【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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第八章 無慈悲な蹂躙と確かな絆

医療棟の静かな部屋で眠るゴブタに背を向け、俺と過去の俺は連れ立って会議棟へと足を運んだ。

 

外の空気は結界が消え去ったことで清浄な魔素に満ちていたが、テンペスト全体を包む空気は、嵐の前の静けさというか、ピリピリとした極度の緊張感と静かな怒りに満ちていた。

 

会議棟の大広間。

 

重厚な円卓の周りには、すでに俺たちの呼びかけに応じた幹部たちがズラリと顔を揃えていた。

 

軍務司令たるベニマルを筆頭に、ハクロウ、リグルド、そしてポーションで傷を完治させたシオン。

さらに、避難誘導と他の街道の防衛の指揮を執っていたゲルドと、前線での偵察から戻ってきたばかりのソウエイも姿を現して席についた。

 

「全員、集まったな」

 

上座に俺と過去の俺が並んで腰を下ろすと、円卓の空気は一段と引き締まった。

 

「まずはソウエイ。敵軍の正確な配置と進軍状況を報告してくれ」

 

過去の俺が促すと、ソウエイはスッと立ち上がり、卓上に広げられた周辺地図の上にいくつか小さな駒を置いた。

 

「はっ。ファルムス王国の本隊、およそ二万の軍勢は、我が国の国境付近の平野部に陣を敷きつつあります。おそらく明日には本格的な侵攻を開始するかと。……そして、先ほどまで我が町を覆っていた忌まわしい大結界を展開するために配置されていた部隊は、町の外の四方のポイントにそれぞれ別れて布陣したまま待機しております 」

 

ソウエイの冷徹な報告に、ベニマルやシオンから再びギリッと濃密な殺気が漏れ出した。

 

俺はゆっくりと立ち上がり、卓上の地図をトントンと指先で叩いた。

 

「ご苦労、ソウエイ。……さて、医療棟でもざっくりと話したが、ここで改めてファルムス迎撃の全体方針を確定させる」

 

俺が声を張り上げると、全員の鋭い視線が一点に集中した。

 

「俺たちの町を不当に結界で覆い、シオンたちを傷つけ、ゴブタをあんな目に遭わせた奴らだ。話し合いの余地なんて最初から微塵もない。俺たちは、奴らをこの国への『完全な侵略者』として認定し、武力をもってこれを徹底的に殲滅する」

 

過去の俺も隣で深く頷き、幹部たちを見渡して言葉を継ぐ。

 

「進軍中の二万の軍勢については、先に話していた通りに未来の俺と俺自身の二人で対応する。お前たちは、四方に陣取っている敵部隊の始末を確実に行ってくれ。一人の逃亡も許すな 」

 

「……承知いたしました」

 

ベニマルが、静かな、しかし確かな狂熱を孕んだ声で応える。

そこで、過去の俺がふと疑問を口にした。

 

「なあ、未来の俺。ぶっちゃけ、お前の力なら四方の陣も含めて、一瞬で全部片付けちまえるんじゃないのか? なんでわざわざお前自身は手を下さないんだ?」

 

その直球の問いに、幹部たちの視線も俺に集まる。

俺は小さく息を吐き、冷静に答えた。

 

「……先ほど話した、俺自身の不調の件があるからな。あの『謎の精神干渉』の正体も目的も、いまだに不明だ。この状況下で俺が不用意に広範囲に力を使いすぎたり、前線に出て隙を見せるのは危険すぎる」

 

俺の言葉に、過去の俺も幹部たちもハッとして表情を引き締めた。

 

「本隊の相手をする時も、俺のメインの役割はヴェルドラの幻影投影と、何よりお前が『魔王への進化(ハーヴェスト・フェスティバル)』の眠りにつく無防備な瞬間の『絶対の護衛』だ。未知の敵がいつ襲ってくるかわからない以上、俺は可能な限り警戒と力の温存に回らなきゃならないからな」

 

「なるほどな。得体の知れない敵に、肝心なところで足元を掬われるわけにはいかないか」

 

過去の俺が納得したように頷く。

俺は円卓を囲む、静かな怒りを腹の底に煮えたぎらせている幹部たちをぐるりと見渡した。

 

「それに……こいつらにも、やり場のない怒りを晴らす『舞台』が必要だろ?」

 

俺の言葉に、ベニマルやシオンたちは目を見開き、そして深く、忠誠と感謝に満ちた熱い眼差しを返してきた。

 

「未来のリムル様……ご配慮、痛み入ります」

 

ハクロウが深々と頭を下げる。

幹部たちの戦意が、主の信頼と気遣いによってさらに研ぎ澄まされていくのを感じながら、俺は再び口を開いた。

 

「我ら幹部一同、一人の逃亡も許さず、奴らに魔物を怒らせたことの真の恐怖を刻み込んでご覧に入れます」

 

「よし。これで方針は完全に固まったな。だが、出陣の前に一つだけ厳命しておく」

 

俺が静かに、しかし絶対の響きを持たせて告げると、殺気立っていたベニマルたちはスッと居住まいを正した。

 

「以前の会議でも話した通り、今回のファルムス軍――進軍中の二万の本隊はもちろん、四方に陣取っている兵士たちも、最終的には『救済』の対象とする」

 

俺の言葉に、幹部たちはピクリと反応したが、誰一人として異論を挟まず黙って続きを待った。

 

「戦闘後、俺が奴らの魂を回収して蘇生させる必要がある。だから、四方の陣の敵を叩く際は、なるべく遺体が綺麗に残るように仕留めてほしい。黒焦げの灰にしたり、細切れにしたりするのはナシだ。肉体の損傷が激しすぎると、魂の定着が難しくなるからな」

 

「なるほど……。圧倒しつつも、肉体は損なわないように殺す、というわけですな。少々手加減が必要になりますが、造作もないこと」

 

