【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
翌日。
俺たちは、いよいよ湿地帯への出陣の準備を整えていた。
ソウエイの放った分身からの報告によれば、オークロードの進軍速度が予定よりも異様に速く、あと数時間で湿地帯へ到達するとの見込みだったからだ。
「……予定より少し早いが、俺たちにとっては好都合だな」
俺は広場の片隅で腕を組み、静かに呟いた。
元々、オークたちに喰われてしまったオーガの「魂の残滓」が完全に消化され消えてしまうまでの時間は、シエルの計算だと俺の歴史通りのタイミングでオークロードを倒しても間に合うとの結果が出ていた。
だが、今回はそれよりも早い接敵となりそうなので、魂を無傷で回収できる成功率はより高くなると見込まれる。
俺の視線の先――広場の中央では、スライム姿の過去の俺が、リグルドたちが仰々しく飾り立てたお神輿のようなお立ち台の上で、集まった町の人々に語りかけていた。
『……そういう訳で、事前に話していた通り、これからオーク軍を相手にすることになった。
決戦は湿地帯で行う!』
プルプルと震えながら、精一杯の威厳(?)を保って演説するその姿。
当時は皆を不安にさせまいと必死だったはずだが、こうして未来の自分から客観的に見ると、なんだかこっちまで気恥ずかしくなってくる。
(おいシエル。あの頃の俺、あんなにぷにぷにしてたっけ……?)
俺が照れ隠し気味に脳内で問いかけると、シエルがどこか真面目くさった、それでいて絶対に面白がっている声で即答してきた。
《……マスターの外見的愛らしさは、当時から最大値を記録していました》
(……それ、褒めてるんだよな?)
俺が内心でジト目を向けている間にも、過去の俺の演説は続く。
『必ず勝つつもりだが、もしものことがあった場合は、速やかにここを放棄しトレントの集落へ避難するんだ! 戦況は思念伝達で知らせる。皆、落ち着いて決められたとおりに行動するように!
』
その声に、住民たちが一斉に、割れんばかりの歓声で応える。
彼らの瞳にあるのは、圧倒的な大軍が迫っているという恐怖ではない。
ただひたすらに、自分たちを導いてくれる「主」への絶対的な信頼だけだ。
一通りの説明を終え、住民たちの戦時に向けた行動が整然と開始される。
それを見届けた俺たち出撃部隊は、そのままシュナたちが待つ新設の工房へと足を向けた。
「リムル様。お待ちしておりました。出撃用の武具の準備が整っております」
天幕をくぐると、シュナが上品に一礼して迎えてくれた。
その後ろで、クロベエとカイジンが、丹精込めて打ち上げられた武具の数々を誇らしげに提示した。
「リムル様、そして……『未来の』リムル様。今の我々にできる、最高の仕上がりです。どうぞ、お納めくださいだ」
クロベエが恭しく差し出したのは、ベニマルたちのための真新しい太刀や、ハクロウの愛刀を限界まで調整・強化した逸品。
そして、過去の俺のための、あの懐かしい意匠の直刀だった。
だが、それらは俺の記憶にある当時の武具とは明らかに一線を画していた。
「未来の旦那から見せてもらった『魔装兵装』の基礎理論……あれのおかげで、職人としての限界を一つ超えられたぜ」
カイジンが興奮を抑えきれない様子で、鼻息荒く解説する。
「今の材料でも、魔力回路の配置をあの図面に近づけただけで、魔素の伝導率が桁違いに跳ね上がってやがる。使い手の魔素を無駄なく刃に乗せられる、とんでもねえ代物だ」
俺は、ずらりと並んだ武具を眺めながら、深い懐かしさと同時に驚きを感じていた。
今の俺が未来のテンペストで持っているのは、クロベエが文字通り生涯を懸けて作り上げ、その後の神話的な戦いの中で鍛え上げられた『神話級(ゴッズ)』以上の代物だ。
けれど、この時期のクロベエやカイジンたちが、未来の理論を見事に解読し、限られた設備と素材の中でここまで形にしたという事実は、彼らの底知れぬ職人魂を証明していた。
数値や性能だけでは測れない、とてつもない「想い」と「技術」の結晶がそこにあった。
「……いい腕だ。クロベエ、カイジン。お前たちの魂、確かに受け取ったぞ!」
過去の俺が、真剣な眼差しで武具を見つめながら声をかける。
すると二人は顔を見合わせ、照れくさそうに、けれど心底満足そうに笑った。
「リムルの旦那たちにそう言ってもらえると、鍛冶師冥利に尽きるってもんよ」
「私の織った羽織も、武器に恥じない出来のはずですよ?」
シュナが自信たっぷりに微笑みながら、ベニマルたちの紅い装束の襟元を整える。
過去の俺は、自分に手渡された刀をゆっくりと抜き放ち、表面に微かな魔力の波紋を帯びた鋭く澄んだ刃文に見入っていた。
「すごいな……。これなら、あのオークの大軍相手でも、存分に暴れられそうだ」
(ああ、そうだ。 その刀が、お前の……そして俺たちの歴史を作っていくんだからな)
俺は過去の俺の横顔を見つめながら、心の中で深く頷いた。
「よし、全員揃ったな!」
過去の俺が、刀を鞘に納め、凛とした声で号令をかける。
ベニマル、ソウエイ、シオン、ハクロウ、そしてゴブタたちゴブリンライダー隊。
皆、シュナの仕立てた真新しい装束とクロベエたちの武具を身に纏い、その瞳には戦士としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「さぁ、行くぞ! 悲劇の連鎖を断ち切り、オークたちも含めて全員を救い出す、俺たちの戦いを始めるぞ!」
「「「おおおおお!!!」」」
士気は最高潮だ。
本来ならば、ここからリザードマンの湿地帯まで、全軍でそれなりの時間をかけて行軍するところだが……。
俺は一歩前に出ると、周囲の空間を軽く指でなぞった。
「それじゃあ、移動は俺に任せろ。部隊の皆は俺の周りに集まってくれ!」
「え? ……まさか、全員まとめて転移させるのか!?」
過去の俺が素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。前に言っていた通り、湿地帯までは距離があるからな。時間と体力の節約だ」
(シエル、頼んだぞ!)
《了解。既に座標の固定および術式の準備は完了しております。大規模空間転送を実行します》
俺の足元から、複雑怪奇な幾何学模様を描く巨大な魔法陣が一瞬にして展開された。
青銀の光が脈打ちながら広がり、出撃部隊の全員をすっぽりと包み込む。
「こ、これは……なんという緻密な術式……!」
ハクロウが目を見開き、感嘆の息を呑む。
「我ら全員を一瞬で、しかもこれほど安定した魔力で転移させるなど……未来のリムル様は、まさに神の領域に達しておられるのですね」
ベニマルが畏敬の念を込めて呟き、シオンは「流石は私たちのリムル様です!」と興奮気味に剛力丸を固く握りしめた。
「えっ!? ちょ、オイラたちいきなり飛ぶっすか!? 心の準備がまだ――」
ゴブタが慌てて声を上げるが、その言葉が終わるよりも早く。
刹那、広場全体が眩い銀色の光の柱に包み込まれ、俺たちの姿はジュラの大森林の景色ごと、一瞬にして虚空へと溶けていった。
*
光が収まった瞬間、俺たちの目の前には、泥濘(ぬかるみ)と霧が広がる湿地帯の北端が広がっていた。
「……え、もう着いたっすか!?」
ゴブタが目を白黒させ、あまりの光景の変化に足元をふらつかせている。
無理もない、数日はかかるはずの距離を瞬き一つの間に踏み越えたのだから。
「……こんな魔法きいたことすらありませんよ。本当に未来のリムル様はなんでもありですね」
ベニマルが驚愕を隠しきれない様子で周囲を見渡し、自身の魔力を昂ぶらせた。
「さすがはリムル様です! 歩く手間まで省いてくださるとは、まさに神業! 未来の私もこれほどのお力に寄り添っていたと思うと、誇らしくて胸が熱くなります!」
シオンは感激に震えながら、剛力丸の柄を握りしめている。
「……前方、既にオークの先遣隊とリザードマンの部隊が激突しています」
影からスッと姿を現したソウエイが、冷徹な声で報告をもたらした。
事前に放っていた分身からの情報と、自身の索敵を合わせた精確な現状把握だ。
「戦場の中心で突出しているのは、事前の予測通りガビルと名乗る者の部隊。首領の防衛命令を無視し、猪突猛進にオークの真っ只中へ突っ込んでいます。数に任せたオークの波に飲まれ、すでに完全に包囲されつつあります」
「相変わらず、一番いい(?)タイミングで突っ込んでいくな、あいつは……」
俺が苦笑交じりに呟くと、過去の俺もやれやれと銀髪を揺らした。
「未来の俺が会議で言っていた通り、完全にゲルミュッドってやつの手のひらの上ってわけか。……よし、作戦通りに動くぞ!」
過去の俺が一歩前に出て、幹部たちへ鋭い視線を向けた。
「ベニマル、シオン、ハクロウ、ランガ、そしてゴブリンライダー隊! お前たちは事前の打ち合わせ通り、両翼からオーク軍の側面に陽動をかけろ。目的は殲滅じゃない。奴らの陣形をかき乱し、分断し、オークロードを孤立させることだ!」
『不殺』――それは、二十万という圧倒的な大軍を相手にするには、あまりにも無茶で過酷な条件だ。
だが、新しい武具を纏った彼らの顔に迷いはない。
「ウォォォン! この嵐牙狼族(テンペストスターウルフ)としての新たな力、存分に振るってご覧に入れます! 泥濘ごと豚共を天高く吹き飛ばしてやりましょう!」
興奮気味に前足で地面を掻くランガに、過去の俺は苦笑しながらその立派な顎を撫でた。
「ほどほどにな、ランガ。何度も言うが、俺たちの目的は『救済』だ。お前の嵐でうっかり致命傷を与えないよう、コントロールには細心の注意を払ってくれよ」
「ハッ! 我が主の慈悲深き御心、このランガ、しかと心得ております! 絶妙な手加減で、奴らの意識のみを刈り取ってみせましょう!」
「安心してください。未来の理論で打ち直されたこの太刀と、進化した今の俺たちなら、殺さずに制圧する手加減など造作もないですよ」
ベニマルも不敵に笑い、シオンとハクロウも力強く頷いた。
「ソウエイ。お前は分身を駆使してガビルの部隊に影から張り付け。オークの攻撃で致命傷を負いそうになったリザードマンがいれば、ギリギリのところで全て救い出せ。一人も死なせるなよ」
「御意。このソウエイ、全霊をもって完遂いたします」
ソウエイの姿が再び影へと溶け込み、戦場へと走る。
「そして……ゴブタ」
過去の俺は、隣でガチガチに震えているゴブタの肩をポンと叩いた。
「お前はハクロウたちと一緒に、ゴブリンライダー隊を率いて敵の陣形をかき乱せ。絶対に無理はするな。危なくなったらすぐに逃げていいから、ヒットアンドアウェイで敵の注意を引くんだ」
「…………正直、二十万なんて数字を聞いて足が震えるくらい怖いっすけど……皆が一緒っすから! オイラたちの機動力で、豚の化け物たちの目を回してやるっす!」
「いい返事だ。期待してるぞ、ゴブタ」
そう言って過去の俺は、ゴブタの小さな肩を力強く叩いた。
そして、真っ直ぐに戦場の中央を見据える。
「俺は、あのお調子者のガビルって奴が自分の愚かさに気づき、絶体絶命のピンチに陥った瞬間に飛び込んで、直接助け出す。……それまでは、お前たちが頼りだ!」
その頼もしい姿を横目で見ながら、俺は自分自身……過去の俺へと歩み寄る。
「いいか、『俺』。ここから先の現場の指揮はお前に一任する。俺は上空から戦場を俯瞰して、必要な時にサポートを入れる」
「ああ、分かってる。でも、未来のお前が直接手を出さない理由はなんだ? お前がいれば、被害を抑えつつ一瞬で片付くんじゃないのか?」
過去の俺の純粋な疑問に、俺は少し声を潜めて答えた。
「実はな、この異常な事態……ゲルミュッドの背後には、さらに上位の存在、『魔王』たちが絡んでいて、どこからかこの戦場を監視している可能性が高いんだ」
「ま、魔王だって!?」
「そうだ。だから、俺というイレギュラーな存在の『力』を今ここで派手に見せつけるわけにはいかない。奴らに余計な警戒をさせないよう、表向きはこの戦いをお前たちの力だけで乗り切っているように見せかける必要があるんだ。……だけど安心してくれ。いざという時は、奴らに気付かれないよう水面下でしっかりサポートしてやるからな」
俺の言葉に、過去の俺はハッとして、すぐに安堵と決意が混じった表情で頷いた。
「なるほど……そういうことか。高みの見物をしてる連中の目を欺きつつ、バレないように裏から俺たちを援護してくれるってわけだな」
「その通りだ。裏方からの見えないサポートは任せておけ。……じゃあ、表舞台の主役はお前に任せたぜ。お手並み拝見といこうか」
俺は不敵な笑みを残すと、そのまま自身の気配と魔力を完全に遮断し、戦場の空高く、厚い雲の影へと溶け込むように飛翔した。
眼下では、灰色の波――オークの軍勢が、ガビル率いるリザードマンの部隊を完全に飲み込もうとしている。
だが、その絶望の泥濘に、間もなく俺の頼もしい仲間たちが『救済』という名の理不尽な暴風を巻き起こすことになる。
*
遡ること数日前。
湿地帯の静寂を切り裂くように、荒い足音と不満の入り混じった溜息が洞窟の奥で響いていた。
リザードマンの本拠地からほど近く、苔生した岩肌が剥き出しになった一角で、ガビルは手にした槍を地面に叩きつけ、苛立ちを露わにしていた。
