森の奥に、春があった。
北側諸国の冬は厳しい。
雪は深く、風は冷たく、木々は枝先まで凍りつく。けれど、その谷だけは違っていた。
柔らかな草が生え、細い水路が流れ、畑には見慣れない野菜が並んでいる。石造りの小さな家の煙突からは、白い煙がまっすぐ空へ伸びていた。
その家で、彼女は鍋をかき混ぜていた。
「……違う」
木匙で少しだけ掬い、舌に乗せる。
塩気が強い。
香りも足りない。
何より、記憶の中にある味と違う。
「味噌、三百四十二回目。失敗。香りは近い。けど、まだ薄い。旨味が足りない」
彼女はそう呟いて、机の上の記録帳に文字を書き足した。
額から伸びる二本の角が、窓から差し込む光を受けて淡く光っている。赤い瞳は眠たげで、白い指先にはインクの染みがついていた。
人間ではない。
それだけは、目覚めたときからわかっていた。
けれど彼女は、自分を正しく理解していなかった。
前世の記憶があった。
別の世界で、人間として生き、死んだ記憶。
気づけば女の姿になっていて、額には角があり、瞳は赤かった。
そして体の奥には、熱とも圧ともつかない、得体の知れない力が渦巻いていた。
最初は、それが何なのかわからなかった。
ただ、手を伸ばして火がほしいと思えば枯れ枝に火が灯り、水がほしいと思えば地面から清水が湧き、壁がほしいと思えば石が積み上がった。
それは魔法だった。
少なくとも、彼女はそう呼ぶしかなかった。
この世界でそれが「魔力」と呼ばれるものなのだと知るのは、もっと後のことだ。
最初はただ、未知の力だった。
彼女は泣いた。
叫んだ。
水面に映る自分の顔を見て、何度も「これは夢だ」と呟いた。
だが、夢ではなかった。
腹は減る。
寒さも感じる。
眠れば夢を見る。
ひとりでいれば寂しい。
なら、まだ自分は自分なのだと、そう思うことにした。
自分は、角が生えていて、赤い目をしていて、得体の知れない力を持っている。
それ以上のことは、わからなかった。
寿命が長いのかどうかも、最初は知らなかった。
ただ、何年経っても姿が変わらず、何十年経っても老いる気配がなく、何百年が過ぎても体が同じままだったから、ようやく理解した。
自分は、人間とは違う時間を生きる体になってしまったのだと。
名前が必要になったのは、その頃だった。
最初のうち、彼女は自分を名前で呼ばなかった。
前世の名前は覚えていた。
けれど、それをこの姿で口にするのが怖かった。
その名は、人間だった自分のものだった。
男だった自分のものだった。
今の、角があり、赤い目をした女の口で呼んでしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
だから、記録帳にはいつも「私」とだけ書いた。
『私は人間だった』
『私は今日も失敗した』
『私はまだ、人間だったことを覚えている』
それで十分だと思っていた。
だが、何十年も何百年も経つうちに、彼女は気づいた。
このままでは、自分は誰にも呼ばれない存在になる。
誰にも呼ばれない名前は、やがて自分自身からも遠ざかっていく。
前世の名前は、しまっておきたかった。
けれど、新しい名前は必要だった。
記録のためではない。
いつか誰かに会えたとき、差し出せるものがほしかった。
彼女は何日も悩んだ。
長い名前は怖かった。
立派な名前も似合わない。
前世をそのままなぞる名前も、今の自分を否定している気がした。
だから、短くした。
呼びやすく、書きやすく、前世の自分とも、今の怪物じみた姿とも、少しだけ距離のある名。
ノア。
記録帳の新しいページに、彼女は初めてそう書いた。
『今日から、私はノアと名乗る』
書いた瞬間、胸が痛んだ。
けれど、少しだけ楽にもなった。
前世の名を捨てたわけではない。
ただ、この世界で迷子にならないための杭を打ったのだ。
それから彼女は、自分をノアと呼ぶようになった。
最初の数十年、ノアは外へ出られなかった。
怖かったからだ。
力の制御があまりに不安定だった。
火がほしいと思えば、枝だけでなく周囲の草まで燃えかけた。
壁がほしいと思えば、石壁が家の中まで突き抜けた。
寒いと思っただけで、谷の一角だけが春になった。
怒れば水路があふれ、泣けば部屋の床が柔らかい泥に変わった。
そんな状態で誰かのいる場所へ行けば、何かを壊すかもしれない。
誰かを傷つけるかもしれない。
それが怖かった。
この世界の言葉も、最初はよくわからなかった。
森の外れに崩れかけた古い石碑があった。そこに刻まれていた文字を拾い、前世の文字と照らし合わせ、何十年もかけて少しずつ読み書きを覚えた。
話し相手はいなかった。
発音が合っているのかもわからない。
ただ、もし誰かに会ったとき、言葉すら通じなければ本当に怪物になってしまう気がして、ノアは毎日、石碑の前で声を出した。
「水」
「火」
「家」
「食べ物」
「こんにちは」
「私の名前は、ノアです」
その一文だけは、何度も練習した。
声に出すたび、少しだけ胸が震えた。
誰かに呼ばれる予定などない。
それでも、もしその日が来たら。
もし、自分が怪物ではなく、ひとつの名前を持つ存在として誰かの前に立てたら。
そのとき、最初に差し出すものが必要だった。
食べ物の問題は、もっと身近だった。
森の木の実を集め、川魚を捕り、前世の記憶を頼りに料理を作る。最初はそれだけだった。
やがて、ノアは自分の力で米に似た穀物や、肉に似た食材を作れるようになった。
正確には、作れるようになってしまった。
この力は、生き物には作用しない。
鳥を生み出すことはできない。
鹿の傷を癒やすこともできない。
魚の命を作ることもできない。
けれど、石や土や水や空気、家、道具、食材、地形、気候には作用した。
石を壁として定義すれば、そこに壁が立つ。
土を畑として整えれば、作物が育つ。
谷の空気を春の環境に変えれば、雪の森の中に花が咲く。
ノアはその魔法を、自分の記録帳にこう書いた。
