【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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終章 静かなる夜の誓いと交わされた約束

エラルド公の応接を終え、ようやくまとまった休息の時間を確保できた俺たちは、テンペスト自慢の温泉でワルプルギスでの長きにわたる激闘の疲れをゆっくりと洗い流した。

 

「ふぅー……極楽だな」

 

湯船に浸かり、過去の俺がスライムの姿でぷかぷかと浮きながら声を発した。

俺も同じくスライムの姿となり、隣で湯に浸かっている。

 

その後ろでは、シオンが豊満な体を湯に包みながら、俺たち二匹のぷにぷにとしたスライムボディを甲斐甲斐しく磨くように撫でてくれていた。

 

「ふふっ。普段はシュナ様も一緒ですが、今は私だけで思う存分リムル様のお身体をお流しできますね!」

 

シオンが上機嫌で張り切った声を上げる。

その様子に、俺たち二人は苦笑した。

 

「シュナが聞いたら悔しがりそうだ」

 

「シュナ様には秘密ですよ! ……ところでリムル様、未来のリムル様。お体の流し加減はいかがでしょうか?」

 

「ああ、ちょうどいいよ。ありがとう、シオン」俺は心地よい湯の熱を享受しながら、静かに目を細めた。

 

 

 

 

 

 

湯上がり後。

 

過去の俺の私室へと場所を移した俺たちは、人間の姿でゆったりとした衣服に身を包み、用意された極上の果実酒のグラスを傾けながら、ようやく訪れた真のくつろぎの時間を堪能していた。

 

静かな夜の空気が流れる中、俺は今のテンペストを取り仕切っている過去の俺に向けて、事実の確認として話題を振った。

 

「そういえば過去の俺。各地に散ってるみんなは、テンペストに戻ってくるまでもう少しかかるんだろ?」

 

「ああ。あいつらはまだ、各方面で戦後の処理を行ってるよ」

 

過去の俺は、現状の責任者として把握している情報を口にした。

 

「表向き捕虜としたクレイマン軍をミリムの領地に引き渡す段取りや、ユーラザニアの首都の無事を確認したりと、向こうは結構やることが多いみたいだからな。ジスターヴの秘密裏の管理引き継ぎもあるし、あれだけの大規模な作戦だったんだ、そう簡単に全部片付くわけないさ」

 

「なるほど。後処理で時間がかかるのは俺の時と同じだな」

 

俺が確認するように告げると、過去の俺は「皆が無事に帰ってくるのを気長に待つとするさ」とグラスを揺らした。

 

氷がカランと鳴る音だけが静かに響く中、俺は先ほど受けたばかりの戦況報告と、ワルプルギスでの出来事を結びつけ、淡々と事実を口にした。

 

「そういえば、そのベニマルからの報告にあった件だが――ヤムザが取り落とした宝珠から生まれたカリュブディスが異形と化した異常事態。……そして、ワルプルギスの場でクレイマンが強制的に覚醒しようとした際、不自然なまでに力が大幅に増した現象…」

 

俺はグラスの液面を見つめたまま、微かな波紋を立てた。

 

「あれらの異常は、決して偶然やあいつら自身の力じゃない。おそらく……ファルムス軍の襲撃時に俺を『乗っ取ろう』とした時や、ラージャの地で悪魔たちを暴走させた時と同じだ。あの得体の知れない存在が、また裏から干渉して引き起こしたんだろうな」

 

その言葉に、過去の俺も身をもってその異常性を体感しているだけに、忌々しげに息を吐き出した。

 

「ああ、いい加減うんざりするな……。ラージャの時もそうだったが、ワルプルギスでのクレイマンの覚醒も明らかに異常だった。本当に厄介な現象だ」

 

過去の俺は、以前の会議で俺が語った『底なしの漆黒に赤く発光する三つの瞳孔を持つ俺の幻影』と、『重なり合う三つの不気味な声』の話をはっきりと記憶している。

俺が俺でなくなるかもしれないという、最大の危機をもたらした存在だ。

 

