【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
クレイマンは、消え行く己の運命を感じ取りつつ、後悔の念で心を埋め尽くしていた。
そして思い出す仲間の言葉。
(ああ……ラプラス、君の言う通りだったよ……)
自分では慎重なつもりだったが、どうやら策に溺れていたらしい。
ミリムの超絶的な力を見て、それを我が物と勘違いした結果だった。
(私はね、少しでも君たちに近付きたかったのさ。当然だろう? 私だって、中庸道化連の一員なのだから……)
だが、それも遅すぎた。
自身の誇りを重視して仲間に頼らず、最大の恩人であり親でもある魔王カザリームの期待すら裏切ってしまった。
(申し訳御座いません、カザリーム様……。私は、最大の失敗を犯してしまいました……)
だが、このまま何も為さずに死ぬなど、己が許せない。
力が足りないならば、手に入れたらいい。
(そうだ、真なる魔王に覚醒などしなくてもいい。だから、寄越せ。この私に、力を……。圧倒的な力を、寄越せぇーーーーーっ!!)
《確認しました。魂…を魔素エネ…ルギー…に変…換……》
――本来の歴史であれば、ここで『世界の言葉』が響き、クレイマンは自らの意思と執念で不完全ながらも覚醒を果たしていたはずだった。
だが、今回は違った。
(……なんだ?)
影の中に潜む俺は、明らかな異変にゾクリと悪寒を覚えた。
俺だけではない。この異変は、周囲で事の成り行きを静観していた魔王たちや仲間たちの間にも、確かな衝撃となって広がっていた。
普段は感情の機微を欠片も表に出さないルミナスの瞳が微かに揺れる。
(『世界の言葉』が……乱れた、じゃと……?)
彼女の知る限り、それは決して揺らぐことのない、絶対の秩序であったはずだ。
その一点への確信にも似た信仰が、今、静かに軋みを上げている。
「馬鹿な……。あれは、ヴェルダナーヴァが定めし、この世界そのものの理のはずだ……」
ダグリュールもまた、岩のような表情を僅かに歪め、低く唸るように声を漏らす。
そして誰よりも、ギィの纏う空気が決定的に変わった。
(……どういうことだ。ヴェルダナーヴァが作った世界のルールを捻じ曲げる現象だと? そんなものはこの世界に存在するはずはない…)
愉悦とも苛立ちともつかない表情を浮かべながらも、ギィの脳裏では、静かな苛立ちが渦を巻いていた。
(チッ…俺の知らないところで、一体何が起こっているんだ)
その双眸の奥には、これまでのどんな挑発にも滲まなかった、確かな剣呑さが宿っていた。
バレンタインやレオンなど、他の魔王たちも、ただ事ではない空気を察して目を細めていた。
『世界の言葉』を強引にねじ伏せるように、全く異質な『何か』が、クレイマンの渇望に応えるようにして、彼自身へと入り込んでいた。
(この気配は……っ!?)
俺は、クレイマンから漏れ出す異常な波動に戦慄した。
それは――ファルムス争乱とラージャでの事件の時に感じた『あの存在』と同種の、異次元の気配。
まるで、餌だけを投げ与え、あとは自滅していくのを高みから眺めているかのように。
その禍々しい『力』が、クレイマンの渇望した魂の中で強引に発現しようとした瞬間。
「ガ、ガァァアアアアアッ!?」
クレイマンの身体が、異常な痙攣を始めた。
彼の肉体から、おぞましいほどにどす黒く、それでいて神聖さすら感じるような黄金の魔力が混じった異質なオーラが爆発的に噴き上がる。
『おい……未来の俺! まさかこいつは…』
過去の俺の焦った思念に、俺は奥歯を噛み締めながら応じた。
(……ああ。この気配……間違いない)
俺は過去の俺とともに警戒度を最大まで引き上げた。
クレイマンの肉体がグチャリ、バキバキと嫌な音を立てて再構築されていく。
シオンに切断された異形の腕が再生するだけでなく、その装甲はより禍々しく、鋭利な刃のように変質していく。
周囲の魔素を強引に吸い上げ、彼の放つ魔気は瞬く間に跳ね上がっていった。
「グオォォ……アァァ……!! チカラ、力が……溢れてくる……ッ!!」
立ち上がったクレイマンの瞳には、もはや彼自身の知性やプライドの光は残っていなかった。
あるのは、ただ破壊と殺戮への衝動。
しかし、その動きは獣のように荒々しいわけではなく、まるで極めて精巧な『人形』のように、不気味なほど洗練された殺気を放っていた。
(魔素量の桁が違う……! 俺の記憶にある『覚醒したクレイマン』なんかより、数段上だぞ!)
