ロズワール邸は、安全な場所ではなくなっていた。
けれど、出ていける場所でもなかった。
スバルには金がない。
行く当てもない。
文字も読めない。
この世界で頼れるものは、あまりにも少なすぎる。
そして何より、ここを離れれば、エミリアから遠ざかる。
ユイからも遠ざかる。
それが怖かった。
レムが怖い。
ラムが怖い。
夜が怖い。
眠るのが怖い。
それでも、エミリアの声は優しくて、ユイの手は温かい。
だから、逃げられない。
逃げたいのに、逃げられない。
それが、スバルをさらに追い詰めていた。
「スバルくん」
ユイの声に、スバルは顔を上げた。
部屋の中には、エミリアとレムもいる。
レムは水差しを持ったまま、静かに立っている。
その姿を見るだけで、スバルの背筋に冷たいものが走った。
鎖の音が、耳の奥で鳴る。
実際には鳴っていない。
でも、聞こえる。
鉄球が土を砕く音。
足を締め上げる鎖の音。
冷たい声。
魔女の臭い。
スバルは、無意識にユイの手を強く握った。
「……ごめん」
自分で気づいて、慌てて力を緩める。
「痛かったか?」
「平気よ」
ユイは穏やかに笑った。
その笑みが優しすぎて、スバルの胸が痛む。
エミリアが心配そうに覗き込んだ。
「スバル、やっぱり今日は休んでいた方がいいわ。顔色がすごーく悪いもの」
「すごーく、か」
「ええ。すごーく」
「じゃあ、かなり悪いな」
「そう言っているでしょう?」
エミリアは真面目だった。
スバルは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「……休む。休むから、大丈夫」
その言葉に、レムの目がわずかに動く。
大丈夫。
自分で言っておいて、スバルはその言葉が嫌だった。
何も大丈夫ではない。
大丈夫だったことなど、一度もない。
それでも、そう言うしかない。
何も知らないエミリアを、これ以上不安にさせたくなかった。
何も知らないレムに、これ以上怪しまれたくなかった。
何も知らない顔をしているユイに、これ以上縋りつきたくなかった。
縋りつきたくないのに、手は離せなかった。
レムが静かに言う。
「何か必要なものがございましたら、お申し付けください」
丁寧な声。
それだけなのに、スバルの喉が詰まった。
返事が遅れる。
沈黙が一拍長くなる。
それだけで、空気が少し硬くなる。
「……ああ。ありがとう」
ようやく返した声は、情けないくらい掠れていた。
レムは一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
スバルは、その音が完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐いた。
肺が痛い。
まるで、今までずっと呼吸を止めていたようだった。
エミリアが眉を下げる。
「スバル、レムが怖いの?」
その問いに、スバルの体が固まった。
核心ではない。
死に戻りの話でもない。
けれど、答えれば理由を聞かれる。
理由は言えない。
言えない理由が、また怪しまれる。
スバルは唇を噛んだ。
「……怖い、っていうか」
言葉を探す。
「俺が勝手に、変になってるだけだ。レムが何かしたわけじゃない」
この世界では。
その言葉は飲み込んだ。
飲み込んだ瞬間、胸の奥で冷たいものが動く気配がした。
危なかった。
エミリアは悲しそうな顔をした。
「でも、つらいなら、ちゃんと言ってね」
「言えたら、言う」
「それは、言えない人の言い方よ」
「……だよな」
スバルは乾いた笑いを漏らした。
ユイは、黙ってそれを見ていた。
スバルがどこまで壊れているか、手の震えだけでわかる。
レムを見ただけで呼吸が乱れる。