「ええい、頭の固い父上め! リザードマンの誇り高き力と、この湿地帯という絶対的な地の利をもってすれば、オーク共などに遅れを取るはずなどないのだ! それを、防衛主体の籠城戦だと? 甘い、甘すぎるわ!」
ガビルの背後には、彼を信奉する部下たちが顔を見合わせ、主の言葉に同調するように深く頷いていた。
彼らにとって、魔人ゲルミュッドから「名」を授かったガビルこそが、次代の首領であり、部族を栄光へと導く英雄に他ならなかった。
「左様! 我らリザードマンの精鋭が打って出れば、あのような鈍重な豚共、泥に沈めることなど造作もないこと!」
「ガビル様はサイコーにかっこいいんだから、ガビル様が指揮を取ればオークなんて余裕ですよ!」
部下たちの無責任な賞賛は、ガビルの肥大化した自尊心をさらに煽り立てる。
彼は自らの掌を見つめ、そこに宿る魔力を確かめるように拳を握りしめた。
「……名付けの親、ゲルミュッド様も私に期待しておられるのだ。このまま洞窟の中で指をくわえて待つなど、英雄のすることではない。いったいどうすれば……!」
その時であった。
「いやー、ガビルはんの言う通りでんなぁ。ほんま、先見の明がありますわ」
唐突に響いた拍子抜けするような声。
「ムッ! 何ヤツ!」
ガビルは咄嗟に槍を構え、音もなく岩陰から現れた奇妙な仮面の男を鋭く睨みつけた。
「そう殺気立ちなはんな。ワイはラプラス言うもんです。ゲルミュッド様の使いで、あんたに大事な『警告』を伝えに来たんや」
「な、ゲルミュッド様の使いだと!?」
ガビルの表情が一変した。
敬愛する名付け親の使者と聞き、慌てて槍を下ろすと、恭しく姿勢を正す。
「わざわざ御足労をおかけしたな。して、ゲルミュッド様のご警告とは……?」
「それが、えらいことになっとるんですわ。今回のオークの軍勢……どうやらオークロードが率いとるらしいんですわ」
「オ、オークロードだと……!? あの、数世紀に一度現れるという、魔王にすら匹敵する災厄の王か!」
ガビルの顔に戦慄が走る。
だが、ラプラスはそれを逃さず、肩をすくめて畳み掛けるように囁いた。
「左様ですわ。そんなバケモンを相手に、今の首領殿みたいに洞窟に閉じこもってて勝てると思いまっか? このままやと、あんたの名付け親であるゲルミュッド様の面目も丸潰れ。せっかく名をもらったあんたまで、豚の餌になっておしまいや……。もったいない話やと思いまへんか?」
「くっ……それは、あってはならんことだ! だが、父上は頑なに打って出ることを禁じ、あろうことか他の勢力との同盟を画策しておられる!」
「他の勢力との同盟? それは笑えん冗談ですわな。誇り高きリザードマンが、他の勢力の助けを借りるやなんて……ゲルミュッド様が聞かはったら、さぞかし嘆かれるやろなぁ」
ラプラスはわざとらしく溜息をつき、ガビルの肩に手を置いた。
「なあガビルはん。あんた、ほんまは気づいとるんとちゃいます? 今、この部族を救えるのは、知恵と勇気、そしてゲルミュッド様から名をもらった正当なる後継者……あんただけやってことを」
「私が……私だけが、この窮地を救える……?」
ガビルの瞳に、どす黒い野心の火が灯る。
「そう。首領殿が年老いて判断を誤ったのなら、息子であるあんたがそれを正してあげる。それが本当の『親孝行』っちゅうもんですわ。……さあ、ガビルはん。あんたが『真の首領』として立ち上がる時が来たんとちゃいます?」
「……。ふ、ふふふ。……はーはっはっは! その通りだ! 父上はもう老いた! 時代が私を求めているのだな!」
ガビルは空を仰ぎ、高らかに笑い声を上げた。
その後ろで、ラプラスの仮面の下の口元が三日月のように歪んだことに、彼は最後まで気づかなかった。
*
数日後、リザードマンの本拠地である洞窟内に、ガビルの声が木霊した。
「父上! 防戦ではこの戦、勝ち目はございません! 敵が湿地帯に到着しようとている今こそ! こちらから討って出るべきです!」
背後には、彼に心酔する百余名の戦士たちが槍を揃え、不穏な空気が渦巻いている。
「な、ガビル殿! 何をなさるのですか!」
親衛隊長が前に出るが、ガビルの合図と共に反乱軍が彼女を取り囲んだ。
戦場慣れしたはずの親衛隊も、身内による不意打ち同然の拘束には抗えなかった。
「……ガビルよ。本気か」
玉座に座る首領は、微動だにせず息子を見据えていた。
その瞳には、本来の歴史であれば激しい怒りや悲しみが宿るはずだ。
しかし、今の首領の胸中にあるのは、先日訪れた『未来から来たジュラの森の盟主』との約束だった。
(ジュラの森の盟主殿。 貴殿の言う通り、我が息子は今は盲信に取りつかれているようだ。
だが……)
「父上、手荒な手段になってしまい申し訳ありません。しかし、吾輩がオークロードを倒すまで辛抱していただきたい」
尊敬する父に対し、申し訳なさそうに進言するガビル。
それを見た首領は静かに立ち上がり、傍らに置かれた布に包まれた「長物」を手に取った。
「ガビル。お前がしていることは、部族の掟に照らせば死罪にも値する重罪だ。……だが、お前がそこまで己の正義を貫き通すと言うのなら、もはや止めることはせぬ。……これを持って行け」
首領が背に背負った槍をガビルに差し出す。
荒々しい水流を模した装飾が施された一振りの魔槍――「水渦槍(ボルテクススピア)」を。
「……! そ、それを私に……!?」
ガビルの目が驚愕で見開かれる。
未来のリムルの歴史では、ガビルの部下が首領から無理やり奪い取るような形になったはずだが、今回は違った。
「今のお前にはこれが必要だろう。……ガビル、お前が本当に『首領』の名に相応しい器であるというのなら、この槍がお前の行く先を照らしてくれるはずだ」
「ち、父上……! ありがたき幸せ! このガビル、必ずや勝利を掴み、この槍に恥じぬ英雄として戻ってくるとお約束いたします!」
ガビルは震える手で槍を受け取ると、その重みと力に酔いしれるように高らかに掲げた。
首領と親衛隊を軟禁し、宝槍を手に、栄光へ向かって突き進む。
その背中を見送りながら、首領は独りつぶやいた。
「未来の盟主殿。……あやつのことを頼みましたぞ」
*
俺が戦場の気配を消し、深い影の底へと沈み込むと同時に、湿地帯の空気は爆ぜるような殺気に満たされた。
戦場の中央、泥濘(ぬかるみ)を跳ね上げながら孤軍奮闘するリザードマンの一団。
その中心にいるガビルは、父から託された「水渦槍(ボルテクススピア)」を必死に振るっていた。
だが、そこにいるのは俺がかつて知っていた、ただのお調子者な「反逆者」ではない。
「くっ……おのれ、これほどまでとは! 退くな、お前たち! 吾輩が、吾輩が必ず道を作る……!!」
槍術自体は流麗だ。
放たれる水流の刃は確実にオークの肉を裂いている。
しかし、いかんせん二十万の物量は絶望的という他ない。
かつての歴史では「奪い取った」はずの槍。
だが今は、父から「期待」と共に手渡された本物の重みが、その未熟な肩にのしかかっている。
その必死な横顔は、上空に隠れている俺の目には見ていられないほどに痛々しく、そして――かつての彼よりもずっと、戦士としての光を放っていた。
一方、上空で戦場を俯瞰している「過去の俺」もまた、この異常な戦況を前に、冷静に現状を分析していた。
「……数もそうだが、一匹一匹が妙にタフだな。大賢者、状況はどうだ?」
過去の俺の問いかけに、懐かしい無機質な声が脳内で応じる。
『解。個体名:ガビルを含むリザードマン勢力の生存率はソウエイらの影からの支援により現時点では100%を維持しています。 しかし、このままでは、あと一八〇秒以内に戦線が完全に瓦解します』
「三分か……。リザードマンの首領との約束もある。犠牲者は出るような事態にはしたくない」
過去の俺が、意を決したように銀髪を揺らした。
「よし、やるか。――ゴブタ! ハクロウと一緒にゴブリンライダー隊を率いて敵の陣形をかき乱せ! ベニマル、シオン、ランガは敵側面より強襲! 俺は直接ガビルを助けにいく!」
「「「「「ハッ!」」」」」
眼下では、三体のオークジェネラルが泥を跳ね上げ、ガビルを包囲していた。
一体でもリザードマンにとっては脅威だ。
それが三体。
ガビルの部下たちが次々と吹き飛ばされる。
「ガビル様、お逃げください!」
「馬鹿を申せ! 吾輩が……吾輩が逃げてどうする! 父上に、合わせる顔がないではないか!!」
ガビルが叫び、槍を突き出した瞬間。
中央のジェネラルが振るった巨大な戦斧が、ボルテクススピアの軌道を力任せに弾き飛ばした。
「ガァッ……!」
両腕の感覚が麻痺するほどの重い衝撃。
ガビルの手から、父の信頼の証であったはずの宝槍が弾き飛ばされ、泥の中へと無残に転がり落ちる。
武器を失い、泥濘に膝をつくガビル。
その頭上に、無慈悲な死の刃が振り下ろされる――。
(ああ……吾輩は、なんという愚かな真似を……)
迫り来る巨大な斧の刃を前に、ガビルの脳裏をよぎったのは、満たされることのなかった己の野心などではなかった。
ただ自分を信じ、無謀な突撃についてきてくれた部下たちの顔。
そして、どれだけ親不孝を働こうとも、最後まで自分を見捨てず槍を託してくれた父の厳しくも温かい眼差しだった。
(吾輩の傲慢さが、皆を……リザードマンの誇りを泥に沈めてしまった。
……ここまで、か。 父上、申し訳……ございませぬ……)
ガビルが自身の無力さを呪い、死を覚悟して固く瞳を閉じたその刹那。
「そこまでだ!」
ガビルの頭上に振り下ろされたオークジェネラルの巨大な斧を、細腕一本で軽々と――しかし絶対的な力で受け止めたのは、上空から舞い降りた『過去の俺』だった。
甲高い金属音が鳴り響き、いつまで経っても死の痛みが訪れないことに気づいたガビルは、恐る恐る目を開けた。
「な、なんだ……!?」
そこにいたのは、自分より遥かに小柄な、銀髪の美しい少年(少女にも見えるが)。
いや、その魔力の質からして、本質は魔物――スライムか。
驚愕するオークたちを前に、過去の俺は余裕の笑みを浮かべる。
「悪いな、こいつの命は俺が預かってるんでね」
「ば、馬鹿な……ジェネラルの全力の一撃を、片手で防いだとでもいうのか……!?」
絶望の淵にいたリザードマンたちが、信じられないものを見るように目を見開く。
過去の俺はそのまま軽く腕を払うだけで、オークジェネラルの巨体がまるで羽虫のように泥濘を滑り、数十メートル先まで吹き飛んでいく。
その直後、過去の俺の号令に応えるように、オーク軍の左右両翼で凄まじい衝撃が爆ぜた。
「不殺(ふさつ)」という極めて困難な縛りを与えられながらも、仲間たちの動きには一切の迷いがない。
「さて、派手に道を空けてもらおうか」
側面から突入したベニマルが、腰の太刀をわずかに抜く。
放たれたのは『黒炎陣』。
「ひっ……! 炎だ! 焼き尽くされるぞ!」
「ガビル様、お逃げください!」
泥濘に倒れ伏していたリザードマンたちが、目前に迫る漆黒の炎に絶望の悲鳴を上げた。
ガビルもまた、その圧倒的な熱量に息を呑み、今度こそオーク共々自分たちも骨まで灰にされるのだと顔を覆いかけた。
だが、それは敵を焼き尽くすためではなく、巨大な「檻」として機能した。
漆黒の炎が円状に展開され、数千のオークを包み込む。
超高熱の熱波がオークたちの武器や鎧を瞬時に赤く焼かせ、持っていられなくさせる。
「グギャアアアッ!?」
熱さに悶え、次々と武器を手放し、戦意を喪失したオークたちがその場に倒れ伏していく。
焦げた匂いはすれど、炭と化した死体は一つも転がっていない。
「……安心しろ、加減はしてある。今の俺たちに、これくらいのコントロールは造作もない」
炎のゆらめきの中で、ベニマルは涼しげな顔で前進を続けた。
「あ、ありえん……あれほどの広範囲の炎を、命を奪わぬよう完璧に制御しているというのか……!?」
ガビルは震える声で呟いた。
鬼人(キジン)――伝説に聞く上位魔族の規格外の力と、それを手足のように操る技術に、彼らはただただ圧倒されることしかできない。
その隣では、ハクロウとゴブタ率いるゴブリンライダー隊が、文字通り「風」となって戦場をかき乱していた。
「……ぬるいのう。ゴブタ、足を止めるな! 走り抜けながら急所を叩け!」 「了解っす! オイラたちの機動力、見せてやるっす!」
「な、なんだあの動きは! 目で追えぬ!」
リザードマンの戦士たちが驚嘆の声を上げる。
ハクロウが通り過ぎるたびに、オークの戦士たちが何が起きたかも理解できぬまま、白目を剥いて次々と倒れていく。
超高速の「峰打ち」。
抜刀の瞬間すら見せないその神業の前に、オークたちは武器を構える暇すら与えられず、静かに意識を刈り取られていった。
それに続くゴブタたちも、星狼族の機動力を活かした一撃離脱で、オークたちの陣形をズタズタに切り裂いていく。
「はーっはっは! 邪魔ですよ、どきなさい!!」
戦場の中央で豪快に暴れまわっているのはシオンだ。
美しい女性の姿でありながら、身の丈ほどもある巨大な大太刀『剛力丸』を、まるでおもちゃのように軽々と振り回す。
ただし、刃を向けるのではなく、その平(ひら)で敵を叩き飛ばしているのだ。
「フンッ!!」
一振りごとに凄まじい衝撃波が発生し、正面のオークたちが数十人単位でボウリングのピンのように空高く舞い上がる。
ドスッ!
