【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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終章 魔王の誕生と見えざる深淵

ファルムス軍の陣営から十分に距離を取った上空で、俺は背後を振り返った。

もはや彼らの姿は豆粒よりも小さく、絶望の平原は夜闇に沈んで見えない。

 

(シエル、もういいぞ。ヴェルドラの幻影を解除してくれ)

 

《了解しました。幻影魔法、および広域隔離結界を解除します》

 

俺の念話に応じ、上空を覆っていた分厚い暗雲と、そこから顔を覗かせていた巨大な漆黒の竜の姿が、陽炎のように揺らめいてスッと空に溶けていった。

 

「ふう、ひとまず最大の山場は越えたな」

 

隣を飛ぶ過去の俺に声をかけると、彼も仮面を外して深く息を吐き出した。

 

「ああ。……正直、あいつらの顔を見た時は怒りでどうにかなりそうだったけど、お前のサポートのおかげで、冷徹に徹することができたよ」

 

過去の俺の金色の瞳には、先ほどの残酷な魔王としての光はすでになく、いつもの少し気の抜けた、仲間思いのスライムのそれに戻っていた。

 

「これで——」

 

過去の俺がそう言いかけた、まさにその瞬間だった。

 

『告。必要条件が満たされました。これより、魔王への進化(ハーヴェスト・フェスティバル)を開始します』

 

世界そのものが直接脳に語りかけてくるような、無機質で絶対的な音声。

それは俺の脳内ではなく、隣を飛ぶ『過去の俺』の魂の奥底から響き渡った声だった。

 

「っ……!?」

 

過去の俺が、唐突に短く呻き声を上げた。

 

「おっと、ついに来たか」

 

「あ、ああ……急に、ものすごい眠気が…………」

 

過去の俺は必死に目を開けていようとするが、その意識は急速に強制的なシャットダウンへと向かっていた。

 

背中の蝙蝠のような悪魔の翼が魔力維持できなくなり、黒い霧となってボロボロと崩れ落ちていく。

 

「あ、やべ……」

 

完全に意識を手放した過去の俺の体が、重力に引かれて真っ逆さまに夜の森へと墜落し始めた。

 

「おっと、危ない危ない」

 

俺は瞬時に加速し、落下していく過去の俺の体をガシッと抱きとめた。

 

「……よくやったよ。お前が一人で抱え込むはずだった怒りも悲しみも、これからも俺が半分背負ってやる。あとは全部任せて、ゆっくり眠れ」

 

腕の中でスヤスヤと、それこそ死んだように深く眠る過去の俺にそう囁きかけ、俺は抱え直した。

魔王への進化の眠りは、いかなる外部刺激を与えても起きることはない。

肉体と魂を根本から作り変える、神聖にして絶対の儀式なのだ。

 

俺はスライム形態へと戻った過去の俺をしっかりと抱きかかえたまま、夜空を一直線に駆け抜けた。

目指すは、俺たちの帰るべき場所。

愛する仲間たちが待つ、ジュラ・テンペスト連邦国だ。

 

夜風を切り裂き、森の上空を飛ぶこと数分。

やがて前方に、見慣れた町の明かりが見えてきた。

結界が完全に消え去り、澄んだ空気に包まれたテンペストの町並み。

 

その中心にある広場には、すでに四方の陣の制圧を終えて帰還したベニマルやハクロウたち幹部、そしてリグルドをはじめとする町の住人たちが集結し、俺たちの帰りを今か今かと待ちわびていた。

当然、そこにはゴブタの捨て身の奮闘によって命を救われたシオンやゴブゾウたちの姿も、五体満足でしっかりと立っている。

誰一人として欠けていない、俺たちの誇り高き魔物の国だ。

 

俺が上空からゆっくりと降下していくと、いち早く気配に気づいたランガが、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら駆け寄ってきた。

 

「我が主たちよ! 無事のご帰還、お祝い申し上げます!」

 

「リムル様! お待ちしておりました!」

 

シオンがパッと顔を輝かせて駆け寄ってくるが、俺の腕の中で完全に気を失っている『過去の俺』の姿を見て、彼女の笑顔がサッと強張った。

 

「未来のリムル様……!そちらのリムル様は、一体どうされたのですか!? まさか、敵の攻撃で……!」

 

ベニマルたちも血相を変え、武器に手をかけんばかりの勢いで詰め寄ってくる。

 

「慌てるな、みんな。こいつは怪我をしたわけじゃない」

 

俺は静かに首を振り、広場に集まった全員を見渡しながら、はっきりと告げた。

 

「ファルムスの本隊二万は、先ほど完全に制圧した。そして……こいつは今、規定の魂の量を満たし、『魔王への進化(ハーヴェスト・フェスティバル)』の眠りについたところだ」

 

「魔王への……進化……」

 

ベニマルが息を呑み、他の魔物たちも驚愕のどよめきを漏らす。

 

「ああ。この眠りから目覚めた時、こいつは真なる魔王として生まれ変わる。俺たちの国を脅かす理不尽を、金輪際寄せ付けないための、絶対的な力を持ってな」

 

俺の言葉に、広場を包んでいた緊張の糸が解け、代わりに主の偉大なる進化への深い畏敬と歓喜の波が広がっていった。

 

「おおお……リムル様が、真なる魔王へ……!」

 

