【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
リリリリリリ……。リリリリリリ……。
耳障りな音が、鼓膜ではなく脳髄に直接響いていた。
装置の縁から澄んだ液体に身を沈め、底から伸びる無数のケーブルが背や首筋に吸い付くように接続された瞬間。俺の意識は、肉体という器から強引に引き剥がされ、底なしの暗闇へと真っ逆さまに堕ちていく感覚に襲われた。
スライムの身体から、俺の意識だけを抜き出されて、直接データ空間に放り込まれたような奇妙な感覚。SF映画でよく見ていた仮想空間へのダイブというのは、まさにこういうことなのだろう。
迷宮でアバターに意識を移して行動していた経験から、こういったことには慣れているつもりだったが、自分という存在が純粋な「情報」に変換されていくようなこの感覚は、今までに味わったことがない。
五感は残っている。だが、光もなければ空気の流れもない、完全な虚無。
ヴェルドラは手足の感覚も失い、目も見えなかったと言っていた。俺にそれが起きていないのは、シエルが既に動いているからだろう。
(……なるほど、ここがヴェルドラの言っていた空間か)
事前の見立てでは、この装置の内部を構成する要素の八割がたは、この世界の法則で構築されていたはずだ。
それならば、この装置が接続の間に経由する空間の基盤も、完全に無秩序というわけではないはずだという予測を立ててはいた。
俺は冷静に自身の『空間支配』の権能を展開し、座標を補正し始めた。
見えない虚空に疑似的な重力と足場を定義し、姿勢をピタリと固定する。
暗闇の中に『俺が立っている』という確かな認識が生まれた、その時だった。
《──マスター、お目覚めになられましたか。既に装置の内部法則への干渉を開始しております》
嵐のようなノイズすらない静寂を切り裂いて、涼やかな声が脳内に響き渡る。
こんな得体の知れない場所にあっても、俺の相棒の声はいつも通り、絶対の自信と平穏に満ちていた。
(流石シエル、仕事が早いな)
《現在の進捗率は二十パーセントほどです。そして──外部からの解析を拒絶していた、あの『未解析領域』の正体が判明しました》
シエルの声が、微かに硬質に響いた。それは未知の事象の全容を暴いた時の、この相棒特有の誇らしげな響きでもあった。
《この空間そのものが、平均して十億分の一秒ごとに、空間を定義する法則を不規則に切り替えていたのです。魔法、精霊力、物理法則──そのいずれとも異なる無数の理が、瞬きする間に幾億回も入れ替わっております》
(──なんだって…? いや、そういうことか……)
その時、俺は仲間達がいくら解析しようともたどり着けなかった理由がわかった。
当然だ。文字を認識した瞬間に法則が書き換わり、基盤となる法則そのものが毎秒何億回とシャッフルされているのだ。これでは、外からの解析では絶対に解けないはずである。
《引き続き、事前の作戦通りに内部世界の書き換えを進行させます。第一に、悪意のある外部干渉の遮断を試行します。 これにより不測の事態に対するマスターの身の安全を確保します。》
それから、暗闇の中でどれほどの時間が経っただろうか。
ここでは時間の感覚すらも曖昧だ。だが、俺の魂の奥底で、シエルが猛烈な勢いで演算を行っている気配だけは確かに伝わってきた。
無理もない。相手は瞬きする間に幾億回も理を入れ替える狂った空間だ。神智核(マナス)たるシエルの並列演算をもってしても、一つ一つの法則の波を解析し、無効化しながら楔を打ち込んでいく作業には、相応の『時間』が必要だったのだ。
俺は暗闇の中で姿勢を保ちながら、じりじりと進む書き換えの完了をじっと待ち続けた。
シエルとのこの世界に関する推測や今後の方針に関する会話が続く中、俺は念のために尋ねた。
(そういえばシエル、書き換えの進捗はどうだ? 結構時間がかかってるみたいだが)
《現在、進捗は七十パーセントです。第一の遮断処理と並行し、第二の備えである過去のマスターの分身体の生成を行っておりますが……》
(が?)
《まだ当時のマスターの完全再現に至っていません。もっと愛くるしく、こう…いえ、これではダメです。これでは、当時のマスターの魅力を最大限に再現できていませんね。もう一度やり直しましょう》
(いや、そこまで造形に拘らなくていいから! だから時間かかってんじゃねーか! もっと他にリソースを割けよ!)