バキッ!
叩きつけられた衝撃で気絶するオークたちが泥濘を埋め尽くすが、不思議と命を落とす者は一人もいない。
彼女の怪力もまた、驚くべき精度で抑制されているのだ。
リザードマンの戦士たちが、恐怖を通り越して畏敬の念すら抱き始めている。
「ウォォォォンッ!! 一匹も通すな! 主の慈悲を無駄にするなよ!」
さらに、ランガもまた黒い旋風となって戦場を駆けていた。
彼が吠えるたびに局地的な竜巻が発生し、オークたちを宙へと巻き上げる。
そのどれもが急所を外した「風のクッション」による気絶誘発。
殺さずに戦力だけを奪うという、極めて高度な戦術だった。
(……やるな。特にシオン。俺が当時戦った時は力任せでハラハラしたけど、今のシオンはめちゃくちゃ器用なことやってるな。それにランガの風の制御も完璧だ)
雲の影に潜む俺は、彼らの戦いぶりに内心で大きな拍手を送っていた。
殺す方がよっぽど楽なこの乱戦の状況で、二十万の軍勢を可能なかぎり生かして制圧する。
それは、今の彼らが「ただ強い」だけでなく、「自らの強大な力を完全に支配する術」を身につけている何よりの証拠だ
「あ、ありえん……」
泥濘にへたり込んだまま、ガビルは目の前で繰り広げられる光景に言葉を失っていた。
二十万の軍勢が、たった数人の魔物たちによって文字通り「遊ばれて」いる。
しかも、彼らは一切の命を奪っていない。
オークたちを傷つけずに無力化するという、狂気の沙汰としか思えない縛りを自らに課しながら、圧倒的な蹂躙劇を演じているのだ。
ガビルは震える首をゆっくりと巡らせ、自身の命を救ってくれた、銀髪の美しい少年――『過去の俺』を見上げた。
「貴殿は……いや、貴殿らはいったい何者なのだ……?」
絞り出すようなガビルの問いに、周囲のリザードマンたちも固唾を呑んでその答えを待った。
この世界線において、俺がガビルと直接顔を合わせるのはこれが初めてだ。
過去の俺は、泥だらけのガビルを見下ろして、小さく、けれど親しみやすい笑みを浮かべた。
「俺か? 俺はリムル。しがないスライムのリムルだ。縁あって、ジュラの森の魔物たちの代表……まあ、盟主みたいなことをやらせてもらってる」
「スライム……!? この圧倒的な覇気を纏う貴殿が、最弱の魔物であるスライムだと……!?」
ガビルは驚愕に目を見開いたが、すぐにハッとして息を呑んだ。
「盟主……ジュラの森の盟主……。ま、まさか! 出陣の際、父上が口にしていた『未来の盟主殿』とは、貴殿のことだったのか!」
「ん? ああ、まあ『未来の』ってのは俺の事ではないし、少し複雑な事情があるんだが……そうだな。お前の親父さんとは、事前に少し話をさせてもらっていてな。もし息子が馬鹿をやって死にそうになったら、必ず助け出してほしいって頼まれてたんだよ」
過去の俺のその言葉に、ガビルの心臓が大きく跳ねた。
「父上が……吾輩を……?」
「ああ。あのおっさん、お前が部族の掟を破ってクーデターを起こすこともわかってて、それでもお前を信じて『水渦槍』を託したんだぜ。……不器用だけど、本当に息子想いの、いい親父さんを持ったな」
過去の俺はそう言って、泥に塗れたボルテクススピアを拾い上げ、ガビルの胸へと優しく押し付けた。
「あ、あああ……っ!」
ガビルは槍を両手で抱きしめ、泥の地面に額を擦り付けるようにして慟哭した。
自分の傲慢さが招いた取り返しのつかない危機。
それすらも父は予見し、この強者たちに頭を下げて自分の命を救ってくれたのだ。
己の愚かさへの激しい後悔と、父の底知れぬ愛情に、ガビルの目から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
ガビルが泥濘に額を擦り付けて慟哭していた、まさにその時だった。
「グギャアアアッ!!」
鼓膜を震わせるような雄叫びと共に、ベニマルやハクロウたちの猛攻を運良く(あるいは悪運で)すり抜けたオークの別動隊――ひときわ大柄で重武装の歩兵部隊が、無防備なガビルや怪我を負ったリザードマンたちを目掛けて殺到してきた。
「おっと。少しばかり網の目をすり抜けた奴らがいたか」
過去の俺は冷静に呟き、ガビルを庇うように一歩前へ出ると、腰の直刀の柄に静かに手をかけた。
迎撃の構えを取る過去の俺。
だが、その刀が引き抜かれるよりも早く、泥濘の戦場に凛とした、しかし圧倒的な威圧感を伴う声が響き渡った。
「――我が愚息の不始末、親である私が付けさせてもらう!」
轟音。
湿地帯の豊富な水分を圧縮し、限界まで魔力を込めて放たれた極大の水流が、オークの別動隊の側面を凄まじい勢いで薙ぎ払った。
「ブゴァッ!?」と奇声を上げながら、重武装のオークたちが次々と泥濘の彼方へと吹き飛ばされていく。
「なっ……こ、この技は!?」
ガビルが弾かれたように顔を上げる。
水しぶきと霧が晴れたそこには、本来なら洞窟の最奥に軟禁されているはずの、見慣れた威厳ある姿があった。
「ち、父上!? それに、親衛隊長まで!! な、なぜここに……!?」
そこには、巨大な鉾を構えたリザードマンの首領と、その横で槍を抜いた親衛隊長、そして彼らが率いるリザードマン最強の精鋭『親衛隊』の姿が揃っていた。
「馬鹿者め。お前の浅知恵で作った軟禁部屋など、私が本気になればいつでも破れたわ」
首領は厳格な顔つきでガビルを一喝する。
だが、その瞳の奥には、息子が無事であったことへの深い安堵の光が揺れていた。
「……とはいえ、今回は手助けがあったのだがな。未来の盟主殿が、万が一の事態に備えて事前に『影の護衛』を配置してくださっていたのだ」
「影の護衛……?」
「そうだ。戦況が動いたと同時、あちらのお方の配下…ソウエイ殿が影から現れ、我らの拘束を解き、この場へ駆けつけるよう手引きしてくれたのだ。全ては、あの御方の掌の上というわけよ」
首領が畏敬の念を込めて、過去の俺へと深く頭を下げる。
「リムル殿。未来の貴殿からのご指示とはいえ、我が愚息の命のみならず、我らリザードマンの窮地を救っていただき……この恩、何に代えても報いさせていただきます」
「気にしないでくれ、首領さん。約束通り、死人はゼロでいくぜ」
過去の俺は、ニカッと頼もしい笑顔を見せた。
「兄上!! ご無事で本当に良かった……!」
「し、親衛隊長……吾輩は、なんという取り返しのつかないことを……」
涙ぐむ親衛隊長の前で、ガビルは再び項垂れる。
だが、首領はその背中を力強く叩き、泥にまみれた『水渦槍(ボルテクススピア)』をガビルの手に握らせた。
「泣き言を言う暇があるなら、今は前を見ろ、ガビル! お前の招いた危機だ、お前自身の手で最後まで足掻き、そして生き抜け! 我らリザードマンの誇り高き戦士の魂、今こそ盟主殿にお見せするのだ!」
「……っ! は、はいっ!! この命に代えても!」
ガビルの瞳に、先ほどまでの絶望とは違う、強烈な闘志と責任の光が宿る。
「よく言った! 親衛隊よ、ガビルの背後を守れ! これより我らは盟主殿と共闘し、残存するオーク共の目を引きつける!」
「「「オオォォォォッ!!」」」
首領の号令と共に、親衛隊が一糸乱れぬ動きで防衛陣形を展開する。
ガビルもまた、父から授かった水渦槍を構え直し、過去の俺と肩を並べるようにして前衛へと躍り出た。
かつて反発し合った親子の、そして誇り高きリザードマンの戦士たちによる、胸の熱くなる共闘の始まりだった。
(……ふふっ。完璧なタイミングだな、ソウエイ)
その熱い展開を上空の雲の影から見下ろしながら、未来の俺は密かにガッツポーズを取っていた。
ガビルの心が一番折れかけた瞬間に、ソウエイの分身に指示して解放しておいた首領たちを投入する。
これにより、ガビルの精神的な成長と、リザードマン部族の強固な結束が同時に果たされるという完璧な算段だ。
「……さて。これだけ蹂躙されれば、いい加減あの『魔人』が、しびれを切らして出てくる頃だな。」
俺はそう独りごちて、戦場の奥深くに鎮座する巨大な影――オークロードへと視線を向けた。
かつて戦った時よりも、その纏う魔気はなお禍々しく、重く沈んでいる。
だが、その巨体はぴくりとも動かず、虚空を見つめる瞳はガラス細工のように虚ろだ。
ただ、その傍らには鋭い眼光を放つ副官が控え、周囲を警戒するように油断なく立ち回っている。
「……ゲルド」
後の世で、俺の右腕の一人として魔国連邦(テンペスト)を支え、守護の要となる実直な男。
今はまだ「名」も持たぬ一兵卒に過ぎないが、その瞳には同胞を想う強烈な意志と、壊れゆく主君を見守る深い悲痛が同居していた。
「今のお前には、この光景がどう見えているんだろうな。同胞が傷つき、主が魔王(バケモノ)に堕ちていく……。お前にとって、この世はまさに地獄だろう。」
俺は影の中で、静かに拳を握った。
この戦いにおいて、彼らがどれほどの絶望を抱えていたか。
それを知っているからこそ、今回の「不殺」という選択は、彼らオークという種族そのものを救うための、俺なりの精一杯の誠意でもあった。
「辛いだろうが、もう少しの辛抱だ、ゲルド。……お前たちの『飢え』は、俺が全部引き受けてやるからな。」
その時、俺の言葉に呼応するかのように、上空の雲が不自然に渦を巻き始めた。
いよいよ、この茶番を仕組んだ「脚本家」がお出ましらしい。
*
戦場より少し離れた、湿地帯を見下ろす鬱蒼とした森の奥深く。
この異常な光景を、空中に投影した監視水晶を通して見つめている二人の人物がいた。
今回のオークロード襲撃という大乱を仕込んだ張本人、魔人『ゲルミュッド』と、道化師のような仮面を被った謎の男『ラプラス』である。
「おのれ、おのれおのれおのれェッ! なんだあの忌々しい魔人どもは! 我がオークロードの進化に捧げるべき『生贄』が、一人も死なぬではないか!!」
ゲルミュッドは監視水晶に映る光景を見て、爪を噛みちぎらんばかりに激高していた。
本来のシナリオであれば、リザードマンとオークが血みどろの殺し合いを演じ、その無数の死体と怨嗟を糧にしてオークロードが『真なる魔王』へと進化するはずだった。
だが今、戦場ではベニマルたち鬼人やゴブリンライダー隊の規格外の力によって、理不尽なまでに「死」がシャットアウトされている。
「……計算が狂いましたなぁ。これは少々、笑えん事態ですわ」
傍らに立つラプラスの声に、いつもの人を食ったような軽薄さはなかった。
仮面の奥の瞳は、戦場をまるで遊戯場のように蹂躙するベニマルたちの動きを冷徹に分析し、その得体の知れない脅威に深く眉をひそめている。
「笑えんだと!? そんな言葉で済むか! このままでは……このまま魔王が誕生しなければ、あのお方に……クレイマン様に殺されてしまう……!!」
冷や汗を滝のように流し、ガタガタと全身を震わせるゲルミュッド。
『人形傀儡師(マリオネットマスター)』の名を冠する恐るべき魔王クレイマン――その底知れぬ恐怖に突き動かされた彼は、ついに僅かに残っていた理性を手放した。
「ええい、こうなれば吾輩自ら手を下してくれるわ! あの出来損ないのトカゲ共を始末し、無理やりにでもゲルドの胃袋に流し込んでやる!」
「おっと、ゲルミュッドはん、それは――」
血走った目で戦場へと飛び出そうとしたゲルミュッドを、ラプラスが止めようとした、その時。
二人の周囲を、唐突に「緑の輝き」が包み込んだ。
空中に舞い散る、淡い光の花弁。
そこから静かに、だが逆らいがたい絶対的な威圧感を伴って、一人の美しい女性が姿を現した。
ジュラの大森林の管理者、樹妖精(ドライアド)のトレイニーである。
森の怒りそのものを体現するような威厳を纏った彼女の登場に、ラプラスは仮面の裏で鋭く目を細めた。
「――そこまでです、不浄なる魔人よ。これ以上の蛮行、この森が許しません」
「……ドライアドやて? げぇ、このタイミングで一番出てきてほしくない人が来はりましたなぁ」
ラプラスが初めて苦々しく舌打ちをした。
いつもの飄々とした態度は完全に消え失せ、本物の「強者」を前にした警戒心が全身の毛穴から滲み出ている。
一方で、トレイニーの透き通るような緑の瞳は、怒りに燃えるというよりは、森を蝕む害虫をただ無機質に排除せんとする冷徹さで二人を見据えていた。
「ジュラの森の秩序をこれ以上乱すことは許しません。ここで、その命を清算していただきましょう」
「ひ、ひいいいっ! 樹妖精(ドライアド)だと!? なぜ今さらこんなところへ……!」
予期せぬ強者の強襲に完全にパニックに陥り、醜く顔を歪ませるゲルミュッド。
トレイニーはその無様な怯えを冷徹に射抜き、一切の容赦なく、森の管理者としての絶大な権能を振るった。
「精霊召喚『風の精霊(シルフィード)』――『大気圧縮断裂(エアリアルブレード)』!!」
不可視の真空の刃が幾重にも重なり、絶望的な速度でゲルミュッドの首筋へと迫る。
回避は不可能、防御も間に合わない――ゲルミュッドが自身の死を確信した、その瞬間。
「……おっと、それはあきまへんわッ!!」
影のような速さでゲルミュッドの前に割って入った者がいた。
ラプラスである。
――――ザシュッ!!
