【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~   作:Hyades

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第六章 虚神の魔手と深淵の死闘

投影盤の中では、物語が大きなうねりを迎えようとしていた。

 

時は進み、ついに運命の分岐点──ファルムス王国による理不尽な侵攻のときへと差し掛かっていたのだ。

 

彼らの知る歴史では、この日、町は結界に閉ざされた。

シオンも、ゴブゾウも、多くの仲間たちが倒れた。

リムルの手によって、彼らはこの世へ引き戻された。だが、あの日、確かに一度は死んだのである。

 

しかし、あの日とは決定的に違う点がある。この世界には『未来のリムル』がいるのだ。

あの日がどう変わるのか。それを見届けようと、時間同期室には当番の顔ぶれに関わりなく人が集まっていた。誰に呼ばれたわけでもない。それぞれが手を止め、持ち場を離れ、気がつけば投影盤の前に並んでいたのである。

 

そして、いよいよその瞬間が近づいた時、同期室の扉が開いた。

 

「よお。何か進展はあったか」

 

入ってきたのはギィだった。その後ろから、ヴェルザードが続いた。

室内の空気が、一段階だけ張り詰めた。魔王の中の魔王と、竜種の長姉。この二人が並んで立つだけで、部屋の空気が変わったように感じられる。

 

「ギィ様。ラミリス様は……」

 

ベスターが恐る恐る問いかけた。

 

「変わらねえよ。寝たままだ。ミリムが付きっきりだし、トレイニーとベレッタにも任せてきた。ミザリーとレインも付けてある。オレたちも手は尽くしてるんだが、なんともな」

 

ギィが肩をすくめる。

 

「……そうですか」

 

「ところでよ。一日くらい経つが、誰もこっちの様子を報告に来ねえんだよ。だから見に来たんだが、どうなってんだ」

 

室内を見渡したギィの言葉に、居並ぶ者たちが顔を見合わせた。

 

「……申し訳ありません。こちらでも問題が起こっておりまして、その対応に追われる形で、連絡が遅くなってしまいました」

 

進み出たのはベニマルだった。

 

「ほう。問題が起こった、ときたか。……それで、リムルに何かあったのか」

 

ギィの目が細くなる。

 

「それが……」

 

ベニマルが言い淀み、それから覚悟を決めたように顔を上げた。

潜行の直後に一度だけ鳴った警告音のこと。投影盤に現れたリムルが、作戦を無視して過去の自分の前に姿を見せたこと。ヴェルドラの思念に一切応じないこと。そして投影盤の中の歴史が、自分たちの知るものから少しずつ離れていったこと。

 

「──リムル様は、装置に関する記憶を失っておられます」

 

「記憶だと? リムルのヤツですら、記憶を失ったっていうのか!?」

 

ギィの声が跳ね上がった。

 

「はい。我々にもどうしようもなく……現在、装置の内側へメッセージを送る方法を検討しておりますが、そちらもなかなか進展がありません」

 

ベニマルが拳を握る。

 

「ベニマルの言う通りだ、ギィよ。我の混沌之王(ナイアルラトホテップ)の権能を使ってもこのざまよ。……肝心な時に盟友の力になれんとはな」

 

装置の傍から割って入ったのは、ヴェルドラだった。腕を組んだまま、視線だけをギィへ向けている。

ギィが口を開きかけ、そのまま閉じた。

 

「……なるほどな。つまり、お前やラミリスの時と同じことになっちまったわけか」

 

「うむ……」

 

「リムルのヤツですら記憶を奪われるってんなら、オレが行っても同じことになってた可能性が高いな。忌々しい機械だぜ」

 

「ヴェルドラちゃん、大丈夫? 全然元気がないみたいだけれど」

 

悪態をつくギィの横から声をかけたのは、ヴェルザードである。

 

「な、何を申されるか、姉上。我はいつも通りではないか」

 

「ヴェルドラちゃんの嘘は分かりやすいのよ。ラミリスちゃんとリムルのこと、自分のせいだと思っているんでしょう」

 

ヴェルザードが小さく息を吐く。

 

「そ、それは……」

 

ヴェルドラが言葉に詰まった。

姉に逆らえる弟など、この世にはいない。長きにわたって成立してきた力関係が、この場でも容赦なく働いていた。

 

「あのリムルなら、必ず戻ってくるわよ。それにヴェルガイアちゃんの上に、ヴェルドラちゃんまでそんな悲しい顔をしていたら、私まで悲しくなってしまうじゃないの」

 

ヴェルドラは、しばらく黙っていた。

やがて、組んでいた腕をほどく。

 

「……たしかに、我らしくなかったかもしれん。盟友のことを一番信じてやれるのは我だけだというのに」

 

「そうよ。ヴェルドラちゃんの力が必要な時は、必ず来るわ。その時にそんな様子では、リムルを助けられなくてよ」

 

「うむ。……姉上の言う通りですな!」

 

ヴェルドラが大きく頷き、金色の瞳に力が戻った。

 

「あっはは。相変わらず、姉には頭が上がらねえんだな。……まあいい。オレたちの目で見れば、何か糸口が見つかるかもしれねえ。しばらくこの部屋で、リムルの動きを観察させてもらうぜ」

 

その様子を横目で見ていたギィが愉快そうに笑い、装置へ歩み寄った。溶液の中で眠るリムルを一瞥してから、そのまま投影盤の見える位置まで下がる。

ヴェルザードが、その隣に並んだ。

装置と投影盤の両方が見渡せる、部屋の端であった。

 

そんな折、投影盤の中では、町の外れに人が並んでいた。

未来のリムルを先頭に、その背後にベニマル、シオン、ハクロウ。少し離れてヨウムとミュウランが立ち、ゴブタが緊張した面持ちで短刀を握っている。

住民の避難は、すでに終わっていた。

 

「……妙だな」

 

沈黙を破ったのは、ベニマルだった。腕を組んだまま、投影盤を睨んでいる。

 

「リムル様は、あの連中が四方に陣を敷き始めた時から気づいておられた。位置も数も、とうに掴んでおられるはずだ。今のリムル様なら、四つまとめて潰すのに一瞬もかからんだろう」

 

その言葉に、投影盤の前の空気が動いた。

誰もが同じことを考えていたのだ。

 

「おいおい。放っておく理由があんのかよ、それ。位置が割れてる敵を、わざわざ仕事させてやるのが分かんねえよ。あれ、中にいる魔物から力を奪うんだろ。……張られて困るのは、リムルさんたちの方じゃねえか?」

 

ディーノが首を傾げつつ投影盤を見上げた。

 

「ディーノ。あなたは分かっておられませんね。私も引っかかってはいます。ですが、あの程度の結界がリムル様に通じるとお思いですか。壊そうと思えば、いつでも壊せるのです。放っておいても構わないということですよ」

 

シオンが胸を張り、ディーノを振り返る。

 

「……そういうもんかねえ」

 

ディーノが頭を掻いた。

 

「たしかにその意見もわかるが……あの用心深いリムルが、いくら脅威にならないとはいえ敵に策を使わせてやるようなマネをするとは思えねえんだがな」

 

短く遮ったのは、ギィだった。部屋の端で腕を組んだまま、目だけを投影盤へ向けている。

シオンが言葉に詰まった。

 

「潰しておけば済む話だ。やらねえ理由が、オレには見当たらねえな」

 

答える者はいなかった。

リムルは「相手の出方を見る」と言っていた。仲間に任せられるとも言っていた。だが、結界が閉じれば、その仲間たちの力が削がれるのだ。理由にはなっていない。

 

「……まあ、我が君のお考えだからね。あの方が放っておくと決めたなら、そこには理由があるんだろうさ。私の考えが及ばないというだけでね」

 

