Living Stone with Hail Mary 作:スカイリィ
なんだ? 何が起きた? 僕は自分に起きた出来事を理解できなかった。
「くそっ! いつからぼくらは洗濯機の中に入ったんだ!」
グレースが悪態をつく。大気圏は脱した。エンジンは止めた。もうヘイルメアリー号を動かす外力は存在しないはずだ。なのに船体が大きく揺れ動いている。なぜだ。
酷い揺れはそのうち一方向への遠心力へと変わっていった。僕らは船首側へ強い力で引っ張られていく。
遠心力に振り回されながら聴覚意識を船体各所に向ける。居住モジュールは正常。エンジンは停止。燃料タンク……異常あり!
〈警告。燃料タンクに亀裂発生〉
『グレース、燃料タンクだ!』
船の思考マシンと同時に僕は叫んだ。左舷の燃料タンクに小さな亀裂がある。大気からの熱と空気抵抗と加速度でアルミニウムが裂けたんだ。そこからの燃料漏れで船に回転モーメントが発生している。
でもこんな小さな亀裂からの燃料漏れで、ここまで大きな力が発生するものなのか?
そんな疑問の答えを船外カメラ越しにグレースが見つけた。
「燃料が……
光センサーで画面を確認して僕は言葉を失った。タンクの亀裂から燃料が爆発的な勢いで噴き出している。
ヘイルメアリー号の燃料はただの燃料ではない。エネルギーを溜め込んで繁殖準備が整った、元気いっぱいのアストロファージだ。
こいつらは燃料タンクの裂け目から見える二酸化炭素めがけて飛んでいっている。直下の惑星エイドリアンの大気圏に向かって、光速に迫る勢いで。
当然だ。連中はこの惑星に帰るよう進化してきたのだから!
〈左舷燃料タンク、温度危険域〉
『危険! 船体が融ける!』
この回転は飛び出すアストロファージ達の赤外線照射に船体が押されて発生しているんだ。今はタンク内のアストロファージが放射と熱を受け止めている。でもいつ無秩序の赤外線放射が発生して大規模な融解が発生するか分からない。
『悪い燃料タンク、切り離す!』
「分かった!」
どんどん強くなる遠心力に抗いながらグレースがスイッチに手を伸ばす。
船体後方から居住区画を囲むように3本伸びたヘイルメアリー号の燃料モジュールは、それぞれ12個の小さな燃料タンクに分かれている。
だから1つ2つ切り離しても壊滅的な影響は無い。少なくとも現状よりはずっとマシなはずだ。
「左舷11番、パージ!」
火工品の小さな爆発によって燃料タンクが切り離される。それと同時に大きな揺れが襲ってきて、僕は手すりから指を滑らせてしまった。キセノナイトの壁に叩きつけられ、痛みが身体を走る。
「ロッキー!」
うめく僕をグレースが呼ぶ。重い中身入りのタンクが放り出された反動で回転が加速してしまったんだ。
『僕は大丈夫。それよりまだ漏れている! 切り離せ!』
「左舷12番、くうっ!」
操縦室にかかる遠心力は体感で5Gを超えようとしている。地球人にとっては動くどころか意識を保つだけでも難しい。グレースは必死に手を伸ばしてスイッチを押す。
「12番、パージ!」
タンクを切り離した瞬間、グレースの座っていた座席が壊れた。
根元からバキッと折れる音がして、グレースはスイッチと画面で埋め尽くされた壁へ顔面から叩きつけられた。
「グレース!」
座席は恐らく大した質量ではない。でもこんな過大な遠心力の中ではそれでさえ凶器と化す。グレースはシートベルトで固定されたまま押しつぶされようとしているんだ。
「グレース! しっかりしろ!」
6Gはあろうかという遠心力により思考マシンの翻訳機能すら停止している。それでも僕は必死に呼びかけた。まだグレースの心臓は動いている。眼を開けている。
遠心力に耐えながらグレースの手が伸びる。伸ばす先は……遠心重力モードのレバーだ。僕はグレースがやろうとしていることを理解した。
レバーの安全装置を解除したところでグレースの動きが止まってしまった。気を失ったんだ。椅子に圧迫されて肺を膨らませることができず窒息しかかっている。
「グレース! 起きろ!」
僕の呼びかけにもグレースは答えない。まずい。心臓の動きが弱くなってきている。地球人の心臓は1つだけ。それが止まれば身体中の細胞が酸欠を起こして死ぬ。
「起きてくれ! 死なないでくれ!」
回転速度の上昇は止まったがグレースは死にかけている。どうすればいい。22人の死の記憶が蘇る。また僕の隣で仲間が死のうとしている。
何かは手は無いか。僕は周囲を必死に探る。そして気づいた。
気密室に繋がっていたキセノナイトボールが外れている。衝撃で転がってしまったんだ。そして気密室のハッチを閉め切っているのは機械的なロック機構だけ。
僕の中に1つのアイデアが浮かんだ。実行すれば船もグレースも助かるかもしれない。
それはほとんど自殺的行為だ。一瞬のうちに恐怖と困惑が心を支配する。
「……僕は、グレースを死なせない」
僕はその恐れと戸惑いを振り払う。僕は死ぬかもしれない。でもそれが何だというんだ。もう僕は約束したはずだ。23人目の仲間を、グレースを助けると。
死の淵にいる友を救えるのは僕だけだ。なら、やるしかない!