ハクロウが目を細めて頷き、他の幹部たちも深く同意を示した。

 

「そういうことだ。少しフラストレーションが溜まる戦い方を強いることになるが、頼むぞ」

 

過去の俺が引き継ぐように口を開き、卓上の地図の四方に視線を配った。

 

「それでは、各方面への部隊配置を指示する」

 

過去の俺は地図の北側を指差した。

 

「まず、北方面の陣はソウエイ、お前たち隠密部隊に任せる。ソーカ、トウカ、サイカ、ホクソウ、ナンソウを連れて、確実に沈めてこい」

 

「はっ。音もなく、綺麗に命だけを刈り取ってみせましょう」

 

ソウエイが涼しい顔で一礼する。

 

「南方面はベニマル。それから上空からの迅速な制圧として、ガビルと飛竜衆も同行してくれ」

 

「御意。灰にするのは我慢して、美しく焼き斬ってやりましょう」

 

「我輩と飛竜衆の機動力、存分にお見せいたしますぞ!」

 

「東方面はシオン、お前とランガのコンビで頼む。シオン、遺体を残せって言った意味、ちゃんと分かってるな? 剛力丸でミンチにしたらダメだからな。ランガ、暴れすぎないように上手く手綱を握ってやってくれよ」

 

「お、お任せください! このシオン、手加減という極めて高度な技も完璧に修めております!」

 

「グルル……承知いたしました、我が主よ。シオンのフォローは我にお任せを」

 

シオンが少し慌てたように胸を張り、ランガが過去の俺の影の中から頼もしく応えた。

 

「そして最後……西方面だ」

 

過去の俺は地図の西側をトントンと指先で叩き、声を一段階低くした。

 

「ここは、先遣隊の異世界人三人が撤退した可能性が最も高いルートだ。……ゲルド、ハクロウ、そしてリグル率いるゴブリンライダーズ。お前たちに任せたい」

 

その名指しに、指名された三者の瞳に、ひときわ鋭く冷たい光が宿った。

 

「ここで、今回の異世界人の振る舞いを見た俺からの新たな指令だ」

 

俺がスッと一歩前に出て、絶対零度の冷徹な声を響かせた。

 

「あの異世界人3人の生死は問わない」

 

その言葉が落ちた瞬間、円卓を囲む空気がさらに数度、凍りついたように冷え込んだ。

 

「他の兵士たちのように、綺麗に遺体を残して後で『救済』してやる義理は微塵もない。ゴブタをあんな目に遭わせ、シオンたちを嘲笑い、この国を土足で踏みにじろうとした連中だ。抵抗するなら、灰にしようがミンチにしようが、お前たちの好きにして構わない」

 

俺の非情な宣告に、過去の俺も一切の同情を挟まず、ただ静かに同意の頷きを見せた。

 

「……ありがたき幸せ」

 

ハクロウが深く頭を下げ、その白刃のような瞳の奥で、老獪な剣鬼としての殺気を静かに燃え上がらせた。

 

「我が剣筋を見切ったと驕るあの若僧に、真の絶望と剣術というものを、その身に刻み込んで差し上げましょう」

 

「主の敵を容赦なくすり潰してみせます」

 

ゲルドが岩のような巨拳をギリッと握り締め、重々しく宣言する。

 

「ゴブタの……いや、あいつが命懸けで守り抜いた誇りにかけて。我らゴブリンライダーズが、奴らを地の果てまで追い詰め、一歩もこのテンペストへは帰しません」

 

リグルもまた、弟分であるゴブタへの熱い想いと怒りを隠そうともせず、力強く牙を剥き出しにした。

 

「頼んだぞ。徹底的に叩きのめしてこい」

 

俺が短く言い放つと、西方面を任された三人は、地獄の底から響くような声で力強く「ハッ!」と応えた。

 

「四方の陣についての配置と方針は以上だ。続いて、お前たちが各拠点の制圧を完了した後の『本命の作戦』について、以前の会議でも話したが、いよいよ実行の段階ということで改めて最終確認をしておく」

 

俺が円卓を見渡しながら告げると、幹部たちはスッと表情を引き締め、深く耳を傾けた。

 

「俺たちの真の標的は、現在進軍中の二万のファルムス本隊だ。……まず、俺が奴らの頭上に『暴風竜ヴェルドラの幻影』を大規模に投影し、軍全体を極限のパニックと混乱に陥れる。そしてその混乱のどさくさに紛れて……こいつが上空から物理魔法【神之怒(メギド)】を放ち、二万の軍勢を一瞬で皆殺しにする」

 

「ああ。俺のメギドは水滴をレンズ代わりにして光を収束させる、強烈な光線だ。混乱しきった人間たちの目には、空に浮かぶヴェルドラが怒りに任せて恐ろしい光の雨を降らせ、軍勢を一方的に虐殺したようにしか見えないはずだ。これで、『ファルムス軍を滅ぼしたのは復活した暴風竜の仕業である』という事実を世界に強烈に植え付けることができる」

 

過去の俺の補足に、ベスターやハクロウが「なるほど、何度聞いても恐ろしくも見事な手口ですな……」と深く頷く。

 

「そして、そこからが仕上げの『お芝居』だ」

 

俺はニヤリと悪戯っぽく笑い、隣の過去の俺の肩をポンと叩いた。

 

「皆殺しが終わった後、今度は過去の俺が表舞台に立ち、暴れ狂うヴェルドラの幻影を必死になだめるフリをする。そして、過去の俺がバシッとカッコいいポーズを取った瞬間に合わせ……俺が、殺した二万の兵士たちと、お前たちが四方の陣で仕留めた兵士たちの魂を、その場に一斉に『蘇生』させる」

 

以前の会議ですでに共有されていたとはいえ、いざ決戦を前にして改めて確認されるその完璧で悪辣なシナリオに、幹部たちは静かな興奮を隠しきれない様子だった。

 

