【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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第五章 決戦前夜と紫の劇物

会議を終えたその日の夜。

ジュラの大森林は深い静寂に包まれていた。

 

村のはずれにある小高い丘の上で、俺は一人、夜空を見上げていた。

この世界に来てから何度も見上げた、二つの月が浮かぶ異世界の空。

だが、今日この村から見上げる星空は、未来の魔国連邦(テンペスト)の中心地から見るそれよりも、どこか素朴で、そして少しだけ魔素の濃度が濃いように感じられた。

 

(……気のせいか?俺の記憶にある当時のジュラの森より、やけに空気が重いというか……まるで、世界そのものが得体の知れない圧をかけてきているような、そんな違和感があるんだよな)

 

俺は内心で首を傾げた。

オークの尋常ではない再生能力といい、ハクロウの異常なまでの剣の冴えといい。

俺が知る歴史とは明らかに違う強大な「うねり」のようなものが、この時代全体を覆っている気がしてならない。

 

《歴史の改変に伴う事象の揺らぎ、および特異点であるマスターがこの時間に介入したことによる影響でしょうね》

 

(ふーん、そういうもんか。まあ、シエルがそう言うならそうなんだろうけど……なんか、見えない何かに試されているような、妙な胸騒ぎがするんだよな)

 

シエルの冷静な分析を聞いても、完全に拭い切れない微かな違和感。

だが、今はそれ以上深く考えるのをやめた。

目の前に迫る二十万のオーク軍、そして仲間たちの命運。

集中すべきことは山ほどある。

 

「……未来の俺。こんなところで何してるんだ?」

 

背後から、草を踏む小さな足音が聞こえた。

振り返ると、俺と同じようにシズさんの面影を残す銀髪の美少女(中身は元三十七歳のおっさんだが)の姿をした『過去の俺』が立っていた。

 

「ああ、お前か。……いや、少し夜風に当たってただけだ。スライムだから風邪は引かないけどな。お前こそ、少しでも休んでおいた方がいいんじゃないか? 明後日にはいよいよ湿地帯に向けて出発するんだぞ」

 

「わかってるんだけどさ。出発までにまだ明日一日準備期間があるって頭では理解してても……どうにも落ち着かなくて」

 

過去の俺はそう言って、俺の隣にすとんと腰を下ろした。

膝を抱え、遠くに見える村の明かりを見つめている。

その横顔には、昼間の会議で見せていた頼もしいリーダーの顔とは違う、年相応の……いや、元の三上悟としての等身大の不安が浮かんでいた。

 

「……怖いか?」

 

俺が静かに問うと、過去の俺は少しだけ肩を揺らし、やがてポツリとこぼした。

 

「そりゃ、怖いさ。二十万だぞ? ゼネコンで現場監督やってた頃だって、せいぜい数百人の作業員をまとめるのが精一杯だったのに。いきなり二十万の化け物の軍勢と殺し合いをするなんて、現実感がなさすぎる」

 

「違いない」

 

「それに……今日の昼間、お前が言ってたこと。俺が将来、二万人もの人間を殺して魔王になるっていう話。……正直、まだ心のどこかで信じられない自分がいるんだ。俺が、そんな血も涙もない決断を下せるようになるのかって」

 

過去の俺の震える声に、俺は夜空から視線を外し、隣に座る自分自身を見つめた。

痛いほど、その気持ちはわかる。

今の彼はまだ、本当の絶望を知らない。

仲間が冷たい骸となって転がる光景も、無力感に打ちひしがれる夜も、まだ経験していないのだ。

 

「……血も涙もないわけじゃないさ。ただ、守りたいものの優先順位が明確になっただけだ」

 

俺はゆっくりと語りかけた。

 

「俺たちは、根っこが日本人だ。平和主義で、話し合いで解決できるならそれが一番だと思ってる。だけど、この世界はそんな甘い常識だけじゃ回らない。俺たちの『甘さ』を隙と見て、大切なものを奪おうとする奴らが必ず現れる」

 

過去の俺が、俺の言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣な瞳でこちらを見つめ返してくる。

 

「シオンたちが死んだ時、俺は本当に、自分の甘さを呪ったよ。なんであの時、人間に対して警戒を解いてしまったのかって。……だから、魔王になるための条件が人間の魂一万個だと知った時、迷いはなかった。むしろ、奪われた命を取り戻せるなら、世界中の人間を敵に回してでもやってやるって本気で思った」

 

「……世界中を敵に回しても、か」

 

「ああ。……だから、お前は無理に今すぐ『魔王の覚悟』を持とうとしなくていい。今のままの、少しお人好しで、仲間思いの三上悟でいいんだ。ただ、何かを守るためには、時に牙を剥く覚悟も必要だっていうことだけ、心の片隅に置いておいてくれ」

 

俺がそう言って頭を撫でてやると、過去の俺は少し照れくさそうに「子供扱いするなよな、中身は同じなんだから」と呟きつつも、その表情からは少しだけ強張りが消えていた。

 

ただ、俺の中には、彼に伝えておかなければならない想いがもう一つあった。

俺は少しだけ表情を引き締め、夜の闇に向かってぽつりとこぼすように言葉を紡いだ。

 

「……とはいえ、俺はもう、誰の命も諦めたくないんだ。例えそれが、かつて敵だったやつの命であってもな」

 

「未来の俺……?」

 

「大切なものを守るために牙を剥く覚悟は、今でも持ってる。だけど……魔王になり、さらにその先の力を手に入れた今の俺なら、そもそも『誰かを犠牲にする』という選択肢を回避できるんじゃないかって思ってるんだ」

 

俺は自嘲気味に笑い、自分の手のひらを見つめた。

 

「今回のオークの件だってそうだ。本来なら死ぬはずだったリザードマンを救い、オーガたちの仇であるオークの命すらも助けようとしている。俺が勝手に運命を捻じ曲げて、全部を救おうとしているんだ。……これは強者の傲慢というか、ただの俺のエゴなのかもしれない」

 