「いま行くぞ!」
意を決して気密室のハッチに体当たりする。キセノナイトパネルは硬すぎて破ることはできないけど、機械的なロックなら僕の力で破壊できるはずだ。
三度目の体当たりでハッチが壊れ、僕は大量のアンモニアと一緒に気密室の外に転がり落ちた。
一瞬、気を失ってしまった。思考も何もかもが霧散する。
全身に激痛が走る。意識を集中させなければ聴覚で周囲を認知できない。よろめく脚に力を込めて立ち上がる。
痛い、痛い、痛い。苦痛でのたうち回りそうになるのを必死にこらえる。
身体が感知できる温度を遥かに下回っているんだ。脳はこの大気を痛みとして感じ取っている。
僕は絶え間ない痛みを押し殺して操作パネルに駆け寄った。震える脚で遠心重力モードのレバーを掴む。そして降ろす。
幸いなことに遠心機構は正常に作動してくれた。
遠心力の向きが変わる。壁から床へ。そして回転半径が長くなったことで回転速度も遅くなる。6Gもの加速度がかかっていたのが嘘のようだ。
「グレース!」
壁に押し付けられていたグレースを座席ごと引きはがしてシートベルトを外す。呼吸は相変わらず止まりかけている。心臓は動いているがその動きは弱々しい。
ただ圧力から解放しただけではグレースは助からない。でも応急処置なんて今の僕にできるわけがない。
ひとまず操縦室からグレースを引きずり出す。地球人にとって高温で高濃度のアンモニアは致死的だ。呼吸が弱いうちに離れないと。船の換気システムが仕事をしてくれるよう祈るしかない。
向かうのは寝室だ。船首の操縦室から約60メートル。居住モジュールの最後尾。
遠心重力モードが非正規の手順で実行されたことで、船内の重力は体感で0.7Gくらいになっていた。
重力が弱いのはありがたかった。身体の過半が水で軽いとはいえ、僕より大きい身体を引きずっていくのは大変な労力が必要だ。
「息をしろ! 気をしっかり持て!」
一歩を踏み出すごとに、僕の硬い体表がボロボロと剥がれ落ちる。210℃から20℃へ。表面が急冷されて縮んで、内部応力に耐えきれず割れていく。
「キミは地球に帰るんだ! 生きろ!」
脚がもつれる。指が震える。関節が勝手に動こうとする。力を上手く制御できていない。気圧が低すぎて筋肉の水分が沸騰し始めているのだろう。
「まだ死ぬな! 僕の前で死ぬな!」
身体の上面にある放熱器に激痛が走る。熱交換を担う部分が変性を始めている。酸素だ。酸素に触れた細い金属血管が燃え始めている。放熱器の蓋を閉じても気密には限界があったらしい。
低温と低圧と酸素によって僕が破壊されていく。それが分かる。それでも必死にグレースを掴む。死んでも離すわけにはいかない。
やっとの思いで寝室にたどり着き、天井から生えた医療ロボットの前にグレースを横たえた。
「アルマンド! 仕事だ!」
もともとこいつは地球人用の医療ロボットだ。僕なんかより適切な処置を提供できるはずだ。
船の重心位置に近い寝室は過大な遠心力の影響が少なかったようだ。これといった損傷の無いアルマンドはアームでグレースをベッドに載せて治療を始めた。
打撲と圧迫と窒息。それから高温アンモニアによる熱傷と腐食。治療がどのくらいで終わるのか想像もできない。
「頼んだぞ」
グレースはアルマンドに任せるしかない。あと対処が必要なのは死にかけの僕自身だ。ここの寝室にも気密室はあるが使えない。重症のグレースにこれ以上アンモニアの爆発をお見舞いするわけにはいかなかった。
