【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
神聖法皇国ルベリオス、聖なる都〝ルーン〟
三日間にわたる大音楽祭は、実に穏やかに終わろうとしていた。
テンペストとルベリオスが音楽で交流することとなったのは、今に始まった話ではない。
だが、両国の共催で大規模に執り行うようになったのは、あの終末宣告より後のことである。
神にして魔王だと、ルミナスは全世界へ向けて自ら名乗りを上げた。世界が滅びに瀕していると告げ、逃げるなと言い放ち、力ある者は死に場所を与えてやると言い切ったのだ。あの演説がなければ、あの決戦に人類が並び立つことはなかっただろう。
そして決戦から数年。星王竜にまつわる災厄も過ぎ去り、世界は今、正真正銘の安寧の中にある。戦の心配をせずに、ただ音楽を聴ける──それだけの事がどれほど得難いものか、俺は骨身に染みて知っていた。
ルミナスが表舞台に出てから、ルベリオスはこれまで以上の団結と信仰により栄えていった。
そしてこの共催の音楽祭の執り行いも、テンペストで開催した後にルベリオスで行うというのがいつからか決まりごとのようになっていた。
もっとも今年は、勝手が違った。
ちょうど一つの節目に当たるということで、これまでの総括を兼ねた大規模なものにしようと、両国の間で話が持ち上がった。招く側の日程も、招かれる側の日程も、例年の比ではなかった。
おかげでこちらは、地下で進んでいた計画の晴れ舞台に顔を出しそびれる羽目になったのだが──まあ、それは仕方がない。
「──どうであった、リムルよ」
最後の演奏を終え、喝采の余韻がまだ残っている中。隣に座っていたルミナスが、静かに問いかけてきた。
「いや、驚いた。正直に言うと少し舐めてたよ。ここまでルベリオスの音楽団が腕を上げてるとは思ってなかった」
「ほう?」
ルミナスは満更でもなさそうに口の端を上げた。
テンペストの音楽が「楽しませるためのもの」だとすれば、ここの音楽は違う。祈りに近い。というより、祈りそのものだ。
数百年、数千年と積み上げられてきた時間がそのまま音になっているのだから、これは技術の問題ではない。金を積んで名手を集めたところで、決して手に入らない類のものだった。
「当然よ」
ルミナスの傍らに控えていたヒナタが、淡々と口を挟む。
「あれは奉納の曲。聴かせる相手が人間じゃないんだから、楽しませる必要がないのよ」
「なるほどな。道理で背筋が伸びるわけだ」
「貴方でも、そういう感想を持つのね」
「どういう意味だよ」
聖騎士団長ヒナタ・サカグチ。彼女の物言いが刺々しいのは今に始まったことではないが、そこに悪意がないことも、長い付き合いで分かっている。
「リムル様! 私、感激いたしました!」
そこへ、背後から実に元気な声が飛んできた。同行させた第一秘書、シオンである。
「あの弦の響き、まさしく勇壮そのものでした! あれを聴けば、兵の士気も否応なく高まりましょう!」
「……いや、祈りの曲だからな、あれ」
「そうなのですか? ですが、あの高鳴りは間違いなく戦いの前の高揚感でした!」
胸を張って言い切るあたりが、実にシオンらしい。聖なる神事を「戦の気配」と評されて、ヒナタが露骨に眉をひそめている。頼むから空気を読んでくれ──と俺が頭を抱えかけた、その時だった。
「くくっ。そなたらしい感想じゃの、シオン」
この国の主は、僅かに肩を揺らして笑った。
「あの曲は元々、亡き者を悼むと同時に、生き残った者を奮い立たせるためのものじゃ。的外れとまでは言えぬな」
「まあ! では私の耳も、なかなかのものですね!」
「……ルミナスがそう言うなら、まあいいけど」
ヒナタは不服そうに口を噤んだ。
「不満か、ヒナタ」
「別に。ただ、シオンには一度きちんと教えておくべきかと思っただけよ」
「ふん。存外、そなたも面倒見が良いのう」
「……からかわないでよ」
かつてルベリオスが巨人族の侵攻を受けた折、シオンもまたこの国のために剣を振るい、ルミナスは彼女に名を呼び捨てにすることを許すほどに打ち解けている。あれから既に数年。今ではすっかり見慣れた、和やかな光景だった。
そんな空気を、唐突に断ち切るものがあった。
《マスター。至急、報告しなければならないことがあります》
(どうした、シエル?)
《ヴェルドラが、先日の亜空間探査で回収された装置に、自身を接続した模様です》
(……は?)
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
装置のことなら報告は受けている。探査初日に次元の狭間で拾ってきたという、正体不明の遺物。人が一人入る大きさで、術式の八割は解析できたが残りが読めない──そういう中間報告が上がってきたのが、確か出立の前日だった。
俺が戻るまでは基本的な調査に留め、本格的な調査は帰国後に行うように指示を出していた。だからこそ俺は、安心して国を空けたのだ。
だが、それは間違いだったようだ。
俺がそう思ったのと同時だった。
『──リムル様。至急の報告があります』
ベニマルからの思念伝達。シエルの報告と完全に重なるタイミング。それが意味するものは一つしかない。
(ヴェルドラが、例の装置に入ったって言う件か……?)
