Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十一話 今度こそ、手を離さない

 朝の光が、目に刺さった。

 

 柔らかな寝台。

 

 清潔な布の匂い。

 

 白い天井。

 

 そして、静かな声。

 

「お目覚めですか、客人様」

 

 スバルは、息を吸った。

 

 喉が裂けるほど叫びそうになった。

 

 けれど、叫ばなかった。

 

 叫べなかった。

 

 青い髪のメイドが、そこに立っている。

 

 レム。

 

 鎖を振るった少女。

 

 自分を疑い、追い詰めた少女。

 

 そして同時に、この朝ではまだ何もしていない少女。

 

 スバルは布団を握りしめた。

 

 指が白くなる。

 

 首筋には、もう傷はない。

 

 足にも、鎖の痕はない。

 

 崖から落ちた痛みもない。

 

 ユイの冷たい手の感触だけが、まだ掌に残っていた。

 

 五日目の朝。

 

 冷たくなったユイ。

 

 ベアトリスの声。

 

 呪い。

 

 魔獣。

 

 指の噛み傷。

 

 そして、自分で飛び降りた崖。

 

 全部、覚えている。

 

 全部、覚えているのに、目の前の世界はまた何も知らない顔をしている。

 

「……客人様?」

 

 レムがわずかに首を傾げた。

 

 スバルは、返事をしようとした。

 

 声が出ない。

 

 喉の奥がひりつく。

 

 今ここで取り乱せば、また疑われる。

 

 また怖がられる。

 

 またレムの警戒を呼ぶ。

 

 わかっている。

 

 だから、スバルは必死に唇を動かした。

 

「……ああ」

 

 たったそれだけ。

 

 それだけなのに、声は震えた。

 

「起きた。悪い、ちょっと……寝起きが悪くて」

 

「顔色が優れませんが」

 

「いつものこと……じゃないな。たぶん、昨日の疲れが残ってる」

 

 昨日。

 

 この世界では、王都の盗品蔵から屋敷に来た翌朝。

 

 スバルの中では、何度も壊れた朝。

 

 レムは短く頷いた。

 

「無理はなさらない方がよろしいかと」

 

「そうする」

 

 今度は、素直に答えた。

 

 レムが少しだけ目を細める。

 

 怪しんでいるのか。

 

 それとも、ただ様子を見ているだけなのか。

 

 もう、スバルには判別できなかった。

 

 扉の外から、足音が近づく。

 

 スバルの心臓が大きく跳ねた。

 

 エミリアか。

 

 ラムか。

 

 それとも。

 

 扉が開く。

 

 銀色の髪が覗いた。

 

「スバル、起きたのね」

 

 エミリアだった。

 

 その顔を見た瞬間、スバルの胸が詰まる。

 

 崖の上で見た、恐怖に歪んだエミリアの顔を思い出した。

 

 自分を止めようと伸ばされた手。

 

 届かなかった声。

 

 それも、今の彼女は知らない。

 

「……おはよう、エミリアたん」

 

 どうにか軽く言った。

 

 声は少し震えた。

 

 だが、言えた。

 

 エミリアは不思議そうに瞬きをして、それから少し安心したように微笑む。

 

「ええ。おはよう、スバル」

 

 その普通の返事が痛かった。

 

 痛いのに、救いだった。

 

 そして少し遅れて、もうひとつの足音が聞こえた。

 

 スバルは、息を止めた。

 

 ゆっくりと、扉の方を見る。

 

 白い布で脇腹を押さえた少女が立っていた。

 

 穏やかな微笑み。

 

 少し悪い顔色。

 

 頼れるお姉さんの顔。

 

「おはよう、スバルくん」

 

 ユイだった。

 

 生きている。

 

 呼吸している。

 

 温かい。

 

 立っている。

 

 スバルは、目を見開いたまま動けなかった。

 

 喉が震える。

 

 胸の奥から何かが込み上げる。

 

 ユイが冷たかった。

 

 手首に脈がなかった。

 