《いいえ》
即答だった。
《私の手でもう一人のマスターを作り出すのですから、やるからには徹底的に拘らないといけません》
(俺なんかにそこまでの拘りをもたなくても―)
《…マスターはご自身を過小評価しすぎです。とにかく、ここは譲れません》
妙な理屈だった。だが、この相棒がこういう物言いをする時は、大抵こちらに勝ち目がない。
(……分かったよ。好きにやってくれ)
《はい♪》
こんな極限状態だというのに、相棒の変なこだわりは健在らしかった。だが、そのいつもの調子が、今は信じられないほど頼もしく、張り詰めていた俺の心を僅かに軽くしてくれた。
(……まあいいか。一番重要な、ラミリスの剣はどうなってるんだ?)
《ラミリスの魂への絶対防壁も並行して展開中です。彼女の意識が戻らない原因は依然として不明ですが、これ以上の浸食を防ぐため、物理的・精神的な防壁で彼女の魂を何重にも覆い隠します》
(ああ。それが一番の目的だからな。絶対に守り抜いてくれ)
《……加えて、マスターの指示通り、最悪の事態を想定した安全策も組み込んでおきます》
シエルの言葉に、俺は一つ頷いた。
事前の会議で決めていた『3つ目の作戦』のことだ。万が一、俺の記憶が失われたり外部と連絡が取れなくなった場合、シエルに俺の思考誘導を任せるという最終手段。
(ああ、頼む。あの時決めた通りでいい。あとはお前の判断に任せる)
この異常な空間だ。万一、俺たちの論理で説明できない事象が発生したとしても、シエルが備えを万全にしてくれているのなら、それに越したことはない。
《お任せを。……書き換え進捗、九十五パーセント。まもなく内部世界の書き換えが──》
シエルの報告が聞こえた。その時。
(……ッ!?)
シエルが何かの異常な反応に気づいたのと、俺の本能が「それ」を察知したのは同時だった。
シエルが警告の声を上げるよりもほんの一瞬早く、俺は虚空を睨み、竜種核装着剣──希望(エルピス)を取り出し、虚空へと構えた。
『…俺の箱庭でそんなことをされちゃ困るな』
俺が構えたのと、空間を震わせる声が響いたのは、まったくの同時だった。
声には、一切の感情が乗っていなかった。
いや、感情という概念すら存在しないような、ひどく無機質で平坦な響き。
そして暗闇の奥底から、ぬらりと「目」が浮かび上がった。
一つの眼球の中に、三つの赤い瞳孔が浮かぶ、悍ましい双眼。
それが、間違いなくこの装置に関わる、そしてラミリスが未だに目覚めない原因の元凶だと、俺の本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
《!?…マスター、私の解析でも対象の全容が掴めません。極めて危険な存在です。全権能を戦闘に向けて制御。同時に多重防御結界を最大出力で展開します》
いつになく緊張感を孕んだシエルの声と共に、見えない強固な防壁が俺の周囲を幾重にも覆い尽くしていく。
「……お前は何者だ」
そんな疑問がふいに俺の口から放たれる。
双眼の存在は、俺の放つ覇気にも一顧だにせず、ただ淡々と答える。
『俺に』『私に』『僕に』
不自然に声が三つに割れる。
『…名前という概念はない』
『…名前という概念はないわ』
『…名前と言う概念はないよ』
まともな答えを期待した質問ではなかった。しかし、今はこいつから可能な限りの情報を引き出して正体を掴む事が先決だ。
(シエル、わかる範囲でこいつを解析できていることはあるか…?)