『!? ……その通りです。ヴェルドラ様が独断で内部へ入られたようで……申し訳ありません。止めることができませんでした』
俺の察しの良さに驚いたようだが、種を明かせば単純な話だ。シエルはヴェルドラとも『魂の回廊』で繋がっているのだから、異変があれば報告を待つまでもなく察知できる。
問題は、その中身だった。誰も正体を掴めていない代物へ、よりにもよって自分から飛び込んだというのだ。
(……得体の知れないものに、自分から入る馬鹿がどこにいるんだよ)
いや、いる。心当たりが一人しかいないのが、困りものだ。
(シエル、ヴェルドラは無事なのか)
《ヴェルドラの状態は現在も安定しており、異常は見られません》
シエルの冷静な声で、我に返る。
(いや、いい。ヴェルドラを止めろってのが無理な話だ)
ベニマルへの返答は、本心だった。
ヴェルドラが「やる」と言い出したものを周囲が力ずくで押さえ込むのは不可能で、それができるのはこの国では俺くらいのものだろう。そしてその俺が、不在だった。
(くそ、たった三日離れただけだぞ)
俺がそう内心で愚痴を言っていると、ルミナスが声をかけてきた。
「──どうした、リムル」
俺の様子が変わったのを見て取ったのだろう。ルミナスが、僅かに眉を寄せていた。
「悪い。うちで面倒が起きた」
「面倒とな」
「ああ。詳細は戻って確認するが、ヴェルドラが正体不明の装置に自分から入ったらしい」
数秒の沈黙があった。
そしてルミナスは、心底うんざりした顔で額を押さえた。
「……あの邪竜トカゲは、相変わらずよのう」
「否定できないのが辛いところだよ」
「早く行け。妾に構う必要はない」
「ああ、すまないな」
「言っておくが、こちらに火の粉が飛んでくるようなら容赦せぬぞ。あやつが妙なものを引き当てたのなら、後で必ず報せよ」
数百年の時を生き抜いてきた者の判断力だった。普段は皮肉ばかり言うが、いざという時には話が早い。
「ああ、そうする」
「何かあれば、こちらも動くわ」
ヒナタが短く付け加えた。
「貴方が聖騎士団を貸せと言うとは思えないけれども。……手が足りないなら言いなさい」
「ありがとな。覚えとくよ」
「リムル様! 私が参りましょうか!? その装置とやら、このシオンが叩き割ってご覧に入れます!」
「……頼むからこれ以上余計な問題は増やさないでくれ」
一番怖いのはその装置とやらではなく、こいつかもしれない。
こうして、俺の穏やかな休暇は幕を閉じた。
*
迷宮九十五階層、隔離研究区画。
転移で降り立った瞬間、俺は空気の『重さ』に気づいた。
厳重な結界に、二十四時間態勢の監視。周囲には人払いの札まで下がっており、ベスターたちの慎重さは評価に値するものだった。
だが、そこにいる者たちの表情は一様に強張っている。
「リムル様!」
「よくぞお越しくださいました!」
俺の姿を認めた研究者たちが次々と道を空けていく。
その顔に浮かんでいるのは、安堵と後ろめたさが入り混じった、なんとも複雑な色だった。
カイジンがいる。ガビルがいる。ガドラも、超克者の連中も、サリオンの研究者たちも揃っていた。装置の傍らには、ヴェルドラの従者であるカリスが微動だにせず立っている。
ディーノは壁際の椅子に深く沈み込み、その両脇にはピコとガラシャが立っている。
だが、それだけではなかった。
「おおおおっ! 我が神よ、ようやくお戻りに!!」
法衣姿の男が、転がるような勢いで駆け寄ってきた。冥霊王アダルマンと、その傍らに影のように付き従うアルベルトである。血色の良い頬を紅潮させ、受肉した身体を惜しげもなく震わせて、アダルマンは全身で歓喜を表していた。
「よくぞお戻りくださいました! このアダルマン、御身のご不在に胸を痛めておりました次第!」
「いや、お前まで来てたのか」
「当然でありましょう! ヴェルドラ様が得体の知れぬ器物に囚われたと聞き、居ても立ってもいられませんでした!」
「気持ちはありがたいけどな。お前には迷宮のほうを見ててもらいたかったんだが」
「うぐっ……!」
胸を押さえてよろめくアダルマン。正直に言いすぎたかと思ったが、こいつが自分の階層を空けてまで駆けつけたという事実そのものが、俺には少しくすぐったかった。
「ですが! 我が神の盟友の御為に馳せ参じるのは、臣下として当然の務めであります! たとえ何の役に立たずとも、この身がここにあることに意味があるのです!」
「開き直ったな、お前」
「アダルマン様、落ち着いてください。リムル様がお困りです」
「む、確かに……。では、後ほど改めて」
アルベルトが窘めると、アダルマンは素直に一歩下がった。主が突っ走り、従者が手綱を引く。二人の呼吸は相変わらずだ。
そして、その奥。区画の最も暗い隅に、微動だにせず立つ影があった。
「……ゼギオン。お前もか」
「はっ」
幽幻王(ミストロード)ゼギオン。この迷宮の最強戦力である。
彼は俺に深々と一礼すると、鋭い複眼を、部屋の中央に鎮座する『それ』へと向けた。
