【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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第五章 奇跡の再演と善意の代償

地下迷宮第九十五階層、隔離研究区画。

 

その奥、分厚い扉を一枚隔てた先に、区画よりも一回り小さな部屋がある。

時空位相同期観測室──通称『時間同期室』。装置の内部と同じ速さで時間が流れるよう、ラミリスとリムルが協力して位相を調整して作り上げた部屋だ。

普段は扉を閉ざしたまま眠らせているこの場所は、今やテンペストが誇る最高峰の頭脳と戦力が集結する、異様な熱気に包まれていた。

 

部屋の中央に鎮座するのは、異界の技術と魔法が混ざり合った巨大な装置。

その中心で揺蕩う水面の中では、この国の主であるリムルが溶液に身を沈め、無数のケーブルに繋がれたまま静かな眠りについている。

 

ラミリスは現在も別室の『医療区画』で意識の戻らない状態が続いている。

その別室にはミリムが付きっ切りで寄り添い、親友の小さな手を固く握りしめたまま微動だにしない。ギィやヴェルザードもそこに留まり、トレイニーやベレッタもまた、強い自責と悔恨を胸に別室の警護と迷宮管理に当たっている。

 

時間同期室では、設置された計測機器群を前に、技術陣が持ち場についていた。

壁際に並べられた観測結晶には迷宮管理者たちが張り付き、その傍らでは、ラミリスの助手として迷宮の管理の一端を担っている異世界人のシンジ、マーク、シンの姿もある。

三人も解析の補助役として忙しなく作業を進めていた。

 

術式の解析卓には、魔導王ガドラとサリオンの魔導研究者たち。

数値の照合は超克者たちが担っている。

カイジンとドワルゴンの職人衆も、自分たちの作った観測装置に不備がないかに目を光らせている。

ガビルもまた、ベスターの補佐として陣頭指揮を執っている。

ディーノ、ピコ、ガラシャの三人も、各々が手伝える部分を担っていた。

その合間を、樹妖精たちが音もなく行き交っていた。

そして、それら全てを束ねているのがベスターである。

 

そして張り詰めた面持ちのまま、幹部たちもまた『投影盤』にリムルの動向が映るのを今か今かと待ちわびているのである。

 

装置が本格的に稼働し、内部世界の構築が始まった、まさにその直後だった。

 

『ピーッ!』

 

突如、鋭い警告音が室内に響き渡った。

 

「なんだ!? 計器が異常な数値を叩き出しています!」

 

計器に張り付いていた技師が、悲鳴のような声を上げる。魔素波長のグラフが、限界を突破するかのような異常な波形を描いたのだ。

 

「波形もおかしいヨ! こんな形、ミー達の記録に一度も出てきてないネ!」

 

超克者が数値の帳面から顔を上げて叫んだ。

水槽の中のリムルが、微かに苦悶するように眉をひそめた。

 

「どうなってる!? 今までこんなことは──」

 

ベスターが血相を変えて叫んだ、次の瞬間。

 

「……ん?」

 

振り切れていた異常な数値は、文字通り『一瞬』にして嘘のように沈静化し、元の安定した波長へとピタリと戻っていた。

 

「……なんだったんだ、今のノイズは」

 

ベスターが額の冷や汗を拭いながら呻く。

術式に乱れはないと、ガドラが解析卓から答えた。計器の読み違いでもないと、カイジンが観測装置から顔を上げる。ガビルが各所からの報告を取りまとめ、ベスターへ差し出した。

どこを当たっても、異常は見つからなかった。

 

しかし、技術陣が狐につままれたように首を捻る一方で、彼らの背後――リムルを見送ってからその後の動向を見届けるために残っている幹部陣も不安を募らせていた。

 

「まさかリムル様の身に、何かあったのではありんせんか……」

 

クマラが小さな声で不安そうに隣のアピトに話しかけた。

 

「心配は不要です」

 

それに対してアピトが毅然とした態度で答える。

アピトの返答は短い。言い切ってから、ようやく複眼をクマラへ向けた。

 

「リムル様を信じていないのは、クマラの方ではなくて?」

 

「なっ! わっちはそのようなつもりではありんせん! ただ、少し案じただけでありんす!」

 

いつもの調子でやり取りを始める二人。

その横から、幼い声が割って入った。

 

「ねえ、ベスターさん。今の音って、まずいやつ?」

 

ウルティマである。小首を傾げ、覗き込むようにベスターを見上げていた。

 

「……現時点では、何とも申し上げられません」

 

ベスターが言葉を選んで答える。

 

「数値の上では、異常はすでに収まっております。ただ、なぜ起きたのかが分からぬ以上、二度と起きぬとも申し上げられぬのです」

 

「うーん。分かんないって言われるのが、一番つまんないな」

 

ウルティマはつまらなそうに唇を尖らせた。

 

「ウル。あまりベスター殿を困らせるものではないわよ」

 

テスタロッサが窘めるように言い添える。

 

「だってさ。ボクたちが何かできるなら、さっさと教えてほしいだけだもん」

 

「できることがあれば、この方々は真っ先におっしゃるわ。……今は、その時ではないというだけ」

 

「い、いえ。お気遣いは有り難く存じます」

 

話を振られたベスターが、慌てたように頭を下げた。

 

そんな中、他の面子も思い思いに意見を交わす。

しかし、この”ほんの一瞬の原因不明のノイズ”こそが、『壮絶な死闘』の結果であったことを、この時の彼らは知る由もない。

 

 

 

 

 

「投影盤に映像が出たぞ!」

 

カイジンの声と共に、時間同期室に設置された巨大な投影盤に、淡い光が灯った。

 

「おお、映ったぞ! あれは……まだ俺たちの国が開拓途中の頃の、村の広場か」

 

腕を組んで見上げていたベニマルが、少しだけ懐かしそうに目を細めた。その後ろには、テスタロッサやディアブロといった悪魔たちも静かに控えている。

装置の最も近くに陣取るヴェルドラと、付き従うカリスもまた、無言で映像を見つめていた。

 

投影盤の向こう側に映し出されているのは、テンペストの前身である小さなゴブリンの村。絶賛開催中の宴の真っ最中だ。

映像の中心には、串に刺さった肉をこれでもかと頬張る『過去のリムル』と、追加の串焼きを差し出しているゴブイチ、そしてまだ名付け前で若々しい姿のオーガたちの姿がある。

 

その宴の席に、突如として空間が歪むようにして「誰か」が出現した。

 

「……ん?」

「え……?」

 

見守っていた幹部たちが、一斉に怪訝な声を漏らした。

 

「嘘だろ……本当に、リムル様が二人いる」

 

シンジが、抱えていた記録板を取り落としそうになりながら呟いた。

その両隣で、マークとシンもまた、口を半開きにしたまま投影盤を見上げている。

串焼きを頬張る過去のリムルの目の前に、突然顕現して現れたのは、紛れもない『リムル』だったからだ。過去のリムルも、自分たちの主も、お互いに間抜けな声を上げて石のように硬直している姿がバッチリ映し出されている。

 

「おかしいな……リムル様は事前の会議で、『過去の自分を別に用意し、俺は表舞台には出ない』と仰っていたはずだぞ?」

 

ベニマルが困惑したように呟いた。

作戦開始から数分。あらかじめ決められていたはずの大前提が、過去の人物たち全員の目の前に堂々と出現するという形で、いきなり破られているのだ。

 

「何か事情が変わったのでしょうか……? それとも、出現場所がリムル様の予想外であったということなのか……」

 

テスタロッサも小首を傾げた。

だが、まだこの時点では、幹部たちに深刻な焦燥はない。「リムル様のことだ、より良い策を思いついたのだろう」と解釈できる範疇だったからだ。

 

だが、投影盤を睨みつけるヴェルドラの心中にだけは、得体の知れない黒い靄が渦巻き始めていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

投影盤の中では、未来から現れたというリムルが、過去の己やオーガたちと円満に接触を果たしていた。

オーガたちの警戒を解き、過去の自分と並んで座り、これからの方針について語り合っている。

 

だが、そこで奇妙な現象が起きた。

 