「だが……一つ不思議なことがあるんだよな」

 

「不思議なこと?」

 

「ああ。未来のお前の魂を狙い、他の連中まで操るような干渉をしてきているのに、同じ『俺』であるはずの俺自身には、直接的な干渉が一切ないんだよ。なんで俺は狙われないんだ?」

 

過去の俺のその疑問に、俺も内心で深く同意していた。

確かに、俺を狙うのであれば、まだ覚醒したばかりの過去の俺を狙う方が容易いはずだ。

 

それなのに、あの干渉は明確に『未来の俺』、あるいは『俺以外の他者』を標的にしている。

俺は「ああ」と肯定しつつ、内なる相棒へと密かに思考を向けた。

 

(なぁシエル。過去の俺の言う通り、なぜあいつらは過去の俺を直接狙わないんだ?)

 

俺の問いかけに対し、普段であれば即座に最適解を提示してくるはずのシエルからの返答は――

 

《……》

 

ほんの一瞬。

コンマ数秒にも満たない、認識できないほどの『無音(空白)』の時間が落ちた。

 

《……不明です。なぜ過去のマスターを標的としないのか、明確な理由は断定できません。ですが、マスターの推測通り、同一の干渉とみて間違いありません》

 

(……そうか)

 

俺はシエルの返答にわずかな違和感を覚えた。

 

やはりシエルも何かしらの影響を受けていることは間違いなさそうだ。

 

「俺のスキルによる絶対的な防御すらも透過して干渉してくるような連中だ。クレイマンやカリュブディスは、奴らにとって俺たちを測るための単なる『実験台』か『当て馬』に過ぎなかったんだろう」

 

俺が推測を述べると、過去の俺は顔をしかめて身震いした。

 

「……こんな得体の知れない存在がまだ俺たちの周りをうろついてる状況じゃ、呑気に酒なんか飲んでる場合じゃなかったかもしれないな」

 

「いや、休める時に休んでおかないと身が持たないぞ。帝国やロッゾ一族といった『表の敵』と、この『見えない敵』。……その上、いずれはヴェルダナーヴァまで相手取ることになるかもしれないんだ。俺の時よりもずっと面倒なことになっちまったな、まったく」

 

俺たちは揃って深いため息を吐き、これからの多難な道のりを思って、もう一度グラスを煽ったのだった。

俺は湧き上がる一抹の不安を心の奥底に押し留め、さらに深刻な懸念事項を口にした。

 

「……なぁ、過去の俺。俺が一番危惧しているのは、奴らの『干渉のやり方』が変わってきていることなんだ」

 

「やり方が変わった?」

 

「ああ。これまで、あの得体の知れない精神波は、あくまで『俺自身の魂』だけをピンポイントに狙ってきていた。オークディザスターの時や、最初のカリュブディスが襲来した時にも、俺の歴史より敵が不自然に強化されている節はあったが……あれらはまだ、この世界の法則の範疇に収まる『単なる力の底上げ』として解釈できなくもなかった」

 

俺はグラスをテーブルに置き、ジッと過去の俺を見つめる。

 

「だが、今のヤツのやり方は違う。ヤムザが取り落とした宝珠から理を無視して直接異形が生み出された現象も、クレイマンの異常な覚醒も……明らかに俺を襲った時と同じ、異質な力が直接働きかけていた。ここにきて奴らは、俺個人を直接乗っ取るやり方から、明確に『俺以外の存在』にも直接干渉し、盤面そのものを強引に書き換えにきているんだ」

 

俺の推測を聞き、過去の俺は険しい顔で頷いた。

 

「……冗談じゃねえぞ。俺もクレイマンとの戦いで実感したが、未来の俺の存在を上書きしようとするようなバケモノが、今度は俺たちの周りの連中や敵対勢力にまで直接干渉して、好き勝手に影響を及ぼし始めてるってことだろ」

 

過去の俺の声には、明確な焦燥と悪寒、そして激しい怒りが混じっていた。

 