「異物が持ち込まれたと報告を受け、確認に参りました。……オレの見立てでは、あれは判断がつきません」
「判断が?」
「敵意も害意も感じられません。しかし、オレの知る如何なる存在にも似ておりません。危険とも安全とも言えぬ、そのような感覚は初めてです」
そこでゼギオンは、視線を俺へと戻した。
「もっとも、リムル様には既にお見通しなのでしょう。オレなどが口を挟むまでもなく」
(いや、俺も今来たばっかりなんだが……)
相変わらずだ。ゼギオンの中の俺は、一体どれほどの化け物なのだろうか。
「クマラとアピトも様子を見に参りましたが、既に各階層へ戻らせております。全員がここに詰めていては、迷宮の守りが手薄になりますゆえ」
「……お前、そういうところは本当にしっかりしてるな」
こういう時、ゼギオンは底知れなく頼りになる。彼が先に駆けつけてくれていて、本当に良かったと思った。
そして、区画の中央。人垣が割れた先に、それは鎮座していた。
「──これか」
思わず、足が止まった。
巨大な水槽。そう表現するのが最も近い。人が一人ゆうに収まる大きさの楕円形の容器に、澄み切った液体が満々と湛えられている。横倒しになっているにも関わらず、水面は重力を無視して垂直に張り付き、一滴たりとも零れ落ちていない。
漆黒の外殻には、金の彫金(エングレーブ)が流れるように施されていた。底からは、数え切れないほどの蛇腹状のケーブルが伸びている。
そのケーブルの先に、見慣れた相棒が沈んでいた。
金色の髪が水中に広がり、静かに揺れている。表情は穏やかで、まるで昼寝でもしているようだった。
(……本当に入ってやがる)
報告書では読んでいた。図解も添えられていた。だが実物を目の前にすると、伝わってくるものの質がまるで違う。あの竜種が、得体の知れない機械の中で、赤子のように眠っているのだ。
そして、俺が最初に抱いた感想は我ながら意外なものだった。
(──綺麗だな、これ)
薄気味悪いとか、危険そうだとか、そういう言葉が先に来ると思っていた。だが実際には違ったのだ。
実用一辺倒の機械なら、こんな装飾はいらない。だがこれは、明らかに手間をかけて美しく作られている。誰かが丹精込めて作ったもの。そういう気配が、この装置には確かにあった。
得体の知れない機械なら、まだ良かった。だが「作り手の意図」が透けて見えるとなると、話が変わってくる。
(つまりこれ、誰かが『誰かに使わせるため』に作ったってことだよな)
その誰かが誰なのかは、今考えても分かるまい。
「──リムル様。御報告いたします」
進み出たのは、ベレッタだった。
淡々と、しかし一切の省略なく、五日間の経緯を並べ立てていく。感情を排したその口ぶりが、かえって事態の異様さを際立たせていた。
「亜空間探査の初日、次元の狭間にて本装置を発見。回収の是非についてはワレより進言いたしましたが、通りませんでした」
「ああ」
「五日間の解析の結果、本装置は『過去を追体験させる装置』であると結論されております。生体への害はなく、接続も外部から遮断可能というのが、この場の総意でありました」
「……そこは後で詳しく聞く」
「はい。そしてヴェルドラ様の使用に際しても、ワレは反対を表明いたしました」
つまり、ちゃんと止めたのだ。ラミリスの従者であり、迷宮の管理を任されている身として、正しい判断を下していた。
それが二度とも通らなかったということは、ベレッタよりも上の立場にある者が押し切ったということになる。
「……で、押し切ったのは誰だ」
俺が問うと、区画の全員の視線がゆっくりと一点に集中した。その先には、居心地悪そうに宙を漂う妖精女王がいる。
「あ、あの、リムル」
「ラミリス」
「い、いやアタシじゃないよ!? 言い出したのは師匠だし、アタシはむしろ止めた方で……」
「止めたのか」
「……止められなかった、が正しいかも」
正直に言うだけマシではある。とはいえ、こいつを責めても仕方がない。ラミリスにヴェルドラを止められるなら、この世に苦労はないのだ。
「まあいい。後で全部聞くことにしよう」
俺は装置に歩み寄った。責任の所在を追及するのは後回しでいい。まず確かめるべきことがある。
『──ヴェルドラ。聞こえるか』
『魂の回廊』を通じて、俺は呼びかけた。
こいつとの繋がりは、距離や次元では途切れない。それが今まで当たり前だったのだ。
『おい、ヴェルドラ。返事をしろ』
返事はない。
繋がりそのものは確かにある。切れてはいない。だが、糸を垂らした先で何の手応えもないような、奇妙な虚無感だけが返ってくる。
(……おい、マジかよ)
その時、シエルが意外なことを言い出した。
《マスター、思念が通じない原因が判明しました。時間の流れに起因するようです》
俺は予想しなかった言葉に戸惑いつつも、シエルに疑問を返す。
(どういうことだ?)
《マスターの思念は届いております。ですが応答までの間隔が異常です。装置内部の時間は、外部の三百六十五倍前後で進行しているものと推定されます》
(──三百六十五倍だって?)