「つまり、連中の心に『テンペストに逆らえば天災の竜によって滅ぼされる』という絶対的な絶望と恐怖を刻み込んだ直後に――」

 

ベニマルが、震える息を吐き出しながら痛快そうに口角を吊り上げる。

 

「その通り」

 

過去の俺が、ベニマルの言葉を引き継ぐように頷いた。

 

「死という絶対の絶望から蘇らせることで、『俺たちテンペストこそが、天災の怒りを鎮め、自分たちの命を救済してくれた慈悲深き存在だ』と見せかけることができる。恐怖による支配だけでなく、圧倒的な恩義と救済による精神的な服従……いわば、最高にタチの悪い飴と鞭だな」

 

俺たち二人のリムルが紡ぐ、あまりにも完璧な自作自演のシナリオ。

それを完全に理解し、自らの役割を改めて心に刻み込んだ幹部たちの顔には、主の底知れぬ智謀への畏怖と、これから始まる壮大な演目への深い高揚感が広がっていた。

 

「以上で作戦の最終確認は終了だ。だが、俺たちが打って出る前に、まず最優先でやらなければならないことがある」

 

俺がスッと表情を引き締め、円卓の面々を見渡した。

 

「今、地下シェルターに避難させている外から訪れている人間の民間人や商人たちのことだ。あいつらを、俺の『空間転移』で安全なブルムンド王国まで直接送り届ける」

 

「なるほど、ブルムンドまで一気に、ですか」

 

リグルドが納得したように頷く。

 

「ああ。ソウエイの報告にもあった通り、今はテンペストから繋がる四つの街道全てが、敵の陣によって完全に封鎖されている状態だ。民間人であろうとも無事に通れる保証はない。だが、いくら緊急事態といえども、行商の彼らをこの国にいつまでも縛り付けておくのは問題になるからな。俺の時と同じ手段を取る」

 

俺の言葉に、幹部たちは険しい顔で頷いた。

強欲なファルムス王国や先遣隊の非道な振る舞いを見れば、無関係の民間人であろうと情けをかけられる保証などどこにもない。

巻き添えにするわけにはいかないのだ。

 

「民間人の避難が完了し次第、いよいよ反撃の狼煙を上げる。四方の陣を攻撃する各部隊は、速やかに出陣の準備を整えるように」

 

俺が力強く告げると、過去の俺も立ち上がり、全軍を鼓舞するようにスッと右手を掲げた。

 

「「「はっ!! 我が主たちの御心のままに!!」」」

 

俺たち二人の号令に、ベニマルをはじめとする幹部たちが一斉に立ち上がり、地鳴りのような力強く狂熱を帯びた声で応えた。

会議室に満ちていた重苦しい空気は完全に払拭され、そこにあるのはただ、反撃に向けた研ぎ澄まされた刃のような闘志だけだった。

 

 

 

 

異世界人たちが無様に逃げ去り、町を覆っていた二重の結界が解除されてから数時間が経過した頃。

テンペストの救護テントでは、ヨウムが上半身に巻かれた真新しい包帯をさすりながら、大きく息を吐いていた。

 

「……無茶ばかりして。異世界人の放った空間属性の斬撃なんて、ただのフルポーションじゃ傷口の歪みが治りきらなかったのよ? 未来のリムル様が直接、空間の歪みごと傷を修復してくれなかったら、今頃どうなっていたか……」

 

ベッドの傍らで水桶のタオルを絞りながら、ミュウランが微かに声を震わせて小言を言う。

その翡翠色の瞳は赤く腫れ、彼女がどれほど肝を冷やしたかを物語っていた。

 

「悪ぃ悪ぃ。でもよ、あの状況でお前を置いて逃げるなんて、俺にはできねえ相談だ。……お前が無事で本当に良かったぜ」

 

ヨウムが照れ隠しのように頭を掻いて笑うと、ミュウランはタオルを強く握りしめ、ふいっと目を逸らした。

 

「……馬鹿ね。あなたが命を懸けて守る価値なんて、私にはないのに」

 

「ああん? 何言ってんだお前」

 

「黙っていたけれど……私は元々、魔王クレイマンに操られてこの国を探っていたスパイよ。未来のリムル様に呪縛を解いてもらって、今はテンペストへの『逆スパイ』として生かされている身に過ぎないわ。……あなたたちを騙していたのよ」

 

ポツリポツリと、重い罪を告白するように語るミュウラン。

軽蔑され、罵倒される覚悟はできていた。

だが、返ってきたのはヨウムのあっけらかんとした声だった。

 

「なんだ、そんなことかよ」

 

「え……?」

 

「いや、お前が訳ありなのは最初から薄々感づいてたしな。誰の命令で動いてたにせよ、今お前が俺たちの味方で、未来のリムルの旦那に助けられたってんなら、それで万事解決じゃねえか」

 

ヨウムは無骨な大きな手で、呆然とするミュウランの頭をポンと撫でた。

 

「過去なんか関係ねえ。俺が惚れた女が危ねえ目に遭ってたら、命張って守る。男として当然だろ」

 

「ほ、惚れ……っ!?」

 

ミュウランの顔が一瞬で林檎のように赤く染まる。

 

「ああ、惚れてるぜ。俺はまだまだ弱えし、今回もリムルの旦那たちやゴブタに美味しいとこ全部持っていかれちまった。だけどな、俺はもっと強くなる。お前を……そして俺を信じてくれたこの国の連中を、堂々と守り抜けるような『でっかい男』になってみせる。だから、ずっと俺の側にいろ」

 

真っ直ぐな、不器用だが飾らない愛の告白。

数百年の時を孤独に生きてきた魔人の胸の奥で、かつてないほど激しく、温かい感情が渦を巻く。

 

「……本当に、救いようのない馬鹿ね。期待して待っているわ……私の英雄さん」

 

