【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
空間が歪み、視界が瞬いた直後。
俺たちの足裏は、土の匂いが混じるオーガの里の広場から、綺麗に舗装された石畳の上へと移り変わっていた。
「……着いたぞ。ここがラージャ小亜国で間違いないな?」
俺が平然と周囲を見回しながら問いかけると、同行した二人の使者は腰を抜かしたまま、口をパクパクと金魚のように開閉させていた。
巻き添えで転移させられた飛竜たちでさえ、一瞬で景色が変わったことに状況が呑み込めず、首を傾げてキョトンとしている。
「嘘、でしょう……? これほどの道のりを、本当に一瞬で……」
「これが、魔王の力……ッ!」
彼らが俺の魔法に戦慄していると、突如として中庭に出現した巨大な飛竜と見知らぬ集団に気づき、王宮の衛兵たちが血相を変えて槍を構えながら集まってきた。
「な、何者だ! どこから侵入した!?」
「待て! 剣を引け、俺だ!」
ヒイロが前に進み出て大声を上げると、衛兵たちは「ヒイロ殿!?」と驚き、警戒を解いた。
「ヒイロ殿! 無事にお戻りになられたのですね!」
「ああ。テンペストより、トワ様を救うための心強い援軍をお連れした。……すぐに宰相のモブジ殿と、大臣に面会をお願いしたい」
ヒイロの言葉を受け、衛兵の一人が慌てて王宮の奥へと走っていく。
程なくして、俺たちは王宮内にある豪奢な応接室へと案内された。
*
「おお……! ヒイロ、よくぞご無事で戻られた!」
応接室の扉が開き、真っ先に足早に入ってきたのは、初老の男だった。
ラージャ小亜国を支える宰相、モブジだ。
彼の顔には、ヒイロの帰還に対する心からの安堵と、幾日も眠れていないであろう深い疲労の色が浮かんでいる。
そして、モブジのすぐ後ろから、もう一人の男が静かに部屋へ入ってきた。
この国の政をモブジと共に支える善良なる忠臣、大臣である。
彼もまた、女王トワの身を心底案じている様子で、その表情には深い悲痛が刻まれていた。
「ヒイロ殿、ご無事で何よりです。噂に聞いていた大鬼族(オーガ)の里の健在は、無事に確認できたのでしょうか? ……そして、この国を救うための、ジュラの大森林の開墾の許しは得られましたか?」
大臣がすがるような面持ちで尋ねる。
「あなたが旅立たれた後も、トワ様の容態は悪化する一方で……我らも気が気ではなかったのです」
その沈痛な言葉に、ヒイロは居住まいを正し、力強く頷き返した。
「ああ。大臣、モブジ殿。大森林の開墾の件については、当初の予定とは大きく変わってしまった。……だが、それ以上の希望を持ち帰ってきたぞ。なんと、トワ様を苦しめる呪いに対する解決策が見出せそうなのだ」
「呪いの、解決策……!? そ、それはまことですか!」
モブジが驚きに目を丸くする。
「ああ。ご安心ください、モブジ殿、大臣。こちらの方々をご紹介します」
ヒイロは俺たちの方へと向き直り、深く敬意を込めて手を差し向けた。
「俺の故郷の同胞たちを死の淵から救い、このたびトワ様を救うために直々にお越しくださった……魔王リムル様です」
ヒイロが俺を恭しく紹介すると、モブジと大臣はハッと息を呑み、慌てて深く、深く頭を下げた。
「ま、魔王様が直々に……! これは失礼をいたしました。私はラージャ小亜国宰相のモブジと申します」
「同じく、大臣を務めさせていただいております。トワ様を、そしてこのラージャを救うためにご足労いただき、心より感謝申し上げます」
床に跪かんばかりの勢いで頭を下げる二人。
彼らから伝わってくるのは、打算など一切ない、主君を救いたいという純粋な忠誠心だけだった。
「顔を上げてくれ。俺はテンペストの主、リムル・テンペストだ。こっちは俺の部下のベニマル、シオン。そしてヒイロの育ての親でもある、オーガの里の族長キエンだ」
俺が鷹揚に頷きながら仲間を紹介すると、キエンたちも軽く会釈を返した。
「リムル殿……早速で大変恐縮なのですが、トワ様の呪いを解く手立ては、お持ちなのでしょうか?」
モブジがすがるような目で俺を見つめてくる。
俺は力強く頷き、不安を取り除くように自信に満ちた笑みを向けた。
「ああ。ヒイロや使者の二人から事情は聞いている。ティアラに込められた『呪毒』の解呪なら、俺の力で確実にどうにかできる」
俺が事も無げに言い放つと、モブジと大臣の顔がパッと明るく輝いた。
「おおお……! なんという希望の光……!」
「これで、トワ様はお救いいただけるのですね……ッ!」
「ああ、任せてくれ。……ただ、ヒイロから聞いた呪いの契約内容を考えるに、この事態の裏にはかなり厄介な悪魔が絡んでいる可能性が高い。原因を元から断ち切るためにも、まずは詳しい現状を調べさせてもらいたい」
俺は真っ直ぐに二人の忠臣を見据えた。
「案内してくれないか。――トワ王女のところへ」
*