壁に背を預けたまま、カレラが肩を揺らした。

 

ヴェルドラは何も言わず、投影盤を見上げていた。

やがて、街道の土煙の先から三人の男女が現れた。

下品な笑い声を上げながら歩いてくる異世界人たち。

 

「……あの顔は、忘れようにも忘れられません」

 

投影盤を見据えたまま、シオンが低く漏らした。

その声に、ベニマルが一瞬だけ横目を向ける。だが、何も言わなかった。

シオンもそれきり口を閉ざし、唇を固く引き結んでいる。

 

投影盤の中では、未来のリムルが一歩進み出ていた。

 

『ファルムス王国の先遣隊だな。何の用だ』

 

言葉が交わされ、少女が甲高い声で嘲笑い、そして次の瞬間、その顔から表情が抜け落ちた。

何度口を開いても、スキルによる力が出てこない様子だった。

使う前にリムルによって封じられたのだ。

だが、その狼狽が収まらぬうちに、投影盤の中で次の出来事が起きた。

 

町を囲むように、一つの秘術が発動したのである。

 

四方印封魔結界(プリズンフィールド)。魔素を断ち、内側の魔物から力を奪う檻だった。

投影盤の中で、シオンの動きが目に見えて重くなる。ベニマルは、得意の黒炎を呼び出すことすらできずにいた。

 

『……なるほど。事前の想定通りの展開だな』

 

投影盤の中のリムルは、顔色一つ変えずに結界を見上げていた。

その落ち着いた声に、室内の空気が僅かに緩む。

この程度の結界なら、展開された瞬間に構造を読み切り、逆に利用してみせる。

そう言わんばかりの態度だった。

 

誰もが、その瞬間を待っていた。

あの日、この町は結界に閉ざされ、仲間たちは力を削がれ、多くの者が命を落とした。同じ日が、今度は違った歴史に書き換えられる。それを見届けるために、彼らはここに集まったのだ。

シオンは投影盤を見上げたまま、胸の前で両手を握り合わせていた。

 

リムルが、結界へ向けて手をかざす。

その手が、止まった。

 

『──っ!』

 

リムルの顔が歪んだ。

喉から絞り出されたのは、声にならない呻きだった。手にしていた希望(エルピス)が、石畳の上へ音を立てて落ちる。

リムルは膝をつき、両手を地面についた。

 

「リムル様ッ!」

 

シオンの悲鳴が室内を貫いた。

次の瞬間、耳を裂くような音が、室内に鳴り響いた。

 

『ピーッ! ピーッ! ピーッ! ピーッ!』

 

潜行の直後に一度だけ鳴った警告音とは、比べ物にならない。非常事態を告げる絶叫のような連打だった。

 

「ぬ……ぬぬッ!? 何だ、何が起きたのだ!?」

 

ヴェルドラが身を乗り出し、驚愕の表情を浮かべた。

その隣でディアブロの全身から覇気が膨れ上がり、室内の空気が軋む。

 

「魂の波形が乱れております! こんな値は、記録のどこにもありません!」

 

計器に飛びついたベスターの声が裏返る。

 

「おいおいおいおい! リムルのヤロウが倒れちまったぞ! 一体どうなってやがる!?」

 

壁際から身を乗り出したギィが、声を張り上げた。

 

「何が起きているのかまでは……申し訳ありません、不明です!」

 

ベスターが慌てた様子で報告をする横で、ディーノが思わずつぶやく。

 

「あのリムルさんが……一体どういうことなんだよ!?」

 

ヴェルドラが溶液を覗き込んだ。

ディアブロとカレラも、両側から装置の縁に手をかける。

澄んだ液体の中で、リムルは変わらず眠っていた。銀色の髪が静かに揺れ、表情は穏やかなままだ。苦悶の色も、身じろぎ一つない。

その下には、いつの間にか靄が沈んでいる。

底は、見えない。

 

「どういうことだ……何も起きておらんぞ!」

 

ヴェルドラが呻いた。

答えの出ないまま、投影盤の中のリムルは膝をついたままだった。

その体から、ふわりと陽炎のように、光の粒子が立ち上り始める。

魔素ではない。見たこともない何かが、リムルの輪郭を溶かして剥がそうとしているように見えた。

膝をつくリムルの正面では、何もないはずの空間が、かすかに歪んでいた。だが、立ち上る光の粒子に目を奪われ、それに気づいた者は一人もいなかった。

 

「これは……あの結界のせいなどではないな」

 

ヴェルドラが声を絞り出した。金色の瞳が見開かれている。

部屋の端で、ギィが投影盤を睨み直していた。

 

「……あいつはああ見えて、大抵のことは織り込み済みで動くヤツだ。それがこんな事態に見舞われてるってことは、本当にやべぇ状況かもしれねえな」

 

投影盤の中では、ショウゴが下品な笑い声を上げていた。

啖呵を切っておきながら結界一つで潰れたのだと、リムルの苦しむ姿を嘲っている。キョウヤが剣を抜き、キララが甲高い声を上げた。

シオンが剛力丸を構えて飛び出し、ヨウムが大剣を振り被る。ハクロウとベニマルが、倒れた主を背に庇って構えた。

 

「……おい、あれはまずいんじゃねえか。あいつらは結界で力を削がれてる。リムルは膝をついたまま動かねえし、あのままじゃ押し切られるぞ」

 

呟いたのは、壁際のギィだった。

室内の空気が変わった。

得体の知れない現象ばかりに気を取られていたが、投影盤の中で起きていることはもっと単純だった。リムルが動けない。仲間は弱っている。状況は異世界人側に有利であった。

 

「あの忌々しい者たちが、リムル様に手を出すようなことがあれば……!」

 

シオンの声が掠れた。

投影盤の中の戦況は、じりじりと傾いていった。

結界に力を削がれた体では、まともに打ち合うこともできない。

ショウゴの蹴りを脇腹に受けたヨウムが吹き飛び、地面を転がる。キョウヤと切り結ぶハクロウの体には、細かな切り傷が増えていく。

投影盤の中のベニマルはその場から一歩も動けず、リムルを害しようとする攻撃を弾くだけで手一杯だった。

 

「落ち着け、シオン。お前が投影盤に噛みついたところで、あちらの戦いは変わらん」

 

その肩を掴んで引き戻したのは、ベニマルだった。

だが、その声にも余裕はない。

 

投影盤の中で、キョウヤがハクロウへ最後の一撃を放とうと踏み込んだ。

そこへ、シオンが剛力丸を振り被って斬りかかる。だが、度重なる激突で限界に近い一撃は、紙一重で躱された。

その横腹を、突っ込んできたショウゴの腕が薙ぎ払う。

シオンが血を吐きながら吹き飛び、地面に激しく叩きつけられた。

それを庇おうと飛び出した小柄な体もまた、余波を受けて宙を舞う。

ゴブタだった。

放物線を描いて地面を転がり、倒れ伏すリムルのすぐ目の前で止まる。

その時、リムルの指先が僅かに動いた。

乾いた音を立てて、小さなものが地面に転がる。

 

「──おい、あれを見ろ、ベスター! あの意匠に見覚えがあるだろう! 俺たちが仕組みを聞かされた、あの兵装じゃねえか!?」

 

投影盤へ駆け寄ったのは、カイジンである。

 

「間違いありません。災厄の核塊(カラミティ・コア)です! しかし、なぜゴブタ殿の前に転がっているのでしょうか」

 

ベスターが眼鏡を押し上げ、身を乗り出した。

 

「……自分、あんなものを受け取った場面は見なかったっすよ」

 

投影盤の前で、ゴブタがぽかんと口を開けている。

自分が転がされ、自分が何かを拾い上げている。いつの間に渡されたものなのか、見ていたはずのゴブタにも分からなかった。

 

