【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
クレイマンの慟哭だけが、静まり返った隔離結界の中に響いていた。
自らの過ちを悔い、涙を流すその姿には、もはや先程までの狂気や悪意は微塵も残っていない。
呪縛から解き放たれ、ただの「カザリームを慕う一人の魔人」に戻った者がそこにいるだけだった。
(これで、ようやく大仕事が終わったな……)
過去の俺が小さく息を吐き、結界を解除しようとした、まさにその時だ。
スッ、と。
強固だったはずの隔離空間の壁が、まるで薄皮でも剥がされるように音もなく消滅した。
俺が解除したわけではない。
外側から、一切の抵抗を許さずに『上書き』されたのだ。
「――なるほどな。どうやら、お前は俺が知らない事情を色々と知っているらしい」
低く、魔性を孕んだ艶やかな声。
それに気づいた時には既に、深紅の髪を揺らす最古の魔王、ギィ・クリムゾンが、過去の俺とクレイマンの間に悠然と歩み出て、立ち塞がっていた。
「……ついに最強のお出ましというわけか」
過去の俺は、微塵も動揺を見せることなく、極めて冷静な声で応じた。
圧倒的なまでの存在感。
ただそこに立っているだけで、世界そのものが彼を中心に回っていると錯覚させるほどの理不尽なまでの覇気。
ギィは泣き崩れるクレイマンを一瞥することもせず、ただ真っ直ぐに、その深紅の瞳で過去の俺を射抜いていた。
だが、彼が口にしたのは情報の詮索よりも先にある、魔王としての『掟』についてだった。
「お前は面白いヤツだな、リムル。だがな…」
ギィの瞳が、スッと細められる。
その瞬間、広間全体の空気が完全に凍りついたかのように重くなった。
「こいつを生かしておくというのは、いくらなんでも甘すぎる。俺は賛成できねぇな」
「……ギィ」
「お前、魔王を名乗るつもりなんだろ? 喧嘩を売られ、自身の領土を荒らされ、仲間を傷つけられた挙句、事情があったからといって相手を情けで生かす。そんな甘い奴に、魔王を名乗る資格はない。お前が俺たちと同等たる本物の魔王になりたいのなら――」
ギィはスッと顎で、地べたに這いつくばるクレイマンをしゃくった。
「そこのクレイマンを殺して、キッチリとケジメをつけろ。それができないなら、お前を魔王として認めるわけにはいかないな」
それは単なる提案ではない。
最古の魔王からの、絶対的なプレッシャーを伴う最後通牒だった。
結界の外で見守る他の魔王たちも、無言でギィの言葉に同意している空気が漂っている。
弱肉強食こそが彼らの絶対のルールであり、敗者の命を奪い、すべての因縁を清算することこそが勝利者の義務なのだ。
だが。
過去の俺は、ギィの放つ底知れぬ覇気を正面から浴びながらも、ただの一歩も引かなかった。
魔王たる威厳を纏った黄金の瞳で、真っ直ぐにギィを見返し、はっきりと首を横に振った。
「断る」
「……ほう?」
「俺は、俺のやり方でケジメをつける。さっきも言った通り、俺はこいつを殺さない。相手がお前だろうが、誰に何を言われようが、決めたことを覆すつもりはないぜ」
それは、この世界における絶対者への明確な反逆。
過去の俺の揺るぎない意志の強さに、ギィ・クリムゾンは一瞬だけ目を丸くし――。
「……クハッ、ハハハハハハッ!!」
張り詰めた沈黙を破り、腹の底から湧き上がるような大爆笑を響かせた。
ひとしきり笑った後、ギィはひどく楽しそうな、それでいて有無を言わさぬ絶対的な殺気を孕んだ笑みを浮かべる。
「いいだろう、最高に生意気で面白いぜお前。……じゃあこうしよう。俺と戦え、リムル」
「……何?」