ミュウランは目に涙を浮かべながら、今までで一番美しく柔らかい微笑みを見せた。

そして、ふと思い出したように小さく吹き出す。

 

「……未来のリムル様が、以前仰っていたのよ。いずれ私とあなたが惹かれ合い、くっつくことになるって。あの時は何を馬鹿なことを、と思っていたけれど……本当にそうなってしまうなんてね」

 

「へっ、未来のリムルの旦那はそんなことまでお見通しだったのか。すげぇな。……なら、俺たちの運命は保証付きってことだろ?」

 

ヨウムが照れ隠しのようにニカッと笑うと、ミュウランも呆れたように、しかしひどく愛おしそうに微笑み返した。

二人の顔がゆっくりと近づき、テントの中に甘く温かい空気が満ちていく。

互いの吐息が触れ合う距離まで近づいた、まさにその時だった。

 

「おーいヨウム! 避難民の誘導終わったぜ! 容態はどう……だ…………」

 

バサッ、と遠慮なく開かれたテントの入り口。

そこには、避難民の誘導任務を終えて駆けつけてきた獣騎士のグルーシスと、側近のヒンメルをはじめとするヨウムの部下たちが立ち尽くしていた。

 

「あ……」

 

互いの吐息が触れ合う距離で固まるヨウムとミュウラン。

そして、その決定的すぎる瞬間を目の当たりにしたグルーシスは――自身も密かにミュウランへ想いを寄せていたがゆえに、目を見開き、絶望に満ちた顔でガックリと両膝から崩れ落ちた。

 

「嘘だろ……俺の……俺の初恋が……始まる前に散った……」

 

「グ…グルーシスさん! だからちょっと今入るのはまずいって言ったじゃないですか! あ、ヨウムさん、ミュウランさん、僕たちは何も見てないんで! 邪魔しましたぁ!!」

 

ロンメルが慌てて真っ白に燃え尽きたグルーシスの襟首を掴み、テントの外へ引きずり出そうとする。

 

「お、お前らぁぁぁ! ノックぐらいしやがれ!!」

 

甘い雰囲気は文字通り吹き飛び、顔から火が出るほど赤面したヨウムの怒声がテントに響き渡る。

慌てて逃げ出す部下たちと、地面にのの字を書くグルーシス、それを怒鳴り散らすヨウム、そして笑しそうにクスクスと笑うミュウラン。

その賑やかな光景は間違いなく、血と絶望に染まるはずだったこの日に咲いた、ささやかで確かな希望の花だった。

 

 

 

 

一方その頃。

 

民間人の避難が完了し次第、いよいよ反撃の狼煙を上げる。

そう告げて会議棟を出た俺たちは、急ぎ足で民間人たちが集められている避難所へと向かった。

すでにリグルドや警備隊の迅速な誘導によって、町を訪れていた人間の商人や旅人たちが、不安げな顔をしながらも整然と集まっていた。

 

「みなさん、落ち着いて聞いてください! 今からブルムンド王国の郊外へ繋がるゲートを開きます。順番に入ってください!」

 

案内の者たちが声を張り上げて誘導を始めると、ファムルスの侵攻が始まったらしいと噂で聞き、恐怖に怯えていた商人たちから、どよめきと安堵の吐息が漏れた。

 

そんな中、避難民の列の前方から、恰幅の良い立派な腹を揺らしながら、一人の商人が小走りで駆け寄ってきた。

 

「おおっ! リムルの旦那ぁ! ご無事でしたか!」

 

そのどこか愛嬌と凄みのある顔つきを見て、俺は思わず目を丸くした。

 

(……おっ? 間違いない、ミョルマイル君じゃないか。そういえばこの時期にテンペストを訪れていたな。)

 

「お、ミョルマイル。あんたもテンペストに来てたのか。せっかく来てくれたのに、ゆっくりもてなせなくて悪いな」

 

過去の俺が苦笑いしながら応じる。

 

「とんでもありません! 私の方こそ、迅速で安全な避難の手配までしていただき……って、あれ? 旦那?」

 

ミョルマイルは揉み手をして浮かべていた商人スマイルをピタリと止め、過去の俺のすぐ隣に立つ『俺』の方へと視線を移し――、そのままポカンと口を開けて完全に固まった。

 

無理もない。

自分の恩人であるはずの銀髪の少年と、顔も背格好も全く同じ人間が、もう一人並んで立っているのだから。

しかも、俺は意図的に隠しきれないほどの『魔王』、いや『竜種』すら凌駕するほどの深淵なオーラを微かに漂わせていた。

裏社会にも通じるミョルマイルの鋭い勘が、目の前の存在のヤバさを瞬時に察知したらしい。

ダラダラと冷や汗を流している。

 

「あー、こっちは俺の……双子の兄貴みたいなもんだ。色々と事情があってな。俺と同じ名前の『未来のリムル』だ」

 

過去の俺が適当かつ真実を混ぜた紹介をすると、ミョルマイルは目を白黒させて激しく混乱し始めた。

 

「ふ、双子!? いや、未来!? ど、どっちも人間の姿ですし、顔も声も全く同じ……ひええっ、世の中には私の知らない恐ろしいことがあるもんですなぁ……!」

 

「初めまして、ミョルマイル君。俺も君の度胸と悪徳商人っぷり……じゃなくて、商才の噂はかねがね聞いてるよ」

 

俺がニヤリと笑って手を差し出すと、ミョルマイルはゴクリと唾を飲み込んでから、両手でしっかりと俺の手を握り返してきた。

 

「実はミョルマイル君に頼みたい仕事があるんだ。俺たちテンペストはこれから、ファルムスの軍勢を撃退する。……そして、それを全て『復活した暴風竜ヴェルドラの仕業』として西側諸国に広めたい」

 

「げ、撃退というと……。って、それよりも、暴風竜の復活ですとぉ!?」

 