モブジと大臣の先導で、俺たちは王宮の奥深くにある女王の私室へと案内された。
重厚な扉が開かれると、部屋の中は分厚いカーテンが引かれて薄暗く、強い薬草の匂いが鼻を突いた。
ベッドの傍らには、トワの侍医を務める耳長族(エルフ)のチクアンが控え、沈痛な面持ちで看病に当たっているように見える。
部屋の中央に置かれた天蓋付きの大きなベッド。
そこに、雪のように白い肌と長い銀髪を持つ美しい少女――ラージャ小亜国の女王、トワが横たわっていた。
「トワ様……ッ!」
ヒイロがたまらずベッドの傍へ駆け寄る。
その声に反応し、トワはゆっくりと瞼を開け、自らの力で静かに上体を起こした。
元の歴史よりもかなり早い段階でヒイロがテンペストの領地を訪れたため、彼女の容態はまだ最悪の事態には至っていない。
それでも、顔色は青白く、その身が呪毒に蝕まれていることは明らかだった。
「……ヒイロ、ですか? 無事に、戻ってきてくれたのですね……」
「はい! トワ様、俺です。ヒイロです! 遅くなって申し訳ありません……!」
ベッドの傍らに跪くヒイロを見て、トワは静かに、心底安堵したように微笑んだ。
「あなたが無事に帰還されたこと、本当に嬉しく思います……」
侍医のチクアンも、如何にも安堵したような声を出している。
「ヒイロ殿が無事に帰還され、トワ様もご安心なさっていることでしょう……」
大臣が恭しく一歩進み出て、トワへと声をかけた。
「トワ様。こちらにおわすのは、魔国連邦(テンペスト)の魔王、リムル・テンペスト殿にございます。ヒイロ殿が、貴女様を救うためとしてお連れいたしました」
大臣の紹介に、トワはわずかに目を丸くしたものの、すぐに女王としての気品を取り戻して居住まいを正した。
「魔国連邦の、魔王様……。このような形でお迎えすることになり、誠に申し訳ありません。私は、ラージャ小亜国の女王、トワと申します」
「あー、無理に起き上がらなくていい。そのまま楽にしていてくれ」
俺はトワを静かに制し、微笑みかけた。
「ヒイロがお世話になったみたいだな。……トワ王女。あんたが命を懸けてヒイロを救ってくれたからこそ、あいつは無事に生きて仲間たちと再会することができた。その礼を言わせてもらう」
俺の言葉に続くように、背後に控えていたキエンが静かに進み出た。
そして、ベッドに座るトワに対して、これ以上ないほどの深い感謝を込めてその場に平伏した。
「トワ様。私は大鬼族の族長、キエンと申します。……ヒイロは私にとっても、大切な息子のような存在。あの子の命を救い、名前まで与えてくださったこと、一族の長として、そして一人の親として、心より御礼申し上げます」
「顔を上げてください、キエン殿……」
トワはそう言いながらも、その美しい顔に深く痛ましい影を落とした。
「私は、ただ目の前にあったヒイロの命を繋ぎ止めることしかできませんでした。彼と共に倒れていた、他の大鬼族の方々をお救いすることは叶わず……本当に、申し訳ありません」
ヒイロの仲間たちを助けられなかったことを悔やみ、伏せられたトワの瞳。
そんな彼女に対し、キエンは静かに首を振り、慈愛に満ちた温かい声で言葉を返した。
「どうか、御自らを責めないでくだされ。誇り高き戦士として散った同胞たちも、貴女様がヒイロの命を繋ぎ止めてくださったことに、魂の底から感謝しているはずです。貴女様のその御慈悲こそが、我らにとってどれほどの救いとなったことか……」
キエンの優しくも力強い言葉に、トワは胸を撫で下ろしたように目元を潤ませ、小さく頷いた。
その温かなやり取りを見届け、俺は本題に切り込んだ。
「さて、挨拶はこれくらいにしよう。……トワ王女。あんたの体は今、そのティアラから流し込まれた『呪毒』によって蝕まれている。これからすぐに、その術式ごと完全に破壊させてもらうぞ」
俺がトワの額のティアラを一瞥し、事も無げに宣言したその時だった。
「お待ちください、リムル様。このティアラを破壊するわけにはいきません」
静かだが、きっぱりとした声でトワが反対の意を示した。
「トワ様……?」
ヒイロが驚いて声を漏らす。
「確かに、この身はティアラの呪毒に蝕まれています。しかし、このティアラは代々、ラージャの国と民に多大な利益をもたらしてくれました。今これを失えば、毒に侵された湖を浄化する術がなくなり、民の暮らしが立ち行かなくなってしまいます……」
己の命よりも国と民を案じる、女王としての切実な訴え。
俺は彼女のその気高い覚悟を受け止めつつ、安心させるように微笑んだ。
「その心配はいらない。ティアラの呪いを解いた上で、湖の毒の問題も、国が立ち行かなくなるという危惧も、俺が全部どうにかしてやる」
「どうにかする、とは……具体的にどのようにでしょうか?」
「実はな、俺は『未来』から来た存在なんだ」
「え……?」
トワが目を丸くする。
「み、未来から……!?」
「そんな、御伽噺のような……!?」
