不思議な禿ではあった。
珍しい赤髪赤目、透き通るように白い肌は、ここ吉原には日本だけでなく宇宙中から人間が人身売買により売られてくるため、そういう子供も居るだろうで済んだ。何より吉原は常夜の街、大体の人間は色が白くなる。
常に体のどこかしらに包帯や布を巻いており怪我をしているのも、不思議ではあったが、姐さんから折檻を受けていると思えばよくあることではあった。
ただ、月詠や日輪、他の遊女がいくらどこの遊郭のどこの姐さんだいと聞いても、少女は全く答えなかった。
少女が日輪の遊郭に現れるのは週に一回、もしくは月に三、四回と決まっていた。遊女の休憩時間に、日輪ならずとも他の遊女や禿にもみくちゃにされているのを、月詠はよく見かけていた。色々不思議な禿ではあったが、口下手ではありながら、人懐っこく年上の禿や遊女の後をついて回るのも微笑ましく見られていた。
初めて見た時は五、六歳ごろと思われたが、今や時が流れ、十歳になったと本人は言っていた。
少女は名を『
*
――これは、何だ? 戦場の匂いに似ているけれど、全く違う死の匂いだ。
血が噴き出す戦場ではない種類の修羅場を、朔と呼ばれた十歳の子供は初めて見た。遊郭の使われていない片隅の部屋の奥で、いつも自分を構ってくれていた遊女が人間とは思えない叫び声を上げて苦しんでいた。
天井の梁から吊り下げられた縄を掴み、座り込むかたちで必死にうなり声を上げていた。その周りに日輪をはじめ、限られた遊女達がその女の周りで右往左往しつつ、その女を励ましたり、股ぐらをのぞき込んだりしていた。
日輪がおろおろしている朔月と月詠に声を上げた。
「朔、月詠! お湯を持ってきてくれないか!」
「こっちじゃ、台所!」
何に使うのかと悩む暇もなく、朔月は姉貴分の月詠に導かれるままに走り出す。本気で走れば月詠をすぐに追い抜けるが、台所に一人で行ってもおろおろすることを見越されて、セットでの依頼だった。
台所にて馴染みの調理係に月詠が事情を話すと、彼女はすでに事情を知らされていたようで、いそぎ大量のお湯を大きな桶に入れてくれた。朔月はこれを運ぶ係だ。華奢な見てくれからは想像できないほどの怪力持ちのため、力仕事はお手の物だった。
「急ぐぞ朔!」
「うん!」
急ぎ元の部屋に戻り、月詠が襖を開くか開かないかの時に、中から知らぬ高い声が響き渡った。
おぎゃあ、おぎゃあと知らない高い声だった。二人は急ぎ中に入ると、そこには人の腕に抱えられるほどの大きさの、赤くて小さい猿のような血塗れの生き物が、見知った遊女の腕の中で泣いていた。
二人が戻ってきたことに気づいた日輪が振り向いた。
「いいところに! こっちにそれを置いてくれないか」
その指示のままに苦しんでいた女の近くに桶を置くと、遊女が泣いている生き物を湯につけて洗い始めた。体にまとわりついていた血が、湯にほどけてとれていく。
「初音! ちゃんと泣いてるよ、元気な男の子だ!」
日輪はぐったりしている遊女に明るく声をかけた。すると彼女も、汗だくで疲労の色が張り付いた顔ながら嬉しそうに微笑む。
その小さな生き物を洗っていた遊女が、柔らかい布でそれをくるんでから初音に手渡した。
すると、初音はこれまでの苦しみなどなかったかのように――柔らかに、安心したように微笑んだのだ。
空気を読んだ月詠は、朔月の手を引いてその場から立ち去った。
月詠自身も、初音が客の子供を身ごもり、これまで楼主に隠し続け出産するつもりであることを知っていた一人だった。子供ながらに無事生まれてよかった、と思うと同時にこれからどうなるんだろうという不安が頭をもたげる。
通常、吉原で子を産むことは許されない。死罪だ。妊娠を隠し通せただけでも奇跡なのだ、いつまでも子供の存在を隠し通せるはずがない。
日輪の部屋にまで戻ってくると、月詠は一息をついた。そこで初めて、これまで妹分のように扱ってきた朔月の顔を見た。
「月姉、何、あれ?」
「……他では黙っておくのじゃ。初音が、客の子供を産んだ」
「子供……」
月詠は妹分に何も説明していなかったから、黙っていて欲しいと言っただけだ。