俺が『誰も失いたくない』というワガママを押し通すために、お前やベニマルたちに、本来なら背負わなくていい葛藤や重荷を背負わせている。

俺は隣に座る『過去の俺』へと真っ直ぐに視線を向けた。

 

「なぁ、過去の俺。お前にとって、未来から来た俺のこんな勝手な振る舞いは……迷惑か?」

 

俺の問いかけに、過去の俺は目を丸くした後、肩をすくめて小さく吹き出した。

 

「……何言ってんだよ。迷惑なわけないだろ。むしろ、お前のその『エゴ』が、今の俺やみんなにとってどれだけ救いになってるか、わかってないのか?」

 

過去の俺は、夜空を見上げながら優しく微笑んだ。

 

「俺は、お前が未来でどれだけ辛い思いをしてその力を手に入れたのか、完全にはわからない。でも、その強大な力を使ってやろうとしてるのが『誰も死なせない』っていうバカみたいに真っ直ぐなことなら……俺は、そんな自分を誇りに思うよ」

 

「……」

 

「ベニマルたちだってそうさ。彼らは優しいから、俺たちのワガママの裏にある想いをちゃんと理解してくれてる。……だからさ、未来の俺。お前は堂々と、そのエゴを貫き通してくれ。俺も、全力でそれに乗っかるからさ」

 

過去の俺の、迷いのない言葉。

それは、かつての自分からの、何よりの肯定だった。

 

「……そうか。ありがとう」

 

俺は深く息を吐き出し、胸の奥につかえていた何かがスッと溶けていくのを感じた。

 

 

 

 

翌朝。

明後日の湿地帯への出陣に向け、村全体は早朝から熱気と活気に包まれていた。

リグルドを中心としたゴブリンたちは物資の調達と輸送の準備に奔走し、ハクロウやベニマルたちはゴブリンライダー部隊の最終調整に入っている。

 

そんな中、戦闘の準備の大枠をあらかた終え、出陣までに少しだけぽっかりと空き時間ができた俺は、気晴らしも兼ねて村の奥に新設された仮設工房区画へと足を運んでいた。

かつてはただの広場だった場所に、ドワーフ三兄弟とゴブリンたちが協力して建てた立派な作業場がいくつも並んでいる。

 

その中の一つ、ひときわ機織りの音が軽快に響いている木造の作業場へと入ると……そこには朝の光を浴びながら美しく輝く絹糸を紡ぐシュナの姿と、その傍らの特等席(ふかふかのクッション)で、とろけるようにくつろいでいるスライム――『過去の俺』の姿があった。

 

「お、未来の俺。おはよう」

 

スライムがぽよんと跳ねて挨拶する。

 

「おはよう。……お前、出陣前の忙しい時に随分と優雅にくつろいでるじゃないか」

 

「いやぁ、シュナが織る布の肌触りがあまりにも最高すぎてさ。現実逃避……げふんげふん、英気を養ってたんだよ」

 

過去の俺が誤魔化すようにぷるぷると震える。

どうやら、出陣前の騒がしさから逃れ、ちゃっかりとここへ避難してきていたらしい。

 

「未来のリムル様! おはようございます」

 

俺の気配に気づいたシュナが、パッと花が咲くような笑みを浮かべて立ち上がった。

鬼人(キジン)へと進化した彼女の美しさは、こうして朝陽の下で見るとさらに際立っている。

透き通るような白い肌に、淡い桜色の髪。

ただ立っているだけで、周囲の空気が浄化されるような気品があった。

 

「おはよう、シュナ。朝から精が出るな。……もしかして、みんなの出陣用の服を仕立ててくれているのか?」

 

「はい! これほどの戦になるのですから、皆様には少しでも丈夫で、かつ動きやすい衣を纏っていただきたくて。それに……」

 

シュナは少し頬を染めながら、織り機にかけられた一際上質な、深い漆黒の布地をそっと撫でた。

 

「お二人のリムル様のための御召し物も、心を込めて織り上げている最中なのです。今ちょうど、こちらのリムル様に新しい布地の肌触りを確認していただきつつ、採寸をさせていただいていたところでした。私にもぜひ、未来のリムル様にもふさわしい一着を仕立てさせてくださいませ」

 

「おおっ、それは楽しみだな! シュナの作ってくれる服は最高に着心地がいいから、期待して待ってるよ」

 

俺が素直に喜ぶと、シュナは「ふふっ」と嬉しそうに微笑んだ。

 

「おう、未来の旦那も来たのかい! ちょうどよかった、こいつを見てくれよ」

 

背後から、野太くも快活な声が響いた。

振り返ると、革エプロン姿の筋骨隆々としたドワーフ――長男のガルムが、満面の笑みで立っていた。

その横には、次男のドルドと三男のミルドも並んでいる。

 

「おはよう、ガルム、ドルド、ミルド。お前たちもシュナの工房で作業してたのか」

 

「ああ! シュナ嬢ちゃんの織る布は、尋常じゃなく質が高くてな。俺のなめした魔物の革と縫い合わせりゃ、下手に金属の鎧を着込むよりよっぽど軽くて丈夫な防具に仕上がるんだよ!」

 

ガルムが興奮気味に、手元に持っていた試作品のベストを俺と過去の俺に向けて掲げてみせた。

確かに、魔素を編み込んだ絹の靭性と、特殊ななめし加工を施された魔物の革が見事に融合している。

 

「まったく、シュナ嬢ちゃんの色彩感覚と繊細な指先には、ドワーフの俺たちも舌を巻くぜ。ほれ、この革の縁取りに合わせた刺繍の細工……こいつは俺の彫金技術にも通じる芸術品だ」

 

細工の名手であるドルドが、シュナの織り上げた布の紋様を指でなぞりながら、心底感服したようにウンウンと頷く。

そして、建築と芸術の天才である無口な三男のミルドも、シュナの布地とドワーフの技術の結晶を前にして、目を輝かせながら無言で力強く「こくこくっ!」と縦に首を振った。

サムズアップのオマケ付きだ。

 

「ふふふ。ガルム殿もドルド殿もミルド殿も、褒めすぎです。私一人では、これほど頑丈な防具には仕立てられません。ドワーフの皆様の確かな技術があってこその形ですわ」

 

シュナが謙遜しながらも、三兄弟と顔を見合わせて微笑み合う。

 種族の壁を越え、お互いの技術をリスペクトし合いながら、より良いものを作り出していく。

この光景こそが、俺がこの異世界で何よりも守りたかった「豊かさ」の象徴だった。

 

俺が内心で深く感動し、過去の俺も「すげえな……」と感心して彼らの手仕事に見入っていた、その時だった。

 

「リムル様ぁぁぁっ!! こんなところにおられましたか!!」

 

作業場の入り口が、バァンッ!!