《こちらの一日が、内部の一年に相当する計算です》
俺は思わず装置を見つめ直した。
ヴェルドラが沈んでから、まだ一時間ほどしか経っていない。だが向こうでは、既に半月近くが過ぎている計算になる。
(……とんでもない代物だな、これ)
そんなものが、うちの迷宮に鎮座しているわけだ。まったく、拾ってくるにも程がある。
(補正はできるのか)
《可能です。ただし、常時演算を継続する必要がございます》
自分でやるべきかと一瞬だけ考えたが、すぐに思い直した。こういう繊細な処理は、俺が中途半端に手を出すより、シエルに任せた方が遥かに確実だった。
(頼む、シエル)
《お任せを》
実に頼もしい返事だった。
短い応答の直後、繋がりの感触が明らかに変わった。垂らした糸に、確かな重みが返ってくる。
(ヴェルドラ……聞こえるか!)
『──おお! その声は、我の時代におったほうのリムルか!?』
聞き慣れた声が、勢いよく飛び込んできた。
『思念伝達がまるで通じなくてな、心配しておったのだぞ! まったく、貴様も水臭いではないか。もっと早く連絡を寄こせばいいものを!』
相変わらずの、能天気な声だった。
(──こいつ、心配してたのはこっちだっての)
とはいえ、無事だった。まずはそのことに安堵する。肩の力が抜けるのが自分でも分かった。
だが同時に、たった今こいつが何を言ったのかが、じわじわと頭に浸透してきた。
『……おい、待て。今なんて言った』
『む? だから、我の時代におったほうのリムルか、と聞いたのだ』
『〝我〟の時代って何だよ』
『ああ、思念が繋がったことに喜んでおったせいで、肝心な事を伝えるのを忘れておったわ! 聞いて驚くでないぞ。我は今、過去にいるのだ!』
*
そこから先の会話で、俺は状況をおおよそ把握することができた。
ヴェルドラ曰く、彼は今「過去の世界」にいるのだという。目が覚めたら俺がベニマル達を助けて間もない頃に戻っていたのだと、実に楽しげに語った。
『あの頃の身体に、今の記憶を持ったまま収まっておるのだ。それゆえに力もあの頃のもの、これがなかなか不便であってな……』
思念にため息を乗せて気苦労を伝えてくるあたり、本当に困っているらしい。もっとも、その声のどこにも悲愴さはなく、むしろ不自由を楽しんでいる響きの方が勝っていた。
『おまけにこの時代では、まだ我は過去のリムルの中……無限牢獄の中におってな。なんとかシエル……いや、まだ大賢者か。とにかく、我が未来の知識を持っていて有用だということを話し、説得してなんとかリムルと直接話せるようにしてもらったというわけよ!』
(なるほどな。だが、それは状況的にかなりまずくないか?)
『何を言う、面白いではないか! 知恵だけを頼りに切り抜けるのだぞ。実に愉快な遊びである!』
こいつの神経の図太さには、いつものことながら感心させられる。というか、少しは危機感を持ってほしい。
(……で、その話ぶりだと過去の俺がそこにはいるってことだよな?)
『おるとも。あやつめ、我が先の出来事を言い当てるものだから、目を白黒させておってな! 我は考えたのだ。どうせやり直すのならば、より良い形にしてやろうとな。これから先の時代は、我が知るよりもずっと違う歴史を歩んでいくであろうな!』
得意満面の声が返ってくる。つまりこいつは、装置の中で歴史を書き換えるつもりらしい。
(過去の俺、絶対に振り回されてるだろ……)
想像すると少しばかり同情するが、まあ相手が自分なので大目に見ることにした。
そこまで聞いて、俺はようやく事の輪郭を掴んだ。
ヴェルドラは、自分が装置の内部にいることを認識していない。本気で過去に戻ったと思い込んでおり、回収の経緯も、五日間の解析も、自ら志願して潜行したことも、まるごと欠落しているのだ。
《記憶の欠落は、装置による干渉と推定されます》
シエルが淡々と告げた。
しかし、相手は竜種である。この世界で最も強靭な存在の一角だ。その記憶が、本人に自覚されることもなく抜き取られている。しかも力ずくで奪われたのではなく、当人が疑問にすら思わない形でそっと抜かれているのだから、そちらの方がよほど恐ろしい。
(そんな真似ができる奴に、心当たりはあるか)
《……ありません》
即答だった。この相棒が知らないというのなら、それは本当に前例がないということだ。
(じゃあ、なんでこいつは俺と話せてるんだ)
《『魂の回廊』はマスターとヴェルドラの間に直接結ばれた繋がりであり、干渉の対象外であったものと推定されます》
なるほど、と俺は納得した。要するに、装置はあいつの記憶と認識には手を出せても、俺との絆そのものには触れられなかったということだ。
(……ふん。俺たちの繋がりを甘く見るなよ)
我ながら子供っぽい感想だが、少しだけ気分が良くなった。
『──時にな、リムルよ。一つだけ、気になっておることがあるのだ』
そんな俺の思考を遮るように、ヴェルドラが声を落とした。先ほどまでの浮かれた調子が、そこには一切ない。
『なんだ』
『我はこの時代で、この時代のリムルにずいぶんと未来の話を聞かせてしまった。……これは、貴様のおる未来に影響を及ぼしはせぬだろうか』
珍しく、殊勝な声だった。
こいつはこう見えて、本当に無責任な男ではない。自分の行いが誰かに迷惑をかけるかもしれないと思えば、ちゃんと立ち止まる。ただ、立ち止まるのが常に事後なだけだ。
俺は、少し考えた。
答えは既に持っている。あれは装置が作り出した仮想の世界であり、中で何が起きようとこの現実には一切影響しない。だから安心しろと、そう言ってやればいい。
──だが、そこで一つの事実に思い当たった。