過去のリムルが、自分の頭の中で起きた出来事について語り始めた瞬間。不自然に『音声だけ』が途切れたのだ。

映像の中の口は確かに動いている。しかし、声が聞こえない。

 

「……おい、音が飛んでるぞ」

 

カイジンが眉を寄せ、太い指で計器の目盛りを追った。数秒それを繰り返してから、腑に落ちない顔で頭を掻く。

 

「妙だな。どこにも異常はねえ。……なのに、あの数秒だけ音が抜けてやがる」

 

記録を確かめた迷宮管理者たちも、揃って首を横に振った。残された記録の側にも、同じ数秒だけが抜け落ちている。

 

「そもそも、ラミリス様の時にはこのような現象は一度も起きておらん……妙な話じゃな」

 

ガドラが解析卓から声を上げた。

 

「ふむ。吾輩の見るところ、装置そのものに不具合はないようですぞ」

 

ガビルが記録板を閉じ、ベスターへ向き直る。

 

「ひとまず記録に残しておきましょう。同じ事が続くようであれば、その時は我らも総出で当たるまでです」

 

原因不明の不具合として、その場は片付けられた。

 

(ふん。あやつめ、こちらに己の存在を悟らせぬよう細工をしおったな)

 

ヴェルドラだけは、その現象の正体をすぐに察していた。相変わらず用心深いことよ、と内心で鼻を鳴らす。

 

「なるほど。下手に裏から手を回すよりも、直接姿を見せて信用を得た方が早いとご判断されたのですね」

 

ディアブロが感心したように頷く。

 

「……確かに、理にかなってるかもな。あの時の俺たちは里を焼かれ、復讐に囚われて身も心もボロボロだったからな」

 

投影盤を見上げながら、ベニマルが当時の己を思い返すように目を細めた。

 

「もしあの時、今のリムル様のように圧倒的で、かつ悪意のない御方が真正面から手を差し伸べてくれたなら……俺たちは疑うよりも先に、すがる思いでその手を取っていただろう」

 

隣に立つシュナが、兄を見上げて小さく頷いた。

 

「お兄様の言う通りです。当時の私たちは、どこに行く当てもありませんでしたから……」

 

ベニマルとシュナの意見を聞いた他の者たちも、過去の痛切な記憶をなぞるように深く頷いている。

事前の作戦を無視した行動ではあったが、当事者である彼らの目から見ても、それは過去の自分たちの心理を的確に突いた『リムルの鮮やかな機転』として映っていた。

 

だが、ヴェルドラだけは一人、冷や汗を流していた。

当初の会議で決まっていた通り、潜行直後のリムルへ連絡を試みていたのだ。

しかし――。

 

(リムルよ! 聞こえるか! 応答しろ!)

 

ヴェルドラは目を閉じ、己と盟友を繋ぐ絶対の絆――『魂の回廊』を通じて思念を飛ばし続けていた。

しかし、何度呼びかけても返事はない。

普段であれば、いかなる空間や次元を隔てていようとも、即座に力強い盟友の声が脳内に響き渡るはずだった。

 

(……馬鹿な。一体どういうことなのだ)

 

『魂の回廊』が繋がっている感覚はある。

それにもかかわらず、いくら連絡を試みても底なしの深淵に向かって声を投げているような、不気味なほどの無反響だけが続いている。

 

ヴェルドラは再び投影盤へと視線を戻した。

画面の中のリムルは、過去の自分に向かって「ここからジュラの大森林が最高な場所になるように協力する」と語りかけている。

その言葉や振る舞いには、今のところ不自然な様子はなかった。

周囲の仲間達が納得しているのももっともである。

しかし、ヴェルドラ自身からの連絡が繋がらないということは、今のリムルの身には何かが起こっているとみて間違いなかった。

 

(……おかしい。あやつは先ほど、音声に細工をしてみせたばかりではないか)

 

ヴェルドラの脳内で、パズルのピースが最悪の形で組み上がっていく。

 

万が一、リムルが記憶を失ったり不測の事態に陥った場合、シエルが速やかに真実を告げ、事態の打開に当たるという取り決めが作戦の要であった。

もしも、外部との連絡が取れないといった事象が起こった場合、シエルならば即座にリムルに知らせるだろう。

そして、こちら側にも事情が伝わるように投影盤を通して何らかのサインを送るはずだ。

しかし、リムルにはそのような素振りも全くない。

シエルが真実を告げていない? いや、違う。

あの完璧主義の神智核が、自らの役目を放棄するなどあり得ない。

 

ならば結論は一つだ。

――シエル自身が、真実を告げられない状態にある。

 

「……楽観視している場合ではないぞ、お前たち」

 

不意に響いたヴェルドラの低く重い声に、安堵していたベニマルたちの視線が一斉にヴェルドラへと集まった。

 

「事前の作戦を思い出せ。向こうに着いた後、我と連絡を取る手筈になっていたはずだ。……だが、我からの思念には、一切の応答がない」

 

「なんですって……!?」

 

テスタロッサが表情を引き締め、ディアブロの細められた目に鋭い光が宿る。

ウルティマが唇の端から笑みを消し、じっとヴェルドラを見上げた。

 

「そればかりではない。あやつの振る舞いをよく見るのだ。……あれは機転などではない。リムルは、我々の目的はおろか、自分が置かれている状況すら忘れている。恐らく……あの装置の内部で、記憶を奪われているのだ」

 

「記憶を、奪われている……? そんな、馬鹿な!」

 

声を上げたのはベニマルだった。

シオンが息を呑み、クマラが小さく身を引く。ソウエイは顔色一つ変えぬまま、ただ投影盤へ向ける目を鋭くした。

幹部たちにも、事前の会議で『記憶を失った場合にも、リムル自身が対策を用意している』という作戦の大枠は共有されていた。

 

「しかしヴェルドラ様! そう簡単にリムル様の策が破られるとは思えないのですが…!」

 

「……我もそう思いたかったが、リムルが記憶を失っているのはほぼ確実であろう」

 

食い下がるベニマルに、ヴェルドラはギリッと牙を噛み鳴らして答えた。

 

「リムルの内に備えられた絶対の防壁すらも沈黙させるほどの『未知の異常事態』が、あの装置の内部で起きているということだ」

 

リムルの備えによって安全になると思われていた過去の世界は、すでにリムルを絡め取る、絶対的な罠へと変貌していたのだ。

 

だが、ヴェルドラの胸には、一つだけ疑問が浮かんでいた。

 

(……だが。シエルが影響を受けているとすれば、こちら側に対して自身の正体を隠すような細工をできるものなのか?)

 

真実を告げられぬほどの異常に見舞われている者が、なぜそのような芸当をやってのけられたのか。

その矛盾に思い至った時、ヴェルドラは無意識に牙を噛みしめていた。答えは出ない。だが、この違和感だけは決して手放してはならぬと本能が告げていた。

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

装置の内部で流れる時間は、現実世界のそれとは全く異なる速度で進んでいく。

 

装置内で一か月が経てば、こちらの時間では凡そ二時間が経過する。

長命種や寿命を持たないものにとっては瞬きをするような時間ではあるが、迷宮が止まった影響で、平時とは違う様相を呈しているテンペストの運営と管理を止めるわけにはいかなかった。

リムルの仲間達は交代で盤面を見守り、技術陣もまた、交代制で解析と試行錯誤を続けることとなった。

しかし、投影盤に映っているのはオーガの里が滅び、オークの軍勢が森を呑もうとしていた時期である。

当事者であった元々オーガだった者たちやゲルドは、自然と顔を出すことが多かった。

そして、ヴェルドラとカリスだけは、その交代の輪に加わらなかった。

リムルは気にするなと言っていたが、ヴェルドラには、リムルとラミリスを窮地に陥れたのは自らの行いのせいであったのではないかという負い目があった。そんな主の傍には常にカリスも付き従っている。

 

投影盤の中では、過去のリムルがオーガたちへと名付けし、魔素枯渇によるスリープモードへと落ちていた。

村の守りを引き受けた未来のリムルが、異変を察知して森へ飛び出したのは、その直後のことである。

 