 呼吸がなかった。

 

 ベッドの上で、眠ったような顔をしていた。

 

 その記憶が、今の温かい声と重なって、頭の中でぐちゃぐちゃになる。

 

「……ユイ、さん」

 

 声が掠れた。

 

「なあに?」

 

 ユイは何も知らない顔で首を傾げる。

 

 その顔を見て、スバルは笑おうとした。

 

 失敗した。

 

 顔が歪む。

 

 涙が落ちそうになる。

 

 でも、ここで泣けばまたおかしい。

 

 また説明できない。

 

 だから、スバルは布団の中で拳を握った。

 

「いや……その」

 

 言葉を探す。

 

 言える範囲の言葉。

 

 ループを匂わせない言葉。

 

 先を知っていると悟られない言葉。

 

「顔、見たら……ちょっと安心した」

 

 それだけ言った。

 

 エミリアが柔らかく目を細める。

 

 ユイも、少しだけ微笑んだ。

 

「そう。なら、来てよかったわ」

 

 スバルは、深く息を吸った。

 

 今度は、間に合わせる。

 

 口には出さない。

 

 出せない。

 

 けれど、胸の奥でそう決めた。

 

 ユイを村へ行かせない。

 

 あの小さな獣に触れさせない。

 

 噛まれたら、すぐにベアトリスに診せる。

 

 呪いだと知っている。

 

 もう知っている。

 

 ただ、それをどう伝えるかだ。

 

 言い方を間違えれば、すべてが崩れる。

 

 だから、考えろ。

 

 泣いている暇はない。

 

 怖がっている暇もない。

 

 この朝だけは、絶対に無駄にできない。

 

 ロズワールとの対面は、また行われた。

 

 同じ応接間。

 

 同じ道化のような男。

 

 同じ報酬の話。

 

 スバルは拳を握り、同じように客人として滞在したいと願った。

 

 働きたいとは言わない。

 

 この屋敷で仕事を覚える必要はない。

 

 村へ行く理由を作る必要もない。

 

 ロズワールは、いつもの間延びした声で了承した。

 

 エミリアはほっとした。

 

 レムは静かに見ていた。

 

 ラムは淡々としていた。

 

 ユイは隣で微笑んでいた。

 

 スバルは、その全部を見ながら、胃の奥が冷えるのを感じていた。

 

 ここからだ。

 

 ここから四日目まで、何をどう変えるか。

 

 まず、レムを過度に怖がらない。

 

 難しい。

 

 無理に近い。

 

 けれど、前のように露骨に怯えれば、また疑われる。

 

 だから、スバルは必死に普通を装った。

 

 レムが水を持ってくる。

 

「スバル様。お水をお持ちしました」

 

「あ、ありがとな」

 

 声が震えそうになる。

 

 でも、目を逸らさなかった。

 

 レムの顔を見る。

 

 青い髪。

 

 静かな瞳。

 

 今は武器を持っていない。

 

 今は敵ではない。

 

 今は、まだ。

 

 その「まだ」を飲み込みながら、スバルはどうにか笑った。

 

「助かる」

 

 レムはわずかに目を伏せる。

 

「何かございましたら、お申し付けください」

 

「おう」

 

 それだけ。

 

 たったそれだけのやり取りで、背中が汗で濡れた。

 

 レムが去ったあと、スバルは膝から崩れそうになった。

 

 ユイが横から支える。

 

「頑張ったわね」

 

 その一言に、スバルは息を止めた。

 

 なぜ、わかる。

 

 そう思いかけて、すぐに否定する。

 

 今の自分が必死だったのは、誰が見てもわかる。

 

 ユイが何かを知っているわけではない。

 

 そういうことにしなければならない。

 

「……頑張った認定されるくらい、ひどかったか」

 

「少し」

 

「少しか?」

 

「かなり」

 

「正直だな」

 

「隠しても仕方ないでしょう?」

 

 いつものやり取り。

 

 その柔らかさが、スバルの胸を締めつける。

 

