り抜くこと。
それが今、彼らに課せられた至上命題だった。
「ゴブタ! お前は遊撃に回れ! 決して奴らをリムル様に近づけるな!」
「わ、わかってるっす……けど、足がすげえ重いっす……!」
ゴブタもまた、結界の凄まじい重圧にふらつきながらも、必死に短剣を握りしめて立ち上がっていた。
圧倒的な不利。
じわじわと削られていく体力と、覆しようのない魔素の枯渇。
それでも、テンペストの幹部たちの瞳から、闘志の炎が消えることはなかった。
彼らは皆、かつて名もなき魔物だった自分たちに名前を与え、居場所をくれ、そして誰よりも慈しんでくれた主――リムルへの絶対の忠誠で結ばれている。
そんな自分達のもう一人の主…未来のリムルが苦しんでいる今、自分たちが一歩でも退くわけにはいかないのだ。
じりじりと後退を余儀なくされるベニマルたち。
『四方印封魔結界』の絶対的な枷は、時間を追うごとに魔物たちの体力を残酷なまでに削り取っていく。
「ぐおっ……!」
ショウゴの暴力的な蹴りが、ヨウムの大剣を強引に弾き飛ばし、そのままの勢いで彼の脇腹に深々とめり込んだ。
ヨウムがくぐもった悲鳴を上げて吹き飛び、地面を転がる。
幸い致命傷には至っていないようだが、肋骨の数本は確実に折れているだろう。
「ヨウムさん!」
ミュウランが叫び、急いで駆け寄ろうとするが、離れた場所からキララが投擲したナイフが彼女の足元に突き刺さり、動きを封じられる。
「あははっ! どこ行くのよお姉さん。おとなしくしてなさいよ」
キララが底意地の悪い笑みを浮かべて挑発する。
一方、ハクロウもまた限界に近づきつつあった。
「これはどうだ!」
キョウヤの流麗な剣閃が、ハクロウの頬を浅く切り裂く。
結界による不利な状況の中、キョウヤのユニークスキル『切断者』の理不尽な軌道を躱し続けるのは至難の業だ。
老練な剣鬼の息は荒く、その体には無数の細かな切り傷が刻まれていた。
「ふん。口ほどにもない爺さんだ。そろそろ楽にしてやるよ」
キョウヤが冷酷に目を細め、最後の一撃を放とうと踏み込んだその時。
「ハクロウから離れろォォッ!!」
怒号とともに、シオンが剛力丸を大きく振り被ってキョウヤへと斬りかかった。
だが、その一撃は明らかに精彩を欠いていた。
度重なるショウゴとの激突で、彼女の体も限界に達しつつあったのだ。
「遅いな。そんな大振りじゃ、当たるものも当たらないぜ?」
キョウヤが嘲笑うようにシオンの剣を紙一重で躱し、そのまま彼女の腕を切り裂こうとした――まさにその瞬間。
「どけえぇぇっ!!」
横手から猛烈な勢いで突っ込んできたショウゴの丸太のような腕が、シオンの巨体を真横から容赦なく薙ぎ払った。
「がはっ……!!」
シオンが血を吐きながら吹き飛び、地面に激しく叩きつけられる。
それと同時に、彼女を庇おうと飛び出してきたゴブタもまた、ショウゴの余波を受けて空を舞った。
「うおわぁぁっ!?」
ゴブタの小さな体は、放物線を描いて地面を転がり――そして、意識を失って倒れ伏す俺のすぐ目の前で、ようやく停止した。
(……あ、ぐ……っ)
視界が白く明滅し、謎の『三つの声』による精神侵食が続く中、俺はかすかに現実の気配を感じ取っていた。
目の前に転がってきた、ボロボロになりながらもまだ致命傷は負っていないゴブタの姿。
そして、その先で、シオンやベニマルたちが次々と膝をつき、戦線が決定的に瓦解しようとしている絶望的な状況。
(くそ……っ。このままじゃ……みんなが、やられちまう……!)
脳髄を直接かき回されるような激痛に耐えながら、俺は必死に自我の欠片をかき集めた。
今、俺が倒れれば、この国はファルムスの軍勢によって蹂躙され、元の歴史以上の地獄が待っている。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
俺は最後の力を振り絞り、微かに震える指先を動かした。
そして、目の前にいるゴブタの脳内へ向けて、魂を削るような細い『思念伝達』を飛ばす。
(ゴ……ブ……タ…………た……の……む…………)
その途切れ途切れの思念とともに、俺は自身の空間収納へのアクセスを強引にこじ開け、一つのアイテムを吐き出した。
カラン、と。
乾いた音を立ててゴブタの目の前の地面に転がったのは、手のひらに収まるほどの小さな、銀色の金属めいた『円形状のアイテム』だった。
*
(……な、なんすか、これ?)