無生物の性質を書き換える魔法《アイゲンシャフト》。
名前をつけたのは、記録しやすくするためだった。
谷を春のまま保つ魔法は《フリューリング》。
前世の料理を再現する魔法は《ゲシュマック》。
鞄の内側だけを広げる魔法は《インネンラウム》。
空気を硬い盾にする魔法は《ルフトヴァント》。
どれも、戦うための魔法ではなかった。
少なくとも、ノアはそう思っていた。
三千年ほど、ノアはそうして暮らした。
研究して、失敗して、泣いて、また研究した。
米は最初、白い砂利だった。
醤油は香りだけ近く、味はなかなか追いつかなかった。
パンは一度、触るたびに増えるようになった。しかも、増えたパンにも同じ性質があった。
ある朝、家がパンで埋まった。
ノアは泣きながら食べた。
以来、その失敗作は地下室の奥に封印している。
外へ出なくても暮らせるようになった。
それが、かえって悪かった。
暮らせてしまったのだ。
誰にも会わずに。
誰にも名前を呼ばれずに。
誰にも「おはよう」と言わずに。
森の奥で、ただ生き延びられてしまった。
けれど、三千年は長すぎた。
ある日、ノアは記録帳を読み返していて、手を止めた。
『私は人間だった』
何度も書いた言葉。
だが、その下に書こうとした前世の家族の顔が、うまく思い出せなかった。
声も曖昧になっていた。
名前だけは覚えている。
けれど、その名前を呼ぶ声が思い出せない。
ノアはその夜、眠れなかった。
このままでは、自分が人間だったことを、いつかただの文字としてしか覚えていられなくなる。
そう思った。
もう一つ、現実的な理由もあった。
塩が尽きかけていた。
ノアの魔法は、何もないところから無限に物を生む魔法ではない。石や土や水の性質を書き換えることはできる。似た材料から、記憶にある味に近づけることもできる。
だが、完全な無から塩を作ることは難しかった。
谷の奥にあった塩を含む鉱石は、長い年月の研究と料理でほとんど使い切っていた。紙に使う繊維も、薬に使う鉱物も、少しずつ足りなくなっていた。
外へ出るしかない。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
人間に会いたい。
だが、怖い。
会えば、自分が何者なのかを突きつけられるかもしれない。
それでも、もう限界だった。
材料が尽きるからではない。
孤独に慣れすぎた自分が、このまま誰にも会わずに平気になってしまうことが、何より怖かった。
ノアは帽子を作った。
角を隠すための、大きめの帽子。
目の色を変える幻影も何度も練習した。
荷物は小さな鞄にまとめた。中には記録帳、薬、少しの保存食、そして交換できるかもしれない小さな細工物を入れた。
人間に会いに行く、というほど勇ましいものではなかった。
必要な材料を探す。
できれば、遠くから人間の暮らしを見る。
話しかけるのは、無理なら諦める。
その程度のつもりだった。
そうしてノアは、初めて森の外へ出た。
最初に見つけたのは、小さな村だった。
煙突から煙が上がっていた。
畑があった。
家畜がいた。
子どもが走っていた。
焼きたてのパンの匂いがした。
ノアは、それだけで足を止めた。
魔法で再現したものではない。
誰かが粉をこね、火を入れ、家族や村人のために作った、本物のパン。
見ているだけのつもりだった。
近づくつもりはなかった。
だが、風に乗って届いた匂いが、あまりにも懐かしかった。
前世のものとは違う。
けれど、誰かが誰かのために食べ物を作る匂いだった。
ノアは、一歩だけ門へ近づいた。
それが間違いだった。
門番が彼女を見た。
帽子の下から、角の先が少しだけ覗いていた。
幻影は、緊張で揺らいでいた。
赤い目が、ほんの一瞬だけ見えた。
門番の顔が青ざめた。
「魔族だ!」
ノアは動けなくなった。
鐘が鳴った。
女が子どもを抱えて逃げた。
男たちが槍を構えた。
弓がこちらへ向けられた。
魔族。
その言葉が、自分に向けられたものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「ち、違……」
違わなかった。
額には角がある。
目は赤い。
体の奥には、人間のものとは思えないほど大きな力が渦巻いている。
人間から見れば、どう見ても魔族だった。
ノアは逃げた。
飛んできた矢を《ルフトヴァント》で逸らし、追ってきた男たちの足元を柔らかい土に変え、森の道を木で塞いだ。
誰も死ななかった。
けれど、門番たちは恐怖していた。
ノアはその顔を忘れられなかった。
家に戻ったノアは、床に座り込んだ。
「……私、魔族だったんだ」
声に出すと、ひどく遠い事実のように聞こえた。
それから数日、ノアは外に出られなかった。
自分が何なのかを考え続けた。
魔族。
人間から恐れられる存在。
人間にとっての敵。
だが、自分にはその実感がなかった。
では、自分は何なのか。
人間だった記憶を持つ魔族。
そう言えば簡単だが、そんなものを誰が信じるのか。
やがてノアは、もう一度だけ街道に出た。
今度は人間に近づかなかった。
帽子で角を隠し、幻影で目の色を変え、遠くから旅人たちの話を聞くだけにした。
今の世界を知る必要があった。
自分が何に怯えられているのか、知らなければならなかった。
そこで、彼女は名前を聞いた。
勇者ヒンメル。
僧侶ハイター。
戦士アイゼン。
魔法使いフリーレン。
ノアの呼吸が止まった。
知っている名前だった。
前世で触れた物語の名前。
けれど、すぐに何かをするつもりにはなれなかった。
会いに行こうなどとは思わなかった。
むしろ逆だった。
関わってはいけない。
自分は魔族だ。
フリーレンがいる。
魔族を殺す魔法使いがいる。
それがどれほど危険なことか、前世の記憶がなくても、村で向けられた弓と悲鳴だけで十分わかった。
この世界が、前世で知っていた物語に似ている。
あるいは、そのものなのかもしれない。
