【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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第七部
序章 全ての始まり


──リムル・テンペストが未来のリムルとして過去の世界に降り立つ時より前。

 

 

 

 

 

「──第一号機、駆動系すべて正常。魔素炉、出力安定」

 

「信号用ケーブル全六本、接続良好。緩衝装置も問題ありません」

 

地下迷宮の深部に新設された管制区画は、朝からずっと人の往来が絶えず、熱気じみた慌ただしさに満たされていた。

 

壁一面を埋める観測結晶が淡い光を明滅させ、床を這う無数の魔導ケーブルが微かな唸りを上げている。

 

その前に張りついた研究員たちは、誰もが充血した目で数値を追いながら、次々と読み上げる声を重ねていた。

 

その合間を、緑の髪の乙女たちが静かに行き交う。樹妖精(ドライアド)である。

 

九十五階層の森林都市を整備し、迷宮の管理を担う彼女たちは、この管制区画の設営から日々の運営までを一手に引き受けており、人の波を縫って進むその所作には、水が流れるような無駄のなさがあった。

 

「第三観測系統、魔素供給を完了しました。開始予定時刻まで、あと十分です。各員、配置についてください」

 

淡々とそう告げたのは、迷宮管理者アルファだった。

 

その声には抑揚というものがまるでなく、周囲がどれほど高揚していようと、彼女は定められた手順を定められた通りに進めるだけだ。

 

もっとも、それを不快に思う者はいない。この数年、彼女たちの正確無比な支援がなければ、この計画は幾度も頓挫していたはずなのだから。

 

魔国連邦(テンペスト)が総力を挙げて取り組んできた、『亜空間探査計画』。

 

その第一歩が、今日この日に踏み出されようとしていた。

 

迷宮の外側──次元の狭間。

 

そこは、この世界のどこにも属さない領域だ。足場は存在せず、位相は絶えず揺らぎ、時空嵐が全てを削り取っていく。

 

迷宮の絶対法則たるラミリスの蘇生ですら一歩外へ出れば届かず、生身で立ち入れば、精神生命体であろうと存在の維持は不可能──文字通りの、完全なる死。

 

そんな場所が、この迷宮のすぐ隣に口を開けているのだから、観測できないまま放置しておくわけにはいかなかった。

 

リムルの手を借りれば話はもっと早く済んだだろうが、技術者たちは、自分たちの手で未知へ踏み込むことにこそロマンを見出していた。

 

もっとも、その盟主の姿は、この場になかった。

同じ日、地上では音楽会が開かれている。神聖法皇国ルベリオスとの共催で、まず魔国連邦が客を迎え、続いて聖都でも催されるという段取りだった。国と国とを繋ぐ催しである以上、主催者が席を外すわけにはいかない。

 

起動式の日取りが決まった時、真っ先に頭を抱えたのはベスターであった。何度も日程を突き合わせ、そのたびに首を振り、最後にはリムル自身から「そっちはそっちで進めてくれ」と言われて、ようやく腹を括ったのだという。

だが誰も、それを不満には思わなかった。数年の間、この計画を誰よりも辛抱強く待ってくれた相手だと知っているからだ。

 

魔鋼技術と精霊工学の粋を注ぎ込み、失敗を積み重ねること数年。

ようやく完成に漕ぎ着けたのが──全高八メートルに及ぶ、深淵探査用の魔導人形(ゴーレム)であった。

 

「本日をもって、我らはついに『あの向こう側』へ手を伸ばすのです」

 

演壇代わりの台に立ったベスターが、拳を握りしめて声を張った。

 

普段は数字と手順を重んじる男で、感情を表に出すことなど滅多にない。

 

だがこの日ばかりは、その声が明らかに上ずっており、頬にはうっすらと血の色が差していた。

 

彼にとって、この計画は特別なものだった。

 

かつてドワルゴンの大臣であった頃に魔装兵計画の失敗で全てを失い、罪を得て謹慎する日々の中では、二度と表舞台へ戻れぬものと諦めてすらいた。

 

それが変わったのは、この国に来てからだった。

 

フルポーションや魔導列車の開発に携わり、そして皆と協力して、かつて自らを潰したはずの魔装兵の完成形──魔王の守護巨像(デモンコロッサス)をも作り上げたのだ。

 

この深淵探査用の魔導人形は、それら全ての技術を集大成として注ぎ込み、未開領域の脅威にすら耐えうる機体として結実したもの。

 

感極まるなという方が、無理な話だった。

 

「これは単なる機械ではありません。人と魔物が、共に築き上げた叡智の結晶であります」

 

わっ、と研究員たちから拍手が湧き上がる。

壇上の左右には、この数年を共に費やした顔ぶれが並んでいた。

 

外殻の鍛造を一手に引き受けたカイジン。

関節駆動を担当したドワルゴンの職人衆。

術式構築に当たったサリオンの魔導研究者たち。

そして、緩衝液の調合を手掛けた飛竜衆の長──ガビル。

 

その中央で、痩せた老人が腕を組んで立っている。

大魔法使いガドラ──今は迷宮六十階層を預かる〝魔導王(ルーンマスター)〟だ。

もっとも、この姿は本来のものではない。

金属性悪魔族(メタルデーモン)へと生まれ変わった際、彼の肉体は若く精悍な青年のそれへと変じていたのだが、当の本人はその姿をまるで気に入らなかった。

「若造の身なりで魔法を語っても、誰も有り難がらんじゃろうが」というのが、彼の言い分だった。

 

「ふん。ようやくここまでこぎ着けおったか」

 

「ガドラ殿。あなたが仰ると、なぜか嫌味に聞こえますな」

 

サリオンの魔導研究者が苦笑を漏らすと、ガドラは白髭を撫でながら不服そうに鼻を鳴らした。

 

「事実じゃからのう。制御術式の三分の一はワシが組んだのじゃぞ? もっと感謝せんか」

 

「三分の一ですか。私の記憶では四分の一ほどでしたが」

 

言い返された途端、ガドラの片眉がぴくりと跳ね上がったが、腹を立てているわけではない。ガドラは、遠慮なく突っかかってくる相手ほど気に入るのだ。

 

「細かい男じゃな。だいたい同じじゃろうが」

 

軽口を叩き合う二人の顔には隠しきれない高揚が滲んでおり、いずれも、この日のために幾度も失敗を重ねてきた者たちだった。

 

「うむ、うむ! 我輩、この日を待ちわびておりましたぞ!」

 

腕を組んで何度も頷くガビルの目には、うっすらと涙まで浮かんでいる。

 

その隣で、カイジンが呆れ顔で肩を竦めた。

 

「おいガビル。お前は途中から緩衝液の味見までやり始めたじゃねえか。研究班が青い顔で報告に来た時は、俺も流石に耳を疑ったぞ」

 

「なっ、あれは組成の確認であります! 結果として万が一漏出しても無害と判明したのですから、何ら問題はありませぬぞ!」

 

胸を張るガビルに、カイジンが太い指で額を押さえる。

 

「飲んだのかよ」

 

「飲んではおりませぬ! 舐めただけであります!」

 

「同じだろうが」

 

そんな軽口を叩き合いながらも、二人の視線は格納庫に鎮座する鋼の巨人から片時も離れない。

 

種族も出身国も異なる者たちが同じ一体の機械を挟んで肩を並べている──数年前であれば考えられなかったその光景こそが、この国の歩んできた道のりを何よりも雄弁に物語っている。