そして、リムルが着いた先では森の管理者であるトレイニーが、オークの軍勢に囲まれていた。

投影盤に映るオークたちの全身には、禍々しい紫色の紋様が不気味に浮かび上がっていた。トレイニーの精霊魔法を受けても、斬り裂かれた傷口から瞬時に肉が盛り上がり、元通りに再生していく。

 

「……む」

「……何だ、あれは」

 

短い呻きと、低い呟きが、ほとんど同時に漏れた。

それまで一言も発さず腕を組んでいたゲルドと、その隣に立つベニマルが、揃って投影盤を凝視している。

 

「ベニマル殿。あれは、オレの知る同胞達ではない」

 

「ああ、俺にも分かる。あの日、里に押し寄せてきたオーク共は確かに手強かったが、斬れば倒れる相手だった。あんな化け物じみた再生はしなかったはずだ」

 

里を襲われた側と、襲った側。

立場の違う二人の記憶が、同じ一点で食い違いを示していた。

 

「進軍が始まるのも、こんなに早くはなかった」

 

ゲルドの声は低い。

 

「オレたちが森へ出たのは、もっと飢えが進んでからだ。あの時点では、まだ動いていないはずだ」

 

「……つまり、歴史がずれているということか」

 

ベニマルが眉を寄せた。

その時、装置の傍らから、重い声が割って入った。

 

「それだけではないぞ、ベニマル」

 

ヴェルドラである。

腕を組んだまま、金色の瞳だけを投影盤に向けていた。

 

「我もあの装置の中で、同じ頃の日々を過ごした。我が見たオーク共も、あのような紋様は浮かべておらなんだ。あれは飢えから来るものではない。何か別の力が、外から注ぎ込まれておるような気がする」

 

「ヴェルドラ様の時とも、違うと……?」

 

ベニマルが振り返る。

ヴェルドラは頷きもせず、ただ投影盤を睨み据えていた。

 

「そうだ。我の時とも、今の貴様らの記憶とも違う。……あの世界は、我らの誰もが知らぬ形に変わりつつある」

 

「リムル様が装置の中の過去世界へ入られたことで、何かが変わったのか。それとも──」

 

ベニマルの言葉が、そこで途切れた。

その先を口にできる者は、この場にいなかった。この異常が何に由来するものなのか、答えを持つ者は誰もいなかったからである。

 

ヴェルドラもまた、それ以上は語らなかった。

記憶を失っているとしても、リムルであれば、自身の力を使ってオークの異変の原因をもっと積極的に探るはずだ。だが、投影盤の中のリムルに、そのような素振りは一つもない。

リムルが装置内に入った直後に抱いた違和感が、再び頭をもたげる。

 

そしてもう一つ。

シエルは真実を告げられぬほどの状態にありながら、音声に細工だけはしてみせた。

あの矛盾は、まだ解けていない。

だが、それを口にすることはできなかった。リムルの内に意思を持つ者がいることは、この場の誰にも明かしてはならない。

 

(……リムルよ。今、貴様の内で何が起きておるのだ)

 

ヴェルドラは組んだ腕に力を込め、投影盤を睨み据えた。

 

 

 

 

 

そして、過去のリムルが眠り続けているさなか――。

 

投影盤の前に立っていたシュナが、祈るように両手を握りしめた。

画面の中のリムルは今、無惨に焼き払われた『オーガの里の跡地』に一人で立っていた。死体すら残っていない虚無の廃墟だ。

 

何をしているのかは分からない。ただ立ち尽くし、時折、見えない何かをなぞるように指先を動かしているだけである。

 

それでも、その光景から目を離せる者はいなかった。

 

ベニマルをはじめとした生き残りの六人にとって、里が焼かれたのは遠い過去の出来事であった。弱肉強食こそが魔物の理であり、里の同胞達は逃げずに立ち向かった以上、死んだ者たちにも不満はないのだと。そう割り切って同胞達の思いを胸に、それぞれ未来への歩みを続けてきたのであった。

しかし、投影盤の中のリムルの姿を見ているうちに、ベニマル達の胸には落ち着かないものが生まれていた。

何をしているのかは分からない。それでも、あの方が意味もなくあの場所に立つはずがないことだけは、誰よりもよく知っている。

あそこには、もう何も残っていないはずだった。

 

その後、過去のリムルが覚醒した翌日。

開かれた幹部会議の席で、未来のリムルが静かに告げた言葉が、投影盤の音声を通して室内に響き渡った。

 

『お前たちの里でオークに喰らわれた同胞たちの「魂の残滓」の回収をしてきた。……その比率、およそ三割』

 

『オークロードを倒し、奴が喰らった魂をすべて吐き出させることができれば……里の連中を「蘇生」させられる可能性がある』

 

その言葉を聞いて、幹部達の目には静かな驚きと自分達の絶対の主に対する深い敬意が浮かんでいた。

自分たちの主は、帝国将兵の内の七十万人を蘇らせるという、敵として刃を向けてきた者の死すら覆してきたのである。その主が過去へ戻ったのなら、何をするのか。改めて聞かされるまでもないことだった。

 

ただ、想像をしていたのと実際に聞かされるのでは違う。

彼らの世界では、あの魂はとうに霧散して失われている。拾い集められるなどとは、誰一人として考えたこともなかったのだ。

 

投影盤の中では、過去の自分たちが沸き立っていた。シュナが口元を押さえ、ベニマルの拳が震え、シオンが大粒の涙をこぼしている。会議棟の空気が爆発したように揺れていた。

 

その光景を、現実の彼らは黙って見上げていた。

 

「……ほっほっほ。リムル様らしいですな」

 

沈黙を破ったのは、ハクロウだった。

 

「死んだ者たちも、逃げずに立ち向かった以上は不満などありますまい。それが弱肉強食、魔物の理というものですじゃ。……ですがな」

 

ハクロウは目を細めたまま、投影盤を見上げている。

 

「リムル様がもし過去へ戻られたのなら、必ずああなさる。ワシにはそう思えてなりませんでしたな」

 

それに対してベニマルも答える。

 

「確かにな。リムル様であればそうするだろう。むしろ、ここでこのような経験をされたのなら、こちらに帰ってきてから時空を遡って実際に蘇らせると言い出しかねないな」

 

腕を組んだ姿勢のまま、その拳が固く握りしめられている。

当のリムルが記憶を失って装置の中の仮想世界にいるというのに、その帰還を一切疑わない曇りなき意見であった。

 

「その通りです!」

 

シオンが、胸を張りながらベニマルに続く。

 

「当時のリムル様に今のようなお力があったら、必ず私たちをもっと良い形で救ってくださったに違いありません! やはりリムル様は素晴らしいお方です!!」

 

そんなシオンの様子を見つつベニマルが苦笑しながら突っ込みを入れる。

 

「おいおい、会議の時はあんなにリムル様が行くのを嫌がっていたじゃないか。しかも、リムル様は記憶を失ってしまわれたんだぞ。それなのに、今は随分と調子がいいな」

 

「当然です! リムル様は必ず帰ってこられるとおっしゃいました! リムル様は一度なさった約束を破ることなどありませんでした! それならば、記憶くらい失っても必ず帰ってきてくれるはずです! 私はそれを信じるまでです!」

 

シオンは一切の曇りのない様子で答える。

その様子に、周囲の者たちは久しぶりに自分たちの胸中が晴れやかになる感覚を得ていた。

 

その横で、ゲルドが深く頭を垂れていた。

かつての王を再び屠る。

向こうの世界では、それで自分達が蹂躙した者たちが戻るのだという。

一人も死なせずに戦を終える。自分たちにはなし得なかったことだった。その重みが、ゲルドの肩にのしかかっていた

しかし――。

 

「……リムル様がそうお決めになったのなら、我々がやるべき事はただ一つ」

 

顔を上げたゲルドの声には、迷いがなかった。

 

「オレたちが考えることは、何もない。ただ、その雄姿を見届けるだけだ」

 

その一言が、場の重さを断ち切った。

 

「そうだな。……だが、それだけじゃない」

 

それに対してベニマルが続ける。

 

「今のあの方は、なぜ自分が過去にいるのかすら分かっていないはずだ。……それなのに、手が空いた途端にあの焼け跡へ向かわれた」

 