ラムの声が聞こえるだけで首筋に触れる。
エミリアの優しさに救われながら、その無知に傷ついている。
いい。
とてもいい。
だが、まだ足りない。
このままでは、スバルは恐怖に閉じこもるだけだ。
彼には答えが必要だった。
自分が最初に何で終わったのか。
あの小さな傷が何だったのか。
それを知った時、彼の曇りはもっと深くなる。
二日目と三日目は、ひどく静かに過ぎた。
スバルはほとんど部屋にいた。
たまに廊下を歩く時も、必ずユイと一緒だった。
レムと二人きりになることを避ける。
ラムと顔を合わせても、軽口は弱い。
エミリアには心配され続ける。
ロズワールは、相変わらず道化の笑みで何も言わない。
何も言わないことが、逆に気味悪かった。
三日目の夜。
スバルは眠らなかった。
ユイもそばにいた。
四日目が近づく。
この数字が近づくだけで、スバルの呼吸は浅くなる。
ユイは、椅子に座って本を開いていた。
スバルはベッドの上で膝を抱えている。
「ユイさん」
「なあに?」
「俺、変だよな」
「かなり」
「そこは否定してくれ」
「あなたが嘘を欲しがっているようには見えなかったから」
「……そっか」
スバルは顔を伏せた。
「俺、レムのこと怖がってる。ラムのことも怖い。屋敷も怖い。寝るのも怖い。なのに、ここにいる」
「ええ」
「矛盾してるよな」
「人は、怖い場所から必ず逃げられるわけではないもの」
「……そうだな」
逃げられない。
逃げれば、また別の刃が来るかもしれない。
残れば、何が起こるかわからない。
どちらも怖い。
スバルは、どうすればいいのかわからなかった。
四日目の朝。
スバルはほとんど眠らないまま朝食の席についた。
目の下は黒く、手元は覚束ない。
エミリアが何度も心配そうに視線を向ける。
レムは静かに給仕をしている。
ラムは淡々と紅茶を置く。
ユイはいつも通り穏やかに座っていた。
その時、レムが予定を告げた。
「本日は、村へ買い出しに向かう予定です」
スバルの手が止まった。
パンが皿の上へ落ちる。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
エミリアが振り向く。
「スバル?」
「……村」
声が掠れる。
アーラム村。
子どもたち。
小さな獣。
指先の痛み。
眠り。
五日目の朝に続かなかった時間。
スバルは、反射的に口を開いた。
「行かない」
レムが静かに目を向ける。
「スバル様に同行をお願いした覚えはありませんが」
「あ……」
今回は、自分は使用人ではない。
仕事もしていない。
村へ行く理由はない。
なのに、先に拒絶してしまった。
スバルは自分の失言に気づき、顔を伏せる。
「悪い。寝不足で、変な反応した」
「そうですか」
レムはそれだけ言った。
だが、その短い返事の奥に警戒が見えた気がして、スバルは胃が冷えるのを感じた。
その時、ユイが穏やかに言った。
「それなら、私が手伝ってもいいかしら」
スバルの世界が止まった。
「……は?」
声が漏れる。
ユイは何も知らない顔で微笑んでいる。
「いつまでもお世話になってばかりでは落ち着かないもの。荷物持ちくらいならできるわ」
エミリアが心配そうに言う。
「ユイ、もう体は大丈夫なの?」
「ええ。傷もだいぶ良くなったわ」
「でも、無理はしないでね」
「もちろん」
スバルは血の気が引いていくのを感じた。
駄目だ。
ユイが村へ行く。
それは駄目だ。
理由は説明できない。
まだ、はっきりとはわかっていない。
でも、指の傷が関係している。
あの小さな獣が関係している。
そう思う。
そう思ってしまう。
「ユイさん」
スバルは、低く呼んだ。
「行かない方がいい」
全員の視線が集まる。