だが朔月が気にしていたのは、あそこで何が起こっていたのかそのものだ。
出産。命の誕生。それは朔月が今まで見たことも体感したこともないものだった。
「……新しく命が生まれたのに、匂いは戦場みたいだ」
古来日本では、死だけでなく生、死亡のみならず出産も穢れとして扱われた。
生死に関わる事柄は穢れと見なされ、ただ人が易々と近づくべきものではないとされた。
であれば、朔月が戦場と同等の匂いを感じ取ったことも強ちおかしくはないのだが、朔月の立場を知らぬ月詠は首を傾げた。
「朔?」
「な、なんでもない。でも、今日はもう僕は帰った方がいいのかな」
この遊郭で暮らしていない朔月の目から見ても、今日は普通の日ではない。いつも朔月を構ってくれる遊女達はほとんど今日の出産騒ぎに動員されているので、ゆっくりできる様子もない。
「……そうじゃな、今日は騒がしい。少し待て」
月詠は襖を開いて中に引っ込むと、数分してからまた出て来た。その手には赤い小さな巾着袋が握られており、彼女はそれをぽんと朔月に手渡した。
「日輪からもらった金平糖というお菓子じゃ。おいしいぞ、特別におぬしにもわけてやろう」
「あ、ありがとう」
その日はそれで退散した朔月だったが、その次の週――週一日の、比較的自由に過ごせる日にまた日輪と月詠の遊郭にやってきたときには、子を産んだ初音はどこにも居なかった。
朔月は不躾に、というよりは何もわからなかったので、素直にそれを日輪に尋ねたところ、彼女はもう亡くなってしまったと教えられた。
後産がうまく降りず、血がなかなか止まらずそのまま。出産の仕組みを知らない朔月ではあったが、死はわかる。
それ以上何も聞かなくなった子供を見て、日輪は代わりに――おくるみに包まれてすやすやと眠る赤子を見せた。
「あのとき――あんたも手伝ってくれて生まれた赤ん坊だ。晴太っていうんだよ」
「晴太」
出産。生と死。知っている戦場とは異なる戦場。
日輪が晴太を優しい手つきで、朔月に渡してくる。流れのままに、朔月はその小さな命を受け取った。
潰さないように、気をつけながら。
「晴太」
晴れ渡った青空という名。きっと朔月には生涯縁のないもの二つ。
手の内に青空、目の前には太陽。この子は日輪の子供ではないけれど、それは日輪にとっては些細なことなのだろう。
朔月は晴太を見つめながら呟いた。
「いいことがたくさんあるといいね」
*
だが、晴太という新たな人間が加わった暮らしは長く続かなかった。そもそも、朔月がこの遊郭に来られるのは週一回、もしくはまとめて月三~四日が限度だ。それから晴太と関われたのも二回か三回程度。
その最後の時に――朔月は聞いてしまった。日輪の住まう遊郭へ入ろうとしたその時、見知った遊女と店番が遊郭の外で、裏路地にて隠れるようにして話しているのを。
「晴太を引き渡す協力者は決まった」「来週の夜に」「あの日輪が連れて逃げると」
雰囲気もさりながら、出て来た個人の名前が聞き逃せないそれだった。
なりふり構わずその二人に突撃すると、想像通り彼らはしまったと顔に書いて反応した。それは彼らの計画に、朔月や禿など子供を巻き込まないようにする善意だったのだが、その時の朔月には関係がなかった。
いつもはおとなしい子供はほとんど脅迫のような形で――手近にあった桶や積荷を素手で破壊して示威し――話を聞き出した。
「日輪が晴太を連れて吉原を脱出する」「元々吉原からの勝手な離脱は死罪」「日輪は鳳仙様のお気に入りだからなおのこと」「決行は来週」「晴太を引き渡す先も決まった」
計画の細部まで聞き出し、朔月はその日は日輪や晴太に会わずに、自らが暮らす吉原最奥最大の遊郭へと引き返した。
*
毎日は、作業だった。
やっていることは訓練、訓練、訓練だけ。大人の夜兎からの暴力に耐え、食事の毒、注射される毒に耐え、ひどい寒さと暑さに耐え、水中で息が出来ない状態に耐え、空腹に耐え、丸三日以上眠らない状態に耐え、手足のいずれかが折れた状態にも耐え、どんな状況、どんな体調でも、ただただあらゆる生き物を殺せるように戦い続ける。
吉原最大の遊郭の地下空間だけでなく、しばしば宇宙に連れ出されてえいりあんや、戦闘種族と戦わせられることもあった。
