吉原桃源郷、楼主鳳仙の居城たる楼閣の最上階。大宴会でも開けそうな一面畳張りの部屋の前方に、一段高くなった座が設えられている。座から見て右側は障子を挟んで肘掛欄干が連なり、吉原の景色が一望できる。
神食が与えられた部屋からも景色は十分に見えたのだが、ここは最上階。鉄錆びた空が頭上に迫ると同時に、遊郭の営業を示す橙色の明かりが大小連なり一面に広がっているのが見える。
鎖されていながら、安楽を感じさせる絶景ではあった。
そして今──阿伏兎と神食の正面に座しているのは、夜王鳳仙その人。
左右に美しい花魁を侍らせ、注がれた盃を手にしていた。
その夜王鳳仙に対するように、正面に神食と阿伏兎も腰を下ろし食事と酒が供されている。鳳仙の前にある量と比べると、明らかに神食や阿伏兎側の方が多い。
双方の距離はおよそ一メートルくらいだろうか。広すぎる部屋に対し、三者の距離は近い。
団長を神威に譲り渡してから出会う頻度はぐっと減ったとはいえ、この相対する時の威圧感と緊張感はいつまでたっても慣れない。阿伏兎は背中にうっすら冷や汗をかきながら、夜王の言葉を待っていた。
右隣の新入りは平気の平左の顔で、否、顔色は昨日からよくはないのだが、強めに口元を引き結んでいて大きな変化は見られない。夜王の弟子をやっていた団長神威といい、これにケロっとしている者がいるとは信じがたい。
鳳仙の口が何かを紡ぐように開かれた、その時「殿下アッアアアアアア~~~ッ!!」
突如襖が破壊されんばかりの勢いで開かれて、部屋自体を揺らした。遊女たちはすくみ上って何事かと入り口を見たが、彼女たちの視線よりも数段速く、犯人は神食めがけて突撃してきた。
「ドゥボ──!!」
犯人に劣るとも勝らない奇声を上げて、神食はその者のタックルを脇腹にモロに受けて、膳をひっくり返しながら転倒した。阿伏兎はさりげなく彼らをよけて、呆れたように犯人に目をやった。
「アアアアア~~~ッ殿下ァァァ~~!!」
「えっ何!? このジーサン何!? 俺のファン?」
モロにタックルを食らっても流石夜兎、ダメージは少ないらしく、神食は天井を向いてひっくり返った状態で腰に犯人に抱き着かれながらも落ち着いている。
犯人は、──長い白髪を振り乱し、片眼鏡も外れかけて顔面中から液体という名の液体をまき散らして神食に泣きつく老爺だった。阿伏兎はこの老爺の奇行そのものは見慣れているが、それがこの新入りに発揮されるとは思わず眉を寄せた。
「朽名。それくらいにしておけ」
「ハッ! 鳳仙様、申し訳ございません! 扇を投げてくださるファンサはなしでしょうかな?」
鳳仙が怒りの表現として手にしている扇を凶器と言っていい速度で投げつけることがたまにあるが、この老爺はそれを期待している。なお、それをファンサと解釈するのも彼くらいである。
神食の服を鼻水と涙とよだれでべしょべしょにした老爺は神食から体を離し、居住まいを正して正座した。先ほどの奇行とは打って変わって、普通にしていれば白い功夫服上下を纏った上品な老爺であった。
「私は朽名と申します。失礼、若くて強い夜兎のファンでございまして、つい興奮してしまいました。わたくし、朔月様のファンでございます」
「マジで俺のファンだった。俺多分顔悪くないと思うし、いろんな層に刺さるのかな、宇宙海賊兼アイドルってウケそうじゃない?」
「俺に振るな、このあんぽんたん」
朽名──この老爺は、夜王鳳仙がまだ何者でもなかったころから付き従っていたとされる、鳳仙の右腕である。
戦闘能力こそ鳳仙に遠く及ばないものの、気功の達人で形態変化・部分強化を自在に使いこなす。その力を生かし、諜報や暗殺にて力を発揮する珍しい夜兎だった。
鳳仙の傍らにこの老爺がいることは何の不思議もないが、神食のファンというのは阿伏兎も初耳である。ただ、朽名は団長の神威に対しても、神威が鳳仙の弟子だった時分から激推しオタク芸なるものを披露するので、そういうもんかという感じではある。
神食も身を起こし、胡坐で座りなおした。
「あと爺さん、俺のファンなのはいいけど、俺は神食な。朔月は勝手についた二つ名みたいなもんだから、神食って呼んでくれ」
「畏まりました、神食殿下」