だが、それを誰かに言うつもりはなかった。
そもそも、言う相手などいない。
言ったところで意味もない。
未来を知っているつもりで動けば、かえって何かを壊すかもしれない。
だからノアは、何もしないことにした。
森へ帰る。
谷をさらに隠す。
人間の近くには行かない。
それでいい。
そう決めて、街道から離れようとした。
その直後だった。
街道の向こうから、四人が歩いてきた。
青い髪の勇者。
酒瓶を片手にした僧侶。
斧を背負う小柄な戦士。
白い髪のエルフ。
ノアは、息を止めた。
よりによって。
よりによって今、ここで。
彼女は踵を返そうとした。
静かに、気づかれないように、森へ戻る。
だが、遅かった。
フリーレンの視線がこちらを向いた。
「ヒンメル」
眠たげな声。
けれど、どこか冷たい声。
「魔族がいる」
ノアは、逃げることも隠れることもできなくなった。
ここで逃げれば、追われる。
戦えば、殺される。
黙っていれば、そのまま討たれる。
足から力が抜けた。
ノアはその場に膝をついた。
「ま、待ってください!」
声が震えた。
情けないほど涙が出た。
「私は人間を殺してません! 本当に、森でずっと研究してただけなんです!」
フリーレンは杖を向けた。
「魔族の言葉を聞く必要はないよ」
「はい! そうですよね! 今ならわかります! でも、本当なんです!」
「魔族はそう言う」
「だから信じなくていいです!」
ノアは叫んだ。
額が地面に近づく。
「信じなくていいです。監視してください。拘束してください。私の家を調べてください。近くの村で、私が誰かを殺していないか確かめてください。だから、確認する前に殺さないでください」
フリーレンの杖先は下がらない。
「確認する意味がない」
「フリーレン」
ヒンメルが一歩前へ出た。
「まだ攻撃されていない」
「魔族だよ」
「わかっている」
「その魔力、普通じゃない。七崩賢に近い。いや、性質が違うぶん、もっと厄介かもしれない」
ノアの肩が跳ねた。
「……魔力?」
思わず、そんな声が漏れた。
フリーレンは少しだけ目を細める。
「知らないの?」
「これ、魔力って言うんですか」
「君、自分の力の名前も知らずに使っていたの」
「森に三千年引きこもっていたので……」
ハイターが目を丸くした。
「ずいぶん情けない魔族ですね」
「情けなくてすみません……」
「謝るのですか」
「癖で……」
アイゼンは斧に手をかけたまま言った。
「演技かもしれん」
「そうだね」
ヒンメルは頷いた。
その声は優しい。
だが、甘くはなかった。
「だから確認する」
「危険だよ」
フリーレンは言った。
「危険なのはわかっている。でも、何も確かめずに斬るには、少し変すぎる」
「変?」
「泣きながら、自分を信じるなと言う魔族は、僕は初めて見た」
ノアは顔を上げられなかった。
助かったわけではない。
ただ、刃が落ちる前に確認の時間が与えられただけ。
それでも、今すぐ死なずに済んだ。
その事実だけで、涙が止まらなかった。
「名前を聞いてもいいかい?」
ヒンメルが尋ねた。
ノアはびくりと肩を震わせた。
名前。
三千年、誰にも差し出すことのなかったもの。
何度も練習した言葉。
けれど、いざ口にしようとすると、喉がひどく乾いた。
「……ノア、です」
声は震えていた。
「私の名前は、ノアです」
ヒンメルは、その名を一度だけ繰り返した。
「ノア」
たったそれだけだった。
それだけで、ノアの胸が詰まった。
三千年、自分でしか呼ばなかった名前が、初めて他人の声で形になった。
フリーレンは杖を下げなかった。
アイゼンも斧から手を離さなかった。
それでも、ヒンメルは名前を呼んだ。
魔族ではなく、ノアと。
「ノア。君の家を見せてくれるかい?」
「……はい」
「逃げないでね」
「逃げません。逃げたら殺されるので……」
「正直だね」
「嘘をつくと、もっと殺されそうなので……」
ハイターが小さく笑った。
「やはり、妙な魔族ですね」
ノアは小さく頭を下げた。
「妙で、すみません……」
だが、そこで同行が決まったわけではなかった。
ヒンメルたちはまず、ノアの家を調べた。
冬の森の中にある春の谷。
畑。
水路。
石造りの家。
地下室に並んだ魔法式の記録。
フリーレンだけが、わずかに目を輝かせていた。
「気温を上げているんじゃない。ここだけ“春の環境”として書き換えてる」
「はい。《フリューリング》です」
「すごいね」
「殺されますか?」
「すごいことと危険なことは両立するよ」
「はい……」
家の中に殺人の痕跡はなかった。
あったのは生活と研究の痕跡だった。
食材の再現記録。
失敗した魔法具。
薬草の栽培記録。
空間を広げる鞄。
冷気を保つ箱。
封印された、触ると増えるパン。
そして、三千年分の日記。
ヒンメルは日記を読んだ。
ハイターも読んだ。
アイゼンは出口を塞ぐように立ち、ノアを見張っていた。
フリーレンは魔法式を読みながら、ときどき日記へ目を落とした。
『私は人間だった。今は魔族だ。どちらも本当なら、私は何なのだろう』
『今日、角のある同族らしきものが来た。人間を殺した話をしていた。私は怖かった。同じ言葉を話しているのに、何も通じなかった』
『今日から、私はノアと名乗る。いつか誰かに会えたとき、差し出せるものがほしい』
『人間に会いたい。でも、怖がらせると思う。私は人間だったのに、人間にとっては怪物なのだろうか』
『米に近いものができた。誰かと食べたいと思った。誰もいない』
長い沈黙があった。
フリーレンが言った。
「嘘かもしれない」
「はい」
ノアは頷いた。
「私が言っても、全部そうなります」
「でも、三千年分の孤独を偽装するのは面倒だね」
「面倒で済ませるんですか……」
「魔法式も本物。食料の研究も本物。少なくとも、この家で人間を殺して暮らしていた痕跡は見えない」
それでも、信用はされなかった。
当然だった。