そして、壇上の傍らには、この計画の主も控えていた。

 

「ねえねえ、まだ動かないの?」

 

空中でくるりと一回転しながら、ラミリスが待ちきれない様子で羽根を鳴らす。この迷宮の主にして妖精女王が、自分の縄張りで起きることに大人しくしていられるはずもなかった。

 

「ラミリス様。開始時刻はまだ十分先でございます」

 

傍らに控えたベレッタが、記録板から目も上げずに答える。この従者は迷宮管理の責任者として、今日も朝から数値の照合に追われていた。

 

「知ってるよー。でもさ、待ってる時間って長いじゃん」

 

「あと九分と四十秒でございます」

 

「余計に長く感じるんだけど!?」

 

そのやり取りを、腕を組んだヴェルドラが実に楽しげに眺めていた。

 

「案ずるな、ラミリスよ。待つ時間こそが醍醐味というものだ。我など、三百年待ったのだぞ」

 

「それ自慢することじゃないと思うのよさ」

 

「ヴェルドラ様。その三百年は、自ら望んで待たれたものではないのでは…」

 

静かに指摘したのは、ヴェルドラの傍に控えていた炎の魔人──カリスである。

 

「ぐぬ……。細かいことを言うでない」

 

「失礼いたしました。ですが、事実を申し上げたまでです」

 

涼しい顔で一礼するカリスに、ヴェルドラが唸り声を上げる。この従者は主に忠実だが、その忠実さは主の言い分を鵜呑みにすることとは別物だった。

 

その熱気の中で、最前列の椅子に沈み込んでいる一団があった。

 

「なあ、まだ始まらねーの」

 

背もたれに深く体を預けたディーノが指先で膝を叩きながらぼやくものの、視線だけは格納庫の方角へ向いたままで、口ほどには退屈していないのが見て取れる。

 

「あのさ、俺は操縦担当なんだろ。式典をやるのは構わねえけどよ、そろそろ座席で待たせてくれてもよくねえか」

 

「ディーノ、アンタそういうとこよね」

 

隣でピコが呆れた声を出し、じろりと横目で睨みつける。

 

「みんな何年もかけたのよ。ちょっとくらい聞いてあげたっていいじゃない」

 

「言ってやるなよ。こいつ、朝から落ち着きがねーんだ。昨日なんざ、格納庫まで見に行ってたぜ? アタイが声をかけたら、飛び上がって振り向きやがってよ」

 

反対側からガラシャがニヤリと口の端を上げて茶化すと、ディーノは露骨に顔をしかめた。

 

「ちげーよ。腕の可動域を確認してただけだ」

 

「へえ?」

 

「……うるせえな」

 

肩を竦め、それきり口を噤む。

 

その横顔を見て、ピコとガラシャが顔を見合わせ、揃って小さく吹き出した。

 

彼ら三人は、この迷宮に雇われた身である。

 

働かずに済むならそれに越したことはない、というのがディーノの一貫した信条ではあったが、こと空間把握に関して彼の右に出る者はいない。

 

次元の狭間という足場のない領域で、位相の変動を読みながら機体を制御する──それができるのは、始原の七天使として天界と異界を渡り歩いてきた彼をおいて他にいなかった。

 

操縦者として名指しされた時、彼は「またかよ」と顔をしかめてみせたが、結局、断りはしなかった。

 

(……まあ、悪くはねえよな。何年も机にかじりついてた連中が、今日はじめて外に手を伸ばすってんだ。その最初の一歩に付き合えってんなら、そう悪い役回りでもねえだろ。どうせやるなら、上手くやってやるさ)

 

誰にも聞こえないよう内心でそう呟いて、ディーノは僅かに口の端を上げた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

三時間後。

 

歓声はとうに引き、管制区画は淡々とした作業の音だけに満たされていた。

 

「──座標、記録しました」

 

「第七区画、位相変動率は想定値の範囲内。特異点の反応なし」

 

「引き続き観測を継続します」

 

亜空間は、退屈だった。

何もない。本当に、何もない。

削られ、混ざり、均されていく場所に形あるものは残らないというのが、この領域の理である。

 

もっとも、研究者たちにとっては「何もない」ことそのものが貴重な観測結果だった。

理論上そうであるはずのことを実測で証明する。それこそが彼らの仕事なのだ。

だが、操縦席の男は違った。

 

「なあ」

 

ディーノが、不意に手を止めた。

 

「なんかあるぞ、あそこ」

 

「え?」

 

観測結晶が彼の視線の先を捉え、映し出されたそれを見た瞬間、管制区画のざわめきが潮の引くようにすっと消えた。

 

──巨大な、水槽。

 

そう表現するのが最も近い。

 

澄んだ液体を満々と湛えた、人が一人ゆうに収まるほどの容器。黒い外殻には金の彫金が流れるように施され、荘厳ですらある。

 

その底からは、数え切れぬほどの蛇腹状のケーブルが、水中へ向けて垂れ下がっていた。

 

「おいおい……なんだありゃ」

 

カイジンが身を乗り出して食い入るように画面を睨みつけると、鍛冶師としての目が、無意識のうちに外殻の造りを追っていた。

 

装飾の細かさ、継ぎ目のなさ、そして全体の均整。どれを取っても、一朝一夕で仕上がるものではない。

 

「装飾は上等だが、こいつぁ飾りもんじゃねえな。使うために作られた物の面構えだ」

 

「変よね。あれ、横倒しになってるじゃない。なのに水がこぼれてないわ」

 

ピコが眉を寄せて呟くと、ディーノはゆっくりと首を振った。

 

「そこも気になるけどよ。おかしいのは、そこじゃねえ」

 

その声に含まれた硬さに、管制区画が静まり返る。ディーノが真剣な声を出すこと自体が、そもそも珍しいのだ。

 

「ここがどういう場所か、あんたらが一番よく知ってんだろ。繋がってねえもんは流されて消える。……なのにあれは、居座ってやがる」

 

その指摘に、研究者たちが息を呑んだ。

 

異界に隣接する領域ではあらゆる物の位置が固定されず、だからこそラミリスの迷宮ですら、現実世界との接続点を必ず維持しなければならない。

 

繋がっていなければ、留まれない。

 

それはこの数年、彼ら自身が観測によって確かめてきた法則だった。

 

(──繋がってなきゃ留まれねえ。なのにあれは、平然と居座ってやがる。つまりどこかに繋がってるってことだ。だが亜空間には何もねえし、基軸世界とも繋がっちゃいねえ。なら残る答えは一つだけだろ。あれは、この世界のどこでもねえ場所に繋がってる)

 

そして、そんなものをわざわざこの場所に置く者がいるとしたら──。

 

そこまで考えて、ディーノは口を噤んだ。

 

言えば、この場の全員がその可能性を共有することになり、あの物体は「妙な漂流物」から「何者かが意図して設置したもの」へと格上げされてしまう。

 

彼の長い経験上、次元の狭間に意図的に物を置くような存在は、およそ碌なものではなかった。

 

(……面倒はごめんだ。俺は雇われだぞ、雇われ)

 

もっとも、口にしなかったところで面倒事は向こうから訪れる。それもまた、彼が嫌というほど味わってきた真理だった。

 

「──なるほど、興味深い」

 