「もし、そんなどこから来るかもわからないバケモノが、俺たちの国に本格的に攻勢を仕掛けてきたら……今の俺たちに、全てを防ぎ切る手立てはあるのか?」

 

「まあ、そう思い詰めるな。確かに未知の厄介な脅威ではあるが、悲観することばかりじゃないさ」

 

「……悲観するなって、何か対抗策の当てでもあるのか?」

 

過去の俺が聞いてくる。

 

「ああ。今回のワルプルギスを乗り越えたことで、他の魔王たちとの確かなコネクションができたのはデカい。それに……何よりも、あの最古の魔王であるギィ・クリムゾンだ」

 

俺の言葉に、過去の俺も真剣な気配で頷く。

 

「ワルプルギスの円卓で、ギィたちにこの理の外から来る異常な干渉の事実を伝えておいたのはデカい。あいつも自ら首を突っ込んで、改めて俺たちと直接話し合いに来ると言っていたからな」

 

「あの理不尽の塊みたいなギィたちが、直々にテンペストへやって来るんだよな……。気苦労は絶えないだろうが、あいつらの力と知識が味方につくなら、これ以上ない強力な一手になるのは間違いない」

 

過去の俺も、ギィの圧倒的な実力を思い浮かべたのか、少しだけ安堵したように息を吐く。

 

(……そう。あいつには、直接会って伝えなきゃならないことがある)

 

安堵している過去の俺の隣で、俺は密かに眉根を寄せた。

 

ヴェルザードの内側に潜む、もう一つの気配。

神祖トワイライト・バレンタイン。ルミナスの祖にして、悪意なき知的好奇心だけで幾つもの災禍を撒き散らしてきた、厄介極まりない研究者だ。

 

俺の知る歴史では、ギィがその存在に気づくのは遥かに先のことだった。数千年もの間、あいつは相棒の内側に息を潜め続けていたのだ。

 

(本当なら、ワルプルギスの場で伝えておきたかったんだがな)

 

だが、あの円卓は公の場だった。他の魔王たちが揃っている前で、ギィの相棒に何かが憑いているなどと切り出せるはずもない。

 

かといって、思念で送るのも論外だ。相手はヴェルザードの内側にいる。どんな形で漏れるか分かったものじゃない。

 

そして何より――

 

(今あいつに伝えたら、間違いなくヴェルザードに詰め寄る)

 

ギィは仲間を裏切られることを何より嫌う。もし相棒の内に得体の知れないものが潜んでいると知れば、そのまま白氷宮で問い詰めにかかるだろう。

 

だが、それこそが最悪の手だ。

 

俺の知る限り、トワイライトはギィを心底恐れている。迂闊に動けば一発で存在を看破されると分かっているから、数千年、ただ息を潜めて観察に徹してきたのだ。

 

(こっちから追い詰めて、あの慎重な男を無理やり動かすのは下策すぎる)

 

伝えるなら、対処の算段まで用意した上で、二人きりで、直接。

 

(……次に会った時だな。ギィが自分から乗り込んでくるって言ったんだ。その時に、必ず)

 

俺は心の中でそう決めると、ソファの背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。

 

「……ここ最近、この得体の知れない敵にいつ乗っ取られるかもしれないって問題で、ずっと頭の片隅に重い悲壮感を抱えてばかりだったけどな」

 

ぽつりと、自然と本音がこぼれ落ちる。

強大な敵への警戒と、自分自身が時限爆弾になっているような緊張感で張り詰めていた心が、この果実酒の甘さと共に溶け出していくようだった。

 

「こうして無事にワルプルギスを終えて、お前とゆっくり酒を飲んでいると……なんだろうな。久しぶりに、本当に落ち着いた気持ちで過ごせている気がするよ」

 

俺がそうこぼすと、過去の俺は「そっか」と少しだけ嬉しそうに破顔した。

 

「ああ。お前が俺たちの国を、仲間を守ろうとしてくれてるんだ。俺も全力で未来のお前を支えるさ」

 

心地よい静寂にしばらく身を預けていた俺だったが、やがてふうっと息を吐き、隣で油断しきっている過去の俺へと声をかけた。

 

