Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

10 / 47
第十話 呪いの答え

 ロズワール邸は、安全な場所ではなくなっていた。

 

 けれど、出ていける場所でもなかった。

 

 スバルには金がない。

 

 行く当てもない。

 

 文字も読めない。

 

 この世界で頼れるものは、あまりにも少なすぎる。

 

 そして何より、ここを離れれば、エミリアから遠ざかる。

 

 ユイからも遠ざかる。

 

 それが怖かった。

 

 レムが怖い。

 

 ラムが怖い。

 

 夜が怖い。

 

 眠るのが怖い。

 

 それでも、エミリアの声は優しくて、ユイの手は温かい。

 

 だから、逃げられない。

 

 逃げたいのに、逃げられない。

 

 それが、スバルをさらに追い詰めていた。

 

「スバルくん」

 

 ユイの声に、スバルは顔を上げた。

 

 部屋の中には、エミリアとレムもいる。

 

 レムは水差しを持ったまま、静かに立っている。

 

 その姿を見るだけで、スバルの背筋に冷たいものが走った。

 

 鎖の音が、耳の奥で鳴る。

 

 実際には鳴っていない。

 

 でも、聞こえる。

 

 鉄球が土を砕く音。

 

 足を締め上げる鎖の音。

 

 冷たい声。

 

 魔女の臭い。

 

 スバルは、無意識にユイの手を強く握った。

 

「……ごめん」

 

 自分で気づいて、慌てて力を緩める。

 

「痛かったか?」

 

「平気よ」

 

 ユイは穏やかに笑った。

 

 その笑みが優しすぎて、スバルの胸が痛む。

 

 エミリアが心配そうに覗き込んだ。

 

「スバル、やっぱり今日は休んでいた方がいいわ。顔色がすごーく悪いもの」

 

「すごーく、か」

 

「ええ。すごーく」

 

「じゃあ、かなり悪いな」

 

「そう言っているでしょう?」

 

 エミリアは真面目だった。

 

 スバルは笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 

「……休む。休むから、大丈夫」

 

 その言葉に、レムの目がわずかに動く。

 

 大丈夫。

 

 自分で言っておいて、スバルはその言葉が嫌だった。

 

 何も大丈夫ではない。

 

 大丈夫だったことなど、一度もない。

 

 それでも、そう言うしかない。

 

 何も知らないエミリアを、これ以上不安にさせたくなかった。

 

 何も知らないレムに、これ以上怪しまれたくなかった。

 

 何も知らない顔をしているユイに、これ以上縋りつきたくなかった。

 

 縋りつきたくないのに、手は離せなかった。

 

 レムが静かに言う。

 

「何か必要なものがございましたら、お申し付けください」

 

 丁寧な声。

 

 それだけなのに、スバルの喉が詰まった。

 

 返事が遅れる。

 

 沈黙が一拍長くなる。

 

 それだけで、空気が少し硬くなる。

 

「……ああ。ありがとう」

 

 ようやく返した声は、情けないくらい掠れていた。

 

 レムは一礼し、部屋を出ていく。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 スバルは、その音が完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐いた。

 

 肺が痛い。

 

 まるで、今までずっと呼吸を止めていたようだった。

 

 エミリアが眉を下げる。

 

「スバル、レムが怖いの?」

 

 その問いに、スバルの体が固まった。

 

 核心ではない。

 

 死に戻りの話でもない。

 

 けれど、答えれば理由を聞かれる。

 

 理由は言えない。

 

 言えない理由が、また怪しまれる。

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

「……怖い、っていうか」

 

 言葉を探す。

 

「俺が勝手に、変になってるだけだ。レムが何かしたわけじゃない」

 

 この世界では。

 

 その言葉は飲み込んだ。

 

 飲み込んだ瞬間、胸の奥で冷たいものが動く気配がした。

 

 危なかった。

 

 エミリアは悲しそうな顔をした。

 

「でも、つらいなら、ちゃんと言ってね」

 

「言えたら、言う」

 

「それは、言えない人の言い方よ」

 

「……だよな」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らした。

 

 ユイは、黙ってそれを見ていた。

 

 スバルがどこまで壊れているか、手の震えだけでわかる。

 