という凄まじい音(と風圧)を立てて勢いよく開け放たれた。

飛び込んできたのは、豊かな胸を大きく揺らし、紫色の瞳を爛々と輝かせた、我らが誇る(色んな意味で)最強の秘書――シオンだった。

 

彼女の視線の先には、未来の俺……ではなく、クッションの上で「ビクッ!」と震え上がったスライム状態の『過去の俺』がいた。

 

「探しましたよ、リムル様! 実は、どうしてもリムル様に付き合っていただきたい場所があるのです!」

 

シオンは猛然とダッシュし、過去の俺をその豊かな双丘の間にガシッと抱え込んだ。

「むぐぅっ!?」と、過去の俺から幸せそう……もとい、苦しそうな声が漏れる。

 

「ちょっと待ちなさい、シオン」

 

だが、そこでピシャリと冷たい声が飛んだ。

シュナだ。

彼女はにっこりと完璧な笑顔を浮かべたまま、シオンの腕の中にあるスライム(過去の俺)の端っこを両手でむんずと掴んだ。

笑顔なのに、背後に般若が見えるのは気のせいだろうか。

 

「リムル様は今、私のお作りしている御召し物の採寸をしてくださっていたところです。勝手に連れ出さないでいただけますか?」

 

「えっ!? しかしシュナ様、私の方も出陣前に、どうしてもリムル様に見ていただきたいものが……っ!」

 

「後になさい」

 

「今すぐです!」

 

ギリィッ、と二人の間に見えない火花が散る。

ガルムたちドワーフ三兄弟は「こりゃあ触らぬ神に祟りなしだぜ」と言わんばかりに、そそくさと工房の奥へ避難してしまった。

 

「あの、二人とも……?」

 

過去の俺が弱々しく声を上げるが、二人の耳には届いていない。

 

「さあ、リムル様! 私と来てください!」 「いいえ、リムル様はここに残ります!」

 

ギュウウウウウウウッ!!

 

「ぎゃあぁぁぁっ!? 伸びる、伸びるって! 俺の体が千切れるぅぅぅっ!?」

 

シュナとシオンによる、凄まじい力でのスライム引っ張り合い(物理)が始まった。

 シオンが右へ引けば、シュナが左へ引く。

その度に、過去の俺のぷるぷるボディが限界まで引き伸ばされ、中央が細い紐のようになっていく。

「みよ〜〜〜ん」という間抜けな音が聞こえてきそうなほどの見事な伸びっぷりだ。

 

(……ああ、懐かしい光景だな)

 

俺は、少し離れた安全圏からその微笑ましい日常のじゃれ合いを、まるで他人事のように腕を組んで眺めていた。

鬼人へと進化した二人の腕力は凄まじい。

普通の魔物ならとっくに真っ二つになっているだろうが、そこはスライムの柔軟性。

どれだけ伸ばされてもギリギリのところで耐えている。

 

「み、未来の俺ぇぇ……! 見てないで助けてくれぇぇっ……!」

 

限界まで引き伸ばされ、涙目で助けを求めてくる過去の自分。

 さすがにこのまま放置すると、スライムの張力が限界を迎えてスパーンと弾け飛びそうだったので、俺はやれやれと助け舟を出すことにした。

 

「まあまあ、二人ともそのへんでストップだ。こいつの体が本気でちぎれちゃうからな」

 

俺が苦笑交じりに声をかけると、二人はハッとして同時に手を離した。

 

パァァンッ!!

 

「ぎゃふっ!?」

 

ゴムパッチンさながらの勢いで弾き戻された過去の俺が、シオンの胸の谷間に激突してスライムの形を崩す。

……うん、役得とはいえ、少し痛そうだ。

 

「も、申し訳ありません、リムル様!」

 

「ごめんなさい、リムル様! つい、熱が入ってしまって……」

 

二人が慌てて過去の俺の形を整え、ペコペコと頭を下げる。

 

「シオン、付き合ってほしいことってなんだ? 採寸の続きは後でもできるなら、俺も一緒に行くよ」

 

「おおっ! 未来のリムル様もご一緒に! それは心強いです!」

 

シオンがパッと顔を輝かせる。

 

「シュナ、悪いが服の件は少し待っててくれるか。後で必ず戻ってくるからさ」

 

「……はい。未来のリムル様がそう仰るなら。お待ちしておりますね」

 

シュナも、俺が間に入ったことで少し落ち着きを取り戻し、優しく微笑んで頷いてくれた。

 

「助かった……未来の俺……」

 

シオンの腕の中でペラペラになった過去の俺が、安堵の溜息を吐く。

 こうして俺と過去の俺は、意気揚々と先導するシオンに連れられ、工房を後にすることになったのだった。

 

 

工房から少し離れ、シオンの機嫌の良い鼻歌を聞きながら村の広場へと向かって歩く。

シオンの豊かな胸に抱かれた過去の俺は、至福の表情(スライムだから表情はないが、ぷるぷる具合でわかる)を浮かべて揺られていた。

 

(それにしても、シオンの奴、一体俺たちに何を見せたいんだ? クロベエに打たせた新しい大太刀の試し斬りか? それともゴブリンたちとの特訓の成果か?)