沈黙を破ったのは、サリオンから派遣された魔導研究者だった。

 

観測結晶に顔を近づけ、蛇腹のケーブルの配置を食い入るように観察している。

 

「あの垂れ下がった管、明らかに何かを『繋ぐ』ための構造ですな。我らのホムンクルス憑依術式の端子と、思想が近い」

 

「じゃあ人が入るもんか」

 

カイジンが低く問い返すと、研究者は視線を画面から離さぬまま、静かに頷いた。

 

「大きさから見て、そうでしょうな」

 

その一言で、管制区画の空気が一変した。

 

未知の物体が、単なる漂流物ではなく「人が使うために作られた道具」である──そう判明した瞬間、研究者たちの目の色が変わったのだ。

 

たちまち議論が沸き立ち、記録用の術式が次々と展開されていく。

 

先ほどまでの緊張は、あっという間に別種の熱へと置き換わっていた。

 

だが、そこに待ったをかける者があった。

 

「──待たんか」

 

低く唸ったのは、ガドラである。

 

観測結晶に顔を寄せ、しわだらけの指で顎を撫でるその目つきは、先ほどまでの飄々とした様子とはまるで別人のものだった。

 

「妙じゃな。ワシの目には、あれが術式の塊のように見えるのじゃが……肝心の術式が読めん」

 

「読めない、とは?」

 

「文字は見えるが、意味が分からんという状態に近いのう。あそこに何かが書かれておるのは間違いない。じゃが、それが何語なのかが分からんのじゃ。……もっとも、画面越しに眺めておるだけじゃからな。細部までは断言できんぞ」

 

その言葉に、サリオンの研究者たちが色めき立った。

 

魔導科学において術式とは言語であり、読めない術式など存在しない。

 

理解が及ばないことはあっても、体系そのものが未知であるなどということは、まず起こり得ないのだ。

 

「ワシは長く生きておるが、こんな代物は初めてよ」

 

そう呟くガドラの声には、隠しようのない興奮が滲んでいる。

 

その横では、ヴェルドラが金色の瞳を細めて映像を睨みつけていた。

 

「ガドラの言う通り、妙だな。我が見ても魔素の気配がない。精霊の波動も、魔力の残滓もないのだ」

 

竜種の視覚をもってすれば、この世界に属するあらゆる存在の系統は見抜ける。

 

魔素であれ、精霊であれ、あるいは神聖な力であれ、そこに在る限りは必ず何らかの痕跡を残すものであり、それは彼にとって、呼吸するのと同じくらい自然な認識だった。

 

だが今、その視覚が何一つ捉えていない。

 

「あれだけの構えを持ちながら、この世界の力を一滴も吸っておらん。……何を喰らって動いておるのか、我にはさっぱり分からぬぞ」

 

「ですから回収の是非については、リムル様に裁定を仰ぐべきかと。ワレは手続きの不備を指摘する立場にあります。ご了承を」

 

すかさずベレッタが進言した。

 

「あー……いや、そりゃそうなんだけどよ」

 

意外にも、渋ったのはディーノだった。

 

「あそこに置いといたら、いずれ嵐に飲まれてどっか行くぜ。次いつ見つかるか分かんねえ」

 

言ってから、彼自身が僅かに眉を寄せる。

 

(……なんで俺は今、こんなことを言ったんだ?)

 

面倒は避けたい。ベレッタの言う通り、放っておいて後の判断を仰ぐのが一番楽なはずだった。

 

だが、あれを見失うのは違う。そういう感覚が、確かにあったのだ。

 

理屈ではない。もっと根の深いところで、あれは今ここで確保しておかなければならないものだと、彼は感じていた。

 

(──まあ、こんだけ妙なもんだ。放置するのも気持ち悪いってだけだろ)

 

そう自分に言い聞かせて、ディーノはそれ以上考えるのをやめた。

 

「ならば話は早い。持ち帰るぞ」

 

ヴェルドラが、あっさりとそう言い放つ。

それを聞いて、すかさず声を上げたのは、ラミリスだった。

 

「え、師匠が一番乗り気なやつ!?」

 

「愚問であるぞ。迷宮の内側に入れてしまえば、貴様の蘇生が効くのだろう。ならば案ずることは何もあるまい」

 

ヴェルドラは実に楽しげに笑い、それから声を落とした。

 

「……調べもせずに捨て置くほうが、よほど愚かというものだ」

 

その理屈は、この場の誰も否定できなかった。

 

というより、研究者たちはもう完全にその気になっている。

 

未知の遺物が手の届く場所に浮かんでいるというのに、持ち帰らないという選択肢は、彼らの中に最初から存在しなかったのだ。

 

ベレッタが数秒沈黙し、やがて深く頭を下げた。

 

「……承知いたしました。ただし記録には『ワレは正規の手続きを求めた』と明記させていただきます」

 

「相っ変わらず律儀だなあ、お前」

 

ディーノは苦笑し、操縦桿に手を伸ばした。

 

鋼の巨人の腕が、荒れ狂う無の海の中で、静かに伸びていく。

 

やがて捕獲用のテザーが黒い外殻を絡め取り、ウィンチが低い唸りを上げると、数年の歳月をかけて造り上げられた探査機は、その初仕事として、この世のものならぬ遺物を引きずり始めた。

 

管制区画は、これ以上ないほどの高揚に包まれていた。

 

初日にして未知の発見。それも、明らかに人の手によるものと思しき遺物。研究者にとって、これ以上の幸運があるだろうか。

 

誰もが笑い、誰もが興奮し、誰もが次の解析に思いを馳せていた。

 

──ただ一人、操縦席の男だけが、最後まで笑っていなかった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

回収された装置は、迷宮九十五階層に急遽設けられた隔離研究区画へ搬入された。

その手配を一手に担ったのは、樹妖精たちであった。

 

「区画の準備は整っております」

 

この計画に全面協力しているトレイニーが、静かに報告する。

 

「結界の展開と人払いは完了しておりますわ。妹のトライアとドリスにも周辺の警備を命じましたので、研究者の方々の出入り以外は一切通しません」

 

「さっすが! 相変わらず仕事が早いね、トレイニーは」

 

「もちろんですわ! ラミリス様の御為ですから!」

 

満面の笑みで胸を張るトレイニーへ、ベレッタが僅かに視線を向けた。

 

相変わらず、トレイニーはラミリス様が絡むと途端に甘くなる──そう内心で思いはしたものの、有能な働きをしているのだから、その点に突っ込むのはやめておくことにしたのだ。

 

そこからの五日間は、まさに祭りだった。

 

各国から集った研究者たちが昼夜を問わず装置に群がり、仮眠室は使われず、食事は立ったまま済まされる。

 

ドワルゴンの職人が外殻の切削に挑み、サリオンの魔導師が術式の逆算を試み、ベスターが報告書を日に三度更新した。

 

その写しは、日ごとに地上の執務室へも届けられている。

 

もっとも当のリムルは、その途中で国を発っていた。魔国連邦での日程を終え、今度は招かれる側として、聖都へ向かったのだ。

出立の前日に届いた報告に記されていたのは、術式の八割までは読み解けたこと、残る部分にはまるで歯が立たぬこと、そして内部の液体が生体に無害であること。それだけだった。

報告物が気にならなかったわけではないようだが、帰ってきてから検分をすると決めていたようである。

 