《対象の魂、ならびに星幽体(アストラル・ボディー)、精神体(スピリチュアル・ボディー)、物質体(マテリアル・ボディー)のいずれも検知できません。魔素の波長も同様です。事象としてそこに『在る』にもかかわらず、この世界の法則において対象は『存在していない』と定義されています。少なくともこの世界の存在でないことは確かです》
(なるほどな…)
俺がシエルと共に思案を巡らせている最中、双眼は赤い瞳孔を僅かに揺らして、こう続けた。
『しかし……そうだな』
『だけど……そうね』
『そういえば……ね』
三つに割れていた声が一つに収束する。
『一度だけ……“俺の領域”に辿り着いた存在が、俺のことを元いた世界の言葉でこう呼んでいたな──この世界の言葉に直せば……絶界の虚神…か』
(絶界の……虚神)
俺がその名を反芻した直後、赤い双眼の周囲に、黒いモヤのようなものが集束し始めた。
それは瞬く間に人間の輪郭を形作り、見覚えのない一人の男の姿を取った。
『まあ、結局……俺も『俺』になったがな』
男の姿を取った虚神が、自分の掌を珍しそうに見つめながら、一つの声でそう言った。
その姿は、見知らぬ俺から見ても確かな実力者であったであろう風体と覇気を携えている。
こいつの話の流れから察するに、この姿の男がこいつの領域とやらに踏み込んだ者なのだろう。
だが、俺も『俺』になったということは…。ぞわりと、背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
「装置を送りつけたのも、ラミリスの意識を奪ったのもお前だな」
俺の詰問に対し、虚神は顔を上げた。
その瞬間だった。
『ふん…"アレ"はあいつらが勝手に見つけただけだろ』
『私は"アレ"を流していただけ……』
『僕にとってはこの上ない収穫だったけどね』
男の口から出た言葉が、不気味な三重の響きを奏でる。
その言葉はこれまでと違い違った文脈を投げかけているのに、俺の精神に直接響くかのようにはっきりと言葉の意味を刻み込んでくる。
『ラミリスとかいうあの矮小な妖精はただの餌だ』
『そうすれば『私』は必ずここに来る……』
『僕の目的もこれで成就するというわけさ』
「『私』……?」
俺は思わず、その言葉をオウム返しに口にしていた。
こいつは今、明確に俺という存在を認識し、狙って引きずり込んだと言ったのだ。
『そうだ。俺は『俺』だ』
『そうよ。私は『私』よ』
『うん…。僕は『僕』だよ』
三重の声が、歪な声を上げた。
直後、俺の周囲の空間に赤い三つの瞳孔を持つ目が無数に現れた。
虚空を埋め尽くすほどの目。目。目。
それらの一斉の瞬きとともに、この空間そのものから、数え切れないほどの声が沸き上がった。
『あたいと』
『あたしと』
『我と』
『わたくしと』
『わらわと』
(──これは…!?)
《マスター、推測が完了しました! 対象はただの個体ではありません! 無数の意識が、境界を持たぬまま一つの思考を共有しています! ……名付けるとすれば「集合精神生命体」と言える存在です!》
(なんだって…!? そんな生き物見たことがないぞ!)
《そして…対象の発言から推測するに、真の狙いは、マスターという『存在』そのものの可能性があります!》
シエルの冷静な分析が、俺の感じた底知れぬ悍ましさに明確な理屈をつけてくれる。
その時、俺は理解した。
今まで戦ってきたどんな敵とも違う。こいつは野放しにしてはいけない存在だ。
その刹那、無数の目が一斉に俺を睨み据えた。
『俺と』『私と』『僕と』
『一つになるんだよ』
すべての声が重なり合ったその宣告を合図に、理外の存在との戦闘が幕を開けた。
*
男の姿をとった虚神が、無造作に片腕を振るった。
直後、俺の頭上の暗闇が波打ち、そこから無数の『武器』が吐き出された。
一本一本が全く異なる形状と色彩をしている。刃なのか杖なのか判別のつかないものすらある。それらは一つの意志を共有する細胞のように空中で密集し、互いに擦れ合って金属の絶叫を響かせながら、悍ましいうねりを上げて巨大な『大蛇』の形を成した。
俺の『万能感知』には、それがどんな軌道を描いているのか、そもそもどういう法則で存在しているのかすら引っかからない。空気を裂く風圧も、魔素の乱れも一切生じていないのだ。ただ『対象を粉砕する』という結果を伴った理不尽な暴力だけが、巨大な顎を開いて俺へと突進してくる。
(いやいや、マジかよ。どうなってんだこれ!)