こいつは今、あの世界を本物だと思っている。過去の俺も、ゴブタも、そこにいる全員を実在する仲間だと信じて接しているのだ。もし真実を告げれば、こう言うことになる。目の前にいる者たちは全て作り物だ。装置を出れば全員消える、と。
(……いや、それは言えないな)
言ったところで、今の俺にはこいつを外に出す手段がない。状況が何一つ変わらないのに、楽しい時間だけが苦しい時間に変わる。それでは意味がないのだ。
(──なら、後回しだ)
俺は、そう決めた。
(安心しろ、ヴェルドラ。そっちで何をやっても、こっちの未来には影響しない。それは俺が保証する)
『ほう、そうなのか?』
(ああ。だから好きにやれ)
『クアーッハッハッハ! そうか、そうか! ならば何も憂うことはないな!』
途端に、声が明るくなった。その単純さが、今はありがたい。
《──マスター。事実をお伝えすべきかと存じます。ヴェルドラには、自身の置かれた状況を知る権利があります》
そこへ、シエルの声が割り込んだ。
(分かってるよ。でも今言っても、何も変わらないだろ。あいつはあそこで、みんなを助けてるつもりなんだ。それが偽物だって知ったら、何のためにやってるのか分からなくなる)
《…………》
沈黙が返ってくる。それは肯定でも否定でもなく、ただこの相棒なりの何かを飲み込んだ間だった。
(それに、これは伏せるって話じゃない。順番の問題だ。手段が見つかったら、その時に全部話す。……見つけるさ、必ずな)
《……はい》
今度の返事には、僅かに温度があった気がした。
『──そういえばな、リムル。我はいずれ必ず帰る。心配は無用だぞ』
会話を終える間際、ヴェルドラがふと思い出したように言った。
(……確証はあるのか)
『ない!』
(おい! 適当な事言うなよ!)
『だが、なんとなく分かるのだ。この時代でおおよその事を終えたなら、我は帰れる。そういう仕組みになっておる気がしてな』
根拠のない断言だった。だが、こいつのこういう勘は意外と当たる。竜種としての本能のようなものが働いているのかもしれない。
『それにだ。万が一の時は、貴様に迎えに来てもらえばよいのだからな!』
実に軽い調子で、そう付け加えられた。まるで、迎えが来ることを疑いもしていない口ぶりだった。
(──ああ。任せとけ)
俺は、即座にそう答えた。
今は手段がない。それは事実だ。だが、だからといって「迎えに行けない」で終わらせる気は毛頭なかった。方法がないなら作ればいい。俺は今まで、そうやって全部なんとかしてきたのだ。
『うむ! 貴様がおれば百人力よ!』
(当たり前だろ。誰に言ってると思ってるんだ)
我ながら大きく出たものだが、不思議と不安はなかった。
会話を終えた俺は、改めて装置に向き直った。
(シエル、解析を頼む)
数秒の沈黙。俺の相棒にしては、長い部類に入る間だった。この程度の対象なら、問いかけ終わる前に答えが返ってくるのが常なのだ。
《構造の約八割については、解析が完了しております。素材、駆動原理、術式構成──いずれも、この世界の法則の範疇です》
(じゃあ、この世界の誰かが作ったのか)
《少なくとも、作り手はこの世界を熟知しています。異界からの漂着物という仮説は成立しません》
ベスターたちの報告と、同じ結論だ。彼らの解析が的確だったということだろう。
(で、残りは?)
《……そちらが問題です》
シエルの声が、僅かに硬くなった。
《当該領域は、高度に隠蔽されております。しかも意図的なものです》
(隠してる奴がいるってことか)
《はい。そして隠されている内容ですが──当該領域は、この世界とは異なる法則に基づいて稼働しているものと推定されます》
異なる法則、という言葉に俺は眉を寄せた。魔法でも、精霊術でも、物理法則でもない。そのいずれにも属さないものが、確かにそこで機能しているというのだ。
「ガドラ。お前が言ってた『同じ法則が二度と出てこない』ってのは、これのことだな」
「おお、そこまで見抜かれましたか」
ガドラが皺だらけの顔を綻ばせ、杖を突いて身を乗り出した。
「左様です、リムル様。ワシとしては手も足も出ませなんだが、しかし……そこに『何かが在る』事だけは間違いございませぬ」
「隠されてるんだよ。誰かの手で」
「ほう」
その一言で、ガドラの目が爛々と輝いた。
「隠されておるとなれば、隠した者がおるという事ですな。……いやはや、面白くなってきましたぞ」
(ガドラも大概だな)
危機感を持てと言いたいところだが、この爺さんにとって未知とは常に馳走なのだ。今更どうこう言っても始まらない。
(シエル。解析はできないのか)
《外側からは、限界があります。隠蔽そのものは認識できますが、その内実に触れることができません》
(じゃあ、どうすれば)
《──内側からであれば、可能かもしれません》
その一言に、俺は少しばかり眉を上げた。
《装置の内部は、隠蔽された領域が構築した空間です。その内側では法則が剥き出しになっている可能性があります。外から覗くのではなく、中に立って観測する。それが唯一の手段かと。……ただし、推奨はしません。マスターの身の安全を考えれば最終手段とするべきです》
(分かってるって。そう慌てるなよ)
そう答えつつも、俺の頭にはその選択肢がはっきりと刻まれていた。外からは届かない。中からなら届くかもしれない。
とはいえ、まずは確かめておくべきことがある。
「ベスター。一度、引き上げてみるぞ」
「はっ。……ただ、我々も既に試みておりまして」
「知ってる。それでも自分の手でやっておきたいんだ」