俺の記憶にあるクレイマンは、不完全な覚醒で自滅に等しい状態だった。
だが目の前にいるのは、悪意ある介入によって、身の丈に合わぬ力の型を強引に押し付けられた、悲しき化け物だった。
「ククク……ハハハ! チカラガ、チカラガタギルゾ! コレガ”覚醒”ノチカラ……!!」
クレイマンが笑う。
自らの魂を燃料に、限界を超えた力を発現させ続けているその笑い声には、隠しきれない歪みが滲んでいた。
『まさか、ここまできてこんな事になるなんてな……』
過去の俺は、刀を正眼に構え直し、かつてないほどのプレッシャーを放つクレイマン――いや、謎の存在の介入によって、最凶の操り人形と化した道化を、鋭く睨み据えた。
その異常な事態に、周囲で見守っていた俺の仲間たちが一斉に色めき立った。
「リムル、こいつはヤバいのだ! ワタシも手を貸すぞ!」
先程までのおふざけモードを完全に消し飛ばし、ミリムが真剣な表情で俺の隣へと並び立つ。
それに続くようにして、原初の三柱もまた、一斉に地を蹴って過去の俺の傍らへと舞い降りた。
「あれはもはや、道化風情が扱ってよい代物ではありませんわ」
「うわ、あれってラキュアの時と同じ現象じゃん」
「我が君。ここは私たちに任せてくれたまえ」
テスタロッサ、ウルティマ、カレラ――三者三様の声が、束の間、重なり合う。
静かな警戒、そして油断なく柄に添えられた手。
表し方こそ違えど、三人が確かに同じ危機感を共有しているのが見て取れた。
「リムル様! あの禍々しい気配、ただ事ではありません。ここは私も共に!」
シオンもまた、剛力丸を構え直し臨戦態勢をとる。
だが、誰よりもその空気を一変させたのはヴェルドラだった。
手にしていた漫画本を懐へしまい込み、これまでの陽気さを完全に消し去った顔で、静かに口を開く。
「今の『世界の言葉』の乱れ……あれは、ただ事ではないぞ。我が兄上の遺されたシステムに、直接手を突っ込んでくるモノがいるということだからな」
その声には、これまでにない真剣な響きが滲んでいた。
「リムルよ。あの小悪党、もはやただの雑魚ではない。……我も共に戦うぞ」
援護の申し出は、俺の配下たちだけにとどまらなかった。
「ちょっとちょっと! あいつなんかおかしいよ!? ベレッタ、トレイニー、早くリムルを助けて!」とラミリスがパニックになりながら飛び回り、彼女の護衛であるベレッタとトレイニーも即座に戦闘態勢をとって前に出る。
全員が、今のクレイマンから放たれる異常な力――黒幕による強制的な底上げを本能的な『脅威』として察知し、俺を助けようとしてくれていた。
だが。
過去の俺は、横に立つミリムを手で制し、皆に向かって静かに首を振った。
「気持ちはありがたいが、手出し無用だ。ここは俺一人でやる」
その宣言に、仲間たちが息を呑む。
「おいリムル! 強がってる場合じゃねえぞ! 俺も加勢する」
カリオンがそういってリムルの傍に行こうとするが、それも過去の俺は静止した。
当然、一番近くで状況を見ている俺も、思わず声を荒らげた。
(おい過去の俺、馬鹿な事を言うな! 今のあいつはさっきまでとは次元が違う。得体の知れない力が混じってるんだぞ! 俺も出るから、ここは一緒に――)
必死に止めようとする俺に対し、過去の俺は『魂の回廊』を通じて、どこか楽しげで、それでいて絶対に折れない強靭な意志を伝えてきた。
(落ち着けよ相棒。俺はお前だろ? だったら、俺があの程度のヤツに負けないことだってわかってるだろ)
(……っ!)