「なんか偉くなっちゃった」
正直この老爺が意味不明なのは今に始まったことではない。ただいてくれると鳳仙と向かい合う緊張感は緩和されるので、阿伏兎は正直安心していた。ただ、この朽名の「最推し」は目の前の夜王鳳仙であるのだが。
引き続き、朽名はにこやかに相貌を崩した。
「神威様の団長就任に伴い、私めは鳳仙様の側近から第七師団の顧問となりました。まだ諸所事務作業でこちらにいますが、近々第七師団本艦に常駐の身となりますので、今後ともよしなにお願いいたします。ウゥ~~ッ夜王のファンサが受けれられなくなるけど団長殿と殿下のファンサを浴びたいッッッ!!」
目の前でくねくねと悶絶する奇妙な老夜兎だが、これでも長年夜王の側近を務めた猛者。
第七師団の団員たちは神威が新団長であることに不満はないが、十四歳は十四歳。組織運営や上層部とのやりとりにはまだまだ不安が多いので、この右腕が来ることになったのだ。
新副団長になった阿伏兎もその点については頼りにしている。変な老夜兎だが。
ひとしきり悶絶したあと、いつまでも私がお話しているわけにもいきませんな、と居ずまいをただし、朽名は急に顔を引き締めた。
「殿下、戦うのはお好きですか?」
「え? そりゃ大好きだけど」
阿伏兎は何を当たり前のことを、と首を傾げたが、朽名はその答えを聞いてひどく安心したように胸をなでおろしていた。
「それは大変よろしゅうございます」
神食も意味が分からんと、阿伏兎と揃いで首を傾げた。
とにかく、この変な老夜兎のおかげで和らいだ空気が流れた。だが、そうは問屋が卸さない。
その時神食に対して、やおら立ち上がった鳳仙が呼びかけた。
「朔月」
「あ?」
夜王鳳仙と神食の視線が交錯した。この感じ──阿伏兎は弛緩した空気が、瞬時に張り詰めるのを感じた。引いた冷や汗が戻ってくる。
第七師団内でも、神食は二つ名の朔月と呼ばれることを好まない。今も朽名に対して訂正しており、いつも呼ばれるたびに訂正している。
だが夜王は承知の上で、そう呼んでいる。
神食は神食で夜王相手に全く不快を隠す様子もなく、臆する様子もなく、立ち上がってまっすぐに近づき──目と鼻の先ほどの距離感で相対する。
「ジジイは耳が遠いのか?」
「オイ落ち着け新入……ッ!」
神食は神威のことをなんだあのけんかっ早いガキはと腐しているが、本人もそれなりに喧嘩っ早いだろと感じていた阿伏兎である。鳳仙の思惑も読めないが、鳳仙に関しては神食の態度も他とは違う──輪をかけて喧嘩っ早い。
ただ鳳仙の方は不快を示してはいない。愉快そうに口角をつり上げる。
緊迫した空気が膨れ上がり、刹那お互いに片足を後ろに引き、拳をふりか「オボロロロロロロロ」
「え”え”え”え”え”え”え”!?!?」
吐いた。神食が吐いた。
鳳仙の目と鼻の距離で勢いよく、マーライオンのごとく、身長差二十センチ近くあるにもかかわらず、斜め上向きに夜王の顔に向かって大リバースをかました。内容は今日の朝ご飯に違いない。先ほどまで怯えていた傍らの花魁も今やドン引きである。
神食はガチの嘔吐らしくその場に座り込むと、残りをおえおえとはき続けている。
とにかくまずいとは思った阿伏兎は、夜王の右腕たる隣の朽名に水をやった。
「おい爺や!」
「うう、殿下が夜王に向かってゲロを吐いていらっしゃる、爺や感動ッ、カメラ持ってくるの忘れました」
「どこに感動してんだァァァァ!!」
感動で号泣する右腕の驚きの使えなさに、阿伏兎はいやいやながら神食に近づくと、まだえづいている彼の腕をとり無理矢理に立たせた。もしかしてしゃべり出すまで強く口を結んでいたのは、ゲロを出さないように頑張っていたのかもしれないと思った。頑張った挙句に最悪のタイミングだったので、であればもう少し早く吐いてほしかったと思う阿伏兎である。
「ほ、鳳仙の旦那すまねぇな、この通り新入りは体調が悪くてな。勘弁してやって欲し……」
「子兎がァァ!!」
夜王は阿伏兎の言葉を待ってはくれなかった。大きな手で神食の頭を鷲づかみにすると、その勇名に違わぬ強力にて阿伏兎からもぎ取ると、そのまま襖に向かって投げつけた。
力のままに横に吹き飛ばされた神食は襖ごと廊下にまで突き抜け、壁に激突していた。