その夜、ノアは家の居間で座らされていた。
フリーレンは真正面で杖を膝に置いている。
アイゼンは扉の前。
ハイターは台所にある薬草や保存食を調べている。
ヒンメルは窓の外を見ていた。
逃げ場はない。
ノアは震えながら、手を膝の上で握っていた。
「あの」
ノアが小さく言う。
「逃げません」
「逃げたら追うよ」
フリーレンが答える。
「はい……」
「君が人を殺していない証拠はまだない」
「はい」
「村も確認する」
「はい」
翌日、ヒンメルたちはノアを連れて、最初の村へ向かった。
もちろん、角は帽子で隠した。
目の色は幻影で変えた。
しかし、ノアの力の気配は完全には隠せなかった。
門番は、数日前の騒ぎを覚えていた。
「魔族が出たんだ。女の姿だった。角があって、赤い目をしていた」
村長はそう言った。
ノアは帽子の下で顔を青くした。
「人は?」
ヒンメルが尋ねる。
「死者はいない。怪我人は出た。追いかけた若い者が転んで足を捻ったのと、弓を構えた男が、急に生えた木に驚いて腰を抜かした」
「襲われた?」
「いや。向こうは逃げた。ただ、魔族だ。何を考えていたかわからん」
ノアは何も言えなかった。
それは自分のことだ。
パンを買いたかっただけ。
けれど、彼らからすれば、それで済むはずがない。
魔族が村に近づいた。
それだけで恐怖だ。
村を出た後、ノアは道端で膝をついた。
「ごめんなさい」
誰に向けた言葉かわからなかった。
ヒンメルは静かに言った。
「少なくとも、死者はいなかった」
「はい……」
「でも、村の人たちは怖がっていた」
「はい」
「それも事実だ」
「はい」
ヒンメルはノアを見た。
「君は、どうしたい?」
ノアはすぐには答えられなかった。
森へ帰りたい。
隠れていたい。
もう人間に会いたくない。
そう思う。
けれど、村の煙突やパンの匂いや、逃げていく子どもの顔を思い出すと、胸が痛んだ。
「私は……」
声が震えた。
「人間に、怖がられたくなかったです」
「うん」
「でも、怖がらせました」
「そうだね」
「だから、どうすればいいのか、わかりません」
ヒンメルは少し考えた。
「なら、しばらく僕たちと来るかい?」
ノアは顔を上げた。
フリーレンが横から言う。
「私は反対」
「だろうね」
「危険すぎる。魔力が大きい。魔法も異質。魔族であることも変わらない」
「うん」
「でも、ヒンメルは連れていくんでしょ」
「まだ決めてはいないよ」
ヒンメルはノアを見る。
「君が決めることでもある」
「私が?」
「逃げて森に戻るなら、僕たちは追うことになる。君が危険だからだ。でも、僕たちの監視下にいるなら、君が何をするのか見られる」
それは優しい提案ではなかった。
ほとんど拘束だった。
けれど、ノアにはわかった。
これは、今この場で殺されずに済むための、唯一の道だ。
「私が、人を傷つけたら」
「僕たちは君を討つ」
ヒンメルははっきり言った。
「僕も、フリーレンも、アイゼンも、ハイターも」
「はい」
「でも、君が人を助けるなら、それも見る」
ノアは息を呑んだ。
信じるとは言われていない。
許すとも言われていない。
それでも、見る、と言われた。
「……行きます」
ノアは震える声で言った。
「監視でも、拘束でもいいです。森に戻って、またひとりで何百年も何千年もいるのは、もう少し怖いです」
フリーレンは杖を軽く持ち直した。
「少しでもおかしなことをしたら殺すよ」
「はい」
「逃げても殺す」
「はい」
「泣いても殺すときは殺す」
「はい……そこは少し優しくしてほしいです……」
「考えておく」
「考えるだけですか……」
ハイターが笑った。
「本当に妙な魔族ですね」
アイゼンは短く言った。
「荷物をまとめろ。出発は早い」
こうして、勇者一行の旅に魔族が加わった。
もちろん、表向きにはいないものとして扱われた。
人里では帽子を深くかぶる。
目の色は幻影で変える。
力の気配は、フリーレンに叩き込まれた方法で必死に抑える。
それでも、魔法に長けた者には違和感を持たれることがあった。
だからノアは、できるだけ影にいた。
最初の数ヶ月、ノアはほとんど役に立たなかった。
魔族が現れると震えた。
戦闘になると足がすくんだ。
フリーレンの魔法が魔族を撃ち抜くたびに、ノアは顔を青くした。
魔族は死ぬと、魔力の粒子になって消えた。
肉も骨も残らない。
墓に入れる体もない。
それを初めて見たとき、ノアは吐いた。
自分もこうなるのだと思った。
同じ存在が、何も残さず消える。
それが恐ろしかった。
けれど、その魔族が襲った村には、怪我人がいた。
燃えかけた家があった。
泣いている子どもがいた。
ノアは震えながら、火の回りを止めるように空気の性質を変えた。
崩れた壁を支えた。
落ちてくる梁を軽い木片に変えた。
傷を治すことはできない。
でも、ハイターが治療しやすいように、清潔な水と布を用意することはできた。
その夜、ヒンメルはノアに言った。
「助かったよ」
ノアは固まった。
「私が、ですか」
「君がいなければ、家がもう一軒燃えていた」
「でも、私は魔族で」
「それと、今日君が助けたことは別だ」
ノアは何も言えなかった。
その日から、少しずつ変わった。
ノアは前に出ない。
敵を直接殺さない。
けれど、戦場の形を変えた。
敵の足場を泥にする。
味方の道を石畳にする。
矢の軌道に空気の壁を置く。
崩れた橋を一時的に補強する。
魔族の魔法陣が刻まれた床の性質を変えて、陣を歪ませる。
フリーレンはそのたびに目を細めた。
「やっぱり厄介だね、君の魔法」
「褒めてますか?」
「褒めてる」
「殺す理由を確認してるように聞こえます」
「それもある」
「怖い……」
アイゼンは戦場での立ち位置を教えた。
「前に出るな」
「はい」
「下がりすぎるな」
「はい」
「怖いなら、怖いまま動け」
「難しいです」
「戦場は優しくない」
「はい……」
ハイターはノアの料理を気に入った。