ゴブタの目の前に転がってきたのは、銀色に輝く奇妙な丸っこい金属だった。
真ん中にはリムル様の姿に似たスライムの紋章があって、その周りを三匹のカッコいい竜の模様がぐるりと囲んでいる。
『ゴ……ブ……タ…………た……の……む…………』
頭の中に響いたのは、間違いなく倒れている未来のリムルの声だった。
ひどく苦しそうで、今にも消え入ってしまいそうな、痛々しい声。
リムル様が、おいらなんかに「頼む」って……?
「あははっ! なんだありゃ、魔物の親玉がいよいよ狂ってゴミでも落としたか?」
ショウゴって名前の人間が、オイラたちを見下ろしてゲラゲラと笑っている。
その足元には、血を流して倒れるシオンさん。
少し離れたところには、ボロボロになった師匠やベニマル様、ヨウムの姿があった。
オイラは、弱っちいゴブリンだ。
結界のせいで体は鉛みたいに重いし、手足はガタガタ震えてる。
あんなバケモノみたいな人間どもに、俺が敵うわけない。
だけど。
おいらなんかに名前をくれて、ご飯を食べさせてくれて、一緒にバカやって笑ってくれた、大好きなリムル様の未来から来たというお方が。
おいらたちの神様が、あんなに苦しんで、おいらに「頼む」って言ったってるっす。
「逃げるわけには…いかないっすよ。」
ゴブタは無我夢中で、地面に転がったその銀色のアイテム――『災厄の核塊(カラミティ・コア)』に手を伸ばした。
『───Initial Link Established. Navigator, Booting. 』
コアに触れた瞬間、脳内に冷たい女性の声が響いた。
直後、景色がピタッと止まった。
思考加速が施され、ゴブタの脳内に装置に関する情報が流れ込んでくる
(……使い方は、全部わかったっす)
ゴブタが覚悟を決めて目を見開いたのと同時に、引き延ばされていた主観時間が一気に元の流れへと戻る。
それと同時に、装置を腰へと装着した。
真っ白だった視界に色が戻り、再び戦場の喧騒が耳を打った。
「あーあ、つまんねえの。もう終わりかよ、デカ女」
ショウゴの冷酷な声が響く。
視線の先では、血まみれになって倒れ伏したシオンの頭上に、ショウゴがその凶悪な拳を高く振り上げていた。
結界の重圧と度重なるダメージにより、今の彼女にはもう指一本動かす力すら残っていない。
(……ここまで、か)
シオンは静かに目を閉じた。
本来であれば、死の恐怖など微塵も感じない。
ただ、己の非力さに対する底知れぬ絶望と、背後で苦しんでいる愛しい主への申し訳なさだけが、彼女の心を激しく切り裂いていた。
(リムル様…未来のリムル様…申し訳、ありません。不甲斐ない私を、どうかお許し……っ)
シオンが心の中で深い謝罪を紡ぎ、死を覚悟した――まさにその刹那。
「シオンさんに、手を出すなァァァッ!!」
悲痛な叫びと共に、小柄な緑色の影が、ショウゴとシオンの間に猛スピードで割って入った。
ゴブタだ。
「あァ? なんだてめえ、潰されたいのか……って、遅えよチビ!」
ショウゴは嘲笑いながら、シオンの頭部を粉砕するはずだったその豪腕を、容赦なくゴブタの体へと振り下ろした。
小柄なホブゴブリンの肉体など、触れた瞬間にトマトのように弾け飛ぶ。
誰もがそう確信した死の一撃。
ゴブタはただ無我夢中で、シオンを庇うように右腕を前へ突き出しただけだった。
しかし、ゴブタの腰に吸着した『災厄の核塊(カラミティ・コア)』に内蔵された論理演算人格『導標之理(ナビゲーター) 』は、すでに装着者への致死的な物理攻撃を完璧に予測・検知していた。
『───Danger Detected. Emergency Reactive Guard: Active. 』
無機質な音声がゴブタの脳内にのみ響く。
直後、ゴブタの腰のコアから、鈍い輝きを放つ流動性金属――『魔粘鋼(デモン・スライム・スチール)』が爆発的な速度で噴出した。
それはゴブタの右腕に沿って瞬時に這い上がり、ショウゴの拳が衝突するほんのコンマ数秒前に、分厚く強靭な『天災の爪牙』を模した右腕部装甲のみを限定的に具現化・硬化させた。
ズドガァァァァァンッ!!!