でも、それだけならまだよかった。五歳のころまでは、訓練さえこなせば後は何も言われなかった。
教育担当や世話担当、吉原の禿と遊んだり喋ったりしても自由。疲れ果てて眠っていることが多かったけれど、少しでもいけそうと思ったときは教育係とおしゃべりしたり、禿と遊んだりした。
訓練は本当に大変だったけれど、まだ大丈夫だった。
ただ、五歳を超えたあたりだっただろうか。そのころから、「訓練さえこなせばよい」ではなくなった。
誰も喋ってくれなくなった。話しかけても無視された。暮らしている遊郭の禿や、番頭さんにも避けられて、遊ぶことも許されなくなった。こっそり抜け出そうとしたら、怒られるか、「自分が団長に殺されるからやめてくれ」と強く頼まれてしまった。
何故かはわからない。周りにはいつも人がいたのに、誰の目にも自分が映っていないかのよう。
食事は届けられるから、自分が存在していることは知られているはずなのに。どうして。
しかし週一、朽名という夜兎の担当日だけは違った。朽名の日だけは朽名がおしゃべりしてくれるし、吉原の別の遊郭に連れて行って遊ばせてくれた。
そこで出会ったのが、日輪や月詠、晴太の母を含めた遊女たちだった。その日だけは本当に楽しかった。
それ以外の毎日は、作業。戦い以外は、透明。そこにいるものと認識されない。仕方がないから、ずっと本を読んでいた。
だけど、自分をないものとして扱う、朽名以外の教育担当にも怒る気にもなれなかった。
だれもかれも、あの人を恐れていた。あの人の言うとおりにしないと、担当自身が殺されるかもしれないから。
自分が課題をうまくこなせたら、担当は明らかに「殺されなくて済んだ」と安心していた。
しくじっても自分が殴られていれば済むならそれでもよかったが、自分が弱いことはほかの誰かの迷惑になってしまう。最悪、死ぬ。
あの人に会うのは月一くらいだが、大体丸一日は気を失うほど殴られるか宇宙修行をやらされるかで一際酷い目に遭う上、しょっちゅう顔ぶれが代わる教育担当が揃いも揃ってあの人を恐れているから近づきたくもなかった。
朽名爺が自分の父だと言っていたから、どうやら父親というものらしいが、だから何だ。
そもそも、「家族」を知らなかった。日輪たちのいる遊郭で、ほかの星から売られてきて父、母恋しさに泣いている禿たちがいた。
逆に、自分を捨てたと恨んでいる禿たちもいた。
彼女たちから父や母とは何なのかを聞いて、概念としては理解した。
自分には最初からそんなものはなかったのだから、悲しいとも思わなかったし、憎いとも思わなかった。
ないものは、ない。
痛い。辛い。苦しい。疲れた。絵本や小説を読んでいると出てくるから、なんとなくわかる。
でも、それを言ったところで、何になるんだろう。痛かったら、殴るのはやめてもらえるのか。苦しかったら、訓練をしなくてもいいのか。疲れたから、寝てもいいのか。そんなことはなかった。
だからそれを言うよりは、一秒でも早く、一体でも多く、殺せるようになる方がいい。
でもかまってくれる遊女や禿は、笑ったり泣いたり、体調が悪いとか、嫌な客がいるとか、あの姐さんが怖いとかたくさん愚痴を言ったりしていた。なんと答えればいいのかわからなくて、黙って頷いていることしかできなかったけど、言い終わった後彼女たちは、言う前よりは明るい顔をしていた。
現状が変わらなくても、そういうことを言うのは、意味があるのかもしれない。
自分のは、多分、遊女や禿たちとは違うから、彼女たちに言うことはできなかったけど。
自分が暮らしている楼閣では、誰も相手にしてくれなくなってしまったから――もし仮に、自分が感情とか、人との繋がりを知れたとするなら、それは朽名、そして日輪や月詠たちとの時間でしかありえない。
――ひとりぼっちであっても、孤独だとは思わなかった。
家族がわからなくても、誰かの特別ではなくっても、自分の事を気にかけてくれる人はいた。
何の役にも立たなくても、弱くても、優しくしてもらえることは、あった。
夜兎はみんな戦闘が好きだという。