握りしめていた拳から、ゆっくりと力が抜けていった。

記憶を失い、外との連絡を断たれ、敵は理不尽に強化されている。自分の身を案じるだけで手一杯のはずだった。

それでもリムルは、あの場所へ行ったのだ。

 

「……記憶がなかろうと、リムル様はリムル様ということだな」

 

「ええ。何一つ、変わってはおられません」

 

シュナが兄を見上げ、静かに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 

その後の記録は、外側にとって長い時間となった。

 

投影盤の中では、ジュラの大森林の勢力が一つに束ねられ、オークロード討伐の作戦が組み上げられていく。二十万の敵を前にしながら、未来のリムルが立てた方針は、誰も殺さないというものだった。

 

「我々の軍勢を、生かしたまま止める……か」

 

その方針が語られた時、最初に声を漏らしたのはゲルドだった。

 

彼の知る歴史では、そうはならなかった。オークたちは戦い、多くが死に、生き残った者が罪を背負って新たな道を歩んだ。それが当然のことだと思っていた。

 

「クフフフ……リムル様の力をもってすれば、全ての者を救済するなど容易い事でしょう」

 

ディアブロが恍惚とした笑みを浮かべ、投影盤を見上げた。

 

「私はその御業を、このような特等席で見られることに幸運を感じていますよ」

 

その口ぶりには、微塵の憂いもなかった。

主は記憶を失い、外との連絡は絶たれ、敵は理不尽に強化されている。

それでもディアブロは、リムルが戻らぬ可能性など端から考えていないのだ。

 

やがて、投影盤の中で作戦の全容が語られていく。

 

リザードマンの首領の息子…当時のガビルをあえて反乱に走らせ、絶体絶命に陥ったところを助け出す。ソウエイの分身が戦場に張り付いて死者を一人も出さず、オークもまた殺さずに助ける。緻密に組まれたその作戦を実行するのは、過去のリムルと、当時の仲間たちであった。

 

「……おや」

 

ディアブロの笑みが、僅かに曇った。

 

「これでは、リムル様の御活躍はあまり見られそうにありませんね。……いささか残念です」

 

「確かに残念ではあるけれど、それで済ませていいのかしら。ディアブロ」

 

静かに口を挟んだのは、テスタロッサだった。

 

「過去のリムル様に経験を積ませたいというお考えは分かるわ。でも、この状況であれほど消極的な立ち回りを選ばれるものかしら」

 

室内の空気が、僅かに止まる。

 

「敵は本来の歴史を超えて強化されているのよ。それを承知の上で、あくまで支援に徹しておられる。……少し慎重に過ぎるように見えるわね」

 

「……なるほど。貴女の言う通り、たしかに少し違和感がありますね」

 

ディアブロは顎に手を当て、数秒黙り込んだ。

 

言われてみれば、確かに引っかかる。

だが、リムル様の判断には常に理由があるものだ。今この段階で断じるには材料が足りない。

 

「……いえ、リムル様のなさることです。何かお考えがあるのでしょう」

 

そう結論づけたものの、その声からは先ほどまでの浮ついた調子が消えていた。

 

「…魔王たちの目を気にしてるって話だったよね」

 

カレラが壁から背を離し、投影盤を顎で示した。

 

「だったら、この前の転移はどう説明するんだい。あれだけの人数を一度に運んでおいて、今さら隠すも何もないだろう。……なんというか、いつもの我が君らしくはないと思うよ」

 

「ボクもそう思う」

 

ウルティマが小首を傾げる。

 

「けど、もしかすると、それだけ昔のリムル様自身を信じているのかもね」

 

幹部たちの間にも、思案の色が広がっていく。

 

ゲルドもまた、腕を組んだまま投影盤を見上げていた。

犠牲を出さぬというなら、なおのこと確実な手を取るべきではないのか。

当時のリムル様に任せるのではなく、御自身が前に出られた方が、失われる命は少なくて済むはずだ。

 

そう考えはしたが、口には出さなかった。

自分たちがかつて奪った命を、あの方は一つも奪うまいとしている。それだけで十分だった。

 

装置の傍では、ヴェルドラが腕を組んだまま黙り込んでいる。

カリスがヴェルドラの横顔を窺ったが、ヴェルドラは何も言わなかった。ただ、その眉間には深い皺が刻まれている。

 

そんな中で声を上げた者がいた。

 

「……私、一つ気になっていることがあるのです」

 

不意にそう切り出したのは、シオンだった。

 

「過去のリムル様のことです。もう一人の御自身をお作りになるというお話は事前に伺っていましたが、私は正直、良い気がしておりませんでした」

 

投影盤を見上げたまま、彼女は眉を寄せる。

 

「たとえリムル様がお作りになったものであろうと、仮想の世界の住人が私たちのリムル様を模しているのですよ。不敬ではありませんか」

 

だが、そこまで言ってシオンは肩をすくめた。

 

「ですが、こうして見ているうちに……なぜでしょう。あの方を放っておけないような気がしてくるのです。リムル様であってリムル様ではない。頭では分かっているのですが」

 

「ほう、同感だね。私も最初はそう思っていたよ」

 

壁に背を預けていたカレラが肩を揺らした。

 

「最初は我が君の顔を借りた別物が動いている感覚だった。正直、気味が悪いとさえ思ったさ。……だが、今はどうだい」

 

彼女は投影盤を顎で示す。

 

「ただ、なんていったらいいんだろうね。リムル様と違って魂が繋がっているわけじゃない。ここに流れる姿を見ているだけのはずなのに、なんだか本当のリムル様のように思えてきてね」

 

その時、装置の傍から低い声が漏れた。

 

「お前たちの言いたいこともわかる」

 

ヴェルドラである。

腕を組んだまま、金色の瞳をゆっくりと細める

 

「我も、自身の体験で過去のリムルという存在と共に過ごした。だが、今思えばアレはハッキリと”作り出された存在”だったと感じておる」

 

「ヴェルドラ様?」

 

「だが、このリムルは我から見てもそういった感覚ではなく、まるで本物の盟友のような存在に感じられるな」

 

そこで、ヴェルドラは口を閉じた。

 

「……興味深いですね」

 

最初に反応したのはディアブロだった。

 

「ヴェルドラ様がそう仰るのであれば、ただの模倣ではないということになります。……リムル様は、我々に説明された以上のことをなさったのかもしれません」

 

「でも、それならどうして事前に言ってくれなかったのかしら」

 

テスタロッサが小首を傾げる。

 

「力を制限されないための備えだと、リムル様はそう仰っていたわ。それ以上のことは何も」

 

「さあね。我が君のお考えなんて、私に分かるわけがないだろう」

 

カレラがあっさりと言い放ち、テスタロッサが小さく息を吐いた。

 

「……結局、分からないことばかりですわね」

 

リムルが自ら前に出ないこと。そして、過去のリムルという存在の核心。

どちらも答えは出ないままであった。

 

「まあ、考えたところでわかりますまい」

 

ハクロウが白髭を撫でる。

 

「ワシらに出来るのは、今のところは見届けることだけですからのう。……そろそろ始まりますぞ」

 

その言葉に、全員の視線が投影盤へ戻った。

投影盤の中では、リムル達が湿地帯に到着したところであった。

そこから先は、当初の計画通りに事が運んだ。ガビルの部隊が窮地に陥り、リムルたちが助けに入る。ソウエイの分身が戦場を駆け、命を落とす者は一人も出なかった。

 

戦況が動いたのは、ゲルミュッドが喰われ、オークロードが豚頭魔王へと変じてからである。

 

「……何だ、あれは」

 

同じ言葉が、かつてあの戦場に立っていた者たちの口から漏れた。

 

自分たちの知るオーク・ディザスターではない。ベニマルたちの猛攻も、空間に残った黒炎や黒雷の残滓すらも喰らい尽くし、その皮膚には赤黒い生体装甲が形成されていく。

当時あの場にいた誰もが、オークロードはあれほどの力を持っていなかったはずだと思っていた。

 

やがて過去のリムルが、仲間たちを下がらせた。

 

あいつは俺がひとりで終わらせる。そう言い切って、単身で豚頭魔王へと向き直る。

 