「俺に勝てたら、お前のその甘っちょろい我儘を全面的に認めてやる。だが――お前が負けたら、お前も、そこに這いつくばってるクレイマンも、まとめて俺が始末する。単純明快でいいだろ?」
それは、魔王たちすら戦慄する『最強』からの直接の決闘の申し込みだった。
「待つのだギィ!! リムルはワタシのマブダチなのだぞ! リムルに手を出すなら、ワタシが相手になるのだ!!」
真っ先に過去の俺を庇うように前に飛び出してきたのは、桜金糸の髪を逆立てたミリムだった。
彼女はギィに向かって牙を剥き、本気の怒気を放つ。
「クアハハハ! 面白い! 我が盟友に牙を向くというのなら、この暴風竜ヴェルドラが相手になろうではないか! さあ来い、赤髪の魔王よ!」
続いて、ヴェルドラが大笑いしながら横に並び立ち、自身の膨大な覇気を撒き散らしてギィを挑発する。
「ちょっとギィ! あんた大人げないよ!! リムルを虐めるなら、アタシが、このアタシが許さないんだからね! ベレッタ! トレイニー! 早くリムルを守りなさい!!」
ラミリスが猛抗議をしながら上空を飛び回り、主の命を受けたベレッタとトレイニーも即座に臨戦態勢をとって過去の俺の側へと合流した。
そして、当然ながら俺の忠実なる配下たちも黙ってはいない。
「ギィ・クリムゾン……最古にして最強の魔王であろうと、リムル様に仇なす者はこの剛力丸で両断するのみですッ!」
シオンが凄絶な笑みを浮かべて大太刀を構える。
さらには、先程までミリムを相手に超絶的な死闘を繰り広げていた三柱の原初の悪魔たちもまた、突如として主の前に立ち塞がった最古の魔王に対して、一斉に牙を剥いた。
「あら。リムル様に刃を向けるというのなら、いくら『赤(ルージュ)』といえど見過ごせませんわ」
テスタロッサが、紅の瞳を妖しく細めながら静かに告げる。
「相変わらずとんでもない圧だね。でも、強い者に道を譲る趣味なんて、私にはないね」
好戦的な笑みを浮かべ、カレラが創り出した刀の切っ先を、ゆらりとギィへ向ける。
「ギィは強いけど、それとこれとは別問題だからね。ボクはリムル様には指一本触れさせないよ!」
ウルティマもまた、その小さな体に見合わぬ濃密な殺気を纏わせながら言い放った。
三者三様の宣戦布告と共に、底知れぬ魔力と魔法陣が同時に展開される。
だが、そんな彼女たちの姿を見たギィは――怒りや苛立ちではなく、心底不可解だと言わんばかりに片眉をピクリと動かした。
「……おいおい、こいつは傑作だ。誰よりもプライドが高くて、誰の下にもつかないはずのお前らが、揃いも揃ってこんな新参者の下につくとはな。一体、どういう風の吹き回しだ?」
その問いかけに、三柱はそれぞれ違う表情で応じる。
「あら、簡単なことですわ。わたくしたちを従えるに足る御方に、ようやく巡り合えた。それだけのこと」
テスタロッサが、どこか誇らしげにそう答えた。
「単純な話さ。仕えてから退屈した試しがないんだよね、これが。……この程度で驚いてちゃ、まだまだ甘いよ、ギィ」
カレラがニヤリと不敵な笑みを深める。
「んー、理由なんていらないよ? だってリムル様といるとボク、すっごく楽しいんだもん!」
無邪気に、しかし何よりも雄弁にウルティマが言い切った。
その答えに、ギィは一瞬だけ虚を突かれたように目を見開き――やがて、盛大に喉を鳴らして笑い出した。
「ハハハハ! 随分と愛されてるじゃないか、リムル。だが――俺は喧嘩するのに、外野の邪魔が入るのは好まないんでな」
竜種や同格の魔王、さらには原初の悪魔たちに一斉に敵意を向けられながらも、ギィは微塵も怯む様子を見せなかった。