結界内であるにもかかわらず、空気が弾け飛ぶような凄まじい衝撃波が周囲に巻き起こる。
「……は、ぁ……!?」
土煙が晴れた後、ショウゴは信じられないものを見るような目で、間抜けな声を漏らした。
彼が全力で振り下ろした必殺の拳は、小柄なゴブリンが突き出した、青銀と黒銀に輝く『異形の装甲腕』によって、ただの片手で、ピタリと完全に受け止められていたのだ。
死の衝撃を待っていたシオンは、恐る恐る目を開けた。
そこにあったのは、彼女の常識では到底信じられない光景だった。
「……ゴ、ブタ……?」
いつも飄々としていて、どこか頼りない小柄なホブゴブリンの背中。
しかし、前に突き出されたその右腕だけが、禍々しくも美しい青銀と黒銀の流線型装甲に覆われ、ショウゴの凶悪な拳を完全に、ただの一歩も退かずに受け止めていたのだ。
「な、なんだこの硬さは……!? てめえのその腕、どうなってやがる!」
ショウゴが顔を引き攣らせ、ギリギリと力任せに拳を押し込もうとするが、ゴブタの右腕は巨大な岩盤のように微動だにしない。
その驚愕の裏側で、ゴブタの脳内に再び無機質な声――論理演算人格『導標之理(ナビゲーター)』の冷徹な警告が響き渡っていた。
『───警告します。個体名:ゴブタの現在の魔素量および肉体強度では、本機『災厄の核塊(カラミティ・コア)』の全機能解放は、肉体と魂の崩壊を招く、命に関わる極めて重大な危険性があります。直ちに武装を解除し――』
(……わかってるっすよ。おいらは弱っちいっす。でも――)
ゴブタは、脳内に響く警告を遮るように心の中で答えた。
結界の恐ろしい重圧と、目の前のショウゴから発せられる圧倒的な殺意。
本当なら、今すぐにでも泣き喚いて逃げ出したいほど、ゴブタの両足はガタガタと情けなく震えている。
でも、逃げない。
絶対に退かない。
ゴブタはギリッと牙を食いしばり、血を流して倒れるシオン、そしてその後方で苦悶に喘ぐリムルを一瞥した。
「おいらの命一つで……リムル様と、この国のみんなを守れるんなら、そんなの、全然安いもんっすよ……!!」
死の恐怖を塗り潰すほどの、悲壮なまでの覚悟。
ゴブタはショウゴの拳を装甲化した右腕で強引に弾き返すと、腰に吸着した『災厄の核塊(カラミティ・コア)』に左手を強く押し当てた。
そして、腹の底から、自身の魂そのものを燃やし尽くすような大声で叫んだ。
「───『憑依装着(へんしん)』ッ!!!」
ゴブタの魂の叫びと同時に、腰に吸着した『災厄の核塊(カラミティ・コア)』がギュイィィン!
と鼓膜を劈くような超高速回転を始めた。
『───装着者の生命保護を最優先とし、セーフモードにて起動します』
コアの中心から、眩い虹色の魔素の光が爆発し、ゴブタの小柄な体を包み込む。
それは光であると同時に、意志を持った流動性金属――『魔粘鋼(デモン・スライム・スチール)』だった。
だが、いかにセーフモードで出力を制限しようとも、神の領域である兵装がもたらす負荷は絶大だった。
「が、ああぁぁッ……!!」
全身の骨がミシミシと軋み、筋肉が千切れるような激痛に襲われ、ゴブタは思わずガクンと片膝を突いてしまう。
(ここで、倒れるわけには……いかないっすよぉぉッ!!)
ゴブタはギリッと牙を食いしばり、圧しかかる途轍もない負荷を気合いと根性だけでねじ伏せ、震える両足に力を込めてゆっくりと、力強く立ち上がった。
魔粘鋼は立ち上がったゴブタの全身を這うように流動し、一瞬にして多重結界を纏った強化外骨格へと相転移する。
『───Optimalization Complete. fitting. 』
無機質な導標之理(ナビゲーター)の声。
装甲はゴブタの小さな体格に合わせて、ギュルギュルと音を立てて再構築され、完璧に適合していく。
青銀と黒銀を基調とした、筋肉のように有機的でありながら流線型で洗練された装甲。
頭部には青緑に輝く魔人のバイザーと、竜種のツノを模した二本のアンテナが額から伸びる。
胸部には三匹の竜の紋章が、力の起点として禍々しくも美しく輝いていた。
ズン……ッ!
変身完了の衝撃波が、四方印封魔結界内の魔素を強引に掻き回し、周囲の土煙を一瞬にして吹き飛ばした。
プシュゥゥゥゥッ……!!