であれば、戦闘を楽しいと全く思えず、弱くて役に立たない自分は夜兎ではないのではないか。
それならそれでいい。
朽名は夜兎の闘争本能が目覚めれば戦闘は楽しくなりますよと言っていたが、本当にそんな日がくるのか疑わしい。
来るかわからない胡散臭い闘争本能なんかよりも、護るべき、従うべきものがある。
本来、吉原では子供を産んではいけないらしい。それは子供も遊女も死罪になるほどの罪だという。
にもかかわらず、日輪と親しい遊女が子供――晴太――を産んだ。
遊女や店番が、日輪と晴太の逃亡計画について話しているのを聞いた。
気づかれたら殺されてしまうから、吉原から逃げるのだ。
日輪が吉原から居なくなるのはいやだ。いなくならないでほしい。
――晴太さえいなければ、日輪はここにずっといてくれるのかな。
――だったら晴太だけいなくなればいい。晴太を産んだのは、日輪じゃない。
……でも晴太を抱っこしている日輪や月姉、秘密を知る遊女たちは、とても嬉しそうだった。
晴太が
で、あるなら。
大事な人の大事な人は、僕の大事な人でもある。
ここにいると、晴太が死んでしまう。
もし日輪と晴太がうまく逃げられたなら、二人は幸せに暮らせる。
だったら逃げてもらう方がマシだ。
それを邪魔する者は殺す。誰であろうと関係ない。
それが喩え
――それは、紛れもなく殺意だった。
十歳の子兎が、夜兎の王と呼ばれた男へ抱いた、必殺の意思。
*
二週間ほど快援隊の手伝いをしてから辰馬からのお土産を片手に、およそ四ヶ月ぶりの地球は日本国かぶき町。
快援隊での仕事の時に、辰馬が銀時の古くからの友達であると知り、地球に行くならとお土産をもらっていた。キマっちゃううどん粉、ではなく流行りのうどん粉である。
大きめのゴーグルを頭にかけ、コートや手袋は黒いショルダーバッグにまとめ入れて斜めがけ。黒い番傘をさして、背中の特注ホルダーに赤い番傘を背負い、いつもの中華服。
しれっと地球に来たが、神食は前回テレビ速報で指名手配をされてしまった身である。とうに捕縛されたことになっているとはいえ、念のため目立ちやすい赤い髪は黒髪ウィッグを装着して隠している。星海坊主リスペクト(おそらく本人に言ったら殴られる)。
イメチェンの彼は、真昼間に万事屋を訪れてインターホンを押していた。
「ぎーんさん、神楽ちゃん、新八くん、定春――!! あなたたちの神食です!」
連打しても返事は梨の礫。こりゃ依頼で不在だと見なし、カンカンと階段を降りる。こちらも返事があるかはわからないが、せっかく来たのでスナックお登勢にも顔を出してみるかと思ったら、店の前を緑色の髪をしたメイドさんが掃き掃除をしていた。
「たまちゃん!」
「神食様。お久しぶりです。髪はイメチェンでしょうか?」
からくり家政婦のたまがほうきを片手に挨拶をした。神食はそろそろとたまに近寄ると、謎にキメ顔で尋ねた。
「黒と赤、どっちがモテると思う? 地毛だとしょっちゅうチャラいチャラい言われるから
黒の方が真面目そうにみえていいかも? とか思うんだけど」
「機械である私には判じかねますが、どちらにしろ中身がチャラいのでは結果に変化はないのでは」
「なんか普通に辛辣! まあいいや、銀さん達って仕事?」
「銀時様達なら、今日から三日ほど依頼で留守にされるそうです」
「あーやっぱ。OK。また来るわ、お登勢さんとキャサリンにもよろしく!」
たまに手を振って別れると、仕方ないから数日はターミナル近くのホテルに泊まろうと決める。前回の春雨退職直後の観光では金に糸目をつけず遊んでいたが、毎度そうしているわけにもいかない。
春雨時代は春雨負担で小型宇宙船を使って、任務の間に惑星のアルタナ調査や研究所に立ち寄ったりもできたが、いかんせん仕事の合間なので時間は限られていた。
今は時間こそ自分の裁量でどうにでもなるが、小型宇宙船レンタルは完全に自費で費用面が気になる。
あちらが立てばこちらが立たずである。
さて、ということであれば万事屋が不在の間何をして過ごすか。
*
――吉原桃源郷。夜王鳳仙が支配する、常夜の街。夜王鳳仙その人が宇宙海賊春雨第七師団の元団長であり、日本国内のみならず春雨からもたらされる違法に人身売買された女達が流入する巨大な色町。