投影盤の中では、ショウゴが血まみれのシオンを見下ろし、拳を振り上げていた。

それを見上げる現実のシオンの脳裏に、自分が死んだ日のことがはっきりと蘇っていた。

投影盤に映る自分は、絶望の表情を浮かべている。あの時と同じだ。リムルのために何もできないまま、死のうとしている。

その姿が、今の自分と重なった。究極能力(アルティメットスキル)を得るまでに至ったこの身でさえ、装置の中のリムルを救う術がない。

 

「私は……肝心な時に……リムル様のお傍には……」

 

シオンは、あちらの自分が命を奪われるという現実を、受け止めようとしていた。

 

その時――。

 

『シオンさんに、手を出すなァァァッ!』

 

緑色の影が、二人の間へ割って入った。

それと同時に振り下ろされた拳を、突き出した右腕が受け止める。

青銀と黒銀に輝く、見たこともない装甲だった。

あの兵装のことを聞かされていた者も、知らなかった者も、一様に目を見開いていた。

 

 

『───『憑依装着(へんしん)』ッ』

 

ゴブタがそう叫ぶと同時に、光が投影盤を白く染めた。

光が収まった後、そこに立っていたのは、頼りないホブゴブリンではなかった。

全身を流線型の装甲に包み、額から二本の角を伸ばし、胸に三匹の竜の紋章を輝かせた異形である。

装甲の隙間から、白い蒸気のようなものが噴き出していた。

ショウゴが拳を振り上げて突っ込む。

その巨体が、手の一振りで羽毛のように吹き飛んだ。

 

室内から、詰めていた息が一斉に漏れた。

 

「なんという……! ゴブタ殿が、リムル様とシオン殿を守りましたぞ!!」

 

記録板を抱えたまま、ガビルが天を仰いだ。

 

「仕組みは伺っておりましたが……実際に動いているところを見るのは、これが初めてです。あれほどの力を、ゴブタ殿の身で引き出すとは……」

 

ベスターは眼鏡の奥で目を見開いたまま、投影盤から視線を外せずにいた。

 

「……え。……えぇ? 自分、あんなことできないっすよ。あれ、本当に自分っすか」

 

安堵に緩んだ室内で、現実のゴブタだけが立ち尽くしていた。

自分の両手を見下ろし、また投影盤へ目を戻す。

 

「……流石はゴブタですね。四天王の一角として、恥ずかしくない働きです」

 

強張っていた肩から力を抜き、シオンがゴブタを振り返った。その声は、まだ少し震えている。

 

「い、いや、シオンさん。あれは自分じゃないっすから。自分、あんな力は持ってないっす。それに、そもそも戦ってないっすよ。褒められても困るっすよ」

 

ゴブタが慌てて手を振る。

 

「謙遜するな。帝国との戦で、あれほどの活躍をしただろう」

 

腕を組んだまま短く返したのは、ベニマルである。投影盤から目を離してはいない。

ゴブタは口を閉じた。

何と返せばいいのか分からず、ただ鼻の頭を掻いている。

 

「ゴブタよ」

 

足元で喉の奥を鳴らしたのは、ランガだった。

 

「な、なんすかランガさん」

 

「共に積み上げてきたものを、我は忘れておらん。……もう少し、己を信じるがいい」

 

こうして、投影盤の中の危機は去ったかに思えた。

 

「……ですが、リムル様はまだ立ち上がれずにおられます」

 

投影盤へ目を走らせたディアブロが、緊張感を伴った声で呟いた。

その視線の先では、ゴブタが敵を追い散らしている。

だが、その背後で膝をついたリムルの体からは、今も光の粒子が立ち上り続けていた。

計器の警告音も、鳴り止んではいない。

その時、リムルの正面の空間が、目に見えて大きく歪んだ。

 

「……ん? なんだ、あれ。リムルさんの前に、何かうっすら浮かんできてねえか」

 

目を凝らしたディーノが、訝しげに呟いた。

揺らぎは瞬く間に濃くなり、色を帯び、一つの人影を結ぶ。

地面に手をつくリムルの前にしゃがみ込み、その顔を至近距離から覗き込んでいる。

銀色の髪に、中性的な顔立ち。リムルと、寸分違わぬ姿だった。

ただ、その目だけが違う。白目ごと漆黒に染まった暗闇の中に、赤く発光する瞳孔が三つ、浮かんでいた。

リムルが膝をついたあの時から、それはずっと、主の目の前にいたのだ。

 

「な、何だ、あれは……!?」

 

ベニマルの声が、室内の空気を引き裂いた。

それを合図に、動揺が一斉に広がる。

 

「リムル様と、同じお顔……!?」

 

シオンが息を呑んだ。

 

「おい、なんだありゃ! リムルと同じツラしてやがるが、中身がまるで別モンじゃねえか!」

 

シオンの言葉を受け、ギィも思わず身を乗り出す。

 

「あんな目をした者は、私も一度も見たことがないわ」

 

ヴェルザードの声から、いつもの柔らかさが消えていた。

 

ランガが全身の毛を逆立て、喉の奥で低く唸る。

投影盤の中の誰一人として、その人影に目を向けてはいない。ゴブタも、ベニマルも、倒れた主のすぐ傍にいながら、気づいた様子すらなかった。

その時、投影盤の像がぐにゃりと歪んだ。

人影を中心に、映像が波打つように乱れていく。色が滲み、輪郭が崩れ、音声が耳障りな雑音に変わった。

 

「投影が……! ベスター殿、映像が保てませんぞ!」

 

ガビルが計器へ飛びついた。

 

「出力が安定しません! 装置の側から、何かが──」

 

ベスターの声を待たずに、投影盤は光を失った。

室内が、薄暗がりに沈む。

警告音だけが鳴り続ける中、ヴェルドラは反射的に装置へ目を向けた。

しかし、そこにあったのは驚くべき光景だった。

 

「なっ……!? リムルがおらん!」

 

装置の傍で、ヴェルドラが弾かれたように溶液へ目を落としていた。

 

「なんだって!?」

 

カレラが叫び、ディアブロと共に水槽へ目をやる。

先ほどまで手を伸ばせば届く場所で眠っていた主の姿が、どこにもない。

代わりに、底を覆い隠していた靄が、跡形もなく晴れていた。

 

三人の視線が、同時に水槽の奥を捉える。

遥か下。ケーブルの伸びる先に、沈んでいくリムルの姿があった。

そしてその傍らに、同じ姿をしたものが浮かんでいる。

それが、こちらを見上げた。

三つの赤い瞳孔が、覗き込む三人を正確に捉える。

距離は遠い。それにもかかわらず、その声は三人の頭の中へ直接届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やっと『俺』と一つになれる。さよならだ、『俺』の仲間達』

『『私』と一つになれるわ。皆もうれしいわよね?』

『僕たちは一つだ。だって僕自身なんだからね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳髄を直接撫で回されるような、おぞましい狂気を孕んだ声だった。

次の瞬間、リムルの体が、凄まじい速度で暗黒の底へと引きずり込まれていく。

同じ姿をしたものもまた、三人を嘲笑うように見上げたまま、リムルと寸分違わぬ速さで深淵の奥へと沈んでいった。

 

「逃さんぞ!!」

「アタシの主を返せ、この下等生物がァッ!!」

「……逃げられるなどと、露ほども思わぬことです」

 

一切の躊躇などなかった。

ヴェルドラ、カレラ、そしてディアブロの三人は、その先がどんな罠の張られた奈落であろうとお構いなしに、水槽へと身を躍らせた。

水飛沫すら上がらなかった。

 