 

俺が内心で首を傾げていると、脳内でシエルが、どこか呆れたような、そして少し哀れみを含んだような声を響かせた。

 

《……マスター。シオンの今の足取りと向かっている方向、それになんだか妙に自信に満ちたあの様子からして、十中八九『手料理』を振る舞うつもりですよ》

 

(……はっ? りょ、料理……?)

 

その単語を聞いた瞬間、俺の全身からスッと血の気が引いた。

 

確かに、未来のシオンはルミナスのスパルタ……もとい、地道な特訓の甲斐あって、スキルなんかに頼らなくても普通にめちゃくちゃ美味しい料理を作れるように成長していた。

今となっては彼女の手料理は俺の密かな楽しみの一つですらある。

だが……忘れてはいけない。

今ここにいるのは「過去の」シオンだ。

 

結果を無理やり自分の思い通りに書き換えるユニークスキル『料理人(サバクモノ)』すらまだ獲得していない時期。

つまり、今の彼女が作る料理は、ごまかしの一切効かない、比喩でもなんでもない純度100%の『致死性の劇物(ダークマター)』だ!

 

(おいおいおい、嘘だろ!? なんで出陣前にそんなバイオハザードに巻き込まれなきゃならないんだよ! ここはなんとしてでも理由をつけて……!)

 

俺が内心で冷や汗を滝のように流し、全力で逃走ルートと断りの文句を計算し始めた、まさにその時だった。

 

「おや、リムル様。それに未来のリムル様も」

 

「お、シオン。ずいぶんとご機嫌だべな。リムル様たちを連れて、どこへ行くんだべ?」

 

向かいから歩いてきたのは、ベニマルとクロベエだった。

どうやら彼らも出陣前の武器や部隊の最終調整を終え、一息ついているところだったらしい。

クロベエの職人らしい、人懐っこい何気ない問いかけに、シオンはパッと足を止め、それはもう嬉しそうに、満面の笑みで振り返った。

 

「ええ! 実はですね、いよいよ明後日に迫った出陣に向け、お二人の英気を養っていただこうと、私が腕によりをかけて『お料理』を作ったのです!」

 

「……は?」

 

「りょ、料理……!?」

 

ベニマルとクロベエの顔から、一瞬でスッと表情が抜け落ちた。

かつてオーガの里で彼女の料理の恐ろしさを骨の髄まで味わってきたであろう二人の瞳には、明確な『死の恐怖』が浮かんでいる。

ベニマルに至っては、無意識のうちに後ずさりすらしていた。

 

「はい! リムル様にはまだお出ししたことはありませんでしたが、私の愛情と気合をたっぷり込めた手料理です! ぜひとも、お二人に召し上がっていただきたく!」

 

シオンの紫色の瞳が、キラキラと期待に輝いている。

彼女の背後には、見えない尻尾がちぎれんばかりにブンブンと振られているのが見えるようだった。

 

「おっ、料理か! へえ、シオンの手料理! そいつはありがたいな、楽しみだ!」

 

シオンの胸に抱かれた過去の俺は、これから自分に降りかかる地獄(あるいは胃袋への深刻なダメージ)を微塵も疑うことなく、ポヨンと弾むような声で快諾してしまった。

 

俺、ベニマル、クロベエの三人は、無言で視線を交わし合った。

ベニマルとクロベエの目には「主君をお守りできず、申し訳ありません……」という悲痛な謝罪の色が浮かんでいる。

 

(……過去の俺よ。

悪いが、お前のその無邪気な期待は、数分後に完膚なきまでにへし折られることになるぞ)

 

俺が心の中でそっと合掌した直後、シオンはさらに恐ろしい提案を口にした。

 

「ちょうどよかったです! ベニマル、それにクロベエも、出陣前の英気を養うためにご一緒にいかがですか! お二人の分もたっぷり作ってありますから!」

 

「い、いや、俺たちはその……まだゴブリンライダー部隊の編成の最終確認が残っていてな……っ!」

 

「オ、オラたちもさっき飯を食ったばかりで、全然腹は減ってねえだべ……!」

 

ベニマルとクロベエが、額に脂汗を浮かべながら必死の形相で辞退しようとする。

 だが、今のシオンは「愛する主たちに自分の手料理を振る舞う」という喜びに全ステータスを極振りしている状態だ。

彼らの必死の抵抗など、暖簾に腕押しでしかない。

 

「遠慮なさらず! 食べればもっと元気が出ますよ! さあ、冷めないうちに食堂へ急ぎましょう!」

 

「あ、おい、引っ張るなシオン! ちょっ……!」

 

「わあっ!? オ、オラはまだ工房にやり残した仕事が……!」

 

シオンは空いている片腕でベニマルの襟首を、もう片方の手で過去の俺(スライム)を抱えたまま、さらにクロベエの背中をグイグイと押し込むようにして、有無を言わさず食堂の方向へ連行し始めた。

その凄まじい腕力と勢いの前には、鬼人二人がかりでも為す術がない。

 

物理的な抵抗を諦め、ズルズルと引きずられていくベニマルたちの背中を追いかけながら、俺はすぐさま『思念伝達』のネットワークを構築した。

 

(――聞こえるか、三人とも。シオンには内緒の念話だ)

 

脳内に直接響く俺の声に、シオンの胸に抱かれた過去の俺がピクッと反応した。

 

(未来の俺? どうしたんだ、急に改まって。それにベニマルもクロベエも、なんでさっきから死地に赴くみたいな悲壮な顔してるんだよ?)

 

(いいか、過去の俺。よく聞け。……今のシオンの料理は、ただの手料理じゃない。

冗談抜きで三途の川が見える、完全なる『劇物』だ)

 

(……は?

 

過去の俺の思考が、一瞬ピタリと停止した。

 

(未来のリムル様の仰る通りです……! かつて里にいた頃、何度あの見た目も匂いもヤバい代物で胃袋を破壊されかけたことか……!)

 

(オ、オラたちのオーガの頑丈な胃袋でもギリギリだっただべ……! 進化した今の身体なら耐えられるかもしれねえが、できれば絶対に試したくねえだべさ……!)

