【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
序章 無血の蹂躙
獣王国ユーラザニア。
その美しい市街地から遠く離れた広大な荒野に、今、無数の魔物がひしめき合っていた。
本来の歴史であれば──獣王国の首都は、この時点ではもう地図の上には存在していなかったはずだ。
魔王ミリムの、たった一撃。
それだけで都は塵へと変わる運命にあった。
だが、未来からの介入が、その結末を書き換えた。
ユーラザニアは無傷のまま、今もその雄大な威容を大地に留めている。
その平穏な市街を戦火に触れさせぬため。
テンペスト軍総大将ベニマルは、クレイマン軍が領内へ深く踏み込むより遥か手前──この荒野にて、苛烈な『強襲捕縛作戦』を決行していた。
『──報告します! 右翼、ゲルド殿率いる猪人族(ハイ・オーク)部隊、敵中衛の武装解除および捕縛を完了!』
『左翼、ガビル殿の飛竜衆も敵後方部隊を制圧! 上空からの麻痺毒散布と捕縛網、いずれも予定通りに機能しております!』
平原を一望する小高い丘の本陣に、『思念伝達』の報告が次々と流れ込んでくる。
各戦況をリアルタイムに束ねながら、ベニマルはただ静かに頷いた。
「よし、順調だな」
余裕すら滲む口調で、彼は独りごちる。
「リムル様の『死者は一人も出すな、全員を生かして捕らえろ』という無茶振り……最初に聞いた時は、さすがに頭を抱えたが」
魔物同士の戦において、手加減して生け捕るというのは至難の業だ。
殺すより、殺さない方がずっと難しい。
それが戦場の常識である。
だが、と。
ベニマルは口の端を吊り上げる。
クレイマン軍の行軍ルート。部隊の構成。装備。果ては、各指揮官の性格や癖に至るまで。
その一切を、未来のリムルは事前に教えてくれていた。
ゆえに、これはもはや戦争ではない。
盤面も、手順も、結末さえも決まりきった──ただの大規模な『狩り』に過ぎなかった。
平原のあちこちで、ゲルド麾下の黄色軍団(イエローナンバーズ)が『土操作』で敵兵の足を封じ、次々と縛り上げていく。
空を逃れようとする者は、ガビルの飛竜衆が的確に絡め取る。
そしてベニマル直属の紅炎衆(クレナイ)は、殺傷を避けた最小限の攻撃で敵の武具だけを弾き飛ばし、鋭い散兵戦術で敵陣を分断しては、逃げ場を失った兵を的確に無力化していった。
開戦から幾許もせず、クレイマン軍の主力は、その大半が無傷のまま機能を停止していた。
──ただ一点。
戦場の中央だけが、未だに土煙を巻き上げて荒れていた。
敵の現地司令官。
クレイマン配下、五本指筆頭の『中指』のヤムザが率いる、本陣周辺である。
*
「全隊、油断するなっす! リムル様からの至上命題、きっちり果たすっすよ!」
その乱戦のど真ん中で、一際よく通る声を張り上げる者がいた。
ゴブタと、彼が率いるゴブリンライダーズだ。
星狼族(スターウルフ)の高速の機動力を活かし、ヤムザ直属の精鋭を相手取って、彼らは『倒さないギリギリ』の攪乱戦を繰り広げている。
異世界人の襲撃──あの一件以来、ゴブタは変わっていた。
「リムル様を守るには、オイラ自身がもっと強くならなきゃダメっす」
そう痛感してからというもの、彼はハクロウの地獄の修行から一度も逃げなかった。
加えて、あの戦いで『災厄の核塊(カラミティ・コア)』を纏った刹那に味わった、疑似的な『思考加速』の感覚。
それを身体の芯に刻み込んだ彼は、猛特訓の末、ついに自力での『思考加速』の獲得までやってのけたのだ。
ハクロウ直伝の剣理。
極限まで研ぎ澄まされた思考の速度。
そして星狼族の機動力。
三つが噛み合った時、ゴブタの動きは神業の域へと踏み込む。
急所を的確に外し、武器だけを弾き飛ばす。
殺さず、されど確実に無力化する。