俺の言葉に、まだその事実を聞かされていなかったモブジと大臣が、信じられないというように驚愕の声を上げた。
だが、俺は真剣な眼差しのまま続ける。
「俺が知る本来の歴史では、俺は一度、このラージャで起きた問題を全て解決した経験があるんだ。だから、どうすれば国が救われるのか、全部知っている」
驚きに固まるトワたちへ、俺は魔王としての威厳と、仲間たちに向けるような温かさを込めて告げた。
「急にこんな突飛なことを言われて、信じるのは難しいかもしれない。だが、俺を信じて任せてくれれば、絶対に悪いようにはしないと約束する」
俺の真っ直ぐな言葉に、トワは数秒間じっと俺の目を見つめ返し――やがて、その張り詰めていた表情を和らげた。
「……ヒイロが連れてきてくれた方のお言葉です。リムル殿がそこまで仰るのなら、私から申し上げることはもう何もありません」
トワが俺を信じ、深く頷こうとした、まさにその時だった。
「お、お待ちくだされッ!!」
突如として、横に控えていた侍医のチクアンが血相を変えて前に進み出た。
その額には、先ほどの穏やかな表情からは想像もつかないほどの脂汗が浮かんでいる。
「い、いくら魔王様とはいえ、未来から来たなどという妄言を真に受けて、我が国に代々伝わる神聖なティアラを壊すなど……! 万が一、トワ様のお体に何かあれば――」
言葉巧みに俺の干渉を阻止しようとするチクアン。
だが、その焦燥に満ちた瞳の奥底に渦巻く『悪意』を、俺が見逃すはずがない。
「……うるさいな。少し黙ってろ」
俺が冷たく言い放つと同時に、スキル用いた強力な精神干渉をチクアンへと直接叩き込んだ。
「がっ……!?」
チクアンは白目を剥き、言葉を紡ぐ間も与えられずにその場へ糸が切れたように倒れ伏した。
「チ、チクアン殿!?」
「な、何を……魔王様、これは一体!?」
突然の出来事に、モブジと大臣が驚愕の声を上げ、トワも息を呑んで硬直する。
俺は倒れたチクアンを見下ろしたまま、周囲の動揺を鎮めるように落ち着いた声で告げた。
「驚かせて悪いな。安心しろ、ただ意識を刈り取っただけだ。……実はこいつも、トワ王女を呪いで蝕んでいると一味の仲間の一人なんだよ」
「なっ……!?」
「チクアン殿が、黒幕の仲間……!?」
絶句するモブジたちに向けて、俺は淡々と事実を明かしていく。
「こいつは侍医という立場を利用して、トワの体調を監視し、時には細工をしていたはずだ。……そもそも、湖が異常な猛毒に侵されたのも、トワにこのティアラを無理やり使わせるために、こいつらが裏で毒を撒いていたからだ」
俺の言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。
長年信頼していた侍医が、自らの命を奪おうとしていた元凶の一味だった。
その残酷な真実に、トワはショックで口元を覆い、ヒイロやモブジたちは怒りで全身を震わせている。
「……チクアン。ずっと私を案じてくれていたあなたが、どうしてこのようなことを……」
「許せん……ッ! 我らの国を、トワ様をなんだと思っているのだ!」
ヒイロが怒りのあまり拳から血が滲むほど強く握りしめる。
そんな彼らを見渡し、俺は魔王としての威圧感を微かに放ちながら宣言した。
「詳しい事情聴取は、後でこいつが目を覚ましてからゆっくりやればいい。それと、王都に出入りしているラキュアという行商人もこいつらと同じ一味だ。絶対に王城へ近づけないよう、兵たちに警戒を強めるように伝えておいてくれ」
「承知いたしました。ただちに手配いたします」
大臣が緊迫した表情で頷くのを確認し、俺は言葉を続ける。
「……俺は今から、このティアラの件の元凶となっている『原初の紫(ヴィオレ)』のところへ行って、直接話をつけてくる」
俺は振り返り、頼もしい仲間たちへと視線を向けた。
「ベニマル、シオン、キエン。それにヒイロ。お前たちは、トワ王女や大臣たち要人を護衛してくれ。万が一、他にも潜んでいるネズミが嗅ぎつけてきたら、容赦なく斬っていいぞ」
「ハッ! 承知いたしました!」
「この場は我らにお任せを!」
ベニマルたちが力強く頷き、即座にトワのベッドを囲むようにして絶対の防衛陣形を敷いた。
その中で、シオンが一歩前に出て心配そうに声をかけてくる。
「リムル様、お一人で行かれるのですか?」
「ああ。大丈夫だ、すぐ戻る」
俺は笑って頷き、安心させるようにそれだけを言い残すと、空間転移の魔法を発動させた。
目指すは、この呪いの術式の大元――『原初の紫』が座す空間だ。
少しのお灸を据える意味も込めて、この時代の『ウルティマ』に直接挨拶と文句の一つでも言いに行ってやるとするか。
未来における俺の、少し手のかかる優秀な部下。
その過去の姿との対面を思い浮かべながら、俺は苦笑交じりに余裕の笑みを浮かべ、転移の光へと身を投じた。
*