「ブルムンドに帰ったら、あんたの持つ裏のネットワークを総動員して、その噂を真実としてばら撒く手伝いをしてくれないか? 事態が落ち着いたら、ゆっくり大きなの『商談』の話をしよう」

 

俺の悪魔のような、しかし商人にとっては抗いがたい極上の提案。

それを聞いた瞬間、ミョルマイルの目から恐怖がスッと消え、代わりに商人としての野心と恩義に満ちた強烈な光が宿った。

 

「ふっふっふ……リムル様お二人のご指名とあらば、このミョルマイル、地獄の底までもお供いたしましょう。その噂、見事に西側諸国中にばら撒いてご覧に入れましょう!」

 

「ははっ、頼もしいな。いい悪代官みたいな顔になってるぞ」

 

「お褒めにあずかり光栄です!」

 

ミョルマイルは深々と頭を下げると、他の商人たちに大声で号令をかけながら、率先して光のゲートの中へと消えていった。

 

(よし、これで民間人の避難と、西側諸国への情報操作の仕込みは完了だ)

 

全員の転移を無事に見届けた俺たちは、ゲートを閉じ、ゆっくりと振り返った。

背後には、すでに出陣の準備を完璧に整え、静かな闘志を燃え上がらせているベニマルたち各部隊の姿があった。

 

「さあ、掃除の時間だ。――全軍、出陣!!」

 

過去の俺が高らかに号令を響かせ、テンペストの反撃部隊が、四方を塞ぐファルムス軍の陣営へと一斉に放たれた。

 

 

 

 

眩い陽光が降り注ぐジュラの大森林。

しかし、白日の下にあるはずの森は、かつてないほどの濃密な殺気と静かなる狂熱に満ちていた。

 

過去の俺の号令と共に放たれた幹部たちは、それぞれの目標である四方の陣へ向けて、文字通り疾風のごとく駆け抜けていく。

俺と過去の俺は、上空へと浮かび上がり、その様子を『万能感知』を通して冷徹に俯瞰していた。

 

まずは北の陣。

そこは、隠密部隊を率いるソウエイの独壇場だった。

 

「なんだ? 結界が消えたようだが……」

 

「本隊からの連絡はまだか?」

 

呑気に待機していたファルムスの兵士たち。

彼らが事態の異常に気付く前に、死の刃はすでにその首筋に到達していた。

音もなく影から滑り出たソウエイの【粘鋼糸】が、瞬きする間に数十人の兵士の脳幹を正確に切断する。

悲鳴を上げる隙すら与えない。

背後では、ソーカ、トウカ、サイカ、ホクソウ、ナンソウたちも一切の無駄な動きなく、兵士たちの急所だけを的確に穿っていった。

 

「フッ。他愛もない」

 

ソウエイの呟きと共に、北の陣はわずか数分で完全に沈黙した。

血の海すら広がらない、芸術的なまでの暗殺劇。

約束通り、遺体はほぼ無傷のまま綺麗な状態で地面に転がっている。

 

続いて南の陣。

こちらには、ベニマルと、上空から強襲をかけるガビル率いる飛竜衆が向かっていた。

 

「ひぃぃっ!? な、なんだ空から!?」

 

「魔物だ! 迎撃しろ!」

 

慌てふためく兵士たちに対し、ガビルたちは空から的確な槍の刺突を浴びせ、次々と命を刈り取っていく。

そして、地上から悠然と歩み寄る赤髪の鬼人――ベニマル。

 

「灰にするな、という主命が出ている。……安心しろ、苦しむ暇も与えん」

 

ベニマルが刀を抜き放つと同時に、漆黒の炎が陣全体を舐めるように走った。

ただし、それは対象を焼き尽くす通常の黒炎ではない。

超高温の熱波のみを一瞬だけ叩きつけ、体表を傷つけることなく脳と内臓を茹で上げるという、極めて高度な魔力操作による『熱死』だった。

バタバタと倒れていく兵士たちを冷ややかに見下ろし、ベニマルはスッと刀を鞘に納めた。

 

東の陣もまた、一方的な蹂躙が展開されていた。

 

「ちっ、加減しろというのは中々に骨が折れますね」

 

不満げに口を尖らせながらも、シオンは愛刀・剛力丸の『峰』を使って、兵士たちの鎧の上から衝撃だけを浸透させ、内臓を破裂させて回っていた。

普段の彼女なら問答無用でミンチにしているところだが、主命を忠実に守り、遺体の形状を保っているのは成長の証だろう。

 

「シオン、我も続くぞ!」

 

ランガもまた、広範囲の黒雷を撃ち下ろすのではなく、対象の神経系だけをピンポイントで焼き切る程度の、緻密に制御された放電によって兵士たちを次々と絶命させていく。

 

どこの陣も、戦闘というよりはただの『作業』だった。

圧倒的な個の力を持つ魔物たちにとって、結界の維持に魔力を割いていた程度の兵士など、恐れるに足る相手ではない。

ましてや、主や仲間を傷つけられた静かな怒りが、彼らの動きをより鋭く、無慈悲なものへと研ぎ澄ませていた。

 

そして――最後に残るは、西の陣。

先遣隊として町を襲撃し、ゴブタやシオンたちを傷つけた異世界人たち――ショウゴ、キョウヤ、キララの三人が撤退した場所である。

そこへ向かっているのは、誰よりも深い怒りを腹の底に煮えたぎらせているゲルド、ハクロウ、そしてリグル率いるゴブリンライダーズだ。

 

木々の間を縫うように疾走する星狼族(スターウルフ)たちの足音だけが、不気味なほど規則的に森に響いている。

 

騎乗するリグルは、弟分であるゴブタをあんな目に遭わせた者たちへの怒りで、手綱を握る拳から血が滲むほどに力を込めていた。

その横を、ゲルドが地響きのような重い足取りで並走している。

巨大な肉斬包丁を背負った彼の表情は岩のように強張っていたが、その内側で渦巻く暴力衝動は、今にも決壊しそうなほどに膨れ上がっていた。

 