室内の空気が張り詰めた。

攻撃を加えても即座に復元される肉体。

一撃でも食らえば致命傷になりかねない膂力。それを相手に、当時のリムルが泥濘の上で綱渡りを続けている。

 

やがて、自分たちの記憶と同じように過去のリムルの雰囲気が変わり、戦いの流れも変わった。

黒炎で再生を的確に断ち、巨体を削り取っていく。

 

だが、それでも足りなかった。

斬られた端から触手を伸ばし、落ちた自分の腕すら喰らって再生する。与えた傷そのものを糧として、豚頭魔王はさらに強大になっていく。

 

そして過去のリムルが”敢えて作り出した隙”を見せた、その一瞬。

腐食の妖気が爆発し、巨体が降ってきた。

 

『──っ!』

 

誰かが息を呑んだ。

投影盤の中で、銀髪の少年がドロドロに溶け崩れ、粘液となって四散していく。ガビルが膝をつき、リザードマンの首領が愕然と立ち尽くす。シオンが半狂乱で剛力丸を振り上げ、ベニマルが黒炎を噴き上げて駆け出そうとする。

 

そこへ、一本の白刃が差し出された。

 

『──慌てるな、未熟者めらが。冷静になれ』

 

ハクロウだった。

 

時間同期室の"こちら側"のハクロウが、静かに目を細める。

 

「……懐かしいですのう」

 

粘液は溶けたのではない。豚頭魔王の全身に張り付いて蠢いていた。物理でも魔法でも倒せぬと悟った過去のリムルが、真っ向からの喰らい合いを挑んだのだ。

 

だが、それでも出力の差は覆らなかった。

青銀のスライムが少しずつ黒く変色し、蒸発していく。押し切られる。誰の目にもそう映った、その時。

 

空間がガラスのように砕けた。

死角から飛び出したのは、居合の構えのまま髪をなびかせる一人の魔王である。

未来のリムルが、ただ一撃だけ、そこに介入した。

 

決着の瞬間、投影盤の中でも、そして時間同期室内でも歓声が上がった。

 

「クアーーーッハッハッハ! 見たか、あれこそ我が盟友の一撃よ! 記憶を失っておろうと、あやつの太刀筋は少しも鈍っておらぬわ!」

 

装置の傍らで、ヴェルドラが思わず拳を突き上げていた。

居並ぶ者たちが一斉に振り返る。ヴェルドラはそこで我に返ったように咳払いをし、何事もなかったかのように腕を組み直した。

それでも、その口元は僅かに緩んだままだった。

リムルが装置に沈んでから、ヴェルドラが初めて見せた笑みだった。

 

その様子に、室内のあちこちで小さな笑いが起きる。張り詰めていた空気が、ようやくほどけていった。

 

だが、その輪の中で、ゲルドだけは微動だにせず画面を見上げていた。

仲間達は一人も死んでいない。

飢えに狂わされて果てるはずだった同胞達が、一人残らず生きたまま地に伏している。

 

(……リムル様、ありがとうございます)

 

胸の内で、ゲルドは静かにそう呟いた。

 

あれは自分の同胞ではない。あの世界のオークたちであって、現実の彼らとは何の関わりもない。それは分かっている。それでも、感謝せずにはいられなかった。

 

 

 

 

そして、その時が来た。

 

討ち果たされたオーク・ディザスターの核から、喰らわれた魂たちが解放されていく。

 

リムルが、あらかじめ保護していた残滓と取り戻された魂を、緻密な魔力操作で紡ぎ合わせていき、眩い光の奔流が、投影盤を白く染め上げる。

やがて光が収まった後、湿地帯に広がっていたのは、奇跡としか呼びようのない光景だった。

 

かつてオークの軍勢に蹂躙され、理不尽に命を奪われたはずのオーガの同胞たちが。そして、ベニマルとシュナの両親である族長夫婦が、力強い鼓動と共に次々と目を覚ましていったのだ。

 

『父上……ッ! 母上……!!』

 

投影盤の中では、過去のベニマルが泥濘を蹴って駆け出し、両親にしがみついていた。

オーガの生き残りを率いる者として気丈に振る舞ってきた男が、今はただの息子として顔をくしゃくしゃにして泣いている。

少し離れた場所では、ハクロウがかつての教え子たちに囲まれて男泣きに咽んでいた。シオンは同郷の友人たちと抱き合い、子供のように声を上げて泣きじゃくっている。ソウエイもまた、いつの間にか姿を現し、隠密部隊の仲間たちと、わずかな視線と頷きだけで喜びを分かち合っていた。

室内は、水を打ったような静寂に包まれていた。

 

「父上……母上……」

 

それを見つめる者の中から、不意に声を上げた者がいた。ベニマルである。

 

「こんなことが……」

 

ベニマルはこの装置が、どこか模倣した仮想の物を見せる装置なのだろうと思っていた。

しかし、投影盤の中に映し出されているのは、まごうことなきかつての父の顔、そしてその横には母の姿、それどころか決して忘れるはずのない同胞たちの姿が寸分違わず再現されている。

投影盤の中では、桜色の髪の女性が周囲を慌てて見回していた。娘の姿を探しているのだ。そして愛息にすがるような目を向け、その安否を問うている。

 

『あなたの妹は……あの子は無事なのですか……!』

 

ベニマルの母の声が、室内に響いた。

その問いに、ベニマルの肩が小さく跳ねた。

あの日、里長である父が戦士団を率いてオークの群れを食い止める間に、巫女である妹を連れて里を脱出する。それが、里が自分に課した最後の務めだった。

務めは果たした。だが、それを告げるべき相手は、もうどこにもいなかったのだ。

投影盤の中では、過去のベニマルが涙を拭い、母を安心させるように力強く頷いていた。

 

『ご安心ください、母上。妹……シュナも無事に生きています。俺たちが暮らす新しい村で、大事な留守を預かってくれているのです』

 

ベニマルは、知らず拳を握り締めていた。

あれは、自分が言うはずだった言葉だ。

妹を連れて逃げ延びたと。託されたものは守り抜いたと。そう告げる機会は、里がオークの群れに呑まれたあの日に、永遠に失われたはずだった。

それを今、投影盤の中の自分が、自分と同じ声で母に届けている。

 

『おお……我が娘も無事か。ああ……よかった、本当によかった……っ』

 

安堵のあまり泣き崩れる母と、天を仰いで震える息を吐き出す父。

その姿を、ベニマルは瞬きもせずに見つめていた。

隣で、妹が息を詰める気配がした。

留守を預かっている──その言葉が、シュナの耳にどう届いたのか。ベニマルには痛いほど分かった。

投影盤の中の妹は、安全な村で兄たちの帰りを待っていた。だが、ここにいる妹は違う。兄に手を引かれ、振り返ることも許されないまま、燃える故郷を後にした側なのだ。

 

「……母上は、ずっとあのように」

 

震える声で、シュナがそう漏らす。

胸の前で両手を固く組み、それでも投影盤から目を逸らさずに、彼女は言葉を継いだ。

 

「ずっとあのように、私を案じてくださっていたのですね。あの日、私はお兄様に連れられて、父上と母上を残したまま里を出ました。ですから、母上が最後に何を思っておられたのか、知る術もなかったのです。……こうして見る日が来るなど、思いもしませんでした」

 

「シュナ……」

 

ベニマルが、妹の肩に手を置いた。

慰めの言葉は出てこなかった。妹に向けられるはずの言葉は、そのまま自分にも跳ね返ってくるからだ。

 

「……俺も同じだ。最後に見たのは、父上が黒い鎧のオークに斬り伏せられるところだった。母上がどうなったのかは、俺も知らない。お前を連れて走ることしか、あの時の俺にはできなかったからな」

 

絞り出すような兄の声に、シュナは小さく首を横に振った。

責めるつもりなど、最初からないのだと。

涙は溢れている。だが、彼女は顔を伏せていない。一秒たりとも見逃すまいとするように、母の姿を見つめ続けている。

ベニマルもまた、妹の肩に手を置いたまま、その隣で投影盤を見上げた。二人とも母の最期を知らない者として、ただ並んで。

少し離れた場所では、シオンが唇を強く引き結び、込み上げるものを堪えるように肩を震わせていた。ソウエイは腕を組んだまま微動だにせず投影盤を見据えているが、袖の上から己の腕に指先が深く食い込んでいる。