むしろ、ますます面白そうな玩具を見つけた子供のように目を輝かせながら、パチン、と軽く指を鳴らした。
その瞬間――。
深紅の魔力で構成された超高密度の『結界』が、ギィを中心に爆発的に膨張した。
「なっ――!?」 「リムル様ッ!!」
凄まじい衝撃波と理不尽なまでの斥力が吹き荒れ、ミリムやヴェルドラ、シオンにラミリス、そして原初の三柱すらもまとめて、広間の端まで強制的に弾き飛ばされてしまった。
それどころか、先程まで俺の足元で這いつくばっていたクレイマンすらも結界の外へと掃き出され、広間の中央に深紅のドーム状の絶対隔離空間が完成する。
「リムル! 開けるのだギィ! ワタシも混ぜろ!」
「ええい、なんという硬い結界だ! 我の覇気でも容易には破れんぞ!?」
結界の外からミリムやヴェルドラがガンガンと壁を叩いているが、ギィの張ったその強固な壁はビクともしない。
深紅の隔離結界の中に取り残されたのは、絶対的な最強の魔王ギィ・クリムゾンと、過去の俺――そして、過去の俺の影に潜む俺だけだ。
「さあ、邪魔者は消えた。サシでやろうぜ、リムル」
ギィは世界そのものを圧し潰すような絶対零度の殺気を漂わせて微笑んだ。
言葉でどうにかなる相手ではない。
戦う以外の選択の余地は残されていない。
チャキ……と。
静まり返った深紅の結界内に、過去の俺が刀を抜き放つ澄んだ音が響く。
(とはいえ……流石にこのバケモノ相手に、今の俺で勝てるのか……?)
過去の俺が内心で僅かな不安を抱いた、まさにその時だった。
(安心しろ、過去の俺。こういう時のために、『俺』がいるんだろ?)
影の奥底から響いた頼もしい己自身の声に、過去の俺はフッと口角を上げ、この世界における最高峰の絶望(ギィ・クリムゾン)へ向けて、静かに、そして一切の迷いなく刀を正眼に構えた。
次の瞬間――世界から『色』と『音』が完全に消失した。
結界の中を舞っていた微細な塵も、過去の俺の呼吸の動きも、そのすべてがピタリと静止する。
究極の能力を持つ者のみが干渉を許される、時が止まった絶対の領域――『停止世界』だ。
(時間停止か……)
時間そのものが凍てついた空間の中。
過去の俺の影に潜む俺の認識だけが、その理不尽なまでの絶望の光景を正確に捉えていた。
静止した世界の中を、ギィ・クリムゾンが全くの抵抗なく、悠然と、だが神速の踏み込みで過去の俺の眼前にまで肉薄していた。
振り上げられたギィの腕から、次元そのものを断ち切るような必殺の斬撃が放たれる。
結界の外の者たちであろうと、この停止世界の中では思考すらも凍りついており、主の危機に反応することすらできない。
当然、過去の俺自身もこの事象を認識する術はなく、ただの『一撃』で両断されるはずだった。
だからこそ――俺は、動けない過去の俺を庇うように、ゆっくりと影の深淵からその姿を現したのだ。
――そして、世界が再び動き出す。
ズガァァァァァァァァァァァァッッ!!!!!
時が動き出した瞬間に弾けたのは、結界内の空間が完全に崩壊したかのような、耳をつんざく超絶的な大音響だった。
過去の俺が立っていた場所を中心に、ギィの攻撃の余波が爆発的に広がり、深紅の結界の床をクレーター状に大きく抉り取る。
凄まじい衝撃波と共に巻き上がった分厚い土煙が、ドーム状の結界内部を完全に覆い尽くし、中の様子を外界から一切遮断してしまった。
当然、結界の外で見守る魔王たちは、新参のスライムがギィの凶刃に散ったと思ったはずだ。
だが――夜魔の女王(クイーン・オブ・ナイトメア)、ルミナス・バレンタインだけは、その光景を見て明らかな『違和感』を覚えていた。
(なぜ……あやつらは全く焦っておらぬ?)