過去の俺の言葉に、俺はハッと息を呑んだ。
そうだ。こいつは、他の誰でもない『俺自身』なのだ。
強大な敵を前にしても決して怯まず、仲間を守るために必ず勝利を掴み取ってきた、リムル=テンペストその人なのだ。
『それにさ、ここまでずっと未来の俺に助けてもらってばかりだったからな。正真正銘の魔王になる資格は、『俺』自身の手でつかみ取らないとな』
不敵に笑う過去の俺の気配を感じ、俺はスッと肩の力を抜いた。
……ああ、全く。最高に生意気で、最高に頼もしい相棒じゃないか。
(……わかった。見せてみろよ、お前の力を。ただし、絶対に油断はするなよ)
『ああ、任せとけ!』
俺たち二人の間で交わされた、誰にも聞こえない魂の対話。
「リムル様! 万が一のことがあってはいけません。ここは私たちも!」
「そうだぞ盟友よ! 我も共に戦おうではないか!」
過去の俺は、そんな心配そうに見つめる仲間達に向かって「大丈夫だ、お前たちは下がってろ」と告げると、たった一人で、禍々しいオーラを放つ異形の化け物へと歩み出た。
そして、これ以上周囲に余波が及ばないよう、事もなげに指先を振り――自分とクレイマンの周囲だけを覆う、超高密度の隔離結界を瞬時に展開してみせた。
「ガァァァ……! 殺ス、リムル……貴様ダケハ、絶対ニ……ッ!!」
自我を失いかけながらも、底知れぬ殺意だけをこちらへ向けて咆哮するクレイマン。
「来いよ、クレイマン。誰に力を借りたのかは知らないが……俺の国に手を出した落とし前、ここできっちりつけさせてやる」
過去の俺が刀を構えた、まさにその瞬間。
結界内の空気を圧壊するような爆発的な魔素の衝撃波と共に、虚影の力に完全に呑まれた最凶の道化が、視界からブレて消えた。
限界を超えた力を引き出されたクレイマンと、それを真正面から迎え撃つ俺。
次元を超絶した真の激闘の火蓋が、ここに切って落とされた。
「ガァァァァッ!!」
鼓膜を劈くような咆哮が結界内に響き渡った直後、過去の俺の頭上に、禍々しい装甲に覆われた異形の腕が死角から振り下ろされた。
純粋な暴力の塊。それが幾重にも重なり、音速を超えて襲い掛かる。
「っと!」
過去の俺は『智慧之王(ラファエル)』の演算による最適行動で、刀を瞬時に頭上へと掲げてその連撃を弾き受けた。
ガキィィィィンッ!!!
凄まじい金属音が弾け、過去の俺の足元の強固な結界の床が、衝撃だけでクレーターのようにすり鉢状に陥没する。
『重い……! さっきまでの比じゃないぞ!』
鍔迫り合いをするクレイマンの瞳には、もはや理性の欠片すら残っていなかった。
ただ溢れ出る破壊の衝動と、己を蝕む力の型に突き動かされ、刃のように変質した腕を凄まじい速度の連撃へと変化させていく。
超高速の斬撃、刺突、そしてその合間に死角から放たれる多属性の魔法の雨。
過去の俺は『誓約之王(ウリエル)』による絶対防御を展開しつつ、刀で最小限の動きのままそれらを捌いていく。
だが、それでも結界内は嵐のような破壊の渦に包まれていた。
一歩でも踏み違えれば、魔王クラスでさえ致命傷を負いかねない凄絶な空間だ。
「死ネ……! スライム、死ネェェェッ!!」
「……お前、自分が何言ってるかもわかってないだろ」
過去の俺は冷たく言い放ちながらも、内心では極めて冷静に事態を分析していた。
(ラファエル。あいつの魂に与えられている『不相応な力』だけを、正確に消し去ることはできるか? このままじゃ、あいつの魂ごと燃え尽きちまう)
《告。対象の魂に深く刻み込まれた『力』の起点を特定完了しました。その部分を正確に突けば消し去ることは可能です》
過去の俺の口角が、ニヤリと吊り上がる。
勝算は見えている。だが、油断していい相手でないことも、骨身に染みてわかっていた。
「オォォォォォッ!!」
突如、クレイマンが大きく距離を取り、異形の腕全てを前方に突き出した。
その刹那、彼の背中の装甲がバキバキと音を立てて裂け、そこから――見覚えのある禍々しい茨が、無数に噴き出した。
ラージャの地で、あの悪魔達の身体から生えていたものと、寸分違わぬ質感。
一本、また一本と、まるで意思を持つ蛇のように空間をのたうち始め、瞬く間にその数は五百を超えた。
結界内の空気が、ピリピリと肌を刺すほどの密度で軋む。
「死ネェェェェッ!! スライムゥゥゥゥゥゥゥ!!」
クレイマンの絶叫を合図に、全ての茨が不規則な軌道を描きながら、一斉に過去の俺へと殺到した。
軌道は読めない。数は多すぎる。この瞬間、逃げることも、受け切ることも――誰の目にも、不可能に見えた。
(おい! 過去の俺、避け――)
咄嗟に叫ぼうとした俺の声を遮るように、過去の俺の思念が、ふと、場違いなほど静かに響いた。
『なあ、俺』
(……!)