あの日、生き延びた者は皆、同じ日を背負っている。

その重い沈黙を受け止めるように、ハクロウが静かに口を開いた。

 

「若。……あの日、同胞を残して里を離れたのは、お二人だけではございませんぞ。ワシもまた、あの者たちを置いて逃げ延びた身ですじゃ」

 

ハクロウは白髭に手をやり、投影盤の一角へ目を向けた。

そこでは、過去のハクロウが教え子たちに囲まれ、男泣きに咽んでいる。

 

「見なされ、あそこで泣いておるワシを。……本来ならば、あの者たちに合わせる顔などないはずの剣客です。教え子たちを守れなんだのですからな」

 

ハクロウの目元には、隠しようのない水気が滲んでいる。

 

「あれが装置の見せる別の世界だということは、ワシも承知しております。ここにおるワシが、あの者たちと言葉を交わせるわけではございません。……それでもリムル様は、あちらのワシに、教え子たちと再び会う機会を与えてくださった」

 

ハクロウはそこで一度言葉を切り、投影盤の中の自分へと目を細めた。

泣きじゃくる教え子たちの肩を一人ずつ抱き寄せ、その背を何度も叩いてやっている。自分が決して取り戻せなかった光景だった。

 

「あのように赦されたワシの姿を、こうして見せていただけた。……それだけで、ここにおるワシも、少しばかり己を赦してよいのだと思えるのですじゃ」

 

ハクロウの言葉に、すぐに応じる者はいなかった。

その隣で、クロベエもまた無言のまま深く息を吐いた。鍛冶場で鉄と向き合う時のように、込み上げるものを腹の底へ押し込めているのが、ベニマルには分かった。

沈黙を破ったのは、シオンだった。

 

「……里の皆は、幸運ですね」

 

投影盤を見上げたまま、シオンが言った。目元はまだ赤いが、その声にはどこか誇らしげな響きが混じっている。

 

「目が覚めて、真っ先にリムル様のお顔が見えるのですから。私もそうでした。あの時、何が起きたのかも分からぬまま、ただリムル様が呼んでくださっているのだけは分かったのです。……あれ以上に安心できることなど、この世にありませんよ」

 

シオンは一度死に、主の手によって呼び戻された身である。光の中で目を覚ました者たちが何を思うのか、この場でそれを身をもって知っているのは、彼女ただ一人だった。

置いていった側の痛みを語った兄妹と、戻された側の安らぎを語るシオン。二つの言葉が並んだことで、張り詰めていた室内の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

その時、投影盤の中のリムルが、再会の輪の中心へと歩み寄っていった。

その姿に気づいた父が、はっと目を見開く。

父がその巨体を折り、泥濘に平伏しようとしている。傍らの母もまた、夫に倣って慌てて膝をついた。

 

『我ら一族の命の恩人にして、死の淵から魂を呼び戻してくださった神の如き御方……この御恩、大鬼族一同、未来永劫忘れることは──』

 

ベニマルは息を詰めた。

一族を束ね、誰に対しても膝を折ることのなかった父である。その父が、泥に額をつけようとしている。しかも相手は、自分が生涯をかけて仕えると決めた主なのだ。

 

『ストップ、ストップ。そういう堅苦しい挨拶は抜きで頼む。蘇生については完全に俺の自己満足でやったことだから、恩に着る必要はないさ』

 

リムルが慌てて手を伸ばし、父の肩を掴んで引き起こした。

途方もない奇跡を成し遂げておきながら、あくまで自分がやりたかっただけだと言い張る。いつもの主の調子である。そうやってリムルは、相手に負い目を持たせない言い方を選ぶのだ。

引き起こされた父は、戸惑ったように主を見下ろしていた。やがてその厳つい顔に、ベニマルが幼い頃に何度も見た、不器用な笑みが浮かんだ。

 

「……リムル様」

 

ベニマルが、小さく主の名を呼んだ。

投影盤の中の父は、あの世界の父である。ここにいる自分が礼を述べたところで、届くはずもない。それは分かっていた。

それでも、あの父が主に頭を下げようとし、主がそれを笑って止める光景は、ベニマルが一度も目にすることのできなかったものだった。

ベニマルはシュナの肩をそっと抱き寄せ、目を閉じた。

 

「クフフフフ。実にリムル様らしい。神の如き御業を為しておきながら、礼の一つすら受け取ろうとなさらない。……あの御方に仕えられぬ者たちが、心底哀れに思えてきますねえ」

 

部屋の後方で、ディアブロが笑みを深めた。

 

「まったく、我が君は相変わらずだね。見ていて飽きないよ」

 

カレラが愉快そうに肩を揺らし、腕を組んで投影盤を見上げた。

その瞳には、面白がる色と、それとは別の熱が同時に宿っている。

 

「あんなものを見せられたら、留守を預かる私たちも手は抜けないね。我が君が戻った時に、裁判が滞っていましたなんて報告するのは、さすがに恥ずかしいじゃないか」

 

やがて投影盤の中の場面が、円卓の方へと移った。

そこには、身を縮こまらせたオークの将軍たちが座っている。

ベニマルが視線を巡らせると、部屋の隅で、ゲルドが微動だにせず立っていた。その目は、投影盤から一瞬たりとも逸れていない。

かつてオーガの里を喰らった軍勢の、その生き残りを率いる男である。

自分たちが奪った命が、一つ残らず戻っていく。そして同胞たちもまた、一人として罰されることなく生かされている。そんな結末があり得たのかと、ゲルドの横顔が問うていた。

その問いに答えを出せぬまま、それでもゲルドは、投影盤の中の主へ向けて深く頭を垂れた。

ベニマルは何も言わなかった。里を滅ぼした軍勢の生き残りであり、今は同じ主に仕える仲間でもある。その両方を、ベニマルはとうに受け入れていた。

その時だった。

 

「……リムル様は」

 

ふと、シュナがそう漏らした。

まだ涙の乾かぬ瞳で、彼女は投影盤の片隅に映る母を見つめている。

 

「リムル様は、母上の声を一度も聞いておられないはずです。私たちがリムル様にお会いしたのは、里が滅びた後のことですから」

 

ベニマルは、抱き寄せた妹を見下ろした。

シュナの声には、先ほどまでの涙とは違う、張り詰めたものが混じっていた。

 

「どういうことだ? シュナ」

 

「母上は取り乱すと、ご自分のことより先に、私たちの無事を確かめようとなさる方でした。あの問い方は、私たちの知る母上そのものです。……けれど、そんな母上の癖を、リムル様にお話しした覚えは一度もありません」

 

言いかけて、シュナは口を噤んだ。

自分が何に気づいてしまったのかを、そこで理解したからだ。

ベニマルも、遅れて同じところへ辿り着いた。

先ほど妹を救った、あの問い。母が最後まで娘を案じていたという、何よりの証。だが、あの日の母の心を語れる者など、この世界のどこにもいなかったはずなのだ。

リムルが知らないはずのものが、そこにある。

 

「……仰る通りですな」

 

低く応じたのは、ハクロウだった。

ハクロウは腕を組み、険しい目で投影盤を見据えた。

 

「あの装置がリムル様の記憶をなぞっておるだけならば、あのような光景は生まれますまい。リムル様がご存じないものを、何かが補うておることになる。……では、あそこにおる方々は、一体何なのですかな」

 

誰も答えなかった。

計器に張りついていた技術陣も、幹部たちの顔色が変わったことに気づいて手を止めている。オーガの里がいつ滅び、リムルがいつ彼らと出会ったのか、詳しい経緯までは知らないはずだ。それでも、何か重大なものに触れてしまったことだけは伝わったらしい。

やがて、ベスターが乾いた声で口を開いた。

 

「……我々はあの装置が、世界を丸ごと一つ創り出していると結論づけました。……あの時は、その意味を理解したつもりではおりましたが、こうして実際に目にすると驚愕以外の言葉が出ません…」

 