「この米に似たもの、酒の後にいいですね」
「僧侶なのに、また飲んでる……」
「僧侶だからこそ、人生の潤いが必要なのです」
「説得力があるようでないです」
ヒンメルは、ノアを普通に呼んだ。
「ノア、そこの布を取ってくれるかい」
「はい」
「ノア、今日は町に入る。怖いなら僕の後ろに」
「はい……」
「ノア、このパンは君にも買ってきた」
「……私に?」
「食べたかっただろう?」
ノアはそのたびに、少しずつ泣いた。
三千年、誰にも名前を呼ばれなかった。
誰にも食事を分けてもらわなかった。
誰にも「君にも」と言われなかった。
だから、旅は怖くて、苦しくて、それでも森での三千年よりずっと眩しかった。
やがて、一行は魔王城へ至った。
そこまでの旅路で、ノアは多くの魔族を見た。
人間の声を真似る魔族。
命乞いの言葉だけを道具のように使う魔族。
人間を殺した話を、何でもないことのように語る魔族。
そして、ノアを見るたびに、必ず言った。
「なぜ人間の側にいる」
「お前は魔族だろう」
ノアはそのたびに、震えながら答えた。
「私は、あなたたちみたいになりたくない」
「意味がわからない」
「私も、あなたたちがわかりません」
魔王城の最奥。
魔王のために整えられた戦場は、ただ広いだけの部屋ではなかった。
床には魔法陣が刻まれ、柱は魔力の流れを整え、壁そのものが結界の一部になっていた。空気は重く、足元には見えない圧がかかり、魔法を放てばわずかに軌道を逸らされる。
フリーレンが眉を動かした。
「ここ、戦いやすいように作られてる。私たちじゃなくて、魔王にとってね」
ノアにもわかった。
魔王という存在は、ただ強いだけではなかった。
戦場そのものが、魔王の味方をしている。
ヒンメルが剣を構える。
アイゼンが前に立つ。
ハイターが祈りを紡ぐ。
フリーレンが杖を上げる。
ノアは震えていた。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
だが、逃げなかった。
魔王がノアを見た。
「魔族か」
その声は、静かだった。
責めるでもなく、嘲るでもなく、ただ事実を確かめるようだった。
「なぜ人間の側に立つ」
ノアは泣いていた。
でも、ヒンメルの隣に立った。
「人間だったから、ではありません」
声が震える。
「人間に戻りたいからでもありません」
ノアは杖を持たない。
ただ、両手を床に向けた。
魔王城の床に、白い線が走る。
この旅の中で、ノアが一度も使わなかった魔法だった。
何度も考え、何度も式を組み、森の谷で小さな範囲だけ試したことはある。
けれど、戦場で使ったことはなかった。
範囲が広すぎる。
対象が複雑すぎる。
敵の結界だけでなく、味方の足場や防御、フリーレンの魔法の流れまで巻き込むかもしれない。
だから、普段の戦いでは使えなかった。
使うなら、戦場そのものが敵のために作られていて、なおかつ一瞬だけすべてを白紙に戻す価値がある場面。
そんな都合のいい状況など、普通はない。
だが、ここは魔王城だった。
床も、柱も、壁も、空気も、魔力の流れも。
すべてが魔王のために整えられている。
ならば、白紙に戻す価値がある。
戦場の条件を何もない状態に戻す魔法《ヌルフェルト》。
魔王そのものには効かない。
生き物には作用しない。
だが、魔王のために整えられた床、柱、壁、空気、魔力の流れ、結界の支点には作用する。
それらを一瞬だけ、意味のないものへ戻す。
戦場を、白紙にする。
ノアの角にひびが入った。
赤い瞳から涙が落ちる。
体の奥の力が、根こそぎ持っていかれる。
「私は、あの人たちの隣で生きたいと思った」
魔王城が軋んだ。
魔法陣の光が乱れる。
柱を流れていた魔力が途切れる。
結界の圧が一瞬だけ消える。
魔王の魔法が歪んだ。
「だから、こちら側に立ちます」
その一瞬を、勇者は逃さなかった。
アイゼンが道を開いた。
ハイターが全員を支えた。
フリーレンが魔王の防御を穿った。
そしてヒンメルの剣が、魔王へ届いた。
魔王は倒れた。
死体は残らなかった。
膨大な魔力だけが、ほどけるように空へ散っていった。
ノアは膝をついた。
「……勝ちました?」
ヒンメルが駆け寄る。
「勝った」
「よかった……」
ノアは笑って、そのまま倒れた。
人類は勝利した。
勇者ヒンメル。
僧侶ハイター。
戦士アイゼン。
魔法使いフリーレン。
四人の英雄の名は、世界に刻まれた。
ノアの名は、残らなかった。
王都では祝宴が続いた。
鐘が鳴り、民衆が広場を埋め、吟遊詩人が勇者一行の功績を歌った。
ノアは、式典には出なかった。
出られなかった。
王都の片隅に借りた部屋の窓辺から、遠くの歓声を聞いていた。
魔族の英雄など、人間の歴史には書けない。
ノア自身も、それを望まなかった。
それでも、少しだけ胸は痛んだ。
自分もそこにいた。
怖くて、泣いて、吐いて、それでも逃げずに戦った。
だが、名前はない。
それでいいと思った。
思おうとした。
その夜、王都の空に流星が降った。
半世紀に一度のエーラ流星。
祝勝の熱がまだ冷めない王都で、人々は空を見上げた。
ヒンメル、ハイター、アイゼン、フリーレンは、王城の高い場所からその光を見ていた。
ノアは少し離れた影に立っていた。
表に立つことはできない。
けれど、ヒンメルが呼んだ。
「ノアもおいで」
ノアは首を振った。
「私は、ここで」
「同じ空だよ」
ヒンメルはそう言った。
同じ空。
その言葉に、ノアは胸が詰まった。
流星がいくつも落ちる。
前世で見た流星とは違う。
この世界の空だ。
この世界の光だ。
ノアはそれを、初めて誰かと見ていた。
フリーレンが空を見上げたまま、淡々と言った。
「もっと綺麗に見える場所を知ってる」
ハイターが笑った。
「今でも十分綺麗ですがね」
「次はそこに行こう」
ノアは、思わずフリーレンを見た。
次。
半世紀に一度の流星。
人間にとって、五十年は長い。