直後、適合を終えた装甲の各部スリットや排気口から、内部で圧縮され限界まで高められた『竜種の魔素』が、まるで灼熱の蒸気のように白く、激しく噴出した。
そこには、さっきまでの頼りないホブゴブリンの姿はなかった。
小柄ながらも、全身から天災級の魔素を立ち上らせ、重力を無視して静かに佇む、一人の『異形の英雄』が立っていた。
「……あァ? なんだその格好は! 手品でも見せてるつもりか、このチビがァァッ!!」
ショウゴが顔を引き攣らせ、怒りに任せて再び拳を振り上げた。
さっきまでなら、シオンの体を粉砕していたであろう、乱暴者(アバレモノ)の凶拳。
だが。
『───Analysis. Target: Shogo Taguchi. Logic Drive: Counter. Execution. 』
ゴブタの眼前、バイザーの奥に導標之理(ナビゲーター)のUIが投影され、瞬時にショウゴの動きを解析し、最適な迎撃ルートを表示する。
思考速度が千倍以上に引き上げられたゴブタの世界では、ショウゴの突進は止まっているも同然だった。
ゴブタは一歩も動かず、装甲化された右手を、まるで邪魔な蠅でも払うかのように、ただ静かに一振りした。
それは、竜の爪や牙を模した、腕部装甲『天災の爪牙』による、物理的な摩擦や空気抵抗を完全に無視した超高速の一撃だった。
ゴッ……!!
鈍い衝撃音と共に、ショウゴの身体が羽毛のように宙を舞った。
全身の装甲が発光し、圧縮された天災級の魔素の指向性爆発が、ショウゴの乱暴者の肉体に、その防御スキルごと叩き込まれたのだ。
「がはっ……!? え……?」
ショウゴは何が起きたのか理解できないまま、地面を何度もバウンドし、土煙を上げながらはるか後方へ、正門の向こう側まで吹き飛ばされた。
転がって止まったショウゴの顔には、さっきまでの余裕は消え失せ、底知れぬ恐怖と驚愕だけが張り付いていた。
その瞬間、戦場の時が止まった。
「……な、んだよ、あれ……?」
血を流して倒れるヨウムが、呆然と呟く。
ミュウランもまた、その翡翠色の瞳を驚愕に染め、魔法使いとしての常識を完全に破壊された光景に言葉を失っていた。
「ゴブタ、が……あのような姿に……?」
ベニマルが、リムルを庇いながらも、その圧倒的な魔素量と、一撃でショウゴを吹き飛ばした戦闘力に目を見張る。
「……あの、馬鹿弟子が」
ハクロウが静かに目を細め、愛弟子の背中を見つめる。
鍛え上げた剣術ではなく、主から与えられた理不尽なまでの暴力的な力。
複雑な心境と共に、それでも主と仲間を救ったことへの、微かな誇らしさが胸に去来した。
そして、目と鼻の先で起きた奇跡に、シオンは震える唇を噛み締めた。
死を覚悟した自分を、弱っちいと思っていたゴブタが助けた。
しかも、その姿は、主であるリムル様をどこか彷彿とさせる、威風堂々とした姿で。
「ゴブタ……おまえ、本当に……」
シオンの瞳から、安堵と、自分自身への不甲斐なさ、そしてゴブタへの尊敬が混ざり合った涙が溢れ出した。
「お前ら……! あいつ、ただの魔物じゃねえ! 囲めッ!!」
ショウゴの叫びに、キョウヤとキララが、ハクロウやベニマルへの攻撃の手を止め、ゴブタへと向けた。
「あははっ! なんだか面白いオモチャに変身しちゃって! でも、生意気なのよ! 死んじまえッ!!」
キララが、自身の言葉が効かないことも忘れて叫ぶ。
「ふん。姿が変わったくらいで、僕の剣の敵ではないね」
キョウヤが、切断者(キリサクモノ)の権能を全て解放し、刀身をチャキリと鳴らす。
3人の異世界人による、ゴブタへの波状攻撃が始まった。
だが、ゴブタはバイザーの奥で、導標之理(ナビゲーター)の提示する無数のターゲットマークと、最適な攻撃ルートを冷静に見つめていた。
「おいらの命、リムル様のために使うって……決めたんすよ!」
ゴブタの装甲が、虹色の多重結界の輝きを増す。
弱きゴブリンの覚悟と、主の残した究極の武装が、今、結界という枷を打ち砕き、戦場を完全に掌握しようとしていた。
「死ねェェェッ! このチビがァ!!」
怒号と共に、土煙を突き破ってショウゴが再び突進してきた。
『乱暴者(アバレモノ)』のユニークスキルによって底上げされた、常人ならざる膂力とスピード。
シオンたちを容易く圧倒したその暴力的な連撃が、逃げ場のない怒涛の勢いでゴブタへと襲いかかる。
だが、ゴブタは慌てなかった。
いや、思考速度が通常の千倍以上に加速された今の彼にとって、ショウゴの動きはまるで水中にいるかのように緩慢に見えていたのだ。
『───Target Tracked. Evade and counter. 』
青緑(ターコイズ)のバイザーに、ショウゴの拳の軌道が赤い予測線としてハッキリと投影される。
ゴブタは最小限の動きで首を傾けて右フックを躱し、装甲化された拳をショウゴの無防備な腹部へと叩き込んだ。
「がはっ……!?」
ゴッ、という重い打撃音と共にショウゴの身体が「く」の字に折れ曲がる。
しかし、異世界人の攻撃はそれだけではない。
「ふん、図体ばかりの馬鹿と一緒にするなよ」
ショウゴの身体の死角から、キョウヤが滑るような足取りで接近していた。
彼の手にあるのは、空間そのものを切り裂く理不尽なる刃。
狙うは、ゴブタの首の関節部分――装甲の隙間だ。
「もらったよ!」
キョウヤの凶刃が、必殺の軌道を描いて振り抜かれる。
キンッ……!!