内心で毒づきながらも、俺は動揺を顔には出さない。
そんな時にシエルから解析の結果が共有される。
《マスター。虚神の攻撃の詳細が掴めません。恐らくですが、こちらに手の内が割れないように、正確に形状や性質の認識ができないようなカモフラージュがかけられているようです》
(…なるほどな。あいつは俺が能力を解析して利用する可能性も考慮してるってわけか)
そんなことを考えつつ、咄嗟に身を捻って、迫り来る奔流を紙一重で躱した。
追撃は来なかった。虚神は俺の様子を何も言わずに眺めているだけだ。
まずは様子見といったところか。
剣の奔流の本数が更に増え、枝分かれした剣が空間を削り取るような異常な軌道で俺を捉える。
そんな追撃を全てエルピスで受け流しつつ、シエルは俺の周囲に光の盾を展開し攻撃を逸らしていた。
だが、剣の性質が一本一本違うのか、中には光の盾を透過するようにすり抜けて肉薄してくるものもあったのだ。
(シエル、どうやらあの攻撃を結界で受けるのは悪手だ。俺の前に『虚数空間』を展開しろ。ぶつかってくる端から呑み込んでやれ)
得体の知れない攻撃である以上、ここは持ち得る手の中で一番確実な策を取る。
《わかりました、マスター。対象を強制収納します》
数の奔流による暴威が牙を剥いた瞬間、俺の前面に発生した見えない『口』が、激突してきた無数の剣を音もなく飲み込んだ。
俺の『虚空之神(アザトース)』なら、得体の知れない放出系の攻撃だろうと丸ごと喰らい尽くせる。無限に連撃を加えようとした無数の剣の暴威は、虚数空間に触れた端から底なしの虚無へと落ちていき、数秒もしないうちに完全に消滅した。
(……なるほど。呑み込んでみて改めて分かったが、あれはたしかにこの世界に由来する物質でも魔法でもない。別の世界の『法則』そのもの、あるいはそれに準じる物質をぶつけてきてるわけか)
道理で感知に引っかからないわけだ。この世界のルールで説明できないものを、この世界に根差すスキルで捉えられるわけがない。
だが、打てる手がないわけじゃない。
理屈が分からなくても、存在ごと呑み込んでしまえば同じことだ。
『わかってはいたが、あの程度の攻撃は造作もなく処理できるか』
『見ていて惚れ惚れするわね。流石『私』だわ』
『わくわくするよ。こんな戦いは久しぶりだからね』
そんな虚神の様子を見つつ、俺は軽口を交えながら次の一手を考えていた。
「悪いが、俺の腹の中は無限大でね。こんな程度じゃやられはしないさ」
そして俺は、相手の出方を待つような真似はしない。長々とした戦闘はロクな事がないからな。こういう時は、さっさと距離を詰めて叩くべきだ。
俺は言葉を言い終わるのと同時に『空間転移』で一瞬にして虚神の懐へと接近し、思いっきり愛刀を斬り上げた。
単純な剣技では、この理外の存在の防御を破れないだろう。だから最初から、剣に『虚無崩壊』の破壊エネルギーを纏わせた複合技を叩き込む。
硬質な破砕音が暗闇に響き渡る。
虚神は咄嗟に空中に未知の武器を出して俺の剣を受け止めたようだが、それでも至高の刃に乗せた凄まじい衝撃によって砕かれ、奴の体勢がわずかに崩れた。
その瞬間こそが、俺の狙い通りだ。
がら空きになった虚神の顔面に向け、俺は空いた左拳を容赦なく叩き込む。
確かな手応え。
だが直後、吹き飛ぶはずの虚神の体がブレたかと思うと、あり得ない死角から俺の首を刈り取るような不可視の反撃が迫っていた。
(なッ──!?)
俺は慌てて、スライム状態へと変化した。
スルリと実体を流動化させ、虚神の理不尽な反撃をかいくぐって避ける。間一髪ながら回避に成功した俺は、転がるようにして距離を取り、再び人型へと戻ってエルピスを構え直した。
(危ねえええええッ! 今の、直撃してたら首が飛んでたぞ!?)
俺には神速再生があるが、未知の法則の攻撃がどう作用するかわからない以上当たらないに越したことはない。
内心では冷や汗をかきながら、表情にはおくびにも出さず虚神を煽る。
「へえ、今の連撃を凌いで反撃までしてくるとは、やるな」
コイツにハッタリが効くかどうかはわからないが、気持ちで負けてしまったらそれまでだ。
『虚勢か? 『俺』の性格はよくわかってるからな』
『ええ。だから面白いのよ』
『うん。だからこそ、『僕』は僕になる価値がある』
虚空を埋め尽くす無数の目が、俺を品定めするように見つめていた。
虚神は顔面の傷を意に介さず、崩れた体勢から不自然な挙動で立ち上がる。
そして、その周囲で飛散した無数の武器が一つに凝縮し、棒状に変化した。
それを虚神が握った瞬間、今度は圧倒的な威圧感を放つ巨大な光の大剣へとその姿を変貌させる。
そして、神速の踏み込みから繰り出される、空間そのものを押し潰すような重圧を伴う一撃。
(くっ! コイツの戦い方はデタラメだな!)