開国後攘夷戦争時の戦火によって一度灰燼に帰したが、元々幕府重鎮や裏社会の者が交流に使用し価値があると見いだされ、天人主導のもと地下深くに再建されたのが現在の吉原である。
再建の過程にも宇宙海賊と幕府中央との密接な関わりがあったため、表世界では話せる政治の秘事を語らう場でもある。自然花魁はそこで知ってはならぬ事を耳にするため、一度ここに来た女は二度と外に出ることを許されない。
太陽の昇らぬ、永劫の夜。それがここ吉原桃源郷。
そこに客として立ち入った神食。永遠とも思えるエレベーターの果てに、輝く男の天国の片隅で――「おえ”え”え”え”え”え”え”え”え”え”」
めっちゃゲロ吐いていた。
「ハァ、ハァ、やっぱ無理、なんも変わってねぇ」
神食は吉原の団子茶屋にて腰掛け、みたらしだんごを片手に、もう片手で頭を抱えていた。
万事屋が留守の間何をするか。キャバクラはいいが予算に限界あり。であれば予算に関係なくできることで気にかかっていた事柄をしようと思った。
地球を出る前にお登勢から聞いた、太陽と月の女の名前。
吉原桃源郷の日輪太夫と死神太夫・月詠。
当然、その名を知らぬ神食ではなかった。春雨第七師団先代団長鳳仙が差配するここに、在団中来訪したことがあるからだ。
ただ、その時も重い体調不良に見舞われ、ついでに吉原を愉しむどころの話ではなかったのだ。
そういうわけでついぞここには近寄らず生きてきたわけではあるが、しかし流石にここまで体調不良が重なれば、偶然腹を下したからなどではない。
吉原に居ること自体が体調不良の原因なのだ。
みたらしだんごを舐めつつ、日輪太夫と死神太夫について思いをはせる。日輪については、在団中に鳳仙に会えないか尋ねてみたことがあるが、端的に言ってブチギレられた。
けんもほろろどころのレベルではない、多分殺害もやむないと思っているレベルのブチギレである。
死神太夫月詠については、会おうと思えば会える気がする。あちらは太夫と二つ名があるものの、客をとる花魁ではなく吉原の自警団百華の頭領だ。吉原を警邏しているかもしれないし、最悪道行く人を殴るとか遊女にたちの悪い絡みをすればすっ飛んできてくれるかもしれない。ただ、春雨の影響が濃い街で騒ぎを起こすのは本意では無い。
「うーん、プラカードに月詠ちゃんファンサして! とか書いて練り歩くか? ……ん」
別の意味で迷惑な事を考えていると、団子屋の正面に位置する楼閣前で、遊郭には似合わぬ小汚い子供が店番と話していた。
すでに団子の会計は終わらせているので、神食は余った団子串と黒い傘を持って店を出た。
八~九歳くらいとみえる茶色っぽい髪をした子供は、しわしわの紙幣と小銭を手渡していた。身なりも薄汚れていて髪もぼさぼさだ。浮浪児だろうか。
「ほら、今日の分だ。ちゃんと帳簿につけとけよ」
「毎日毎日飽きないな。わかったよ」
店番はまともにとりあっているとは思えない様子で、しかししっかりと小銭を受け取っていた。店番は少年を一瞥もせずに踵を返し、遊郭に戻っていく。
子供は一息つくと向かいの団子屋に向かい――今建っていた遊郭を振り返った。
そして、入り口を見るではなく――高みを、遊郭の最上階を見上げた。
つられて、神食も少年の視線を追って見上げた先には――一人の花魁が、燦然と坐しましていた。
豪奢な簪を差し、十二単のようにふんだん、かつ豪奢な布地で仕立てられた打掛と引着――
は、彼女を引き立てるだけに過ぎない。彼女の整った目鼻立ちさえ、本質ではないだろう。
その瞳。この常夜にありながら太陽があるとすればその瞳を謳ったものだろう。
人々に分け隔て無く降り注ぐ光でありながら、誰のものにもならぬ太陽。
何者にも、己にも屈せず、何度でも立ち上がる強き意志。
――吉原一の花魁と名高い、日輪太夫その人であった。
少年はその高嶺の花たる花魁を見上げ、こらえきれぬように呟いた。
「母ちゃ「ママ――――ーッ!!!!!」
「えっ!?」
「マ、ママだアレ絶対そう! マジでどうしよう!!??」