ノアにとっても、もうその重さはわかるようになっていた。
五十年経っても、自分はきっと変わらない。
だが、ヒンメルたちは違う。
ヒンメルは笑っていた。
「それなら、五十年後だね」
その言い方が、あまりにも軽かった。
明日の約束をするような声だった。
ノアは怖くなった。
五十年後。
ヒンメルはどうなっているのだろう。
ハイターは。
アイゼンは。
自分だけが変わらずに、この空をまた見るのだろうか。
流星が落ちるたびに、ノアの胸の奥で、何かが削れていく気がした。
そのとき、ヒンメルが横に来た。
「泣いてるのかい?」
「泣いてません」
「泣いてるよ」
「流星が、目に入っただけです」
「それは痛そうだ」
ヒンメルは笑った。
ノアはそれ以上、何も言えなかった。
その日の夜、ノアは記録帳に書いた。
『エーラ流星を見た。
五十年後、もっと綺麗に見える場所に行くらしい。
ヒンメルさんは笑っていた。
私は怖かった。
五十年後も、私はたぶん変わらない。
でも、ヒンメルさんたちは変わる。
それが怖い。
けれど、また一緒に見たいと思ってしまった。』
王都を発つ前、ヒンメルは言った。
「君の名前も残すべきだ」
ノアは帽子を深くかぶり、首を振った。
「だめです」
「君がいなければ勝てなかった」
「それでも、だめです」
「どうして」
「私は魔族です」
ノアは静かに言った。
「私の名前が残れば、助けられた人まで怖がらせます。ヒンメルさんたちの勝利に、余計な影を落とします」
「ノア」
「私は影でいいです」
ノアは少しだけ笑った。
「ヒンメルさんが覚えていてくれるなら、それでいいです」
ヒンメルは長く黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「なら、僕の街に来るかい」
ノアは固まった。
「……はい?」
「僕は故郷に戻る。魔王を倒したからね」
「それは、そうでしょうけど」
「君も来ればいい」
「無理です」
ノアは即答した。
「私は魔族です。ヒンメルさんのそばにいたら、迷惑になります。英雄の家に魔族がいるなんて知られたら」
「知られないようにすればいい」
「そういう問題では」
「君は、普通に暮らしてみたいと言っていただろう」
ノアは言葉を失った。
旅の途中、確かに言ったことがある。
普通に朝起きて、誰かとご飯を食べて、夕方に誰かが帰ってきて、おかえりなさいと言う生活をしてみたいと。
だが、それは夢のような話だった。
魔族の自分には、許されないと思っていた。
「僕の街なら、僕が守れる」
「ヒンメルさんは、もう世界を救ったんです。これ以上、私なんかを」
「ノア」
ヒンメルは穏やかに言った。
「世界を救ったから、目の前の一人を見捨てていいわけじゃない」
ノアは泣いた。
それから、ヒンメルの街で暮らすことになった。
表向きは、遠方から来た魔法研究者。
ヒンメルの古い知り合い。
帽子を脱がない、少し変わった女。
それだけだった。
最初は、人前に出られなかった。
家の奥で震え、物音がするたびに肩を跳ねさせた。
街の人が訪ねてくると、台所の裏に隠れた。
ヒンメルは無理に引きずり出さなかった。
ただ、毎日帰ってきた。
「ただいま」
最初にその言葉を聞いたとき、ノアは鍋を落とした。
「……ただいま?」
「うん。ただいま」
「私に、ですか」
「この家にいるのは君だろう?」
ノアは泣いた。
三千年、誰も帰ってこなかった家。
そこに、誰かが帰ってくる。
「……おかえりなさい」
その一言を言うだけで、声が震えた。
それから何十年も、ノアはその言葉を言い続けた。
朝、ノアは食事を作る。
ヒンメルは街の困りごとを助けに行く。
壊れた橋。
詰まった井戸。
子どもの剣の稽古。
老人の荷物運び。
魔王を倒しても、ヒンメルは変わらなかった。
街の人々は、ノアを不思議な魔法使いとして少しずつ受け入れた。
帽子を脱がない。
人付き合いが下手。
料理が妙にうまい。
薬の腕がいい。
子どもに礼を言われると泣く。
ある日、転んだ子どもの傷に薬を塗った。
母親が何度も頭を下げた。
「ありがとう、魔法使いさん」
ノアはその場で固まった。
人間に感謝された。
魔族の自分が。
家に帰ったあと、ノアは椅子に座ったまま動けなかった。
ヒンメルが帰ってくる。
「ただいま。どうしたんだい」
「ありがとうって、言われました」
「よかったじゃないか」
「正体を知らないからです」
「それでも、君がしたことは変わらない」
ノアは泣いた。
ヒンメルは時々、彼女を「影の英雄」と呼んだ。
「やめてください」
ノアはそのたびに顔を赤くした。
「私は表に出られません」
「だから影なんだ」
「そういう問題ではありません」
「でも、君は英雄だよ」
「ずるいです」
「何が?」
「そう言われると、反論できなくなるところです」
ヒンメルは笑った。
ノアは、その笑顔を見るのが好きだった。
けれど、ヒンメルは年を取った。
ノアは変わらなかった。
髪に白いものが混じる。
歩く速度が遅くなる。
咳が増える。
椅子から立ち上がるとき、少し時間がかかる。
ノアはそれを日記に書いた。
『ヒンメルさんが今日もただいまと言った』
『甘いパンを三つ買ってきてくれた』
『白髪が増えた』
『咳をした。怖かった』
『老けないでくださいと言ったら、無茶を言うねと笑われた』
五十年後。
フリーレンが街に来た。
約束の半世紀に一度のエーラ流星を見るためだった。
ヒンメルは老人になっていた。
ハイターも、アイゼンも、歳を重ねていた。
フリーレンだけが、ほとんど変わらない。
ノアもまた、変わらない。
ノアはヒンメルの家の扉の陰から、フリーレンを見た。
「久しぶり」
フリーレンはそう言った。
「お久しぶりです」
ノアは頭を下げた。
「変わらないね」
「フリーレンさんも」
「うん」
その短いやりとりの横で、ヒンメルが笑っていた。
その顔には皺があった。
声も、昔より少し柔らかくなっていた。