 この手を冷たくさせたくない。

 

 二日目。

 

 三日目。

 

 スバルは眠れない夜を過ごしながらも、前より少しだけ行動を変えた。

 

 部屋に閉じこもりすぎない。

 

 レムを避けすぎない。

 

 ラムに軽口を返す。

 

 エミリアには「まだ変な夢を引きずってる」と言う。

 

 ユイには、できるだけそばにいてもらう。

 

 ただし、縋りすぎないようにする。

 

 できているかは怪しい。

 

 ユイを見るたびに、冷たくなった手を思い出す。

 

 玄関を見るたびに、村へ向かう背中を思い出す。

 

 四日目が近づくたびに、心臓が潰れそうになる。

 

 三日目の夜。

 

 スバルはユイに言った。

 

「明日、頼みがある」

 

「なあに?」

 

「村に行く話が出たら、断ってくれ」

 

 ユイは首を傾げた。

 

「村?」

 

「アーラム村。買い出し。たぶん、そういう話が出る」

 

 言ってから、スバルは唇を噛んだ。

 

 まずい。

 

 まだ出ていない予定を知っているように聞こえる。

 

 だが、完全な核心ではない。

 

 屋敷なら買い出しぐらいある。

 

 それくらいの予想は不自然ではないはず。

 

 スバルは、必死に続けた。

 

「屋敷にいれば、そういう用事はあるだろ。俺、まだ外に出るのが怖いし……ユイさんにも、無理してほしくない」

 

 ユイはじっとスバルを見た。

 

 表情は穏やか。

 

 けれど、その奥で何かを測っているようにも見える。

 

「私が行くと、心配?」

 

「心配だ」

 

 即答だった。

 

「めちゃくちゃ心配だ。理由は……うまく言えない。でも、頼む。明日は村に行かないでくれ」

 

「……」

 

「あと」

 

 スバルは、声を落とす。

 

「犬みたいな小さい獣にも、絶対触るな」

 

 ユイは目を瞬かせた。

 

「犬?」

 

「夢に出たんだ」

 

 スバルは、もうその言い訳に縋るしかなかった。

 

「変な夢だった。小さい獣に噛まれる夢。だから、怖い。馬鹿みたいだろ。でも……怖いんだよ」

 

 これは言える。

 

 夢としてなら。

 

 自分の恐怖としてなら。

 

 ユイはしばらく黙っていた。

 

 そして、柔らかく頷いた。

 

「わかったわ」

 

 スバルは顔を上げる。

 

「本当に?」

 

「ええ。明日は村へは行かない。小さな獣にも触らない」

 

「約束、してくれ」

 

「約束するわ」

 

 ユイはそう言って、スバルに小指を差し出した。

 

 スバルは一瞬、呆然とした。

 

 それから、震える手で小指を絡める。

 

「破ったら、怒るからな」

 

「ええ。怒られるのは少し怖いわね」

 

「本気で怒るからな」

 

「わかったわ」

 

 ユイは微笑む。

 

 頼れるお姉さんの顔で。

 

 内側では、静かに笑っていた。

 

 必死だね、スバルくん。

 

 私を守りたいんだ。

 

 今度こそ冷たくしたくないんだ。

 

 その顔、すごくいい。

 

 けれど、約束は守る。

 

 今回は、まだ。

 

 あなたが答えを掴んだ後に、どう動くかを見たいから。

 

 四日目の朝。

 

 朝食の席で、レムが告げた。

 

「本日は、村へ買い出しに向かう予定です」

 

 スバルの体が固まる。

 

 だが、今回は先に叫ばなかった。

 

 歯を食いしばり、膝の上で拳を握る。

 

 ユイを見る。

 

 ユイは、スバルと目が合うと、小さく頷いた。

 

 そして、何も言わなかった。

 

 村へ行くとは言わない。

 

 手伝うとも言わない。

 

 ただ、静かに紅茶を飲んでいる。

 

 スバルは、息を吐いた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 ほんの少しだけ、間に合った気がした。