だが、その剣戟はゴブタの首に届く数ミリ手前で、虹色に輝く多重結界に弾き返された。
「なっ……!? 僕の『切断者(キリサクモノ)』の刃が、弾かれただと……!?」
キョウヤは驚愕に見開きながらも、即座に三百倍の『思考加速』と『天眼』を全開にしてゴブタの次なる動きを捉えようとした。
だが――その圧倒的な演算能力をもってしても、ゴブタの動きは完全に『視界から消えた』。
千倍以上に引き上げられたナビゲーターの思考加速と、武装による常識外の挙動。
三百倍程度の思考加速では、そのコマ送りの残像にすら追いつけない。
「くっ――」
キョウヤが『天眼』でゴブタを再捕捉した時には、すでに流れるような回し蹴りが、彼の真横に迫っていた。
「くらえっす!」
装甲の推進器(ブースター)が火を吹き、加速された蹴りがキョウヤの横っ腹を捉える。
キョウヤは咄嗟に剣の腹で防御したものの、その凄まじい衝撃を殺しきれず、地面を滑るように十数メートル後退した。
「チィッ……! なんだあいつ、さっきまで震えてた雑魚じゃねえのかよ!」
「ふざけるなッ! 僕が本気出せば、あんなオモチャの鎧ごとスクラップにしてやる!」
ショウゴが血を吐き捨てながら再び立ち上がり、キョウヤと共に挟み撃ちの陣形をとる。
さらに後方からは、自身のスキルを封じられてパニックから立ち直ったキララが、ヒステリックな金切り声を上げながら隠し持っていた暗器のナイフを次々と投擲してくる。
激しい格闘戦が幕を開けた。
圧倒的な暴力で攻め立てるショウゴ。
死角から致死の刃を忍ばせるキョウヤ。
遠距離から執拗に妨害を行うキララ。
ファルムス王国が送り込んだ最強の異世界人3人を相手に、ゴブタはたった一人で、しかも一歩も引かずに互角以上の立ち回りを演じていた。
(す、すごい…! 師匠に教わった動きが、頭で考えるより先に体が勝手についてくるっす!)
ゴブタは内心で驚愕していた。
装甲が自身の動きを完璧にトレースし、さらに『導標之理(ナビゲーター) 』が最適な重心移動や攻撃のタイミングをコンマ一秒の狂いもなくナビゲートしてくれる。
しかし、戦況は決して楽観できるものではなかった。
『───警告。身体の負担が規定値を上回っています。現在の出力での活動限界まで、残りわずか。短期決戦を推奨します』
脳内に響く無機質なアラート。
ゴブタ自身の身体能力は決して高くはない。
この『災厄の核塊(カラミティ・コア)』という神の領域の兵装を維持すること自体が、彼の肉体と魂をものすごい勢いで削り取っているのだ。
現に、装甲の下の肉体は悲鳴を上げ、全身の筋肉が千切れるような激痛に苛まれ始めている。
(……このままじゃ、ジリ貧っす。さっさと終わらせて、リムル様を助けなきゃ……!)
ゴブタは背後で倒れ伏す主の姿を想い、覚悟を決めた。
千倍に引き延ばされた主観時間の中で、ゴブタは腰のコアへと左手を伸ばし、その外輪を『左』へと力強く回転させた。
カチッ、という硬質な音が響く。
『───Logic Drive: Form Change. Burning Form, Active. 』
その瞬間、ゴブタを包んでいた青銀と黒銀の装甲が、まるで鍛冶屋の炉に放り込まれたかのように、超高温の光を放って劇的な変化を遂げた。
基本形態であった『全象(オール・フェイズ)』の装甲が流動し、鮮烈な「赤(クリムゾン)」を基調とした、極限まで空気抵抗を減らした流線型のフォルムへと再構築される。
そこに走る鋭い「銀」のライン。
頭部のアンテナは灼熱竜(ヴェルグリンド)の翼を模したような鋭角的な意匠へと変わり、バイザーの光は青緑から燃え盛るような紅色(クリムゾン)へと染まり上がった。
ゴォォォォォッ!!
ゴブタの全身から、陽炎のような異常な熱波が立ち上る。
周囲の空気が一瞬にして乾燥し、彼がそこに立っているだけで周囲の空間がぐにゃりと歪んで見えた。
加速と貫通に特化した第二の姿――『灼熱態』の顕現である。
「はっ! 色が変わったくらいで、ビビると思ってんのかァ!」
ショウゴが両腕を交差し、全身の筋肉を限界まで膨張させながら、特攻とも言える猛烈な突進を仕掛けてきた。
(……見え見えっすよ)
ゴブタは赤く染まったバイザーの奥で、静かに足に力を込めた。
次の瞬間。
ドォォォォォォンッ!!!