その声色に、俺は思わず言葉を呑んだ。焦りも、恐怖の色もない。ただ、どこまでも凪いだ声だった。
『俺は本当に感謝してるんだ……お前が来てくれて……お前の強さを見て……俺は……』
過去の俺は、殺到する茨の壁を見据えたまま、静かに刀を構える。
『俺自身の無限の可能性に、気がつくことができたからな』
茨が、過去の俺を叩き潰さんと殺到する――その刹那。
「――千変万華」
その静かな一声と同時、過去の俺の姿が半人半スライムの流体へと変じた。
次の一瞬、放たれたのは百、いや、千にも匹敵する無数の斬撃の乱舞。
俺が扱う『虚無崩壊』のエネルギーこそ宿っていないものの、純粋な剣技と魔力制御のみで極限までアレンジされたその絶技の威力は、この時代の過去の俺が放ち得る最高到達点であった。
(まさか、この時点の過去の俺が、あの技の片鱗にまで手を伸ばすとはな……)
殺到していたはずの茨は、瞬く間にその悉くが寸断され、宙へと舞う。
圧倒的な力の奔流に逆らって、過去の俺は、なおも真っ直ぐに疾走する。
「ナ、ニ……!?」
必殺のはずの一撃が文字通り斬り散らされた現実に、自我を失っているはずのクレイマンの表情が驚愕に引きつった。
その絶望的な隙を、過去の俺が見逃すはずがない。
「さて、終わらせてやるよ。……お前を蝕む、その忌々しい力ごと全部な!」
茨の乱打を防ぎ切り、そのままの勢いでクレイマンの懐へと完全に潜り込んだ過去の俺は、下段に構えていた刀を、閃光のような速度で振り抜いた。
ズガァ!!!
クレイマンの脇腹に埋め込まれていた、力の本流そのものが露わになる。
(よし、智慧之王(ラファエル)!『暴食之王(ベルゼビュート)』で食らい尽くせ!)
《了。ただちに分離を開始……》
『…トリコンデ…ハ…ダメ…デ…ス』
(――!?)
聞き覚えのある、ノイズ混じりの声。不思議と、懐かしさすら覚える響きだった。
リムルは一瞬だけ大きく目を見開いたが、考える間もなく、その言葉に従った。
『――待て、智慧之王(ラファエル)! 作戦変更だ! そいつを、全権能を持って消滅させろ!』
《……! わかりました。作戦を変更します》
過去の俺は、刀を鋭く構え直す。
「――そこだッ!」
物理的な肉体を斬り裂く刃ではない。
『智慧之王(ラファエル)』の完璧な演算によって導き出された、クレイマンの魂に無理やり刻み込まれた『力の核』――その輪郭のみを正確になぞる、神速の斬撃。
ズガァァァァァァッ!!