「カレラ、ディアブロ!?」

「ヴェルドラ様ァッ!!!」

 

残された仲間たち、そして技術陣たちが悲痛な叫び声を上げる中、底なしの深淵へと続く、壮絶な追跡劇が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 

 

 

光の届かない奈落を、三つの影が駆け下りていく。

嵐を纏う妖気、黄の閃光、そして深淵よりもなお濃い漆黒。

次元の壁すらぶち抜く勢いで飛び込んだ三人は、瞬く間に距離を詰め、沈みゆく二つの影の行く手を塞ぐように回り込んだ。

 

「そこまでだ、化け物めッ!!」

 

闇を裂くように、ヴェルドラが吠えた。

 

「我が君から、その汚い手を離してもらおうか」

 

カレラの声が、低く重なる。

 

「その薄汚い存在でリムル様の御姿を模したこと、万死に値すると知りなさい」

 

最後に響いたディアブロの声は、周囲の温度を強引に引き下げるほどの冷気を孕んでいた。

三人の覇気と殺意を叩きつけられても、リムルと同じ姿をしたもの──絶界の虚神は、ぴたりと動きを止めただけだった。

散歩を邪魔されでもしたかのように、小首を傾げる。

 

 

 

 

 

 

 

『なぜ俺の邪魔をするんだい?』

『『私』の仲間なら、主の意思を尊重すべきよね?』

『しつこいね、君たち』

 

 

 

 

 

 

 

 

リムルと同じ顔、同じ口から紡がれる、おぞましいまでの自己正当化だった。

ディアブロの口元から、常に浮かんでいた笑みが消えた。

 

「リムル様の御姿で己を正当化するとは。これほど不愉快な冒涜は、私の永い時の中でも初めてですよ。……貴方のような愚物は、その魂ごと虚無へ還るがいい」

 

静かな言葉とは裏腹に、溢れ出す漆黒の気配は、この空間ごと対象を消し去る気でいることを物語っていた。

 

「笑わせるな! 貴様のような得体の知れぬものを、我が盟友と認めるわけがなかろう!」

 

ヴェルドラが牙を剥き出しにして吠える。

 

「よりにもよって我が君の顔と声で、よくもそんな寝言を言えたものだね。……塵も残さず消してやるよ」

 

カレラもまた、右手に黄金銃を抜き出し、左手に刀を握った。

 

 

 

 

 

 

 

『希望(エルピス)……』

『希望(エルピス)……』

『希望(エルピス)……』

 

 

 

 

 

 

 

その様子を見た虚神は頭上へ手をかざす。そして三つの声が同時に、一つの名を呼んだ。

リムルの愛刀の名である。

直後、虚神の右手に、黒ずんだ赤光を放つ神剣が顕現した。

その背後には、意識を失ったままのリムルの体が、無数の黒い手に絡め取られ、盾のように縫い付けられている。

 

「リムル様の神剣まで模倣するか……。相応の絶望を味わわせてやろう」

 

最初に動いたのはディアブロだった。

『時空間操作』で間合いそのものを捻じ曲げ、音もなく虚神の背後へ回り込む。

 

同時に、カレラが刀を振りかぶって斬り込んだ。

刃に乗せたのは『次元破断』。空間そのものを断ち割り、いかなる防御領域をも貫いて敵を滅ぼす、『死滅之王』の権能である。虚神の周囲に張られた見えない守りへ、刃が深々と食い込んだ。

そこへ、至近距離から黄金銃の引き金が引かれる。

 

ドンッ──!

 

黄金銃で凝縮された、カレラの魔力弾である。刃の抉じ開けた裂け目へ、弾丸が続けて撃ち込まれた。

 

それに合わせて、ヴェルドラの拳が真正面から叩き込まれる。

〝ヴェルドラ流闘殺法〟の、飾り気のない正拳である。

 

対する虚神は、何の感情も見せぬまま、神剣を流麗な軌道で振るった。

それは紛れもなく、かつてハクロウから手ほどきを受けたリムルの剣技──朧流の型だった。

だが、刃が交わった瞬間、三人は揃って冷ややかな目を向けた。

 

「ハッ! なんだい、その軽い剣は!」

 

カレラが刀で剣撃を弾き飛ばし、鼻で笑う。

 

「うむ。盟友の技を上っ面だけ真似たところで、我らには通用せんわッ!」

 

反撃の刃を躱したヴェルドラが、呆れたように言い捨てた。

 

「形だけは似せたか。だが、リムル様の気高い魂の欠片すら感じられない。悍ましい。ただただ不快だ」

 

迫る斬撃を紙一重で見切りながら、ディアブロが目を細めた。

朧流の剣技としての型は備わっている。

だが、そこに込められるべき積み重ねがない。

本物のリムルの剣を知る三人には、その空虚さが手に取るように分かったのだ。

三方からの攻めが虚神を押し込み、その守りを削り取っていく。

三人がかりで押し切れる。誰の目にもそう映っただろう。

 

だが、その時。虚神がヴェルドラの拳を躱しながら呟いた。

 

 

 

 

 

「なかなかやるな…… 『俺』に傷つけられたこの"身体"でこれを使うのは控えたかったが……」

「なかなかやるわね……『私』に傷つけられたこの"身体"でもこれを使わざるを得ないわね…」

「なかなかやるね…… 『僕』に傷つけられたこの"身体"でこれを使わせられるとはね……」

 

 

 

 

虚神は掲げた左手を握りつつ、その口から言葉のようなものが紡がれる。

しかも、その言葉は理解できない発音でありながらも意味は脳内にはっきりと伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

「《異次元の法則よ。俺に従え。》」

「《異次元の法則よ。私に従いなさい。》」

「《異次元の法則よ。僕に仕えよ。》」

 

 

 

 

 

 

右手から振るわれる黒ずんだエルピスの軌跡から、ノイズのような粒子が撒き散らされた。

音はない。風圧も、魔素の揺らぎも生じていない。打ち合った刃越しに、ざらりとした異物感だけが伝わってきた。

 

「……ヤツの雰囲気が変わったね」

 

刀を引いたカレラが、訝しげに眉をひそめた。

 

「カレラ、ディアブロ、退けッ!」

 

ヴェルドラが叫ぶと同時に、虚神が無造作に剣を振り下ろす。速さも重さも、大したものではない。

だが、その剣閃に纏わりついた粒子が、三人の守りに触れた瞬間だった。

ヴェルドラが幾重にも張り巡らせていた『多次元結界』が、一枚ずつ、音もなくほどけていく。

ディアブロとカレラの守りも同じだった。

砕けたのではない。

結界を結界たらしめている法則そのものが、別の何かへと置き換えられ、ただの薄い膜のように形を失っていったのだ。

 

「馬鹿なッ!? 我の結界が、相殺されるどころか書き換えられておるだと!?」

 

「……私の権能が通じない? この場の法則そのものを、根底から侵しているというのか」

 

ディアブロが、信じられないというように目を細めた。

 

ならば、と三人は同時に切り札を抜いた。

 

「これでも食らいなよ」

 

カレラが黄金銃の照準を、虚神の眉間へ据える。

引き金に込めたのは、近藤から黄金銃と共に受け継いだ切り札──〝神滅弾(ジャッジメント)〟である。

守りを砕き、術を解き、力の巡りを断ち、存在そのものを削り取る。四つの弾丸の性質を一発に重ね合わせた、カレラの持つ最大の一撃である。光にも迫る速さで放たれ、いかなる結界に阻まれることもなく標的を撃ち抜く。

 

「ならば、これでどうだ! 喰らうがいい──〝収束暴風乱牙(ストームファング)〟!!」

 

