【転スラ】 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 作:Hyades
地下迷宮第九十五階層、時間同期室。
投影盤の中のリムルが、進化の眠りに落ちた過去の自分を抱えて夜空を帰っていったあの時から、装置の内側と同じ速さで時が流れるこの部屋では、すでに幾日も過ぎていた。
仲間たちは今も交代で投影盤を見守り、技術陣も交代で解析卓についている。
その輪に加わらず、装置の傍らを一度も離れなかったのは、ヴェルドラと、その傍に付き従うカリスだけだった。
投影盤の中では、細部こそ違えど、待ち受ける出来事が一つずつ乗り越えられていった。
過去のリムルが進化の眠りについている間に、未来のリムルは冥界から
目覚めた過去のリムルがその悪魔に『ディアブロ』と名を与えた時、それを見ていたこちら側のディアブロは「クフフフフ……名を賜る瞬間というものは、何度見ても良いものですね」と恍惚とした笑みを浮かべ、投影盤から片時も目を離さなかった。
そうして歴史は進み、ある時には封印から解き放たれたヴェルドラが町の広場で盛大に復活を祝われていた。誰よりも食い入るように投影盤を見つめていたのは、当のヴェルドラだった。
「クアハハハ! 見よ、あの見事な
装置の傍らで胸を張るヴェルドラに、室内から笑いが起きた。
だが、投影盤の中で「アタシたちのことも忘れないでよね!」と飛び回るラミリスが映ると、ヴェルドラの高笑いはふっと途切れた。
ラミリスはまだ眠ったままだ。
ミリムは今も寝台の傍を離れず、親友の小さな手を握り続けている。
ギィとヴェルザードも、医療区画と時間同期室を行き来しながら、まだこの国に留まっていた。ミザリーとレインは、ギィの言いつけで寝台の傍に控えている。ベレッタとトレイニーは、それぞれの持ち場で迷宮の守りと管理を続けている。
投影盤の中のラミリスが元気に飛び回る姿が映るたび、目を覚まさないこちらのラミリスのことを思い出さずにいられる者は、この部屋に一人もいなかった。
リムルは過去のリムルと共に
大きな出来事は自分たちの知る順番で、誰一人欠けることなく積み重なっていく。そのたびに室内には歓声が上がり、交代でやってきた者たちは、見逃した場面の話を先に見ていた者から聞きたがった。
ただ、そういった情景の中で絶対に映らない場面があった。
装置の中で誰かが湯に浸かる場面になると、投影盤は決まって真っ白に塗り潰され、湯の跳ねる音と笑い声だけを残して、何も映さなくなった。技術陣がいくら首をひねっても、その理由は分からなかった。
いつだったか、獣王国の使節団が温泉でもてなされていた場面で、カイジンが「ちょっとくらい見たかったぜ」と口を滑らせたことがある。
次の瞬間、カイジンは、にこやかな笑顔のまま目だけが笑っていないシュナと、剛力丸の柄に手をかけたシオンに、部屋から叩き出されていた。
もっとも、叩き出した当のシオンも、湯の中でリムルの世話を焼く自分の姿が映らないことだけは、本気で残念がっていた。
そんな日々が過ぎる中、深淵での激闘からしばらく経った頃のことだ。
その時の当番は、カレラとランガ、ディアブロ、シオンだった。装置の傍らにはいつものようにヴェルドラとカリスが控え、解析の卓ではベスターとガビルたちが作業を続けている。
突然、それは起こった。
リムルとの『魂の回廊』が、断絶したのである。
「──ッ!」
回廊で結ばれた者たちの胸の奥で、主へと続いていた繋がりが、ぷっつりと途絶えた。
シオンが胸を押さえ、ランガが全身の毛を逆立てた。解析卓ではガビルが呻き声を上げている。
装置の縁を掴んだヴェルドラの指が、金属を軋ませた。
「この感覚は……! 我が君との──」
カレラが弾かれたように装置を振り返った。その顔からは、いつもの余裕が消えている。