ゴブタの背後の空気が爆発し、鼓膜を破るようなソニックブーム(衝撃波)が戦場を揺らした。
「え……?」
ショウゴが間抜けな声を漏らした時には、すでに彼の視界から赤い装甲の姿は完全に消失していた。
「遅いっす」
声が聞こえたのは、ショウゴの『真後ろ』からだった。
振り返る暇さえない。
灼熱の熱エネルギーを推進力に変換したゴブタの超絶的な加速は、異世界人たちの動体視力を完全に置き去りにしていた。
「が、はァッ……!?」
ショウゴの背中――脊髄のど真ん中に、超高温を帯びたゴブタの拳が深々とめり込む。
防御スキルごと肉体を貫通するような熱波の衝撃。
悲鳴を上げる間もなく、ショウゴの巨体は前方の地面に顔面から激突し、そのまま土煙を上げて数十メートルも石畳を削りながら吹き飛んでいった。
「ショウゴ!? 馬鹿な、目で追えなかっただと……ッ!?」
キョウヤが戦慄し、咄嗟に空間を切り裂く剣を周囲に乱舞させて全方位に防御の網を張る。
だが、ゴブタの動きは止まらない。
赤い光の軌跡だけを空中に残し、ゴブタは戦場を縦横無尽に跳弾のごとく駆け巡り始めた。
「どこだ! どこに逃げた!!」
キョウヤが焦燥に駆られて叫ぶ。
「ここっすよ」
真上。
キョウヤが上を向いた瞬間、急降下してきた赤い流星が、彼の腹部に容赦のない灼熱の蹴りを叩き込んだ。
ズガァァァァァァンッ!!
鼓膜を破壊せんばかりの爆音と共に、赤い装甲から放たれた『灼熱態』の飛び蹴りが、キョウヤの腹部に深々と突き刺さった。
「ご、はぁァァァッ!?」
キョウヤの口から、大量の血が噴き出す。
彼のユニークスキル『切断者』による空間の断裂防御すら、絶対的な熱量と速度の前には和紙のように薄く、何の意味も成さなかった。
装甲の接触面から超高温の衝撃波がキョウヤの体内を一直線に駆け抜け、背後の石畳を扇状に粉砕して吹き飛ばす。
「あ、が……っ、僕の、剣が……」
吹き飛ばされたキョウヤは地面を水切りの石のように激しくバウンドし、城壁の残骸に激突してようやく止まった。
自慢の剣は手からすっぽ抜け、白目を剥いて痙攣している。
全身の骨が悲鳴を上げ、もはや立ち上がって剣を握る気力すら残っていないのは明白だった。
「キョ、キョウヤ……!? ふざけんなッ! 俺はファルムス最強の異世界人だぞ!! こんな得体の知れないチビの化け物に、負けてたまるかァァァッ!!」
信じがたい光景に恐怖を通り越して発狂したショウゴが、血走った目でゴブタへと襲いかかる。
すでに彼の理性は完全に消え飛び、ただ己の強さを証明するためだけに、無防備で大振りな拳を乱打してくる。
だが、思考加速と、導標之理(ナビゲーター) の演算支援を完全に受けているゴブタにとって、それはあまりにも単調で遅すぎる標的だった。
『───Target Lock. Logic Drive: Counter Maneuver. 』
無機質な声と共に、ゴブタの赤いバイザーにショウゴの攻撃軌道がすべて明確なラインとして表示される。
「もう、お前らの好きにはさせないっすよ!」
ゴブタの脚部推進器から、紅蓮の炎が猛烈な勢いで噴き出す。
シュンッ!という空気を切り裂く鋭い音と共に、ゴブタの姿が赤い残像を残してブレた。
ショウゴの剛腕が虚しく空を切る。
「なっ……消え――」
ショウゴの視界から完全に消失したゴブタは、すでに彼の懐――ゼロ距離にまで潜り込んでいた。
灼熱のオーラを纏った赤い装甲の拳が、ショウゴの鳩尾にメリリと沈み込む。
「がっ……!?」
だが、それはただの始まりに過ぎなかった。
熱エネルギーを推進力に変えた『灼熱態』の真骨頂は、その圧倒的な加速力を乗せた超高速の連撃にある。
ドガッ!
バキィッ!
ゴガンッ!!