刀がクレイマンの身体に巣くっていた力を貫いた瞬間、彼の内側で、何かが決定的に『解体』される音が響いた。
直後、クレイマンの身体を覆っていた禍々しい黄金と漆黒のオーラが、断末魔のような甲高いノイズを上げて、輪郭の外側からボロボロと崩れ始める。
「ガ……ア……?」
不相応な力の重圧から解き放たれたクレイマンは、その場に力なく膝をついた。
禍々しい装甲はボロボロと崩れ落ち、元の優雅さの欠片もない、傷だらけで痩せ細った姿へと戻っていく。
狂気に満ちていた瞳からは濁りが消え、代わりに、取り返しのつかない敗北と、自分の内から『何か』が消え去ったことへの戸惑いが浮かんでいた。
(……見事だ、過去の俺。完璧な戦いだったぞ)
影の中からその鮮やかな手並みを見届けていた俺は、思わず感嘆の息を漏らした。
未来から来た俺に頼るばかりではなく、自分自身の力で強大な敵の攻撃を捌き切り、謎の力による影響を見事に解いてみせたのだ。
これ以上ない、完璧な勝利だった。
「……さて、と」
過去の俺は、ゆっくりと刀を鞘に納め、カチャリと鍔を鳴らした。
結界の外では、一部始終を見届けていた魔王たちが、あの異質な攻撃を無傷で相殺し、力のみを完全に消し去った新参のスライムの底知れぬ実力に、静かな驚愕と警戒の視線を向けている。
過去の俺は、無力化され、地べたに這いつくばって荒い息を吐くクレイマンを見下ろし、魔王としての威厳を持って静かに告げた。
「勝負ありだ。お前の負けだよ、クレイマン」
その宣告を聞き、膝から崩れ落ち満身創痍となったクレイマンは、それでもなお、濁りきった瞳で虚空を睨みつけていた。
(……先程の不相応な力は消し去ったが、やはり魂の奥底にこびりついている根本の『精神支配』はまだ解けてはいないか)
影の中から観察している俺は、静かに状況を分析していた。
彼の魂には、あの近藤という男の使う厄介な呪縛がいまだ深く根を張っているのだ。
「……わ、私は……まだ、死ねない……。あの方に……報告を……ッ」
血を吐きながら、何かに取り憑かれたようにうわ言を繰り返す哀れな道化。
そんな彼を見下ろし、過去の俺は静かに言葉を投げかけた。
「『あの方』、ね……。お前は、その正体を口が裂けても喋らないだろうな」
それは質問というより、確信を伴った確認だった。
すると、虫の息だったはずのクレイマンが、残された最後の力を振り絞るようにして顔を上げ、血走った目で過去の俺を強く睨み返した。
「……その通りだ。私が仲間を……ましてや、我々を頼ってくれた依頼人たちを裏切ることなど、絶対にない……!」
息も絶え絶えでありながら、その言葉には、狂気と呪縛に侵されてなお消え去らない彼自身の強い信念が宿っていた。
「それが……それだけが、我ら『中庸道化連』の絶対のルールなのだ!!」
クレイマンの魂からの叫びが、結界内に響き渡る。
自らの命が尽きようとするその瞬間にあっても、仲間と依頼人を護ろうとするその姿勢。
もし彼が最初からその矜持のままに生きていれば、魔王としての結末も違ったのかもしれない。
だが、過去の俺はスッと刀を下げると、彼の悲壮な覚悟を根底から覆すような、思いもよらない宣告を口にした。
「最初に言っておくが。俺はお前を殺さない」
「……は?」
驚いたのは彼だけではない。
その言葉を聞いた瞬間、結界の外で静観していた魔王たちの顔にも、明確な動揺と驚きの色が浮かんだ。
魔王たちの宴(ワルプルギス)において、敗者に与えられるのは『死』のみ。
それが絶対の掟であり、ここまでの死闘を繰り広げた以上、当然クレイマンはここで処刑されるものだと誰もが思っていたからだ。
カリオンやフレイでさえも、目を丸くして結界内の過去の俺を見つめている。
例外なのは、事前に俺たちから『クレイマン救済』の計画を聞かされていた者たちだけだ。
結界内で過去の俺の背後に控える仲間達や、外にいるラミリスたちも「リムルがそう言うなら当然でしょ」とばかりに平然と胸を張っていた。
「な、何を狂ったことを言っている……!? 私を、情けで生かすとでも言うのか……! 魔王たる私を愚弄するのも大概にしろッ!」
死よりも重い屈辱を与えられたと勘違いし、激昂するクレイマン。
だが、過去の俺は冷ややかな視線を崩さず、彼にとって最も理解の及ばない『事実』を淡々と告げた。
「情けじゃない。お前が言う『あの方』から、お前を殺さないように頼まれているからな」
「…………え?」
ピタリ、と。
クレイマンの思考が停止した。