「……あの時と、同じですね」
答えたのは、ディアブロだった。その声は静かで、表情も崩れてはいない。だが、主の危機に再び何もできずにいる悔しさを、ディアブロは誰よりも強く噛み締めていた。
「あの時?」
「貴女はあの時、氷の中でしたからね。かつてリムル様が時空の果てへと飛ばされた時も、私たちは、これと同じものを味わったのですよ」
回廊で結ばれた者のほとんどにとって、これは二度目だった。
「貴女も、自分の内を確かめてごらんなさい。リムル様から授かった力は、今もここにありますよ」
その言葉に、カレラも、シオンも、ランガも、ガビルも、自分の内側へ意識を向けた。
ディアブロの言うとおりだった。主に与えられた力は、何一つ失われていない。
「うむ、うろたえるでないぞ。あやつが、この程度でどうにかなるものか」
ただ一人、リムルの気配を感じ取っていたヴェルドラが、皆を見回して言った。回廊は断たれても、リムルがどこかに在ることだけは、感覚がかすかに捉えていたのだ。
ヴェルドラは装置の縁に両手をついて、溶液を覗き込んだ。澄んだ液体の中で、盟友は変わらず眠っている。その体を包む虹色の結晶にも、ひび一つ入っていない。
だが、その守りが投影盤の中の盟友にまで届いているのかどうかは、ヴェルドラにもまだ分からなかった。
皆に「うろたえるでない」と言い切ったその声とは裏腹に、ヴェルドラの胸には、ラミリスを送り出した時に自分が口にした「案ずるな」という言葉が、重くのしかかっていた。
傍らのカリスは、ヴェルドラの横顔を黙って見守っていた。
「誰の仕業かは知りませんが……リムル様に手を出す者は、この私が必ず叩き斬ってやります!」
剛力丸の柄を握りしめ、シオンが吠えた。その目には、燃えるような怒りが宿っていた。
彼らだけではない。テンペスト全土にいるリムルの配下全員が、この瞬間、主との絶対的な繋がりである『魂の回廊』が強制的に切断されたことを悟り、テンペストは一時混乱に陥った。
しかし、リムルの肉体が水槽の中で無事であることと、リムルが投影盤の映像を通じて健在である様子が見て取れると、混乱は収まっていった。
投影盤の中のリムルは、変わらず笑い、仲間たちと語らい、過去の自身の背中を押している。
それを見上げるこちら側の者たちだけが、その欠けた感覚を抱えたまま、同じ部屋で同じ映像を見つめ続けていた。
誰も、そのことを口にはしなかった。口にすれば、こちら側と主との繋がりが途切れたことを、自分たちで認めてしまうことになるからだ。盟友と最も太い回廊を持つヴェルドラでさえ、一言も触れなかった。
解析卓で、ベスターが顔を上げた。呼びかけに応えが返らずとも、回廊だけは、こちら側とリムル様を確かに結んでいた。
それが断たれた今、リムル様へ言葉を届ける道は、自分たちの手で作り上げるしかない。
だが、悪い報せばかりではなかった。
ヴェルドラの
それが分かったのは、投影盤の中のリムルが、ラージャ小亜国の王宮を飛び立った夜のことだった。
その夜の当番は、シュナとディアブロだった。技術陣の責任者はベスターが務め、超克者たちがその補佐を行う。
そこには、カレラ、ウルティマ、テスタロッサの三人も顔を揃えていた。
ラージャの事件の裏に原初の紫がいると、ウルティマ本人もよく分かっていたからだ。
間違いなくこの出来事は歴史の転換点になる。そう睨んでいた通りとなった。
まだ名を持たない頃のウルティマ──原初の紫が、カレラたちの知る歴史よりずっと早くリムルと出会い、刃を交え、この夜も祝宴の席でリムルの隣にいたのだ。
そして、場面は急転する展開を迎える。
夜の森の上空で、未来のリムルと原初の紫が、四つの人影と向き合っていた。
悪魔ラキュアと、隣国の将軍たちの肉体を乗っ取っていた三体の悪魔だ。ラキュアの額には禍々しい紫色の宝珠が埋め込まれ、理性を失ったうわ言を漏らしている。残る三体は、声一つ上げずに宙に浮かんでいた。