五十年。
王都で流星を見た夜、ノアが怖がった時間が、現実になって目の前に立っていた。
一行は、フリーレンが知っているという場所へ向かった。
ヒンメルは若い頃のようには歩けなかった。
アイゼンは変わらず無口だったが、歩幅はヒンメルに合わせていた。
ハイターは相変わらず軽口を叩いた。
フリーレンは淡々としていた。
ノアは後ろを歩いた。
半歩だけ、離れて。
同じ旅の仲間だったはずなのに、今の自分はどこに立てばいいのかわからなかった。
流星を見る場所は、王都よりずっと静かだった。
空が広い。
山の稜線が低く見える。
夜が深まると、空いっぱいに星が浮かんだ。
そして、エーラ流星が降り始めた。
五十年前より、ずっと綺麗だった。
フリーレンの言葉は本当だった。
空の端から端へ、光が流れていく。
いくつも。
いくつも。
ノアは息をするのも忘れた。
隣で、ヒンメルが空を見上げていた。
老人になった横顔。
それでも、ノアには旅の頃のヒンメルと重なって見えた。
「綺麗だね」
ヒンメルが言った。
「……はい」
ノアは答えた。
声が震えた。
「五十年前より、綺麗です」
「フリーレンの言う通りだったね」
「はい」
「来てよかった」
ノアは泣きそうになった。
来てよかった。
その言葉が、あまりにも穏やかで、あまりにも終わりに近い響きを持っていた。
「ヒンメルさん」
「何かな」
「次も、ありますか」
言ってから、ノアは自分の残酷さに気づいた。
半世紀後。
次のエーラ流星。
ヒンメルには、きっとない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
ヒンメルは少しだけ笑った。
「僕には難しいかな」
ノアは唇を噛んだ。
「そんなふうに、言わないでください」
「ごめん」
「謝らないでください。もっと嫌になります」
ヒンメルは困ったように笑った。
その横で、フリーレンがぽつりと言った。
「でも、事実だよ」
空気が少し止まった。
ハイターが眉を下げる。
「フリーレン。それは、今言うには少し冷たすぎますよ」
「そうかな」
「そうですよ」
アイゼンは空を見上げたまま言った。
「避けても、変わらん話だ」
短い言葉だった。
だが、重かった。
ノアは三人を見た。
フリーレンは変わらない顔で流星を見上げている。
ハイターは笑っているが、その目元には深い皺がある。
アイゼンは無口なまま、ヒンメルの隣に立っている。
誰も、この話から逃げられないのだ。
自分だけが怖いのではない。
ヒンメルだけが死に向かっているのでもない。
ここにいる全員が、それぞれの形で別れを見ている。
ノアは震える手を握った。
「私は、ヒンメルさんがいない世界にも、残るんですね」
小さな声だった。
責める言葉ではなかった。
ただ、口からこぼれた事実だった。
フリーレンが、ほんの少しだけノアを見る。
「私もだよ」
ノアは息を呑んだ。
フリーレンはすぐに空へ視線を戻した。
「残る側は、慣れるしかない」
「……慣れたんですか」
「慣れてないと思う」
その答えは、意外だった。
ノアはフリーレンの横顔を見る。
五十年前とほとんど変わらない顔。
魔族を殺す魔法使い。
自分を監視し、何度も殺すと言ったエルフ。
けれど今、その声は少しだけ遠かった。
ハイターが静かに笑った。
「残されるのは、誰にとっても上手くなれないものですよ。私のような徳の高い僧侶でさえね」
「最後の一言で台無しです」
ノアが震える声で言うと、ハイターは満足げに頷いた。
「泣きそうな子には、少しくらい台無しな言葉が必要なのです」
アイゼンが言った。
「残った者には、やることが残る」
ノアはアイゼンを見る。
「やること……」
「覚えていることだ」
その言葉に、ノアの胸が痛んだ。
ヒンメルはゆっくりとノアを見た。
「ノア」
「はい」
「僕が死んだら、フリーレンと行くといい」
ノアは首を振った。
「嫌です」
「フリーレンが?」
「違います。ヒンメルさんが死んだ後の話をされるのが嫌です」
「うん」
ヒンメルは頷いた。
「でも、僕が言わないと、君はきっと聞かない」
ノアは何も言えなかった。
図星だった。
誰かに言われなければ、未来の話など見ないふりをしたかった。
ヒンメルがいなくなった後の世界など、想像したくなかった。
フリーレンが横から言った。
「勝手に決めないでよ」
ヒンメルが笑う。
「嫌だったかい?」
「別に。ノアが閉じこもるなら、迎えには行く」
ノアは目を見開いた。
「迎えに、来るんですか」
「うん。ヒンメルに頼まれたら面倒だけど、放っておくほうがもっと面倒そうだから」
「理由がひどいです……」
「それに、ノアの魔法は面白い」
「それもひどいです……」
ハイターが笑った。
「よかったではありませんか。フリーレンが迎えに来ると言っているのです。かなり珍しいことですよ」
アイゼンも短く言った。
「行けるなら、行け」
ノアは視線を落とした。
「でも、私は魔族です」
「うん」
ヒンメルは頷いた。
「受け入れられません」
「そういう場所も多いだろうね」
「怖がらせます」
「それでも、君は助けるだろう?」
ノアは泣いた。
「ヒンメルさんは、私より私を信じるからずるいです」
「そうかな」
「そうです」
フリーレンが小さく言った。
「ヒンメルはだいたいそうだよ」
ハイターが頷く。
「まったくです。人の良さで厄介ごとを増やす天才ですね」
アイゼンも言った。
「だが、それで助かった者も多い」
ヒンメルは少し照れたように笑った。
「そこまで言われると、少し恥ずかしいな」
ノアは涙を拭った。
この場にいる全員が、ヒンメルを知っている。
この優しさも。
厄介さも。
諦めの悪さも。
だからこそ、誰も簡単に否定しない。
ヒンメルは静かに言った。
「僕を忘れないで」
「忘れるわけありません」
「長い時間は、いろんなものを薄くする」
「日記を書きます」
「うん」