この九十五階層には、ドワルゴンの精霊工学、サリオンの魔導科学、そしてルベリオスの吸血鬼族が持ち込んだ物理工学という、まったく異なる三つの学問体系が同居している。

 

意気投合しているとはいえ、普段であれば国ごとの流儀の違いから、小競り合いの一つも起きるところだ。

 

だがこの五日間に限っては、そうした諍いが一切なかった。

 

目の前に、誰も見たことのないものがある。それだけで、彼らは十分に一つになれた。

 

そして六日目の朝。関係者を集めた報告の場が持たれた。

 

「では、順に報告させていただきます」

 

司会に立ったベスターの目の下には隠しようのない隈が刻まれていたが、それでも背筋は真っ直ぐに伸びていた。

 

「まず外殻および構造──カイジン殿」

 

「おう」

 

前に出たカイジンは、腕を組んだまま口を開いた。

その表情は一言で言えば不機嫌だったが、それは怒りではなく、職人が自分の限界を突きつけられた時に浮かべる類のものだ。

 

「先に言っとくが、俺は降参だ。あんな金属は見たことがねえ」

 

「ほう」

 

「硬えってわけじゃねえんだよ。神輝金鋼(オリハルコン)ならもっと硬い」

 

彼は自分の掌を見下ろした。

 

この五日間、あらゆる工具と技法を試した手であり、爪の間には、削り取れなかった無念だけが黒く残っている。

 

「だが削れねえ。刃を当てると、当てた分だけ表面が『元に戻る』んだ。……こいつぁ材質じゃなくて、性質の問題だな」

 

その言葉に、研究者たちがざわめいた。

材質であれば、成分を分析すれば再現の道が開ける。

だが性質となれば話は別で、それは「この金属がどういう法則の下に存在しているか」という問題であり、鍛冶の領分を完全に超えている。

長年この道で生きてきたカイジンの結論は、敗北の宣言であると同時に、この装置がどれほど異質かを示す最も分かりやすい証言でもあった。

 

「続いて、術式解析について。ガドラ殿」

 

「うむ」

 

進み出たガドラは、資料を広げようともしなかった。

 

「先に断っておくが、ワシも半分は降参じゃ」

 

「半分、と申しますと」

 

「読める部分は完璧に読めた。実に見事な術式じゃよ。無駄がなく、美しい。ワシが組んだものより余程な」

 

「では、亜空間で仰っていた『何語か分からん』というのは」

 

「あれはワシの見立て違いじゃ」

 

白髭を撫でながら、ガドラは悔しげに、しかしどこか嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

「近くで見れば、八割方はこの世界の術式言語で組まれておったわい。読めなんだのは、画面越しで細部が潰れておったからじゃな。……問題は、その先よ」

 

「その先、と申しますと」

 

「ある一点から先が、どうにも読めん。文字はある。びっしりと、隙間なくな。じゃが、どう組み替えても意味を成さんのじゃ」

 

「では、やはり未知の言語だと」

 

「いいや、逆じゃ」

 

ガドラは杖の先で、苛立たしげに床を突いた。

 

「未知の言語なら、必ず繰り返しが出る。同じ語が二度現れれば、そこを足掛かりにいずれ崩せるものよ。ワシは若い時分に、そうやって古代術式を三つばかり解いておる。……じゃがあれには、繰り返しが一つもない。同じ形が、二度と出てこんのじゃ」

 

その言葉の意味を、この場の研究者たちは即座に理解した。

 

手掛かりが少ないのではない。手掛かりが一つも生まれない構造になっている、ということだ。

 

「つまりじゃ」

 

ガドラは白髭を撫で、そこで初めて声を落とした。

 

「あれは、わざと読めんようにしてある。……誰かに読まれることを承知の上で、読ませぬように書かれておるのよ」

 

場がざわめいた。

 

未知であることと、隠されていることは、まるで意味が違う。前者はただの距離だが、後者には意思がある。

 

「そんな馬鹿な。それでは術式として成立しないでしょう」

 

サリオンの研究者が身を乗り出して反論すると、ガドラは再び杖の先で床を突いた。

 

「成立しておるから困っておるのじゃろうが! 読めん術式が、目の前で立派に動いておるのじゃぞ!」

 

そう言い返しながらも、ガドラの目は爛々と輝いている。

 

ガドラにとって解けない謎とは屈辱ではなく、むしろ生き甲斐そのものであり、帝国を捨ててまでこの国に来たのも、突き詰めれば知的好奇心のためなのだ。

 

「まあ、焦らずやろうではないか。何しろワシらには時間がある」

 

そう言ってガドラが話を締めたのを見て、ベスターは次にガビルを指名した。

 

「続いて、内部の液体について。ガビル殿」

 

「はっ! 我輩にお任せあれ!」

 

意気揚々と進み出たガビルが、胸を張った。

 

こちらはカイジンとは対照的に実に晴れやかな顔をしており、彼にとってこの五日間は、久々に全力を出せた充実の日々だったらしい。

 

「結論から申し上げますぞ。あの液体、生体には完全に無害であります!」

 

「無害?」

 

「それどころか、保護と伝導を目的とした組成でありますな。長時間浸かっても身体を害さぬどころか、むしろ体組織への負担を軽減する働きが認められました。ヒポクテ草の研究で培った我輩の知見に、狂いはありませぬぞ!」

 

「安全評価の為と言って、わざわざ別の容器に溶液を移してまで浸かっておりましたからな、この方は」

 

サリオンの研究者が横から補足すると、場に笑いが起きた。

 

無謀と言えば無謀だが、ガビルは自分の身体で確かめることを厭わず、回復薬の開発においても、常に最初の被験者を買って出てきた。

 

そして結果として、その体当たりが最も確実な証明となったのも事実だった。

 

「なんだよ、じゃあ危なくねえのか」

 

ガラシャが拍子抜けしたように呟くと、壁際からやたらと陽気な声が飛んだ。

 

「ヘーイ、そこ大事ネ! ボディは安全、これ確定ヨ!」

 

ルベリオスから派遣された超克者──夜の眷属たる研究者達の代表格である。

 

災厄級に相当する実力者でありながら、この男の頭の中には実験と数値しか詰まっていない。

 

「ミー達、魔法ヌキで測ったネ。温度、圧力、伝導率、ぜんぶ数字にしたヨ。何度やっても同じ結果ネ! これ、大事ネ!」

 

「数字だけで何が分かるってんだ」

 

カイジンが鼻を鳴らすと、超克者は待ってましたとばかりに人差し指を立てた。

 

「オウ、分かるヨ! むしろ魔法使うと、術者で結果が変わるネ。それじゃダメネ! 誰がやっても同じ、それが真実ヨ!」

 

得意げに胸を張る男に、サリオンの研究者が苦笑を漏らした。

 

魔法を極めた者にしか到達できぬ『魔導科学』と、魔法を一切排除する吸血鬼族の物理工学。この二つは根本の思想からして相容れない。

 

学問の流儀を巡るこの応酬は五日間で幾度となく繰り返されたものだが、互いに敵意はなく、あるのは競争心だけだった。

 

「それと、もうひとつ大事な事があるネ」

 

超克者の男は、装置を指差した。

 

「あの管、飾りじゃないヨ。中に沈んだ者へ繋ぐものネ。……つまり、この装置はカラダごと沈めるヨ。頭のてっぺんまで、水の中ネ」

 