ヴェルドラの両拳に、〝黒き破滅の嵐(ルインテンペスト)〟が渦を巻いて集まっていく。暴風竜の嵐そのものを拳に宿し、殴りつけると同時に相手の内側へ解き放つ、ヴェルドラ自慢の必殺技である。

 

「その愚かさごと、世界の終わりに呑まれるがいい。──〝終末世界への鎮魂歌(エンド・オブ・ワールド・レクイエム)〟──」

 

ディアブロの全身から、膨大な魔力が一点へと収束していく。

一つの世界が終わりを迎えるその瞬間を、狭い範囲に丸ごと写し取り、そこに在るもの全てを滅びへ巻き込む。権能と技、そして魔法を掛け合わせ、ディアブロが自ら練り上げた最大の奥義だった。

 

三つの切り札が、同時に虚神へと殺到した。

一つでも、並の魔王なら跡形も残らない。それが三つ重なったのだ。

だが──。

 

光速に迫った弾丸は、虚神に届く寸前で「貫く」という性質を失い、ただの金属の粒となって闇に零れ落ちた。

 

両拳に押し固められた暴風は、「叩きつける」向きを失って、そよ風のように霧散した。

 

ディアブロが再現した世界の崩壊は、「滅ぼす」という向きを書き換えられ、虚神に届く前に色を失って消えていった。

 

どれも、防がれたのではない。

技を技として成り立たせている法則そのものを、撃ち込んだ瞬間に書き換えられたのだ。どれほど力を込めようと、どれほど精緻に組み上げようと、成り立つ前に崩される以上、意味をなさない。

 

 

 

 

 

 

 

『俺の前では、お前たちの技の全てが無駄だ』

『あなた達のルールは、ここでは通用しないの』

『僕たちは、もうすぐ完全に混ざり合うんだから』

 

 

 

 

 

 

 

防ぐことも、打ち破ることもできない。

三人は、じりじりと深淵の奥へ押し込まれていった。

もはや、この不可解な力に対して試すべき手は残されていない。

その徒労と閉塞感の中で、虚神がふと、ヴェルドラへ顔を向けた。

 

 

 

 

 

 

『そういえば、礼を言っていなかったな』

『あなたがアレに入ってくれたおかげで、『私』のことをたくさん知ることができたの』

『感謝しているよ、ヴェルドラ』

 

 

 

 

 

 

ヴェルドラの動きが止まった。

自分が装置に入ったことが、この存在をリムルへと導いた。胸の奥に沈めてきた負い目が、当の相手の口から突きつけられる。

そして、もう一つ。

この存在は、自分が潜ったあの世界を、ずっと見ていたことになる。

 

「……答えろ。我のいた、あの世界の者たちはどうなった」

 

ヴェルドラが、低く問うた。

三つの赤い瞳孔が、ゆるりとヴェルドラを捉えた。

 

 

 

 

 

 

『消してやった』

『消してやったわ』

『消してやったよ』

 

 

 

 

 

 

 

三つの声が、不気味なほど揃っていた。

ヴェルドラが、雷に打たれたように目を見開く。

装置の中で幾年も過ごした世界だった。

そこには笑い、泣き、己の心で生きていた者たちがいた。ついこの間、それを思い返していたばかりだった。

その全てが、報告する価値すらないとでも言うように、ただの事実として片付けられた。

竜としての誇りも、魂も、その一言に打ちのめされていく。

 

傍らで聞いていたディアブロとカレラもまた、息を呑んでいた。

二人の間に、一瞬だけ、明らかな動揺が走る。

この存在は、世界ひとつを平然と消せるのだ。

そして今、その手中にリムルがいる。

 

 

 

 

 

 

『あの時は、『俺』を取り込み損ねた』

『でも、今度は失敗しないわ』

『『僕』は、もう手の届くところにいるからね』

 

 

 

 

 

 

「あの時、だと……?」

 

ヴェルドラが眉を寄せた。

 

 

 

 

 

 

 

『装置に入った直後の『俺』と、一つになるつもりだったんだがな』

『でも『私』ったら、嫌がったんだもの。流石は『私』ね』

『そのせいで、しばらくあの世界に手を出せなかった』

 

 

 

 

 

 

 

ディアブロの目が、すっと細められた。

潜行の直後、計器の数値が一瞬だけ振り切れ、すぐに元へ戻った。原因不明のまま片付けられた、あのノイズ。

あれは、ただの不具合などではなかったのだ。

リムル様は、潜ったその場で、既にこの存在と相対していた。

 

 

 

 

 

 

 

『その代わりに、記憶と権能を封じておいた』

『優しいでしょう?』

『『僕』があの世界にいる限り、いくらでもチャンスはある。今回のようにね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(…………シエルを黙らせたのも、貴様か)

 

ヴェルドラは、ギリッと牙を噛み鳴らした。

虚神は、その様子を楽しむように口の端を吊り上げた。

 

 

 

 

 

 

『さて、万全を期しておこうか』

『あなた達にも、ここで『私』になってもらうわ』

『抵抗しても無駄だよ。手の内は、もう見えているからね』

 

 

 

 

 

 

その瞬間、周囲の闇が一斉に見開かれた。

無数の目だった。白目ごと漆黒に塗り潰され、その中心に赤い瞳孔を三つずつ浮かべた目が、上にも下にも、見渡す限りの奈落を埋め尽くして三人を見据えている。

虚神の背後で、闇が盛り上がった。

それは見上げるほどの巨大な像の輪郭を結ぶ。胸の前で両の掌を静かに合わせた、祈るような姿だった。

次の瞬間、四方八方から山のように巨大な掌が三人へ叩きつけられていた。

 

「ぐぬッ……!?」

 

ヴェルドラが両腕を交差させたまま、奈落の底へ弾き飛ばされる。

すかさず『並列存在』で分身を散らし、的を絞らせまいとした。

だが、掌はその全てを同時に捉え、分身を一体残らず叩き潰していく。

ならばと、ヴェルドラは『確率操作』で自身の存在確率を極限まで薄めた。攻撃を体に通過させて躱す、ヴェルドラならではの回避である。

しかし、それでも掌は当たった。

存在が薄れていようがいまいが、打たれたという結果だけが先に来る。

攻撃の予備動作から打撃までの間に、捉えるべき隙がどこにもなかった。

 

「……ほう。打ち出す瞬間が、まるで見えませんね」

 

弾き飛ばされながらも、ディアブロは口元を歪めていた。

『時空間操作』で位置をずらしても、ずらした先に既に次の掌が待っている。

その額には初めて、苛立ちの色が浮かんでいた。

打ち据えられ、弾かれ、また打ち据えられる。

三人は持ちこたえこそするが、一歩も前へ進めなかった。

掌の嵐が止んだ時には、既に次が来ていた。

闇の中に、淡い色の欠片が舞い始める。

一枚、また一枚。やがて数えきれないほどに増えたそれは、花弁のように軽やかに渦を巻き、三人を幾重にも取り囲んでいく。

その一枚一枚が、凶悪な刃だった。

 

「おっと……私ともあろう者が」

 

カレラの頬に、細い赤い線が走った。

黄金銃から魔力弾を立て続けに撃ち込み、渦に穴を開けようとする。

だが、穿った端から新たな欠片が流れ込み、穴はすぐに塞がった。四方から、上下から、刃の渦が同時に斬り込んでくる。ヴェルドラの腕に無数の傷が刻まれ、払っても払っても、欠片は次の渦の中から湧き出してきた。

 

「やれやれ……リムル様より賜った装いが、台無しですね」

 

細切れに舞う外套の裾を横目に、ディアブロが低く吐き捨てた。

そして、三つ目が来た。

三人の頭上に、小さな黒い球が一つ、ぽつりと浮かんだ。

それだけだった。音もなく、ただそこに在る。

だが次の瞬間、周囲を舞っていた刃の欠片が、一斉にその球へと吸い寄せられ始めた。欠片だけではない。深淵の闇そのものが、渦を巻いて一点へ流れ込んでいく。

三人の体もまた、抗いようのない力で引き寄せられた。

 

「……なるほど。逃がすつもりはない、ということか」

 

球へと引き寄せられながら、ディアブロが静かに呟いた。

踏ん張る足場もない。

三人の体は刃の欠片と闇に揉まれながら球へと引きずり込まれ、その周囲に、欠片と闇が層を成して積み重なっていく。

瞬く間に、三人は巨大な球の中へと閉じ込められた。

四方から押し潰そうとする圧が、骨を軋ませる。指一本動かせない。

その閉ざされていく隙間から、ヴェルドラは見た。

遥か下へ沈んでいく二つの姿を。

リムルを背に縫い付けた虚神が、三人を見上げたまま、凄まじい速さで深淵の奥へ遠ざかっていく。

その顔に浮かんでいるのは、歓喜だけだった。

 

(リムル……!)