 レムを見ただけで呼吸が乱れる。

 

 ラムの声が聞こえるだけで首筋に触れる。

 

 エミリアの優しさに救われながら、その無知に傷ついている。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 だが、まだ足りない。

 

 このままでは、スバルは恐怖に閉じこもるだけだ。

 

 彼には答えが必要だった。

 

 自分が最初に何で終わったのか。

 

 あの小さな傷が何だったのか。

 

 それを知った時、彼の曇りはもっと深くなる。

 

 二日目と三日目は、ひどく静かに過ぎた。

 

 スバルはほとんど部屋にいた。

 

 たまに廊下を歩く時も、必ずユイと一緒だった。

 

 レムと二人きりになることを避ける。

 

 ラムと顔を合わせても、軽口は弱い。

 

 エミリアには心配され続ける。

 

 ロズワールは、相変わらず道化の笑みで何も言わない。

 

 何も言わないことが、逆に気味悪かった。

 

 三日目の夜。

 

 スバルは眠らなかった。

 

 ユイもそばにいた。

 

 四日目が近づく。

 

 この数字が近づくだけで、スバルの呼吸は浅くなる。

 

 ユイは、椅子に座って本を開いていた。

 

 スバルはベッドの上で膝を抱えている。

 

「ユイさん」

 

「なあに?」

 

「俺、変だよな」

 

「かなり」

 

「そこは否定してくれ」

 

「あなたが嘘を欲しがっているようには見えなかったから」

 

「……そっか」

 

 スバルは顔を伏せた。

 

「俺、レムのこと怖がってる。ラムのことも怖い。屋敷も怖い。寝るのも怖い。なのに、ここにいる」

 

「ええ」

 

「矛盾してるよな」

 

「人は、怖い場所から必ず逃げられるわけではないもの」

 

「……そうだな」

 

 逃げられない。

 

 逃げれば、また別の刃が来るかもしれない。

 

 残れば、何が起こるかわからない。

 

 どちらも怖い。

 

 スバルは、どうすればいいのかわからなかった。

 

 四日目の朝。

 

 スバルはほとんど眠らないまま朝食の席についた。

 

 目の下は黒く、手元は覚束ない。

 

 エミリアが何度も心配そうに視線を向ける。

 

 レムは静かに給仕をしている。

 

 ラムは淡々と紅茶を置く。

 

 ユイはいつも通り穏やかに座っていた。

 

 その時、レムが予定を告げた。

 

「本日は、村へ買い出しに向かう予定です」

 

 スバルの手が止まった。

 

 パンが皿の上へ落ちる。

 

 乾いた音が、やけに大きく響いた。

 

 エミリアが振り向く。

 

「スバル?」

 

「……村」

 

 声が掠れる。

 

 アーラム村。

 

 子どもたち。

 

 小さな獣。

 

 指先の痛み。

 

 眠り。

 

 五日目の朝に続かなかった時間。

 

 スバルは、反射的に口を開いた。

 

「行かない」

 

 レムが静かに目を向ける。

 

「スバル様に同行をお願いした覚えはありませんが」

 

「あ……」

 

 今回は、自分は使用人ではない。

 

 仕事もしていない。

 

 村へ行く理由はない。

 

 なのに、先に拒絶してしまった。

 

 スバルは自分の失言に気づき、顔を伏せる。

 

「悪い。寝不足で、変な反応した」

 

「そうですか」

 

 レムはそれだけ言った。

 

 だが、その短い返事の奥に警戒が見えた気がして、スバルは胃が冷えるのを感じた。

 

 その時、ユイが穏やかに言った。

 

「それなら、私が手伝ってもいいかしら」

 

 スバルの世界が止まった。

 

「……は?」

 

 声が漏れる。

 

 ユイは何も知らない顔で微笑んでいる。

 

「いつまでもお世話になってばかりでは落ち着かないもの。荷物持ちくらいならできるわ」

 

 エミリアが心配そうに言う。

 

「ユイ、もう体は大丈夫なの?」

 

「ええ。傷もだいぶ良くなったわ」

 

「でも、無理はしないでね」

 

「もちろん」

 