そして先頭を走るハクロウは、完全に気配を絶ち、目を細めて前方を見据えている。

老獪な剣鬼の額にある『第三の目』は、森に残る微かな足跡と魔力の残滓を的確に捉え、獲物の居場所を確実にロックオンしていた。

 

「……やはり、この方角に逃げ込んでおりましたな」

 

ハクロウが低く、絶対零度の声で呟く。

その視線の先、木々の切れ間の向こうに、西の陣を張るファルムス軍の野営地が見えてきた。

 

 

 

 

時計の針を、少しだけ戻す。

テンペストを覆っていた二重の結界が突如として消滅し、三人の異世界人が西の陣へと命からがら逃げ帰ってきた直後のことだ。

 

「ひっ……あ、あぁぁ……っ、こっちに、くるな……!」

 

西の陣の天幕に転がり込むなり、ファルムス王国が誇る最強の異世界人であるはずのショウゴは、地面を這いつくばりながら情けない悲鳴を上げた。

彼の巨体は泥と自身の血に塗れ、全身にはあの赤い装甲の化け物――ゴブタから受けた、内側から肉を焦がされるような重度の打撃痕が赤黒く腫れ上がっている。

自慢の『乱暴者(アバレモノ)』の力など、あの理不尽な暴力の前では何の意味も成さなかった。

ただ一方的に蹂躙され、命乞いをして逃げ出すしかなかったという絶対的な屈辱と恐怖が、彼の精神を完全に破壊していた。

 

「ありえない……僕の剣が、俺のスキルが……あんなチビの化け物に……」

 

キョウヤもまた、焦点の合わない虚ろな目で宙を見つめ、ブツブツと譫言(うわごと)のように呟き続けていた。

手には、へし折られた自慢の剣の柄だけが力なく握られている。

空間を切り裂くはずの絶対の刃が、いとも容易く弾かれ、逆に一撃で内臓を破裂させられそうになった恐怖。

彼は震える両手で自身の腹を抱え、ガタガタと歯の根を鳴らしていた。

 

「いやぁぁぁっ! もう嫌! 帰る! 日本に帰るぅぅっ!!」

 

キララに至っては、完全に発狂していた。

天幕の隅で頭を抱えてうずくまり、ボロボロと涙と鼻水を流しながら、幼児のように泣き喚いている。

自分たちが絶対の強者であり、魔物などただのサンドバッグだという驕りは、跡形もなく消え去っていた。

 

彼らを出迎えた西の陣の守備隊長であるファルムスの騎士は、三人のあまりにも無残で惨めな姿に、言葉を失って立ち尽くしていた。

 

「ご、ご無事ですか、お三方……!? 一体、魔物の町で何が……そのお怪我は……」 

 

「ひぃっ!? く、来るな! あの赤いバケモノが来る!!」

 

騎士が手を伸ばそうとしただけで、ショウゴはビクッと体を跳ねさせ、頭を抱えて悲鳴を上げた。

 

王国最強の兵器であるはずの彼らが、まるで怯えたネズミのように震えている。

騎士たちには理解できなかった。

結界によって弱体化しているはずの魔物相手に、彼らがここまで一方的に蹂躙され、心身共に完全に破壊されて帰ってくるなどという異常事態が。

 

「と、とにかく本隊に連絡を! ラーゼン様と王に、先遣隊の敗北を報告しろ!」

 

「無理です! 先ほどから魔法通信が一切繋がりません! それに、いつの間にか町を覆っていた結界も……」

 

「なんだと……!?」

 

パニックに陥る西の陣。

異世界人の三人は、ただ天幕の奥で身を寄せ合い、ガタガタと震えていた。

ひたすらに朝が来るのを、本隊が助けに来てくれるのを待っていた。

数万というファルムスの大軍の中にいれば、あの赤い化け物も追ってはこられないはずだと、必死に自分に言い聞かせながら。

 

パニックに陥る西の陣。

異世界人の三人は、ただ天幕の奥で身を寄せ合い、ガタガタと震えていた。

 

その時、騒然とする天幕の入り口が乱暴に開かれた。

 

「ええい、騒々しい! 結界が消滅した上に魔法通信まで途絶するとは、一体何事か!」

 

現れたのは、ファルムス王国が誇る最高位の魔法使いであり、異世界人たちを召喚した張本人――ラーゼンだった。

彼は本隊の陣営で異常を感知し、空間移動の魔法で急遽この西の陣へと飛んできたのだ。

 

「ラーゼン様!」

 

守備隊長が縋るように駆け寄るが、ラーゼンはそれを鬱陶しそうに手で制し、天幕の奥へと鋭い視線を向けた。

 

「まったく、結界の維持にしくじったばかりか、連絡の一つもよこさんとは……ん? ショウゴ? キョウヤ? お前たち、その無様な姿はなんだ?」

 

ラーゼンは目を疑った。

彼が召喚し、王国最強の駒として絶対の自信を持っていた三人が、まるで怯えた子供のように身を縮こまらせているのだ。

特にショウゴの巨体には、焼け焦げたような生々しい打撃痕が深く刻まれ、キョウヤは自慢の剣を折られて虚ろな目をしている。

 

「ラーゼン……さま……」

 

ショウゴが血走った目でラーゼンを見上げ、ガチガチと歯を鳴らしながらすがりついてきた。

 

「た、助けてくれ……俺、国に帰る……あんなバケモノ、聞いてねえぞ……!」

 

「落ち着かんか! 貴様はファルムス最強の『乱暴者』であろうが! 一体誰にやられたというのだ。まさか、あのスライムか!?」

 

ラーゼンが怒鳴りつけるが、ショウゴは首を激しく横に振る。

 

「ちがう、チビだ……! 赤い、装甲のチビだ……! 俺の打撃も、キョウヤの斬撃も全部弾きやがって……速すぎて、見えねえ……!」

 

「何を馬鹿なことを。ただの魔物に、お前たち三人がかりで後れをとったとでも言うのか!?」

 

ラーゼンは忌々しげに舌打ちをし、すぐさま治癒魔法の詠唱を始めようとした。

だが、三人の傷を探るために魔力を這わせた瞬間、ラーゼンの顔色に明らかな驚愕の色が浮かんだ。

 

(な、なんだこの傷は……!? ただの物理的な打撃ではない。極限まで圧縮された熱量と、私の理解を超える異質な魔素が細胞レベルで叩き込まれている……! こんな芸当、高位の精霊や上位魔将(アークデーモン)でも不可能だぞ!)