 

叫ぼうにも、声が出ない。

闇と刃が最後の隙間を塞ぎ、視界が完全に閉ざされた。

 

 

 

 

その時だった。

ヴェルドラの心核(ココロ)に馴染みのある感覚と共に、ひどく掠れた声が響いた。

 

《コ…レ…ヲ…ツ…カ…イ…ナ…サ…イ…》

 

雑音に呑まれかけた、途切れ途切れの声だった。

それと共に、膨大な情報がヴェルドラの中へ流れ込んでくる。今しがた三人を打ち据え、斬り刻み、押し潰そうとしている力の、法則そのものの解析だった。

 

(これは……まさか!?)

 

声について考えている暇はなかった。

流れ込んだ瞬間に、ヴェルドラは何をすべきかを理解していた。

理屈など分からない。

だが、ヴェルドラにはそれで十分だった。今までも己の権能の原理を知らずとも、本能で使い方を掴んできたのである。

 

盟友が、今まさに連れ去られようとしている。

ヴェルドラの中で、何かが弾け飛んだ。

自身を捕らえている力の流れに、妖気を沿わせる。

押し潰そうとする圧の向きを、流れ込んだ法則のとおりにほんの僅か逸らす。

それだけで、球状の拘束を形作っていた法則がほどけた。

 

ドゴォォォンッ──!

 

轟音と共に、ヴェルドラを拘束していた巨大な球が内側から砕け散った。

 

「ヴェルドラ様……!?」

「何だって……!?」

 

破片と闇の中から、ディアブロとカレラの驚いた声が上がる。

先ほどまで指一本動かせなかった牢獄が、ヴェルドラのたった一動作で崩れ去ったのだ。

 

そして、ヴェルドラは振り返ることなく、深淵の底へ向けて身を躍らせていた。

無数の目が、それを追う。

再び背後の像が掌を合わせ、刃の欠片が渦を巻いて行く手を塞ぐ。

先ほどまで一歩も進めなかったその嵐の中を、ヴェルドラは真っ直ぐに駆け下りていった。

祈りの姿勢から放たれる掌に対し、再び『確率操作』で存在を薄める。

流れ込んだ法則を重ねた今度は、打たれたという結果そのものが体をすり抜け、巨大な掌は虚しく闇を叩いた。

渦を巻く刃には、その流れの継ぎ目へ身を滑り込ませる。

〝ヴェルドラ流闘殺法〟の型に、流れ込んだ法則が乗っていた。

 

掌が逸れる。刃が空を切る。

その後を、ディアブロとカレラが追っていた。

ヴェルドラの切り開いた道を辿るのが、二人には精一杯だった。

 

「……先ほどまでの攻撃が、ヴェルドラ様にだけ効いていない。一体何が……?」

 

信じ難いものを見るように、ディアブロがヴェルドラの背を見据えた。

距離が、縮まっていく。

リムルを背に縫い付けた虚神の後ろ姿が、はっきりと見えた。

虚神が振り返る。

三つの赤い瞳孔が、初めて見開かれた。

 

ヴェルドラの耳の奥に、先ほどの声が蘇る。

感謝しているよ、ヴェルドラ──。

この存在を盟友のもとへ導いたのは、自分だった。ならば、取り返すのも自分の手でなければならない。

 

「貴様だけは許さん! リムルに……我が盟友に……」

 

ヴェルドラが、低く告げた。

両の掌を腰へ引き、深く身を沈める。全身の妖気が、一点へと集まっていく。

 

「我が盟友に手を出すなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

咆哮と共に、掌底が虚神の胸へ叩き込まれた。

 

「〝豊穣なる神秘の波動(ファータイルパラドックス)〟──ッ!!」

 

ヴェルドラの宣告と共に、虹色の闇が溢れ出した。

本来の〝豊穣なる神秘の波動〟は加護という性質が強い技である。

しかし、何者かよりもたらされた情報により、その技は虚神への特効技能といった様相へと変貌していた。

 

虹色の闇が、掌を通して虚神の内側へ染み込んでいく。

次の瞬間、虚神の体の内側から、虹色の結晶が突き破るように生え出した。

本来ならば草木を芽吹かせるはずの加護が、この深淵では結晶として現れていた。

一本、また一本。胸を、肩を、腕を貫いて結晶が伸び、その根元から周囲の空間へと枝を広げていく。相手の体を核として根を張り、封じる。

攻撃ではないため防御は不能。そして、ヴェルドラの権能は、ヴェルドラ自身にしか解くことができない。これらの側面も強化されている。

 

 

 

 

 

 

『……な、に……?』

『書き換え……られない……?』

『これは……一体……』

 

 

 

 

 

 

三つの声が、初めて乱れた。

歓喜も執着も抜け落ちた、ただ呆然とした響きだった。

 

ガラスが砕けるような甲高い音が響き渡り、奈落の闇に巨大な亀裂が走る。

リムルを絡め取っていた無数の黒い手が、根元から結晶に呑まれ、次々と崩れ落ちていった。

ヴェルドラは、解き放たれたリムルの体を掴み取る。

 

「ディアブロ、カレラ! リムルを頼む!」

 

そして、そのまま振り返り、背後から追いついてきた二人へ差し出した。

 

「……リムル様。ご無事でよかった」

 

差し出された主の体を、ディアブロが恭しく受け止めた。

カレラがすぐ傍らに身を寄せる。

 

「我が君……!」

 

ヴェルドラは頷く間も惜しんで、頭上を仰いだ。

 

「今のうちだ、ずらかるぞ!」

 

三人は結晶の広がり続ける深淵を背に、一斉に駆け上がり始めた。

 

遥か頭上に、針の先ほどの光が見えた。

三つの影は、その一点を目指して昇っていった。

 

後には、結晶に縫い止められた虚神だけが残された。

貫かれた胸から、肩から、虹色の結晶が今も伸び続けている。

その顔に、苦悶はなかった。

 

『まあいい。焦る必要もないさ』

『『私』はまだ、あの世界にいるもの』

『次の機会に、また会いに行くよ』

 

答える者は、誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 

ザバァッ──!