エミリアは驚き、レムは静かに目を細め、ラムは紅茶を置く手を止めた。
ユイは首を傾げる。
「どうして?」
「それは……」
言えない。
胸の奥が冷たくなる。
サテラの気配が、言葉の先を塞ぐ。
スバルは奥歯を噛んだ。
「嫌な予感がする」
それだけを絞り出した。
「村は、行かない方がいい」
ユイは困ったように微笑む。
「心配してくれてありがとう。でも、買い出しでしょう? 危ないことはしないわ」
「危ないことをしなくても、危ないんだよ」
言った瞬間、スバルは自分の口を押さえた。
踏み込みすぎた。
レムの視線が鋭くなる。
エミリアが不安そうにする。
「スバル、本当にどうしたの?」
「……悪い」
スバルは俯いた。
「変なこと言った。忘れてくれ」
忘れられるわけがない。
そんなことは、自分が一番わかっていた。
ユイは立ち上がり、スバルのそばに来る。
そして、彼にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「大丈夫。気をつけて行ってくるわ」
その言葉が、スバルには別れの言葉に聞こえた。
「触るな」
「え?」
「変な獣とか、いたら……絶対に触るな」
スバルは、ほとんど懇願するように言った。
「頼むから」
ユイは一瞬だけ目を細めた。
そして、頼れるお姉さんの顔で頷く。
「ええ。気をつけるわ」
嘘だった。
もちろん、嘘だった。
スバルはそれを信じたかった。
信じるしかなかった。
四日目の朝、ユイはレムと共にアーラム村へ向かった。
村は、スバルの記憶にある通り明るかった。
畑。
家々。
村人の声。
子どもたちの笑い声。
レムは買い出しを進める。
ユイは荷物を持ち、村人に挨拶し、子どもたちにも穏やかに微笑む。
「姉ちゃん、屋敷の人?」
「少しだけお手伝いをしているの」
「髪、きれい!」
「ありがとう」
子どもたちは無邪気だった。
その足元に、小さな犬のような生き物がいた。
ユイは、それを見つけた瞬間、胸の奥で静かに笑った。
いた。
スバルを奪った小さな牙。
呪いの入口。
ユイはしゃがみ込む。
レムは少し離れたところで買い物の確認をしている。
子どもたちはユイの周りではしゃいでいる。
ユイは、ゆっくりと手を差し出した。
「かわいい子ね」
スバルは触るなと言った。
だから、触れる。
小さな獣が、ユイの指先へ鼻を寄せる。
次の瞬間、ちくりと痛みが走った。
歯が食い込む。
血が、ほんの少し滲んだ。
「あっ、噛んだ!」
「姉ちゃん、大丈夫?」
子どもたちが騒ぐ。
ユイは指先を見つめた。
小さな傷。
赤い点。
これでいい。
これがほしかった。
「大丈夫よ。少し驚いただけ」
レムが気づき、近づいてくる。
「ユイ様」
「少し噛まれてしまったみたい」
「見せてください」
レムは傷を確認する。
浅い。
血も少ない。
けれど、ほんの一瞬だけレムの目が曇った。
「洗っておいた方がよろしいかと」
「ええ。お願いするわ」
手当ては受ける。
けれど、呪いは残す。
虚飾で消すこともできる。
進行を誤魔化すこともできる。
だが、今はしない。
この呪いを、自分の中へ入れる。
スバルが五日目の朝まで生き残るために。
そして、彼が自分の代わりに冷たくなった手を握って曇るために。
夕方、ユイとレムは屋敷へ戻った。
玄関には、スバルがいた。
ほとんど飛び出すようにして、ユイへ駆け寄る。
「大丈夫だったか!?」
その勢いに、エミリアが驚く。
レムは静かに目を細める。
ユイは微笑んだ。
「ええ。買い出しは無事に終わったわ」
「手」
「え?」
「手、見せて」
声が震えている。
ユイは少しだけ困ったような顔をしてから、右手を差し出した。
指先に、小さな歯形。
ほとんど塞がりかけた傷。