肉と骨を無残に断ち切る嫌な音が響き、宙に赤い飛沫が鮮やかに舞った。
ラプラスがゲルミュッドを力任せに突き飛ばし、自らが盾となったのだ。
その代償として、彼自身の右腕が肩口から綺麗に切り飛ばされ、ドサリと虚空から地に落ちた。
「ラ、ラプラス!? 貴様、腕が……っ!」
「ええからさっさと逃げなはれ、ゲルミュッドはん!」
右腕を切断されるという致命傷を負いながらも、ラプラスの声音は不気味なほど冷静だった。
彼は残された左手で、即座に黒く濁った魔力の塊を練り上げ始める。
「た、助かった! 恩に着るぞ!」
ゲルミュッドは自身を庇った仲間の負傷など意にも介さず、好機とばかりにガビルがいる戦場の方角へと向けて、弾かれたように飛翔を開始した。
「逃がしません……!」
トレイニーが即座に追撃の魔法を編み上げようとしたが、それを察知したラプラスが素早く妨害行動に出た。
「ほな、ワイもお暇させてもらいますわ!」
ラプラスの左手から放たれた魔力が弾け、凄まじい旋風と共に、視界と魔力感知を完全に遮断する濃密な煙幕が爆発した。
周囲一帯の魔素が激しく乱れ、空間そのものがかき回される。
トレイニーが風の精霊を操り、煙幕を吹き飛ばした頃には、空中に漂う魔素の残滓だけを残し、ラプラスの気配は完全に消失していた。
「まさか逃げられるとは……。空間移動の痕跡すら残さないなんて。状況は、思わしくありませんね……」
トレイニーは微かに眉をひそめ、ゲルミュッドが消えた空の向こう――激戦が繰り広げられている湿地帯の中央を見つめていた。
*
一方その頃。
上空で厚い雲の影に潜み、静かに戦場を俯瞰していた未来の俺。
その眼下では、ベニマルたちが「不殺」という無茶な命令を見事に遂行し、二十万のオーク軍を面白いくらいに無力化していく光景が広がっていた。
さらに中央では、過去の俺の傍らで、リザードマンの首領と親衛隊が強固な陣形を組み、オークの別動隊を見事に押し留めている。
「よし、みんな上手いことやってるな。これなら犠牲者を出さずに――」
上空で俺が安堵の息を吐きかけた、その瞬間。
これまでピクリとも動かなかった敵本陣に、初めて明確な動きがあった。
ついに、豚頭帝(オークロード)が前進を始めたのだ。
「ブモォォォ……」
醜悪で巨大な豚の化け物が、泥濘を踏みしめて前に出る。
その傍らに付き従うのは、二体の豚頭将軍(オークジェネラル)。
オークロードの黄色く濁った瞳に敵意が漲り、戦場全体を覆い尽くすほどの凄まじい妖気が放出される。
その異常なプレッシャーを受けて、気絶を免れていた周囲のオーク兵たちの瞳が血走り、再び狂気のような力が漲っていくのが見えた。
これ以上、被害を広げるわけにはいかない。
その動きに応戦するように、ベニマル、シオン、ハクロウ、ランガが泥濘の上に並び立ち、いつの間にか影から帰還したソウエイもその列に加わった。
ガビルの傍らに立っていた過去の俺も、懐からシズさんの形見である『抗魔の仮面』を取り出して装着し、自らオークロードに引導を渡そうと一歩前に出た。
だが、その時だ。
――キィーーーーーーン!!
鼓膜を突き刺すような、耳障りな甲高い飛翔音が戦場に響き渡った。
湿地帯の中央、ちょうど俺の仲間たちやガビルたちと、オークロードの本陣が対峙するそのド真ん中に、上空から何者かが高速で飛来し、隕石のように着弾したのだ。
泥煙が晴れた後に立っていたのは、派手で怪しい装束に身を包んだ、異様な存在感を放つペストマスクの魔人。
「これは一体どういう事だ!? この偉大なるゲルミュッド様の計画を、どこの馬の骨とも知れぬゴミ共が台無しにしやがって!!」
大声を上げ、自らがこの大乱の黒幕であると自白するような無様な立ち振る舞い。
過去の俺の脇を、ランガとベニマルが即座に固める。
ゲルミュッドと名乗ったその魔人は、俺たちを完全に無視して、自分の思い通りにならない戦況に対してさらに喚き散らし始めた。
「こ、これはゲルミュッド様! 我輩を助けに、自らここまで来て下さるとは!」
泥まみれになりながらも、一筋の希望を見出したように駆け寄るガビル。
「ガビル、待て! その者に近づくでない!」
背後から首領が鋭い声で制止するが、すがりつくようなガビルの耳には届かない。
だが、ゲルミュッドはそのガビルの純粋な忠誠を、まるで路傍の汚物をゴミを見るような目で見下し、怒りのままに吐き捨てた。
「役立たずの鈍間が! 貴様がさっさと蜥蜴人(リザードマン)や子鬼(ゴブリン)を喰って魔王に進化しておれば、わざわざ上位魔人であるこのゲルミュッド様が出向く事はなかったのだ!」
その非情すぎる宣告に、ガビルの顔からスッと血の気が引いていく。
「と、トカゲを喰う……? は、ははは、これは厳しいご冗談ですな。このガビル、まだまだのようです。ゲルミュッド様より名を頂いてからも、精進を怠ってはいなかったのですが……」
「黙れガビル! 貴様もさっさとオークロードの糧となれば良いものを……。役に立たない無能の分際で、いつまでも目障りなヤツよ。まあいい。せっかく俺が出向いたのだ、貴様の死は直接俺が看取ってやる。オークロードの力となれ、ガビルよ。俺の役に立って死ねるのだ、光栄に思うがいいぞ!!」
ゲルミュッドは冷酷に言い放ち、背後のオークロードへとガビルの処刑(捕食)を命じた。
しかし、当のオークロードはピクリとも動かない。
ただ、ガラス玉のように濁った瞳で主であるゲルミュッドを見つめ、掠れた声で問い返した。
「魔王に進化……とは、どういう事力……?」
「チィ! 本当に愚鈍なヤツよ……。力ばかりで、脳に栄養が行き渡っておらぬ。時間がない、手出しは厳禁だが……俺が直接やるしかないか……!」
苛立ちを限界まで爆発させたゲルミュッドが、ペストマスクの奥の瞳を血走らせ、ガビルに向けて手の平を突き出した。
放たれた凶悪な魔力弾が空を裂く。
「危ない、ガビル様!」
「兄上ッ!!」
呆然と立ち尽くすガビルの前に、配下のリザードマンたち、そして親衛隊長が身を挺して飛び込んだ。
首領もまた、ガビルを庇うように巨大な鉾を構えて盾となる。
――だが、彼らの身体に死の衝撃が届くことはなかった。
「……悪いが、こいつらの命は俺が預かってるって言っただろ?」
ドォォォンッ!
という爆発音と土煙が晴れた後。
そこには、ガビルたちとゲルミュッドの間にスッと割り込み、片手を軽く前に突き出して、多重結界(バリア)でゲルミュッドの凶悪な魔力弾を完全に防ぎ切った『過去の俺』の姿があった。
「ち、父上に妹、みんな……! それに、リムル殿……!」
「ガビル……これが未来の盟主殿が危惧しておられた、真の黒幕の姿だ。お前の信じた者は、我ら部族を滅ぼす元凶だったのだぞ……!」
無傷で守られた配下や家族の姿、そして目の前で涼しい顔をして魔力弾を掻き消した過去の俺の背中を見て、ガビルの表情がかつてないほどの絶望と悔恨、そして感謝に歪む。
己の全てを捧げた名付け親に裏切られ、自分の不甲斐なさのせいで信じてくれた者たちを死なせかけた。
その光景を、ゲルミュッドは冷笑と共にさらに煽り立てる。
「下等種族の分際で生意気な……。そんなに死にたいなら、纏めて殺してやるわ! そしてオークロードの養分となり、この俺の役に立つがいい!!」
ゲルミュッドの頭上に、先程とは比べ物にならない禍々しい妖気が集中し始める。
詠唱すら不要な、純粋な魔力と殺意を練り固めた極大の一撃。
「俺が――」と太刀を抜こうとしたベニマルを、そして水撃砲を放とうとした首領を片手で制し、過去の俺はゲルミュッドと真っ向から相対した。
「ふはははは! 身の程知らずのスライムめ、上位魔人の圧倒的な強さを教えてやる! 死ね、『死者之行進演武(デスマーチダンス)』!!」
愉悦に歪んだ表情と共に放たれた特大の魔力弾。
それは空中で無数に分裂し、逃げ場を完全に塞ぐ死の行列のように、地上の俺たちへと激しい雨となって降り注いだ。
まともに受ければ、爆光が戦場を包み込み、跡形もなく消し飛ぶはずの光景。
しかし、過去の俺はただ、小さな左手を前へと差し出した。
「なっ……!?」
ゲルミュッドが驚愕の声を上げる。
降り注ぐ無数の魔力弾のすべてが、まるでブラックホールにでも吸い込まれるように、過去の俺の左手の中へとズズズッと消えていく。
ユニークスキル『捕食者』による完全吸収。
すべてを飲み込み、その術理を『大賢者』で完全に解析し終えた過去の俺は、仮面の下から冷ややかな声で言葉を返した。
「なあ、これが全力か? この程度の底の知れた技で、俺に死ねだって?」
過去の俺が一歩、ゲルミュッドへと距離を詰める。
「どうやって死ぬか、先ずはお前が手本を見せてくれよ」
過去の俺が、右手をゲルミュッドに向けて突き出す。
……だが、何も放たれない。
(……そういえば、あの時の俺ってカッコつけて手を出したはいいけど、何も出なかったんだっけな)
《あの時のマスターの狼狽ぶりは、少し面白かったですね》
(うるさいよ! シエルさん!)
上空で見守りながら、俺は過去の自分の恥ずかしい記憶に顔から火が出る思いだった。
地上の過去の俺も、仮面の下で猛烈な気恥ずかしさを感じていたようで、コホンと小さく咳払いをして気を取り直すと、改めて魔法を構成し直した。
「――『水氷大魔槍(アイシクルランス)』」
空中で急加速した巨大な氷の槍が、回避しようと飛び退いたゲルミュッドの身体に直撃する。
咄嗟に身を護ろうと交差して突き出したゲルミュッドの両腕が、凄まじい絶対零度の凍気によって、瞬時に分厚い氷塊へと変わった。
「ぐああああああああ!? こ、この俺様の腕がああああ!!」
ゲルミュッドが悲痛な苦悶の声を上げる。
どうやら過去の俺は、この小悪党のゲルミュッドをサンドバッグにして、色々と自分の新しい力や魔法を試すつもりらしい。
(昔の俺も同じことをやったし、あいつは別に助けるつもりも義理もないから、どうでもいいけどな)
そんなことを考えながら、俺が雲の上から高みの見物を決め込んでいると――いつの間にか、地上で腕を凍らせて喚いているゲルミュッドの周囲を、ベニマル、シオン、ハクロウたちが静かに、そして圧倒的な殺意を込めて取り囲んでいた。
さらには、ガビルの傍らで無傷だったリザードマンの首領と親衛隊長もまた、怒りに燃える瞳でゲルミュッドを睨みつけている。
「我が愚息を唆し、一族を滅ぼさんとした罪、万死に値する。……未来の盟主殿からの『不殺』の命はあれど、貴様だけは例外だ」
「兄上の純粋な思いを踏みにじったこと、絶対に許しません……!」
四面楚歌。
完全な死地。
自らが「上位魔人」であるという絶対的なプライドは、規格外の鬼人たちと、底知れぬ力を持つスライム(過去の俺)を前にして完全に粉砕されていた。
「ひ、ひいいいっ! く、来るなッ! 俺様は偉大なるゲルミュッド様だぞ! あのお方……魔王クレイマン様の直属たる――」
後ずさりながら泥に足を取られ、無様に尻餅をつくゲルミュッド。
その時、彼の視界の端に、これまでピクリとも動かなかった巨大な影が映った。
豚頭帝(オークロード)。
二十万の軍勢を束ねる、彼自身の最高にして最強の「駒」だ。
「お、おおっ! そうだゲルド! 何をしている、早く俺様を助けろ! こいつらを皆殺しにするのだ!」
ゲルミュッドは凍りついた腕を必死に振りかざし、縋るようにオークロードへと命令を下した。
その声に呼応するかのように、オークロードがズン……と重い足音を立てて前へ出る。
付き従う二体のオークジェネラルもそれに続いた。
「ははははっ! そうだ、やれ! 俺様を邪魔するゴミ共を、一匹残らず喰い尽く――」
歓喜の声を上げたゲルミュッドの言葉は、途中で唐突に途切れた。
ズッ……!!