 

ラーゼンの背筋に、冷たい汗が伝った。彼らが相手にしたのは、本当にただの魔物なのか?

 

もし、そんな規格外の化け物がジュラの森に潜んでいるのだとしたら、ファルムス本隊の二万の軍勢とて安全とは言い切れない。

 

「……ええい、構わん。貴様らはすぐに本隊の医療テントへ転移させる。そこで傷を――」

 

ラーゼンがそう言いかけ、空間魔法を編み上げようとした、まさにその時だった。

 

――ピタリ、と。

天幕の外から聞こえていた兵士たちの喧騒が、不自然なほど完全に途絶えた。

 

「……何事だ?」

 

ラーゼンが眉をひそめ、守備隊長に外の様子を確認させようとした瞬間。

 

「――逃がさんと言ったはずだぞ、人間の若僧ども」

 

天幕の入り口から、地獄の底から響くような、絶対零度の声が滑り込んできた。

それと同時に、天幕内の空気が一瞬にして凍りつき、呼吸すら困難になるほどの濃密で暴力的な妖気が流れ込んでくる。

 

「ひっ……!? あ、あああぁぁっ!!」

 

その声と気配に、ショウゴたち三人が絶叫を上げて床を這いずり、さらに天幕の奥へと逃げ込もうとする。

ラーゼンが咄嗟に杖を構えて入り口を睨みつけると、そこには、血に濡れた巨大な肉斬包丁を携える猪人王(オークキング)と、静かに白刃を抜き放つ老鬼人、そして氷のように冷たい瞳をした星狼族(スターウルフ)に跨るゴブリンの姿があった。

 

ラーゼンの額に、一筋の冷や汗が伝った。

長年、ファルムス王国の裏で暗躍し、数多の修羅場を潜り抜けてきた彼の大魔道士としての直感が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。

 

(馬鹿な……こいつら、本当にジュラの森の魔物か……!?)

 

目の前に立つ三体の魔物から放たれる妖気は、どれも常軌を逸していた。

巨大な猪人族から溢れるのは、山そのものが押し潰してくるような圧倒的な質量と暴力の気配。

星狼族に跨る小柄なゴブリンでさえ、上位魔人に匹敵するかのような研ぎ澄まされた殺気を纏っている。

 

そして何より、静かに白刃を下段に構える老鬼人。

あの男からは、魔素の大小とは全く別の、純粋な『死』の刃が喉元に突きつけられているかのような、恐るべき剣気の圧迫感があった。

 

対するこちらの手駒は、完全に戦意を喪失して幼児のように泣き喚く三人の異世界人のみ。

外の守備隊が一切の物音を立てなくなった以上、すでに全滅させられたか、音もなく無力化されたと見るべきだろう。

 

(……完全に不利だ。この三体を同時に相手取って、無傷で凌ぎ切る見込みは万に一つもない)

 

ラーゼンは瞬時に状況を計算し、冷徹な結論を弾き出した。

大魔道士である彼とて、事前の準備を整えればこれほどの魔物を相手に立ち回る自信はある。

しかし、不意を突かれたこの極小の閉鎖空間で、しかも足手まといの三人を抱えながらでは、勝機は皆無に等しかった。

何より、この異常事態――「魔物の町に、規格外の強さを持つ化け物たちが潜んでいる」という致命的な情報を、一刻も早く本隊の王とフォルゲンに持ち帰らなければならない。

 

(ならば、取るべき手は一つ。……撤退だ)

 

誰を連れて逃げるか。

ラーゼンの視線が、背後で震える三人を素早く値踏みする。

心身ともに完全に破壊されたショウゴとキララは、もはや兵器としての価値を失っている。

だが、キョウヤの『切断者(キリサクモノ)』の能力だけは、まだ利用価値があるかもしれない。

最悪、彼らの肉体だけでも持ち帰り、後で別の魂を無理やり定着させる『憑依(ポゼッション)』の素体として再利用することもできる。

 

「……ふん。ジュラの森の魔物どもめ。我が結界を破った小手先の術、褒めてつかわそう。だが――」

 

ラーゼンは尊大なハッタリの言葉を口にしながら、水面下で魔法構築を開始した。

狙うは視界を奪う強烈な閃光魔法と、事前に仕込んでおいたものと同時に発動する自身と対象を本隊へ飛ばす『空間移動(テレポート)』の複合詠唱(ダブルキャスト)。

 

「本隊の真の力を見る前に、せいぜい勝利の美酒に酔っているがいい!!」

 

ラーゼンの杖の先端から、天幕内を白く塗り潰すほどの極光が爆発しようとした。

これで目眩ましをして、一瞬でこの場から離脱する――。

 

完璧なタイミングの逃走劇になるはずだった。

相手が、ただの力任せの魔物であったならば。

 

「――逃がすと言った覚えはないが?」

 

ラーゼンの視界が光に染まる直前。

チリッ、と。

老鬼人――ハクロウの額にある『第三の目』が、妖しく見開かれた。

 

「なっ……!?」

 

魔法が発動するより早く、ハクロウの姿がふっと陽炎のようにブレて消えた。

次の瞬間、ラーゼンの杖を握っていた右腕が、肘から先から音もなく『ズレて』、ボトリと地面に落ちた。

 