それを見た瞬間、スバルの顔から血の気が引いた。
「……噛まれたのか」
「少しだけね」
「触るなって言っただろ」
「ごめんなさい。子どもたちの近くにいて、避けきれなかったの」
嘘だった。
けれど、自然な嘘だった。
スバルは唇を震わせる。
怒りたい。
問い詰めたい。
でも、何を言えばいい。
なぜそれが危ないのか、自分は説明できない。
「手当ては」
「レムさんがしてくれたわ」
レムが静かに頷く。
「洗浄は済ませています。傷も浅いものです」
「浅いとか……そういう問題じゃ……」
スバルはそこで止まった。
何が問題なのか。
言えない。
ユイは、そんなスバルを優しく見た。
「大丈夫よ」
「その言い方、やめろ」
スバルは思わず言った。
ユイが目を瞬かせる。
「スバルくん?」
「大丈夫って言われても……大丈夫じゃなかったことばっかなんだよ」
声が震えていた。
エミリアが心配そうに近づく。
「スバル、どうしたの?」
「……ごめん」
スバルは俯く。
「なんでもない」
嘘だった。
けれど、それ以外の言葉がない。
その夜、スバルはユイの部屋の前に座り込んだ。
エミリアにも止められた。
ラムにも呆れられた。
レムには不審そうに見られた。
ユイ本人にも「自分の部屋で休んで」と言われた。
それでも、スバルは動かなかった。
「ここにいる」
スバルは言った。
「怪しくてもいい。邪魔でもいい。俺は、ここにいる」
レムの視線が鋭くなる。
だが、スバルはもうそれどころではなかった。
今夜が四日目の夜。
記憶の中の自分なら、ここで村から帰って眠りについた。
そして、五日目の朝を迎えられなかった。
今回は、ユイが噛まれた。
なら、同じことが起きるかもしれない。
いや、起きる。
そう思えてしまう。
スバルは一睡もしなかった。
扉の前で膝を抱え、夜が過ぎるのを待つ。
何度も立ち上がり、扉に耳を当てた。
中からは静かな寝息が聞こえる。
それがあるたびに、少しだけ安心する。
でも、すぐにまた不安になる。
夜は長かった。
長すぎた。
そして、五日目の朝が近づく。
夜明け前。
部屋の中で、ユイの呼吸が浅くなった。
呪いが、命に届く。
体温が落ちる。
鼓動が弱まる。
指先から力が抜けていく。
ユイはベッドの上で目を閉じていた。
痛みは少ない。
ただ、体の奥から何かが抜けていく感覚がある。
スバルがかつて味わったものと同じ。
違うのは、ユイには準備があったこと。
そして、虚飾があること。
ユイは、死を拒まなかった。
呪いに命を奪わせる。
肉体は死ぬ。
呼吸も止まる。
鼓動も止まる。
体温も失われる。
その上で、虚飾を薄く張る。
死んだ後も、音だけは届くように。
意識ではない。
思考でもない。
ただ、周囲の音を拾う細い糸だけを残す。
私は死んでいる。
けれど、聞こえている。
そんな矛盾を、虚飾で無理やり成立させる。
やがて、ユイの呼吸が止まった。
五日目の朝。
ユイは死んだ。
最初に異変に気づいたのは、扉の前にいたスバルだった。
寝息が消えた。
ほんの小さな違和感。
だが、スバルには十分すぎた。
彼は立ち上がり、扉を叩く。
「ユイさん?」
返事はない。
「ユイさん」
また叩く。
返事はない。
手が震える。
呼吸が乱れる。
「開けるぞ」
そう言って、返事を待たずに扉を開けた。
部屋の中は静かだった。
朝の光が、薄く差し込んでいる。
ベッドの上に、ユイが横たわっていた。
穏やかな顔。
閉じた瞼。
胸は動いていない。
「……ユイさん?」
スバルは近づく。
一歩。
二歩。
足元がふらつく。
手を伸ばす。
ユイの手に触れる。
冷たい。
「……嘘だろ」
手首を探る。
脈がない。
口元に手を近づける。
呼吸がない。
スバルの顔が、ゆっくりと崩れた。