 

溶液が跳ね上がり、三つの影が水槽の縁を越えて床へ降り立った。

 

「──ヴェルドラ様!?」

 

その叫びが、途中から耳に届いた。

カリスである。

ヴェルドラを追って飛び込もうと、装置の縁へ手をかけたところだった。

シオンは床を蹴った姿勢のまま宙にあり、その足元ではランガが身を沈めかけている。

壁際のギィは一歩を踏み出したところで、ヴェルザードの視線はまだ水槽の縁を追っていた。

誰もが、三人を見送った瞬間の姿のままだった。

そのシオンの体が床へ落ち、ランガの前足が石畳を叩く。止まって見えた室内が、何事もなかったかのように動き出した。

 

「リムル様ァッ!!」

 

シオンの絶叫が、室内を貫いた。

ディアブロの腕の中に、リムルがいた。

意識のないまま、銀色の髪から溶液の雫を滴らせている。

 

「おい!……お前ら、たった今飛び込んだばかりだぞ。それなのに、一体何があったんだ!?」

 

踏み出しかけた足を止めたまま、ギィが眉を寄せた。

 

その言葉で、室内の誰もが気づいた。

ヴェルドラは見るからに消耗した様子で、肩で大きく息をついている。

ディアブロの外套は裾から細切れに裂け、カレラの頬には乾きかけた血の筋があった。

飛び込んだ時の様子とはまるで違うのだ。

 

ギィの視線が、ふと投影盤へ流れる。

映像は、まだ戻っていなかった。

暗く沈んだ盤面の向こうで、装置の中の世界が今どうなっているのか、この部屋の誰にも分からない。

 

「ヴェルドラ様。大丈夫ですか!?」

 

カリスがヴェルドラの傍へ駆け寄り、身を案じる。

それに「大丈夫だ」と答えつつ、ヴェルドラはベスターへ視線を向けた。

 

「ベスター。我らが飛び込んでから、どれほど経っておる」

 

それを聞かれたベスターは少し驚いた表情を見せた後、静かに答えた。

 

「……瞬き一つ、と申し上げるほかありません。本当に一瞬の出来事でした」

 

室内が、しんと静まり返った。

 

「馬鹿な! あれほどの戦いを終えてきたというのに、それが瞬き一つだと……?」

 

ヴェルドラが吠えた。

 

「あの深淵では、いったいどれほどの時が流れておったというのだ!」

 

答えられる者はいなかった。

装置の中の一か月が、外の二時間。その比率は、幾度も確かめてきたものだ。

だが、装置の深淵にあった空間は、それとはまるで違う。

そこまで考えて、ヴェルドラの背筋が冷えた。

 

「……我らが、あと数秒でも遅れておったら、リムルを取り戻すことはできなかったかもしれん」

 

装置を睨みつけたまま、低く呻く。

その言葉に誰もが内心で戦慄を覚えた。

飛び込む前に状況を確かめていたら。一言でも言葉を交わしていたら、手遅れになっていたかもしれないという事実に気づいたからだ。

 

「……で、中で何があった」

 

ギィが装置へ歩み寄ってくる。

 

「後で詳しく話す。今はそれよりも……ええい、こんな忌々しい装置に、いつまでも盟友を浸けておけるか!」

 

ヴェルドラはディアブロからリムルの体を受け取り、そのまま水槽の外へと引き上げようとした。

水面を越えるところまでは、あっさりと持ち上がった。

だが──。

 

「ぬうっ!?」

 

そこから先が、動かない。

リムルの背や首筋に繋がった無数のケーブルが、ぴくりとも外れないのだ。引けば引くほど、張力だけが増していく。

 

「この管め、どうしても外れぬぞ!」

 

ヴェルドラがうろたえる横で、カリスが声を上げる。

 

「ヴェルドラ様、落ち着いてください。慎重にやらねばリムル様にどのような影響が出るかわかりません!」

 

それを聞いたカレラが行動に出る。

 

「だからと言って何もしないわけにはいかないだろう。"あれ"が再び襲ってくる前に、我が君をこの忌々しい装置から引きはがさないといけないんだ」

 

そう言いつつ、カレラが刀を取り出し、リムルの体に未だに繋がったままのケーブルを見据える。

 

「この忌々しいケーブルさえなければ…!」

 

そう言って刀を振り下ろそうとした。

だが、その動きより早く、ディアブロがその腕を押さえた。

 

「およしなさい。……そのケーブルは、リムル様の魂そのものに繋がっているのですよ」

 

ディアブロの声は静かだったが、その言葉には焦りの色が滲んでいた。

ディアブロには分かっていた。

深淵の底までケーブルが伸びていたのだ。

あれを断つということは、リムルの魂に取り返しのつかない影響を与える可能性もあった。

 

「ディアブロ殿の言う通りです! お忘れですか、ヴェルドラ様、カレラ殿、引き上げられぬことは、既に確かめていたではないですか!」

 

ベスターが冷静な声を上げる。

 

それに続いて、カイジンも私見を述べてきた。

 

「ヴェルドラ様…申し上げにくいですがね。現状ではリムル様の体が、装置の動作機構の一部として組み込まれちまってる。無理に引き抜くのは、首を絞めるのと同じですぜ」

 

ヴェルドラの腕が、止まった。

腕の中の盟友は、深淵から取り返したばかりである。もう一度あの中へ戻せというのか。

ギリッと牙を噛み鳴らし、それからヴェルドラは目を閉じた。

 

「……許せ、リムル。今はこれが最善だ」

 

ゆっくりと、リムルの体を溶液の中へ戻していく。

銀色の髪が水に広がり、静かな眠りの姿へと沈んでいった。

 

「ああっ……我が主よ……ッ!」

 

ランガが悲痛な遠吠えを上げた。

前足が石畳を掻き、爪が硬い音を立てる。

 

「なぜです……なぜ、リムル様が再びこのような……ッ」

 

シオンがその場に膝をついた。

救い出したはずの主が、自分たちの目の前で、再びあの檻の中へ沈められていく。

 

「……仕方があるまい。ならば、あの化け物が二度とリムルに手を出せぬよう、我らが守り抜くまでよ」

 

ヴェルドラは水槽の縁に両手をつき、溶液の中のリムルへ向けて力を解き放った。

虹色の闇が、水の中へ静かに広がっていく。

やがてリムルの体を包むように、虹色の結晶が幾重にも育っていった。

 

「……ヴェルドラ様。差し出がましいようですが、一つ伺っても?」

 

その作業を見守っていたディアブロが、水槽の前へ進み出てきた。

 

「その守りは、"あれ"に通じるのですか? ……深淵では、私の権能も、カレラの術式も、触れた端から書き換えられました」

 

室内の空気が、僅かに強張った。

技術陣の手が止まる。原初の悪魔の権能が通じなかったと、今この場で初めて明かされたのだ。

 

「通じる。……いや、正確には通じたが正しいかもしれんな」

 

ヴェルドラは結晶から目を離さずに答えた。

 

「我らが深淵で危機に陥った際に、我だけがヤツの技を打ち破ることができたであろう?」

 

ディアブロが顎に手を当てた。

 

「……そこです。深淵で、ヴェルドラ様だけがあの力をいなしていた。同じ攻撃を受けていたはずの私やカレラには、指一本触れることもできなかったというのに。……あの時、何があったのです?」

 

「そうだね。私も、それが聞きたかったところだ」

 

カレラが刀を収め、腕を組んだ。

ギィやヴェルザード、その部屋にいる者たちも、続きの言葉を興味深く待っていた。

 

ヴェルドラは、しばらく黙っていた。

やがて結晶越しに眠る盟友を見下ろしたまま、低く口を開く。

 

「……あの時に、頭の中へ声が届いた」

 

「声、ですか」

 

ディアブロが興味深そうに答える。

 

「うむ、途切れ途切れの、今にも消え入りそうな声だ。……それと共に、膨大な量の解析が流れ込んできた。我らを打ちのめしていた、あの力の法則そのものをな」

 

ベスターがその言葉に目を見開き、確かめるように問うてきた。

 

「ほ、法則の解析、ですか……? あの装置の内側の……?」

 

「そうだ」

 

ヴェルドラが頷く。

 