リグルドが感極まってその場に崩れ落ち、涙を流して天を仰ぐ。

 

「だから……こいつが目覚めるまで、絶対に誰も近づけない安全な場所で寝かせてやってくれ」 俺が腕の中の過去の俺を差し出すと、シオンとシュナが恭しく、まるで世界で最も尊い宝物を扱うかのように慎重に受け取った。

 

「はいっ! 私の命に代えても、お守りいたします!」

 

シオンが力強く頷き、シュナと共に過去の俺を祭壇の奥の寝所へと運んでいく。

 

その頼もしい背中を見送った後、俺はベニマルやハクロウ、ゲルドたち実働部隊へと視線を戻した。

 

「さて。魔王の誕生というめでたい席の前に、俺たちにはもう一つだけ、片付けておくべき仕事が残ってる」

 

俺の言葉のトーンが変わったのを察知し、幹部たちの表情が再びスッと戦士のものへと引き締まる。

 

「俺たちの目的は、侵略者をただ皆殺しにすることじゃない。一度死という絶望を与え、そこから蘇生させることで、ファルムスの連中の魂に『恐怖と恩義』を完全に刻み込んだ。エドマリス王の退位と、絶対的有利な講和の約束もすでに取り付けてある」

 

「なるほど。つまり、戦わずして大国ファルムスを内部から支配し、属国化する道筋がついたというわけですな」

 

ベニマルが、感心したように獰猛な笑みを浮かべる。

 

「そういうことだ。だが、蘇生した二万の兵士とエドマリス王たちを、そのままにしておくわけにはいかないからな。……あいつらが国に帰ってから、俺たちの思惑通りに動くよう、とある悪魔を召喚していくつか『仕込み』をしておく必要がある」

 

幹部たちが俺の指示に力強く頷き、今後の準備のために足早に散っていく。

広場にわずかな静寂が訪れた隙に、俺は夜空の向こう、白み始めた東の空を見つめながら、ひっそりと内なる相棒へと思考を繋いだ。

 

(……シエル。一つ聞きたい。あの『三つの声』……。あれは、俺たちが歴史を書き換えることを、ただ『眺めている』だけだと思うか?)

 

《……申し訳ありません、マスター。現状のデータだけでは断定しきれません。ですが、あの干渉には明確な『意思』が感じられました。マスターに対する純粋な好意か、あるいは――極めて悪質な『遊戯』としての興味です》

 

シエルの予測が、俺の心に冷たい楔を打ち込む。

俺がこの世界に来た時は単に俺の知る歴史の悲劇を書き換えて行けばいいだけだと思っていた。

 

だが、今は俺が手を加えるほどに、この世界は俺の知る『未来』から遠ざかり、得体の知れない深淵へと変質していくような気がしている。

 

もし、この完璧な勝利すらも、あの『声』の主たちが用意した極上の「餌」だとしたら?

 

(……考えすぎだな。だが、慢心は死に直結するな)

 

俺は、眠りについた過去の俺が横たわる祭壇の方を、一度だけ振り返った。

 

今はまだ、何一つ解決していない。

ファルムス王国という目に見える敵は排除したが、その背後で蠢く「深淵」は、いまだにその全貌を見せてはいないのだ。

 

俺は西に傾き始めた太陽――茜色へと移り変わりゆく黄昏の空を見つめた。

それは、平穏の訪れというよりは、これから始まる「見えざる戦い」へのカウントダウンのように思えた。

 

(シエル。たとえ歴史がどれほど狂おうが、これからどんな深淵が待ち受けていようが、俺たちのやるべきことは変わらないな)

 

《はい、マスター。いかなる存在が因果を歪め、世界を蝕もうとも、私は常にあなたと共にあります。マスターの望む未来を、この私が必ずや構築してみせましょう》

 

脳内に響く相棒の絶対的な言葉が、俺の魂の芯を心地よく震わせる。

その揺るぎない言葉の最適解を前に、俺の心から迷いは完全に消え去っていた。

その横顔には、もはや勝利に浮かれるような甘さはない。ただ、世界の命運をその両肩に背負う者にふさわしい、静かで強固な決意だけが刻まれていた。

 

かくして、血と絶望に彩られるはずだったテンペストの悲劇は、未来の俺の介入によって完全に回避された。

 

だが――この時点の俺は、まだ知る由もなかった。

歴史という一本の糸を強引に結び直した――その不可視の『綻び』から、いかに底知れぬものが忍び寄っていたかを。

 

本来存在し得なかった『異物』による世界の変質が、ただ一つの時間軸の危機に留まらず、やがて数多の「次元」の存亡を懸けた途方もない戦いへと繋がっていくということを。

 

異世界人の襲撃から始まった嵐のような報復の半日が過ぎ、ジュラの大森林を赤く染め上げながら沈みゆく夕陽は、皮肉なほどに美しく、そして冷ややかだった。

 

それは、一人のスライムが真なる魔王として産声を上げた祝祭であると同時に――

世界の理(ことわり)すら及ばない『外側』から這い寄る虚無の思惑と、数多の次元を巻き込む終わりなき『聖戦』の、真の幕開けでもあった。

 

 

転生したらスライムだった件 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 第四部 完




ここまで読んでいただきありがとうございます。
いつもは部の最後にあとがきを残すのですが、本日は第五部二章までアップロードする予定ですので、そちらにあとがきを記載したいと思います。
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