向かうべきは研究室の気密室。意識不明のグレースを置いて僕はまた廊下に歩み出た。ここに来る途中で通り過ぎた研究室に脚を引きずって向かう。
僕は転んで床に崩れ落ちる。もう力が入らない。何度も転んで、そのたびに一瞬気を失って、また立ち上がる。砕けた体表がバラバラと床に飛散する。
……僕は何をやっているんだろう。グレースを放置して、船を制御する方法を探すという道もあったというのに。
その方が堅実だ。故郷を救い、愛する者のところに帰る。それだけを考えるのならば、こんな愚かな行為を選択する理由なんて無いはずだ。グレースと地球を見捨てることにはなるが、少なくとも今みたいな死にかけにならず済んだ。共倒れを防ぐにはそれが一番だった。
だけど、それだけはやってはいけないと思った。グレースを見捨てたら、僕の中にある大切な何かを捨ててしまう気がした。
それに、もう僕は知ってしまったんだ。
「グレース、キミは、ひどいやつだ」
僕は知ってしまった。グレースに教えられてしまった。青い空の下で生きる無数の生命を。食ったり食われたりして巡りゆく生き物の鮮やかな営みを。
歌い、食べ、築き、学び、描き、遊び、壊し、盗み、殺し、妬み、助け、治し、祈り、愛し、日々を生きる。そんな80億の人々を。グレースのせいで、僕は知ってしまった。
彼らを見捨てられるわけがない。グレースを笑顔にしてくれたあの惑星を氷漬けにして死なせるなんて、僕にはできない。知ってしまったからには後戻りなんてできるわけがないんだ。
これは僕が僕の愚かな行為を正当化しているだけだろうか? 分からない。
研究室のキセノナイト気密室に到達する。ここには鎖の搬出に使ったエアロックがある。万が一の閉じ込め事故に備えて内側から操作できるよう設計しておいたのが役立った。
エアロックを操作して、アンモニアに満ちた気密室の中に滑り込む。そこで僕は気を失った。
意識が浮上しては沈むことを繰り返す。もうどのくらい時間が経過したのか分からない。
たぶん身体の損傷が激しすぎて正常な睡眠に移行できないのだろう。
これはあまりよろしくない。働き細胞の仕事が何度も中断されてしまう。このままでは身体が治らず衰弱するかもしれない。
朦朧とした意識の中で物音を感じ取った。寝室の方からだ。ペタペタと柔らかい足音が聞こえる。
「……ロッキー」
キセノナイトの壁の向こうにグレースが立っていた。アルマンドに宇宙服を脱がされたのか、薄手の病人服を身にまとっていた。身体のあちこちに治療のための布が当てられている。
ああ良かった。歩ける程度には回復してくれたんだ。
グレースの無事を確認した途端に、強い睡眠の兆しが湧き上がる。身体の緊張がほぐれていく。どうやら僕は相当に気を張っていて、それが睡眠を妨げていたのだ。
「地球を、救え。エリドを、救え」
僕の言葉にグレースは涙ながら頷いた。翻訳機が無くても意味が通じていれば良いのだけど。
「寝てて良いよ、相棒。ぼくが見てるから」
キセノナイトの壁にグレースが手を添える。心臓の音が伝わってくる。命の音だ。僕にはその脈動が優しい歌のように感じられた。
僕はその鼓動を聞きながら身体の力を抜いた。
意識が途切れる寸前、僕は
青に満ちた空を。白く柔らかい雲を。
深い緑の森林を。煌めく青い大海を。
熱い砂漠を。凍える雪原を。輝く都市を。
グレースを。その笑顔を。僕は見た。
おかしいな、と僕は思った。
光なんて、見えるわけがないのに。