彼女の金銀妖瞳が捉えていたのは、結界の外へ弾き出されたリムルの配下たちの、あまりにも落ち着き払った異様な姿だった。
シオンは顔色一つ変えずに泰然と大太刀を構えたままであり、原初の三柱も涼しい顔で主の無事を確信している。
ヴェルドラに至っては「クアハハ! さあ、ここからが見ものよ!」と大笑いし、ミリムも「ふふん、ギィめ、驚くがいいのだ!」と目を輝かせているのだ。
(主があのギィ・クリムゾンの本気の一撃を受けたというのに、この余裕……一体何が…)
ルミナスが思考を巡らせた、まさに次の瞬間だった。
分厚い土煙の向こう側から、先程までのリムルを遥かに凌駕する――しかし、全く同質の強大な『魂の輝き』が、ルミナスの感知領域を強烈に揺さぶった。
(な、なんじゃこの気配は……!?)
ルミナスが心の中で驚愕の悲鳴を上げた直後。
「フッ――」
土煙の立ち込める結界の中央から、静かな呼気と共に、次元を圧し潰すような強大な『竜霊覇気』の奔流が放たれた。
ズゴァァァァァァッ!!
もうもうと視界を遮っていた分厚い土煙が、その理不尽な覇気によって一瞬にして吹き飛ばされ、結界の内部が完全に晴れ渡る。
結界の外で息を呑んで見守る者たちの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
そこには、涼しい顔で多重結界を展開し、無傷のまま凛と立ち尽くす過去の俺の姿があった。
そして――過去の俺を庇うようにその前に立ち塞がり、ギィの神速の斬撃を完全に受け止めている『謎の存在』の姿が。
(このような……このような未来は聞いておらぬぞ! クロエ!!)
ルミナスが目の前の出来事に驚愕している最中、ギィも突如現れた存在に驚きを隠せないでいた。
「……なに?」
ギィ・クリムゾンの口から、純粋な驚愕の音が漏れた。
無理もない。
ギィの剣をガッチリと受け止めているのは、深々とフードを被り、顔を完全に隠した何者かだったからだ。
その手には、神話級(ゴッズ)の武装すらも凌駕する神剣――『希望(エルピス)』が握られ、絶対の破壊をもたらすはずだったギィの一撃を、微動だにせず受け止めている。
「お前……停止世界の中を、動いただと……?」
絶対者であるギィの瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。
驚愕しているのはギィだけではない。
結界の外でその光景を初めて目撃した魔王たちも、一様に言葉を失い、戦慄していた。
「馬鹿な……ギィのあの本気の一撃を、防いだとでも言うのか!?」
普段は冷静沈着なレオン・クロムウェルが、目を大きく見開いて驚愕を露わにする。
「あり得ないわ……あの空間には、二人しかいなかったはずよ!? 一体どこから現れたっていうの!?」
フレイが、信じられないというように羽を震わせる。
「むうっ……! 何者かは知らんが、ただ事ではないオーラだぞ……!」
巨漢のダグリュールが、額に冷や汗を浮かべて唸り声を上げた。
「おいおい、冗談だろ……? 俺、まだ夢でも見てんのか……?」
常に寝ぼけ眼のディーノに至っては、完全に目を覚まし、信じられないものを見るように目をこすっている。
「な、何なんだアイツは……!? 新参のスライムの隠し玉だとでも言うのか!?」
ロイ・バレンタインが狼狽の声を上げ、ルミナスもまた底知れぬ警戒心を抱いてフードの人物を凝視していた。
初めて魔王達の表舞台に姿を現した『未来のリムル』。
その異常すぎる登場と、最強の魔王の一撃を事もなげに受け止めるという現実に、ワルプルギスの空間は先程までの喧騒が嘘のように、完全な静寂と驚愕に包み込まれていた。
フードで顔を隠したままの俺は、刀身越しに伝わってくる重圧を涼しい顔で受け流しながら、目の前の理不尽な暴君に向かって呆れたように深々とため息をついた。