「全部書きます。声も、顔も、ただいまも、甘いパンが好きだったことも、格好つけるところも、白髪が増えたことも」
「最後のは少し恥ずかしいな」
「書きます」
ハイターが笑った。
「私のことも書いておいてください。偉大な僧侶として」
「酒癖も書きます」
「そこは削りましょう」
「削りません」
アイゼンが言った。
「事実は残せ」
「アイゼンまで」
フリーレンは少し考えてから言った。
「私のことも書くなら、魔法の収集について多めにして」
「そこなんですね……」
ノアは泣きながら笑った。
流星がまた一つ落ちる。
五十年前の自分を思い出す。
あの夜も、怖かった。
五十年後、自分だけが変わらずにいることが怖かった。
そして今、その恐怖は現実になっていた。
だが、同時に思った。
五十年前、あの約束がなければ、この夜はなかった。
怖くても、来てよかった。
ヒンメルと、もう一度この空を見られてよかった。
フリーレンと、ハイターと、アイゼンと、同じ空の下にいられてよかった。
それだけは、確かだった。
ヒンメルは空を見上げたまま言った。
「なら、安心だ」
その少し後、ヒンメルは死んだ。
葬儀の日。
ノアは人々の輪の外にいた。
黒い外套をまとい、帽子を深くかぶり、顔を隠していた。
ヒンメルの家で何十年も暮らした。
彼の「ただいま」を聞いた。
「おかえりなさい」を返した。
彼の老いを見届けた。
それでも、表に立つことはできなかった。
ノアは魔族だった。
人々は勇者の死を悼んだ。
フリーレンは泣いた。
その姿を見て、ノアは初めて思った。
フリーレンも、残されたのだ。
自分と同じように。
違う形で。
違う時間の中で。
葬儀が終わったあと、フリーレンが来た。
「ノア」
「はい」
「行くよ」
「……どこへ」
「旅」
「今ですか」
「うん」
「ヒンメルさんが、死んだばかりです」
「うん」
「私は、まだ」
言葉が出なかった。
まだ家にいたい。
まだ彼の椅子を片づけたくない。
まだ、「ただいま」が返ってこないことを認めたくない。
フリーレンは静かに言った。
「このままだと、君はまた閉じこもる」
ノアは何も言えなかった。
図星だった。
ヒンメルの家に閉じこもり、日記を読み返し、思い出だけを抱えて、何十年も何百年も動けなくなる。
きっと、そうなる。
「一日だけ、待ってください」
「いいよ」
「明日、出ます」
「うん」
その夜、ノアは日記を書いた。
『ヒンメルさんが死んだ。
エーラ流星を見たばかりなのに。
五十年前、次の流星が怖かった。
今は、その次が怖い。
でも、ヒンメルさんは旅に出ろと言った。
フリーレンさんも迎えに来ると言った。
ハイターさんは台無しな冗談を言った。
アイゼンさんは、残った者にはやることがあると言った。
私は残った。
明日、フリーレンさんと旅に出る。
ヒンメルさんを忘れないために。
ヒンメルさんが見た世界を、私も見るために。』
それから、年月が流れた。
フリーレンは一人で旅をしていたが、やがてハイターのもとを訪れた。
ノアもまた、フリーレンと離れたり合流したりしながら、世界を少しずつ見ていた。
人に近づけば怖がられる。
魔族だと知られれば、逃げられる。
それでも、助けられる場面はあった。
崩れた橋を直す。
雪に閉ざされた道を開く。
水の濁った井戸を澄ませる。
名前を告げず、顔を隠し、礼を言われる前に去る。
それでも、ノアは少しずつ歩けるようになっていた。
ハイターのもとにいた少女、フェルンと出会ったのは、その後だった。
黒髪の少女。
無表情に見えて、よく見ると警戒心が強い。
ハイターに育てられ、フリーレンから魔法を学んだ少女。
ハイターが亡くなった後、フリーレンはフェルンを連れて旅立つことになった。
その朝、ノアもそこにいた。
帽子を深くかぶり、鞄を一つ持っている。
中には日記、薬、調理道具、そしてヒンメルが使っていた古いカップ。
フェルンはノアを見た。
「フリーレン様」
「なに」
「この方は?」
「ノア」
フリーレンは言った。
「昔の仲間」
ノアは息を呑んだ。
昔の仲間。
監視対象でも、魔族でもなく。
そう呼ばれた。
フェルンはまだノアを見ている。
「魔力が変です」
「うん」
「何者ですか」
フリーレンは少し考えた。
「泣き虫で、料理が変で、魔法が変で、人を助ける魔族」
空気が止まった。
フェルンの手が杖へ伸びる。
ノアは両手を上げた。
「待ってください! 私は人を殺しません! もし殺しそうになったらフリーレンさんが殺します! そういう約束です!」
「……自分で言うのですか」
「はい。大事なので」
フェルンはフリーレンを見た。
「フリーレン様」
「大丈夫。私が見てる」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題」
ノアは震えながら頭を下げた。
「迷惑をかけます。怖がらせます。たぶん泣きます。でも、ヒンメルさんに言われたので、旅に出ます」
「ヒンメル様に?」
「はい」
ノアは胸に手を当てた。
「ヒンメルさんを忘れないために。ヒンメルさんが助けようとしたものを、私も見に行くために」
フェルンは、まだ警戒していた。
それでいい、とノアは思った。
自分は魔族なのだから。
警戒されるのが正しい。
それでも、フリーレンは歩き出した。
「行くよ」
フェルンが続く。
ノアは一度だけ、遠い空を見た。
あの夜のエーラ流星は、もうない。
ヒンメルの声も、もう聞こえない。
「ただいま」は、もう返ってこない。
それでも、日記がある。
カップがある。
記憶がある。
そして、道がある。
ノアは深く息を吸った。
「……行ってきます」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
けれど、そう言って歩き出した。
魔族として。
影の英雄として。
勇者の死を抱えて。
フリーレンとフェルンの旅に、ノアは加わった。