「我はそれを使って、〝豊穣なる神秘の波動〟の性質を変えた。あの一撃によってヤツはもはや簡単にはリムルには手出しができぬだろうよ」

 

その言葉を聞いたとき、部屋の中では賞賛が起こった。

少なくともリムルの安全は今の時点では保障されたと思われたからだ。

 

その様子が落ち着くのを待ってから、ディアブロは質問を投げかけてきた。

 

「……では、その声は誰のものなのです」

 

ディアブロの問いに、ヴェルドラは一拍だけ間を置いた。

 

「リムルだ」

 

技術陣の間から、どよめきが上がった。

 

「あやつが寄越したものだ。記憶を失っていようと、盟友は盟友よ。……こちらのことを案じ、打開の一手をなんとか送り込んできたのだろうよ」

 

(……今はこう言っておくしかないな)

 

あの声の主が誰であるかに、ヴェルドラはとうに思い当たっている。

だが、リムルの内に意思を持つ者がいることは、この場の誰にも明かしてはならない。

 

「……リムル様が」

 

シオンが顔を上げた。頬は濡れたままだが、その目には光が戻っている。

 

「あのような状態でなお、我々のために……!」

 

「ベスター殿!」

 

ガビルが弾かれたように振り返った。

 

「そのデータ、吾輩たちの解析に使えるのではありませんかな!?」

 

「……使えるどころの話ではありません」

 

ベスターの声が震えていた。

眼鏡を押し上げるその手が、先ほどとは別の理由で震えている。

 

「我々がどれだけ時間をかけても、ヴェルドラ様とラミリス様の記録からごく一部を推し量るのが限界でした。装置を司る法則そのものが手に入るのであれば……確証を得られるやもしれません。リムル様へ、安全に言葉を届ける道が」

 

その声に、止まっていた技術陣が顔を上げた。

 

「この装置を初めて検分した時から、ワシらはずっと同じところで足止めを食ろうておった。読めた端から次が湧いて出て、足掛かりにすべき繰り返しがどこにもない。……その仕掛けそのものが、法則ごと手に入るというのですかな」

 

ガドラが解析卓から身を乗り出す。白髭を撫でる手が、隠しようもなく震えていた。

 

「おお……! ならば、これでようやくリムル様をお救いできるのですな!」

 

記録板を抱えたまま、ガビルが声を弾ませた。

室内のあちこちから、安堵とも歓声ともつかない声が上がる。

 

「浮かれるでない」

 

低い声が、その熱を押しとどめた。

装置の傍らで、ヴェルドラが結晶越しの盟友から目を離さぬまま口を開いていた。

 

「我が受け取ったのは、深淵で我らを打ちのめしたあの力の法則、その一部に過ぎぬ。この装置の全てが解けたわけではない」

 

ヴェルドラはそこで、ゆっくりと技術陣へ向き直った。

 

「これから先、時間はかかるであろう。だが、必ず糸口を見つけ出すぞ。リムルへ言葉を届ける、その道をな」

 

ベスターが深く頷き、技術陣を振り返った。

それを合図に、超克者が記録の束を広げ直し、迷宮管理者たちが観測結晶へ取りつく。サリオンの研究者たちが術式を組み替え始め、カイジンが職人衆へ指示を飛ばした。

失われかけていた熱が、室内に戻ってくる。

 

「……クフフ。なるほど、リムル様らしい」

 

その様子を眺めながら、ディアブロが笑みを取り戻した。

 

「あのような場所に囚われながら、こちらへ手を差し伸べてこられるとは。……流石リムル様ですね」

 

ディアブロがそう言い終えた時だった。

 

「──おい、映像が戻ったぞ!」

 

カイジンの声が、室内に響く。

それを聞いた技術陣が手を止め、幹部たちが一斉に振り返った。

 

映し出されたのは、先ほどの光景とはうってかわって、星の瞬く夜空だった。

四方を閉ざしていたはずの結界は跡形もなく、空はどこまでも澄み渡っている。

 

「……これは!」

 

投影盤に映し出された映像を見たヴェルドラが、思わずそう呟いた。

 

誰も、それに応える余裕はなかった。

夜空の中を、一つの影が落ちていく。

小さなスライムだった。

力を使い果たしたように、真っ逆さまに森へ向かっている。

その体を、横から伸びた腕が抱きとめた。

 

『……よくやったよ。お前が一人で抱え込むはずだった怒りも悲しみも、これからも俺が半分背負ってやる。あとは全部任せて、ゆっくり眠れ』

 

その正体は、紛れもなく自分たちの知るリムルであった。

そして、しっかりと抱え直し、夜空を駆けていった。

やがて前方に、見慣れた町の明かりが見えてくる。

 

「リムル様ぁぁぁっ!!」

 

シオンの絶叫が、室内を揺らした。

それを合図にしたように、時間同期室が爆発したように沸いた。

 

「我が主! 我が主が、ご無事であったぞ!!」

 

ランガが天を仰いで吠え、千切れんばかりに尾を振り回す。

 

「おおおお……! よかった、よかったですぞぉぉ!!」

 

ガビルが記録板を放り出し、隣にいたベスターの手を握って号泣し始めた。握られたベスターは困惑しながらも、眼鏡の奥の目を真っ赤にしている。

超克者たちは肩を組んで跳ね回り、サリオンの研究者たちが互いの背を叩き合った。カイジンは職人衆と拳を打ち合わせ、ガドラは「見事なものですじゃ」と呟きながら、しっかりと目尻を拭っている。

 

「よかったっす……! リムル様、無事だったっすよ……!」

 

ゴブタが鼻をすすりながら、何度も頷いていた。

 

「クフフフフ……ええ、ええ。それでこそリムル様です」

 

ディアブロが、恍惚とした笑みを浮かべて投影盤を見上げる。

 

「……ハハッ。あの深淵で暴れた甲斐があったってもんだね」

 

カレラが肩を揺らして笑った。

 

沸き返る室内で、ベニマルは静かに投影盤を見上げていた。

 

「……こちらへはお戻りになれずとも、せめてご無事で良かった」

 

口元は緩んでいた。だが、その目は笑っていない。

投影盤の中の主は無事だ。けれど、この部屋へ帰ってきたわけではない。そのことを、この男は誰よりも冷静に受け止めていた。

その隣で、ソウエイが静かに目を閉じ、ゲルドは深く頭を垂れている。

 

「映像が途切れてる間に、向こうじゃ半日は進んでやがる。こっちはわずかな間だってのに……厄介だな」

 

壁際で、ギィが目を細めた。

喜びに沸く面々を横目に、魔王の眼差しはもう次を見ている。

 

「ほら、あのリムルは、あの程度では折れないのよ。……あとは、こちらへ戻ってくるだけね」

 

ヴェルザードが、弟の横顔へ微笑みかけた。

ヴェルドラは、何も答えなかった。

沸き返る室内の中で、ただ一人、投影盤を見上げたまま立ち尽くしている。

 

「リムルよ……無事だったのだな……」

 

その呟きは、歓声に紛れて誰の耳にも届かなかった。

 

投影盤の中の盟友は、己の半身を腕に抱いて、帰るべき場所へ帰っていく。

しかし、こちら側ではその盟友を装置から助けられず、手放すしかなかった。

溶液の中で、虹色の結晶に包まれて眠る盟友は、手を伸ばせば届く距離にいる。

それなのに、今のヴェルドラには、投影盤の向こうの景色のほうがよほど近く思えた。

 

(……待っておれ、リムル)

 

ヴェルドラは、装置の縁から手を離した。

 

(今度こそ、この手で助け出してみせる)

 

投影盤の中では、町の明かりが、帰ってきたリムル達を静かに照らしていた。

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