視界が切り替わると、そこは純白の大理石で精巧に造られた、壮麗な宮殿の一室のような空間だった。
無機質でありながらも圧倒的な美しさを誇るその部屋の中央には、不釣り合いなほど豪奢なアンティーク調のテーブルセットが置かれている。
そこに座っていた赤紫色の髪をサイドテールに結い、漆黒のローブに身を包んだ美しい少女――『原初の紫(ヴィオレ)』が、優雅に紅茶のカップを置きながら静かに口を開いた。
「……誰かボクの空間に干渉してきたようだね」
彼女の傍らでは、洗練された執事服に身を包んだ初老の悪魔が、主の言葉に反応して鋭い視線を周囲へ巡らせる。
俺は転移の光を纏ったまま、その静寂なティータイムの空間へと、なんの遠慮もなく足を踏み入れた。
「よう。優雅なティータイムの邪魔をして悪いな」
俺が気さくに声をかけた瞬間。
「――何者だッ!!」
ヴィオレに給仕をしていた初老の悪魔が、恭しい態度から一変、空気が凍りつくような凄まじい殺気を放ち、俺の眼前にまで瞬動してきた。
その手には鋭い刃が握られており、俺の首を躊躇いなく刎ね飛ばそうとする。
だが、俺は一歩も動くことなく、ただ竜霊覇気を微かに――ほんの僅かだけ解放した。
「ガ、ァッ……!?」
それだけで、空間そのものが軋むような重圧が執事の悪魔を襲い、彼は目を見開いたまま空中で硬直した。
俺に触れるどころか、指先一つ動かすことすらできずに冷汗を流している。
「おいおい、客人に向かって物騒な出迎えだな。まあ、勝手に入り込んだのはこっちだが」
俺が落ち着いた声でそう言うと、テーブルに座ったままのヴィオレが、面白そうな、そして警戒の色を微かに含んだ瞳で俺を見つめてきた。
「……下がっていなよ。今のキミが手を出していい相手じゃないよ」
ヴィオレが静かに命じると、執事の悪魔は「し、しかし……!」と躊躇いながらも、圧倒的な力を見せつけた俺から逃れるように後ろへ飛び退き、主の盾となるように立ち塞がった。
「ボクの張った絶対の結界を、まるで散歩でもするみたいに通り抜けてくるなんて。……それに、その深淵を覗き込むような底知れない妖気。ただの魔人、ってわけじゃないよね。キミは誰?」
ヴィオレは両手を組んで、俺を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、原初の悪魔としての絶対的な自信と、未知の強者に対する無邪気な好奇心が入り混じっている。
(……この時代のこいつは、やっぱりまだ尖ってるな。いや、『ウルティマ』も大概か)
俺は懐かしさすら覚えながら、余裕の笑みを浮かべて名乗った。
「俺はリムル。テンペストって国の主で、魔王をやっている。……今日は、お前に少し話があってな。訪ねてきたってわけだ」
「魔王リムル……。ふぅん、知らない名だね。ここが『原初の紫(ボク)』の領域だって分かってて、わざわざ踏み込んできたっていうのかな?」
探るようなヴィオレの言葉に対し、俺は平然と頷き返した。
「ああ。お前が『原初の紫』だって知ってるからこそ、直接ここへ来たんだよ」
「へえ……」
俺の堂々とした態度に、ヴィオレは面白そうに目を細め、少しだけ残酷な笑みを深めた。
「それで? その魔王様が、この場所に何の用なのかな?」
ヴィオレが鋭い目線を俺に向けながら言い放つ。
俺は単刀直入に切り出した。
「お前の配下についてだ。ラキュアとかいう悪魔が、ラージャ小亜国で随分とつまらない小細工をしてるみたいだぞ。……女王に呪いのティアラを使わせるために、湖に毒を撒いたりとコソコソ暗躍したりな」
俺の言葉を聞いた瞬間、ヴィオレは「は?」と素っ頓狂な声を上げた。
「……えっと、ちょっと待って。湖に毒? なにそれ、聞いてないんだけど」
ヴィオレは心底不思議そうに目をパチクリとさせ、それから呆れたように大きなため息をついた。
「あいつには『王女の様子を代々監視するように』って命令しただけだよ。呪いのティアラさえ使わせれば、いずれ器は仕上がるんだから、そんな回りくどくて面倒なこと、ボクが指示するわけないじゃん。……あーあ、あいつ、勝手に暴走してるってわけだ。本当に使えないね」
ヴィオレの反応は、俺の予想通りだった。
彼女のようなプライドの高い『原初』が、あんな小賢しい陰謀を好んで企てるはずがない。
全ては、功を焦った配下のラキュアが勝手にやったことだ。
「やっぱりな。お前がそんなみみっちい真似をする悪魔じゃないってことは、俺もよく知ってる」
「……随分と馴れ馴れしいね。ボクのことを知っているような口ぶりだけど?」
ヴィオレが怪訝そうに眉をひそめる。
「まあな。色々と付き合いがあるんだよ」
俺は肩をすくめ、話を本題へと戻した。
「とにかく、俺の仲間があの国の女王に恩があってな。あの呪いのティアラは、俺が先ほど術式ごと完全に破壊させてもらった」
「――は?」
ヴィオレの表情から、すっと感情が抜け落ちた。