「嘘だろ……」
同じ言葉しか出ない。
「なあ、ユイさん。起きろよ」
返事はない。
「俺、ここにいただろ。寝なかった。ずっと、ここにいた。だから、何かあったら気づけるって……思って……」
声が震える。
「なんでだよ」
その声は、死んだユイに届いていた。
虚飾で残した音だけの糸が、スバルの声を拾う。
震えている。
壊れかけている。
泣きそうで、泣けない声。
ユイは、死んだ体の奥で笑った。
聞こえる。
ちゃんと聞こえるよ、スバルくん。
あなたの声。
あなたの絶望。
あなたが「自分の代わりに私が」と思って崩れていく音。
スバルは、ユイの手を握りしめた。
冷たい手。
昨日まで温かかった手。
何度も自分を支えてくれた手。
「俺のせいか?」
ぽつり、とこぼれた。
「俺が止めきれなかったから? 俺が、ちゃんと説明できなかったから? 俺が……」
そこで胸が冷えた。
スバルは言葉を止める。
言えない。
何を知っていたのか。
なぜ止めたのか。
その先は言えない。
スバルはユイの手を額に押し当てた。
「ごめん」
涙が落ちる。
「ごめん、ユイさん……」
廊下から足音が近づく。
エミリアの声が聞こえた。
「スバル? どうしたの?」
続いてレム。
ラム。
誰かが息を呑む音。
部屋の空気が凍る。
エミリアが、震える声で名を呼んだ。
「ユイ……?」
レムが無言で近づき、手首に触れる。
首元に触れる。
呼吸を確認する。
その表情が、わずかに硬くなった。
「……息がありません」
その一言で、スバルの肩が大きく震えた。
「言うな」
かすれた声だった。
「言うなよ……」
レムは沈黙する。
ラムは部屋を見回す。
窓。
扉。
床。
争った形跡はない。
外傷も、指先の小さな噛み傷以外には見当たらない。
眠ったまま、命だけが抜け落ちたような死。
エミリアは口元を押さえ、目を見開いている。
「どうして……昨日まで、普通に……」
答えられる者はいない。
スバルは答えを知りかけている。
けれど言えない。
ユイは答えを知っている。
けれど死んでいる。
死んだ状態で、音だけを聞いている。
ラムが低く言った。
「ベアトリス様を呼ぶべきね」
その名を聞いて、スバルは顔を上げた。
ベアトリス。
記憶の中の禁書庫の少女。
今の世界では、まだまともに会っていない。
けれど、彼女なら。
何かがわかるのかもしれない。
レムがすぐに動いた。
しばらくして、桃色の小さな少女が部屋へ入ってきた。
豪奢な縦巻きの髪。
不機嫌そうな瞳。
幼い外見に似合わない尊大な空気。
ベアトリスは部屋に入るなり、眉をひそめた。
「朝から騒がしいと思ったら、ずいぶん面倒なことになっているのよ」
スバルは、その声を聞いて胸が軋んだ。
知っている。
でも知らない。
今の彼女は、自分を知らない。
ベアトリスはベッドの上のユイを見て、表情を少しだけ変えた。
それから近づき、指先をかざす。
部屋の空気がわずかに揺れた。
スバルは息を詰める。
頼む。
何か言ってくれ。
まだ助かるって。
そう思う。
だが、ベアトリスの口から出た言葉は冷たかった。
「もう手遅れかしら」
スバルの呼吸が止まる。
「手、遅れ……?」
「命は抜けているのよ。ベティにできることはないかしら」
エミリアが震える。
「ベアトリス、原因は……?」
ベアトリスはユイの手を取り、指先の傷を見る。
小さな歯形。
そこに残る、普通の怪我とは違う魔力の残滓。
「呪いね」
その一言が、部屋に落ちた。
スバルの中で、何かが繋がった。
指。
噛み傷。
眠ったまま。
五日目の朝。
自分の記憶。
ユイの死。
「呪い……」
エミリアが呟く。
ベアトリスは不機嫌そうに続ける。
「魔獣の類に噛まれたのでしょう。傷口を通して呪いを仕込まれているのよ。発動してからでは遅いかしら」