「……だが、この平穏も今日までだ。過去の俺、明日からは前に話していた通り、目が回るほど忙しくなるぞ」

 

「ああ、分かってるよ」

 

過去の俺が、為政者としての顔つきで小さく息を吐く。

 

「魔王としてのテンペストのお披露目であり、西側諸国へ向けてうちの国をアピールする『開国祭』の準備が本格的に始まっていくんだろ。それに、ルミナスとの二者会談の準備もあるし、ギィたちも来る。おまけに、エラルド公が持ち込んできた魔導列車の共同開発も加わったからな」

 

「…結果的にはアレのおかげで開発に弾みがついたからな」

 

「ああ、それに加えてもう一つ。明日からベスターやラミリスの手も借りて、迷宮内に『培養ポッド』のラインを構築する。テスタロッサたちには準備ができ次第、七百体の配下たちにも受肉させるってあらかじめ伝えてあるだろ?」

 

俺の言葉に、過去の俺は少しだけ重そうに体を沈ませた。

 

「ああ、あの件か。……そのまま精神体で使役するより、こっちの世界で十全に力を発揮してもらうには器が必要だからな。大量生産して準備しておかなきゃいけないってわけだ」

 

俺が頷くと、過去の俺は深々と、これ以上ないほどの疲労感を滲ませたため息を落とした。

 

「……サリオンの技術陣の受け入れに、大国との外交、開国祭の準備。その上で七百体分の悪魔の器作りか。本当に、息をつく暇もないな。それに……あのヤバい三人娘だけでも手一杯なのに、彼女たちの部下が七百体も来るとなると、手綱を握るだけでも骨が折れそうだ」

 

「まあ安心しろ。あいつらは基本的にお前に絶対の忠誠を誓ってるから、反逆の心配はない。ただ、それぞれ個性が強すぎて手綱を握るのがものすごく疲れるだけだ」

 

「それが一番心配なんだよ。お前の『疲れる』は絶対に俺の許容範囲を超えてるだろ……」

 

過去の俺がやれやれと呆れたようにグラスを煽る。

俺は「ははは、そう言うな」と笑いかけ、残っていた果実酒を飲み干した。

 

「俺だって一人でなんとか乗り越えられたんだ、同じ俺であるお前にできないはずがないさ。それに、優秀な仲間たちも一緒なんだからどうにでもなる」

 

「お前がそう言うなら、信じるしかないけどな……」

 

その後もしばらくの間、俺たちは杯を交わしながら、たわいない談笑を続けた。

今後の開国祭での出し物の案や、新作料理の開発など、迫り来る脅威を一時だけ忘れるような穏やかで笑いの絶えない時間。

 

だが、そんな心地よい静寂に包まれていた部屋の空気が、ふと変わる瞬間があった。

氷がカラン、と溶ける音だけが響く中、過去の俺が不意にグラスをテーブルに置き、真剣な眼差しで俺を真っ直ぐに見据えた。

 

「……なぁ、未来の俺」

 

「…なんだ?」

 

過去の俺は少しだけ躊躇うように視線を落とし、すぐにまた強い意志を込めて口を開いた。

 

「せっかくの酒の席で、こんなことを聞くのは悪いと思うんだが……どうしても確認しておきたいことがある」

 

「万が一だ……お前が…その…『未知の影響』に完全に乗っ取られる…なんてことはないよな?」

 

唐突に投げかけられた、あまりにも重い問いかけ。

俺は表情を変えることなく、ただ静かに過去の俺の目を見返した。

 

「そうだな…。相手は、俺の相棒すらも突破し、魂の根幹に直接干渉してくるようなヤツだ。ファルムスの件以来俺の身体には影響は出ていないが…それが永遠に続く保証はない」

 

その静かな宣告に、過去の俺は微かに表情を強張らせた。

 

「もし次にあのレベルの干渉を食らったら、今度こそ完全に『俺』という存在が上書きされて、俺の意識はこの世界から消滅するかもしれない」

 