 スバルは血の気が引いていくのを感じた。

 

 駄目だ。

 

 ユイが村へ行く。

 

 それは駄目だ。

 

 理由は説明できない。

 

 まだ、はっきりとはわかっていない。

 

 でも、指の傷が関係している。

 

 あの小さな獣が関係している。

 

 そう思う。

 

 そう思ってしまう。

 

「ユイさん」

 

 スバルは、低く呼んだ。

 

「行かない方がいい」

 

 全員の視線が集まる。

 

 エミリアは驚き、レムは静かに目を細め、ラムは紅茶を置く手を止めた。

 

 ユイは首を傾げる。

 

「どうして?」

 

「それは……」

 

 言えない。

 

 胸の奥が冷たくなる。

 

 サテラの気配が、言葉の先を塞ぐ。

 

 スバルは奥歯を噛んだ。

 

「嫌な予感がする」

 

 それだけを絞り出した。

 

「村は、行かない方がいい」

 

 ユイは困ったように微笑む。

 

「心配してくれてありがとう。でも、買い出しでしょう? 危ないことはしないわ」

 

「危ないことをしなくても、危ないんだよ」

 

 言った瞬間、スバルは自分の口を押さえた。

 

 踏み込みすぎた。

 

 レムの視線が鋭くなる。

 

 エミリアが不安そうにする。

 

「スバル、本当にどうしたの?」

 

「……悪い」

 

 スバルは俯いた。

 

「変なこと言った。忘れてくれ」

 

 忘れられるわけがない。

 

 そんなことは、自分が一番わかっていた。

 

 ユイは立ち上がり、スバルのそばに来る。

 

 そして、彼にだけ聞こえるくらいの声で言った。

 

「大丈夫。気をつけて行ってくるわ」

 

 その言葉が、スバルには別れの言葉に聞こえた。

 

「触るな」

 

「え?」

 

「変な獣とか、いたら……絶対に触るな」

 

 スバルは、ほとんど懇願するように言った。

 

「頼むから」

 

 ユイは一瞬だけ目を細めた。

 

 そして、頼れるお姉さんの顔で頷く。

 

「ええ。気をつけるわ」

 

 嘘だった。

 

 もちろん、嘘だった。

 

 スバルはそれを信じたかった。

 

 信じるしかなかった。

 

 四日目の朝、ユイはレムと共にアーラム村へ向かった。

 

 村は、スバルの記憶にある通り明るかった。

 

 畑。

 

 家々。

 

 村人の声。

 

 子どもたちの笑い声。

 

 レムは買い出しを進める。

 

 ユイは荷物を持ち、村人に挨拶し、子どもたちにも穏やかに微笑む。

 

「姉ちゃん、屋敷の人?」

 

「少しだけお手伝いをしているの」

 

「髪、きれい!」

 

「ありがとう」

 

 子どもたちは無邪気だった。

 

 その足元に、小さな犬のような生き物がいた。

 

 ユイは、それを見つけた瞬間、胸の奥で静かに笑った。

 

 いた。

 

 スバルを奪った小さな牙。

 

 呪いの入口。

 

 ユイはしゃがみ込む。

 

 レムは少し離れたところで買い物の確認をしている。

 

 子どもたちはユイの周りではしゃいでいる。

 

 ユイは、ゆっくりと手を差し出した。

 

「かわいい子ね」

 

 スバルは触るなと言った。

 

 だから、触れる。

 

 小さな獣が、ユイの指先へ鼻を寄せる。

 

 次の瞬間、ちくりと痛みが走った。

 

 歯が食い込む。

 

 血が、ほんの少し滲んだ。

 

「あっ、噛んだ!」

 

「姉ちゃん、大丈夫?」

 

 子どもたちが騒ぐ。

 

 ユイは指先を見つめた。

 

 小さな傷。

 

 赤い点。

 

 これでいい。

 

 これがほしかった。

 

「大丈夫よ。少し驚いただけ」

 

 レムが気づき、近づいてくる。

 

「ユイ様」

 

「少し噛まれてしまったみたい」

 

「見せてください」

 

 レムは傷を確認する。

 

 浅い。

 

 血も少ない。

 

