【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
空間が揺らぎ、俺とヴィオレは再び純白の大理石で造られた宮殿風の部屋へと帰還した。
「ヴィオレ様! ご無事でしたか……!」
「突然の空間断絶、我らも肝を冷やしましたぞ!」
俺たちが姿を現すなり、先ほど俺に斬りかかってきた初老の悪魔――将来『ヴェイロン』と名付けられることになる執事と、もう一人、端正な顔立ちをした従者のような悪魔(こちらは将来の『ゾンダ』だな)が血相を変えて駆け寄ってきた。
主の身を案じる彼らに対し、ヴィオレはあっけらかんとした笑顔で爆弾発言を投下した。
「あはは、心配かけて悪いね。でもね、ボク、今日からこの魔王リムル様の配下になることにしたから!」
「「…………は?」」
二柱の悪魔の動きが、文字通り完全にフリーズした。
「は、はい……? 今、なんと……?」
「だから、ボクはこの人の配下になったの! 決定事項だよ!」
「げ、原初の悪魔であらせられるヴィオレ様が、自ら誰かの軍門に降るなど……!? し、しかし、相手はあの絶対的な結界を破った得体の知れない魔王……ッ!」
パニックに陥りかける二人を余所に、俺はヴィオレに告げた。
「さて、契約も済んだところで、ヴィオレ。お前に伝えておくべき重要事項が三つある」
俺が指を立てると、ヴィオレも興味深そうに耳を傾けた。
「一つ目だ。受肉するための『依り代』だが、あらかじめ未来からいくつか予備を持ってきたものがある。それを今ここで、俺がお前用に調整してやる。ただ、名付けに関しては、俺の国(テンペスト)に帰還した後、この時代の『過去の俺』に行わせるつもりだ。」
ここで俺は一旦言葉を区切り、そしてゆっくりと次の言葉を続けた。
「……だが、さすがにお前の配下である数百名の悪魔たち全員分の依り代までは持ち合わせていない。だから、まずはヴィオレ、お前一人だけでテンペストに来てもらうことになる」
「ふぅん、なるほどね。ボク一人で先に行くのは構わないけど……未来から持ってきた依り代って、そんなに簡単にボクの力に耐えられるものなの?」
「俺の力を甘く見るなよ。ただの器じゃない、お前が窮屈に感じないように、特製のやつをその場で完璧に調整してやるさ」
俺は余裕の笑みで返し、二つ目の指を立てた。
「二つ目。……実は、お前たちと同じ原初の『黒(ノワール)』は、すでに『ディアブロ』として俺たちの配下に入っている」
「――はぁっ!?」
ヴィオレが素っ頓狂な声を上げ、背後の二人の悪魔は今度こそ魂が抜けたような顔になった。
「あ、あの変人ノワールが!? 誰かの下につくなんてあり得ないあのノワールが、リムル様の配下に!? うそでしょ!?」
「本当だ。今もテンペストで俺の秘書……みたいなことをやってる。だから、お前が国に来ればあいつと顔を合わせることになるぞ」
「うわぁ……それは色々と……厄介なことになりそうだね」
ヴィオレが引き攣ったような笑みを浮かべるのを見届け、俺は最後の指を立てた。
「そして三つ目だ。……未来の歴史通りに進めば、今後、原初の『白(ブラン)』と『黄(ジョーヌ)』も俺の配下となる」
「………………え?」
今度はヴィオレまでもが完全に絶句した。
原初の悪魔が三柱、いや、ノワールを含めれば四柱。
それが一人の魔王の下に集う。
悪魔の常識からすれば、天変地異すら生ぬるいほどのあり得ない異常事態だ。
「白(ブラン)と黄(ジョーヌ)まで……? リムル様、正気なの? それ、世界が終わるレベルの戦力なんだけど……」
呆然と呟くヴィオレに対し、俺は当時のことを思い出しつつ、苦笑交じりに振り返った。