オークロードが振り下ろした巨大な肉切り包丁が、過去の俺でもベニマルでもなく――あろうことか、ゲルミュッドの肩口から袈裟懸けに、その胴体を深く斬り裂いたのだ。
「……ガ、ァ……? ゲ、ルド……貴様、なにを……?」
信じられないものを見るように、ゲルミュッドが自分の胸から噴き出す血を見下ろす。
オークロードは虚ろな瞳のまま、倒れ伏すゲルミュッドの首根っこを掴み上げ、その巨大な口を大きく開けた。
「魔王に、進化……。あなたの力を、いただきます……ゲルミュッド様……」
「や、やめ……やめろ! 俺様は、お前の名付け親だぞ! こんなこと、あのお方が許すはずが……ギャアアアアアッ!?」
絶叫が戦場に響き渡る。
オークロードの巨大な顎が、ゲルミュッドの頭部を、そして首を、無慈悲に噛み砕き、飲み込んでいく。
名付け親である上位魔人の肉体と魔力を、文字通り『糧』として捕食し始めたのだ。
「私は、飢えている……。同胞の飢えを、私がすべて……」
骨が砕け、肉が引き裂かれる生々しい咀嚼音が、静まり返った湿地帯に響き渡る。
ガビルは目の前で繰り広げられるあまりにも凄惨な共食いの光景に、恐怖で完全に声帯を麻痺させ、へたり込んだままガタガタと震えていた。
(……始まったか)
上空の雲の影からその光景を見下ろしながら、俺は静かに目を細めた。
上位魔人の膨大な魔素を『飢餓者』によって完全に取り込んだオークロードの身体が、異常なほどの熱量と妖気を放ち始める。
紫色の禍々しいオーラが巨体を包み込み、周囲の泥濘がその熱で一瞬にして蒸発していく。
過去の俺も、ベニマルたちも、ゲルミュッドの自業自得とも言える最期を止めることはしなかった。
いや、俺が事前に『そういう流れになる』と伝えていたからこそ、彼らはあえて手を出さずに見届けていたのだ。
その時、世界が新たな事象を承認したことを告げる、冷徹で無機質な『声』が戦場にいるすべての者の脳内に響き渡った。
《告。個体名:豚頭帝(オークロード)が一定の条件を満たしました。特質種:豚頭魔王(オーク・ディザスター)へと進化しました》
「ブモォォォォォォォォォォッ!!!」
天を裂くような、絶望の咆哮。
それまでの鈍重な気配とは全く違う。
圧倒的な魔力、そして二十万のオークたちの『飢え』と『業』をすべてその身に凝縮した、禍々しくも悲しき魔王の誕生。
『豚頭魔王(オーク・ディザスター)』。
進化したオークロードが、黄色く濁った瞳で過去の俺たちをねめつける。
その両手には、ゲルミュッドの魔力を取り込んだことで新たに生成された巨大な肉切り包丁が握られていた。
「我が同胞を満たすため……貴様らを、喰らう……」
地を這うような重低音と共に、豚頭魔王(オーク・ディザスター)が巨大な肉切り包丁を無造作に振り抜いた。
ただそれだけで、湿地帯の泥濘が爆発したかのように吹き飛び、暴風となって俺たちへと襲いかかる。
「――させるかよ、豚の化け物が」
その理不尽な暴力を真っ向から受け止めたのは、紅蓮の炎を纏ったベニマルの太刀だった。
「キィィィンッ!」という甲高い金属音が鳴り響き、ベニマルの足元の泥が深くえぐれる。
鬼人(キジン)へと進化した彼の膂力をもってしても、完全に殺し切れないほどの尋常ではない重撃。
「リムル様、そしてリザードマンの首領殿たちは少し下がっていてください。……こいつの相手は、手始めに我らが務めさせてもらいます」
ベニマルが不敵な笑みを浮かべながら肉切り包丁を押し返すと、それに呼応するように、シオン、ハクロウ、ソウエイ、そしてランガが一斉に前線へと躍り出た。
彼らの背後では、過去の俺がガビルたちを護るように立ち、冷静に大賢者による解析支援の準備を始めている。
(シエル、今のオーク・ディザスターのステータスはどうなってる?)
上空の厚い雲の影から戦況を見下ろしながら、俺は脳内で相棒に問いかけた。
《解。対象の魔素量および身体能力は、マスターの記憶にある正史の同個体と比較し、約2割ほど強化されています。ゲルミュッドの魔力を取り込んだだけでなく、この時間軸全体の『歪み』が影響しているものと推測されます》
(2割の強化……か。ただでさえ厄介な耐久力と再生力を持ってるってのに、随分と面倒なバフがかかってるな)
俺が内心で舌打ちする間にも、地上では激しい攻防が始まっていた。
「フシュゥゥ……!」
オーク・ディザスターが口から吐き出した腐食性の妖気が、周囲の空間をドロドロに溶かしながら広がる。
「小賢しいッ!」
シオンが剛力丸を一閃し、その怪力による物理的な衝撃波だけで妖気の霧を強引に吹き飛ばした。
その隙を突き、死角から音もなく忍び寄ったソウエイの『粘鋼糸』が、オーク・ディザスターの巨体を拘束せんと絡みつく。
「ギ、ルルルルッ!」
「……ほう、ただの力任せの豚ではないな」
ソウエイの鋼より硬い糸を、筋肉の膨張と力任せの膂力だけで引き千切ろうとする巨体。
だが、その一瞬の硬直を、ハクロウは見逃さなかった。
「むんっ!」
神速の抜刀。
ハクロウの仕込刀が、オーク・ディザスターの分厚い胸板に深い十字の斬撃を刻み込む。
赤黒い血が噴き出すが――次の瞬間、その傷口は無数の触手のように蠢く肉塊となって、瞬く間に塞がってしまった。
「なんと……ワシの渾身の斬撃が一瞬で治癒したと?」
ハクロウが驚きに目を細める。
「ウォォォォンッ! ならば、黒き雷霆にて消し炭にしてくれるわ!」
ランガが天空に向かって咆哮し、巨大な黒雷の柱をオーク・ディザスターの脳天へと直撃させた。
凄まじい轟音と閃光。
周囲の泥がガラス化するほどの超高熱だ。
しかし、黒煙が晴れた後に立っていたのは、表面の肉を焦がしながらも、すでに『飢餓者』の権能によって周囲の魔素すら喰らい、凄まじい速度で超再生を始めている魔王の姿だった。
「ふむ……。耐久力も再生力も、これまでのオークとは次元が違う。少し削った程度では、すぐに元通りというわけか」
ベニマルが太刀を構え直し、油断なく敵を見据える。
史実より2割増しの力を持つ、強大なる絶望の魔王。
だが、対峙する彼らの顔に焦りの色はない。
未来の理論を用いてカイジンが打ち直した武具と、未来の俺の存在による魔素環境圧の恩恵で、通常よりも強力な進化を果たした鬼人たち。
彼らの戦闘力もまた、俺の知る史実を遥かに凌駕しているのだから。
「燃え尽きろ!」
ベニマルが太刀を振りかぶり、漆黒の炎『黒炎獄(ヘルフレア)』をオーク・ディザスターへと放つ。
ドーム状の黒炎が魔王の巨体を完全に包み込み、周囲の泥濘ごと空間を焼き焦がす。
超高熱の炎は、対象を分子レベルで分解するほどの威力を誇る、ベニマル最大の絶技だ。
「ギ、グオオオオオォォォッ!!」
炎の中から、オーク・ディザスターの苦悶の咆哮が響く。
だが、その声は絶命の悲鳴ではなく、怒りと飢餓に満ちた獣の咆哮だった。
ズンッ!と重い足音が響き、黒炎を強引に引き裂いてオーク・ディザスターが姿を現す。
全身の皮膚は炭化し、肉はドロドロに溶け落ちているが、その傷口からは異常な速度で新たな肉腫が膨れ上がり、瞬く間に元の強靭な肉体へと再生していく。
「チッ、これでも倒れないか。どんだけタフなんだ、あの豚は」
ベニマルが忌々しそうに舌打ちをする。
「我が主を害する不浄なる者よ、灰燼に帰すがいい!」
すかさずランガが追撃を仕掛ける。
巨大な竜巻と黒雷が融合した『黒雷嵐(デスストーム)』が、再生を終えたばかりのオーク・ディザスターを直撃する。
雷鳴が轟き、強烈な衝撃波が戦場を吹き荒れた。
さらに、その死角からソウエイが『操糸妖縛陣(そうしようばくじん)』を展開し、無数の粘鋼糸でオーク・ディザスターの四肢をきつく縛り上げる。
「今です、ハクロウ殿、シオン!」「承知!」「任せてください!」
ソウエイの合図と共に、ハクロウとシオンが左右から同時に踏み込んだ。
「朧・八華閃!」
「くらえ!」
ハクロウの神速の八連撃がオーク・ディザスターの関節や急所を正確に抉り、シオンの剛力丸が怪力と共にその巨体を真上から唐竹割りにする。
ズガァァァァァンッ!!
轟音と共に、オーク・ディザスターの身体が大きく体勢を崩し、泥濘に深く沈み込んだ。
(……見事な連携だ。個々の力も上がってるが、何より迷いがない)
上空から見守る俺は、仲間たちの見事な戦いぶりに感心していた。
だが、これだけの一斉攻撃を受けてもなお、オーク・ディザスターの命の灯火は消える気配がない。
斬り裂かれた関節は即座に繋がり、シオンに叩き割られた頭部ですら、グチャグチャと音を立てながら元の形へと修復されていく。
「……私は、飢えている。もっと、もっと魔素(チカラ)を……!」
オーク・ディザスターが濁った瞳をぎらつかせ、再び立ち上がる。
彼らが削り取った肉片や流れた血すらも、周囲の泥濘の魔素と共に『飢餓者』によって再び取り込まれ、その巨体は先程よりもさらに一回り大きく、禍々しく膨張していた。
「なんと……あれだけの猛攻を受けて、さらに力を増すというのですか!?」
「バケモノめ……ですが、我らも引くわけにはいきません!」
シオンとハクロウが即座に距離を取り、再び武器を構え直す。
彼らの攻撃は確かに通っている。
だが、オーク・ディザスターの『飢餓者』による再生力と魔力吸収のサイクルが、彼らの与えるダメージを上回り始めているのだ。
俺の知る歴史より二割の強化されているという恩恵は、この異常なまでの耐久力に最も顕著に表れていた。
だが、それでもベニマルたちの顔に絶望はない。
彼らの目的は、オーク・ディザスターをここで単独で討ち取ることではないからだ。
「焦るな、皆! 奴の再生が追いつかなくなるまで、何度でも叩き込むぞ! 俺たちの役目は、あの方のために『隙』を作ることだ!」
ベニマルの力強い号令に、シオンたちが力強く頷く。
そう、彼らの役割は、オーク・ディザスターの注意を完全に引きつけ、その強大な力を削り、決定的な隙を作り出すこと。
その後ろには、静かに魔力を高めながら、戦局のすべてを大賢者の演算で掌握しつつある『過去の俺』が控えているのだから。
「……みんな、よくやってくれてる。相手の攻撃パターン、再生速度、魔素の流動……大賢者、解析状況はどうだ?」
過去の俺が、仮面の下で冷静に脳内の相棒へと問いかける。
『解。対象:豚頭魔王(オーク・ディザスター)の能力解析、および行動パターンの予測演算、完了しました。現在、対象の意識は前面の個体群(ベニマルたち)に九八%集中しています。……今なら、確実な一撃を入れることが可能です』
「よし……。じゃあ、そろそろ俺の出番だな」
過去の俺は、腰に差したクロベエ作の直刀の柄に手をかけた。
シズさんから受け継いだ『抗魔の仮面』の奥で、彼の瞳が鋭く光る。
「……シオン、ランガ! 左右に開け! ベニマル、正面から最大火力の牽制を頼む!」
過去の俺の鋭い指示が飛ぶ。
その声に反応し、シオンとランガが即座にオーク・ディザスターの射線から退避した。
ベニマルは過去の俺の意図を完全に理解し、不敵な笑みを浮かべて太刀を上段に構える。
「承知! ……消え失せろ、豚の王ッ! 『黒炎獄(ヘルフレア)』!!」
本日二度目となる、最大火力の黒炎。
だが、今回の目的はダメージを与えることではない。
オーク・ディザスターの視界を完全に奪い、その巨体を一瞬だけその場に縫い留めるための『目眩まし』だ。
「ブモォォォォォッ!!」
炎に包まれ、オーク・ディザスターが鬱陶しそうに巨大な肉切り包丁を振り回し、炎のドームを掻き消そうとする。
その、オーク・ディザスターの意識が完全に黒炎に向いた、ほんの一瞬の隙。
「――もらった」
過去の俺の姿が、ふっとその場からかき消えた。
ベニマルの放った『黒炎獄』の強烈な光と熱量が視界を奪う中、大賢者の演算によって導き出された完璧な死角――オーク・ディザスターの背後、その巨大な首筋の真裏へと、音もなく転移したのだ。
「これで終わりだッ!」
過去の俺が、腰の直刀を抜き放つ。
刀身に纏わせたのは、極限まで圧縮された『黒炎』と『水刃』の複合魔法。
オーク・ディザスターの異常な再生力を上回る速度で、その肉体と核(コア)を同時に両断するための、必殺の一撃。
刃が、分厚い豚頭魔王の皮膚に触れる――その、刹那だった。
「――!?」
ドクンッ!!
世界が、脈打ったかのような錯覚。
オーク・ディザスターの体内から、これまでとは比較にならないほど濃密で、吐き気を催すほどにドス黒い紫色の妖気が、爆発的に噴出したのだ。
「なんだ、この異常な魔力は……っ!?」
過去の俺が驚愕の声を上げ、咄嗟に刀の軌道を変えて防御に回る。
「ブモォォォォォォォッ!!」
オーク・ディザスターが天を仰ぎ、喉が裂けんばかりの咆哮を上げた。
その瞬間、奴の身体を中心に、規格外の衝撃波が全方位へと放たれた。
「くっ……!」
「しまっ……! 皆、防御姿勢を!」
ベニマルの声が響くが遅い。
シオン、ハクロウ、ソウエイ、そしてランガまでもが、その理不尽なまでの暴風と妖気の奔流に巻き込まれ、数十メートル後方へと木の葉のように吹き飛ばされてしまった。
過去の俺もまた、空中で身を捻りながら泥濘に刃を突き立ててブレーキをかけたが、それでも十数メートルは後退させられてしまう。
(おいおい、冗談だろ……!)
上空で見下ろしていた俺は、思わず息を呑んだ。
オーク・ディザスターの巨体が、さらに変貌を遂げていく。
ベニマルたちの猛攻によって受けたダメージ、そして空間に満ちていた黒炎や黒雷の残滓すらも、すべて己の『飢え』を満たすための糧として強引に取り込み始めたのだ。
ドグチュッ、メキメキメキッ……!