「まったく……。お前のことだから、コイツの影の中に俺が潜んでいる気配を察知して、あえてこういう荒っぽい展開に持ち込んだんだろうが……」
ガキンッ、と。
俺は軽く剣を弾き返し、鍔迫り合いを解除してギィとの間に僅かな距離を作った。
「いくらなんでも、挨拶代わりにいきなり『時間を止める』のはやりすぎだろ、ギィ」
咎めるような、それでいてどこか親しい友人に悪態をつくような、呆れを含んだその言葉。
結界の外で見守る魔王たちは、絶対者たるギィ・クリムゾンに対してあまりにもフランクな物言いをする謎の人物に、さらに目を剥くことになった。
「ク、クハハッ……アハハハハハハッ!!」
対するギィは、怒るどころか、この状況が心底楽しくて仕方がないといった様子で、腹の底から愉快そうに大笑いし始めた。
「いやあ、流石に驚いたぜ。お前の言う通り、新参のスライムの影の中に、どうにも不可解な『存在』が隠れてる気配がしたんでな。そいつを引きずり出すために手っ取り早い方法を試させてもらったんだが……」
ギィはスッと笑みを収め、獲物を狙う肉食獣のような、ギラギラと燃え盛る深紅の瞳で俺を射抜いた。
(……なんだ、この覇気は。そこの新参のスライムと全く同じ『魂』の性質をしてやがるくせに、纏っているエネルギーの次元が完全に別物じゃねえか)
ギィの鋭い直感は、既にあり得ないはずの『正体』へと辿り着きかけていた。
だが、その推論が事実だとすれば、それはこの世界の理すらも覆す常識外れの事態だ。
ギィは心内に湧き上がる驚愕と極上の歓喜を隠すように、口角をさらに深く吊り上げた。
「よもや、俺の『停止世界』を当然のように認識し、あまつさえ動いて俺の剣を止める奴がこの世にいるとは思わなかったぜ。……なあ。お前、一体何者だ?」
ギィの放つ覇気が、さらに一段階跳ね上がる。
彼の中で、目の前のフードの人物が『正体不明の不審者』から『全力を出すに値する強敵』へと完全に認識が切り替わった瞬間だった。
(やれやれ……。お前のそういう戦闘狂なところ、相変わらずで安心する反面、マジで勘弁してほしいぜ……)
俺はフードの下で苦笑いしながら、背後にいる過去の俺に向けて、小さく「後は俺に任せろ」と背中で合図を送った。
そして、再び目の前の絶対者へと向き直り、余裕の態度のまま肩をすくめてみせる。
「そうだな。俺が何者か、か。……ちゃんと正式な名乗りをした方がいいのか?」
その飄々とした問いかけに、ギィは口角をさらに深く吊り上げ、凶悪なまでの笑みを浮かべた。
「ああ、是非そうしてくれ。俺の結界に割り込み、あまつさえ『停止世界』の中で俺の剣を防ぐようなヤツだ。どこの誰とも知れない名無しのままじゃあ、俺の気が収まらないからな」
「……なら、ご要望にお応えして」
俺は、希望(エルピス)を片手に持ったまま、もう片方の手で深く被っていたフードの端を掴み、ゆっくりと後ろへ払った。
バサリ、と布が落ちる。
あらわになったのは、美しい銀髪に黄金の瞳。
背後で静かに佇む『新参のスライム』と同じ姿形でありながら、そこに在るだけで次元そのものを圧倒するような、遥か高位の存在感を纏った俺自身の顔だった。
「……なっ!?」 「スライムが……二人、だと……!?」
結界の外から、魔王たちの息を呑む声と、明らかな混乱の気配が伝わってくる。
だが、そんな外野のざわめきなど意に介さず、俺は正面のギィ・クリムゾンを真っ直ぐに見据え、静かに、そして世界そのものに刻み込むような声で名乗りを上げた。
「俺は未来から来た、『七君主(しちくんしゅ)』を統べる者――『大魔王』リムル=テンペストだ」
その言葉を紡ぐのと、同時。
俺は、己の内に秘めている絶大な力――この世界における最強の象徴たる『竜霊覇気』を、更に数パーセントだけ解放した。
ズゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォォッ……!!!!!