魔獣。
呪い。
噛まれた傷。
スバルは震えながら笑った。
笑うしかなかった。
「そうかよ……」
涙が落ちる。
「そういうことだったのかよ……」
ようやくわかった。
自分が最初にどうして終わったのか。
ユイが今、なぜ冷たくなっているのか。
でも、遅い。
遅すぎる。
答えは、ユイの冷たい手の中にあった。
スバルはその手を握りしめる。
死んだユイの耳には、その声が届いている。
ああ。
届いたね、スバルくん。
これが答え。
あなたを殺したものの正体。
今回は私が、それを受け取ってあげた。
あなたが五日目の朝まで生き残るために。
あなたが答えを得るために。
そして、あなたが私の冷たい手を握って曇るために。
レムが、静かにスバルを見る。
「スバル様」
その声に、スバルの体がびくりと震えた。
レムは淡々と続ける。
「あなたは、昨日ユイ様が村へ向かうことを強く止めておられました」
空気が変わる。
エミリアがレムを見る。
「レム?」
「その理由を、まだ聞いておりません」
スバルは息を呑んだ。
来た。
わかっていた。
そうなる。
あれだけ不自然に止めた。
噛まれたことを見て取り乱した。
部屋の前で一晩中見張っていた。
そして今、呪いだとわかった。
疑われない方がおかしい。
「……嫌な予感がしただけだ」
スバルは掠れた声で言った。
「それ以上は、ない」
「本当に?」
レムの声は静かだった。
静かすぎて、怖い。
「あなたは、何かを知っていたのではありませんか」
胸が冷える。
見えない手が、心臓の近くに触れる。
スバルは唇を噛んだ。
「知らない」
嘘だ。
完全な嘘ではない。
呪いだとは知らなかった。
だが、危ないとは思っていた。
指の傷が関係あるかもしれないとは思っていた。
それでも、説明はできない。
「知らない。俺は……何も、ちゃんとは知らなかった」
それが、言える限界だった。
ラムが静かに言う。
「ちゃんとは?」
スバルは言葉を詰まらせる。
まただ。
また、自分で逃げ道を潰している。
ベアトリスはじっとスバルを見た。
「お前、妙な匂いがするのよ」
スバルの背筋が凍る。
その言葉を、前にも別の形で聞いた。
レムの口から。
魔女の臭い。
今度はベアトリスも、それを見ている。
「何か抱えているのは明らかなのよ。でも、言えない。そういう顔をしているかしら」
「……」
「沈黙は肯定に近いのよ」
「違う」
スバルは即座に言った。
「違うんだ。俺は、ユイさんをこんなふうにしたかったわけじゃない。俺は止めた。止めたかった。でも、言えなくて……」
言えなくて。
その先は言えない。
エミリアが悲しそうにスバルを見る。
「スバル……何を知っているの?」
「言えない」
言ってから、スバルは顔を歪めた。
最悪の答えだった。
でも、それしかない。
エミリアの表情が揺れる。
レムの目が冷えていく。
ラムの視線が細くなる。
ベアトリスは、不愉快そうに眉を寄せた。
「言えない、ね。まったく、面倒な男なのよ」
「ごめん」
スバルは俯いた。
「本当に、ごめん……」
謝るしかなかった。
謝っても、何も変わらない。
ユイは戻らない。
疑いも晴れない。
自分が何者かも説明できない。
その時、レムが一歩踏み出した。
その一歩だけで、スバルの体が跳ねた。
鎖の音が記憶の中で鳴る。
レムはまだ何もしていない。
武器も持っていない。
ただ一歩進んだだけだ。
それなのに、スバルは反射的に後ずさった。
その反応を、全員が見た。
レムが目を細める。
「なぜ、怯えるのですか」
「……っ」
「レムは、まだ何もしておりません」
その言葉は正しい。
この世界では、まだ何もしていない。
それがスバルを追い詰める。