気味が悪い音を立てて筋肉が異常に膨張し、皮膚の表面には取り込んだ魔素が結晶化した、赤黒い生体装甲のようなものが形成されていく。
史実より二割の強化されていたはずのステータスが、この土壇場での異常な『捕食』によって、さらに跳ね上がっている。
「……腹が、減った。お前たちの力、美味そうだ。よこせ……全部、よこせェェッ!!」
知性すらも飢餓に塗り潰されたかのような、地を這うような怨嗟の声。
その圧倒的な絶望の化身を前に、吹き飛ばされたベニマルたちが泥だらけになりながら立ち上がり、再び武器を構えようとする。
「させるか……! リムル様、今すぐ我らも――」
「待て、ベニマル! お前たちは手出しするな!」
過去の俺の、鋭く、有無を言わさぬ一喝が戦場に響いた。
「これ以上は危険だ! 今のあいつの周囲には、触れただけで魔素を奪われる異常な捕食結界が張られてる! お前たちは下がって、ガビルたちや他のオーク兵に被害が及ばないように防衛線を張れ!」
「しかし、それではリムル様がお一人で……っ!」
「俺の命令が聞けないのか! ……安心しろ、あいつは俺がひとりで終わらせる」
過去の俺は、背中越しに力強く宣言した。
その小さくも頼もしい背中を見て、ベニマルは悔しげに歯を食いしばりながらも、深く一礼した。
「……御意に。皆、リムル様の命だ! これより我らは、周囲の防衛に専念する!」
仲間たちが後退していく気配を背中で感じながら、過去の俺はゆっくりとオーク・ディザスターへと向き直った。
仮面の下の瞳が、静かに、だが確かな殺意と覚悟を持って巨大な魔王を捉える。
「……さあ、邪魔者はいないぞ。お前の相手は、俺だ」
「喰ウ……スライム、喰ライ、尽クス……!!」
ドンッ!!
オーク・ディザスターが泥濘を蹴り飛ばした。
その巨体からは想像もつかないほどの神速の踏み込み。
振り下ろされるのは、ゲルミュッドの魔力を吸ってさらに巨大化した肉切り包丁だ。
空気を圧縮し、暴風を伴いながら迫るその一撃を、過去の俺は『大賢者』の演算をフル稼働させて紙一重で回避する。
ズガァァァァァァンッ!!
包丁が直撃した地面がクレーターのように吹き飛び、凄まじい泥の津波が巻き起こる。
だが、過去の俺はその泥の壁を突き抜け、すでにオーク・ディザスターの懐へと入り込んでいた。
「シッ!」
鋭い呼気と共に放たれる直刀の連撃。
刃に纏わせた水刃が、生体装甲の隙間を的確に狙って斬り裂く。
だが、斬った端からオーク・ディザスターの肉体は蠢き、異常な速度で再生してしまう。
「無駄ダ……! 我ハ、無敵……!」
「無敵ね。……なら、再生が追いつかなくなるまで刻むだけだ!」
過去の俺は空中で身を捻り、オーク・ディザスターの横薙ぎの拳を刀の腹で受け流すと、その反動を利用して上空へと跳躍した。
「『黒炎雷』!!」
刀身に纏わせた極大の炎と雷の合成魔法を、眼下のオーク・ディザスターに向けて一気に解き放つ。
直撃。
鼓膜を破るほどの爆音と閃光が湿地帯を包み込む。
だが、オーク・ディザスターは猛烈な炎と雷を浴びながらも、その痛みすら喰らうようにして巨大な腕を天へと伸ばし、空中の過去の俺を鷲掴みにしようと迫ってきた。
「チッ……! どんだけタフなんだよ!」
空中で体勢を崩しかけた過去の俺が、咄嗟に『粘鋼糸』を周囲の木々に飛ばして軌道を変え、巨腕の握撃を間一髪で躱す。
大気が震え、泥が舞い散る。
一撃の重さと異常な再生力で押し潰そうとする豚頭魔王と、大賢者の演算と変幻自在の技でそれを凌ぎ、確実なダメージを蓄積させていくスライム。
(……大賢者のサポートがあるとはいえ、過去の俺もギリギリの綱渡りだな。
だが、ここからがあいつの……『俺』の真骨頂だ)
雲の影から見下ろしながら、未来の俺は静かに手に汗を握っていた。
地上では、巨大な肉切り包丁が幾度となく振り下ろされ、その度に泥濘が爆発して地形が変わっていく。
過去の俺は『大賢者』の演算予測に従って回避を続けているが、オーク・ディザスターのデタラメな膂力と、周囲の魔素すら喰らい尽くす『飢餓者』のオーラが行く手を阻む。
(くそっ、キリがないな。一撃でも食らえば致命傷になりかねないし、魔法を撃ち込んでも即座に再生される。
どうすりゃいいんだ?)
過去の俺が内心で焦りを感じ始めた、まさにその時だった。
脳内に、いつもの無機質で頼もしい声が響き渡った。
《告。オートバトルモードに移行しますか? YES/NO》
(……! 頼む、大賢者! 俺の身体、好きに使ってくれ!)
過去の俺が脳内で『YES』を選択した瞬間。
俺の……いや、過去の俺の身体から、フッと無駄な力みが消え失せた。
まるで自分の身体が自分のものでなくなったような、第三者視点で映画を見ているかのような不思議な感覚。
意識ははっきりとあるのに、肉体の制御だけを完全にシステムへと委ねた状態。
それが、ユニークスキル『大賢者』による演算制御戦闘――オートバトルモードだ。
「死ネェェェェェッ!!」
オーク・ディザスターが、渾身の力を込めて巨大な肉切り包丁を横薙ぎに振り抜く。
回避は不可能に思える速度と範囲。
だが、過去の俺の身体は、まるで重力を無視したかのようにフワリと泥濘を蹴り、空中で滑るように体勢を傾けた。
ヒュンッ!!
刃が、抗魔の仮面の表面をミリ単位の隙間もなく掠めていく。
「避けた」というよりは、「刃の軌道上に初めからいなかった」と錯覚するほどの、一切の無駄を削ぎ落とした完璧な回避。
そして、回避行動と同時に、既に次の攻撃への詠唱と構築が完了していた。
過去の俺の左手が、オーク・ディザスターの無防備な胸板にピタリと添えられる。
「――『炎化爆獄陣(フレアサークル)』」
大賢者の冷徹な制御によって放たれたそれは、先ほどのベニマルのような広範囲の炎ではない。
熱エネルギーの流出を極限まで抑え込み、オーク・ディザスターの体内に直接『結界』を展開して内側から超高熱で焼き尽くす、大賢者ならではの超絶精密な魔法制御だった。
「ガ、ガァァァァァァァァァッ!!?」
巨体が内側から赤熱し、オーク・ディザスターがこれまでにない苦悶の絶叫を上げる。
体内を数千度の炎で焼かれ、口や目から黒煙と炎が噴き出す。
だが、大賢者の追撃は終わらない。
炎で焼かれながらも『飢餓者』による再生が始まった箇所を的確に演算し、右手の直刀に極限まで圧縮した『水刃』を纏わせて、流れるような連撃を叩き込んでいく。
ズシャァァァァッ!!
巨体の右腕が肩口から斬り飛ばされ、どす黒い血が噴水のように舞い上がる。
だが、大賢者は返り血を一滴も浴びることなく、空中を蹴ってオーク・ディザスターの背後へと回り込み、さらに急所へと刃を突き立てる。
「ウ、オォォォォォォォォォッ!!」
オーク・ディザスターが狂乱し、周囲一帯に腐食性の妖気を無差別に撒き散らした。
触れたものすべてを溶かし、己の糧とする『飢餓者』の権能の暴走。
しかし、大賢者に制御された過去の俺の身体は、その妖気の密度が薄い空間を瞬時に見極め、まるで縫い針の穴を通すような精密さで安全圏へと離脱する。
(……す、すげえ。 俺の身体なのに、俺じゃないみたいだ。 これが『大賢者』のフルパワー……!)
肉体の内側で、過去の俺が素直な驚嘆の声を上げているのが、上空にいる俺にも手に取るようにわかった。
実際、当時の俺も全く同じことを考えて感動していたのだから間違いない。
しかし、上空から戦況を俯瞰して分析している未来の俺は、同時にある懸念を抱いていた。
(確かに大賢者の動きは完璧だ。だが……敵の再生力が、俺の知る歴史の時よりも明らかに異常だぞ)
大賢者による超高熱の内部破壊と、水刃による四肢の切断。
本来のオーク・ディザスターであれば、これで再生が追いつかなくなり、決定的な隙が生まれるはずだった。
しかし、史実より強化されている目の前の豚頭魔王は、斬り飛ばされた右腕の断面からおぞましい肉の触手を無数に伸ばし、落ちた自分の腕すらも己の力で『捕食』して、わずか数秒で新たな豪腕を形成してしまったのだ。
「食ウ……足リヌ……。貴様ノ力モ、全テ俺ノ腹ノ中ヘ……!!」
赤熱していた体表はすでに冷却され、黒く分厚い生体装甲がさらに強固にコーティングされていく。
大賢者の完璧な攻撃を受けてなお、オーク・ディザスターはそのダメージすらも学習し、喰らい、より強大なバケモノへと進化しようとしていた。
過去の俺の身体を制御する『大賢者』は、オーク・ディザスターの攻撃を完璧に回避し、的確に急所を破壊し続けている。
だが、俺の知る歴史とは違う異常なステータスと、周囲の魔素を無差別に喰らう『飢餓者』の力により、敵の再生速度が徐々に大賢者の破壊速度を上回り始めていたのだ。
《告。対象の異常再生および魔力吸収の効率が、予測値を上回って上昇中。このまま物理・魔法による攻撃を継続した場合、対象の『飢餓者』による学習と適応をさらに促す危険性があります》
大賢者の冷静な報告が、過去の俺の脳内に響く。
つまり、斬れば斬るほど、焼けば焼くほど、奴はそれを喰らって強くなってしまうということだ。
(……なら、力で押し切るのは無理だな。オートバトルはここまでだ、大賢者。代わってくれ)
過去の俺は、冷静にシステムの解除を選択した。
フッと身体に自意識が戻る感覚。
同時に、大賢者の完璧な回避軌道から外れた過去の俺の動きが、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
「――好機(スキ)アリ……!!」
本能のみで闘争を続けるオーク・ディザスターが、その一瞬の停止を見逃すはずがなかった。
「フシュルルルルッ!!」
魔王の全身から、これまでで最大濃度の『腐食の妖気』が爆発的に噴出する。
触れた端から万物を溶かし、己の養分とする致死のオーラ。
さらに、両腕を振りかぶった巨体が、過去の俺を完全に押し潰そうと跳躍し、隕石のような勢いで降ってき――。
ドッバァァァァァァァァァンッ!!!
湿地帯の泥濘が、数十メートルの高さまで吹き飛んだ。
過去の俺は、一切の防御行動を取ることなく、その腐食の妖気と巨体のプレッシャーを真っ向から浴びてしまった。
そして。
「あ……」
後方で戦況を見守っていたガビルの口から、絶望のうめき声が漏れた。
彼らの目に映ったのは、オーク・ディザスターの圧倒的な暴力の前に、銀髪の美しい少年の姿がドロドロに溶け崩れ、スライムの粘液となって四散する光景だった。
「リ、リムル殿ォォォォォッ!?」
ガビルが泥濘に膝をつき、悲痛な叫びを上げる。
その横で、リザードマンの首領もまた、信じられないものを見るように目を見開き、愕然と立ち尽くした。
「そ、そんな……。我らを救ってくださったあの絶対的なお方が、あのようにあっさりと溶かされてしまうなど……ッ!」
彼らだけではない。
後方で防衛線を張っていた幹部たちにも、その衝撃的な光景ははっきりと見えていた。
「リ、リムル様!? あ、あああ……そんな、嘘です、嘘だあああッ!!」 「おのれ豚共ォォォッ!! よくも俺たちの主を!!」
シオンが半狂乱になって剛力丸を振り上げ、ベニマルもまた、全身から凄まじい黒炎を噴き上がらせて、オーク・ディザスターへと突撃しようと地面を蹴った。
主を失った(と錯覚した)魔物たちの、見境のない暴走。
だが、その彼らの前に、スッと一本の白刃が差し出された。
「――慌てるな、未熟者めらが。冷静になれ」
静かに、しかし絶対的な剣気を纏ったハクロウの声だった。
彼は抜刀した仕込刀でベニマルとシオンの進路を遮ると、鋭い三白眼で二人をねめつけた。
「どいてください、ハクロウ! リムル様が、あんな豚のバケモノに……!」
「よく見よと言うておるのだ、シオン!」
ハクロウの厳しい一喝に、ベニマルとシオンはハッとして動きを止めた。
言われた通り、高ぶる感情を強引に押さえ込み、リムルの様子をよく観察する。
「こ、これは……」
「リムル様の魔力が……消えていない?」
そう。
ガビルたちには単に「溶かされて飛び散った」ように見えていたそのスライムの粘液は、オーク・ディザスターの全身にべったりと張り付き、まるで意志を持っているかのように蠢いていたのだ。
「フム……。どうやら我らが主は、物理や魔法で倒せぬと悟り、真っ向からの『喰い合い』を挑まれたようじゃな」
「喰い合い……リムル様ご自身が、あのバケモノを直接『捕食』するおつもりか!」
ベニマルの言葉に、ハクロウが深く頷く。
「おそらく、わざと自身の身体を解かしたように見せかけ、敵の虚を突いて全身に張り付いたのじゃろう。……見事な手だ。我らは下手に手出しをせず、主の勝利を信じて待つのが正解じゃ」
ハクロウの冷静な分析を聞き、ベニマルとシオン、そして背後で息を呑んでいたガビルたちも、ようやく事の次第を理解し始めた。
(……さすがはハクロウだ。あの混乱の中で、即座に過去の俺の意図に気づくとはな)
雲の上で見ていた俺も、ハクロウの優秀さに内心で舌を巻いていた。
地上では、まさに彼が看破した通りの、凄絶な「捕食合戦」が幕を開けようとしていた。
「ギ、グオォォォォォッ!? ナ、ンダ、コレハ……!」
自分を包み込み始めたスライムの粘液に気づき、オーク・ディザスターが不快げに巨体を揺らす。
手で引き剥がそうとするが、粘液は皮膚の隙間、装甲の継ぎ目にまで入り込み、決して離れようとはしない。
『……お前が世界を喰らい尽くすって言うなら、俺は、お前ごとこの世界を喰らい尽くしてやる』
オーク・ディザスターの全身を覆うスライムから、過去の俺の冷徹な思念が戦場全体に響き渡った。
「グオォォォォッ!! 我ハ飢エテイル!! 貴様ノ全テヲ、我ガ腹ノ中ニ……!」
『やってみろよ。お前の『飢餓者』と、俺の『捕食者』……どっちが上か、喰らい合いで勝負だ!』
バチバチバチッ!!