 

ベニマルとクロベエから、切実すぎる悲鳴のような念話が飛んでくる。

その圧倒的なまでの『生の感情』に触れ、過去の俺はようやく事の重大さを理解したらしい。

 

(えええええっ!? そ、そんなヤバいのか!? 毒耐性とかそういう次元の話じゃないのか!?)

 

(ああ。味覚に対する暴力というか、もはや物理的なダメージを伴うレベルだと思っていい)

 

(じゃあなんでお前ら止めてくれなかったんだよ!)

 

(バカ、あの満面の笑みでウキウキしてるシオンの顔を見て、真正面から断れるわけないだろ!)

 

俺が正論(?)をぶつけると、過去の俺は「うぐっ……」と言葉に詰まった。

確かに、あんなに嬉しそうにしているシオンの期待を無下にするのは、精神的なハードルが高すぎる。

 

(ど、どうするんだよ未来の俺! 俺の体なら『捕食者』で胃袋に隔離すればワンチャン……いや、でも口に入れた瞬間の味覚はしっかりあるぞ!? 死ぬ! 俺の舌が死んでしまう!)

 

(終わった……明日のオークロード戦を前に、我らはここで散る運命だったのか……)

 

完全にパニックに陥る過去の俺と、早々に絶望を受け入れ始めているベニマル。

俺はそんな彼らを落ち着かせるように、念話越しに力強く言い放った。

 

(落ち着け、お前ら。……安心しろ、俺に『策』がある)

 

(……策、ですか?)

 

ベニマルの縋るような声が響く。

 

(あぁ、実はな。シオンは俺の時代ではめちゃくちゃ旨い料理を作れるようになってるんだ)

 

(なっ!? ほ、本当ですか!? あのシオンの料理が……!?)

 

(信じられねえだべ……天地がひっくり返ってもあり得ねえと……)

 

俺の爆弾発言に、ベニマルとクロベエが念話越しに素っ頓狂な声(思念)を上げる。

過去の俺も、一筋の希望の光を見出したように食いついてきた。

 

(マジかよ! じゃあ、今から出てくるのも実は美味しいのか!?)

 

(いや、今から出てくるのは紛れもない純度100%の『劇物』だ。さっきも言っただろ、「俺の時代では」ってな。だから、お前らの胃袋が消滅する危機は全く去ってない)

 

(えええええっ!? じゃあ結局ダメじゃないか!)

 

再び絶望のどん底に叩き落とされそうになる三人に、俺は自信たっぷりに言葉を紡いだ。

 

(まあ最後まで聞け。……今の嬉しそうなシオンには少し可哀想な気もするが、彼女が未来で旨い料理を作れるようになった『きっかけ』の出来事を、今ここで試してみようと思う。上手くいけば、全員ノーダメージで乗り切れるはずだ)

 

(おおお……! よく分からんが、助かる道があるならそれに賭けるぜ! さすが未来の俺! 頼りになる!)

 

(未来のリムル様……! 我らの命、貴方様にお預けいたします……!)

 

(オラ、未来のリムル様が来てくれて本当に良かっただべ……!)

 

まるで地獄に仏を見たかのような、三人の歓喜と安堵の念話がネットワークを満たす。

 

「ふふふーん♪ さあ、着きましたよ! 皆様、どうぞお座りください!」

 

そんな俺たちの水面下のやり取りなど露知らず。

シオンは上機嫌な鼻歌混じりに、俺たちを食堂のテーブルへと押し込んだ。

 

「今、すぐにお持ちしますね! 期待して待っていてください!」

 

シオンはウキウキとした足取りで厨房の奥へと消えていく。

残された俺たち四人は、円卓を囲むようにしてゴクリと息を呑んだ。

 

数分後。

「お待たせいたしましたぁ!」という元気な声と共に、シオンが大きなお盆を抱えて戻ってきた。

 

ドンッ、とテーブルの中央に置かれたのは、巨大な深鍋。

そして、その中から漂ってくるのは……とてもこの世の食材から発せられているとは思えない、鼻をつくような酸烈な異臭。

さらに、鍋の中身はブクブクと不気味な紫色の泡を立てており、時折「キュルルッ」という謎の鳴き声(?)まで聞こえてくる。

まるで地獄の釜の底を煮詰めたような、視覚的な暴力そのものが広がっていた。

 

「さあ! 私の特製、『愛情たっぷり煮込み』です! たくさん召し上がってくださいね!」

 

満面の笑みで取り皿とスプーンを配るシオン。

その恐ろしいビジュアルと臭いを前に、ベニマルとクロベエの顔面は完全に土気色になり、過去の俺も恐怖で小刻みに震え始めている。

彼らのすがるような視線が、一斉に俺へと集中した。

 

(み、未来の俺ぇ……! 頼んだぞ……!)

 

(オラたち、未来のリムル様の『策』を信じてるだべさ……!)

 

三人の切実な祈りを背に受けながら、俺は一つ小さく頷くと、お玉を手に取ろうとしているシオンの前にスッと進み出た。

 

「待ってくれ、シオン。……実は料理を食べる前に、お前に伝えなきゃいけないことがあるんだ」

 

俺が真剣な声音で呼びかけると、シオンは不思議そうに小首を傾げた。

 

「伝えなきゃいけないこと、ですか? 料理が冷めてしまいますが……」

 

「ああ、冷める前に手短に話す。……シオン、未来のお前は今以上にとても旨い料理を作れるようになってるんだよ。それこそ、大陸中のシェフの中でも1、2を争うくらいにな」

 

俺の言葉に、シオンの紫色の瞳がパァァァッ!と限界まで見開かれた。

 

「ほ、本当ですか!? 私が、大陸で1、2を争うほどの名料理人に……っ!?」

 

「ああ、本当だ。未来の俺の、密かな楽しみの一つになってるくらいだからな」

 

シオンは「ああ……っ! リムル様の胃袋を掴むという私の夢が……っ!」と両手で頬を押さえ、感極まったように身悶えしている。

 