俺はそこで一度言葉を区切り、ふと、懐かしくも血生臭い記憶を脳裏に蘇らせた。

かつてファルムス軍を殲滅し、魔王への進化の眠りにつく際の出来事のことだ。俺はベニマルに頼んだ。『もし俺が理性のない化け物になってしまっていたら、速やかに処分してくれ』と。

 

(まさか、時間を超えた先で、今度は『過去の俺』自身にまた同じことを頼むことになるとはな)

 

あまりにも皮肉な巡り合わせに、俺は内心で小さく自嘲した。

だが、その覚悟に揺らぎはない。

 

「だからこそ……」

 

言葉を継ぎ、俺はゆっくりと身体の向きを変え、真っ直ぐに過去の俺へと向き直った。

 

「俺が俺でなくなった時は、皆の、いや、お前の手で俺を始末して欲しい」

 

一切の躊躇なく放たれたその言葉に、部屋の空気が凍りついた。

過去の俺がハッとして息を呑む。

 

「な、何を言って……! 始末するなんて、そんな……! だいたい、今の俺が未来のお前に勝てるわけがないだろう!」

 

「もちろん、全力で抗うさ。だが、相手が魂そのものを書き換えてくる可能性がある以上、俺が『俺の姿』と『俺の能力』を持ったまま、中身だけが敵に成り代わることだってあるかもしれない。そうなった俺は、この国にとって……世界にとって、最大の脅威になる」

 

沈黙が部屋に重くのしかかる。

 

「その時は、同じ力を持った『リムル・テンペスト』が必要になるんだ。頼めるのはお前しかいない」

 

自分自身であり、この国を救うために未来から来てくれた存在を、自らの手で討つという重すぎる頼み。

過去の俺はギリッと奥歯を噛み締めた。

だが、為政者として、そして一人の魔王として、彼はその言葉の裏にある深い覚悟から決して逃げなかった。

 

「……わかった。だが、絶対にそんな事態にはさせないさ」

 

「…あぁ、頼んだぜ。相棒」

 

 

 

 

 

 

 

 

そのリムルの声は、過去のリムルに届いただけではない。

 

――どこかの研究室のような空間。

 

空気はひどく粘り気を帯びているように重く、息苦しいほどの静寂に包まれていた。

否、静寂というのは正確ではない。部屋の隅では白衣を纏った者たちが幾つもの計器に張りつき、押し殺した声で数値を読み上げ続けている。ただ、その誰一人として、雑談を交わす者はいなかった。

 

暗闇に浮かび上がる『モニター』の光だけが、部屋を淡く照らしている。

 

画面の向こう側で、自分たちの知る歴史とは異なる道を歩み始めた盟友が、過去の自身に対して『万が一の時は俺を始末しろ』と、重すぎる覚悟を託している姿。

 

それを見つめながら、暴風竜ヴェルドラはギリッと牙を噛み鳴らし、腹の底から絞り出すような重い後悔の声を落とした。

 

「……すべては、我の責任だ」

 

あの時、我が余計な口を挟まなければ。

軽々しく背中を押したりしなければ。

 

盟友をあのような孤独な戦いに送り出してしまった己の不甲斐なさを呪う、一人の戦士の顔がそこにあった。

 

「ヴェルドラ様。どうか、ご自身を責めるのはおやめ下さい」

 

重苦しい沈黙を破り、傍らに控えていた炎の魔人――カリスが静かに膝をついた。

 

主が我を忘れかけた時、それを諌められる者。

そういう役目を負わされているのだと、この従者は誰よりも自覚していた。

 

「あのような事態になろうとは誰にも予見できるものではありませんでした。リムル様も、ラミリス様も、ヴェルドラ様がそのように悲しまれることを決して望んではおられません」

 

「……分かっておるわ」

 

ヴェルドラは短く答えたが、その視線はモニターから逸れることはなかった。

 

(……なぜだ、シエルよ)

 

胸の内で、誰にも聞かせられない問いを転がす。

 