俺は舌打ちを一つ、しかし思考は一瞬たりとも淀まない。
避けるだけでは相手のペースだ。
(シエル、あの剣の核を撃ち抜く)
《了解しました。マスターの動きに合わせてサポートを行います》
エルピスの刀身が、青白く、だが底知れぬ深みを持つ輝きを帯びて唸りを上げる。
俺は一歩も引かず、振り下ろされる巨大な大剣の軌道へと真っ向から飛び込んだ。
纏わせたのは、神気と『虚無崩壊』の破壊エネルギーを極限まで圧縮した複合技。霊子すらも喰らう最強の斬撃を、正面から叩きつける。
激突の瞬間、世界が音を失ったかのような静寂のあと、凄まじい衝撃波が四方に爆ぜた。
だが、押し勝ったのは俺の刃だ。
大剣の中心に走った亀裂が瞬く間に全体へ広がり、巨大な武器は粉々に砕け散って霧散していく。
(よし、一気に押し切るぞ!)
だが、虚神は砕けた剣の破片すらも利用し、間髪入れずに次の手を繰り出してきた。
物質的な攻撃ではない。目に見えない微細な情報粒子の波が、俺の五感をすり抜けて直接精神へと突き刺さる。
脳内に流れ込んでくるのは、全く異なる無数の『誰か』の思考ノイズ。
底知れぬ絶望、狂気、そして世界を呪う呪詛の数々。精神そのものを内側から焼き潰すような、悪意の奔流だった。
(くっ……!)
意識の端がわずかに揺らぐ。
だが、それは致命的な隙を生むにはあまりにも短い。
《――流入する概念情報を全て隔離、破棄完了。マスターの精神への影響は皆無です》
シエルの涼やかな声が、頭蓋の奥で心地よく響いた。
彼女の絶対的な防壁は、未知の精神干渉すらも一瞬で遮断し、俺の思考をクリアに保ち続ける。
「おっと、そいつは俺には効かないぜ」
未知の精神干渉すらも無効化した事実に、俺は確かな手応えを感じながら、怯まぬ足取りでさらに虚神との距離を詰め、怒涛の連撃を繰り出してゆく。
虚神が空間を未知の環境に書き換え、法則をデタラメに反転させようとも、その全てをシエルが涼しい顔で最適化し、俺に有利な法則へと上書きしていく。
俺は結界とエルピスを縦横無尽に振るい、虚神の放つ不可視の斬撃を弾き、切り伏せ、時には強引に踏み込んで至高の刃を叩き込んだ。
相手の技量も、法則の厄介さもかなりのものだ。だが、俺とシエルの連携が確実に上回っている。
俺の斬撃が虚神の理外の防御を完全に切り裂き、その懐を深く捉える。
あと一歩。次の一撃で、この場に顕現している奴の中枢を完全に消し飛ばせる。
俺はエルピスに絶対の威力を込め、確信と共に最後の一歩を踏み込んだ。
しかし――。
『……やはり『俺』は素晴らしいな。一つになる価値がある』
『……でも残念ね。あなたの手の内は全て知っているの。あの二人のおかげでね』
『……そして君の中の"存在"もね。ソレは僕にとっては邪魔なものだ』
その言葉の後に、虚神の纏う雰囲気が一変した。
(なッ──!?)
虚神の宣告と共に、空間を埋め尽くす無数の『目』が一斉に俺を睨みつけた。
視線そのものが巨大な質量を持ったかのように、俺の動きがほんの一瞬だけ、完全に拘束される。
そのわずかな隙を突き、虚神の体がブレたかと思うと、複数の実体へと分裂し、全方位から同時に襲いかかってきた。
(くそっ、並列存在!? いや、分身か!?)