 

 エミリアがスバルを見る。

 

「スバル?」

 

「……大丈夫」

 

「本当に?」

 

「本当かどうかは怪しいけど、今は大丈夫」

 

「それ、大丈夫じゃない言い方よ」

 

「知ってる」

 

 スバルは苦笑した。

 

 だが、その笑みには前より少しだけ力があった。

 

 レムは、予定通り一人で村へ向かった。

 

 スバルは玄関で見送った。

 

 怖い。

 

 レムが村へ行くことも怖い。

 

 でも、今回はユイは行かない。

 

 それだけで、胸の奥の圧迫が少しだけ軽い。

 

 ユイは隣に立っている。

 

 温かい。

 

 生きている。

 

 そこにいる。

 

 スバルは、彼女の手を見た。

 

 傷はない。

 

 約束は守られている。

 

「……よかった」

 

 思わず呟いた。

 

 ユイが聞き返す。

 

「何が?」

 

「なんでもない」

 

「なんでもない顔じゃないわ」

 

「最近、そればっか言われてる気がする」

 

「それだけ顔に出ているのね」

 

「ポーカーフェイスの才能が欲しい」

 

「あなたには向いていないと思うわ」

 

「知ってる」

 

 スバルは小さく笑った。

 

 笑えた。

 

 それだけで、少し救われた気がした。

 

 だが、まだ終わっていない。

 

 呪いのことを知っているのは、スバルだけ。

 

 このままでは、村で誰かが噛まれるかもしれない。

 

 子どもたちが危ないかもしれない。

 

 レムが噛まれる可能性もある。

 

 ただユイを止めただけでは、本当の解決にはならない。

 

 スバルは考える。

 

 どうすればいい。

 

 ベアトリス。

 

 あの少女なら、呪いを見抜ける。

 

 前の世界で、ユイの死因を見抜いた。

 

 なら、発動前でも見抜けるかもしれない。

 

 いや、原作の流れを知らなくても、スバルはそこに賭けるしかない。

 

 午後。

 

 スバルは、屋敷の扉をいくつも開けた。

 

 客人としてあちこち歩き回るのは怪しい。

 

 だが、今は構っていられない。

 

 目的はひとつ。

 

 禁書庫。

 

 ベアトリス。

 

 扉を開ける。

 

 客室。

 

 違う。

 

 別の扉。

 

 物置。

 

 違う。

 

 また別の扉。

 

 廊下。

 

 違う。

 

 ユイが後ろからついてくる。

 

「何か探しているの?」

 

「……人」

 

「誰を?」

 

「小さい、縦巻きの、偉そうな子」

 

 ユイは首を傾げる。

 

「知り合い?」

 

「夢で見た」

 

「また夢?」

 

「便利なんだよ、夢」

 

 スバルは苦笑する。

 

 その顔は、疲れていた。

 

 けれど、動いている。

 

 前のようにただ震えているだけではない。

 

 何かを変えようとしている。

 

 ユイはそれを見て、少し満足した。

 

 やがて、ある扉を開けた瞬間、空気が変わった。

 

 古い紙の匂い。

 

 高い本棚。

 

 閉ざされた空間。

 

 そして、中央に座る小さな少女。

 

 ベアトリスが、こちらを睨んでいた。

 

「……なんなのよ、お前。勝手に入ってきて、じろじろ見て。迷惑極まりないのよ」

 

 スバルは息を呑んだ。

 

 見つけた。

 

 ようやく。

 

「ベアトリス」

 

 名前を呼んでから、スバルはしまったと思った。

 

 この世界では、まだ名乗られていない。

 

 ベアトリスの目が細くなる。

 

「どうしてベティの名前を知っているのかしら」

 

 スバルの背中に冷や汗が流れる。

 

 やらかした。

 

 だが、ここで止まるわけにはいかない。

 

「ロズワールから聞いた」

 

 咄嗟に言った。

 

 完全な嘘。

 

 でも、ありえない嘘ではない。

 