その繊細極まる暴力の前に、ヤムザ自慢の精鋭たちは為す術なく、次々と戦意を手放して地に伏していった。
そして、その乱戦の中心。
ゴブタたちが築いた包囲の只中で、司令官ヤムザは怒りと屈辱に顔を歪めていた。
「な、なんだこれは……ッ! 貴様ら、なぜ殺さん!? なぜ、この俺を──魔王クレイマン様の軍勢を前に、こうも舐めた真似ができる!!」
氷結魔剣(アイスブレード)を構え、血走った眼で吠えるヤムザ。
その視線の先。
獣王国を束ねる三獣士の筆頭、『黄蛇角』のアルビスが、圧倒的な覇気を纏って静かに佇んでいた。
彼女はもう、何一つ出し惜しみをしていない。
頭部には、黄金に輝く一本の角。
その下半身は、巨大な蛇へと変じている。
普段の柔和な面影は綺麗に消え失せ、冷徹な捕食者としての本性を、余さず解き放った姿だ。
全身から迸る紫電が、平原の大気をびりびりと震わせていた。
「この姿だと、手加減が利きませんの」
ヤムザから視線を外さぬまま、アルビスは静かに告げる。
だが、その声には有無を言わせぬ絶対の圧があった。
「──ゴブタ殿。部下を連れて、お下がりなさい」
その一言に、ゴブタは即座に判断を下した。
「みんな、巻き込まれる前に一旦退避っす!」
部下たちを安全圏へ逃がす。
だが、当のゴブタ自身は、その場から一歩も退かなかった。
「アルビスさん。オイラは援護に残るっす!」
ハクロウの教え。
そして、リムルの盾となるという覚悟。
その二つが、彼を退かせなかったのだ。
その姿を横目に捉え、アルビスは内心で微かに目を見張る。
(……ほう。本気を解放したこの私を前にして、なお一歩も引かず、主の盾たる矜持を貫きますか)
ただのお調子者だと、そう侮っていた。
だが──違う。
(見事な武の心と、忠義を宿した戦士ですわね)
黄金の瞳の奥に、微かな称賛の色が灯る。
「……ええ。心強いですわ、ゴブタ殿」
そう零してから、アルビスはヤムザへと冷徹な眼差しを戻した。
「さて。ヤムザ、とやら」
その声が、一段と低く沈む。
「大人しく剣を捨て、降伏なさい。今ならば、まだ慈悲を与えて差し上げますわ」
「慈悲、だと……? ふざけるなッ! クレイマン様の威光も知らぬ、下等な獣どもがァ!!」
激高したヤムザが、周囲の空気ごと凍てつかせながら、氷結魔剣を振りかぶった。
だが。
本気を解いたアルビスにとって、その剣速は──止まって見えるも同然だ。
「その程度の冷気で、私を貫けるとでも?」
冷ややかに言い放つや、彼女は蛇の尾を鞭のごとくしならせ、ヤムザの一撃をいとも容易く弾き返した。
ヤムザの冷気と、アルビスの紫電が、戦場に荒れ狂う。
凍てつく刃と、灼ける雷。
その相反する暴威が交錯する、死の領域。
──その隙間を、ゴブタは縫って走っていた。
『思考加速』が、世界の速度を引き延ばす。
迸る雷の一筋一筋が、はっきりと見える。
凍てつく冷気の膜の、その薄い一枚まで見切れる。
ゴブタは『影移動』を織り交ぜ、致命の狭間を潜り抜けて、ヤムザの懐へと肉薄していく。
(ええい、目障りなゴブリンめ……ッ! ならば──ッ)
ヤムザの瞳に、狡猾な光が宿った。
彼は長袖の奥に忍ばせたマジックアイテム──『鏡身の腕輪(ドッペルゲンガー)』へ、密かに魔力を流し込む。
直後、その姿が僅かに揺らいだ。
土煙が舞う乱戦の死角を利して、彼と寸分違わぬ容姿、寸分違わぬ魔力波形を持つ『分身』が、音もなく生み出される。
「死ねぇッ! 獣の分際でぇぇッ!!」
分身のヤムザが、猛然とアルビスへ特攻していく。
そして本体は、その隙に息を殺し、乱戦の死角を伝ってアルビスの背後へと回り込んだ。
容姿も、魔力の波形も、寸分違わぬ二つのヤムザ。
『鏡身の腕輪』を知らぬ者ならば、まず間違いなく本体を見失う。
(フン……愚かな獣どもめ。これで、終わりだ──ッ!)