「……息はどうすんだ」

 

ディーノが低く問うた。

 

この五日間、彼は珍しく毎日この区画に顔を出していた。誰に頼まれたわけでもない。

 

亜空間で飲み込んだ疑問が今も喉の奥に小骨のように引っかかっており、それを抜くには、この解析結果を聞き続けるしかなかったのだ。

 

「オウ、いい質問ネ!」

 

男は嬉しそうに手を打った。

 

「その液体、呼吸を必要としない体質に働きかけるヨ。ガビル先生の報告と一致ネ。魔物なら問題なし、人間でも耐えられる設計ヨ」

 

そこで彼は、初めて僅かに声を落とした。

 

「……つまりネ、作った者は『生き物を丸ごと沈める』つもりで作ったネ。それも、殺さないようにネ」

 

丁寧に作られている。

 

その事実は、この場では安心材料として受け止められた。

 

危害を加える意図がないのなら恐れる理由もない──研究者たちの多くは、素直にそう解釈した。

 

「一点、確認したいことが御座います」

 

その空気の中で、ベレッタが静かに手を挙げた。

 

「中に入った者は、外から引き上げられるのですか」

 

一瞬、場が沈黙した。

 

誰も考えていなかった問いだった。装置の性能や構造ばかりに気を取られ、最も基本的な安全確認が抜け落ちていたのだ。

 

(……ワレとしては、この一点だけは押さえておかねばならん。装置が何を為すかは、この際どうでもよい。中へ入った者が、己の意思で戻ってこられるのか。それが確かめられぬ限り、これは研究対象ではなく、ただの罠だ)

 

ベレッタの思考は明快だった。

 

主であるラミリスの従者であり、同時に迷宮の管理を担う立場にある以上、あらゆる事態において最悪の場合の退路を確保しておくのが、その職務なのだから。

 

「……そりゃ、液体に浸かってるだけだろ」

 

カイジンが眉を寄せた。

 

「掴んで引っ張りゃ出てくるさ。管が繋がってんなら外せばいい。難しい話じゃねえだろ」

 

「引き抜く際に、中の者へ影響は出ませぬか」

 

ベレッタが重ねて問うと、サリオンの研究者が顎に手を当てた。

 

「……もっともな懸念ですな。我らの憑依術式でも、術中に接続を断てば術者に反動が来ます。ですが、あれは術者の魂を器へ送り込む構造でしてな」

 

「本装置は違うと」

 

「術式を見る限り、使用者の身体にある魂に情報を送り込み過去を体験させるという構造となっているようです。記憶自体は読み取るようですが、魂が使用者の中に留まっているのであれば接続を強制的に切っても影響は出ない……理屈の上では、そうなります」

 

「我輩も同意見でありますぞ!」

 

割って入ったガビルが、太い指をぴんと立てた。

 

「あの管は神経に触れる作りでありますが、あくまで触れるだけであります。刺すのでも、繋ぎ換えるのでもありませぬ。液体が伝導を担っておる以上、管そのものが体内へ食い込む必要などないのでありますからな。剥がしたところで、痕も残りますまい!」

 

「オウ、ミーも賛成ネ! 水は水、管は管ヨ!」

 

「……承知しました」

 

ベレッタはそう判断し、記録板に「外部からの強制切断、可」と書き記した。

 

誰もが納得し、話題はすぐに次へと移っていく。

 

「魂への直接干渉! なんと素晴らしい」

 

「解析できれば蘇生術式にも応用が──」

 

「いや待て、まず観測手段を確立せねば」

 

たちまち議論が沸騰する。

学者にとって未知とは恐怖ではなく研究の対象であり、目の前にあるのは生涯に一度出会えるかどうかの獲物なのだ。

危険を論じるより先に、彼らの頭は「これで何ができるか」で埋め尽くされていた。

 

「──静粛に。用途については、別の結論が出ております」

 

ベスターが手を打ち鳴らして場を鎮めた。

 

「これに関しては、我々よりも先に答えに辿り着いた者たちがおりましてな。……シンジ君」

 

「はい」

 

呼ばれて立ち上がったのは、まだ若い男だった。

 

かつて帝国の混成軍団に属し、今はこの国に籍を置く異世界人──シンジ・タニムラである。

彼と、その仲間であるマークとシンの三人がこの隔離区画へ呼ばれたのは、ガドラの推挙によるものだった。異世界の知識を持つ者の目で、あの装置を見てほしい。そういう依頼である。

 

だが装置を一目見た瞬間、三人の表情が変わった。それは、頼まれた役目を果たそうとする顔ではなかった。

 

「私達は、これを初めて見た時に『あ、これ知ってる』と思いました」

 

「知っている?」

 

「正確には、似たものを知っている、ですね」

 

シンジは装置を見上げ、記憶を手繰るように目を細めた。

 

「私達の世界には、こういう機械の『構想』があったんです。昔、映画で見たこともあります。中に人が入って、液体に浸かって、全身を端子で繋いで──そうやって、別の世界に潜り込む」

 

「別の、世界?」

 

「作り物の世界です。仮想現実(バーチャルリアリティ)って呼んでました」

 

ざわめきが広がった。

この場にいる研究者たちにとってそれは全く馴染みのない概念だったが、彼らは即座に理解した。

目の前の異世界人が語っているのは、空想の産物ではなく、実在する技術思想なのだと。

 

「機械の中に世界を作って、そこへ入っていく。身体は液体に沈んだまま、意識だけがそっちで動くんですよ。……もっとも、私達の世界でも実現はしてませんでしたけど」

 

「それがこれだと?」

 

「構造が、あまりにも一致してるんです」

 

シンジの隣で、マークが腕を組んで唸った。

理屈の話は苦手な男だが、彼には彼なりの、直感的な納得の仕方があった。

 

「俺は正直ピンと来なかったんだけどよ。シンジが言うには、水に浸けるのは体を守るためで、管は神経に繋ぐためなんだと。……そう聞いたら、まあ、そう見えてくるよな」

 

「……間違いない。見た瞬間に、そう思った」

 

ぽつりと、シンが呟いた。その一言で、場の空気が固まる。

 

シンは無駄口を叩かず、言葉を発する時には必ず確信がある。それは共に迷宮を攻略してきた仲間たちが、身をもって知っていることだった。

 

「では、我々の解析結果と突き合わせましょう」

 

ベスターが資料を掲げる。

 

「サリオン組の術式解析では、この装置は『過去の記録』を参照する構造を持つと判明しています。そこにシンジ君らの見立てを重ねると──」

 

彼は一度言葉を切り、それから高らかに告げた。

 

「これは、『過去を追体験させる装置』であると結論できます」

 

おおっ、と歓声が上がった。

 

五日間の総力戦がついに答えを出した瞬間であり、研究者たちの何人かは、互いの肩を叩き合っている。

 

「なんだ、じゃあ記録水晶の親玉みたいなもんかい」

 

ガラシャが笑いながら軽口を叩き、それから、ふと真顔になって顎に手を当てた。

 

「……いや、待てよ。カイジンの旦那が刃も立たねえと言って、ガドラの爺さんが術式も読めねえと言ってんだ。そんな連中が五日も張りついて手こずる代物が、記録水晶の親玉で済むわけがねーよな」

 

「ノンノン! そこがオカシイのネ!」

 

超克者の男が、勢いよく手を挙げた。

 