 この屋敷の主なら、禁書庫の少女の名前を話していても不自然ではない。

 

 ベアトリスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「あの道化なら、余計なことを言っても不思議ではないかしら」

 

 通った。

 

 スバルは内心で息を吐く。

 

 だが、表には出さない。

 

「頼みがある」

 

「嫌かしら」

 

「まだ内容言ってねえ!」

 

「お前の頼みなど面倒に決まっているのよ」

 

「面倒なのは認める。でも頼む。見てほしいものがある」

 

 ベアトリスは目を細める。

 

「見てほしいもの?」

 

 スバルは、自分の手を差し出した。

 

「俺を見てくれ」

 

「は?」

 

「俺に……変なものがついてないか。呪いとか、そういうやつ」

 

 その単語に、ベアトリスの表情が変わった。

 

 ユイも、わずかに目を細める。

 

 スバルは続けた。

 

「変な夢を見たんだ。小さい獣に噛まれて、そっから体がおかしくなる夢。馬鹿みたいだと思う。でも、怖いんだ」

 

 夢。

 

 それで押し通す。

 

 ベアトリスは、しばらくスバルを見ていた。

 

「お前、妙な匂いがするのよ」

 

 スバルの喉が鳴る。

 

 その言葉は、前にも聞いた。

 

 嫌な響き。

 

 だが、今は逃げない。

 

「それも含めて、見てくれ」

 

「ずいぶん図々しいのよ」

 

「頼む」

 

 スバルは頭を下げた。

 

 深く。

 

「俺だけじゃない。屋敷の誰かが危ないかもしれない。村の子どもたちも危ないかもしれない。俺、ちゃんと説明できねえけど……でも、何かあるんだ」

 

 沈黙。

 

 ベアトリスは不機嫌そうに眉を寄せる。

 

「説明できないことを、信じろと?」

 

「信じなくていい。確認だけしてくれ」

 

「……」

 

「頼む」

 

 ベアトリスは、長くため息を吐いた。

 

「本当に面倒な男なのよ」

 

 そう言いながら、ベアトリスはスバルの手に触れた。

 

 魔力が流れる。

 

 空気が少し冷える。

 

 スバルは息を詰めた。

 

 しばらくして、ベアトリスは眉をひそめる。

 

「呪いはないかしら」

 

「ない?」

 

「少なくとも、今のお前にはないのよ」

 

 スバルは、肩の力を抜きかけた。

 

 だが、すぐに言った。

 

「じゃあ、ユイさんも見てくれ」

 

「は?」

 

「頼む。念のため」

 

 ユイは、表では驚いた顔をした。

 

「私?」

 

「頼む」

 

 スバルの目は真剣だった。

 

 ユイは少しだけ困ったように笑い、手を差し出した。

 

 ベアトリスは不機嫌そうにしながらも、その手に触れる。

 

「……こっちもないのよ」

 

 スバルは大きく息を吐いた。

 

 今度こそ。

 

 本当に、少しだけ力が抜ける。

 

 ユイに呪いはない。

 

 噛まれていない。

 

 村へも行っていない。

 

 なら、今は助かっている。

 

「ありがとう」

 

 スバルは言った。

 

「本当に、ありがとう」

 

 ベアトリスは顔を背ける。

 

「礼を言われるほどのことはしていないかしら」

 

「いや、した。俺にとっては、めちゃくちゃ大事だった」

 

「大げさなのよ」

 

 ベアトリスは不機嫌そうに言った。

 

 だが、追い出しはしなかった。

 

 スバルはそこで、もう一歩踏み込む。

 

「もうひとつ頼みがある」

 

「図々しさが天井知らずなのよ」

 

「村に、魔獣の呪いがあるかもしれない。レムが帰ってきたら、見てくれないか」

 

 ベアトリスの目が鋭くなる。

 

「なぜ、そう思うのかしら」

 

「夢」

 

「便利な言葉ね」

 

「俺もそう思う」

 

 スバルは苦笑する。

 