ベスターは眼鏡の奥の目を見開いたまま、投影盤から視線を外せずにいた。

推論の上では理解していたものが、今、目の前で人の姿をとり、娘の身を案じている。

 

「……つまり、あそこにおる者たちは、リムル様の記憶から写し取られた影などではない、ということなのかもしれませぬ。装置が創り出した世界の中で、あの者たちは本当に生きて、己の心で娘の身を案じておる。ワシにはそう感じられますからな」

 

解析卓に置いた手が、僅かに震えていた。

長年、未知の謎を生き甲斐としてきたガドラでさえ、その考えを口にすることには怯えがあったのだろう。

答えは出なかった。

ただ、この場の誰もが、足元が微かに軋むような感覚を覚えていた。

その傍らで、ヴェルドラだけが何も言わずに装置を見下ろしていた。

カリスが主の横顔を見上げる。

 

「……ヴェルドラ様」

 

「案ずるな。少し思い出しておっただけだ。我も、あの装置の中で幾年も過ごしたのでな。……あの世界の者たちも、あのように己の心で笑い、泣いておったのだろうかと、そう思うてな」

 

カリスは、それ以上何も問わなかった。

ヴェルドラもまた、それきり口を閉ざし、ただ溶液の中で眠る盟友を見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 

オークロードとの戦いが終わった後も、投影盤の中の歴史は、見守る者たちの記憶から少しずつ離れていった。

 

蘇った大鬼族たちは、焼け落ちた里の再建に取りかかった。ハイ・オークたちの手を借りて、新しい家が一軒、また一軒と建っていく。

陣頭指揮のために里へ戻っていく過去のベニマルとシュナの背を、現実の兄妹は黙って目で追っていた。二人の世界には、帰るべき里はもうない。

 

やがて投影盤の中の町を、武装国家ドワルゴンの英雄王ガゼルが視察に訪れ、そのまま魔国連邦の建国宣言と同盟の調印にまで至った。

自分たちの知る歴史より遥かに早い建国に、居合わせた幹部たちの間から、どよめきとも溜息ともつかない声が漏れた。

 

そして、未来のリムルが自ら足を運んだ先で、一人の小さな妖精が仲間に加わった。

 

ラミリスである。

投影盤の中のラミリスは、闘技場の地下に迷宮を築くのだと胸を張り、再会したトレイニーに抱きしめられて、苦しいと手足をばたつかせていた。

その賑やかな姿を、ヴェルドラは装置の傍らから一言も発さずに見つめていた。

 

現実のラミリスは今、医療区画の寝台で目を閉じたまま、一度も目を覚ましていない。あの小さな友を眠りから引き戻す術は、いまだ何一つ見つかっていないのだ。

カリスは、主の組んだ腕にじわりと力がこもるのを、ただ黙って見ていた。

 

暴風大妖渦(カリュブディス)が復活し、本来の倍もの力で投影盤の中のテンペストに襲いかかったのは、それから間もなくのことだった。

 

その激戦をも、投影盤の中の仲間たちは乗り越えてみせた。

 

そして、歴史が激動の変化を迎えている最中も、技術者たちは、次の一手を探って熱を帯びた議論を続けていた。

 

記憶を失ったリムルが、装置の内部で戦い続けている。その事実は重かったが、外側で見守るテンペストの面々が立ち止まる理由にはならなかった。

現在の監視の当番に入っているのは、諜報任務を部下に任せたソウエイと、現場を後進に預けたゲルド、そしてクマラの三名だった。普段はもっと人数が多いのだが、この時間帯だけは手薄になる。もちろん、ヴェルドラとカリスは常にこの場に残っていた。

 

彼らの目の前では、今もなお技術陣の奮闘が続いている。

 

「……今回もダメだったネ」

 

記録を読み返していた超克者が、顔を上げつつ言う。

 

「メッセージ、届いてなかったヨ。リムル様の反応、一切なかったネ」

 

室内に落胆の空気が流れた。

 

だが、超克者はそこで手を止めなかった。眉間に深い皺を寄せたまま、何度も記録をめくり返している。

 

「……ミー、ずっと引っかかってたヨ」

 

「……何かあったか」

 

ソウエイが低く問うた。

 

「あのカリュブディスの魔素量ネ。おかしいのは、最初から分かってたヨ。リムル様もそう言ってたネ。……でも、理由が分からなかったヨ」

 

投影盤の中で作戦会議が開かれた時、リムルははっきりと告げていた。あれは本来の二倍以上の力を持っていると。

 

外側の誰もが、それを聞いていた。オークロードの時と同じだ。歴史が、自分たちの知るものからずれている。

 

だが、なぜそうなるのかは分からなかった。

 

「それで、記録を全部並べてみたネ」

 

超克者の声から、いつもの陽気さが抜け落ちていた。

 

「歴史がずれたところを片っ端から拾って、日付を突き合わせたヨ。……オークロードも、カリュブディスも、ミー達がメッセージを送った日と重なってるネ」

 

「……それは、たまたま重なっただけということもあろう」

 

ガドラが解析卓から身を乗り出した。

 

「もちろんその可能性も考えたネ だから、他も調べたヨ」

 

超克者が記録を掲げる。

 

「ミー達が試した日は、これだけあるネ。そのうち目に見えて何か起きたのは、確かに二度だけヨ。……でも、逆の観点から見るとどうなると思うネ? 異変が出た日は、一度の例外もなく、ミー達が試した日だったヨ」

 

室内の空気が、ピリッと張り詰めた。

迷宮管理者たちが記録を並べ替え、シンジたち三人が日付を読み上げていく。やがて照合を終えたガビルが、顔を強張らせてベスターを振り返った。

 

「……ベスター殿。合っておりますぞ。吾輩たちが干渉を試みた日と、あちらで異変が出た日が、一日たりともずれておりません」

 

「……偶然ではない、と」

 

「何度も重なれば、それはもう偶然とは呼ばないヨ」

 

そこで、超克者は一度言葉を切った。

 

「……それと、ミーが怖いのはここネ。二度っていうのは、影響が出た回数じゃないヨ。ミー達が気付けた回数ネ」

 

彼らはヴェルドラとラミリスが潜った時のデータを参考に、装置が司る法則の一部を解き明かし、メッセージを内部世界へ送る手立てを実践していた。

 

だが、リムルにメッセージが伝わることはなかった。

 

リムルが潜行した装置の内側は、既に彼らの想定とは違うものになっていたのである。

無論、外にいる彼らがそれを知る術はなかった。

送られた情報は、届くべき場所に届かなかった。そして行き場を失った信号は、装置の別の法則へと流れ込み、想定もしていなかった副作用を引き起こしていたのだ。

 

それが、オークロードとカリュブディスの異常な強化であった。

 

「……なるほどな」

 

ゲルドが低く呻いた。

 

「かつての王がオレの記憶を遥かに超える力を得ていたのも……オレたちのやっていたことが、影響を及ぼしていたということか」

 

「……ちょっと待て」

 

カイジンが、ガシガシと頭を掻きむしった。

 

その顔から、血の気が引いている。

 

「そうなると、今回は偶然に大した影響が出なかっただけだ。下手をすりゃ、取り返しのつかねぇ影響が出ててもおかしくなかったってことか……?」

 

誰も、それを否定できなかった。

良かれと思った試みが、逆に主を苦しめていた。それだけでも手痛い失敗である。

だが、本当に恐ろしいのはそこではない。

一歩間違えればリムルに対しても影響を与えてしまっていたかもしれないという事実であった。

 

「では、再び解析を進めて、確実な方法を見つけ出すしかないのではありんせんか?」

 

クマラがそう口にすると、ベスターは重い顔で首を振った。

 

「それが、簡単にはいかんのです」

 

装置の内側がどう変わっているのかを調べ直し、届け先を測り直す。言葉にすれば単純だが、その作業には極めて精密な計測が要る。

 

「時間同期室での時間加速を行っている間は、測定にも装置への干渉にも誤差が生じることが判明しましてな」

 

「……ならば、同期を切るか、部屋の外で作業をするしかないでありんすな」

 