俺は装置の縁に手をかけ、そのまま腕を沈めた。指先が抵抗なく液体に入る。ぬるくもなく冷たくもない不思議な感触で、ガビルが「体組織への負担を軽減する」と評したのも頷ける。
ヴェルドラの肩に手を回し、そのまま持ち上げた。竜種の身体は見た目通りの重さだったが、俺の膂力をもってすればどうということはない。金色の頭が水面を割り、濡れた髪が肩に張りついた。
ここまでは、当然だった。ただの液体に浸かっているだけなのだから、持ち上がらないはずがない。問題は、その先だ。
ケーブルが、外れない。
ヴェルドラの身体は水面から出ている。それなのに、背中や首筋に接続された無数の管はまるで一体化したかのように張りついたままで、しかも引けば引くほど張力が増していく。研究者たちが息を呑む気配が、背中越しに伝わってきた。
(シエル。これ、どうなってる)
《接続は物理的なものではありません。魂と装置が直接結びついております》
(……つまり)
《力ずくで引き剥がした場合、何が起きるか予測できません。最悪の場合、魂そのものが損傷する可能性を排除できません》
「……無理に引っ張ると、まずいみたいだな」
思わず漏れた呟きに、壁際から声が返ってきた。
「ミー達もそこで止まったヨ」
超克者の男である。いつもの陽気さが、今は幾分か薄れていた。
「引っ張る力を測ったネ。強くすると、返ってくる力も強くなるヨ。何度やっても同じネ。……これ、拒否されてるヨ」
「拒否、ねえ」
「オウ。装置が拒否してるみたいネ」
(言うことを聞かない装置とか、ヴェルドラみたいなヤツだな)
そんな益体もないことを考えつつ、俺は静かにヴェルドラを水中へ戻した。ケーブルが緩み、竜の身体はゆっくりと元の位置へ沈んでいく。表情は変わらず穏やかなままで、そのことがかえって不気味だった。
「──なるほどな。だいたい分かった」
俺は、その場の全員に聞こえるように言った。
「身体を持ち上げるだけならできる。だが接続は切れない。無理に引き剥がせば、魂に何が起きるか分からん」
期待していた答えとは違う。だが、収穫がなかったわけでもない。強張った顔で俺を見ている研究者たちを見渡し、俺は続けた。
「──で、朗報もあるぞ。あいつは無事だ。思念も通じる。向こうで何をしてるかも確認できた」
「な、なんと! 思念伝達が通じるのですか!?」
ベスターが記録板を取り落としそうな勢いで顔を上げた。
「ああ。ただし時間の流れが違うから、そのままじゃ会話にならない。こっちで補正を噛ませてる」
「時間の、流れ?」
「こっちの一日が、向こうの一年だそうだ」
その一言に、隔離区画がどよめいた。無理もない。彼らは五日かけて解析しながら、その事実にまったく気づけなかったのだ。外から見ている限り、装置は静かに稼働しているだけなのだから。
「一日が、一年……」
超克者の男が珍しく真顔で呟き、それから弾かれたように計器を指差した。
「ミー達、装置の活動量が多すぎると言ったネ。……これで説明つくヨ! 中で一年動いてるなら、外から見たら働きすぎに決まってるネ!」
「なるほど。数値の異常には、そういう理由があったわけですな」
サリオンの研究者が唸り、たちまち議論が沸き立った。そこかしこで筆を走らせる音が響き始める。まったく、この連中の切り替えの早さときたら大したものだ。
「そ、それでは……ヴェルドラ様は既に、向こうで半月近くを……」
「そういうことになるな。だが、本人は元気そのものだ。むしろ楽しんでる」
「楽しんで……?」
「あいつだからな」
そう言うと、何人かの研究者が力なく笑った。張り詰めていた空気が、ようやく緩む。
俺は改めて、その場の全員に向き直った。
「よし、結論だ。今は待つ」
「よろしいのですか」
ベレッタが問うた。
「ああ。安否は確認できるし、会話もできる。そしてあいつ自身が『帰れる』と言ってる。……焦って手を出して、取り返しがつかなくなる方が怖いからな。万一、様子がおかしくなったら即座に動く。その時は力ずくでも引きずり出す。判断は俺がする」
「承知いたしました」
「それまでは、通常の監視体制を維持してくれ。俺もここに詰める」
「では、オレも残りましょう」
そう申し出たのは、ゼギオンだった。
「万が一があった場合、力ずくで対処する必要が生じるやもしれません。……無論、リムル様がおられれば不要でしょうが」
「まあ、いてくれると助かるよ」
「はっ! 光栄です」
深々と頭を垂れるゼギオンの姿を見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。こうして、ヴェルドラが帰ってくるまでの様子見が始まった。
*
数日が過ぎた。
隔離区画には二十四時間態勢の監視が敷かれた。とはいえ、全員が詰め続けたわけではない。
研究者たちは三交代制を組み、ベスターとガドラが交互に責任者を務めた。超克者たちは計測機器の前に張りつき、サリオン組は術式の監視に当たっている。カイジンは工房へ戻り、緊急時に備えた工具の準備に取り掛かっていた。
アダルマンとアルベルトは自分の階層へ帰した。「せめて祈らせてください!」と言うので好きにさせたのだが、後で聞いたところによると七十階層で三日三晩、大々的な祈祷を行っていたらしい。しかも元不死者の軍団まで総動員したというから、規模が想像を絶する。挑戦者が迷い込んでいたら、気の毒なことになっていただろう。
(……効果があったかは知らんが、まあ気持ちはありがたく受け取っておこう)
ゼギオンは一度も動かなかった。区画の隅に立ったまま、ただ装置を見つめている。声をかければ短く応じるが、それ以外は微動だにせず、まるで彫像でも据えたようだった。