「実を言うとな、本来の歴史での俺は、原初がどれほどヤバい存在かなんてよく知らなかったんだよな。ディアブロが『有能な者たちを連れてきました』って言うから、軽い気持ちでお前たち三人をまとめて配下に加えちゃったんだよ」
「ちょっと待って、そんな理由でボクたちを受肉させたの!?」
ヴィオレが目を丸くして抗議の声を上げるが、俺は静かに微笑み、彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
「ああ。でもな、お前たち三人は俺の配下として本当に素晴らしい働きをしてくれた。皆が笑える国作りには、お前たちの力がどうしても必要なんだ。だから……少し前倒しにはなったが、これからの活躍にも大いに期待してるよ、ヴィオレ」
俺の底抜けに呑気な、それでいて絶対的な信頼を感じさせる言葉に、ヴィオレは一瞬ハッとした後、どこか嬉しそうに口角を上げた。
「……あははっ! 本当に底知れないね、リムル様は! いいよ、そこまで言うなら、ボクもキミのその国作りってやつを特等席で楽しませてもらうよ!」
「よし、話はまとまったな。それじゃあ、早速これを使ってくれ」
俺は『空間収納』に保管していた特別製のホムンクルスを静かに取り出した。
魔国連邦(テンペスト)の最高技術と、シエルの完璧な演算によってあらかじめ調整が施された、正真正銘の一級品の依り代である。
「わぁ……これがボクの新しい体?」
ヴィオレは目を輝かせてその器に触れると、すっと自身の精神体を滑り込ませた。
通常、原初クラスの悪魔が受肉するには多大な時間と魔力の馴染みが必要になる。だが、彼女の魔素波長に合わせて完璧な調整が済んでいるこの依り代への定着は、ほんの数秒、瞬きする間しかかからなかった。
「すごい……! 全然窮屈じゃないし、ボクの力が指先まで完璧に馴染んでるよ!」
受肉を果たしたヴィオレが、新しい自らの手を握ったり開いたりしながら歓喜の声を上げる。
その奇跡のような光景を目の当たりにした配下の二柱は、感極まったようにその場に平伏し、激しく打ち震えていた。
「おおお……! ヴィオレ様が、これほど完全な形で現世の肉体を得られるとは……!」
「なんという神がかった御業……。魔王リムル様、貴方様は真の深淵たる御方だ……ッ!」
感動のあまり涙すら流しかねない二柱へ、俺は魔王としての威厳を保ちつつ告げた。
「お前たちにも、いずれ必ず俺の下で存分に役立ってもらう時が来る。その時まで、しっかりと力を蓄えておけよ」
「「ハハッ! 我らの身と魂、すでに貴方様とヴィオレ様の下に!」」
彼らが深く頭を垂れると、ヴィオレも満足そうに頷いた。
「そういうことだから。ボクがこっちで楽しんでいる間、キミたちは大人しくお留守番しててよね」
こうして、俺たちは歴史を大きく先取りする形で、未来の『ウルティマ』をテンペストへと迎え入れることになった。
ラージャの危機を救うための行動が、結果的にテンペストの未来をさらに盤石なものにするとはな。
過去の俺を少し驚かせてしまうかもしれないが、頼もしい仲間が増える分には文句はないだろう。
そう思いつつ、俺はヴィオレを伴ってトワの寝室へ空間転移で帰還した。
*
空間が歪み、俺とヴィオレが部屋の中央に姿を現した。
その瞬間、トワたちの護衛として鋭く警戒に当たっていたベニマルとシオンが、いち早くこちらの転移の気配に気がついた。
「リムル様! ご無事なようで何よりです!」
「お帰りをお待ちしてました!」
二人の明るい声に続いて、キエンやヒイロ、そしてモブジたち他の者も俺の無事の帰還に気がつき、張り詰めていた空気を緩めてホッと安堵の表情を浮かべる。
だが、直後に彼らの視線は、俺の背後に立つ小柄な少女へと向けられた。
ヴィオレ自身は妖気を抑えているつもりだろうが、それでも隠しきれない『原初の悪魔』としての絶対的な気配は、ただの悪魔とは次元が違う。