それでも「オエッ」と吐く音が聞こえるあたり頑丈ではある。
ゲロまみれの鳳仙、ゲロ製造機の神食、破壊された襖と場が乱れたため一時休憩とし、双方着替えるなりして場を仕切り直した。
雑用係が清掃や片付けを行った後に、再度同じ場所で向かい合う。神食はいつ吐いてもいいように青いバケツを抱えている。どういう状態だ。
阿伏兎はここに来てからずっと頭が痛い。右腕は何故かずっと感動で号泣していて全く役に立たない。
ひとまず鳳仙は落ち着いたらしく、杯を呷りながら口を開いた。
もう威厳があるのかないのかわからなくなってきたが、少なくとも機嫌はそこまで悪くないようだ。
「朔月、お前を呼んだのは渡したいモノがあるからだ。朽名」
その呼び名に神食は相変わらず不服げな顔をしていたが、体調不良か話が進まないからか、もう突っ込むつもりは無く黙って話を聞いていた。
名を呼ばれた右腕は、涙を拭いながらいそいそと退出すると、すぐに戻ってきた──その両手には、長さ130センチはあろうかという大傘が抱えられていた。
柄は漆黒、骨が輝く銀色、傘本体は臙脂色の布──神食の眼と同色の番傘。
阿伏兎は我が眼を疑った。隣の新人は気づいていないだろうが、これは──もっと鳳仙が若い時分に使っていた傘と同規格の色違い、予備の品だ。
「倉庫に眠らせていたものだ。くれてやる。持って行け」
「すごく……大きいです……」
脳直で発せられた言葉だったが、その通りではある。神食の身長は160台前半で、その彼が扱うにはあまりにも大きすぎる。そもそも全長130センチという大きさ自体、通常日傘として使えるものではなく、むしろビーチパラソルといった方が適切なサイズである。
ゆえにこれは、陽をよけるためのものではない。戦うためだけの番傘。
相変わらず失礼千万な新入りの言葉に、逆に鳳仙は口角を上げた。
「今は使えんだろう。だが、必ず戦闘で有効に使える日がくるはずだ。それまで師団の倉庫の肥やしにでもしておくがよい」
「背が伸びるってこと? ……俺はもらえるものは病気以外はもらう主義だしなあ。でも何でくれるんだ?」
「ハハハハ、おまえが弟子の神威と同等以上にやり合うと聞いたものでな。あれと切磋琢磨できる夜兎はなかなかいない。入団祝いだ、精進せよ」
「はあ……」
いまいち納得したのかわからない返事だったが、神食がそれ以上拘泥することはなかった。
用はこれで終わりなのだろうか。傘を贈るだけなら第七師団の戦艦に郵送するだけでもよかったとも思える。やはり将来有望な夜兎と会話しておきたかったのか……? などと阿伏兎が考えていると、鳳仙は予想外に機嫌良く続けた。
「さて、これで用は済んだ。後は好きにするが良い。昨夜は最低限しか手を回していないが、今宵は酒でも女でも上玉を用意してやる」
「じゃあ女の方なんだけど」
返答がいやに早い。これ以上余計なことを起こさないでくれと阿伏兎は願っていたが、数秒後にはその願いは無残にも砕け散る。
「昨日喋った女の子が言ってた花魁さん。日輪太夫って言ったかな「ならぬ」
先ほどまでの上機嫌はどこへやら、それどころかゲロをぶちまけられたときよりも獣じみた殺気をまとった
神食はそれにも怖じる様子を見せない。
「日輪太夫がおっちゃんのお気に入りってのも聞いてる。つーか俺見ての通り春雨のフニャチンだし、そういうのナシで。茶をしばいてくれりゃあいいんだけど」
「ならぬ」
それは、並の夜兎であれば、気迫だけで失神しかねないほどの圧と殺意だった。
それを軽やかにいなすように、ひゅう、と神食は口笛を吹いた。さらにお熱いことで、と冷やかすように言って立ち上がる。
「じゃあいいや。昨日と同じ子と一緒に飯でも食ってから帰るよ、な、阿伏兎さん」
「おいこら新入り!」
勝手に退出しようとする神食を止めようとしつつ、阿伏兎は鳳仙と朽名を見やった。「構わん」との言質をもらうと、彼も足早に神食を追った。
行きと同じエレベーターに乗り込み、阿伏兎はやっと生き返った心地になった。ギャグと殺意を高頻度で繰り返し浴びせられておかしくなりそうだ。
神食は夜王からもらった大傘を片手に、もう片手にゲロバケツのシュールな状態ながら、泣きも笑いもせず前を向いていた。