目にも留まらぬ速さで、ゴブタの拳と蹴りがショウゴの巨体を滅多打ちにする。
上下左右、あらゆる死角から叩き込まれる深紅の乱打。
一撃一撃が装甲のすさまじい熱量を帯び、ショウゴの肉体を内側から焼き焦がし、彼の頼みの綱であった強靭な『金剛身体』ごと完全に粉砕していく。
「あ、が、ぁぁ……っ、やめ、てくれ……」
強者の驕りは微塵も残らず打ち砕かれ、ショウゴの口から情けない命乞いが漏れる。
「これで……終わりっす!!」
ゴブタは装甲の脚部に極限まで魔素を圧縮し、燃え盛るような熱波と共に、渾身の回し蹴りをショウゴの側頭部へと叩き込んだ。
ゴォォォォォンッ!!
鐘を突いたような重い音が戦場に響き渡る。
ショウゴの巨体はコマのように錐揉み回転しながら宙を舞い、結界の壁際まで吹き飛ばされてドサリと無様に崩れ落ちた。
ピクピクと手足を痙攣させるだけで、もはや立ち上がることすらできない。
完全に戦闘不能の状態だった。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!?」
残されたキララが、腰を抜かして地面にへたり込む。
自分たちが絶対の強者であり、魔物などただ一方的に蹂躙できるサンドバッグだと信じて疑わなかった彼女の顔は、今や絶望と恐怖で涙と鼻水に塗れていた。
「こ、こっちこないで! バケモノォォッ!」
半狂乱になって後ずさるキララ。
たった一人の小柄な装甲の戦士の前に、ファルムス王国が誇る最強の先遣隊三人は、為す術もなく完全に粉砕されたのだ。
キララは恐怖で顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、這いつくばって後退していく。
その尋常ではないパニック状態に当てられたのか、白目を剥いて痙攣していたショウゴとキョウヤも、極限の生存本能だけを頼りに血反吐を吐きながら無理やり体を起こした。
「ひっ、あ、あぁぁぁっ……!」
もはや彼らに、テンペストを蹂躙しようと息巻いていた先ほどの強者の面影など欠片もない。
ただ圧倒的な死の恐怖に怯えるだけの、惨めな敗残兵だ。
彼らはゴブタという得体の知れない『赤い化け物』から逃れることだけを考え、互いに支え合う余裕すらなく、這うようにして正門の向こう側――街道の奥へと逃げ出していく。
捨て台詞を吐く気力すら残されていなかった。
逃げ惑う三人の背中が土煙の向こうへ完全に消え去るのを、ゴブタは静かに見届けていた。
赤いバイザーの奥で、導標之理(ナビゲーター) のターゲット表示が完全に消失(クリア)される。
『───Target Lost. Combat Concluded. 』
脳内に響く無機質な音声。
それと同時に、決定的な警告音が鳴り響いた。
『───警告. 身体耐久が限界値を突破。これ以上の稼働は装着者の生命維持に支障をきたします。肉体保護のため、強制解除を実行します』
そのアナウンスが終わるか終わらないかのうちに、ゴブタの全身を覆っていた灼熱の装甲が光の粒子となって分解され始めた。
流動する魔粘鋼(デモン・スライム・スチール)がシュルシュルと音を立てて腰の『災厄の核塊(カラミティ・コア)』へと急速に吸い込まれていく。
そして、すべての装甲が収納された直後、ゴブタの腰に吸着していた銀色のデバイスがポロリと外れ、カランッ……と乾いた音を立てて石畳の上に転がり落ちた。
「……あ、れ……?」
変身が解け、元の小柄なホブゴブリンの姿に戻ったゴブタ。
その瞬間、ゴブタの体を途轍もない疲労感と、全魔素を搾り取られたことによる激しい虚脱感が襲った。
神の領域の力を無理やり行使し、全身の細胞を強制活性化させた代償はあまりにも大きい。
さらに、再び『四方印封魔結界』の重圧がのしかかり、ゴブタの体は内側からひしゃげてしまいそうなほどの激痛に苛まれた。
立っていることすら奇跡のような状態だった。
ガクン、と膝が折れそうになるのを必死に堪え、ゴブタはゆっくりと背後を振り返った。
そこには、傷つきながらも驚愕の面持ちでこちらを見つめるシオン、ベニマル、ハクロウ、ヨウムたちの姿があった。
そしてその後方には、いまだ意識を失って倒れ伏している、大好きな主の姿。
(……よかった。誰も、死んでないっすね)
ゴブタの口から、いつものような、どこか間の抜けた笑い声が漏れた。
「……えへへ」
視界がグルグルと回り、急激に真っ黒に塗り潰されていく。
呼吸をするのさえ苦しい中で、彼は最後の気力を振り絞って、仲間たちに向かって得意げに笑いかけた。
「おいら……ちゃんと……やったっすよ……」
その言葉を最後に、ゴブタの意識は完全に途切れた。
限界を優に超えていた彼の小さな体は、糸が切れた操り人形のようにぐらりと傾き、そのまま冷たい石畳の上へとバタリと倒れ伏した。
「ゴブタァッ!!」
ベニマルやシオンの悲痛な叫びが響く。
主から託された『究極の力』を身に宿し、理不尽な悪意から見事に仲間たちを救い出した小さな英雄は、その代償としてピクリとも動かなくなり、目を覚ます保証すらない重度の昏睡状態へと陥ってしまったのだった。
*
ゴブタの小さな体が冷たい石畳に崩れ落ちた瞬間、ベニマルは驚愕と混乱で凍りついていた思考を強制的に再起動させた。
「……気を抜くな! 結界はまだ張られたままだ、外側に敵の魔術師部隊が潜んでいる可能性が高い!」
ベニマルの鋭い号令が、静まり返っていた戦場に響き渡る。
異世界人の三人組を退けたとはいえ、頭上を覆う『四方印封魔結界』の枷は、いまだ魔物たちの体力を容赦なく削り続けていた。
これ以上の戦闘は、いかにテンペストの幹部たちといえど致命的になりかねない。
(リグルド! 迷宮への誘導を警備隊に任せ、手の空いている医療班を直ちに正門へ回せ! 負傷者を医療棟へ運び込むぞ!)