ヒイロやモブジたちがその異様なプレッシャーに当てられて息を呑む中、ベニマルは武器を構えることはせず、少しだけ引き攣ったような、それでいてどこか「やっぱりか」と納得したような顔で口を開いた。
「……リムル様。無事にお戻りになられた直後に恐縮ですが、後ろにおられる方はもしや……?」
「ああ。こいつは今回のトワの呪い騒動の裏で暗躍していた悪魔の、さらにその上の上司だ。……もっと分かりやすく言えば、『原初の紫(ヴィオレ)』だな」
俺の言葉に被せるように、ヴィオレはローブの裾を軽く摘み、優雅かつ無邪気な笑顔で室内の面々に挨拶をした。
「初めまして! リムル様の新しい配下になったヴィオレだよ! リムル様の仲間みたいだし、これからよろしくね!」
「「「……げ、原初ォォォッ!? し、しかも配下ぁ!?」」」
ヒイロ、モブジ、そして大臣の悲鳴が見事にハモり、部屋中に響き渡った。
歴戦の勇士であるはずのキエンでさえ、信じられないものを見るように目を見開いて絶句している。
無理もない。神話の世界の住人である原初の悪魔がポツンと自国の女王の寝室に現れただけでも異常事態なのに、あろうことか『リムル様の配下になった』などと爆弾発言を投下したのだから。
彼らの思考は完全に停止し、目を丸くして俺とヴィオレの顔を何度も往復して見ている。
だが、そんなラージャ組のパニックを余所に、ベニマルとシオンの二人は驚くどころか、深く納得したように頷き合っていた。
「やはり……。原初に直接会いに行くとおっしゃられた時点で予感はしていましたが、まさか本当に勧誘して帰ってくるとは…」
「さすがはリムル様です! 交渉相手をそのまま引き抜いてこられるとは、実に素晴らしい手腕にございます!」
苦笑いをするベニマルと、自分のことのように胸を張るシオン。
どうやらこの二人、俺がヴィオレを仲間にして帰ってくることを半ば予想していたらしい。
うちの幹部たちの俺に対する信頼というか、俺の行動への耐性が高まりすぎていて、少し申し訳なくなるな。
そんなテンペスト組の和やかな(?)空気に、ラージャの面々はますます呆然としている。
「あー……色々と説明を省いたが、そういうことだ。俺が直接話をつけて、丸ごとテンペストに引き抜くことにした。だからもう、こいつらがラージャ小亜国に危害を加えることは一切ない」
俺が堂々と宣言すると、ヴィオレも「うんうん」と機嫌よく頷いた。
「行商人に化けてコソコソやってたラキュアって部下には、さっき念話で計画は中止って命令しておいたよ。……命令無視して暴走した罰として、帰ってきたらたっぷりと可愛がってあげるつもりだから安心してね」
そこまで言って、ヴィオレは不意にベットの傍に倒れているチクアンに視線を移した。
「……ていうか、いつまでそこで寝てるわけ?」
コツン、とヴィオレがハイヒールの爪先で気絶しているチクアンの体を容赦なく蹴り飛ばす。
「起きなよ。キミもボクの配下の分際で、リムル様の前で無様な姿を晒さないでよね」
「――ッ!!? はいィッ!!」
俺のスキルで完全に意識を刈り取られていたはずのチクアンだったが、直属の絶対的な主である『原初』の気配と言葉に魂そのものが震え上がったのだろう。
弾かれたように飛び起き、そのまま床に額を擦りつけるほどの勢いで平伏した。
その拍子に彼が纏っていた耳長族(エルフ)の偽装が解け、本来の禍々しい悪魔としての姿と気配が室内に漏れ出す。
「チ、チクアン殿が……悪魔だった、だと……!?」
大臣たちが再び驚愕の声を上げる中、状況が全く呑み込めていないチクアンはガタガタと激しく震えながら悲鳴を上げた。
「ひっ……ヴィ、ヴィオレ様!? なぜ貴女様がこのような場所に……ッ!?」
ヴィオレは呆れたように肩をすくめた。