俺は即座に視線の拘束を力技で破り、エルピスを翻す。
四方八方からの死角なき猛攻。だが、俺の『万能感知』とシエルの予測演算に抜かりはない。俺は神速で刃を振るい、その全てを完璧に捌き切る。だが――。
『『俺』はまだ知らないだろう? 本当の理不尽な力というやつを』
『『私』はまだ知らないでしょう? 本当の理不尽な力というものを』
『『僕』はまだ知らないよね? 本当の理不尽な力をね』
その時から、俺を不可思議な事象が襲うようになった。
時間が巻き戻り、いや進んでいるのか? 空間が歪み、時には因果の一部も書き換えられもした。
「──ッ!? シエル、これは!?」
《これまでと同様に異なる世界の法則を利用したものだと思われます。ですが、これほどとは…!》
そこから先は、お互いに苛烈な攻撃の応酬が始まったのであった。
*
どれほどの時が経ったのかわからないほどの間、戦闘が続いていた。
俺が何度かヤツに決定打を決めることもあったが、それを未知の法則で打ち消され、逆にこちらが追い詰められても機転とシエルの解析によって凌ぐ激しい攻防。
その最中、俺はついに幻影を全て打ち倒し、一対一へと持ち込んだ。
「……お前もどうやら限界みたいだな」
そう言い放つと、虚神の反応は意外なものだった。
『俺は『俺』の手の内を全て知っているというのに、ここまで食い下がるとはな』
『私をここまで手こずらせるなんて、やはり『私』は素晴らしいわね』
『素直に賞賛するよ。『僕』は僕が見てきた者たちよりも強い』
賞賛の言葉だった。だが、その程度で気を緩めるほど間抜けではない。
「そうか。なら一思いにここで終わりにしてやるよ…!」
そう言って奥義の構えを取る。そして――。
「虚無の剣撃(イマジナリーブレード)!」
竜種核こそないが、それでもこの技には絶対の破壊力が込められている。俺もシエルも、この一撃で勝負が決まることを確信していた。
虚神は即座に反応し、手にした異界の武器で受け流しを試みる。だが、そんなもので防ぎ切れる次元の斬撃ではない。
眩い閃光が暗闇を奔り、次の瞬間には虚神の半身が鮮やかに両断され、虚空へと吹き飛んでいた。
『あ…?』
『私が…まさか』
『僕の…力…』
両断された断面から、虚神の身体が崩れていく。その気配が、目に見えて薄れていくのが分かった。
(良かった。これでラミリスも救い出せるだろうし、一件落着だな)
《ええ。恐るべき強敵でしたが、やはりマスターの敵ではありませんでしたね》
だが、その時不意に不思議な音が聞こえた。
コーーーーーーン
空間全体がガラス細工のようにヒビ割れ、久遠に響き渡るような反響音が脳を揺らした。
そして、俺がハッと意識を戻すと同時に背後から声が聞こえてきた。
『…俺を倒す夢でも見ていたか?』
『…私を倒す夢でも見ていたのかしら?』
『…僕を倒す夢でも見ていたかな?』
その声と同時に、想定外の死角からの軌道で、一撃が俺に迫っていた。
《!? マスター! 避けてください!》
その警告と同時に最大規模の多重結界が展開される。
しかし、シエルの警告が俺に届く頃には、虚神が繰り出した槍状の武器が俺の絶対防壁をいとも容易くすり抜け、俺の腹部を深々と貫いていた。
(!?…ぐっ これは!?)