 

ドサリ、と。

ラーゼンの右腕が、杖を握ったまま地面に転がり落ちた。

 

「……は?」

 

痛覚よりも先に、理解が追いつかない。

自分がいつ斬られたのかすら、大魔道士であるラーゼンの目にも、魔力感知にも全く映らなかったのだ。

 

「チィッ……!!」

 

遅れて襲い来る激痛を強靭な精神力でねじ伏せ、ラーゼンは咄嗟に後方へ飛び退いた。

しかし、その顔には先ほどの尊大な余裕は微塵もなく、死の恐怖によるどす黒い焦燥が張り付いている。

 

その時だった。

 

「あ、あぁ……嫌だ、死にたくねえ……俺は、俺はこんな所で……!!」

 

極限の恐怖と混乱の中で、天幕の奥にうずくまっていたショウゴの精神が、完全に崩壊した。

血走った両眼が、隣で泣き喚いているキララを捉える。

 

(そうだ……死にたくないなら、力を……俺が生き残るための、新しい力を……!)

 

理性を失った生存本能。

次の瞬間、ショウゴは獣のような咆哮を上げ、無防備なキララの首根っこをその太い腕で掴み上げた。

 

「ひっ……!? しょ、ショウゴ……? なにを……」

 

「俺のために……死ねェッ!!」

 

「ぎ、あ――」

 

グチャリ、という生々しい破壊音。

キララの細い首が、乱暴者の常軌を逸した握力によって無残にへし折られた。

ファルムス王国の切り札の一つであった異世界人の少女は、魔物ではなく、味方であるはずの同郷の少年の手によって、あっけなくその命を散らしたのだ。

 

『――確認しました。個体名:ショウゴ・タグチが、ユニークスキル『生存者(イキルモノ)』を獲得しました』

 

世界の声が、残酷な真実を告げる。

その瞬間、ショウゴのボロボロだった肉体が異常な速度で再生を始め、彼を包む魔素の性質が『生存』に特化した極めて強靭なものへと変質した。

 

「…貴様、味方を……!?」

 

いかに容赦のないゲルドやハクロウであっても、この極限状況下で突然、己の生存のためだけに味方を惨殺するという外道な振る舞いには、一瞬の虚を突かれた。

 

大魔道士ラーゼンは、そのコンマ数秒の隙を見逃さなかった。

 

(ショウゴのヤツ、キララを殺して『生存者(イキルモノ)』のスキルを得たか! これほどの再生能力……私の『器』として、これ以上ない極上の肉体だ!)

 

ラーゼンは失った右腕の止血もそこそこに、残された左手で強引に魔法陣を編み上げた。

 

「ショウゴ! こちらへ来い!!」

 

ラーゼンが叫ぶと同時に、スキルを獲得して息を吹き返したショウゴが、血に濡れた手でラーゼンの元へと飛び込む。

 

「ま、待ってくれ! 僕も、僕も連れて行ってくれェッ!!」

 

恐怖に顔を引き攣らせ、立ち上がることすらできないキョウヤが、地を這いながら必死にラーゼンへ手を伸ばす。

だが、ラーゼンはその手を冷酷に見下ろした。

 

「剣を折られた手負いの貴様など、もはや連れて帰る価値はない。せいぜい、彼らの足止め役として散るがいい」

 

「あ……あぁ……?」

 

無情な宣告と共に、強烈な光がラーゼンとショウゴを包み込む。

 

「――『空間移動(テレポート)』!!」

 

閃光が弾け、光が収まった後には、ラーゼンとショウゴの姿は完全に消失していた。

後に残されたのは、血溜まりの中に転がるラーゼンの右腕と、完全に主を失った無惨な天幕の残骸。

そして――己一人だけがこの絶望の空間に置き去りにされたことを理解し、顔面を蒼白にさせたキョウヤだけだった。

 

「……逃げ足だけは達者な小悪党でしたな」

 

ハクロウが、刃に付着した一滴の血を軽く振り払いながら、氷のような声でぽつりと呟いた。

 

「だが、一人残った」

 

ゲルドが、地響きを立てて一歩、キョウヤへと歩み寄る。

その巨大な肉斬包丁が、鈍い輝きを放ちながら持ち上げられた。

 

「主と仲間を傷つけた罪。逃げた二人の分まで、たっぷり償ってもらうぞ」

 

星狼族から降りたリグルが、腰の剣に手をかけながら静かに告げる。

 

三体の魔物から放たれる、ごまかしの利かない純粋な殺意。

それを向けられたキョウヤは、ガチガチと歯の根を鳴らし、尻餅をついたまま無様に後退った。

 

「ま、待て……! 待ってくれ! 僕は関係ない! ショウゴが勝手にやったんだ! それに、俺たちを無理やり呼び出したのはファルムスの連中で――」

 

必死の命乞い。

しかし、ハクロウの冷徹な三白眼は、一ミリの同情も映し出さなかった。

 

「己の剣技に驕り、他者の命を容易く切り捨てておきながら、いざ我が身が危うくなればその言い草。……反吐が出ますな」

 

「ヒッ……! くるな、くるなあぁぁっ!!」

 

「未来の主からの命により、異世界人の生死は問わんと言われてるのでな。おぬしも今までの行いを食いつつ逝くがよい」

 

ハクロウの宣告を合図に、天幕の中に凄惨な影が落ちた。

 

「いやだ! やめ、やめてくれェェェェェッ!!」

 

天幕から、この世のものとは思えない断末魔の叫びが鳴り響いた。

 

かくして、四方の陣に配置されていたファルムス軍の結界部隊は、テンペストの幹部たちの手によって完全に制圧された。

一人の逃亡者も出すことなく、また、主君の命令通り(一部の例外を除いて)遺体は綺麗な状態を保ったまま。

 

事態は、いよいよ最終局面へと移行する。

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