純白の宮殿がビリビリと震え、原初の悪魔が放つ本気の魔気が、重い圧力となって俺にのしかかる。
「ボクの、呪いを、破壊した……? ボクの所有物である器を、勝手に壊したって言ってるの?」
「そうだ。そもそも、あんな悪趣味な契約、俺が許すわけないだろ」
激怒する原初の悪魔を前にしても、俺は一切の動揺を見せず、むしろ呆れたように首を振った。
「それに、お前も不完全で弱っちい人間の肉体なんか本当は欲しくないんだろ? ……ラキュアの暴走の件もある。ここは大人しく、ラージャから手を引け」
「……ふふっ。あははははっ!」
俺の堂々たる忠告を聞き、ヴィオレは突然、腹を抱えて笑い出した。
「面白い! 本当に面白いよ、魔王リムル! ボクの計画を台無しにしておいて、その上説教までしてくるなんて!……いいよ、そこまで言うなら試してあげる。キミがボクに『意見』できるほどの『力』を持っているかどうかをね!」
ヴィオレの言葉と同時に、ピキッという甲高い音が響き渡った。
直後、先ほどまで俺たちを囲んでいた純白の宮殿の空間が、まるで薄氷かガラスが割れるように、パリンッと派手な音を立てて無数に砕け散る。
虚無の欠片が剥がれ落ちた向こう側から姿を現したのは、見渡す限りの荒涼とした砂漠と、半ば砂に埋もれた崩壊した宮殿の跡地だった。
ヴィオレが本気で俺を迎え撃つために展開した、闘争のための心象領域だろう。
廃墟となった王座めいた瓦礫の上に降り立ち、彼女の背後に漆黒の毒炎が渦を巻き始める。
交渉決裂。
いや、原初の悪魔との交渉において『力による証明』は避けて通れない道だ。
俺もそれは最初から承知の上だった。
「やれやれ……。お前が力尽くじゃないと納得しない性格なのも、分かってたことだけどな」
砂漠の乾いた熱風が吹き荒れる中、俺は小さくため息をつき、静かに刀の柄へと手をかけた。
*
「それじゃあ、簡単には死なないで戦いを楽しませてねっ!」
ヴィオレが無邪気な、しかし底知れぬ殺意を孕んだ笑みを浮かべた瞬間、彼女の周囲に無数の赤紫色の魔法陣が展開された。
そこから撃ち出されたのは、数百にも及ぶ紫色の魔力弾。
ただの魔法ではない。
一つ一つが上位悪魔を一撃で消し飛ばすほどの高密度な魔素の塊であり、しかも標的である俺をどこまでも追尾する極悪な誘導性能を持っていた。
全方位から迫り来る紫の弾幕。
だが、俺の視界の中で、それらの攻撃はまるで『止まっている』かのようにゆっくりと動いていた。
(シエル)
《はい。既に敵の魔法術式、誘導の軌道、着弾のタイミング……全て『未来予測』により算出済みです》
万能の神智核(マナス)であるシエルの報告が脳内に響く。
その完璧なサポートのおかげで、俺からすればヴィオレの攻撃は、スローモーションのビデオを一時停止しながら見ているようなものだった。
「躱す必要すらないな」
俺が現実の時間の流れの中で短く呟いた直後、数千の紫の魔力弾が俺の身体に着弾し、荒涼とした砂漠に巨大な爆発と紫炎の嵐を巻き起こした。
大地が抉れ、もうもうと土煙が舞い上がる。
「あーあ。いくらなんでもあっけな……え?」
つまらなそうに肩をすくめたヴィオレの表情が、驚きに固まった。
土煙が晴れた後、そこには服の裾一つ焦がさず、傷一つ負わずに平然と立つ俺の姿があったからだ。
「なっ……ボクの魔力弾を全弾直撃で受けて、無傷……!?」
「いや、直撃すらしてないぞ」
俺は首をポキッと鳴らしながら答えた。
俺の周囲には、常時発動している究極能力『虚空之神(アザトース)』の権能の一つ、『多次元結界』が展開されている。
次元断層による絶対防御の壁は、ヴィオレの魔法を文字通り「別次元」へと逸らし、俺に触れることすら許さなかった。
「……ふふっ。なるほどね、ただのハッタリを言ってる魔王じゃないってことは認めてあげる。なら、これならどう!?」
ヴィオレの瞳に、明確な闘争の悦びが灯った。
彼女は両手に紫黒色の妖気を纏わせると、魔力弾による遠距離攻撃から一転、音速を超えるスピードで俺の眼前にまで肉薄し、直接打撃を放ってきた。
『物理攻撃無効』や『自然影響無効』を備えている俺だが、原初の悪魔が放つ高位の魔属性を帯びた一撃は、ただの物理や自然現象ではない。
だが、焦る必要は微塵もなかった。
「速いな。だが、軌道は見え透いてる」
俺は腰に帯びた愛刀『希望(エルピス)』を静かに引き抜いた。
その際、過去の彼女を傷つけてしまわないよう、刀身に強固な『結界』を極薄く纏わせ、殺傷力を完全に封じておく。
ヴィオレの放つ紫黒の爪撃を、『未来予測』によって完璧に先読みし、結界で覆われたエルピスの刀身で最小限の動きのまま弾き落とす。
ガキィンッ!! という甲高い金属音が砂漠に響き渡る。
「ッ!? ボクの格闘戦を、そんな軽い剣筋でさばくなんて……!」
(それに、なんなのあの刀……!? 爪が触れ合った瞬間、魂そのものが消し飛ぶような異常なプレッシャーを感じる……!)