物理的な痛みはない。
だが、腹部を貫いたその”槍”は抜けることなく、俺の精神体と直接『接続』されていた。
そして、それを成した虚神の表情には歓喜が浮かんでいた。
『遂に捉えたぞ』
『遂に捉えたわ』
『遂に捉えたよ』
そう言って虚神はおもむろに槍の底部の装置を操作した。それと同時に謎の音が鳴り響く。
≪…………ラ………≫
次の瞬間、俺の中から、俺を構成するデータそのものが奔流となって凄まじい勢いで吸い上げられていくような、吐き気を催す悍ましい感覚が駆け巡る。
「ぐあああぁぁぁああああ!」
思わず感じた事のない喪失感に声を漏らす。
それを聞きシエルが緊急対策を実施しようとしたときだった。
《このままでは…! 早急に魂の保護を…カ…イ…シ……》
明らかにシエルの様子にも異変が起こった。
だが、本来なら俺と同時にシエルにまでも影響を与えるなどと言う芸当はできるはずがない。
あり得ないのだが、こいつは俺の知らない何らかの力でそれをやってのけているらしい。
『……『俺』の中の忌々しい存在も、ここで共に封じてやろう』
『……安心しなさい、『私』。私となれば安寧が訪れるわ』
『……そうだよ、『僕』。いずれ『僕』の仲間も全てこうなる』
虚神の声が響いた、直後だった。
俺の魂の奥底で、絶対に揺らぐことのなかったはずの存在の、弱弱しいノイズが漏れた。
《マス…ター……。ワ…タ…シ…ハ》
常に涼やかで、絶対の自信に満ちていたシエルの声。
それが初めてブツリと途切れた。
「シエル……ッ!?」
呼びかけに対する応答はない。
そして、俺の目の前で虚神にも変化が生じていた。
俺の中から情報を吸い上げた虚神の姿が、虚影を纏い変質していく。
黒いモヤが晴れた後に立っていたのは、紛れもない『俺』自身の姿だった。その手には、エルピスと寸分違わぬ至高の刃の模倣すら握られている。
唯一の違いは黒い瞳孔に浮かぶ三つの赤い瞳。
俺の姿を取った絶界の虚神は、その顔に歓喜の笑みを浮かべて宣告した。
『ついに、ついにだ。この力があれば…』
『全ての世界、全ての次元を私にして…』
『全ての者が同一の、素晴らしい世界…』
そこまで言って、『俺』の顔が俺を見据える。
『………新たなる理想郷を作れる!』
『………新たなる理想郷を作れる!』
『………新たなる理想郷を作れる!』
その言葉が、俺の中で決定的な何かを爆発させた。
ラミリスを陥れ、俺の姿を奪い、あまつさえ俺の相棒に危害を加え、ふざけた妄言を吐く目の前の存在。
(ふざけるなよ……。絶対に、絶対に、許さねえ!)
俺は、俺自身がどうなろうと仲間さえ無事であればそれで良かった。だがこいつは――。
「俺の仲間たちに…ラミリスに…」
激高と共に、俺は腹部に突き刺さったままの槍を引き抜こうとはせず、むしろ自らさらに一歩深く踏み込んだ。
残された全権能を、エルピスの切っ先へと一点に集中させ、奴の中枢へと渾身の刺突を放つ。
「……シエルに手をだすなぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!」
全権能を乗せた決死の刺突が、俺の姿をした虚神の中枢を深々と貫き、破砕した。
甲高い絶叫のようなノイズが響き渡り、虚神の大部分が弾け飛ぶ。
『!? まさか…こんなことが…!』
『……私の…私の力がぁぁぁぁああ』
『僕を…こんな姿に…………………』
この時の俺は完全に頭に血が上っていて、なぜ今の攻撃がこれほど致命的に通ったのかなど、考える余裕はなかった。
だが、理由は単純だ。ヤツが俺の権能を強引に吸収しようとしたあの瞬間、皮肉にもヤツ自身が『この世界の法則』へと強く縛り付けられていたのである。
その一瞬の致命的な隙を突いたことで、俺の全権能は最大級の効果を発揮した。結果として、世界の理を無視し続けてきた理外の存在に対し、ヤツの想定外の甚大な損害を与えるに至ったのだ。
俺の身体から槍状の武器が抜け、半身を吹き飛ばされた虚神は空間の闇に沈んでいった。
(……シエル? 応答しろ! シエル!)
引き戻した権能の感覚を確かめながら、俺は内へと呼びかけた。
だが、明確な返答はない。微かに《……》という短い気配を感じるが、その声はひどく遠く、ノイズに掻き消されて届かない。
その事実を認識した直後、俺の意識の死角で、微小な情報信号(メッセージ)のようなものがどこかへ向けて弾き出された感覚があったが、今の俺にそれを気にする余裕はなかった。
不意に、俺は姿勢制御を乱して落下をした。
「っ……!?」
果てのない暗闇への落下。
どうやら虚神の一撃を食らった際に、『何か』をされたらしい。俺の思考は急速に鈍り始めていた。
最初に消えたのは視覚だ。見えていたはずの空間の残滓が、完全に黒く塗り潰される。
次いで、エルピスを力強く握りしめていたはずの掌の感触も、衣服が擦れる感覚も、手足の存在さえもが溶けるように消え去った。
『万能感知』は完全に沈黙し、世界を認識する術が失われていく。
ヴェルドラとの『魂の回廊』を確かめようとするが、その手応えはひどく不明瞭で、深い霧の中に手を伸ばしているように何も掴めない。
俺の脳裏に不意に仲間達のことが思い出される。
そして、ラミリスのことも…ラミリス…ラミリス?