 だが、目は逸らさない。

 

「でも、頼む。俺の勘違いなら、それでいい。笑えばいい。罵ればいい。なんなら蹴ってもいい。でも、もし本当に何かあったら……手遅れになる」

 

 手遅れ。

 

 その言葉に、スバルの声が震えた。

 

 ベアトリスは、それを見逃さなかった。

 

 この男は何かを知っている。

 

 だが、言えない。

 

 嘘と本当の間で苦しんでいる。

 

 ベアトリスは、それを面倒だと思った。

 

 同時に、放置するのもさらに面倒だと思った。

 

「……帰ってきたら、見てやるのよ」

 

「本当か!」

 

「うるさい。大声を出すなかしら」

 

「ありがとう、ベアトリス!」

 

「馴れ馴れしいのよ!」

 

 スバルは、それでも少し笑った。

 

 久しぶりに、心から息ができた気がした。

 

 夕方。

 

 レムが村から帰ってきた。

 

 スバルは玄関で待っていた。

 

 レムを見た瞬間、また体は強張った。

 

 だが、逃げなかった。

 

「レム」

 

「スバル様?」

 

「悪い。ちょっと、確認したいことがある」

 

 レムの目が細くなる。

 

「確認、ですか」

 

「ああ。俺じゃなくて、ベアトリスが」

 

 その名を聞いて、レムの表情がわずかに変わる。

 

 スバルは慌てて続けた。

 

「村で、小さい獣とかに触らなかったか? 子どもたちの近くに、犬みたいなやつ」

 

 レムは少し沈黙した。

 

「……子どもたちの周りにはいました」

 

「噛まれた人は?」

 

「レムは噛まれておりません」

 

 スバルは息を吐きかけた。

 

 だが、そこでレムが続ける。

 

「ただ、村の子どものひとりが、手を噛まれていたようです。大した傷ではないと言っていましたが」

 

 スバルの血の気が引いた。

 

 今度は、子ども。

 

 そうだ。

 

 自分でもユイでもないなら、村の誰かが。

 

 呪いの牙は、まだそこにある。

 

「レム、頼む。ベアトリスのところへ来てくれ」

 

「理由を」

 

「後で説明する。いや、説明できる範囲で説明する。とにかく今は時間がないかもしれない」

 

「時間?」

 

 レムの視線が鋭くなる。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

「嫌な予感がするんだ」

 

 また、それしか言えなかった。

 

 だが今度は、ベアトリスがいた。

 

 禁書庫に連れて行くと、ベアトリスは露骨に不機嫌な顔をした。

 

「本当に連れてきたのね」

 

「頼む」

 

「わかっているのよ」

 

 ベアトリスはレムの状態を見た。

 

 結果、レム自身に呪いはない。

 

 だが、村の子どもが噛まれたという話を聞いて、彼女は表情を硬くした。

 

「その子を連れてくるのよ」

 

 短い指示。

 

 レムの顔が変わる。

 

「魔獣の呪いの可能性があるのですか」

 

「可能性ではなく、その確認をするのよ。早くしないと手遅れになるかしら」

 

 手遅れ。

 

 その言葉に、スバルの胸が痛む。

 

 だが、今度はまだ間に合うかもしれない。

 

 レムは即座に動いた。

 

 ラムにも話が伝わる。

 

 エミリアも状況を知り、顔を青くした。

 

「スバル、あなた……」

 

「説明は後で」

 

 スバルは言った。

 

「今は、その子を助けるのが先だ」

 

 エミリアは、何かを聞きたそうだった。

 

 だが、スバルの顔を見て頷いた。

 

「わかったわ」

 

 その夜、レムは村へ戻った。

 

 ラムも同行した。

 

 スバルも行こうとしたが、止められた。

 

 レムの目はまだ警戒していた。

 

 当然だった。

 

 スバルは、不自然すぎるほど先回りしている。

 

 だが、それでも動いてくれた。

 

 それだけで、スバルは床に崩れ落ちそうだった。

 