その背後で、ベニマルとクロベエが(えっ、マジで!?)(さっき料理が上手くなったとは聞いてはいたが、あのシオンが!?)と念話で驚愕の声を上げているが、俺はそれを無視して話を続けた。

 

「でも、そうなったきっかけがあるんだ」

 

「きっかけ……ですか?」

 

シオンがコホンと咳払いをして、居住まいを正す。

未来の自分が至った「高み」への秘訣を聞き逃すまいと、その表情は真剣そのものだ。

 

「そう。ある魔王から、未来のシオンはこう言われたんだよ。『人に出す前に、自分の料理は必ず自分で味見と毒見をするように』ってな」

 

俺の言葉が食堂に響き渡った瞬間。

背後に控えていた三人が、(――あっ!!)と息を呑む気配がした。

 

「自分の料理は、自分で味見を……」

 

シオンは手の中のお玉と、目の前で毒々しい紫色の泡を立てて鳴いている(?)謎の煮込みを交互に見つめた。

 

「シオン。お前、これを作る過程で一度でも味見をしたか?」

 

「い、いえ……! 私の愛情の結晶の第一口目は、絶対にリムル様に召し上がっていただきたくて、味見などという無粋な真似は……!」

 

「その気持ちはすごく嬉しい。……だけど、お前も早く『大陸一のシェフ』の腕前に追いつきたいだろ? だったら、未来のお前を成長させたその教えに、今ここから従ってみるべきじゃないか?」

 

俺が優しく、かつ有無を言わさぬ「主君の威厳」を少しだけ混ぜて微笑みかけると、シオンはハッとして強く頷いた。

 

「おっしゃる通りです……! 私としたことが、基本中の基本を忘れておりました! では、リムル様にお出しする前に、私が責任を持ってこの料理の『味見』と『毒見』を行わせていただきます!」

 

そう宣言するなり、シオンはお玉でたっぷりと紫色の劇物をすくい上げ、迷うことなく自分の口へと放り込んだ。

 

ゴクリ。

 

食堂に、やけに大きな嚥下の音が響く。

次の瞬間。

 

「…………ぁ、れ……?」

 

シオンの顔から、スッと血の気が引いた。

紫色の瞳から光が失われ、その美しい顔面が、まるで青鬼か何かのように真っ青に染まっていく。

ブルブルと唇を震わせ、何かを言おうと口をパクパクさせた直後。

 

「……あ、あじばっ……(バタッ)」

 

シオンは白目を剥き、そのまま糸の切れた傀儡のように、その場にパタリと倒れ伏した。

自らの手で生み出した破壊力に、自身の肉体が耐えきれなかったのだ。

 

「「「シオーーーンッ!!?」」」

 

ベニマルとクロベエが、形ばかりの悲鳴を上げて倒れたシオンに駆け寄る。

 だが、その背中越しに飛んできた念話は、彼らの本心を如実に表していた。

 

(た、助かったぁぁぁ……!! 未来の俺、お前マジで天才だろ!!)

 

(まさか、作り手本人に味見させることで自爆させるとは……! 策士すぎます、未来のリムル様!)

(オ、オラたちの胃袋は守られただべ……! ありがてえ、ありがてえだべさ……!)

 

スライムの俺が安堵でスライム状の涙を流し、ベニマルとクロベエが心の中で歓喜の涙を流しながら、気絶したシオンを介抱し始める。

 

(シオンには悪いことをしたな……。だが、これで彼女も少しは料理の基本を学んでくれるだろう)

 

俺は心の中でシオンに手を合わせつつ、この場を見事に丸く収めた自分自身の手腕に、密かにガッツポーズを取った。

 

 

 

 

3時間後。

村の隅にある、臨時の医務室として使われている静かな小屋の中。

ベッドに横たわるシオンを囲むようにして、俺と『過去の俺』、ベニマル、クロベエ、そして騒ぎを聞きつけて駆けつけたシュナが集まっていた。

 

「う、うぅん……」

 

微かなうめき声を漏らし、シオンがゆっくりと紫色の瞳を開けた。

 

「おっ、気がついたみたいだぞ!」

 

ベッドの脇の丸椅子の上で、過去の俺(スライム)がぽよんと跳ねる。

シュナがホッと安堵の息を吐き、シオンの額に乗せていた濡れタオルをそっと外した。

 

「シオン、大丈夫ですか? まったく……急に厨房で倒れたと聞いた時は、本当に肝を冷やしたのですよ」

 

「オラも心臓が止まるかと思っただべさ……」

 

クロベエが、額に滲んだ汗を太い腕で拭いながら深く息を吐き出す。(本当の意味で肝を冷やしたのは、あの『劇物』を食わされそうになった直前の方だが、それは言わないお約束だ)

 

「ここ、は……? 私は、たしか食堂で……自分の料理の味見を……」

 

焦点の合わない目でぼんやりと天井を見つめていたシオンだったが、数秒後、自身の口内に残る『それ』の強烈な記憶がフラッシュバックしたらしい。

バッ!と跳ね起きるなり、彼女の顔色が再びサァーッと青ざめていく。

 

「あ、あああ……っ! なんという、なんという恐ろしい……! あれは味などという生易しいものではありませんでした! 舌が、いえ、魂そのものが溶かされるような……っ!」

 

両手で口元を覆い、ガタガタと震え出すシオン。

自分で作ったものにそこまで恐怖できるのだから、ある意味で才能としか言いようがない。

 

「シオン」

 

そこへ、シュナがスッと一歩前に出た。

その顔にはいつもの可憐な笑みが浮かんでいるが、背後には隠しきれない般若のオーラが立ち上っている。

 

「ひっ……シュ、シュナ様……」

 

「未来のリムル様から、事の顛末は伺いました。……あのような、製作者本人が一口で気絶するような代物を、あろうことかお二人のリムル様のお口に入れようとしていたのですね?」

 

「そ、それは……! 私の愛情をたっぷり込めれば、きっと美味しくなるはずだと……」

 

「愛情で劇物が美食に変わるなら、誰も苦労はいたしません。料理の基本である『味見』を怠るなど、料理人として……いえ、リムル様に仕える者として言語道断です」

 