「お前もお前だけどよォ、一体全体何なんだ。鳳仙の旦那も何考えてんだ?」
「かわいそうだなぁ、日輪太夫さん」
「ハァ?」
疾うに頭から抜けていた名前が出てきて、阿伏兎は神食を見た。
日輪太夫。第七師団を退いた鳳仙が、吉原にて囲っているという最上級の花魁。阿伏兎も姿こそ見たことはないが、あの夜王を骨抜きした女として第七師団でも話題になっていた。
神食は前を向いたまま、淡々と話す。「そりゃお気に入りの遊女が他の男と寝るのを好まないのはそうだろうけど、話すのもダメか。俺に見張りでもなんでもつければいいのに、会うのすらダメなんだろうなアレは」
「何の話だ?」
神食は肩をすくめて、呆れたように言った。「単なる女じゃ無くて、執着されてんだろうなーって話だぜ。鳳仙のおっちゃんみたいな、強さこそすべてみたいな、生きざまがチンポみたいな奴に追い回されてカワイソってこと」
たとえ美しい仕立ての着物や宝石、装飾具を強請ればいくらでも買い与えてもらえ、衣食住に不自由しなかったとしても、ずっとこの
チン、という音を立ててエレベーターは目的の階にたどり着いた。行き来する禿や休憩時間の遊女とすれ違いながら、廊下を歩きながら雑談は続く。
「……新入り、今回の鳳仙の旦那もいまいちわからねぇが、お前もどうしたんだ?」
「うーん、俺、多分、あのおっちゃんの事苦手なんだよな。話してるとすっごい肩凝るし、なんか頭も痛いし」
怖いとか恐ろしいではなく、苦手。そもそも二人が会うのは、これが二回目。深い関係はないはずだ。阿伏兎に問われずとも、神食は前を向いたまましゃべり続ける。阿伏兎に聞かせるというよりは、自分で頭を整理するために喋っているのだろう。
「俺、戦うのは好きだけど殺すのはあんま好きじゃないんだ。自分か相手が死ぬのは単なる結果だ。強い奴が死んだら、なんで死んだんだ!? って思うし。もっと戦っていたかったな~すごい楽しかったのに~って」
夜兎にとって戦闘は本能だが、表出の仕方は個人差がある。
相手に打ち勝つために戦う者。戦闘そのものを求めて戦う者。神食は後者の系統なのだろう。
「夜王、ってめっちゃ強いだろ。俺、強いって聞くと楽しくなるんだけど、鳳仙のおっちゃんは違う。何でか、全然ワクワクしてこない」
もしそれでも、戦うことになるならば。
「絶対に殺さなければならないって思いながら、戦うことになる」
第七師団内では笑ったり怒ったりとコロコロ変わる彼の表情だが、今このとき、彼の顔には何も映っていなかった。
*
神食と阿伏兎が立ち去ってからも、ウォォォ~~ン殿下ァァァ、ちゃんと生きてたァァと十分ぐらい号泣し続けた朽名は功夫服をぐしょぐしょにしてから、ようやっと座して煙管を嗜む鳳仙を見遣った。
「……しかし鳳仙様、
神食よりも付き添いの阿伏兎の方が怪訝な顔をしていた。
神食は第七師団の新入りだからこんなイベントもあるのか、程度に思っていようが、長年春雨にいる阿伏兎はこの面会が何の目的かを考えていたろうに、全てをすっぽかされたようなものだから。
まさか政治的・実務的な要件がゼロだとは思ってもいないだろう。
その割に面会を依頼した当の本人は、何事もなかったかのように吉原の景色を眺めていた。
「あれは何も覚えておらん。
二十年前に灰燼に帰した地上の吉原。十五年前に地下に蘇った常夜の街。まだ、朔月が吉原にいたころ。
いつか夜王はつぶやいていた。夜兎に
「
「……左様ですか」
長年の付き合いである。朽名の微妙な間を察した鳳仙は、何かあるかとばかりに視線をやった。朽名は恐れながらと前置きした。
「朔月は死んだ(キリッ)、倉庫に眠らせていたとかおっしゃっていましたが、ご自分の若い時の傘をモデルにして超一級の素材で新たに作った番傘に
言い切る前に、鳳仙が手にしていた煙管を朽名に向かって全力投球した。避ける──否、ファンサのためそれを顔面で受けた朽名は畳の上に転がりながら命知らずにも続けた。
「鳳仙様ァァ!! この老臣、まだキモいと言い切ってないのに煙管をお投げになるということはご自身でもキモいとご自覚なされ……ギャー!!」
命知らずの夜王の幼馴染は、静かにキレた夜王の蹴りから逃げ回ることになった。