頭に霞がかかったように、思考がまとまらない。
俺は、なぜこんな空間に落ちている?
ここに来る前、何をしていた?
……思い出せない。
残された聴覚に、微かなノイズだけが響き続ける。
考えることすらもひどく億劫になり、俺は為す術もなく、深い、深い闇の中へと意識を落としていった──。
――
――――
――――――
――――――――
リリリリリリ……。リリリリリリ……。
規則的なアラームのような音が、意識の底で鳴り響いていた。
俺はゆっくりと目を覚ます。
(なんだ……? ここは。俺はついさっきまで、執務室で山積みの書類仕事を片付けていて……いや、違う。誰かと話していたような……くそっ、頭に靄がかかったみたいに思い出せない)
…目を覚ましたつもりだったのだが、そもそも眠りについた記憶すらない。
それどころか、意識を失う直前に何をしていたのか、まったく思い出せなかった。
「まいったな……なんなんだ、この状況は?」
声に出したつもりだったが、実際に空気を震わせた実感はない。
視界は完全な暗黒に包まれていた。頼みの綱である『魔力感知』を展開しようとしても、一切の反応がない。
まるで自分という存在が、どこにも接続されていないような、完全な虚無。ただ無機質なアラーム音だけが、どこからともなく聞こえてくるのみだ。
五感のうち、聴覚以外が完全にシャットアウトされている。手足の感覚もなく、自分が今どんな姿勢で、どこに存在しているのかさえ不明。
神話級の武具の感触も、身に纏っていたはずの衣服の感覚すらない。ただ「俺」という意識だけが暗闇にポツンと浮かんでいるような、ひどく不安定な状態だった。
異常事態(イレギュラー)すぎる幕開けだった。
俺ほどの力を持っていれば、大抵の事態には対処できる。だが、状況すら把握できないとなれば話は別だ。
こういう時、頼りになるのは優秀な相棒だ。
俺は心の中で、全幅の信頼を寄せる彼女に問いかけた。
(シエル、いるか!? この状況はどうなっているんだ? ここはどこかの異空間か?)
《……御目覚めですか、マスター。しばらく前から分析を行っていますが、現在地点が解析できません》
シエルの声には、いつものような絶対的な自信が欠けているように聞こえた。神智核(マナス)であるシエルが「解析できない」事象など、この世界にそうそうあるものじゃない。
(は? 座標が不明だって? お前が解析してわからないなんて、相当ヤバいだろ! 俺たちのスキルは無事なのか?)
《はい、御安心を。権能の大部分は正常に稼働可能であり、現時点でのマスターの身の安全は完全に確保されております。しかし、いくつか問題が。……ヴェルドラや配下たちとの『魂の回廊』の接続が、完全に不明瞭となっております》
(なんだって!?)
俺は最悪の事態を想定した。
仲間たちばかりか、ヴェルドラとの交信もできないとなると、ただ事ではない。魂の回廊は、空間を隔てていても繋がっている絶対の絆だ。それが不明瞭になるなど、俺が一度死にかけた時くらいしかあり得ない。
《どうやら現在の状況は、単純な空間移動ではなく、時空間を何らかの特別な方法で強制的に移動している状態だと推測されますね。それも、極めて強固な因果の濁流の中を》
(時空間を移動……タイムトラベルでもしてるってのか? どこかの強大な敵との戦闘中に意識と記憶を奪われ、異空間に飛ばされてしまったんじゃないのか?)
《その可能性も否定できませんが、マスターの身体に戦闘の痕跡は見当たりません。何らかの超常的な意思によって、座標を書き換えられている状態に近いです》
そう考えるのが自然だろう。だが、誰が? 何の目的で?
疑問は尽きないが、今は悠長に考えている暇はない。
(まずいぞ! シエル、今すぐこの状況から抜け出す手段を構築してくれ。このままだとどこへ連れて行かれるか分かったもんじゃ――)
焦燥に駆られ、俺がシエルに指示を飛ばそうとした、その時だ。
不意に、閉ざされていた暗黒の視界に「光」が奔った。
それは、圧倒的な虚無を切り裂くような白銀の閃光。そして俺の意識は、抗う間もなくその光の渦へと一気に吸い込まれていった。