完璧な奇襲への布石。
背後から、必殺の刃を振り下ろそうとした。
まさに、その刹那。
「甘いっすよ」
「なッ──ぁ!?」
死角に回り込んだはずのヤムザの、さらにその背後。
伸びた影の中から、ゴブタが音もなく飛び出した。
戦場の全てを俯瞰していた彼の眼は、ヤムザの不自然な魔力の揺らぎと、本体が滑り込んだ軌跡を、加速した思考の中で完全に見切っていたのだ。
どちらが偽物か、などと迷いはしない。
魔力が『二つに割れた』その瞬間を、ゴブタはただ視ていた。
放たれた鋭い回し蹴りが、ヤムザの延髄へ吸い込まれる。
「がはッ……!?」
脳を揺さぶられ、無様に地を転がるヤムザ。
同じ刻、正面から突撃した分身は、アルビスの巨大な尾に容易く絡め取られ、ミシ、と嫌な音を立てて砕け散った。
「……随分と小賢しい真似を。ですが、ゴブタ殿の目は、誤魔化せなかったようですわね」
驚愕に目を見開くヤムザを、アルビスとゴブタが静かに見下ろす。
パニックに陥った彼が、なおも逃走を図って踵を返した──その瞬間。
「逃がすわけがないでしょう。大人しく、縛につきなさい──」
ヤムザの視界が、いつの間にか回り込んでいたアルビスの輝く黄金の双眸と、真っ向から交差した。
エクストラスキル『天蛇眼(ヘビノメ)』
アルビスの瞳の奥で、呪わしい光が明滅する。
次の刹那、ヤムザの全身を凄まじい悪寒が駆け抜けた。
「あ、が……ッ!?」
目に見えぬ巨大な毒蛇に全身を絡め取られ、骨の髄まで猛毒を注ぎ込まれたかのような感覚。
ヤムザの身体は瞬時に硬直し、指一本動かせなくなる。
握りしめていた氷の魔剣が、力なく手を滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てた。
状態異常──『全身麻痺』。
邪眼の権能により神経伝達を断たれたヤムザは、その場へ崩れ落ちた。
「……これで、終わりです」
黄金の角を輝かせたまま、アルビスは冷徹に、しかしどこか憐れむような響きで告げる。
「あなたの部下も、既に我が軍が捕縛を終えました。これ以上の抵抗は無意味。大人しく投降なさい。……大恩あるリムル様は、無用な殺生を望まれません。降伏さえ受け入れれば、命までは奪わないと約束いたしますわ」
屈辱と恐怖に顔を歪めるヤムザ。
だが自身の命に代える事はできないと降伏を申し出ようとした。
──しかし。
その時だった。
(な、なんだ……ッ!? 腕が勝手に…!?)
動かないはずのヤムザの右腕が。
唐突に、まるで見えぬ糸に吊られた操り人形のごとく、ビクリと跳ねた。
その異様な光景に、アルビスの表情が険しく強張る。
「一体、何が起きて……。私の『天蛇眼』受けて自力で動けるわけが──」
困惑する二人の眼前で。
ヤムザ自身の意志を完全に無視し、アルビスの強力な呪縛すらも強引に上書きして。
その腕は、彼の懐へと伸びていく。
そして、ヤムザ自身すら持ち込んだ覚えのない、禍々しい妖気を放つ、どす黒い『宝珠』を掴み出した。
(な…なんだこれは…。こんなものを持ってきた覚えは…)
その宝珠から溢れ出す絶望的な気配。
そして、己の肉体の制御を丸ごと外部に奪われているという事実。
それらが、ヤムザの心に決定的な恐怖を這い上がらせる。
「ま、まさか…。お、おやめ、ください……クレイマン、様……ッ!」
麻痺で強張った喉から、掠れた懇願が漏れた。
己もまた、使い捨ての『傀儡』の一つに過ぎなかった──。
その残酷な真実を悟った時には、もう、何もかもが手遅れだった。
ヤムザの右手が、本人の必死の抵抗を嘲笑うように、禍々しい宝珠を力強く握りしめる。
そのまま、己の口元へと強制的に運び──
飲み下そうとした、まさにその寸前。
「──おっと。そいつを喰われると、色々と面倒なんでな」
鼓膜を撫でる、余裕に満ちた声。
それと共に、紅蓮の旋風がアルビスの横をすり抜けた。
次の瞬間には、ヤムザの眼前に総大将ベニマルが立っている。
刀を抜きすらせず。
その硬い鞘の先で、彼はヤムザの右手を、正確に、そして強かに打ち据えた。
パァンッ、と乾いた音。