「ミー達、この装置が動くときの活動量を測ったヨ。……そしたら桁が合わないヨ。全然合わないネ! 記録を見せるだけの機械なら、こんなに働かないヨ。これ、働きすぎネ。おかしいネ!」

 

「なるほど。では、その数値を──」

 

「……それとネ。ミー、一つだけ困ってるヨ」

 

資料へ手を伸ばしかけたベスターを、超克者が遮った。

 

「同じやり方で、二回測ったネ。三回も四回も測ったヨ。……でも、同じ数字が一度も出ないネ」

 

陽気な男の声から、初めて調子が抜け落ちていた。

 

「ミーの学問、誰がやっても同じ結果が出る、それが真実ネ。だからミー、魔法を捨てたヨ。……でもコレ、ミーが測っても、ミーがもう一度測っても、違う数字ネ。ミー、この五日間、それだけが気持ち悪いヨ」

 

五日間ずっと数値の正しさを説いてきた男が、その数値に裏切られている。

 

その居心地の悪さは、彼の学問を散々からかってきたサリオンの研究者たちにさえ、笑い飛ばせるものではなかった。

 

「……その数値を受けて、我々が試算を行いました」

 

ベスターが引き取り、次の資料を広げたが、その手は僅かに震えている。

 

計算を三度やり直し、四度目も同じ結果が出て、それでも信じられずサリオンの研究者に検算を頼み、そこでも同じ数字が出たのだ。

 

(──間違いであってほしかったのだがな)

 

「映像の再生や、記憶の投影──そういった水準ではありません。この装置が処理している情報量は、それらより遥かに上です」

 

「どれくらいだ」

 

ヴェルドラが問う。ベスターは、資料の縁を握りしめた。

 

「──世界を、丸ごと一つ。それに連なる次元まで含めて、この装置は創り出しております」

 

「は?」

 

ピコが間抜けな声を出し、眉間に皺を寄せて、聞き間違いを疑うように身を乗り出した。

 

「創るって、何を」

 

「世界です。法則を持ち、時間が流れ、その中で人が生き、死ぬ。そして、そこに並行して存在する次元まで含めて」

 

ベスターは、震える声で続けた。

 

「……そういうものを、装置の内側に構築している。過去を『見せて』いるのではありません。過去を『もう一度、起こして』いるのです」

 

しん、と場が静まった。

 

そんなことをやってのけた存在を、この場の全員が知っていた。ただ一人だけ、心当たりがあったのだ。

星王竜ヴェルダナーヴァ。世界を創り、そして世界を去った、ただ一人の創造主である。

 

「──えっ、何それ!」

 

その静寂を、あっさりと突き破る声があった。

 

ラミリスである。目を輝かせて宙を舞い上がると、装置の上でくるりと一回転してみせた。

 

「世界を創れるってこと!? 造物主(かみさま)と同じことができる装置ってこと!?」

 

「ら、ラミリス様。事はそう単純では──」

 

「すごいじゃん! アタシたち、そんな発見しちゃったんだ!」

 

ベスターの制止など、まるで耳に入っていない。

 

だが次の瞬間、はしゃぎ回っていたラミリスの動きが、糸を切られたようにぴたりと止まった。

 

「……ってことはさ。中に入ったら、そこはもうアタシたちの世界じゃないってことじゃん」

 

場が静まる。

 

ラミリスは浮かれているようでいて危ういところは正確に嗅ぎ分けるもので、迷宮の主として、彼女は無数の挑戦者が「戻れなくなる」瞬間を眺め続けてきたのだ。

 

「アタシの蘇生ってさ、この世界の理屈で動いてるの。ここじゃない場所にまで手が届くとは、ちょっと思えないんだけど」

 

その一言に、研究者たちの顔から一斉に熱が引いた。

 

彼らは今の今までこの装置を「何ができるか」でしか測っていなかったというのに、迷宮の主は真っ先に「戻ってこられるか」を口にしたのだ。

 

しかし、数秒の沈黙を破って、ラミリスがぱっと両手を広げた。

 

「……でも! アタシ、こんなの見たことないのよさ! わかんないから面白いんじゃん。ねえ師匠、そうでしょ!?」

 

「うむ、その通りだ」

 

その無邪気な宣言は、張り詰めていた空気を一息に緩めた。

研究者たちの何人かが、我に返ったように顔を見合わせる。

そうだ、これは恐れるべきものではない。危ういことは承知の上で、それでも踏み込む。この国が、自分たちの手で見つけ出した成果なのだ。

誰も、彼女を窘めなかった。

 

「……構造解析の方は、どうなっておる」

 

ヴェルドラが、低く問うた。

 

「そちらが、もう一つの問題でして」

 

ベスターは資料を差し替えた。

 

「装置の構造は、およそ八割が解析済みです。これは我々にとって驚きでした。素材も、術式の記法も、機構の組み方も──この世界の法則に、きちんと準じているのです」

 

「じゃあ、この世界の誰かが作ったってことか?」

 

ディーノの言葉に、ベスターは曖昧に頷いた。

 

「少なくとも、作り手はこの世界を熟知しています。異界からの漂着物という当初の仮説は、成立しません」

 

その回答に、ディーノの内心は一層ざわついた。

 

(──この世界を知ってる誰かが、この世界の材料で作った。そいつはそれを、わざわざ誰の手も届かねえ場所に置いた。隠したかったのか、それとも誰かに見つけてほしかったのか。どっちにしろ、そこに意図があるってことじゃねえか)

 

ますます、疑いが濃くなる。

 

だが彼はやはりそれを口にしなかった。ここで騒いだところで研究者たちの熱を冷ますことはできまいし、それに、彼らが解析を進めればいずれ答えは出るはずだった。

 

「じゃあ残りは…」

 

「──解けません」

 

きっぱりとした答えだった。

 

「五日間、あらゆる手法を試しました。魔法解析、物理解体、術式の逆算。全て同じ結果です」

 

ベスターは装置を振り返った。

 

「壁にぶつかっているのではない。ぶつかる壁が、見つからないのです。……あの二割には、我々の解析という行為そのものが、届かない」

 

「ふむ……」

 

ゆっくりと、ヴェルドラが立ち上がった。

 

「ならば、我がやろう」

 

「師匠?」

 

答えず、ヴェルドラは装置の前へと歩み出る。

その瞬間、隔離区画の空気が、質量を伴って軋んだ。

 

ヴェルドラの権能、混沌之王(ナイアルラトホテップ)が、静かに解き放たれる。

究極の権能により装置の細部が余すことなく検分されていく。

 

その光景に研究員たちが息を呑んだ。

 

彼らはヴェルドラが本気で解析に臨むということがどれほどの事態を意味するのかを知っており、そして同時に、これに解けぬものなどあるはずがないと確信してもいた。

やがて、ヴェルドラの金色の瞳が微かに細められた。

 

「……ふむん」

 

「ど、どうなんですか、ヴェルドラ様」

 

ベスターが震える声で尋ねる。

 

「おおよその部分は、貴様らの言う通りだな。何もかも読める。……だが」

 

ヴェルドラは、ゆっくりと権能を解いた。

 

「一つは解ける。だがその先が続かん」

 

「一つ、とは……」

 

「言葉のままだ」

 

ヴェルドラは装置を見下ろした。

 