「――ッ!?」
放たれたのは、単なる覇気ではない。
世界の理(ことわり)そのものを屈服させる、最上位の暴力。
ほんの少し漏れ出しただけのその覇気は、ギィが張った強固極まりない深紅の結界の内側で荒れ狂い、空間そのものをミシミシと悲鳴を上げて軋ませた。
「だ、大魔王だと……!? 魔王の上を行くというのか!?」
「それに、なんだこの覇気は!? 結界の外までビリビリと……ッ!」
今の時代には存在しない『大魔王』という尊大すぎる称号と、謎めいた『七君主』という言葉。
何より、それを単なる虚勢ではなく「絶対的な真実」として知らしめる圧倒的すぎる力の奔流に、外にいる魔王たちすらも理解不能な事態と重圧に顔を歪める。
だが、事前に俺の存在を知っていた者たちだけは、重圧に耐えるどころか、我が事のように得意げな声を上げていた。
「わーっはっはっは! ついに正体を現したな、未来のリムルよ! 相変わらず凄まじいオーラなのだ!」
「クアハハハ! そうだ、奴こそが我らが盟友、未来から来たもう一人のリムル! どうだ赤髪の魔王よ、我が盟友の竜種としての覇気の味は!」
真正面からその『竜霊覇気』を浴びたギィ・クリムゾンは――驚きに一瞬目を見開いた後、歓喜に全身を打ち震わせ、今までで一番の、最高に凶悪な笑みを浮かべていた。
「魔王の上を行く『大魔王』、だと……。随分と大仰な肩書を名乗るじゃねえか。しかも竜種に至っているとはな。こいつは傑作だ」
ギィが愉快そうに笑い飛ばすのを聞いて、俺は心底呆れたように深々とため息をついた。
「…俺は『八星魔王(オクタグラム)』のままでいいと思ってたんだがな。お前が納得せずに半ば強引に俺へ決めさせた肩書だろ」
「……あ?」
俺の心底嫌そうな愚痴に、ギィはピタリと笑いを止め一瞬不可思議なものを見るような顔をした。
当然ながら未来のことなど知る由もない彼からすれば、いきなり自分の責任だと文句を言われたようなものだ。
だが、数秒の空白の後。
自身のしでかした事実を咀嚼したギィは、自身の顔を片手で覆い、肩を震わせると――先程よりもさらに大きな声で、腹の底から爆笑し始めた。
「俺が? この俺が、お前を『大魔王』に祭り上げたっていうのか!? クハハッ、そいつはいい!! 未来の俺は、よっぽどお前の実力を認めて気に入ったらしいな!!」
ギィの放つ底知れぬ魔王の覇気と、俺の放つ竜霊覇気が、結界の中で凄まじい火花を散らして激突する。
もはや、クレイマンの処遇など完全に彼方の問題となっていた。世界の頂点に立つ最古の魔王にとって、これ以上なく血湧き肉躍る『未知の強敵』が現れたのだから。
「…さて、ギィ。お前の疑問に答えるとしよう」
圧倒的な殺気を放つ絶対者を前にしても一切怯むことなく、肩の力を抜いて飄々と言い放った。
「そこの『俺』が色々と知っているのは、未来から来た俺自身が、色々とこれから起こる事を伝えて先手を打ってるからだ」
その言葉が響き渡ると、外側で見守っていた魔王たちに、先ほどの「竜霊覇気」とはまた別のベクトルで凄まじい衝撃が走った。
「未来から……時間を遡って来ただと!?」
「時間跳躍……! そんな神の領域の奇跡を、自らの意思で行ったというのか……ッ!」
時を操る秘密を知るルミナスでさえ、信じ難い事実を前に絶句していた。
だが、真っ先にその事実をぶつけられたギィは違った。
驚くどころか、点と点が繋がったとばかりに「なるほどな」と深く頷き――歓喜に満ちた笑みをさらに歪めた。
「時間跳躍か。道理で、生まれたばかりの新参スライムが俺の知らない裏事情に通じているわけだ。あの加減を知らないミリムがユーラザニアを破壊しなかった件といい、クレイマンの精神支配の件といい、全部お前が未来の知識で『カンニング』させてたってわけか」