ピシャリと容赦なく言い放つシュナの前に、シオンは完全にシュンと小さくなってしまった。

普段の豪快な彼女からは想像もつかないほど、しょんぼりと肩を落としている。

 

(まあ、これくらいガツンと言っておかないと、また同じ犠牲者……もとい、未遂事件が起きかねないからな)

 

俺と過去の俺、そしてベニマルとクロベエの四人は、内心でシュナの説教に深く頷き合っていた。

だが、あまりにも可哀想になってきたので、俺は助け舟を出すことにした。

 

「まあまあ、シュナ。シオンも自分の身をもって、身の程……じゃなかった、味見の重要性を痛感したはずだ。これ以上責めるのはやめてやってくれ」

 

過去の俺が声をかけると、シオンが涙目で過去の俺を見上げていた。

 

「リムル様ぁ……! 私、私は……っ!」

 

「気にするな。失敗は誰にでもある。俺が言っただろ? 『未来のお前は大陸で1、2を争うシェフになる』って。その第一歩が、今日、お前が自分の料理をちゃんと『味見』したことなんだよ」

 

俺が優しく諭すように言うと、シオンの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「ううっ……はいっ! 私、これからは絶対に、リムル様にお出しする前に自分で味見と毒見をいたします……! そしていつか必ず、未来の私のような立派な料理人になってみせます!」

 

決意を新たに拳を握りしめるシオン。

 

(実際、未来のシオンが結果を書き換えるスキルに頼ることなく、見た目も食感も完璧な本物の手料理を作れるようになったのは、他でもないルミナスのその一言がきっかけだったしな、ルミナスのファインプレーには、俺も頭が上がらないくらい感謝している。

……これでこの時代の俺の胃袋の平和も、本来の歴史より随分早く訪れてくれるかもしれないな)

 

俺はルミナスに心の中でこっそりと感謝の念を送りつつ、力強く頷いてみせた。

 

 

「ところでシオン。お前が立派な料理人になるって話をしていて、今ふと思い出したことがあるんだ」

 

「未来のリムル様が思い出したこと、ですか?」

 

涙を拭っていたシオンが、不思議そうにコテッと首を傾げる。

 

「ああ。未来のお前は、料理の腕前だけじゃなく、戦闘技術も今とは比べ物にならないくらい向上しているんだが……その圧倒的な強さを手に入れた『きっかけ』についても、俺に話してくれたことがあってな」

 

俺が少しもったいぶるようにそう言うと、シオンの紫色の瞳が、先ほどの料理の時以上にカッ!と見開かれた。

 

「もし興味があるなら、その時の話も聞いてみるか?」

 

俺が問いかけるが早いか、シオンはベッドのシーツを握りしめ、勢いよく身を乗り出してきた。

 

「はいっ! もちろんです! 未来の私がどのようにしてリムル様のお役に立つ力を得たのか……ぜひともご教示くださいませ!!」

 

さっきまでの落ち込みは完全にどこへやら、彼女の背後で再び見えない尻尾がちぎれんばかりにブンブンと振られている。

現金なものだが、その真っ直ぐな向上心こそがシオンの長所でもある。

 

そのやり取りを見て、ベニマルも興味深そうに腕を組んだ。

 

「ほう……あのシオンがさらに強くなるきっかけ、ですか。未来のリムル様、それは軍務を預かる身として、俺も非常に気になりますな」

 

「オラも聞いてみたいだべさ。武具を打つ参考になるかもしれねえしな」

 

「おおっ、シオンのパワーアップイベントか! 俺も気になるぞ!」

 

クロベエもコクコクと頷き、過去の俺(スライム)も丸椅子の上でポンと跳ねる。

シュナも「シオンがこれ以上暴れん坊になるのは少し心配ですが……」と苦笑しつつ、耳を傾ける態勢に入っていた。

 

皆の期待の視線を一身に浴びながら、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「まず、未来のお前が語ってくれたことを順序立てて話すとな」

 

俺の少し真面目な声色に、部屋の空気がスッと引き締まる。

 

「この頃から、前に少し話した『ファルムス軍との戦い』のあたりまでは、俺が伝えていた……今のシオンにとっては『過去の俺』が伝えていた、『他の魔物や他者を見下さない』というルールを、馬鹿にしないまでも、どこか他人事のようにとらえていたらしいんだ」

 

その言葉に、シオンの肩がビクッと大きく跳ねた。

図星を突かれたのか、彼女は気まずそうにバッと視線を泳がせ、シーツを握る手にギュッと力を込める。

 

「魔物の原則は強者こそが上に立つのであって、弱者は死んで当たり前だ。……心のどこかで、お前はそう思っていたらしいな?」

 

俺が静かに問いかけると、シオンはしばらく口ごもっていたが、やがて観念したようにポツリと、消え入るような声で答えた。

 

「……はい。お恥ずかしながら、未来のリムル様の仰る通りです。リムル様が定めたルールですから当然従うつもりでおりますが……どうしても、自分より弱い人間や魔物たちを、心の底から対等だとは思えない自分がおりました」

 

シオンの正直な告白に、ベニマルも小さく息を吐いて同調する。

 

「……シオンを庇うわけではありませんが、俺たちの中にも少なからずその考えは残っています。弱肉強食こそがジュラの森の絶対の掟。それを頭から完全に切り離すのは、容易なことではありませんから」

 

「ああ、わかってる。だからこそ、俺もみんなの考えを少しずつ変えていってほしいとルールを定めたんだしな」

 

過去の俺が、ベニマルたちの葛藤を汲み取るように丸椅子の上でポヨンと跳ねて言った。

 

「責めてるわけじゃないんだ、シオン。魔物として生き抜いてきたお前たちにとって、それは至極当然の生存本能だからな」

 

俺はシオンを安心させるように小さく微笑み、言葉を続けた。

 

「だが、未来でファルムスとの戦いが起きて……自分が一度死んで、その後に生き返ったことによって、少しずつその『強者必勝』の考えは変わっていったらしい」

 