「この装置は一つの法則などではない。数多の法則によって成り立っておる。しかし、我が思考を限界まで速めてなお、その一つを紐解いたところですぐに次の法則が顔を覗かせる。これでは全容など掴めるはずがあるまい」

 

その声には、彼にしては珍しく、確かな困惑が滲んでいた。

 

「しかし、一部分は解析できたと!?」

 

ベスターが身を乗り出すが、ヴェルドラは静かに首を振った。

 

「ああ。だが、そこで得たものが、次の法則に対しては何の役にも立たん。まるで、我が解いた端から、解かれた分だけ別のものに作り替えられておるかのようだ」

 

ヴェルドラが混沌之王(ナイアルラトホテップ)に目覚めてからは、この世に見通せないものなどないと思ってきた。

だが今回に限っては、どれだけ解析しようと、その結果が次の瞬間には何の意味も持たなくなっているのだ。

それは、彼が生まれてこのかた一度も味わったことのない類の無力だった。

 

隔離区画が、水を打ったように静まり返った。

 

「どのような手段でこれほどまでの細工を為しておるのか、我にも分からぬ。……我にも、だ」

 

竜種の権能をもってしても届かない。それが何を意味するのか、この場の全員が理解している。

五日間の総力戦が出した答えは、二つだった。

この装置が過去を再現するものであること。そして、その核心には誰の手も届かないということ。

 

誰も、次の言葉を継げなかった。

 

しかし、沈黙を破ったのは、当のヴェルドラ自身だった。

その肩が小さく震えたかと思うと、堪えきれぬものが堰を切ったように溢れ出した。

 

「クアーーーッハッハッハ!」

 

轟く哄笑が、隔離区画を揺さぶった。

 

「な、なんだよ。急に!」

 

「実に面白い! この我が、全力で挑んで届かぬものがあるとは!」

 

満面の笑みで振り返ったその瞳には、押さえようのない歓喜が満ちている。

 

嫌な予感がした。この場にいた全員が、同時に、同じ予感を覚えた。

 

長く彼と付き合ってきた者ほど、その表情の意味を知っている。ヴェルドラがこの顔をした時、次に飛び出すのは決まって碌でもない提案なのだ。

 

「諸君。よく考えてみるのだ!」

 

両手を広げ、ヴェルドラは朗々と告げた。

 

「調べても分からぬのだろう? 解析しても届かぬのだろう? その上、身体に害はないと来た。ならば──」

 

「まさか!」

 

「──繋いでみればよかろう!」

 

隔離区画が、一瞬で凍りついた。

 

「い、いやいやいや待ってくださいヴェルドラ様! リムル様がお戻りになるまでは基本的な調査に留めるようにとのお話があったではないですか! それに、誰かを被験者にするのは流石に──」

 

「馬鹿を言うな」

 

心外だとばかりに、ヴェルドラが眉を跳ね上げる。

 

「誰が他者を被験者にするといった?」

 

「え?」

 

「我が入るに決まっておろうが!」

 

そういう問題ではない、と誰かが叫んだ。

 

だが、当のヴェルドラにしてみれば、そこは譲れぬ一線だった。自分が言い出したことなのだから、自分が確かめるのが筋である──そう考えているのだ。

 

彼は決して無責任な男ではない。むしろ、その逆だった。かつて三百年もの間、封印の洞窟で孤独に過ごした竜である。誰かを危険に晒してまで自分の好奇心を満たそうとは思わない。だが自分自身が危険を負うのであれば、話はまったく別なのだ。

 

そして何より、彼は退屈していた。

 

世界に平和が訪れ、戦うべき敵もいない。ここ数年、彼が本気になれる機会は一度もなかった。そこへ、この装置である。竜種の権能をもってしても届かないものが目の前に転がっているのだから、触れるなという方が無理な相談だった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

その後の三十分は、隔離区画がこの数年で最も紛糾した時間となった。

 

ベレッタが正規の手続きを求め、ベスターが安全評価の不足を訴え、サリオンの研究者たちが観測体制の不備を指摘する。ドワルゴンの職人衆に至っては、装置ごと封印する具体案を紙に描いて突きつけてくる始末だった。

 

「ヴェルドラ様。私からも申し上げます」

 

一歩前に出たカリスが、静かに膝をついた。

 

「危険かどうかが分からぬものへ主が自ら手を突っ込まれるのを、黙って見ているわけにはいきません」

 

「ふん。ならばどうしろというのだ」

 

「リムル様のお戻りをお待ちください。三日で済む話です」

 

「…カリスよ。それは出来ぬ相談よ。我にも、我自らの手でこの謎を解き明かしたいという思いがあるのでな。」

 

即答だった。

 

カリスは数秒、ヴェルドラを見上げていた。それから、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……承知いたしました。それであれば、せめて安全に調査ができるように私は尽力いたしましょう」

 

諦めたわけではない。カリスは、主を止めることと、主を見届けることの区別がついているだけだった。

普段であれば意見の割れる面々が、この時ばかりは完全に一致していた。

だが。

 

「──ならば問おう」

 

腕を組んだまま、ヴェルドラが彼らを見渡した。その声からは先ほどまでの浮かれた調子が消えており、竜種としての格が僅かに滲んでいる。

 

「この中に、我を止められる者はおるか?」

 

いなかった。

 

理屈でも力でも、この竜を押し留められる者はこの場にいない。それはこの国において、当たり前すぎる事実だった。

 

「では次だ。仮に我が入ったとして、身体に害が及ぶ根拠を示せる者はおるか?」

 

「そ、それは……」

 

ガビルが口ごもり、助けを求めるように視線を彷徨わせる。

無害だと保証したのは、他ならぬ彼自身だった。しかも五日間の実験を経て、確信をもって。今さら撤回する材料など、どこにもなかった。

 

「呼吸も問題ない。液体も安全。管の接続も、切ればそれで終わりなのだろう? 貴様ら自身がそう言ったではないか」

 

「……理屈の上では、そうですな」

 

サリオンの研究者が、絞り出すように認めた。

 

「ならば案ずるな」

 

ヴェルドラは、実に楽しそうに笑った。

 

「万一の際は、貴様らが引き上げればよい。何しろここは迷宮の中だ。世界で最も安全な場所であろうが」

 

反論は、出てこなかった。

出てこなかったというより──出せるだけの材料が、誰の手にもなかった。五日をかけて調べ上げた結論が、そのまま彼の背中を押していた。安全だと証明したのは、他ならぬ彼ら自身なのだ。

 

(……まずいな)

 

ディーノは、内心で舌打ちした。

 

理屈の上では、確かにヴェルドラの言う通りだ。だが自分の中には、あの亜空間で覚えた違和感がまだ残っていた。繋がっていないはずのものが、居座っていた。誰かが置いた可能性がある。

 

言うべきか。

 

(──いや、言ったところでどうにかなるもんでもないな。証拠はない。俺が勘でそう思っただけだ。しかもヴェルドラは、そういう曖昧な理由で止まるようなヤツじゃねえ。むしろ『面白そうだ』と勢いづくのが目に見えてるしな)

 

彼はそう結論づけて、口の中の言葉を飲み下した。

 

「……オイ、いいのかよ」

 

代わりに、隣のラミリスへ小声で囁く。

 

「止めなくていいのか、お前の師匠だろ」

 

「ディーノちゃん、無理だよ」

 