「違う……」
スバルは首を振る。
「違うんだ。これは、お前が悪いんじゃなくて……」
言えない。
前に殺されたから。
そんなことは言えない。
レムがさらに一歩近づく。
スバルは、ユイの手を離して後ずさった。
「スバル!」
エミリアが呼ぶ。
スバルは聞こえている。
でも、もう部屋の空気に耐えられなかった。
ユイの冷たい体。
ベアトリスの診断。
レムの疑い。
ラムの目。
エミリアの悲しそうな顔。
全部が、胸を押し潰す。
「無理だ」
小さく呟いた。
「ごめん、無理だ……」
次の瞬間、スバルは部屋を飛び出した。
「スバル!」
エミリアの声。
レムの足音。
ラムの短い指示。
全部を振り切って、廊下を走る。
体はふらついている。
寝不足。
疲労。
精神の限界。
それでも走った。
屋敷の中が怖い。
誰も知らない顔で、自分を疑う。
自分は何も言えない。
ユイが死んだ。
自分は止められなかった。
答えはわかったのに、遅すぎた。
もう、ここにはいられない。
玄関を抜け、庭へ飛び出す。
朝の空気が肌を刺す。
後ろから声がする。
誰かが追ってくる。
でも、振り返れない。
振り返れば、レムがいるかもしれない。
ラムがいるかもしれない。
エミリアが泣いているかもしれない。
ユイはもう動かない。
スバルは走った。
森を抜ける。
枝が頬を打つ。
足がもつれる。
何度も転びかける。
それでも走る。
やがて、視界が開けた。
崖だった。
眼下には、深い谷。
風が下から吹き上げてくる。
スバルは崖の縁で足を止めた。
肺が焼ける。
喉が痛い。
涙で視界が歪む。
後ろから声が聞こえる。
「スバル!」
エミリアの声。
遠い。
近い。
わからない。
スバルは振り返らなかった。
崖の下を見る。
怖い。
怖いに決まっている。
落ちるのは怖い。
痛いのは嫌だ。
終わるのは、何度経験しても慣れない。
でも、このままではユイは戻らない。
ユイが冷たいままだ。
自分が知った答えも、ここでは遅すぎる。
なら。
戻るしかない。
胸の奥が冷たくなる。
その言葉を口には出せない。
でも、心の中ではわかっている。
自分には、それしかない。
スバルは笑った。
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
「ごめん、ユイさん」
声は風に消えた。
「今度は、ちゃんと止める」
胸の奥の冷たい手は、動かない。
これは誰かに秘密を伝える言葉ではない。
自分自身への誓いだった。
後ろから足音が近づく。
エミリアか。
レムか。
ラムか。
誰かはわからない。
スバルは、ようやく振り返った。
遠くに、銀色の髪が見えた。
その顔が、恐怖に歪む。
「スバル、待って!」
待てない。
待ったら、止められる。
止められたら、ユイは戻らない。
スバルは微笑もうとした。
うまく笑えなかった。
「エミリアたん」
声が震える。
「ごめん」
それだけ言って、スバルは崖から身を投げた。
世界が落ちる。
空が遠ざかる。
風が耳元で叫ぶ。
胃が浮く。
体が冷える。
怖い。
怖い。
怖い。
それでも、目を閉じなかった。
ユイの冷たい手を思い出す。
ベアトリスの言葉を思い出す。
魔獣の呪い。
指の噛み傷。
五日目の朝。
今度こそ。
今度こそ、間に合わせる。
地面が迫る。
衝撃。
痛みは一瞬だった。
世界が途切れる。
ユイの死んだ体に残っていた、音だけの虚飾も、その瞬間、ふっと揺れた。
遠くで、何かが巻き戻る気配がする。
スバルくん。
聞こえないはずの声で、ユイは笑う。
来て。
助けに来て。
何も知らない顔の私を、必死に止めて。
そしてまた、あなたの曇った顔を見せて。
すべてが闇に落ちた。
そして、世界はまた、あの朝へ戻る。