「……全く、ボクの名前を使って勝手な真似をしてくれた罰、キミにもたっぷりと味わわせてあげるから覚悟しなよ?」
「ひぃぃぃぃッ! お、お許しをォ……!!」
ヴィオレに凄まれ、悪魔は土下座の姿勢のまま床に水たまりを作りかねない勢いで震え上がった。
ともあれ、これで裏で糸を引いていた者たちも完全に制圧し、ラージャ小亜国を巡る陰謀は完全に瓦解した。
原因不明の毒に侵されていた湖も、ラキュアたちが撤退したことで徐々に浄化されていくだろう。
「……ま、魔王様。それでは、本当に……このラージャは救われたと……?」
「ああ。呪いのティアラは無効化したし、黒幕もヴィオレが引き上げさせた。トワ王女の体調さえ戻れば、もうこの国を脅かす憂いは何もない」
「リムル様……。何から何まで、本当に……御恩は一生忘れません……ッ!」
トワは目に涙を浮かべ、ヒイロと共に深く頭を下げた。
「礼には及ばない。ヒイロの恩人は、俺たちにとっても恩人だからな」
俺は穏やかに微笑み返し、トワとヒイロを見守るように頷いた。
すると、モブジと大臣が顔を見合わせ、やがてトワが少し血色の戻った顔で、恐縮しつつも強い意志を込めて口を開いた。
「リムル様……。この国と私の命を救っていただいた御恩は、言葉だけでは到底返しきれません。せめてものお礼として、今宵は王宮にてささやかながら晩餐を振る舞わせていただけないでしょうか?」
「おお、晩餐か。そりゃあいいな」
俺は迷うことなく快諾した。
美味い飯と宴の誘いを断る理由はない。
それに、ここ数日ずっと緊張の糸が張り詰めていたヒイロやモブジたちにも、心からの息抜きの時間が必要だろう。
「トワ王女の体調回復と、ラージャの危機が去った祝いだ。遠慮なくご馳走になろう」
「もったいないお言葉……! 料理長に命じて、我が国が誇る最高の品々をご用意させますぞ!」
俺の快諾に、モブジと大臣がパッと顔を輝かせる。
「あははっ! 宴会だね! ボクもリムル様の隣で一緒に楽しんじゃおっと!」
ヴィオレが無邪気に両手を挙げて喜ぶ傍らで、ベニマルやシオン、キエンたちも安堵の笑みを浮かべていた。
チクアンだけはヴィオレの足元で相変わらずガタガタと震え続けているが、まあ放っておこう。
「さて、目的は無事に達成したことだし……過去の俺にヴィオレを紹介するという最大級の厄介事は、明日にでも後回しだ」
俺は少しばかり胃が痛む……スライムだから胃はないが……そんな予感を頭の片隅へと追いやりつつ、今宵の宴へと意識を向けた。
こうして俺たちは、テンペストへと帰還する前のひとときを、ラージャ小亜国の王宮で開かれる祝宴の席で和やかに過ごすことになるのだった。
*
王宮の大広間は、数時間前の重苦しい雰囲気からは想像もつかないほど、華やかな祝宴の空気に満たされていた。
並べられたのは、ラージャ小亜国の名産をふんだんに使った山海の珍味と、最高級の果実酒。
ヒイロはトワの回復を心から喜び、仲間たちと杯を重ねていた。
モブジや大臣たちも、魔王リムルという強大な庇護者を得た安心感から、かつてないほど陽気になっている。
そんな賑やかな宴の最中、俺の隣の席ではちょっとした火花が散っていた。
「ねえねえ、リムル様! このお肉すっごく美味しいよ! ほら、ボクがあーんしてあげる!」
「なっ……!? 新入りの分際でリムル様に馴れ馴れしいですよ! リムル様の隣でお世話をするのは、第一秘書であるこの私の特権です!」
やたらと俺に懐いてぴったりと身を寄せてくるヴィオレに対し、シオンが対抗意識をメラメラと燃やして立ちはだかる。
だが、ヴィオレは全く動じることなく、悪戯っぽく笑いながら言葉を返した。
「えー? でもさ、ボクが聞いた限りだと、テンペストには『未来のリムル様』と『この時代のリムル様』の二人がいることになるんでしょ?」