ラミリスは疲れきった顔で首を振った。

 

「あの顔になった師匠は、絶対に止まんないのよさ。アタシが何年付き合ってると思ってるの」

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

ヴェルドラが装置の縁に足をかけたのは、それから間もなくのことだった。

 

「では、行ってくるとしよう」

 

「ヴェルドラ様。せめて記録用の術式だけでも──」

 

「不要だ。何かあれば我が自力で戻る」

 

そう言い放つと、ヴェルドラはためらいなく身を沈めた。

 

「…では、お帰りをお待ちしております」

 

カリスは、それだけ言って深く頭を垂れた。止められぬと分かった以上、送り出す以外にできることはない。

 

澄んだ液体が、その身体を静かに受け入れていく。肩が沈み、顎が沈み、やがて金色の髪が水中へと広がった。

 

底から伸びていた無数の蛇腹が、ゆらりと持ち上がる。意思を持つように。待ちわびていたように。それらは沈んだヴェルドラの身体へと、次々に接続されていった。

 

その光景に、研究者たちは声もなく見入っていた。

 

五日かけても解き明かせなかった機構が、今、目の前で当たり前のように作動している。彼らがどれだけ外から叩いても開かなかった扉が、内側から易々と開いたようなものだった。

 

「……接続を確認」

 

ベスターが掠れた声で告げる。

 

「装置、起動しました」

 

水面が、ぴたりと静止した。波紋ひとつ立たない。まるでそこに、透明な蓋がされたかのように。

 

ゆっくりと、装置の外殻を走る金の彫金が、淡い光を帯び始めた。

 

そして。

 

リリリリリリリリ……。

 

水底で、ヴェルドラは僅かに眉を寄せた。

 

聞き覚えのない音だった。魔素の響きでもなければ、精霊の唄でもない。呼び鈴のようでもあり、警告のようでもある。

 

(……はて。何なのだ、これは)

 

訝しむ間もなく、その意識は深い水底へと沈み込んでいく。

 

隔離区画では、誰一人としてその音を聞いていない。壁一面の観測結晶にも、計器の記録にも、何ひとつ残らなかった。

 

「……他に異常はねえのか」

 

カイジンが顔をしかめて問う。

 

「生命反応、正常。魔素の循環にも変化はありません」

 

「装置の出力、安定しております」

 

計器を読み上げる声が、次々と重なった。

 

数値の上では、何一つ問題はない。ヴェルドラは眠っているのと変わらない状態で、ただ静かに水底へ横たわっている。

 

だが、隔離区画の空気は先ほどまでと明らかに違っていた。祭りは終わったのだ。あとは、ただ待つ時間が始まる。

 

「──ベスター殿」

 

その静けさを破ったのは、ベレッタだった。

 

「本件、ただちにリムル様へ御報告いたします」

 

「あ、ああ。それは、当然そうすべきでしょうな。私の方からも書面を用意します。解析記録の写しも添えて──」

 

「いえ、書面では遅すぎます」

 

ベレッタは、既に踵を返していた。

 

「ベニマル様へ思念を飛ばします。リムル様への伝達は、あの方から直接なされるべきでしょう」

 

「え、ちょ、待って!」

 

慌てて飛びついたのは、ラミリスである。

 

「今言うの? 今!?」

 

「はい」

 

「いやほら、その、師匠が出てきてからでも──」

 

「ラミリス様」

 

ベレッタは、静かに主を見上げた。その声には、従者としての明確な意志が込められている。この数日、二度にわたって自らの進言を退けられていた。だがそれは、諦めたことを意味しない。

 

「ワレは、既に二度、進言を退けられております。三度目は求めません。……そもそも、これは隠し通せる事柄ではありません。ヴェルドラ様の御不在は、遅かれ早かれ露見いたします。であれば、早い方が良いのです」

 

「……そりゃ、そうかもだけどさぁ」

 

しぶしぶといった様子で、ラミリスは肩を落とした。

 

「怒られるじゃん、アタシたち」

 

「怒られます」

 

「即答すんなー!」

 

「事実ですので」

 

やり取りを聞いていたディーノが、げんなりした顔で頭を掻いた。

 

「……なあ、俺も怒られるのか?」

 

「操縦者として現場におられた以上、無関係ではありませんな」

 

「勘弁してくれよ」

 

そうぼやきながらも、彼はベレッタを引き止めようとはしなかった。むしろ、内心では安堵していた。

 

(──これでようやく、リムルさんが戻ってくるな)

 

自分にできることは何もない。装置の正体も分からなければ、ヴェルドラを引き上げる手段も持たない。

 

あの亜空間で覚えた違和感を、彼はまだ持て余していた。誰にも言えず、言ったところで信じてもらえるとも思えない。証拠がないからだ。

 

だが、あの人は違う。証拠がなくとも話を聞く。そして大抵の場合、こちらが言葉にできなかったものまで見抜いてしまう。

 

(……あの人が来れば、なんとかなるだろ)

 

それは投げやりな結論ではなかった。

 

長らく敵として立ちはだかり、そして今は雇われている。その相手を、いつの間にか自分はそういう目で見るようになっていたのだ。

 

そう気づいて、彼は少しばかり据わりの悪い気分になりながら、椅子に深く座り直した。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

こうして、隔離区画には静かな待機の時間が訪れた。

 

暴風竜ヴェルドラは、澄んだ液体の底で横たわっている。生命反応は正常。魔素の循環も安定。ただ意識だけが、どこにも見当たらない。

 

計器は何一つ異常を告げず、研究者たちは黙々と数値を記録し続けた。

 

その中で、ラミリスとカリスは装置の傍から離れなかった。

水面を覗き込み、ヴェルドラの寝顔を見つめている。

その表情には、不安と、そしてほんの少しの羨望が入り混じっていた。

 

「ラミリス様」

 

そこへ、トレイニーが歩み寄った。

 

「お茶をお持ちいたしましたわ。それと、ショートケーキも」

 

「……ん、ありがと」

 

「あまり気を張られませぬよう。ヴェルドラ様のことです、案外けろりとお戻りになりますわ」

 

「そうだよね。師匠だもんね」

 

「ええ。それに、ラミリス様が気に病まれる必要など、どこにもございませんもの」

 

トレイニーの声には、微塵の疑いもなかった。

 

「ラミリス様は何も悪くありませんわ。悪いのは強引に押し通されたヴェルドラ様と、それをお止めできなかった周囲の者たちです。ラミリス様は精一杯おやりになりました」

 

「いや、アタシも止められなかったんだけどさ……」

 

「いいえ。あの状況で誰にも止められなかったのですから、ラミリス様に責はございませんわ」

 

「そ、そう?」

 

「当然でございます」

 

きっぱりと断言され、ラミリスは少しだけ表情を緩めた。

近くで聞いていたベレッタが、僅かに首を振る。トレイニーの主への献身は、時として盲目に過ぎるのだ。

 

──そして一時間後。

 

この国の盟主が、隔離区画の扉を開けることになる。




お待たせしました。第七章の始まりとなります。
次の話は一週間後を予定していますが、投稿頻度について皆さんの意見をお伺いしたいので、アンケートを設置してみたいと思います。(初めて使う機能ですので、うまく設定できなかった場合は申し訳ありません。)

第七部の投稿ペースについて

  • 一週間に一話で良い
  • 後で日数が空いてもいいので短いスパンで
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