カリスもまた、装置の傍から離れようとしなかった。水面越しに主の寝顔を見下ろしたまま、代わりの者を立てようともしない。
その対極にいたのが、ピコとガラシャである。
「ねえディーノ、これいつまで続くの?」
「知らないね。だが給料は出るんだろ? なら、アタイは文句はねえな」
ディーノの代わりに欠伸まじりで答えたのはガラシャで、ピコは呆れた顔で溜息を吐いた。
「アンタ達ったら……」
そう言いながら、彼女も途中からは堂々と寝ていた。似た者同士だ。
そしてディーノは、椅子に沈み込んだままずっとそこにいた。眠っているのか起きているのかも分からない姿勢で、それでいて一度も区画を出ようとしない。
俺は執務をこの区画に持ち込み、書類を捌きながら装置を見張り続けた。ベニマルが何度か休むよう勧めてきたが、断った。眠らない身体で良かったと、この時ばかりは思ったものだ。
何日が過ぎたのか、途中から数えるのをやめていた。眠らない身体には昼も夜もなく、書類の山だけが規則正しく減っていく。
もっとも、退屈はしなかった。一日に数度、シエルの補正を借りてヴェルドラと会話していたからだ。
『──聞け、リムル! 今日はな、ゴブタの奴が』
(また間抜けなことやったのか)
『そうなのだ! いやはや、あやつの成長ぶりは見ていて飽きぬわ!』
こいつは実に楽しそうだった。過去の仲間たちと過ごし、歴史を書き換え、その成果を得意げに報告してくる。まるで旅先から手紙を寄越す親戚のような気安さだった。
(……まあ、無事ならそれでいいか)
そう思うことにした。
そして、その夜のことだった。
「──反応、変動! 接続部に離脱の兆候! 記録開始します!」
計器の前に座っていた研究者が、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がって叫んだ。
「全計器、値を取れ! 一つも逃すな!」
ベスターの号令が飛び、隔離区画が一斉に沸き立つ。
蛇腹状のケーブルが、一本、また一本と、沈んだ竜の身体から離れていく。役目を終えたとでもいうように、それらは静かに水底へと戻っていった。
そして、水面が割れた。
「──ぶはあっ!」
盛大な水音とともに、金色の頭が姿を現す。
「ヴェルドラ様ッ!」
「ご無事ですか!?」
「無事に決まっておろうが。何を騒いでおる」
ずぶ濡れのまま縁に手をかけ、ヴェルドラは実に晴れやかな顔で身を起こした。
人垣を割って進み出たカリスが、乾いた布を差し出す。
「お帰りなさいませ。……お待ち申し上げておりました」
「うむ! 案ずるなと言うたであろうが」
「ええ。ですが、案ずるなと仰る方ほど、案じねばならぬものですので」
涼しい顔でそう返され、ヴェルドラが唸る。それから俺の顔を見つけるなり、水を滴らせたまま大きく手を振ってみせた。
「おお、リムル! 迎えに来てくれたのだな!」
「何言ってるんだよ! 心配したんだぞ!!」
まったく変わらない、能天気な笑顔だった。張り詰めていたものが一息に抜けていくのを感じながら、俺は心底から安堵した。
*
ヴェルドラの証言は、隔離区画の全員を集めた場で行われた。
もっとも、その大半は俺が既に聞いた話だ。なにしろこちらの時間で数日間、一日に数度は会話していたのだから当然だ。だから俺は、少し離れた壁際で腕を組み、初めて聞く者たちの反応を眺めていることにした。
「まず、あれは『見る』ものではないぞ。我は確かに、あの世界を生きておった。飯を食い、暴れ、退屈し、笑った。全て本物としか思えぬ手触りであったわ」
体を拭き終えたヴェルドラは、用意された椅子にどっかりと腰を下ろすと、開口一番そう言い切った。
「……過去の追体験、という我々の見立ては」
ベスターが恐る恐る問う。
「概ね正しい。我が入ったのは、我自身が既に過ぎ去った日々よ」
「では、記録の再生ということですかな」
「そこが違うのだ」
ヴェルドラは、珍しく真剣な顔をした。
「我は、記録をなぞってはおらぬ。歴史を、変えてきた」
しん、と場が静まり返る。
その反応は、実に見物だった。ベスターが顔色を失い、サリオンの研究者たちは呆然と顔を見合わせている。ガドラだけが「ほう」と身を乗り出し、目を輝かせていた。
「変えられた、のですか」
「変えられた。だが、それはあの中でのみ起きたことだ。現にこの世界は、何ひとつ変わってはおらぬだろう」
「……つまりネ、装置の中の世界、外の世界と繋がってないネ。別モノヨ」
超克者の男が、身を乗り出して確認する。
「そういうことになるな。そして、もう一つ、興味深いことがあった」
ヴェルドラは指を一本立て、僅かに眉を寄せた。
「あの中の我は、あの頃の我であった」
「どういう意味です?」
「力が、当時のものに戻っておったのだ。今の我が持つ権能はほとんど使えず、使えたのは当時の我が持っていたものだけよ。記憶と知識だけがそのままで、力量は時期相応に引き戻されておった」
ざわ、と場が揺れた。
「そ、それは危険ではありませんか!? 装置の中で万一のことがあれば、内部での御身の力では──」
ベスターが顔色を変えて詰め寄るが、ヴェルドラはけろりとした顔で言い放った。
「ならば、なおのこと面白いではないか。知恵だけを頼りに切り抜ける。実に愉快な遊びであったぞ」
「……あんた、ほんとブレねえのな」
ディーノが半眼で呟く。まったく同感だ。
ここまでは、全て俺が知っている話だ。
(シエル。何か新しい情報はあったか)
《現時点ではございません》
(だよな)
そう思っていた、その時だった。
「──ときに。一つだけ、妙なことがあったな」
ヴェルドラが、ふと思い出したように顎に手をやった。
(──ん?)