ヴィオレは内心で戦慄を覚えつつも、目の前の底知れない強者に対し、口元を抑えきれない歓喜に歪ませていく。
「悪いが、剣の腕も一朝一夕で身につけたもんじゃないんでな」
俺は『法則支配』を用いて周囲の空間の魔素流動を掌握し、ヴィオレの踏み込みを僅かに鈍らせながら、流れるような剣技で彼女の攻撃を次々と捌いていく。
力任せではない、理にかなった次元を断ち切るような鋭い剣閃。
「くっ……あははっ! 最高、最高だよキミ! こんなにワクワクしたのはいつ以来かな!」
攻撃を完全に封殺されているにも関わらず、ヴィオレの笑い声は狂熱を帯びて高まっていく。
彼女の中で、未知の強者に対する本能的な歓喜が弾けていた。
「なら、これはどうかなッ!!」
ヴィオレは背中に漆黒の魔翼を展開させると、上空へと一気に跳躍した。
そして、眼下にいる俺に向けて、空を覆い尽くすほどの超巨大な魔法陣を展開する。
「消し飛びなよ! 『破滅の炎(ニュークリアフレイム)』ッ!!」
それは先ほどの魔力弾とは比較にならない、原初の悪魔による最上位の広域爆破魔法。
逃げ場のない砂漠の空間全体を、あらゆるものを灰と化す紫黒の業火が包み込もうと迫り来る。
並の魔王であれば、この一撃で消し炭にされているか、少なくとも深いダメージを負うだろう。
だが、俺は上空のヴィオレを見上げたまま、慌てることなく左手を掲げた。
「派手な花火だが……少し単調だな」
《対象の魔法構築に対する『法則支配』による干渉、および『属性変換』を開始します》
迫り来る業火の壁が俺の頭上に到達しようとしたその瞬間。
俺が指先を軽く鳴らすと、圧倒的な熱量を誇っていた紫の炎が、瞬時にして無害な「水」へと性質を変えられ、ザーッと大雨のように砂漠へと降り注いだ。
「――は……?」
空中でヴィオレが呆然と声を漏らす。
彼女が放った必殺の魔炎は、俺の『法則支配』による魔素の強制書き換えと『属性変換』によって、着弾する前にその根源的な属性を真逆に塗り替えられてしまったのだ。
「自分の魔法がただの水に変わった気分はどうだ?」
「ふ、ふざけるなっ!!」
ヴィオレは屈辱に顔を歪め、空から急降下しながら今度は精神攻撃を織り交ぜた呪殺の魔波を放ってきた。
あらゆる耐性をすり抜け、魂を直接刈り取る原初の呪い。
だが、俺には『精神攻撃無効』が備わっている上に、シエルの絶対的な演算防御、そして精神干渉に屈しない意思力がある。
《対象からの精神干渉波を検知。無効化し、跳ね返します》
「がっ……!?」
自ら放った呪いの一部を反射されたヴィオレが、空中で姿勢を崩した。
その隙を見逃す俺ではない。
俺は『時空間支配』の権能を発動させた。
空間と空間の距離を「ゼロ」へと書き換える、瞬間移動。
「……ッ!? 消え……」
「遅いぞ」
ヴィオレが俺を見失った直後、俺は既に彼女の背後――空中の死角へと完全に回り込んでいた。
振り返る暇すら与えない。
俺は手にした愛刀『エルピス』を抜き放ち、その峰(みね)に魔素を集中させた。
いくら過去の姿とはいえ、未来の可愛い部下を本気で斬り捨てるわけにはいかないからだ。
ゴガァッ!!
多重に張り巡らされていたヴィオレの魔力障壁が紙屑のように粉砕され、彼女の背にエルピスの峰が重い打撃として叩き込まれた。
「あ、ガッ……!」
強烈な衝撃に息を詰まらせ、ヴィオレが砂漠へと墜落していく。
ドスンッ、と重い音を立てて砂煙が上がるが、さすがは原初の悪魔。
すぐに体勢を立て直し、俺を睨み上げてきた。
だが、その顔に浮かんでいたのは痛みの苦悶ではなく、純粋な激怒だった。
「……キミ、今……峰打ちにしたね?」
「お、よく分かったな」
「ふ、ふざけるなッ!! ボクを哀れんで手加減したっていうの!? 原初の悪魔であるこのボクをッ!!」
屈辱と怒りに顔を歪め、ヴィオレが叫ぶ。
俺は空中にふわりと留まったまま、魔王としての余裕を一切崩さず、ワザと挑発するように肩をすくめて見せた。
「手加減されたくなかったら、俺に本気を出させるくらい頑張ってみろよ。原初の悪魔ってのは、もっと底知れない連中だと思ってたんだけどな」
怒らせて、限界以上の力を引き出させる。
それが、こいつのような力しか信じない厄介な悪魔を、本当の意味で「黙らせる」ための一番手っ取り早い方法だからだ。
「……言ったね。後悔させてあげる。ボクの、本当の力でッ!!」
ヴィオレの激昂と共に、崩壊した宮殿の領域全体が、彼女の底知れぬ魔素によってカタカタと震え始めた。
ヴィオレの全身から、先ほどまでとは比較にならないほどの莫大な魔素が吹き上がる。
空間そのものが彼女の怒りに呼応し、砂漠の砂が重力に逆らって天へと舞い上がっていく。
「キミのその余裕、絶望に染め上げてあげるよッ!」
そう叫んだヴィオレが放ったのは、原初の悪魔が振るう拘束魔法だった。
「『虚無消失獄(ニヒリスティックバニッシュ)』ッ!!」
空間そのものを侵食するどす黒い雲が発生し、そこから伸びた無数の黒い雲の糸のようなものが、俺の四肢へと一瞬にして絡みつく。
あらゆる抵抗を許さず、捕らえた対象の存在を根本から消滅させようとする絶対の拘束術式。
「あははっ! 捕まえた! いくらキミでも、これを受ければ無事じゃ済まないよ!」