俺の言葉に、シオンだけでなく、話を聞いていたベニマルや過去の俺も真剣な眼差しを向けてくる。

 

「その後も、俺たちの国にはどんどん強くて優秀な仲間が増えていった。それを見るにつけ、未来のお前は『いつか自分はリムル様に必要とされなくなるのではないか』という不安すら覚えていったらしいんだ」

 

「私が……リムル様に必要とされなくなる、不安……」

 

シオンがポツリと呟き、自分の膝の上に置いた両手をギュッと握りしめた。

 強気で自信家な今の彼女からは想像もつかないような弱音。

だが、だからこそ彼女はその壁を乗り越えられたのだ。

 

「ああ。でも、ある時お前は気が付いたらしいんだ。……ファルムスの連中には理不尽に殺されたけれども、人間の全てが邪悪なわけじゃない。悪いヤツもいれば、いいヤツもいる。大事なのは、それを見極める事なんだってな」

 

俺はゆっくりと、言葉を噛みしめるように紡いでいく。

 それは、かつてシオンが自らの殻を破り、見事に精神的な成長を遂げた時に俺が感じた、主君としての誇りそのものだった。

 

「人や魔物の価値は、その生き様で決まる。強いか弱いか、そんな事に意味などないんだ。今は何も役に立てなくても、いつか何かの分野で、その才能に目覚める者だっている。……自らの価値を決めるのは、他人ではなく自分自身であるべきだろう、って」

 

「自らの価値を決めるのは、自分……」

 

「そうだ。そして、周りの優秀な仲間たちと自分を見比べて『自分は劣っている』と卑下するのではなく……ただひたすらに、今の自分を超え続けていくこと。それが一番大事なんだって、未来のお前は心から理解したんだって言ってたよ」

 

医務室の静寂の中に、俺の言葉が深く、静かに染み渡っていく。

シオンの紫色の瞳からは先ほどまでの怯えや焦りは消え、代わりに、ひとつの確かな「光」が宿り始めていた。

 

もしかしたら今のシオンには少し難しい話だったかもしれない。

 

まだ死の恐怖も、自分より遥かに強大で優秀な仲間が次々と現れる焦燥感も味わっていない今の彼女にとって、それはどこか遠い未来の絵空事のように聞こえてもおかしくはない。

けれど、シオンは俺の言葉を一言一句逃すまいと、真剣な表情で俯き、ゆっくりと反芻していた。

 

「周りと比べて卑下するのではなく、今の自分を超え続ける……」

 

「そうだ」

 

俺は頷き、ポンとシオンの肩に手を置いた。

 

「今日の料理の失敗だって同じだろ? 自分が作った劇物……ゴホン、料理で気絶してしまったからといって、そこで『私には才能がない』『役立たずだ』なんて卑下する必要は全くない。自分の料理を自ら味わい、失敗を認め、次はどうすればもっと良くなるかを考える。……そうやって一歩ずつ『昨日の自分』を超えていけば、お前は必ず、大陸一の料理人にも、そして誰よりも頼りになる武人にもなれるんだ」

 

俺の言葉に、シオンの肩が微かに震えた。

 

「未来の私が手に入れた『圧倒的な強さ』の正体……それは、決して他者を見下す傲慢さなどではなく、己の弱さを認め、乗り越えようとする『克己心』だったのですね」

 

「そういうことだ。だから、焦らなくていい。お前はお前のペースで、確実に強くなっていけばいいんだよ」

 

すると、丸椅子の上で話を聞いていた過去の俺(スライム)が、ぽよんと跳ねてシオンの膝の上に飛び乗った。

 

「未来の俺の言う通りだぞ、シオン。俺はお前が優秀だから傍に置いてるわけじゃない。お前のその真っ直ぐで一生懸命なところが、俺にとってすごく頼もしいから、秘書を任せてるんだ。……料理の腕前は、まあ、これからシュナに習いながら一緒に頑張っていこうぜ」

 

「リムル様ぁ……っ!!」

 

過去の俺からの不意打ちの温かい言葉に、シオンの堪えきれなくなった涙が、ついにボロボロと決壊した。

 彼女はスライム状態の過去の俺をギュッと抱きしめ(過去の俺が「むぐっ!」と潰れたが、今度はシュナも止めなかった)、わあわあと子供のように声を上げて泣き始めた。

 

「わ、私……っ! 必ず精進いたします! 料理も、戦いも、己の心も……! 昨日の自分を毎日超え続けて、お二人のリムル様に永遠に必要とされる、真の強者になってみせますぅぅっ!!」

 

「よしよし、期待してるぞ。……でも、とりあえず今は俺を潰さないでくれぇ……」

 

涙と鼻水まみれになりながらも決意を叫ぶシオンと、その豊かな胸に埋もれて物理的に限界を迎えつつある過去の俺。

その微笑ましい(?)光景に、ベニマルもクロベエも、そしてシュナも、肩の力を抜いて温かい笑い声を漏らした。

 

「やれやれ。これでお前も、少しは落ち着きのある武人に成長してくれると良いんだがな」 「オラたちの胃袋の平和のためにも、頼むだべさ」

 

ベニマルとクロベエが軽口を叩き、シオンが「むっ! 今に見ていてください!」と涙目で睨み返す。

 いつもの、騒がしくも心地よい魔物の町の日常がそこにはあった。

 

俺はそんな仲間たちの姿を目に焼き付けながら、窓の外へと視線を向けた。

日は高く昇り、明後日に迫った出陣への準備の音が、風に乗って微かに聞こえてくる。

 

(……これで、シオンの心構えも万全だな。あとは、戦場でその成果を見せてもらうだけだ)

 

最大の懸念事項だった『出陣前の胃袋崩壊の危機』を乗り越え、さらにはシオンの精神的な成長の種を蒔くことにも成功した。

いよいよ時は満ちた。

俺たちは万全の態勢で、ジュラの森の命運を懸けた、豚頭族(オーク)の軍団が待ち受ける湿地帯へと歩みを進めることになる。

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