投影盤がその顔を捉えた瞬間、室内の空気が凍りついた。
「あの目……! あれは深淵で見たのと同じだ。まさかやつが……!」
最初に声を上げたのはカレラだった。
四体の悪魔の両眼は、白目ごと漆黒に塗り潰され、その中心に、赤く発光する瞳孔が三つずつ浮かんでいた。
「リムル様の姿を模倣し、愚弄したあの忌々しい存在……。死んだとは思っていませんでしたが、"あれ"も、ずいぶんとあきらめの悪いことですね」
ディアブロの顔から、いつもの笑みが消えていた。
「うわ、ラキュアだ。あっちでもリムル様に迷惑をかけるなんてね。しかも、今度はあんな化け物に体を明け渡してるし……。ボクの部下のくせに、ほんと使えないなあ」
ウルティマが、心底うんざりしたように言った。
ラキュアも、将軍たちの体を乗っ取っていた三体も、原初の紫の配下だ。自分の顔に泥を塗るような部下に、ウルティマが情けをかけることはない。
ヴェルドラは何も言わず、ギリッと牙を噛み鳴らした。
カレラとディアブロ、そしてヴェルドラの三人は、あの目の持ち主と深淵で直に戦っている。あの時自分たちを見据えていた化け物が、今度は装置の中の悪魔たちの体に影響を及ぼし、変異をさせていた。そのことを、三人は他の誰よりも早く悟っていた。
室内にいる者の視線が、投影盤の中のリムルへと集まる。
ファルムスの侵攻の日、リムルは糸が切れたように膝をつき、その正面に、三つの赤い瞳孔を持つ幻影が浮かび上がった。同じことが、また起きるのではないか。誰もが息を詰めて、投影盤の中の主を見守った。
リムル自身も、明らかに身構えていた。全身の魔素を巡らせたまま、数秒の間、ぴたりと動きを止めている。
しかし──何も起きなかった。
リムルは倒れなかった。足元がふらつくこともない。斬りかかってきたラキュアの剣を、隣にいた原初の紫がリムルの前に立ち塞がって弾き飛ばした。
「リムル様はご無事です! ヴェルドラ様の策が、ちゃんと効いているのですね!」
胸の前で両手を握りしめていたシュナが声を弾ませ、張り詰めていた室内から、一斉に安堵の息が漏れた。
ヴェルドラは装置の縁に置いた手に、そっと力を込めた。
深淵から盟友を連れ帰った後、ヴェルドラは改めて加護を与え、虹色の結晶でその体を包んだ。虚神に書き換えられることのない、竜種の守りだ。
投影盤の中のリムルが、その守りに気づいているのかどうかまでは分からない。
それでも、装置の外から手を出すことも、言葉を届けることもできずにいたヴェルドラにとって、自分の加護が、装置の中の盟友に今も効いているという事実は、何よりの救いだった。
「うむ、我の加護は、確かにあやつを守っておる。だがしかし……」
ヴェルドラの目は、投影盤の中の悪魔たちに浮かぶ三つの瞳孔から離れない。
「ヤツはやり方を変えてきたな」
リムル本人に手が届かないのなら、周りの者を使う。深淵で撃退したあの化け物がそう考えたのだと、ヴェルドラには思えてならなかった。
「……先日、回廊が断たれたのも、ヤツの仕業やもしれぬな」
あの日以来、誰も触れずにきたことを、ヴェルドラが初めて口にした。
その呟きに、ディアブロとカレラが揃って振り返った。確かめる術はない。だが、それを打ち消せる者も、この部屋にはいなかった。
ラキュアが斬りかかったその隙に、残る三体は王宮へ向けて飛び去っていた。リムルは刀を抜き、原初の紫と並んでラキュアに向き直る。一方、三体を迎え撃った投影盤の中のベニマルたちは、この世界の法則を無視する黒い茨に苦戦を強いられた。
「父上……! お兄様……!」
ヒイロを庇って前に出たキエンが黒い茨に押されるたび、シュナは息を詰め、唇を噛みしめた。
装置の中では、シュナたちの知る歴史で失ったはずの父が、兄と並んで戦っている。