ヤムザの指の間から、宝珠が弾き飛ばされる。
どす黒いそれは弧を描いて宙を舞い、彼の口から遠く離れた地面へと、ゴロリと転がっていった。
突如として最前線に現れた紅蓮の総大将に、アルビスは黄金の瞳を丸くする。
「ベ、ベニマル殿!? 後方の本陣で指揮を執っておられるはずでは!?」
総大将が、自ら乱戦の只中へ飛び込む。
通常ならば、あり得ぬ事態だ。
いかに戦局が優位でも、万一があれば軍全体の士気に関わる。
だが、ベニマルは事もなげにニヤリと笑ってみせた。
「なに。リムル様からの命令を、こなしに来ただけだ」
彼は転がった宝珠を一瞥する。
「未来のリムル様から、事前に言われていたんでな。『ヤムザの野郎は、土壇場でクレイマンに操られて、ヤバい宝珠を飲まされる。そうなると、とびきり面倒なバケモノが生まれる。だから、絶対に喰わせる前に叩き落とせ』──とな」
「あの方がそのようなことを…」
「ああ。あの宝珠を取り出した瞬間、お前の麻痺が無理やり破られることも全て経験済だったそうだ。だからこそ俺は、この瞬間を逃さぬように行動していたというわけだ」
アルビスは、戦慄した。
クレイマンの卑劣な罠も。
ヤムザが隠し持っていた最後の切り札も。
その全てが、あの未来から来たスライムの掌の上だったのだ。
一方、地に這いつくばったヤムザは──。
主に見捨てられた絶望よりも。
自我を奪われ、得体の知れぬ化物へ成り果てる運命から救い出されたという、深い安堵に呑まれていた。
死を覚悟した男の顔から、狡猾な毒気がすっと抜け落ちる。
「……降伏、する。俺の、負けだ。捕虜にでも、何でもしてくれ……」
力なく、しかし明確に。
ヤムザは、ベニマルへ降伏の意を示した。
敵の総大将の心が、完全に折れた瞬間。
ユーラザニア平原の戦いは、事実上、テンペスト軍の完全勝利をもって幕を閉じた。
「やれやれ。手間をかけさせてくれる」
ベニマルは肩をすくめ、二人へ顎をしゃくった。
「アルビス殿、ゴブタ。こいつの身柄を拘束しろ」
「はっ。承知いたしましたわ」
「了解っす!」
*
勝利の安堵が、戦場の張り詰めた糸を、そっと緩めていく。
ベニマルたちが、ヤムザの捕縛へと意識を向けた──その、背後。
鞘に弾かれ、数メートル先の土埃に塗れて転がった、どす黒い宝珠。
主を失い、ただの石くれに成り下がったように見えた、それが。
ドクン、と。
醜悪な心臓が産声を上げるように、赤黒い光を、一度、明滅させた。
──否。
一度ではない。
ドクン、ドクン、ドクン。
三度。
まるで、性質の異なる三つの脈が、一つの器の中で重なり合ったかのように。
盤面の遥か外側から、その三つの気配が、確かに『こちら』を覗き込んでいた。
誰にも聞こえぬ声で、面白がるように。
「…この箱庭にもだいぶ影響を与えられるようになってきたな」
「…ええ、これで『私』にもっと近づけるわ」
「…早くまた『僕』に会いたいな」
泥のように濁った高次元の狭間で、三つの意志が交錯する。
彼らの底知れぬ悪意に呼応するように、現世に落ちた宝珠の脈動はさらにその赤黒い輝きを増していく。
だが、確かな手応えを喜ぶ彼らの声には、ほんの僅かだが、忌々しげな苛立ちが混じっていた。
自らの完全なる干渉を阻む、目障りな『防壁』に対する苛立ちが。
「それにしても、『俺』の中のもう一つの存在、アレは厄介だな」
「アレさえいなければとっくに『私』は私になっていたのに」
「『僕』が"この世界に来た時の戦い"でアレの権能の何割かを封じたというのにね」
リムルの相棒たる存在は確かに今も『彼ら』の浸食を阻害し続けている。
だが、闇の奥底で蠢く三つの精神体は、すぐに余裕を取り戻すように再び深く同調した。
「…どちらにせよ、焦る必要はないな。この世界にいる限り、いつかは一つになる」
「…どちらにせよ、焦る必要はないわ。この世界にいる限り、いつかは一つになる」
「…どちらにせよ、焦る必要はないね。この世界にいる限り、いつかは一つになる」
勝ち鬨と安堵に沸く戦場の喧騒の中で。
その微かな、しかし確かな異変に気づく者は──まだ、誰一人としていなかった。