「人聞きの悪い言い方をするなよ。悲惨な未来を回避するための、ちょっとした軌道修正だ」
「違いねえ。納得のいく完璧な答えだ。――だがな、リムル」
ギィの全身から、先程の神速の斬撃すらも霞むほどの、超高密度の闘気が立ち上り始めた。
深紅の髪が揺らめき、結界内の魔素濃度が急上昇していく。
「未来から来ていようが、竜種に至っていようが関係ない。俺の『ワルプルギス』の掟にケチをつけ、あまつさえ俺の剣を防いだんだ。その落とし前は……きっちり力で払ってもらうぜ?」
ギィの瞳が、純粋な戦意と破壊衝動で爛々と輝いていた。
(やっぱりそうなるよな……)
俺は内心でやれやれとため息をつきつつも、ゆっくりとエルピスを中段に構え直した。
「いいぜ。どうせお前のことだから、一度やり合わないと納得しないだろうと思ってたからな。……少しだけ、未来の魔王の力ってやつを見せてやるよ」
二人の超越者の間に、一触即発の極限の緊張感が張り詰める。
過去の俺は、次元が違いすぎる戦いの余波に巻き込まれないよう、結界の端で強固な多重防御を維持し、静かにその戦いの行く末を見守っていた。
「お前の持ってる究極能力(アルティメットスキル)『傲慢之王(ルシファー)』は厄介だからな」
俺は、エルピスを構えたまま、余裕の笑みを浮かべて言い放った。
「俺の手札を見せすぎると、そのデタラメな能力で全部コピーされちまう。だから――お前が一番よく見知っている力で相手をさせてもらうよ」
その言葉を合図に、俺の周囲の空間が、一瞬にして極寒の世界へと変貌した。
空気中の魔素が凍りつき、キラキラと輝くダイヤモンドダストが深紅の結界内を美しく、そして残酷に舞い始める。
「……ッ!? この冷気、まさか……!」
戦闘狂の笑みを浮かべていたギィの表情が、ここに来て初めて明確な驚愕に引きつった。
無理もない。
今、俺から放たれているのは、ギィと同居している「相棒」――白氷竜ヴェルザードの放つ気配、そのものだったのだから。
《『忍耐之王(ガブリエル)』、ならびに『嫉妬之王(レヴィアタン)』の能力を再現して行使します》
俺の脳内に響く頼もしい相棒の声と共に、絶対零度の領域が展開される。
「舐めるなよ、リムルッ!!」
ギィが神速で踏み込み、時空すら断ち切る超高密度の斬撃を放つ。
だが、その必殺の剣閃が俺に届く直前――『忍耐之王』の権能たる『万物固着』と絶対防御の障壁によって、斬撃のエネルギーそのものが文字通り「凍りつき」、停止した。
「ハッ! ヴェルザードの『忍耐之王』まで再現するとはな! だが、本家の出力には及ば――」
「どうかな?」
驚愕しながらも追撃を放とうとするギィに対し、俺はエルピスを軽く振るい、『嫉妬之王』の権能たる『降格』を剣閃に乗せて放った。
ギィが纏っていた桁外れの闘気と魔法が、俺の放った冷気に触れた瞬間、シュゥゥッと音を立てて急速に減衰し、無効化されていく。
「チッ……! 『嫉妬之王』の能力まで使いやがるのか!」
「言っただろ、お前のよく知る力だってな!」
絶対防御と万物停止の『忍耐』。
相手の能力を劣化させ、魔力を奪い取る『嫉妬』。
それはギィにとって最も身近であり、最も戦いにくく熟知しているはずの「相棒の力」だ。
それを自分の手の内を見せずに完璧に使いこなす俺を前に、ギィの顔に浮かぶ笑みはさらに狂気と歓喜を増していく。
「クハハハハハ! 最高だ!! まさか俺の『傲慢之王』の特性を見抜いた上で、ヴェルザードの能力でメタを張ってくるとはな!!」
ズガァァァァァァァァッ!!!