クマラが顔を曇らせた。

時間加速のない環境で作業をするということは、その間、装置内の世界ではこちら側よりも早く、膨大な時間が経過してしまう事を意味していた。

 

「左様です。……ですが、問題はそこではありません」

 

ベスターは、乾いた声で続けた。

 

「次に試行して、また副作用が出たら。……今度はどのような影響が出るのか、我々にも想定できません」

 

室内が静まった。

オークロードとカリュブディス。どちらも、たまたま乗り越えられただけだ。三度目も同じとは限らない。

 

「……やはり、そういうことであったか。外から注ぎ込まれておると感じたのは、我らの手によるものだったのだな。……ならば、答えは出ておろう」

 

装置の傍から、低い声が響いた。

 

腕を組んだまま、ヴェルドラが顔を上げる。

 

「確証がない段階で試すべきではない、という話だ。……確実にリムルへメッセージを届けられるという確証が得られるまでは、実際に試行するのを中止とする」

 

ベスターが、ゆっくりと息を吐いた。

その顔からは、張り詰めていたものが少しだけ抜けている。

 

「……承知いたしました」

 

深く頭を下げてから、彼は技術陣を振り返った。

 

「……干渉を停止してください。記録は全て残すように」

 

眼鏡を押し上げるその手は、もう震えていなかった。

 

「解析は続けます。……確実だと言えるようになるまで、何度でもやり直しましょう」

 

誰も、それに異を唱えなかった。

落胆はある。だが、立ち止まる者は一人もいなかった。

 

技術陣が記録の洗い直しに戻り、室内には再び計器の立てる音だけが満ちていく。

その中で、ソウエイだけが投影盤から視線を外していなかった。

やがて彼は、装置の傍らのヴェルドラへと向き直った。

 

「ヴェルドラ様。一つ、気が付いたことが御座います」

 

「何だ」

 

「これまでのリムル様の采配を見てまいりましたが、力をお使いになる時と、お使いにならない時の線引きが、どうにも腑に落ちないのです」

 

ソウエイの声には、何の感情も乗っていなかった。

 

「それは、オークロードとの戦いの前に、リムル様ご自身がおっしゃっていたではありんせんか。魔王たちがどこかで戦場を見張っているかもしれぬから、表立って力をお見せになるわけにはいかないと」

 

クマラが首を傾げる。ソウエイは投影盤から目を離さないまま、短く応じた。

 

「ああ。その理由には筋が通っている。だが、それならば、全軍を一瞬で湿地帯へ運んだ転移も、オークロードを断った最後の一撃も、魔王の目に留まりかねない力のはずだ。その一方で、過去のリムル様が溶かされかけるまで、リムル様は一度も手を出されなかった。……魔王の監視という理由だけでは、この行動の矛盾の説明がつかない」

 

そこまで言って、ソウエイはヴェルドラへ視線を戻した。

 

「御判断の是非を申し上げるつもりは御座いません。ただ、どうにも引っかかりましたので」

 

隠密として、長く主の傍らでその動きを見続けてきたソウエイだからこそ拾えた、小さな揺らぎだった。

その言葉に、ヴェルドラは僅かに目を見開いた。

 

力を使う時と使わない時の線引きが、リムル自身の語った理由では説明がつかない。

それは、ヴェルドラ自身が抱いていた違和感とも重なっていた。

記憶を失っていようと、リムルであれば、もっと自らの力で道を切り開くはずなのだ。

何かが、リムルの手を止めている。

それが、真実を告げられずにいるシエルと関わりのあることなのか。それとも、シエルを黙らせている何かが、リムルの判断にまで手を伸ばしているのか。

ヴェルドラには、その見分けがつかなかった。

 

(……リムルよ。貴様に影響を及ぼしているのは、何なのだ)

 

確かめる術はない。

ただ一つ確かなのは、あの世界の内側で、自分たちの目には見えない何かが起き続けているということだった。ならば、なおさら闇雲に手を伸ばすわけにはいかない。

確実にリムルに言葉を伝えられるようになるまでは。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

それからも、投影盤の中の時は、外の者たちの前で流れ続けた。

 

カリュブディスとの戦いの最中、未来のリムルは、遠方から戦場を窺っていた一人の魔人を、空間ごと手元へ引き寄せていた。魔王クレイマンの配下、ミュウランである。

 

リムルは、クレイマンに握られていた彼女の心臓の呪縛を解いた。そのうえで、偽りの報告をクレイマンへ届ける二重の間者として、彼女を送り返したのだ。

 

その光景を、シオンは目を細めて見つめていた。

彼女の知る歴史では、ミュウランがリムルの手で呪縛から解かれたのは、町が結界に閉ざされ、多くの血が流れた後のことだった。

 

今ではヨウムの妻として、同盟国であるファルメナスの王妃としてテンペストとの関わりも深い人物である。

その彼女が、この世界ではテンペストの襲撃に加担したという重責を背負わずに済んだという事実に、隣のベニマルもまた、腕を組んだまま、どこか安堵したように長い息を吐いた。

 

地下迷宮の奥では、未来のリムルが幾重もの結界を張った一室に籠もり、掌ほどの円形の魔導具を黙々と組み上げていた。

 

災厄の核塊(カラミティ・コア)

 

平和になった世界で、リムルが密かに作り上げていた変身の兵装である。

その意匠を目にした途端、カイジンとベスターが揃って身を乗り出した。自分たちも仕組みを聞かされていた代物が、未完成のまま、過去の世界で仕上げられようとしているのだ。

 

その傍らで、ヴェルドラの口元が一瞬だけ緩んだ。

あの兵装には、ヴェルドラ自身も、決めの構えを考えてやると言っては散々口を挟んだ。

ラミリスに至っては、勝手に優勝賞品の話まで始めていたものだ。

 

だが、緩んだ口元はすぐに引き締まった。

装置へ沈む直前、リムルはヴェルドラにだけ、この兵装を見せていた。

持ち込んだ品が向こうでも認識され、使えるのかを確かめる。装置の原理を解き明かす手がかりになるかもしれない、と。

 

その現物は、今も溶液の中で眠るリムルの内に収められたままだ。それなのに投影盤の中では、同じ物が確かに形を持ち、リムルの手で組み上げられている。

リムルの仕掛けた策は、成功していたのだ。

 

「ベスターよ。一つ、話しておくことがある」

 

装置の傍から、ヴェルドラが顔を上げた。

 

「あの装置へ入る前、リムルは我にだけあの品を見せておった。持ち込んだものが向こうでも使えるかどうかを確かめる、と言ってな。装置の仕掛けを解く手がかりになるやもしれぬ、とも言っておったわ」

 

「……では、あちらで組み上げられているあれは」

 

ベスターが急いで記録を取り始める。

装置は、接続した者の記憶だけでなく、その身に携えた品までも読み取り、内側の世界へ写し取っている。

干渉の手立てを失ったばかりの技術陣にとって、それは原理の解明へつながる、小さいが確かな手がかりだった。

 

投影盤の中の舞台は、やがて人間の国へと移った。

過去のリムルはイングラシアで、シズの教え子たちと出会った。そして自由組合の総帥ユウキ・カグラザカと、密かに手を結んだ。中庸道化連との同盟である。

 

自分たちの知る歴史で幾度も刃を交えてきた者たちとの握手に、居合わせたディアブロは目を細め、テスタロッサは静かに眉をひそめた。

そして、投影盤の中の暦は、ある一日へと近づいていった。

 

ファルムス王国の軍勢が、テンペストへ攻め寄せる日。彼らの知る歴史では、町が結界に閉ざされ、シオンやゴブゾウをはじめとする多くの仲間が命を落とした日である。

 

その日が迫るにつれ、時間同期室には、当番の顔ぶれに関わりなく人が集まり始めた。

ベニマルとシオンが。ディアブロとカレラが。そしてランガが。誰に呼ばれるでもなく、投影盤の前に並んでいく。当番のソウエイやゲルド、技術陣のカイジンやベスターもまた、いつしか手を止めていた。

 

投影盤の中では、未来のリムルが町の各所に仲間を配し、侵入してくる異世界人たちを待ち構えていた。




この章の公開に合わせて、第二章の「観測室」の記載を「時間同期室」に修正しました。
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