絶対に情報が漏れるはずのなかった存在。それを、なぜ目の前の仇敵である新参のスライムが知っているのか。
「お前が言う『あの方』っていうのは、元魔王のカザリームか、ユウキ・カグラザカのことだろ?」
過去の俺は、クレイマンにとっての最大の機密を口にした。
「な……ぜ……? なぜ、貴様が、その名を……?」
「俺は既に、彼らとは協力関係にあってな」
クレイマンの顔面から一切の感情が抜け落ちる。
結界の外の魔王たちも、死んだはずの『カザリーム』と自由組合總帥『ユウキ・カグラザカ』の名が黒幕として飛び出したことに、静かなる動揺を見せていた。ギィなどは「ほう?」とさらに目を細め、露骨に興味を惹かれた様子だ。
「嘘だ、嘘だ! カザリーム様やボスが、私を差し置いて貴様のようなスライムと……そんなこと、あるはずがないッ!」
(よし、効いてるぞ)
俺はクレイマンの魂の揺らぎを正確に知覚していた。
近藤の精神支配は、『カザリームの復讐のために動く』という彼の根底にある忠誠心を利用したものだ。だからこそ、その前提となるカザリーム本人がリムルと手を組んでいるという真実を突きつけられることで、呪縛の論理回路に強烈な矛盾が生じているのだ。
「ウ、アァァ……ッ! 違う、あのお方は、私に魔王になれと……ッ!」
頭を抱え、ガタガタと震え出すクレイマン。彼自身の本当の記憶と、都合よく書き換えられた思考が激しく衝突し、精神が悲鳴を上げている。
「なぜカザリームやユウキが、俺と接触しておきながら、お前にそのことを知らせずに計画を実行させ続けたか。……それには理由があるんだ」
過去の俺は、崩壊しかけているクレイマンへ向けて、静かな、だが確かな声で言葉を落とした。
「お前は今、ある人物からの精神支配の影響を受けている。それを術者本人に気取られずに安全に解いてやるために、カザリームたちはお前を騙す形で、このワルプルギスまで誘い込むことに協力してくれたんだよ」
「…………ッ!」
クレイマンの喉から声にならない悲鳴が漏れた。
(なぜだ。なぜ私には何も……いや、あの方々が私を見捨てるはずがない。だが、ではなぜこのスライムはその名を知っている……!?)
どう足掻いても説明のつかない矛盾。
近藤が植え付けた精神支配と、『カザリームとリムルは協力関係にある』という新たな事実が激しく衝突し、致命的なエラーを引き起こしている。
「ウ……アァ……アァァァァァァッ!! 嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! あの方々が私を裏切るはずがないッ! 貴様が私を騙そうと……ッ!」
もはや疑う余地はない。
カザリーム本人がリムルと協力関係にあり、操られている自分を救うためにこの密室へと誘い込んだという真実。
それを受け入れた瞬間、クレイマンの魂の奥底で、呪縛の絶対的な論理回路に亀裂が生じた。
(――今だ!)
影の中に潜む俺は、クレイマンの精神の防御が完全に緩み、呪縛の術式が露呈したこの一瞬の隙を絶対に見逃さなかった。
過去の俺との繋がりを通じ、全神経をその『亀裂』へと集中させる。
《術式の破壊準備は完了しています。マスター、いつでもどうぞ》
俺は、どうすれば魂を傷つけずに呪縛の根源だけを精密に摘出できるかをわかっていた。
目に見えない精神の刃を振るい、クレイマンの魂に寄生していたどす黒い支配の術式を、一撃で、完全に切り裂く。
パキィィィィンッ……!
結界内に、ガラスが砕け散るような、澄んだ音が響いた気がした。
「ア……、ア……?」
クレイマンの身体から、彼を縛り付けていた得体の知れない靄(もや)のようなものがフッと抜け落ち、完全に霧散していく。
同時に、彼自身の本来の記憶と、本来の冷静な感情が、澄み切った水のように心を満たしていった。
自分がどれほど異常な思考に陥り、あろうことか主君であるカザリームの意に反する暴走をしていたのかを、痛いほどに理解する。
「私ハ……私は、何ということを……! あの方の、カザリーム様の御心を……ッ!!」
呪縛から完全に解き放たれたクレイマンは、自身の愚行を悔いるように両手で顔を覆い、産声を上げる赤子のような慟哭を上げた。
彼の瞳からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていく。
過去の俺は、静かに刀を鞘に納め、誇り高き道化が自分自身の魂を取り戻し、泣き崩れる姿を静かに見守っていた。