未来のリムルがベニマル、シオン、そして原初の紫に、未来の彼ら自身の権能を一時的に貸し与えると、戦況は一気にひっくり返った。
父が道を拓き、兄がそこを駆け抜けて悪魔を討ち果たす姿に、シュナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「いいぞ、あっちのボク! ボクの『
「あら。羨ましいのなら、素直にそう言えばいいのよ、ウル」
唇を尖らせるウルティマに、隣のテスタロッサが涼しい顔で返した。
固唾を呑んで戦況を見守っていた室内に、ようやく小さな笑いが戻った。
その輪から少し離れたところで、超克者が記録の帳面を睨みつけていた。
「オークロードやカリュブディスの時には、あんな目は一度も出てこなかったネ。……だからこれは、ミー達のせいじゃないヨ」
その言葉に、ベスターが深く頷いた。
自分たちの試みが投影盤の中の敵を強めてしまったと分かったあの日から、技術陣は一切の試行を止めている。それでも現れたのならば、原因は別にある。技術陣の誰もが、同じ結論に辿り着いていた。
リムルは守られている。だが、あの三つの瞳孔は、リムル以外の者たちの目に浮かび始めていた。その夜を境に、室内の誰もが、投影盤に映る敵の目を確かめずにはいられなくなった。
*
虚神がやり方を変えたというヴェルドラの見立てが確かなものになったのは、ワルプルギスが開かれた日のことだ。
その日も、時間同期室には当番の顔ぶれに関わりなく人が集まっていた。
装置の中では、ユーラザニアの戦場と魔王達の宴が、同じ日に重なっていたからだ。
ベニマルやシオン、ディアブロ、原初の三人、それにゴブタとランガも、それぞれの持ち場から投影盤の前へ戻ってきている。医療区画と行き来していたギィも、この日ばかりはヴェルザードを伴って、部屋の端に陣取っていた。投影盤に映るのは、ギィ自身が席に着く宴なのだから、無理もない。
先に異変が起きたのは、ユーラザニアの戦場だった。
麻痺したはずのヤムザの腕が勝手に動き、懐から禍々しい宝珠を掴み出した。
投影盤の中のベニマルが鞘の先でそれを弾き飛ばしたものの、戦いが終わった後、地面に転がっていた宝珠から、ヤムザを取り込むこともなく、カリュブディスの幼体が直接生まれ出た。そのうちの一体が、またたく間に手足の生えた異形へと育った。
その巨体に浮かぶ瞳孔もまた、赤く、三つだった。
そのカリュブディスを仕留めたのは、ランガと一つになったゴブタの一撃だった。蹴りを放つゴブタの背後に、白銀の髪をなびかせた女性の幻影が浮かび、カリュブディスは全身を凍りつかせて、塵となって崩れ去った。
部屋のゴブタはまた自分の両手を見下ろして首をひねり、その足元で、ランガが誇らしげに尾を振っていた。
「まあ。私の幻影まで顕現するなんて。そのようなものを作っていると話には聞いていたけど、まさかここまでとはね」
自分と同じ姿の幻影を見上げて、ヴェルザードが楽しげに微笑んだ。
やがて、魔王達の宴の円卓でも異変が起きた。
追い詰められたクレイマンが力を求めた瞬間、響くはずの『世界の言葉』が乱れ、その肉体が嫌な音を立てて組み直されていく。どす黒いオーラが噴き上がり、円卓の魔王たちが一斉に顔色を変えた。投影盤の中のギィもまた、纏う空気を一変させていた。
「向こうのオレも気づいたか」
部屋の端で腕を組んだまま、ギィが口の端を吊り上げた。
「クレイマンごときに、あんな力が出せるわけがねえ。ただ、クレイマンを操ってた連中とは別のヤツが噛んでるとまでは、まだ思っちゃいねえだろうがな」
投影盤の中では、漫画本を懐にしまい込んだヴェルドラが、これまでの陽気さを消した顔で口を開いていた。
『今の「世界の言葉」の乱れ……あれは、ただ事ではないぞ。我が兄上の遺されたシステムに、直接手を突っ込んでくるモノがいるということだからな』