思念を飛ばしながら、ベニマルはすぐさま倒れ伏している未来のリムルの元へ駆け寄った。
「リムル様……! くそっ、熱が酷い……!」
ベニマルが抱き起こした主の体は、異常なほどの高熱を発しており、その輪郭からは依然として魔素とは異なる不可解な光の粒子が立ち上り続けている。
外傷は一切ないにもかかわらず、その表情は耐え難い苦痛に歪んでいた。
「私が……リムル様を、お運びします……ッ」
シオンがふらつく足で立ち上がり、血まみれの腕を伸ばしてくる。
ショウゴの暴力的な連撃をまともに受けた彼女の体は、結界による弱体化も相まってボロボロだった。
「馬鹿野郎、お前も重傷だろうが! 無理をするな、倒れられたら余計に手間だ!」
ベニマルが鋭く制止すると、そこにタイミング良く駆けつけてきたリグルドたち幹部陣と医療班が到着した。
「おおおお……! リムル様! それに皆も、なんという痛ましい姿に……!」
惨状を目の当たりにしたリグルドが悲痛な声を上げるが、すぐに長としての責任感を取り戻し、医療班にテキパキと指示を飛ばし始めた。
「担架を早く! 未来のリムル様を最優先でお運びしろ! それからゴブタもだ! 手荒に扱うなよ!」
警備隊のホブゴブリンたちが、意識を失った未来のリムルとゴブタを慎重に担架に乗せる。
ベニマルは、ゴブタの傍らに転がっていた銀色のデバイス――『災厄の核塊(カラミティ・コア)』を拾い上げ、その底知れぬ力に微かな戦慄を覚えながらも、しっかりと懐に収めた。
「ハクロウ殿、肩を貸します」
「……すまんな、リグルドよ。不覚をとったわい」
老練な剣鬼も全身に無数の切り傷を負い、痛々しい姿で立ち上がる。
少し離れた場所では、ミュウランが涙目でヨウムの体を支えていた。
「ヨウム、しっかりして! すぐに傷を塞ぐから……!」
「へへっ……心配すんな、ミュウラン。俺は、これくらいじゃ死なねえよ……痛ぇけどな」
脇腹を押さえて強がるヨウムも、医療班の用意した担架へと乗せられる。
「急げ! 結界の影響が少ない医療棟の奥へ運び込むんだ! 回復薬(ポーション)を惜しむな、使えるものは全部使え!」
ベニマルの指揮のもと、重苦しい空気に包まれた一行は、テンペストの中央に位置する巨大な医療棟へと大急ぎで駆け込んだ。
外からの魔素を遮断する結界の中であっても、あらかじめ備蓄してあった最高級のフルポーションがあれば、シオンやヨウム、ハクロウたちの空間属性の斬撃による外傷以外はすぐに完治させることができる。
しかし――問題は、未だ目を覚まさない二人だった。
医療棟の特別室。
並べられたベッドの上に横たわるリムルとゴブタに、医療班が次々とポーションを振りかけるが、状態は一向に改善しない。
「ダメです、ベニマル様! ゴブタの体は極度の魔力枯渇状態に陥っており、ポーションの修復効果をまったく受け付けません! 生命力そのものがすり減っているような状態で……!」
「リムル様も同じです! 外傷はないのに意識が戻らず、熱も下がりません……! まるで、魂そのものが傷ついているかのような……ッ」
報告を受けたベニマルは、ギリッと血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
傷が治ったばかりのシオンはリムルのベッドの傍らに縋り付いて泣き崩れ、ハクロウも沈痛な面持ちで目を伏せている。
国の絶対的支柱である未来の主の昏睡。
そして、絶体絶命の危機から皆を救ってくれた小さな英雄の沈黙。
ファルムスの先遣隊を退けたとはいえ、テンペストを覆う重苦しい暗雲は、いまだ晴れる気配を見せていなかった。