少年のにじみかけた視界は一気に吹き飛び、すぐ隣でギャアギャア騒いでいる、傘を背負った男――神食が眼に入った。
神食はその場でぴょんぴょんと跳ね、日輪に向かってママーといいながら手を振っている。勿論成人男性である。
当然日輪は一瞥たりともしないのだが、それを気にせず神食はいきなり考え込み始めたり騒いだり忙しい。
「イヤちょっと待って! てことは俺、小さいころ
「お、おいちょっとアンタ」
「まあいいや、ママー!! あなたのかわいい神食です!!」
謎に日輪に向かってウィンクや投げキッスを繰り出し始めた変人に完全に気を取られていた少年だが、ママ、つまり母ちゃんという台詞は聞き捨てならない。
少年は神食の真ん前に立つと、指を差して宣言した。
「おい、あの人はオイラの母ちゃんだ!」
「あん?」
引き続き、吉原内の和風喫茶店にて、神食と小汚い少年――晴太は向かい合って座っていた。
お座敷で靴を脱ぎ、座布団に座りちゃぶ台を挟んで向かい合う。
神食はおごるから好きなものを食えと言ったが、警戒した晴太は何も頼まない。
注文なしで居座ることはできないので、神食はぜんざいを二つ頼んだ。
晴太が何故日輪を母親だと思っているかをぼそぼそと話し終えたのを聞き届け、神食はストローを指し棒のごとく使い、彼を指さした。
「ってーと? お前はあの日輪太夫が自分の母ちゃんだっていう妄想をしてるってことか」
「妄想じゃない! っていうかアンタの方が妄想だろーがァァ! どう考えても年の差がおかしいだろ!」
「俺がママつってるのは概念的なアレだから。実親じゃなくて小さい頃隣に住んでたママみあるお姉さん的な。てかお前、遊郭の店番に金渡してたけど、何?」
晴太は憮然とした顔つきのまま答える。「ここは吉原だ。日輪太夫に会うなら、買うしかないだろ」
それを聞いて、神食は黙り込む。その発想自体は悪くないが、それが叶わない事を知っている。
日輪太夫は夜王鳳仙のお気に入り――その言い方は生ぬるすぎるが――である。先ほど顔出ししていたのは客寄せパンダ的意味合いで、実際には晴太でなくてもいくら金を積んだところで会うことはできない。
神食はすでに春雨入団直後に日輪に会わせろといってキレられているのだから、神食でも会うことはできないだろう。
それでも会って話がしたいというなら、それは戦争になる。
とにかく、店番に金を渡すのは無駄だ。しかもあの店番、きちんと貯めておいているのかすら怪しい。店番の顔は覚えているので、あとで締め上げて晴太の金をカツアゲしておくか。
金を渡すなといいたいが、何故かを答えるとなると春雨のことを喋らなきゃいけなくなるな、と考えていると、思ったより長考状態になってしまったようだ。熱々のぜんざいが二つ運ばれてきた時に、晴太の方がぼそぼそと呟いた。
「アンタ、馬鹿にしないんだな」
「は? 何を?」
「日輪太夫を買うってことをだよ」
晴太はすでに店番に金を渡して何週間か経つ。吉原で自分のような子供は目立つため、何しにきたとからかい混じりに言われることも何度もあった。笑われても当然と思っていたから、あまり気にしたことは無かったけれども。
「……女に会いたいがために女を買う金を貯める。方法としては変じゃないからな。でもお前、金はどうしてんだ? 身なり見るにいい暮らしをしてるようには見えないぜ」
ぐっと晴太は黙り込む。神食が何者かわからないが、スリで生計を立てていますとはいえない。その態度ですでに正当な手段で金を得ていませんと言っているようなものだが、神食はそれ以上追求しなかった。
神食自身も記憶がパーンしてから星海坊主に師事するまで一年くらい、強盗殺人暴力組織の抗争で生計を立てていたし、とこだわっていなかったことが大きい。
「まあいいや。お前、店番に金を渡してるのは週一とか? 今くらいの時間?」
「? 金が手に入れば毎日、時間は今くらいだけど……」
「わかった。じゃ、払っといてくれ」
神食は千円札を三枚おいて、そのまま立ち上がって店を出ようとする。晴太は金と手つかずのぜんざいを見て叫ぶ。
「おい、アンタこれ!」
「食欲ねぇから食っといて」