「うむ! さすがは我よ。抜かりない分析であるな!」
装置の傍らで、ヴェルドラが大きく胸を張った。
その横顔を眺めて、ヴェルザードがくすりと笑う。
「あらあら。あっちのヴェルドラちゃんの方が、ずっと頼もしく見えるわね」
「あ、姉上! あれも我ですぞ!」
慌てるヴェルドラの声に、室内のあちこちで笑いが漏れた。
やがて、クレイマンを退けた過去のリムルが、それでもクレイマンを殺さないと言い張ると、投影盤の中のギィはその過去のリムルへ剣を向けた。その一撃を受け止めたのは、影から現れた未来のリムルだった。
名乗りと問答を経て、未来のリムルの周りに冷気が渦巻き、深紅の結界の中が一瞬で極寒の世界に変わった。
『ハッ! ヴェルザードの「忍耐之王」を再現するとはな!』
「今度は私の権能まで……本当にリムルは好き放題やってくれるわね」
ヴェルザードが頬に手を当て、困ったように、それでいてどこか面白がるように呟いた。
幾度も打ち合った末に、投影盤の中のギィは自ら剣を引き、過去のリムルへ「お前の勝ちだ」と告げた。
「あら。あっちの貴方、ずいぶんあっさり引き下がったのね。本気を出せば、まだやれたでしょうに」
「いや、負けだな。ありゃあ、あっちのオレの判断が正しい。手札を隠してる相手を本気にさせようと思ったら、こっちも底の底まで出すしかねえ。それに、今日会ったばかりの相手に手の内を全てさらけ出すのも良くないと考えるだろうしな」
ヴェルザードの取りなしを打ち消して、ギィは悪びれもせずに肩をすくめた。
「ファルムスの時といい、今回といい、竜種の力をこれだけ振り回してるってのに、あっちのヴェルザードもヴェルグリンドも、動く気配すらねえとはな」
ギィが、投影盤から目を離さずに言った。
「ヴェルグリンドが嗅ぎつけりゃ、ミカエルやフェルドウェイが黙っちゃいねえだろう。それに、ヴェルザードが気づきゃ、あっちのオレがとっくにリムルのところへ乗り込んでるはずだ。……リムルのヤツ、うまく隠してやがるな」
「……そうね。ヴェルドラちゃんの反応が消えた時だって、私はすぐに分かったもの。自分の権能をあれだけ使われて、あっちの私が何も感じないはずがないわ」
ヴェルザードの声から、からかうような響きが消えていた。
「リムル様ご自身が、少しも気にかけておられませんからね。手は打ってあるのでしょう」
ディアブロが、揺るぎない声で言い切った。
リムルが隠している──ギィのその言葉を聞いて、ヴェルドラには別の考えが浮かんでいた。
思い浮かべたのは盟友ではなく、リムルの中にいる頼もしき相棒であった。だが、ヴェルドラは考えを口にはしなかった。
「ヴェルドラ様の仰った通りですね。ラージャの悪魔だけではありません。宝珠にも、クレイマンにも、"あれ"が力を注いでいる。ヴェルドラ様の守りがある限り、"あれ"はリムル様に直接手を出せない。だから今度は、リムル様の周りにいる者たちに手を伸ばして、盤面ごと揺さぶりにきている……ということでしょう」
宴の幕が下りるのを見届けてから、ディアブロが冷ややかな声で言った。
ヴェルドラは、黙って頷いた。
自分の加護が盟友を守るほど、あの化け物の手は投影盤の中の他の者たちへ向かう。ヴェルドラにとって、それは手放しで喜べることではなかった。
*
そして、今夜。
投影盤の中では、ワルプルギスを終えて国へ戻った二人のリムルが、温泉で疲れを癒し、過去のリムルの私室で静かに杯を交わしていた。
その席で、未来のリムルは過去の自分に、一つの頼みを託した。
──俺が俺でなくなった時は、皆の、いや、お前の手で俺を始末して欲しい。
そのリムルの声は、過去のリムルに届いただけではない。
時間同期室で投影盤を見上げる者たちもまた、その言葉を確かに聞いていた。