凄まじい衝撃波と氷が砕ける轟音が、深紅の結界内部で連続して弾ける。
過去の俺は、クレイマンを庇いながら展開した多重結界の裏で、あまりにも次元が違いすぎる――自分自身の未来の姿と、最古の魔王による超絶的な死闘を、静かに、だが確かな誇りを持って見上げていた。
氷の剣閃と深紅の斬撃が、超音速を超えた神速の領域で幾度となく交差する。
結界の内部は、ギィの放つすべてを灼き尽くすような超高熱の魔力と、俺が放つ絶対零度の冷気が激しくぶつかり合い、世界そのものが悲鳴を上げるような凄絶な嵐となっていた。
「すげえな! ヴェルザードの能力を完全にトレースするだけじゃなく、その出力まで本家と遜色ねえじゃねえか!!」
ギィが歓喜の声を上げながら、空間ごと両断する必殺の一撃を振り下ろす。
だが、俺はエルピスに『万物固着』の理を纏わせ、真っ向からそれを受け止めた。
ガァァァァァァァァァンッッ!!!
剣と剣が激突した瞬間、核爆発すら生温いほどの衝撃波が荒れ狂う。
しかし、その衝撃エネルギーすらも『嫉妬之王』の権能によって急速に冷まされ、俺の身体を揺るがすには至らない。
「おらおら、どうした! 防御と弱体化だけじゃ、俺は倒せねえぞ!」
「倒す必要なんてないさ。俺の目的は、お前の気が済むまで付き合ってやることだからな」
数分か、あるいは永遠にも感じられる濃密な攻防の末――。
バキンッ!と。
最後に打ち合った剣の反動を利用して、ギィが自ら大きく後方へと跳び退いた。
(……来るか?)
俺は警戒を解かずに剣を構えたままだったが、ギィの全身から立ち上っていた凶悪な殺気と闘気が、まるで嘘のようにスッと霧散していった。
「――ストップだ。もういい、ここまでにしておこうぜ」
大剣を肩に担ぎ直し、ギィがひどく満足げな、スッキリとした笑顔を浮かべたのだ。
「……満足したのか?」
「ああ、腹いっぱいだ。これ以上やったら、手札を隠してるお前を本気にさせるために俺も底の底まで力を引っ張り出さなきゃならなくなる。そうなれば、この結界どころか、この星そのものがぶっ壊れちまうからな」
ギィは肩をすくめてみせた。
単なる力試しで世界を滅ぼすような真似は本意ではない。
何より、自分の全力の一撃を無傷で受け止め、相棒の力を完璧に操ってみせたこの未来からの来訪者が、自分と同格――あるいはそれ以上の化物であることは十分に理解できたのだ。
パチン、と。
ギィが指を鳴らすと、周囲を覆っていた深紅の絶対隔離結界が、あっけなくガラスのように砕け散り、元のワルプルギスの広間が姿を現した。
土煙が晴れた広間では、結界の外に弾き出されていた魔王たちや原初の悪魔たちが、固唾を呑んでこちらを見つめていた。
二人とも無傷。
だが、その周囲の空間が異常な魔力残滓で歪んでいる事実が、先程まで結界の中でどれほどの次元の戦いが行われていたかを無言で物語っている。
ギィはゆっくりと歩み寄り、多重結界を解いた過去の俺――この時代のリムルを見下ろした。
「おい、新参者」
「なんだよ」
過去の俺が堂々と答えると、ギィはニヤリと笑って言い放った。
「お前の勝ちだ。……未来のお前が強かったからってのもあるが、お前自身が俺の覇気から逃げずに啖呵を切った度胸も、魔王として合格点をくれてやる」
その言葉に、他の魔王たちがハッと息を呑むのがわかった。
「クレイマンの処遇はお前が決めろ。殺すも生かすも、お前の自由だ。……好きにしろ」
最古の魔王の宣言により、過去の俺が世界の頂点に立つ者の中の一人として認められた瞬間だった。