俺の動きが完全に封じられたのを見て、ヴィオレが勝利を確信したような歓喜の声を上げた。
だが、彼女が喜んだのもつかの間のことだった。
「……ふふっ。さて、どうかな?」
「え……?」
俺が静かに笑うと同時に、ヴィオレの視界を覆っていた砂漠の空間が、文字通り『裏返った』。
《究極能力『虚空之神(アザトース)』の権能を限定解放。『虚数空間』および『虚無崩壊』を応用した漆黒の結界へと対象を隔離しました》
「な、なにこれ……!? 真っ暗……ボクの魔法が、消え……ッ!?」
先ほどまで俺を縛り付けていたはずの黒い雲の糸は、跡形もなく消え去っている。
いや、そもそもこの漆黒の空間においては、ヴィオレの放ったいかなる魔法も意味を成さない。
ここは俺の完全な支配下にある、絶対的な虚無の世界なのだから。
「俺はここだぞ」
背後から声をかけると、ヴィオレは弾かれたように振り返り、妖気を纏った爪撃を躊躇いなく振り抜いた。
しかし、その鋭い一撃は俺の体をすり抜け、虚しく空を切る。
「残像……!? いや、幻影!?」
驚愕する彼女の周囲に、俺の姿をした幻影が次々と浮かび上がり、完全に包囲する。そして、その無数の幻影たちが一斉に剣を構え、ヴィオレに向けて鋭い攻撃態勢を取った。
「小賢しいッ! こんなもの、まとめて切り刻んでやるっ!!」
ヴィオレが叫び、自身を回転させながら、全方位に向けて凄まじい爪撃の嵐を放つ。
範囲内のあらゆるものを薙ぎ払うその回転斬撃によって、周囲を取り囲んでいた俺の幻影たちは一瞬にして掻き消された。
――ただ一体を残して。
正面にいた一体の幻影だけが、爪撃の威力を受けて後方へ激しく弾かれ、距離が離れたところでガクンと片膝をついた。
「あははっ! 捕まえた!」
それを見たヴィオレは、確かな手応えから「それが本物だ」と好機を確信し、歓喜に顔を歪ませて一気に距離を詰める。
しかし、その無防備な首へトドメの爪を突き立てようとした瞬間――彼女は致命的な「違和感」に気が付いた。
膝をついていたはずのリムルの身体が、揺らぐようにノイズを発してフッと消え始めていたのだ。
「え……?」
ヴィオレは目を見開いた。
こちらを静かに見つめ返す、消えゆく幻影の瞳。
そこに鏡のように映り込んでいたのは、爪を振りかぶって無防備を晒しているヴィオレ自身の姿と――彼女の『真後ろ』から、今まさに冷酷なまでの速度で剣を振り下ろそうとしている『本物の俺』の姿だった。
「『虚崩朧・千変万化』」
「――ッ!!」
回避はおろか、防御すら間に合わない次元の斬撃。
ヴィオレは自らの敗北を確信し、硬直したまま絶望に目を見開いた。
ピタリ、と。
ヴィオレの細い首筋に触れるか触れないかの、まさに紙一重の距離で、俺はエルピスの刀身を完全に停止させた。
少しでも俺のコントロールが狂えば、原初の悪魔といえどもただでは済まなかっただろう。
「俺の勝ちだな」
俺が静かにそう告げて刀を鞘に納めると同時に、周囲を覆っていた漆黒の空間がスッと晴れ上がり、元の崩壊した宮殿と砂漠の景色へと戻っていった。
だが、ヴィオレは弾かれたように後方へと大きく跳び退き、俺から警戒するように距離を取った。
先ほどの圧倒的な剣圧に冷や汗を流し、肩で息をしながらも、その瞳にはまだ屈服を拒絶する強烈なプライドが燃え盛っている。
「認めない……ッ! 原初の悪魔たるボクが、こんな、こんなところで負けを認めるわけにはいかないッ!」
ギリッと歯を食いしばり、なおも抗うように残った魔素を振り絞ろうとするヴィオレ。
俺は、そんな彼女の意地っ張りな姿に小さく息を吐いた。
「……仕方がないな」
口にするのは呆れではなく、無意味な争いを終わらせるための決断だ。
俺は静かに目を閉じ、そして――己の奥底に眠る真の力、次元すらも震わせる『竜霊覇気』を全開放した。
ただ俺がそこに立っているだけで放たれる、『原初の紫(ヴィオレ)』が今まで感じたことのないプレッシャー。
真なる魔王としての力に竜種の威容が入り交じった絶対的なオーラの奔流が、空間そのものを悲鳴を上げるほどに軋ませ、砂漠の砂を完全に空中で静止させる。
「……ッ、ぁ……!?」
本能が、魂が理解してしまう。
目の前にいる存在は、悪魔がどう足掻いても絶対に届かない理外の『絶対者』であると。
抗うことなど許されない次元の重圧を真正面から浴び、ヴィオレは自らの意思に反して、その場にガクンと膝をつかされた。
立ち上がろうとしても、体が本能的に俺への「屈服」を強制されているのだ。
「悪いが、俺もこれ以上付き合ってる暇はないんでな」
俺は静かに歩み寄り、膝をつくヴィオレを見下ろした。
その瞳の奥底にあった狂熱と怒りはついに完全に折れ、代わりに浮かんでいたのは、底知れぬ絶対者への純粋な『畏怖』と『感嘆』だった。
「……あはは。負けだよ、ボクの完敗だ」
やがて、ヴィオレは毒気を抜かれたように笑い出し、両手を上げて降伏の意を示した。
「すごいね、キミ。ボクの全力の攻撃を赤子扱いするなんて。その上、あれだけの力を隠し持っていたなんてね」
俺を見上げる彼女の表情には、不思議と屈辱の色はなかった。
悪魔は力こそが絶対の掟。