オーク・ディザスターの紫色の妖気と、過去の俺の青銀の魔力が、互いの肉体を喰らおうと激しく衝突し、凄まじいスパークを散らす。
オーク・ディザスターの皮膚が溶け、過去の俺の粘液が蒸発する。
だが、失われた端から互いのスキルが周囲の魔素を取り込み、限界を超えた修復と侵食を繰り返す。
剣も魔法も介在しない、ただ互いの存在そのものを削り合う、魂とスキルの削り合い。
バチバチバチッ!!
過去の俺とオーク・ディザスターの、互いの存在そのものを賭けた『喰らい合い』。
一見すると拮抗しているように見えた死闘だが、そのバランスは徐々に、そして確実に崩れ始めていた。
「グオォォォォッ!! 足リヌ、足リヌゾォォォ!!」
強化されたオーク・ディザスターの『飢餓者』は、異常なまでの執念で周囲の魔素を取り込み続けていた。
その圧倒的な熱量と腐食の妖気が、過去の俺の『捕食者』の処理能力を上回り、少しずつ青銀のスライムの身体を黒く変色させ、蒸発させていく。
(くそっ……! こいつ、底なしのブラックホールかよ!?)
過去の俺の悲痛な思念が、戦場の空気を震わせる。
いくら『大賢者』が最適化を図ろうとも、絶対的な「出力(キャパシティ)」の差が、過去の俺を徐々に死地へと追いやっていた。
このままでは、押し切られる。
過去の俺が完全に喰い尽くされてしまう。
その、絶望の淵に立たされた過去の俺と、勝利を確信したオーク・ディザスターの、ほんの一瞬の静寂。
――ッ!!
戦場のど真ん中、オーク・ディザスターの死角となる空間が、ガラスのように砕け散った。
そこから飛び出したのは、居合の構えのまま、青銀の髪をなびかせる一人の魔王。
音速を超え、魔素の奔流を切り裂くような、神速の踏み込み。
(な、ナンダ……コイツハ……ッ!?)
オーク・ディザスターが、その心臓に冷たい刃を突き立てられたかのような驚愕を覚えた、まさにその刹那。
「――悪いな。俺がいる限り……お前の勝機は、最初から無かったんだよ」
居合の一閃。
俺は刀を抜き放つと同時に、オーク・ディザスターの巨大な身体とすれ違いざまに、その台詞を冷徹に放った。
刃がゲルドの肉体を切り裂く音すら置き去りにする、神速の業。
その一撃は、単なる物理的な斬撃ではない。
俺の魔力を極限まで集中させ、奴が持つゲルミュッドの力、そして強化されていた余剰分のエネルギーを、文字通り『根こそぎ』切り裂き、俺の虚数空間へと強制的に『捕食』する一撃だった。
「ガッ……ァ、ァァァァァァァッ!?」
オーク・ディザスターの巨体が、ビクンッ!
と大きく跳ね、その口から絶叫が迸った。
奴の身体を構成していた膨大な魔素が、俺の通過と同時に一瞬にして消失し、その禍々しかったオーラは霧散、巨体は急激に萎んでいく。
本来の歴史と同等か、それ以下にまで弱体化させられたオーク・ディザスター。
「あァ……チカラ、ガ……ッ!?」
驚愕と混乱に濁った瞳を向けるオーク・ディザスターを置き去りにし、俺はすれ違いざまのスピードを維持したまま、そのまま前方の空間の歪みへと飛び込み、一瞬にして気配を消し去った。
時間にして、わずか数瞬の出来事。
戦場にいた誰一人として、その正体はおろか、何が起きたのかすら正確に視認できないほどの、完璧な暗躍だった。
残されたのは、急激に力を失い、ガクンと膝をつくオーク・ディザスターと――。
『……え? いま、何が……? ……あ、身体が動くぞ!』
異常なプレッシャーから解放され、息を吹き返した過去の俺だった。
「グ、オォォォォ……! 何故ダ、何故我ノ力ガ……ッ!」
『……たぶん未来の俺がなんとかしてくれたんだな! チャンスだ!!』
形勢は完全に逆転した。
過去の俺の青銀の粘液が、勢いを取り戻して一気にオーク・ディザスターの巨体を包み込んでいく。
圧倒的な処理能力を取り戻した『大賢者』と『捕食者』のコンボが、今度こそ確実に豚頭魔王の肉体を侵食し始めたのだ。
「オオォォォォォ……! 我ハ、我等ハ、飢エテイル……!!」
『……ああ、わかってる』
断末魔のようにもがくオーク・ディザスター。
その意識の奥底から流れ込んでくるのは、果てしない飢えと、同胞を救えなかった悲哀、そして己の肉体すらも差し出した彼らの悲痛な叫びだった。
『……お前たちの罪は、俺が喰ってやる。お前たちの飢えは、俺が満たしてやる。だから……もう、眠れ』
過去の俺の、慈悲に満ちた思念が響く。
その優しくも力強い意志に触れた瞬間、オーク・ディザスターの狂気に染まっていた瞳から、憑き物が落ちたようにスッと力が抜けた。
「……あ、あァ……。腹ガ……減ラナイ……」
それは、飢えに苦しみ続けた王が、最後に得た安らぎの言葉だった。
青銀のスライムが、オーク・ディザスターの巨体を完全に覆い尽くす。
光の粒子となって、豚頭魔王の存在が過去の俺の体内へと完全に吸収されていく。
静寂が、湿地帯に降り降りた。
ズズズ……とスライムが元の形へと戻り、戦場の中央で小さく震える。
見届けていたベニマルたちや、ガビル、リザードマンの首領も、その場にへたり込みそうになる足に力を込め、固唾を飲んでその小さな背中を見つめていた。
(……ふぅ。これで、この時代の俺の勝ちだ。……シエル、外部への影響はどうだった?)
転移先で姿を戻した俺は、仮面を外して小さく息を吐いた。
外部からの観測を遮断したとはいえ、これほどの規格外の『捕食』だ。
どこまで隠し通せたかが気になるところだ。
《ふふっ、抜かりはありません。周囲を探りましたが、既に魔王達による監視の形跡はみられませんでした。ですが、念のため対象周辺の空間隔離と絶対情報妨害を展開しておきました。マスターの介入が外部に漏れることは決してありません》
(……よし。完璧だな。あとはもう一仕事だ。シエルは作戦通り犠牲者の魂と肉体の情報を可能な限り確保してくれ。俺は過去の俺の中に意識を繋げる)
《当然です。マスターにご指示をいただくまでもなく、既に情報の確保は完了しております》
シエルからの報告を聞いた俺は、地上でオーク・ディザスターを捕食し終えたばかりの『過去の俺』の精神世界――『胃袋』のさらに奥深くへと、自身の意識をダイブさせた。
無限に広がるような暗黒の空間。
そこに、一人の魔物が静かに佇んでいた。
先ほどまでの狂気と飢えに歪んだ豚頭魔王ではない。
威風堂々とした体躯に、穏やかで理知的な瞳を持った本来の姿――オークの王、ゲルドだ。
彼は、こちらへ歩み寄ってきた『俺』の姿を認めると、深く、静かに頭を垂れた。
「……貴方様が、我らの罪を喰らってくださったのですね。魔物たちの主よ……いや、リムル殿。感謝いたします。これでようやく、長きにわたる飢えから解放されました」
その口調は、生前の彼がそうであったように、とても穏やかで、誇り高き王としての威厳に満ちていた。
「同胞たちの行く末は、貴方様に託します。我はもう、これで満足です。……静かに、眠らせていただきます」
すべてを終え、安らかな消滅を受け入れようとするゲルド。
だが、俺はその大きな背中に向けて、わざと軽い調子で声をかけた。
「待て待て。勝手に一人で満足して永眠しようとするなよ、ゲルド」
「……? 貴方様は……先ほどのリムル殿、ではない……? 同じ姿、同じ魂の色でありながら、ひときわ強大で、底知れぬお力を感じますが……」
ゲルドが不思議そうに目を細める。
「細かい説明は省くが、俺はちょっと先の未来から来たリムルだ。……ゲルド、お前にはまだここで眠ってもらうわけにはいかないんだよ」
「未来から……。我はすでに敗れ、すべての罪を貴方様に明け渡した身。この魂に、まだ何か残された役割があると言うのでしょうか?」
「ああ、大ありだ」
俺はまっすぐにゲルドの瞳を見つめ返した。
「俺のいた未来ではな、お前の遺志を継いだ同胞たちは『猪人族(ハイ・オーク)』として立派に繁栄している。あいつらの持ち前の力と器用さのおかげで、俺の国も随分と発展を遂げたんだ」
「……っ! 同胞たちが、繁栄を……?」
「ああ。立派な街道を敷き、巨大な建造物を作り、今やジュラの森のインフラを支える欠かせない柱になってる。誰も飢えることなく、皆が笑顔で暮らしてるよ。……俺は、その誇らしい光景を、お前自身にも見てほしいんだ」
俺の言葉を聞いたゲルドの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おお、おお……! 同胞たちが……飢えることなく、貴方様の国で……。なんという、なんという慈悲……!」
男泣きに咽び泣くゲルド。
彼がどれほど同胞を愛し、その未来を憂いていたかが痛いほど伝わってくる。
「だから、ここで消滅するなんて勿体ないだろ? ……実を言うと、この空間(胃袋)のずっと奥の方に、俺の『ダチ』である暴風竜ヴェルドラが引きこもっててな」
「ぼ、暴風竜ヴェルドラ様が……この空間に!?」
「ああ。あいつ、基本暇してるからさ。お前、あいつのところに行って部下になってやってくれないか? ヴェルドラの話し相手になったり、色々と手助けしてやってほしいんだ」
神にも等しい竜種の御許へ遣わされるという予想外の提案に、ゲルドは驚愕で目を丸くした。
「こ、この大罪人たる我に、そのような誉れ高き役目を……!?」
「罪なら全部俺が喰ったって言ったろ。……ヴェルドラの奴、ああ見えて結構寂しがり屋だし、お前みたいに真面目で面倒見のいいヤツが傍にいてくれたら、あいつも喜ぶと思うんだよな」
俺が笑いかけると、ゲルドは涙を拭い、かつての王としての力強い表情を取り戻した。
そして、その場に深く跪き、俺に向けて恭しく頭を垂れた。
「……承知いたしました。このゲルド、リムル殿の御心に報いるため、そしていずれ同胞たちの繁栄を目にするその日のために……暴風竜ヴェルドラ様の御許にて、粉骨砕身働く所存にございます!」
「ああ、よろしく頼むぜ」
俺が頷くと、ゲルドの身体は柔らかな光に包まれ、胃袋のさらに深淵――ヴェルドラやイフリートたちがいる隔離空間へと静かに転送されていった。
俺はゲルドを見送った後、過去の俺の『胃袋』からスッと自身の意識を引き揚げ、現実世界へと帰還した。
上空からゆっくりと地上に舞い降りると、そこには先ほどの狂乱が嘘のような静寂が広がっていた。
呪縛から解放された二十万のオークたちは、憑き物が落ちたようにその場にへたり込み、あるいは泥濘の中で静かに眠りについている。
俺は、戦場の中央でプルプルと小さく震えている過去の俺のそばへと歩み寄った。
「お疲れさん、『俺』。本当によく頑張ったな」
「いやー……マジで死ぬかと思ったぜ。あのまま削り合いが続いてたら、完全に俺の負けだった。
最後のお前の助太刀がなかったら、確実に喰われてたな……」
過去の俺は心底安堵したように、スライムの身体をダラリと脱力させた。
「ははは、まあな。でも、あそこまでオーク・ディザスターの猛攻を凌ぎ切ったのは、お前と『大賢者』の力だ。胸張っていいぜ」
「へへっ、ありがとな。……って、うおっ!?」
俺たちが労い合っていると、猛烈な勢いで泥濘を蹴り立てて、シオンが突っ込んできた。
「リムル様ぁぁぁぁぁッ!!」
シオンは過去の俺を両腕でガシッと抱え上げると、自分の豊かな胸の谷間にギュムゥゥゥッ!