「むっ……ま、まあ、そうですが……」
「だったら簡単な話じゃない。キミは『この時代のリムル様』の秘書をこれまで通りしっかり務めればいいのさ。そして、ボクは『未来のリムル様』の身の回りのお手伝いを専属でする。ほら、これで完璧に役割分担できてるでしょ?」
「な、なんですって……!? そ、それは……ぐぬぬぬぬ……ッ!」
痛いところを突かれたシオンは、見事な正論(?)に言い返すことができず、悔しそうに唸り声を上げている。
悪魔らしい狡猾な理屈攻めだ。
(……ちょっと張り切りすぎて、ウルティマに好かれすぎちゃったかもしれないな)
俺が内心で少しだけ冷や汗を流していると、すかさず脳内に冷ややかな声が響いた。
《……あれほど圧倒的な力で屈服させれば、力こそが絶対である原初の悪魔が心酔するのは当然の帰結です。全くもって自業自得かと》
(うっ……返す言葉もございません)
シエル先生からの的確なツッコミに小さく反省しつつ、俺はこの国の料理の味を堪能していた。
シオンが勝手に料理に手を加えず、料理長の腕を信じて静かにしているのが、この宴が平和である何よりの証拠だろう。
そんな賑やかな宴の中、ふとトワが隣に座る原初の悪魔へと視線を向けた。
彼女の銀髪が柔らかなキャンドルの光に揺れる。
「……あの、ヴィオレ様」
「ん? なあに、トワ?」
ヴィオレは給仕されていたワインを優雅に口に運び、小首を傾げる。
トワは少しの迷いを見せつつも、代々の女王に伝えられてきた伝承の記憶を口にした。
「我が国の伝承に……初代女王が、かつて『女神』と出会ったという記録があります。女神が初代女王にティアラを授けたのだと。……あれは、貴女様だったのでしょうか?」
その問いに、広間の空気が一瞬だけピタリと静止した。
ヒイロや大臣たちが、呼吸を忘れたかのようにヴィオレを見つめる。
ヴィオレは気まずそうな様子など微塵も見せず、悪戯っぽく肩をすくめた。
「ああ、ボクだよ。随分と懐かしい話だね。初代女王はボクとゲームをしていたのさ。ボクはティアラを通じて君たちの願いを叶えてあげていたし、力も貸してあげた」
ヴィオレは手にしていたグラスを軽く揺らし、揺らめく赤いワインを面白そうに見つめながら言葉を継いだ。
「……ただ、条件があったんだ。君たちの家系が何世代もその呪いに耐えきって、最終的にボクの受肉の器として完全に定着したら『ボクの勝ち』。逆に、君たちがその呪いに屈することなく、国を繁栄させて呪いの根源を断ち切ったら『君たちの勝ち』。どう? 実際に願いも叶えていたんだから、フェアなゲームだったでしょ?」
広間には、言葉を失った沈黙が広がった。
「ゲーム……?」
ヒイロが震える声で呟く。
彼らにとって、何世代にもわたって繰り返されてきた女王の苦しみ。
死にゆく女王の姿を看取り、国を救うために必死に祈り続けたその歳月。
それが、原初の悪魔にとっては暇つぶしの「ゲーム」に過ぎなかったという事実。
モブジの表情からは笑顔が消え、大臣は杯を握りしめたまま、その手から力が抜けている。
トワの瞳が大きく揺れ、初代女王から続く自分たちの宿命の軽さに、言葉を失ってうなだれた。
悪魔らしい、残酷なまでの無邪気さ。
彼女に悪意などないのだ。
ただ人間とは生きる時間の長さも、価値観も違いすぎる。
だからこそ、その残酷さが彼らの心を深く抉っていた。
俺は静かに箸を置き、グラスを掲げて、あえて明るい声でその沈黙を切り裂いた。
「……まあ、そのゲームは俺が介入したことで『俺の勝ち』ってことで終了だな」
俺の言葉に、ヴィオレが「あはは、そうだね」と楽しそうに笑う。
ヒイロたちの表情にはまだ複雑な色が残っていたが、俺という魔王の介入によって、その「ゲーム」の呪縛から解放されたことだけは、彼らにも理解できたはずだった。