 けれど、ほんの一瞬だけレムの目が曇った。

 

「洗っておいた方がよろしいかと」

 

「ええ。お願いするわ」

 

 手当ては受ける。

 

 けれど、呪いは残す。

 

 虚飾で消すこともできる。

 

 進行を誤魔化すこともできる。

 

 だが、今はしない。

 

 この呪いを、自分の中へ入れる。

 

 スバルが五日目の朝まで生き残るために。

 

 そして、彼が自分の代わりに冷たくなった手を握って曇るために。

 

 夕方、ユイとレムは屋敷へ戻った。

 

 玄関には、スバルがいた。

 

 ほとんど飛び出すようにして、ユイへ駆け寄る。

 

「大丈夫だったか!?」

 

 その勢いに、エミリアが驚く。

 

 レムは静かに目を細める。

 

 ユイは微笑んだ。

 

「ええ。買い出しは無事に終わったわ」

 

「手」

 

「え?」

 

「手、見せて」

 

 声が震えている。

 

 ユイは少しだけ困ったような顔をしてから、右手を差し出した。

 

 指先に、小さな歯形。

 

 ほとんど塞がりかけた傷。

 

 それを見た瞬間、スバルの顔から血の気が引いた。

 

「……噛まれたのか」

 

「少しだけね」

 

「触るなって言っただろ」

 

「ごめんなさい。子どもたちの近くにいて、避けきれなかったの」

 

 嘘だった。

 

 けれど、自然な嘘だった。

 

 スバルは唇を震わせる。

 

 怒りたい。

 

 問い詰めたい。

 

 でも、何を言えばいい。

 

 なぜそれが危ないのか、自分は説明できない。

 

「手当ては」

 

「レムさんがしてくれたわ」

 

 レムが静かに頷く。

 

「洗浄は済ませています。傷も浅いものです」

 

「浅いとか……そういう問題じゃ……」

 

 スバルはそこで止まった。

 

 何が問題なのか。

 

 言えない。

 

 ユイは、そんなスバルを優しく見た。

 

「大丈夫よ」

 

「その言い方、やめろ」

 

 スバルは思わず言った。

 

 ユイが目を瞬かせる。

 

「スバルくん?」

 

「大丈夫って言われても……大丈夫じゃなかったことばっかなんだよ」

 

 声が震えていた。

 

 エミリアが心配そうに近づく。

 

「スバル、どうしたの?」

 

「……ごめん」

 

 スバルは俯く。

 

「なんでもない」

 

 嘘だった。

 

 けれど、それ以外の言葉がない。

 

 その夜、スバルはユイの部屋の前に座り込んだ。

 

 エミリアにも止められた。

 

 ラムにも呆れられた。

 

 レムには不審そうに見られた。

 

 ユイ本人にも「自分の部屋で休んで」と言われた。

 

 それでも、スバルは動かなかった。

 

「ここにいる」

 

 スバルは言った。

 

「怪しくてもいい。邪魔でもいい。俺は、ここにいる」

 

 レムの視線が鋭くなる。

 

 だが、スバルはもうそれどころではなかった。

 

 今夜が四日目の夜。

 

 記憶の中の自分なら、ここで村から帰って眠りについた。

 

 そして、五日目の朝を迎えられなかった。

 

 今回は、ユイが噛まれた。

 

 なら、同じことが起きるかもしれない。

 

 いや、起きる。

 

 そう思えてしまう。

 

 スバルは一睡もしなかった。

 

 扉の前で膝を抱え、夜が過ぎるのを待つ。

 

 何度も立ち上がり、扉に耳を当てた。

 

 中からは静かな寝息が聞こえる。

 

 それがあるたびに、少しだけ安心する。

 

 でも、すぐにまた不安になる。

 

 夜は長かった。

 

 長すぎた。

 

 そして、五日目の朝が近づく。

 

 夜明け前。

 

 部屋の中で、ユイの呼吸が浅くなった。

 

 呪いが、命に届く。

 

 体温が落ちる。

 

 鼓動が弱まる。

 

 指先から力が抜けていく。

 

 ユイはベッドの上で目を閉じていた。

 

 痛みは少ない。

 