「……すべては、我の責任だ」
ヴェルドラの胸に、これまでの出来事が去来していた。
魂の回廊が断たれたことも、ラミリスが今も眠ったままであることも、そして盟友に、このような覚悟を口にさせてしまったことも、元を正せば、自分が装置に入ったところから始まっていた。深淵であの化け物は、そのおかげでリムルのことを知ることができたと、ヴェルドラに礼まで言ってのけたのだ。
しかも、自分に続きたいと言い出したラミリスに、真っ先に賛成したのも自分だった。
あの時、我が余計な口を挟まなければ。
軽々しく背中を押したりしなければ。
盟友をあのような孤独な戦いに送り出してしまった己の不甲斐なさを呪う、一人の戦士の顔がそこにあった。
「ヴェルドラ様。どうか、ご自身を責めるのはおやめ下さい」
重苦しい沈黙を破り、傍らに控えていた炎の魔人──カリスが静かに膝をついた。
主が我を忘れかけた時、それを諌められる者。
そういう役目を負わされているのだと、この従者は誰よりも自覚していた。
「あのような事態になろうとは誰にも予見できるものではありませんでした。リムル様も、ラミリス様も、ヴェルドラ様がそのように悲しまれることを決して望んではおられません」
「……分かっておるわ」
ヴェルドラは短く答えたが、その視線は投影盤から逸れることはなかった。
(……なぜだ、シエルよ)
胸の内で、誰にも聞かせられない問いを転がす。
深淵から戻って以来、幾度となく繰り返してきた問いだった。
あの時、確かに繋がった。
ほんの一瞬、細い糸のように届いたあの感覚を、ヴェルドラは忘れていない。
(我は、貴様が万全の状態ではないと思っていた。だが、あの姉上方の目すら欺くほどの力を、貴様はまだ振るっておる)
ならばなぜ、それきりなのだ。
なぜ、あやつには何も告げてやらぬのだ。
(伝えられぬのか。それとも──)
そこから先を、ヴェルドラは考えまいとした。
考えたところで確かめる術はなく、ただ疑いだけが降り積もっていくと知っていたからだ。
「……カリスよ」
「はっ」
「我は、待つことがこれほど苦手だったとはな」
「存じております」
即答だった。
ヴェルドラは毒気を抜かれたように鼻を鳴らし、それきり口を閉ざした。
「……カリスの言う通りです。悔やむべきは、俺たちの方だ」
さらに言葉を継ぐように、時間同期室の扉が開いた。
現れたのは、遺されたテンペスト陣営を実質的にまとめ上げている大元帥──ベニマルだ。
彼の顔には深い悔恨が刻まれていたが、その瞳の奥には決して消えない闘志の炎が燃え盛っていた。
「テンペスト全軍の防衛再編、および迷宮内の警戒態勢の強化、完了しました。……俺たちが不甲斐ないばかりに、リムル様にすべてを背負わせてしまった。ですが、だからこそ俺たちは歩みを止めるわけにはいかない」
「クフフフ……お二人とも。リムル様のご決断をそのように憂うなど、不敬の極みですよ」
ベニマルの熱い言葉を遮るように、部屋の暗がりからヌルリと滲み出るように現れたのは、悪魔公ディアブロだった。
そしてその背後からは、純白の髪を揺らし、真紅の瞳に底知れぬ怒りを宿した『原初の白』──テスタロッサが優雅な所作で歩み出る。
「ディアブロの言う通りですわ。リムル様があのような理不尽な決断を強いられたのは、ひとえにわたくしたち配下の力不足ゆえ。ヴェルドラ様お一人が罪を背負う必要など、どこにも御座いません」
「ええ。我々はただ、主の帰還を信じ、留守の国を完璧に守り抜くだけです。……とはいえ、リムル様を謀った愚か者どもをこのまま野放しにするつもりもありませんがね」
ディアブロとテスタロッサ。テンペストの暗部を担う最高幹部二柱は、不敵な、そしてこの上なく残酷な微笑を浮かべていた。