ふと、ヴィオレが少しだけ肩をすくめ、トワに向かって口を開いた。
「でもまあ、今回はボクの配下が勝手な行動をとっていたからね。だから、お詫びに何か一つだけ願いを叶えてあげようか? ボクはこう見えても気前がいいんだ」
原初の悪魔からの思わぬ言葉に、ラージャ勢が驚いて目を瞬かせる。
悪魔の甘い誘惑。
普通なら警戒すべきところだが、トワは国を背負う女王としての責任感から、真剣な表情でヒイロやモブジと顔を見合わせた。
やがて、彼女は静かに口を開く。
「……それならば。我がラージャ小亜国は現在、深刻な経済的苦境に立たされています。湖の水質は改善されたとはいえ、国を立て直すための産業が乏しく、民の生活は貧しいままです。どうか、この国を豊かにするお力添えを……」
トワが切実な思いを口にしたその時。
俺は落ち着いた声で口を挟んだ。
「その悩みならば、ヴィオレに頼らなくても、俺のほうで解決できるぞ」
「え……? リムル様、それはどういう……」
トワが不思議そうに首を傾げる。
俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、卓上に広げた。
そして、指先から微弱な魔素を出してササッとラージャ周辺の地図を描き込む。
「俺が辿ってきた『本来の歴史』でも、お前たちのその苦境は俺たちが解決した事実があるからな。……ここだ。王都から西へ向かった山脈の地中深く。そこに、手つかずの良質な鉄鉱石の鉱脈が眠っている」
「て、鉄鉱石の鉱脈……!? そ、そんなものが我が国に……!」
「ああ。俺の知る歴史でも、テンペストは技術者を派遣して採掘を支援し、その鉄鉱石を買い取らせてもらった。加工して輸出するには最高の素材でね」
俺はそこまで言うと、ペンを手に取り、羊皮紙の端にスラスラと数字を書き込んでモブジの方へ差し出した。
「だが、当初の想定を遥かに上回る莫大な利益が出たもんでな。申し訳なくなって、後から買取価格を大幅に引き上げたんだ。……だから今回は、最初からこの『適正価格』で取引させてもらいたい」
「なっ……!?」
羊皮紙に書かれた金額を見た瞬間、モブジは両目を見開き、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
隣で覗き込んだ大臣たちも、あからさまに息を呑んで硬直している。
「こ、これは……!? いくらなんでも相場を遥かに超える、破格などという次元ではない金額……ッ!? こんな大金、我が国が頂いてしまってもよいのですか!?」
震える声で尋ねるモブジに対し、俺は魔王としての余裕を一切崩さず、穏やかに微笑み返した。
「ああ。俺たちにとってもそれだけの価値があるんだ。これなら、間違いなくラージャの新たな基幹産業として国を豊かにできるだろ?」
俺の提案に、広間は先ほどの重苦しい沈黙とは全く違う、歓喜と興奮のざわめきに包まれた。
「リムル様……! 命を救っていただいただけでなく、我が国の未来までも照らしてくださるとは……ッ!」
「トワ様! これで、これでラージャは真に救われますぞ……!」
ヒイロは感極まったように拳を握り締め、モブジたちに至ってはついに涙を流して喜び合い始めた。
「あーあ、せっかくボクが願いを叶えてあげようと思ったのに。主様(リムル様)にいいとこ全部持っていかれちゃったな」
ヴィオレが頬を膨らませてわざとらしく文句を言うが、その顔はどこか楽しげだった。
「お前の力は、これから俺の下で存分に発揮してもらえばいいさ。……さあ、これで本当に憂いなしだ。今日はとことん飲んで食おうぜ!」
俺が改めて杯を掲げると、広間には今度こそ心からの明るい笑い声と歓声が響き渡った。