 ユイがそばに立つ。

 

「少し、変えられたのね」

 

 その言葉に、スバルは弾かれたようにユイを見る。

 

 ユイはすぐに、表情を柔らかくした。

 

「怖い夢と違う形に、という意味よ」

 

「……ああ」

 

 危ない。

 

 一瞬、心臓が冷えた。

 

 でも、言葉は通る。

 

 夢。

 

 それで、まだ誤魔化せる。

 

「そうだな」

 

 スバルは俯いた。

 

「まだ、終わってないけどな」

 

 村から子どもが運ばれてきたのは、夜も深くなってからだった。

 

 ベアトリスは診断し、呪いを見つけた。

 

 そして、まだ発動前だと判断した。

 

 解呪の準備が始まる。

 

 スバルは、部屋の外で座り込んでいた。

 

 祈るしかできない。

 

 中から聞こえるベアトリスの不機嫌な声。

 

 レムの短い返事。

 

 ラムの指示。

 

 エミリアの心配そうな声。

 

 ユイの静かな呼吸。

 

 それらを聞きながら、スバルは自分の手を見つめる。

 

 震えている。

 

 だが、前のように何もできなかったわけではない。

 

 ユイは噛まれていない。

 

 自分も噛まれていない。

 

 子どもは、まだ助かるかもしれない。

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけ、運命の首根っこを掴んだ気がした。

 

 やがて扉が開いた。

 

 ベアトリスが出てくる。

 

 疲れたように眉を寄せていた。

 

「間に合ったのよ」

 

 その一言で、スバルの全身から力が抜けた。

 

「……そっか」

 

 声が震える。

 

「よかった……」

 

 涙が出そうになった。

 

 今度は、悲しみではない。

 

 救えた。

 

 少なくとも、ひとつは。

 

 エミリアがスバルのそばに来る。

 

「スバル」

 

「うん」

 

「あとで、ちゃんと話して」

 

 優しい声だった。

 

 けれど、逃がさない声でもあった。

 

 スバルは頷いた。

 

「言える範囲でなら」

 

「それでもいいわ」

 

 レムは少し離れた場所で、スバルを見ていた。

 

 その目には、まだ警戒がある。

 

 しかし、前よりも別のものも混じっていた。

 

 疑念。

 

 困惑。

 

 そして、わずかな感謝。

 

 スバルはそれを見て、胸が痛くなった。

 

 まだ何も終わっていない。

 

 村には魔獣がいる。

 

 呪いの元を断たなければ、また誰かが噛まれる。

 

 原作通りなら、この先は森へ行く。

 

 子どもたちを助ける。

 

 魔獣と戦う。

 

 レムとも向き合う。

 

 まだ、夜は続く。

 

 けれど、ユイは生きている。

 

 隣に立っている。

 

 その事実だけで、スバルはもう一度立てる気がした。

 

 ユイは、そんなスバルを横から見ていた。

 

 ああ。

 

 いい顔。

 

 絶望から、少しだけ希望に手を伸ばした顔。

 

 でも、知っているよ、スバルくん。

 

 希望を掴んだ手ほど、次に折れる時は綺麗に震える。

 

 あなたはひとつ救った。

 

 なら次は、もっと多くを背負う。

 

 村の子どもたち。

 

 レム。

 

 エミリア。

 

 私。

 

 守りたいものが増えれば増えるほど、あなたは曇る。

 

 ユイは、表では優しく微笑んだ。

 

「よかったわね、スバルくん」

 

 スバルは、泣きそうな顔で頷いた。

 

「ああ」

 

 その声は、かすれていた。

 

「今度は、間に合った」

 

 胸の奥の冷たい手は動かなかった。

 

 その言葉は、誰にも秘密を明かしていない。

 

 ただ、彼自身の祈りだった。

 

 だが、ユイだけは知っている。

 

 その「今度」が、どれだけ重い言葉なのかを。

 

 そして彼女は、何も知らない顔で、その重さを受け止めるふりをした。

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