「あの得体の知れない存在の干渉について、我々の方でも独自の解析を進めております。必ずや尻尾を掴み出し、魂の消滅すら生温い地獄を味わわせて差し上げましょう」
「当然ですわ。あの方を失うなど、わたくしたちが許すはずがありませんもの」
解析卓の前から、ベスターも静かに口を開いた。
「ヴェルドラ様が深淵で受け取ってくださった法則の一端を、これまでの試行の記録に当てはめたところ、届かなかった言葉が装置のどこへ流れ込んでいったのか、その道筋を追えるようになりました。それとは別に、あの存在の法則だけは、他と見分けられるようにもなっております」
悲しむのではなく、怒りと絶対の信頼を原動力にし、各々がやるべきことを完璧にこなしている。
誰も絶望などしていない。最高に盤石で頼もしい、遺された陣営の『総意』がそこにあった。
「『万が一の時は俺を始末しろ』だと? 笑わせるな、リムルよ……」
投影盤の向こう側で、孤独に戦い続ける盟友の姿を見つめ、ヴェルドラは静かに、だが絶対の決意を込めて言葉を落とした。
「我らが盟友に、己ひとりで全てを終わらせるような悲しい真似をさせるわけがなかろう。……必ず助け出すぞ、リムル」
「ええ。もちろんです。リムル様、待っていてください」
ベニマルが力強く頷き、カリスが深く頭を垂れる。
ディアブロとテスタロッサは何も言わず、ただ静かに首肯した。
断たれた繋がりの痛みを、言葉にすることさえ拒むように。
『あちら側』の誰も知らない、もう一つの現実。
真なる絶望と希望が交錯する『こちら側』の世界でもまた、最強の陣営が主を奪還すべく、静かに牙を研いでいた。
それから、まだ数時間しか経っていない。
投影盤の中の町は寝静まり、時間同期室の照明も、時間に合わせて一段落とされている。
解析装置のある一角では、今も技術陣が手を止めずに作業を続けていた。
*
光の届かない、深淵の底。
かつて無数の目に埋め尽くされていたその奈落に、今は虹色の結晶が満ちていた。
一本の結晶から枝が伸び、その枝からまた次の枝が伸びる。根を張り、絡み合い、幾重にも重なり合った結晶は、いつしか果ての見えない森となっていた。虹色の淡い光だけが、辺りの闇をぼんやりと照らしている。
ヴェルドラの豊穣なる神秘の波動が生んだ結晶は、あの日から一度も止まることなく育ち続けている。
その森の中心に、それはいた。
リムルと同じ姿をしたもの。胸を、肩を、腕を虹色の結晶に貫かれ、深淵に縫い止められたままの、絶界の虚神だった。
あれから、どれほどの時が流れたのか。虚神は、それを数えようともしなかった。この存在にとって、時はさしたる意味を持たない。
結晶を書き換えようとする試みは、幾度となく繰り返された。
だが、この結晶は攻撃ではない。ただ根を張り、包み込み、封じるだけの加護だ。「傷つける」「滅ぼす」という向きを初めから持たない力には、書き換えられるものが、どこにもなかった。
そして、装置の溶液の中で眠るリムルの体もまた、同じ結晶に包まれている。
真正面から手を伸ばす道は、あの竜によって、完全に塞がれていた。
結晶に覆われた顔の中で、閉じていた両の目が開き、三つずつの赤い瞳孔が浮かび上がった。
その目が見上げる先、結晶の枝の隙間から、針の先ほどの光がのぞいている。
かつて、あの竜と二人の悪魔が、リムルを連れて昇っていった光だ。
『──待っていてね、『私』』
優しく、甘く、そしてひどく歪なその囁きは、虹色の結晶群の奥へと溶けていった。
『こちら側』の者たちが牙を研ぐ、その遥か下で。
静かなる侵蝕の幕が、再び上がろうとしていた──。
転生したらスライムだった件 〜双星の智慧と新たなる理想郷~ 第七部 完
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回もあとがきは活動記録に記載しますので、もし興味があれば読んでいただければ幸いです。