神食はその足で吉原出入り口の昇降機に向かい、吉原桃源郷を後にした。月詠捜索のことを思い出したのは、ターミナル近くの宿泊ホテルに戻ってからだった。
*
その日から、神食は毎日吉原桃源郷に足を運ぶことにした。ルーティンは晴太に会う、晴太が店番に金を渡す、晴太にはトイレといいその間に店番から金をカツアゲして回収する、喫茶店で茶をしばく、晴太を地上の家まで送る、であるが、それらの前に「月詠ちゃんファンサして」「死神太夫クナイちょうだい」のプラカードを持って吉原を練り歩くタスクが追加されている。
勿論、毎回体調は最悪であるが、数日こなすと多少は慣れてきた。
最近は女も買わないのに何故か吉原を徘徊するプラカード男として、アングラ観光する客と写真を撮ってもいた。
プラカード持って歩く、その後に晴太と会うのパターンで、今まさにプラカードを持って吉原の往来の交通を邪魔しながら歩いていたときである。
「侍が斬り合いを始めたぞ!」
通り過ぎた、斜め後ろの遊郭前で二人の浪人が斬り合っていた。遊女達は悲鳴を上げて距離をとっており、幸い巻き込まれる者はいなさそうな状態ではあるが、二人とも手練れのようで大きく刀を振るい、楼閣や街頭を傷つけている。
目当ての花魁の取り合いか。
片方の侍が大きく刀を振り上げたその時、その腕にクナイが突き刺さっていた。
刹那、相対する侍の腕にも、正確無比に飛来したクナイが突き刺さる。
「ぐぁあああ!」
「何奴!?」
そう叫び、一時戦いを中断したときにはすでに遅い。両手に短刀を構えた金髪の女が、侍とすれ違いざまに胴体を掻き切った。あまりの早業に侍の方は何が起こったかわからず、一拍おいた後に華開くように血をまき散らして倒れ伏した。
「頭!」
道の奥から続々と現れたのは、口元まで黒い布で覆った花魁。――否、花魁のような雰囲気ではあるが、ブーツを履いたり着物を短くしたりするなど改造した衣装をまとった、吉原自警団「百華」の者たちだった。
花魁達は侍達を始末した金髪の女の元に集まる。
「お手を煩わせました」
「構わぬ。丁度行き会っただけじゃ」
「そう、偶然。だけどこれからまた出会うなら、もう必然。俺昔、月落としと渾名されたっこともあるが――今度は月に落とされちまったみたいだ……ぜ……?」
「!? 誰だ貴様ァァ!」
一瞬のうちに百華と金髪の女の間に滑り込んだ不審者、つまり神食は片手で背中にプラカードを隠しつつ、もう片手を金髪の女性に差し出した。
当然百華たちは不審者にそれぞれの得物を構えかけるが、その警戒がなくとも――神食の動きと言葉の方が固まった。
月のような金髪と瞳。クナイを象った髪飾りで上げられた髪。顔についた傷。右がノースリーブ担った黒い着物にブーツ。
神食は女性に声をかけるとき、キャバクラやスナックではやることもあるが、道ばたの場合やらないことがある。話しかけた女性に許可無く触ることだ。いきなりベタベタ触ると警戒心を抱かれてその後の成功率が下がるからなのだが、此度はそのルールもすっかり彼の頭から吹き飛んでいた。
プラカードを放り投げ、金髪の女性――百華頭領・月詠の片手を握った。
「月姉!! 俺俺俺!! 神食!! ……ギャッ!!」
月詠の得物たるクナイが投げられ、いやこの至近距離ではすでに突き刺すといった方が正しい。
しかし額にクナイが突き刺さったまま、神食は諦めずひるむこともない。
「月姉! 俺俺俺! 覚えてない? 大きくなったなぁ~」
「頭、此奴が近頃頭の名前のプラカードをもって歩き回っているくせ者です」
部下から捕まえますか、と眼で問いかけられるが月詠は首を振った。花魁に乱暴狼藉を働いたり代金の踏み倒しを行ったりしたわけでもない、純粋に不審なだけの人物でそこまでする必要は無いとみていた。
だが、まとわりつかれるのも邪魔であるし、月詠は神食について何一つ心当たりが無かった。というか――
「わっちに夜兎の知り合いはおらん。人違いであろう」
楼主に鳳仙が居るため、月詠も百華も神食が夜兎であると早早に看破していた。
だからこそ、今おとなしくしている神食が暴れ出したら取り押さえることは難しいと思っており、ギリギリ吉原違反行為もないのだからおとなしく引き下がって欲しいと思っているのだが。