 ただ、体の奥から何かが抜けていく感覚がある。

 

 スバルがかつて味わったものと同じ。

 

 違うのは、ユイには準備があったこと。

 

 そして、虚飾があること。

 

 ユイは、死を拒まなかった。

 

 呪いに命を奪わせる。

 

 肉体は死ぬ。

 

 呼吸も止まる。

 

 鼓動も止まる。

 

 体温も失われる。

 

 その上で、虚飾を薄く張る。

 

 死んだ後も、音だけは届くように。

 

 意識ではない。

 

 思考でもない。

 

 ただ、周囲の音を拾う細い糸だけを残す。

 

 私は死んでいる。

 

 けれど、聞こえている。

 

 そんな矛盾を、虚飾で無理やり成立させる。

 

 やがて、ユイの呼吸が止まった。

 

 五日目の朝。

 

 ユイは死んだ。

 

 最初に異変に気づいたのは、扉の前にいたスバルだった。

 

 寝息が消えた。

 

 ほんの小さな違和感。

 

 だが、スバルには十分すぎた。

 

 彼は立ち上がり、扉を叩く。

 

「ユイさん?」

 

 返事はない。

 

「ユイさん」

 

 また叩く。

 

 返事はない。

 

 手が震える。

 

 呼吸が乱れる。

 

「開けるぞ」

 

 そう言って、返事を待たずに扉を開けた。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 朝の光が、薄く差し込んでいる。

 

 ベッドの上に、ユイが横たわっていた。

 

 穏やかな顔。

 

 閉じた瞼。

 

 胸は動いていない。

 

「……ユイさん?」

 

 スバルは近づく。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 足元がふらつく。

 

 手を伸ばす。

 

 ユイの手に触れる。

 

 冷たい。

 

「……嘘だろ」

 

 手首を探る。

 

 脈がない。

 

 口元に手を近づける。

 

 呼吸がない。

 

 スバルの顔が、ゆっくりと崩れた。

 

「嘘だろ……」

 

 同じ言葉しか出ない。

 

「なあ、ユイさん。起きろよ」

 

 返事はない。

 

「俺、ここにいただろ。寝なかった。ずっと、ここにいた。だから、何かあったら気づけるって……思って……」

 

 声が震える。

 

「なんでだよ」

 

 その声は、死んだユイに届いていた。

 

 虚飾で残した音だけの糸が、スバルの声を拾う。

 

 震えている。

 

 壊れかけている。

 

 泣きそうで、泣けない声。

 

 ユイは、死んだ体の奥で笑った。

 

 聞こえる。

 

 ちゃんと聞こえるよ、スバルくん。

 

 あなたの声。

 

 あなたの絶望。

 

 あなたが「自分の代わりに私が」と思って崩れていく音。

 

 スバルは、ユイの手を握りしめた。

 

 冷たい手。

 

 昨日まで温かかった手。

 

 何度も自分を支えてくれた手。

 

「俺のせいか?」

 

 ぽつり、とこぼれた。

 

「俺が止めきれなかったから? 俺が、ちゃんと説明できなかったから? 俺が……」

 

 そこで胸が冷えた。

 

 スバルは言葉を止める。

 

 言えない。

 

 何を知っていたのか。

 

 なぜ止めたのか。

 

 その先は言えない。

 

 スバルはユイの手を額に押し当てた。

 

「ごめん」

 

 涙が落ちる。

 

「ごめん、ユイさん……」

 

 廊下から足音が近づく。

 

 エミリアの声が聞こえた。

 

「スバル? どうしたの?」

 

 続いてレム。

 

 ラム。

 

 誰かが息を呑む音。

 

 部屋の空気が凍る。

 

 エミリアが、震える声で名を呼んだ。

 

「ユイ……?」

 

 レムが無言で近づき、手首に触れる。

 

 首元に触れる。

 

 呼吸を確認する。

 

 その表情が、わずかに硬くなった。

 

「……息がありません」

 

 その一言で、スバルの肩が大きく震えた。

 

「言うな」

 

 かすれた声だった。

 

「言うなよ……」

 

 レムは沈黙する。

 

 ラムは部屋を見回す。

 