ラージャ小亜国を覆っていた暗い影は完全に払拭され、俺たちは最高の気分で祝宴の夜を満喫するのだった。
*
一方その頃。
ラージャ小亜国の王都から遠く離れた、隣国へと続く薄暗い街道の片隅。
鬱蒼とした森に囲まれた野営地で、行商人に化けた一人の男が、焚き火の前でガタガタと激しく震えていた。
呪いのティアラを使った陰謀の糸を引いていた悪魔――ラキュアである。
「ひっ、ひぃぃ……ッ!」
彼の額からは滝のような脂汗が流れ落ち、焚き火の熱など全く感じられないほどに全身が芯から冷え切っていた。
少し前に、彼の脳内に直接響き渡った、絶対的な主である『原初の紫(ヴィオレ)』からの冷酷な念話。
『キミ、本当につまらないマネをしてくれてたみたいだね。――帰ってきたら、たっぷりと可愛がってあげるから』
その言葉が意味する底知れぬ絶望に、ラキュアは両手で頭を抱え、泥にまみれるのも構わずに地面へ蹲った。
主の命令を曲解し、自らの功績を焦って仕組んだ計画。
それが何らかの理由で完全に破綻し、あろうことかヴィオレ本人の逆鱗に触れてしまったのだ。
あの気まぐれで残酷な主が、自らの名を騙って勝手に暴走した末端の悪魔を、ただの説教で許すはずがない。
「お、おわりだ……! ヴィオレ様に『可愛がられる』……ッ!? そ、そんなの、魂を何百回、何千回と引き裂かれては再生されるような、永遠の拷問に決まっているッ!!」
逃げ出したい。
今すぐこの世界から消え去ってしまいたい。
しかし、相手は『原初』だ。
この世界のどこへ逃げ隠れようと、見つかればその場で魂すら残さず消滅させられるか、それ以上の果てしない苦痛が待っている。
戻れば地獄、逃げてもさらに惨たらしい地獄。
「あ、あああ……どうすれば、私はどうすれば……ッ!」
その時だった。
魂の深淵に直接滑り込んでくるような、実体のない不気味な声が森の中に響いた。
いや、それは単一の声ではない。
男、女、そして少年の声が、全く異なる言葉を紡ぎながらも『完全に同時』に鼓膜を、そして脳髄を揺らしたのだ。
『やっとここまで干渉できるようになったか』
『ようやくこの世界に手が届いたわね』
『待ちくたびれちゃったよ、ほんとに』
「……ッ!? だ、誰だッ!?」
ラキュアは弾かれたように顔を上げ、周囲の暗闇を睨みつけた。
仮にも悪魔公(デーモンロード)である自分の感知能力に、微塵も引っかからない。
だが、焚き火の炎が不自然に揺らぎ、木々の影が異様な形に歪み始めている。
「どこに隠れている!? 姿を現せ!!」
虚勢を張るラキュアの叫びを嘲笑うかのように、三つの思考が再び同時に重なり合って降り注ぐ。
『……お前は実験に丁度いいな』
『この程度の器でも、試金石にはなるわ』
『壊れないといいけど、どうかな?』
「じ、実験だと……? ふざけるな! 私は原初の――」
言葉は最後まで続かなかった。
焚き火の光によって地に落ちていた彼自身の『影』が、突如として意思を持ったかのように蠢き、どす黒い虚影となってラキュアの身体へ一気に這い上がってきたのだ。
「な、なんだこれはッ!? 離れろ! 離れろぉッ!!」
物理的な実体がない虚影は、魔法障壁も悪魔の耐性も全てすり抜け、ラキュアの魔素と魂そのものを直接侵食し、飲み込んでいく。
抵抗すら許されない圧倒的な異物感。
その悍ましい虚影の中心から、三つの歪な歓喜が同時に響き渡る。
『さあ、俺と一つになれ』
『さあ、私と一つになりましょう』
『さあ、僕と一つになろうよ』
「や、やめろ……! 助けて、ヴィオレ様ァァッ! やめろォォォォォォォォォォッ!!」
漆黒の虚影がラキュアの全身を完全に包み込み、夜の森に響き渡った絶望の悲鳴は、やがて泥濘に沈むようにブツリと途絶えた。
焚き火の炎がフッと消え去り、後には底知れぬ静寂と、深淵の闇だけが残された――。