「小さい頃の話だから覚えてない? あ、そっか神食じゃ通じないのか、あれ? 俺なんて名前だったんだろ」
当の神食は一人でぶつぶつ何事かを呟いて勝手に困っている。月詠はもう知らんと、百華たちに先ほどの侍の始末を命じて、その場を去った。
……去った、のだが。
「月姉、そういえば師匠さんは元気? 俺にも忍術みたいなの、ちょっと教えてくれたよね!」
「月姉、鈴蘭さんや螢ちゃんは元気?」
「月姉、今でも金平糖好き?」
もはや月詠が答えるかどうかは気にしていないのか、神食はひたすら月詠の後にくっついて回っていた。月詠は何度も撒こうとしているのだが、腐っても夜兎、身体能力の高さに加え動体視力もいいのか全く撒けずにしつこく後から話しかけてくる。
もうこれは適当にあしらっているのではキリが無い。おそらく害意は無いとみて、面倒だが相手をする方が一番まるく収まると判断し、月詠は足を止めた。
「だからそなたなど知らんと言っておる。人違いじゃ」
「俺は知ってる!」
話聞いてるのかコイツ。だが、神食と名乗るこの夜兎が昔吉原に滞在したことは事実のようである。うるさく背後から話しかけてくる内容は、間違いなくかつての吉原で月詠が体験していたことが含まれているのだ。
同時に、地雷亜のことを悪気なく聞いてくることから、この男がその後吉原とは無縁に過ごしたであろう事もわかる。
だがそれでも、月詠に神食という名前で、男の夜兎の知り合いはいない。そもそも男でここに来るのは客と女衒くらいで、少年はいない。仮に夜兎だということに気づいていなかったとしても、
どう追い払うべきか困っていると、神食の方がポケットからスマホを出した。アラームをかけていたようだ。
「やべ、そろそろ晴太と会う時間だ。ごめん月姉、またね!」
またはない、と言い返したいところだったが「晴太」という言葉がひっかかった。
今度は逆に月詠が彼を呼び止めようとしたが、煙のように居なくなってしまった。道を走るよりも軒を連ねる店の屋根を走った方が早いと見なしたのか、数軒先の屋根を走る神食の姿が見えた。「――晴太」
十年前、とある遊女が生んだ子を日輪が逃がした。晴太はその時の子供だ。手引きを手伝ってくれた翁の元で暮らしているはずだが、それがここに居るのか。またはただの同名の人間か。
吉原の客の出入りは逐一監視されている。特に子供は目立つ。晴太は、あの晴太なのか。
正体不明の夜兎と「晴太」が会っている。ただの不安だと思うが、念のため晴太の正体を確認するべきだろう。
昔の知り合い。
神食という男の言葉を真に受けるなら、小さい頃月詠とあの男は一緒に遊んだり食事をしたり、そこそこの時間をともに過ごしたとみえる。
年の近い禿同士であれば、そのようなこともあったが……なにより男の子は禿にはならないので、土台からありえないのだが。
――ずっと自分の後をついてきた禿はいたと思い出す。人身売買で他の星から来た人間なのか、珍しい赤い髪と赤い眼をした
折檻が常態化していたのか、見るたびに包帯の場所が変わっていた。
お菓子を分けてもなかなか食べようとせず、月詠が食べてからやっと食べていた様を思い出す。
その子がいなくなってしまったのも、十年前。
日輪が晴太を逃がした時と同じ――月詠はその現場に居合わせていないが、なんとその少女は日輪を連れ戻しに来た鳳仙に襲い掛かったのだという。鳳仙の側近が庇ったものの、それでも鳳仙の蹴りは彼女の頭部に当たり、大量の血を流して地面に倒れたという。
日輪は彼女に駆け寄ろうとしたが、鳳仙の手下に取り押さえられ、少女の無事もわからないままに吉原に連れ戻された。
そして、少女も吉原から姿を消した――きっと、死んだのだろう。
懐かしくも苦い、昔の話である。
華奢な赤毛赤目の少女は、名をこう名乗っていた。
「朔月」
神食「師匠リスペクトで俺もヅラ(ウィッグ)つけてみました 」
星海坊主「オウそんなに殺されたいかバカ弟子」
神食「でもこれ髪蒸れません?むしろ毛根には良くないんじゃないですか?」
星海坊主「その毛根がねェんだよこっちは!あっ無いって言っちゃった」