俺は思わず顔を上げた。聞いていない話だ。
「妙なこと?」
「入る瞬間のことよ」
ヴェルドラは装置を振り返り、その黒い外殻を見つめた。
「沈んで、あの管が繋がって……そこから先だ。我は、自分が何者であったかを、しばし見失っておった」
「見失う、とは」
「暗闇の中に、我という意識だけが放り出されておったのだ。手足の感覚もない。魔力も届かぬ。目も見えぬ。ただ──」
「ただ?」
「音だけが、聞こえておった」
隔離区画の何人かが、さっと顔を見合わせた。
「規則的な、耳障りな音よ。呼び鈴のような、警告のような。何と言えばよいか──」
ヴェルドラは適当な言葉を探して数秒黙り込み、やがて面倒になったのか、ひらひらと手を振った。
「まあ、大したことではない。ほんの束の間のことであったからな。気がつけば我は、過ぎ去りし日の空の下に立っておったわ」
「──おい、ちょっと待て。なんで、俺との会話でそれを言わなかったんだ?」
俺は思わず前に出ていた。
「む? いや、大した話ではあるまい」
「いやいやいや、重要な情報だろ!」
「そうか?」
きょとんとした顔をされて、俺は脱力した。こいつの中の「重要」の基準は、一体どうなっているのだろうか。
とはいえ、得られた情報は大きい。沈んだ瞬間に意識だけが暗闇へ放り出され、五感が遮断されて魔力も届かない。竜種にすら、そんな事象が発生しているのだ。そしてその間、規則的な音が鳴っていた。
(シエル。その音ってのは何だと思う)
《現時点では断定はできません。ですが、極めて重要な情報です。装置への接続と、内部世界への転送。その間に「何もない領域」が存在するということになります。当該領域について、我々は一切の情報を持ちません》
(つまり、また分からないものが増えたってことか)
《いえ。これまでの情報を踏まえると、一つの推測が立てられます。おそらく、接続した者の記憶等を読み取り、その情報を反映した内部世界を構築するまでの間に、接続者の精神を留めておくための空間かと思われます》
(……なるほどな。つまりゲームにおけるロード中の待機空間みたいなものか)
《その認識で間違いはないかと》
なるほど、そう考えると腑に落ちる。まあ、作り手がどこの誰であれ、使う者への配慮があるという点では共通しているのかもしれない。
「ヴェルドラ。もう一つ聞く。その暗闇で、他に感じたものはあったか」
「さてな。何もなかったぞ。ただ闇があって、音が鳴っておっただけよ」
「そうか」
得られたものは、それで全部だった。
装置に沈んでから内部世界に立つまでの間に、何もない領域が挟まっている。分かったのはそれだけだ。だが、五日間の解析でついに掴めなかった内側の構造に、初めて手が届いた瞬間でもあった。
「……ミー、一つ聞いていいヨ?」
超克者の男が、遠慮がちに手を挙げた。それまでの陽気さが、そこには一切ない。
「さっきの話ネ。装置の中の世界、外と繋がってないヨ。別モノヨ。……だったらネ、あの世界の人達、どうなったヨ?」
その問いに、場の空気が変わった。
誰も答えられない。
ヴェルドラも、答えなかった。ただ一度だけ、金色の瞳がふっと遠くを見た。それは瞬きひとつ分の間で、すぐに元の得意げな顔に戻る。
俺は、その一瞬を見逃さなかった。
(……ヴェルドラ)
こいつにとっては、装置の中で何年も共に過ごした仲間たちだ。それが消えてしまったかもしれないという事実。様々な話を聞く中で、あの世界がこいつにとって第二の故郷のような場所になっていたであろうことは、想像に難くない。
だが、俺自身が伏せた事実だ。今更どうすることもできなかった。
(……悪いな。いつか必ず、埋め合わせはする)
そう心の中で詫びて、俺は話題を切り替えることにした。