自分を遥かに凌駕する圧倒的な存在を前にして、彼女の闘争心は完全に満たされ、同時に折られたのだ。
「分かってくれたならいいさ。……これで、ラージャの件からは手を引いてくれるな?」
「うん、約束する。あんな器の件なんて、もうどうでもよくなっちゃった」
ヴィオレは立ち上がり、ドレスの砂を払いながら俺に向かって無邪気に微笑んだ。
「キミの名前、リムルって言ったね。……ボク、キミのことすごく気に入っちゃったかも!」
「おいおい、手加減されたってあんなに怒ってたじゃないか」
「それはそれ、これはこれだよ! だってキミ、本当に強いんだもん」
未来では俺の配下として『ウルティマ』と名付けられることになる原初の悪魔。
その気まぐれで残酷、だがどこか憎めない彼女の根本的な部分は、この時代から変わっていないようだった。
俺は小さく苦笑しながら、その屈託のない笑顔を見返した。
「それにしても、キミって本当に不思議だね。ボクの結界をあっさり抜けてくるし、ボクの性格も知ってるみたいだったし。……ねえ、キミって一体何者なの?」
砂漠の空間が完全に元の純白の宮殿へと修復されていく中、ヴィオレは興味津々といった様子で俺の顔を覗き込んできた。
その瞳には、先ほどまでの殺意は微塵もなく、ただ純粋な好奇心だけがキラキラと輝いている。
俺は魔王としての落ち着きを保ったまま、小さく息を吐いた。
ラージャでの陰謀を止めるという目的はすでに達成した。
ここから先は、俺の個人的な……いや、テンペストの未来を見据えた上での『予定外の行動』になる。
「……信じられないかもしれないが、教えてやるよ。俺は『未来』から来たんだ」
「えっ……未来?」
ヴィオレが目を丸くして瞬きを繰り返す。
「時を超えるなんて、そんなの神話の中だけの話だと思ってたけど……」
「俺の力を見ただろ? お前ほどの悪魔なら、それが単なるハッタリじゃないことくらい分かるはずだ」
俺が淡々と告げると、ヴィオレは少し考えるように顎に手を当て、やがて納得したように深く頷いた。
「なるほどね! それならキミのあのデタラメな強さも、ボクのことをよく知っているような態度も全部辻褄が合うよ。……あははっ、傑作だね! 未来からわざわざボクの遊びの邪魔をしに来たってわけだ!」
楽しそうに笑う原初の悪魔。
俺はその屈託のない笑顔を見据えながら、静かに、そして真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「お前の遊びの邪魔をしたのは、ラージャの件だけじゃない。……俺が知る『本来の歴史』では、お前はもっと後になってから、俺の配下として加わることになるんだ」
「えっ……ボクが、キミの配下に?」
ヴィオレの動きがピタリと止まる。
悪魔にとって『誰かの下に付く』ということは、自身の存在意義に関わる重大な事象だ。
特にプライドの高い原初の悪魔が自ら誰かに仕えるなど、普通に考えればあり得ない。
だが、ヴィオレは不快感を示すどころか、頬を紅潮させて目を輝かせた。
「キミみたいな絶対的な強者の下で暴れ回る未来……うん、それはすっごく楽しそうだね! 想像しただけでワクワクしてきちゃった!」
「お前ならそう言うと思ったよ。……だから、予定よりもずっと早いが、一つ提案がある」
俺は静かに右手を差し出し、彼女の双眸を真っ直ぐに射抜いた。
「どうせこの後、お前は暇を持て余すことになる。だったら、今すぐ俺のところに来ないか?――俺と、この時代にいる俺の仲間になって、一緒に皆が笑える国作りをしようぜ」
本来の歴史を大きく前倒しにする、原初の悪魔への直接勧誘。
過去の俺の成長を妨げないように立ち回ってきた俺だが、この時代のテンペストの戦力不足や、いずれ来るであろう帝国との大戦を考えれば、ここで彼女を引き入れておくメリットは計り知れない。
何より、未来で散々世話を焼かされた手のかかる部下を、放っておく気にはなれなかったのだ。
ヴィオレは差し出された俺の手と、俺の顔を交互に見つめ、やがて悪戯っぽい、しかし確かな忠誠を予感させる笑みを浮かべた。
「……ふふっ。キミのその絶対的な自信と強さ、それに『皆が笑える国作り』なんていう甘い理想。……うん、本当にボクの好みだよ」
ヴィオレは恭しく一礼するような仕草を見せた後、俺の右手を両手でしっかりと握り返した。
「いいよ、乗ってあげる! 君の歴史でボクが仲間になったのはいつだったのかは知らないけど、面白そうなことには早く首を突っ込んだ方がお得だもんね! ――これからよろしくね、ボクの新しい主様!」
「主様って呼び方はどうにもむず痒いな。普通にリムルでいいよ」
俺が落ち着いた声で訂正すると、ヴィオレは小首を傾げて少し考え込んだ。
「えー? いくらなんでも新しい主に呼び捨てっていうのは味気ないよ。……そうだ! じゃあ『リムル様』って呼ぶことにするね!」
「……まあ、お前が呼びやすいなら好きにしてくれ」
結局は呼ばれ慣れた名称に落ち着いたか、と内心で小さく苦笑しつつ、俺は静かに頷いた。
こうして、本来ならばまだ先の未来で交わされるはずだった契約が、この瞬間、歴史の歪みの中でひっそりと、だが確かな事実として結ばれたのだ。