と押し付け、大粒の涙を流して頬ずりを始めた。
「んぐっ!? し、しおん、ぐるじい……!」
「あああ、ご無事で本当に良かった! 一時はどうなることかと、生きた心地がしませんでしたぞ!」
「こらシオン、リムル様が潰れてるぞ。少し離れろ」
呆れ顔のベニマルがシオンの首根っこを掴んで引き剥がす。
その後ろからは、安堵の息を吐くハクロウや、影から姿を現したソウエイ、そして千切れんばかりに尻尾を振るランガが駆け寄ってきた。
「見事な戦いぶりでした、我らが主よ。我らも大いに学ばせていただきました」
「ウォォン! 我らの主の偉大なる力、しかとこの目に焼き付けましたぞ!」
「……俺たちも、少しは役に立ったようだな。ヒヤヒヤしたが、全員無事で何よりだ」
ベニマルたちが誇らしげに過去の俺を囲む。
彼らもまた、「不殺」という過酷な条件の中で、未来の武器と力を完璧に使いこなし、誰一人欠けることなくこの死地を乗り越えたのだ。
俺にとっても、これ以上ないほど誇らしい仲間たちだった。
「未来のリムル様も、影からの見事な援護、感謝いたします。貴方様がいなければ、我らもどうなっていたことか」
ベニマルが俺に向かって深く一礼し、他の幹部たちもそれに倣う。
俺が「気にするな」と手を振ろうとしたその時、少し離れた場所から、泥だらけになったリザードマンの三人組が、恐縮しきった様子で近づいてきた。
首領、親衛隊長、そしてガビルだ。
彼らは俺たちの数歩手前で立ち止まると、泥濘の上に深く膝をつき、そのまま平伏した。
「……未来の盟主殿、そして、我らを直接お救いいただいたリムル殿。我らリザードマン一同、貴方様方に賜ったこの御恩、決して忘れることはございません。なんとお礼を申し上げればよいか……」
首領が震える声で深々と頭を下げる。
その隣で、親衛隊長もまた「兄を、そして父をお救いいただき、本当にありがとうございました」と涙ぐみながら頭を下げた。
そして――最も深く額を泥に擦り付け、肩を震わせていたのはガビルだった。
「……吾輩は、なんという愚か者であったか。己の傲慢さで父を裏切り、部下を危機に晒し……あまつさえ、その命を貴方様方に救われるなど……。この命、すでに吾輩のものではありません。どのような罰でも、甘んじてお受けいたします……ッ!」
ゲルミュッドに裏切られ、己の無力さと愚かさを骨の髄まで痛感したガビル。
その声には、かつての軽薄な自信家の面影はなく、ただ深い悔恨と、俺たちに対する絶対的な畏敬の念だけが込められていた。
「顔を上げろよ、ガビル」
過去の俺は、スライムの姿のままポンッと軽く跳ねて、泥に沈むガビルの目の前へと降り立った。
「罰なんて与えないさ。お前の親父さんは、お前がクーデターを起こすこともわかった上で、それでもお前を信じて部族の宝である『水渦槍』を託したんだろ? なら、お前がここで命を投げ出すのは、親父さんの覚悟を無駄にすることになるんじゃないのか」
「リ、リムル殿……しかし、吾輩は……」
「お前の部下たちも、誰一人お前を恨んじゃいない。……お前が本当に反省してるなら、その命、これからはリザードマンの未来と、お前を信じてくれた奴らのために使え」
過去の俺の言葉に、ガビルの肩がビクッと大きく震えた。
ゆっくりと顔を上げると、背後では怪我を押して立ち上がった部下たちが、そして首領と親衛隊長が、深く優しく頷いているのが見えた。
「う、うおおおおおおおおっ……!!」
ガビルは再び泥濘に顔を埋め、今度は絶望ではなく、救済と再生の涙をボロボロと流して慟哭した。
その不器用で真っ直ぐな男泣きに、過去の俺も、そして隣で見守っていた俺も、小さく息を吐いて安堵の笑みを浮かべた。
「さて……」
ガビルの号泣をBGMに、過去の俺はクルリと向き直り、ベニマルたちへと視線を向けた。
「一番の元凶は倒したわけだが、問題はこの後だな。大賢者の『捕食合戦』のおかげで、オーク・ディザスターの妖気に当てられて狂乱していたオークたちも今は大人しく気絶してるが……二十万もの大軍だ。目を覚ました後、この飢えた連中をどう処理したもんか……」
腕を組んで唸る過去の俺に、俺は横から口を挟んだ。
「いや、『二十万』じゃないぞ。今回は俺たちの手で全員を殺さずに助けた上に、後方には同行している非戦闘員もいたはずだからな。総数は三十万を超えてるかもしれない」
「さ、三十万!? マジかよ……」
過去の俺がポンポンとスライムの身体を揺らして頭を抱え、ベニマルやハクロウたちも難しい顔で考え込み始めた。
これだけの数を皆殺しにするわけにもいかず、かといって放っておけば再びジュラの森を食い荒らす災厄になりかねない。
三十万もの胃袋を満たす食糧問題など、普通に考えれば絶望的だ。
俺たちがあれこれと今後の対応を相談しようとした、その時だった。
大気中に、ふわりと淡い緑色の光の粒子が舞い散った。
戦場の泥臭さを一瞬にして浄化するような、清らかで瑞々しい草花の香り。
光の粒子が集束し、そこから一人の美しい女性が静かに姿を現した。
「――お見事でした。ジュラの森の盟主、リムル様。そして、未来より来たりしリムル様」
樹妖精(ドライアド)のトレイニーだ。
森の管理者である彼女は、俺たち二人のリムルに向けて、ふわりと優雅なカーテシー(淑女の礼)をしてみせた。
「トレイニーさん。……って、未来の俺が来てたことも気が付いてたのか?」
過去の俺が驚いて尋ねると、トレイニーは静かに首を横に振った。
「いいえ、決して感知できたわけではございません。一瞬の魔素の乱れは感じましたが、あれほど完璧な隠蔽結界を見破ることは、長きを生きた私でも不可能です。……ただ、貴方様なら必ずいらっしゃるだろうと、そう思っていただけです」
トレイニーはふわりと微笑みながら、過去の俺と未来の俺を交互に見つめた。
そして、コホンと一つ咳払いをして、森の管理者としての威厳ある表情へと切り替わる。
「リムル様方が懸念されている通り、オークの残党三十万の処遇は、このジュラの大森林全体の未来に関わる重大な問題です。つきましては、森の管理者である私トレイニーの名において、各部族の代表を集めた『戦後処理の話し合い』を開くことを提案いたします」
「話し合い……会議ってことか。なるほど、確かに俺たちだけで勝手に決めるわけにもいかないしな」
過去の俺が納得したようにポンと跳ねる。
「はい。場所はこの湿地帯の中央。準備は私ども樹妖精と、森の精霊たちでお手伝いさせていただきます。……よろしいでしょうか?」
「ああ、助かるよ。異存はない。……首領さんも、それでいいか?」
「は、はいっ! 森の管理者であられるトレイニー様からのご提案、そして盟主殿のお言葉とあらば、我らリザードマンは謹んでお受けいたします!」
首領が慌てて姿勢を正し、深く頭を下げる。
こうして、オークロード討伐という大一番を終えた俺たちは、息をつく暇もなく、ジュラの森の新たな秩序を決めるための重要な会議へと臨むことになったのである。
*
翌日。
湿地帯の中央、泥濘を魔法で固め、精霊たちの力で急造された清潔な空間に、巨大な仮設テントが設営されていた。
天幕の中には大きな円卓が置かれ、ジュラの森の今後を左右する重要な話し合いの場が整えられている。
円卓の席についたのは、リザードマンの首領、鬼人の代表としてベニマル、そしてこの会議の主催者であり森の管理者であるトレイニー。
さらに、オーク側の代表として、生き残ったオークの将軍(オークジェネラル)たち数名が、縄で縛られることもなく、ひどく怯えた様子で末席に小さく縮こまって座っていた。
王を失い、狂気から覚めた彼らには、もはや戦意など微塵も残っていない。
そして、その円卓の最も重要な席――上座には、俺と『過去の俺』が並んで座っていた。
天幕の中に、ピンと張り詰めた空気が漂う。
各部族の代表たちが緊張の面持ちで沈黙を守る中、円卓の傍らに立つトレイニーが、ふわりと優雅に、しかし森の管理者としての威厳に満ちた声で口を開いた。
「――皆様、お集まりいただき感謝いたします。これより、森の管理者たる私、樹妖精(ドライアド)のトレイニーの名において、ジュラの大森林における戦後処理の話し合いを開会いたします」
その凛とした宣言に、リザードマンの首領やベニマルたちが静かに居住まいを正し、末席のオーク将軍たちはさらに身を縮ませた。
「さて。この歴史的な会議を進めるにあたり、まずは議長を選出したいと思いますが……」
トレイニーはそこで言葉を区切り、上座に並んで座る俺たちの方へと、その美しい緑の瞳を向けた。
そして、一切の迷いもなく、極めて当然のことのように言い放った。
「この未曾有の災厄を見事に鎮められた、ジュラの森の盟主……リムル様に、議長をお願いしたく存じます」
「えっ!? お、俺!?」
突然の指名に、過去の俺はスライムの身体をビクンと跳ねさせて素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺はただのスライムだし、そもそもこういう会議の仕切り役は、主催者であるトレイニーさんがやるべきじゃ……!」
プルプルと震えながら慌てふためき、必死に辞退しようとする過去の俺。
その見覚えがありすぎる反応に、隣で見ている俺は思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、スライムの頭にポンと手を乗せた。
「……あきらめろ、『俺』。気持ちは痛いほどわかるが、逃げられないぞ。俺も全く同じ道を歩んだんだからな」
「み、未来の俺……!? お前、助け舟を出してくれないのかよ!」
「無理無理。それに、この面子を納得させて纏め上げられるのは、お前しかいないだろ?」
俺が同情しつつもあっさりと突き放すと、過去の俺は「そんなぁ……」とスライムの身体をドロリと萎れさせた。
「はぁ……わかったよ。やればいいんだろ、やれば」
過去の俺は観念したように深く溜息をつくと、スライムから銀髪の少年の姿へと変化した。
そのまま、どこか居心地の悪そうな顔で上座の中央に腰を下ろす。
会議の席に座る各部族の代表たち――リザードマンの首領やベニマル、そして末席で縮こまるオークジェネラルたちへ向けて、過去の俺は真っ直ぐに視線を向けた。
「……それじゃあ、僭越ながら俺がこの会議の進行役(議長)を務めさせてもらう」
その一言で、天幕の中の空気が一段と引き締まった。
コホン、と一つ咳払いをしてから、過去の俺は静かに語り始めた。
「今後のジュラの森のあり方を決める前に、まずは今回の騒動……なぜ、オークたちがこれほどの大軍を率いて、ジュラの森へ侵攻するに至ったのか。その事情を全員で共有しておきたい」
過去の俺の言葉に、ベニマルたちが静かに耳を傾ける。
末席のオークジェネラルたちは、自分たちの罪を突きつけられると思ったのか、ビクッと肩を震わせてさらに深く俯いてしまった。
「実は、最後に俺が戦ったあいつ……豚頭魔王(オーク・ディザスター)だったゲルドから、あいつ自身の記憶と想いを受け取ったんだ。……オークたちの領地は、深刻な大飢饉に見舞われていたらしい」
「大飢饉、ですか……」
リザードマンの首領が、痛ましい事実を知って思わずといった様子で呟く。
「ああ。大地は枯れ果て、食べるものが何もなく、仲間たちが次々と倒れていくような地獄だったそうだ。そんな絶望的な状況の中で、あいつらの前に現れたのが……あの魔人、ゲルミュッドだった」
過去の俺は、言葉を選びながら丁寧に状況を説明していく。
「ゲルミュッドは、オークの王であるゲルドに食料を与える見返りとして、自身の配下になるように持ちかけた。そして名前を与え、あいつを『豚頭帝(オークロード)』へと進化させたんだ。すべては、ゲルドを利用して同胞同士で殺し合いをさせ、このジュラの森に新たな魔王を誕生させるためにな」
「おのれ、あの小悪党め……。どこまでも他者の弱みに付け込む外道が……ッ」
ベニマルがギリッと歯を食いしばり、静かな怒りを露わにする。
「ゲルド自身は、ただ同胞たちを飢えから救いたかっただけだったんだ。自分がすべての罪を背負ってでも、皆を助けたかった。だが、オークロードに進化したことで発現したユニークスキル『飢餓者』……その呪いとも言える力が、あいつらの理性を完全に奪ってしまった」
過去の俺は、末席で震えるオークジェネラルたちへ、非難ではなく、どこか深く同情するような視線を向けた。
「『飢餓者』の力は、配下であるオークたち全員に影響を及ぼし、極限の飢えと引き換えに恐怖すら喰らい尽くす狂戦士へと変えてしまった。つまり、今回の侵攻は、オークたち自身が望んで起こした侵略戦争じゃない。ゲルミュッドという上位魔人の野望と、『飢餓者』という呪いに操られて起きた、彼ら自身にとってもどうしようもない悲劇だったんだよ」
過去の俺の言葉に、天幕の中は重く沈痛な空気に包まれた。
リザードマンたちも、ベニマルたちも、オークたちが単なる残虐な侵略者ではなく、どうしようもない飢えと絶望に追い詰められた被害者でもあったという事実に、複雑な表情を浮かべている。
その重い静寂を破るように、俺は隣に座る過去の俺へと声をかけた。
「……少し、俺が話を引き継いでもいいか?」
「え? ああ、頼む! 助かるよ!」
過去の俺は露骨にホッとした表情を見せ、丸投げできる喜びに満ちた顔で進行役のバトンを渡してきた。
俺はゆっくりと立ち上がり、円卓の末席で身を縮めているオークジェネラルたちへと視線を向けた。
「オークの将軍たち。さっきから、自分たちを打ち倒したスライムと同じ顔をした魔人がもう一人上座に座っていて、さぞ混乱していることだろう。だから先に手短に説明しておく。……俺は、少し先の未来から来た『リムル』だ。こっちにいるリムルの、未来の姿だと思ってくれればいい」
「み、未来の……」
「我らの王を、あの一瞬にして打ち倒した圧倒的なお方が……」
オークジェネラルたちが驚愕に目を見開き、信じられないものを見るように俺を仰ぎ見る。
トレイニーやベニマルたちは既に知っていることだが、改めて明確に素性を明かされたリザードマンの首領たちも、改めて畏敬の念を深めたようだった。
俺は彼らの反応を軽く手で制し、円卓を囲む全員を見渡して言葉を続ける。
「お前たちが置かれていた過酷な状況と、ゲルドの悲痛な覚悟はよくわかった。だが……この先の『これからのジュラの森』についての話を進める前に、まずはどうしてもやっておかなければいけないことがある」
俺はそう告げると、軽く指を鳴らした。