 窓。

 

 扉。

 

 床。

 

 争った形跡はない。

 

 外傷も、指先の小さな噛み傷以外には見当たらない。

 

 眠ったまま、命だけが抜け落ちたような死。

 

 エミリアは口元を押さえ、目を見開いている。

 

「どうして……昨日まで、普通に……」

 

 答えられる者はいない。

 

 スバルは答えを知りかけている。

 

 けれど言えない。

 

 ユイは答えを知っている。

 

 けれど死んでいる。

 

 死んだ状態で、音だけを聞いている。

 

 ラムが低く言った。

 

「ベアトリス様を呼ぶべきね」

 

 その名を聞いて、スバルは顔を上げた。

 

 ベアトリス。

 

 記憶の中の禁書庫の少女。

 

 今の世界では、まだまともに会っていない。

 

 けれど、彼女なら。

 

 何かがわかるのかもしれない。

 

 レムがすぐに動いた。

 

 しばらくして、桃色の小さな少女が部屋へ入ってきた。

 

 豪奢な縦巻きの髪。

 

 不機嫌そうな瞳。

 

 幼い外見に似合わない尊大な空気。

 

 ベアトリスは部屋に入るなり、眉をひそめた。

 

「朝から騒がしいと思ったら、ずいぶん面倒なことになっているのよ」

 

 スバルは、その声を聞いて胸が軋んだ。

 

 知っている。

 

 でも知らない。

 

 今の彼女は、自分を知らない。

 

 ベアトリスはベッドの上のユイを見て、表情を少しだけ変えた。

 

 それから近づき、指先をかざす。

 

 部屋の空気がわずかに揺れた。

 

 スバルは息を詰める。

 

 頼む。

 

 何か言ってくれ。

 

 まだ助かるって。

 

 そう思う。

 

 だが、ベアトリスの口から出た言葉は冷たかった。

 

「もう手遅れかしら」

 

 スバルの呼吸が止まる。

 

「手、遅れ……?」

 

「命は抜けているのよ。ベティにできることはないかしら」

 

 エミリアが震える。

 

「ベアトリス、原因は……?」

 

 ベアトリスはユイの手を取り、指先の傷を見る。

 

 小さな歯形。

 

 そこに残る、普通の怪我とは違う魔力の残滓。

 

「呪いね」

 

 その一言が、部屋に落ちた。

 

 スバルの中で、何かが繋がった。

 

 指。

 

 噛み傷。

 

 眠ったまま。

 

 五日目の朝。

 

 自分の記憶。

 

 ユイの死。

 

「呪い……」

 

 エミリアが呟く。

 

 ベアトリスは不機嫌そうに続ける。

 

「魔獣の類に噛まれたのでしょう。傷口を通して呪いを仕込まれているのよ。発動してからでは遅いかしら」

 

 魔獣。

 

 呪い。

 

 噛まれた傷。

 

 スバルは震えながら笑った。

 

 笑うしかなかった。

 

「そうかよ……」

 

 涙が落ちる。

 

「そういうことだったのかよ……」

 

 ようやくわかった。

 

 自分が最初にどうして終わったのか。

 

 ユイが今、なぜ冷たくなっているのか。

 

 でも、遅い。

 

 遅すぎる。

 

 答えは、ユイの冷たい手の中にあった。

 

 スバルはその手を握りしめる。

 

 死んだユイの耳には、その声が届いている。

 

 ああ。

 

 届いたね、スバルくん。

 

 これが答え。

 

 あなたを殺したものの正体。

 

 今回は私が、それを受け取ってあげた。

 

 あなたが五日目の朝まで生き残るために。

 

 あなたが答えを得るために。

 

 そして、あなたが私の冷たい手を握って曇るために。

 

 レムが、静かにスバルを見る。

 

「スバル様」

 

 その声に、スバルの体がびくりと震えた。

 

 レムは淡々と続ける。

 

「あなたは、昨日ユイ様が村へ向かうことを強く止めておられました」

 

 空気が変わる。

 

 エミリアがレムを見る。

 

「レム?」

 

「その理由を、まだ聞いておりません」

 

 スバルは息を呑んだ。

 