あの時、確かに繋がった。

ほんの一瞬、細い糸のように届いたあの感覚を、ヴェルドラは忘れていない。

 

ならばなぜ、それきりなのだ。

なぜ、あやつには何も告げてやらぬのだ。

 

(伝えられぬのか。それとも――)

 

そこから先を、ヴェルドラは考えまいとした。

考えたところで確かめる術はなく、ただ疑いだけが降り積もっていくと知っていたからだ。

 

「……カリスよ」

 

「はっ」

 

「我は、待つことがこれほど苦手だったとはな」

 

「存じております」

 

即答だった。

 

ヴェルドラは毒気を抜かれたように鼻を鳴らし、それきり口を閉ざした。

 

「……カリスの言う通りです。悔やむべきは、俺たちの方だ」

 

さらに言葉を継ぐように、研究室の扉が開いた。

現れたのは、遺されたテンペスト陣営を実質的にまとめ上げている大元帥――ベニマルだ。

 

彼の顔には深い悔恨が刻まれていたが、その瞳の奥には決して消えない闘志の炎が燃え盛っていた。

 

「テンペスト全軍の防衛再編、および迷宮内の警戒態勢の強化、完了しました。……俺たちが不甲斐ないばかりに、リムル様にすべてを背負わせてしまった。ですが、だからこそ俺たちは歩みを止めるわけにはいかない」

 

「クフフフ……お二人とも。リムル様のご決断をそのように憂うなど、不敬の極みですよ」

 

ベニマルの熱い言葉を遮るように、部屋の暗がりからヌルリと滲み出るように現れたのは、悪魔公ディアブロだった。

 

そしてその背後からは、純白の髪を揺らし、真紅の瞳に底知れぬ怒りを宿した『原初の白』――テスタロッサが優雅な所作で歩み出る。

 

「ディアブロの言う通りですわ。リムル様があのような理不尽な決断を強いられたのは、ひとえにわたくしたち配下の力不足ゆえ。ヴェルドラ様お一人が罪を背負う必要など、どこにも御座いません」

 

「ええ。我々はただ、主の帰還を信じ、留守の国を完璧に守り抜くだけです。……とはいえ、リムル様を謀った愚か者どもをこのまま野放しにするつもりもありませんがね」

 

ディアブロとテスタロッサ。テンペストの暗部を担う最高幹部二柱は、不敵な、そしてこの上なく残酷な微笑を浮かべていた。

 

「あの得体の知れない存在の干渉について、我々の方でも独自の解析を進めております。必ずや尻尾を掴み出し、魂の消滅すら生温い地獄を味わわせて差し上げましょう」

 

「当然ですわ。あの方を失うなど、わたくしたちが許すはずがありませんもの」

 

悲しむのではなく、怒りと絶対の信頼を原動力にし、各々がやるべきことを完璧にこなしている。

誰も絶望などしていない。最高に盤石で頼もしい、遺された陣営の『総意』がそこにあった。

 

「『万が一の時は俺を始末しろ』だと? 笑わせるな、リムルよ……」

 

モニターの向こう側で、孤独に戦い続ける盟友の姿を見つめ、ヴェルドラは静かに、だが絶対の決意を込めて言葉を落とした。

 

「我らが盟友に、己ひとりで全てを終わらせるような悲しい真似をさせるわけがなかろう。……必ず助け出すぞ、リムル」

 

「ええ。もちろんです。リムル様、待っていてください」

 

ベニマルが力強く頷き、カリスが深く頭を垂れる。

ディアブロとテスタロッサは何も言わず、ただ静かに首肯した。

断たれた繋がりの痛みを、言葉にすることさえ拒むように。

 

『あちら側』の誰も知らない、もう一つの現実。

真なる絶望と希望が交錯する『こちら側』の世界でもまた、最強の陣営が主を奪還すべく、静かに牙を研いでいた。




ここまで第六部を読んでいただきありがとうございます。

今回はあとがきが少し長くなりましたので、活動報告のほうに記載したいと思います。
もし良ければ読んでいただけると嬉しいです。
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