 来た。

 

 わかっていた。

 

 そうなる。

 

 あれだけ不自然に止めた。

 

 噛まれたことを見て取り乱した。

 

 部屋の前で一晩中見張っていた。

 

 そして今、呪いだとわかった。

 

 疑われない方がおかしい。

 

「……嫌な予感がしただけだ」

 

 スバルは掠れた声で言った。

 

「それ以上は、ない」

 

「本当に?」

 

 レムの声は静かだった。

 

 静かすぎて、怖い。

 

「あなたは、何かを知っていたのではありませんか」

 

 胸が冷える。

 

 見えない手が、心臓の近くに触れる。

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

「知らない」

 

 嘘だ。

 

 完全な嘘ではない。

 

 呪いだとは知らなかった。

 

 だが、危ないとは思っていた。

 

 指の傷が関係あるかもしれないとは思っていた。

 

 それでも、説明はできない。

 

「知らない。俺は……何も、ちゃんとは知らなかった」

 

 それが、言える限界だった。

 

 ラムが静かに言う。

 

「ちゃんとは?」

 

 スバルは言葉を詰まらせる。

 

 まただ。

 

 また、自分で逃げ道を潰している。

 

 ベアトリスはじっとスバルを見た。

 

「お前、妙な匂いがするのよ」

 

 スバルの背筋が凍る。

 

 その言葉を、前にも別の形で聞いた。

 

 レムの口から。

 

 魔女の臭い。

 

 今度はベアトリスも、それを見ている。

 

「何か抱えているのは明らかなのよ。でも、言えない。そういう顔をしているかしら」

 

「……」

 

「沈黙は肯定に近いのよ」

 

「違う」

 

 スバルは即座に言った。

 

「違うんだ。俺は、ユイさんをこんなふうにしたかったわけじゃない。俺は止めた。止めたかった。でも、言えなくて……」

 

 言えなくて。

 

 その先は言えない。

 

 エミリアが悲しそうにスバルを見る。

 

「スバル……何を知っているの?」

 

「言えない」

 

 言ってから、スバルは顔を歪めた。

 

 最悪の答えだった。

 

 でも、それしかない。

 

 エミリアの表情が揺れる。

 

 レムの目が冷えていく。

 

 ラムの視線が細くなる。

 

 ベアトリスは、不愉快そうに眉を寄せた。

 

「言えない、ね。まったく、面倒な男なのよ」

 

「ごめん」

 

 スバルは俯いた。

 

「本当に、ごめん……」

 

 謝るしかなかった。

 

 謝っても、何も変わらない。

 

 ユイは戻らない。

 

 疑いも晴れない。

 

 自分が何者かも説明できない。

 

 その時、レムが一歩踏み出した。

 

 その一歩だけで、スバルの体が跳ねた。

 

 鎖の音が記憶の中で鳴る。

 

 レムはまだ何もしていない。

 

 武器も持っていない。

 

 ただ一歩進んだだけだ。

 

 それなのに、スバルは反射的に後ずさった。

 

 その反応を、全員が見た。

 

 レムが目を細める。

 

「なぜ、怯えるのですか」

 

「……っ」

 

「レムは、まだ何もしておりません」

 

 その言葉は正しい。

 

 この世界では、まだ何もしていない。

 

 それがスバルを追い詰める。

 

「違う……」

 

 スバルは首を振る。

 

「違うんだ。これは、お前が悪いんじゃなくて……」

 

 言えない。

 

 前に殺されたから。

 

 そんなことは言えない。

 

 レムがさらに一歩近づく。

 

 スバルは、ユイの手を離して後ずさった。

 

「スバル!」

 

 エミリアが呼ぶ。

 

 スバルは聞こえている。

 

 でも、もう部屋の空気に耐えられなかった。

 

 ユイの冷たい体。

 

 ベアトリスの診断。

 

 レムの疑い。

 

 ラムの目。

 

 エミリアの悲しそうな顔。

 

 全部が、胸を押し潰す。

 

「無理だ」

 

 小さく呟いた。

 

「ごめん、無理だ……」

 

 次の瞬間、スバルは部屋を飛び出した。

 

「スバル!」

 

 エミリアの声。

 

 レムの足音。

 

 ラムの短い指示。

 

 全部を振り切って、廊下を走る。

 

 体はふらついている。

 

 寝不足。

 

 疲労。

 

 精神の限界。

 

 それでも走った。

 

 屋敷の中が怖い。

 

 誰も知らない顔で、自分を疑う。

 

 自分は何も言えない。

 

 ユイが死んだ。

 

 自分は止められなかった。

 

 答えはわかったのに、遅すぎた。

 

 もう、ここにはいられない。

 

 玄関を抜け、庭へ飛び出す。

 

 朝の空気が肌を刺す。

 

 後ろから声がする。

 

 誰かが追ってくる。

 

 でも、振り返れない。

 

 振り返れば、レムがいるかもしれない。

 

 ラムがいるかもしれない。

 

 エミリアが泣いているかもしれない。

 

 ユイはもう動かない。

 

 スバルは走った。

 

 森を抜ける。

 

 枝が頬を打つ。

 

 足がもつれる。

 

 何度も転びかける。

 

 それでも走る。

 

 やがて、視界が開けた。

 

 崖だった。

 

 眼下には、深い谷。

 

 風が下から吹き上げてくる。

 

 スバルは崖の縁で足を止めた。

 

 肺が焼ける。

 

 喉が痛い。

 

 涙で視界が歪む。

 

 後ろから声が聞こえる。

 

「スバル!」

 

 エミリアの声。

 

 遠い。

 

 近い。

 

 わからない。

 

 スバルは振り返らなかった。

 

 崖の下を見る。

 

 怖い。

 

 怖いに決まっている。

 

 落ちるのは怖い。

 

 痛いのは嫌だ。

 

 終わるのは、何度経験しても慣れない。

 

 でも、このままではユイは戻らない。

 

 ユイが冷たいままだ。

 

 自分が知った答えも、ここでは遅すぎる。

 

 なら。

 

 戻るしかない。

 

 胸の奥が冷たくなる。

 

 その言葉を口には出せない。

 

 でも、心の中ではわかっている。

 

 自分には、それしかない。

 

 スバルは笑った。

 

 涙でぐしゃぐしゃの顔で。

 

「ごめん、ユイさん」

 

 声は風に消えた。

 

「今度は、ちゃんと止める」

 

 胸の奥の冷たい手は、動かない。

 

 これは誰かに秘密を伝える言葉ではない。

 

 自分自身への誓いだった。

 

 後ろから足音が近づく。

 

 エミリアか。

 

 レムか。

 

 ラムか。

 

 誰かはわからない。

 

 スバルは、ようやく振り返った。

 

 遠くに、銀色の髪が見えた。

 

 その顔が、恐怖に歪む。

 

「スバル、待って!」

 

 待てない。

 

 待ったら、止められる。

 

 止められたら、ユイは戻らない。

 

 スバルは微笑もうとした。

 

 うまく笑えなかった。

 

「エミリアたん」

 

 声が震える。

 

「ごめん」

 

 それだけ言って、スバルは崖から身を投げた。

 

 世界が落ちる。

 

 空が遠ざかる。

 

 風が耳元で叫ぶ。

 

 胃が浮く。

 

 体が冷える。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 それでも、目を閉じなかった。

 

 ユイの冷たい手を思い出す。

 

 ベアトリスの言葉を思い出す。

 

 魔獣の呪い。

 

 指の噛み傷。

 

 五日目の朝。

 

 今度こそ。

 

 今度こそ、間に合わせる。

 

 地面が迫る。

 

 衝撃。

 

 痛みは一瞬だった。

 

 世界が途切れる。

 

 ユイの死んだ体に残っていた、音だけの虚飾も、その瞬間、ふっと揺れた。

 

 遠くで、何かが巻き戻る気配がする。

 

 スバルくん。

 

 聞こえないはずの声で、ユイは笑う。

 

 来て。

 

 助けに来て。

 

 何も知らない顔の私を、必死に止めて。

 

 そしてまた、あなたの曇った顔を見せて。

 

 すべてが闇に落ちた。

 

 そして、世界はまた、あの朝へ戻る。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。