朝の光が、目に刺さった。
柔らかな寝台。
清潔な布の匂い。
白い天井。
そして、静かな声。
「お目覚めですか、客人様」
スバルは、息を吸った。
喉が裂けるほど叫びそうになった。
けれど、叫ばなかった。
叫べなかった。
青い髪のメイドが、そこに立っている。
レム。
鎖を振るった少女。
自分を疑い、追い詰めた少女。
そして同時に、この朝ではまだ何もしていない少女。
スバルは布団を握りしめた。
指が白くなる。
首筋には、もう傷はない。
足にも、鎖の痕はない。
崖から落ちた痛みもない。
ユイの冷たい手の感触だけが、まだ掌に残っていた。
五日目の朝。
冷たくなったユイ。
ベアトリスの声。
呪い。
魔獣。
指の噛み傷。
そして、自分で飛び降りた崖。
全部、覚えている。
全部、覚えているのに、目の前の世界はまた何も知らない顔をしている。
「……客人様?」
レムがわずかに首を傾げた。
スバルは、返事をしようとした。
声が出ない。
喉の奥がひりつく。
今ここで取り乱せば、また疑われる。
また怖がられる。
またレムの警戒を呼ぶ。
わかっている。
だから、スバルは必死に唇を動かした。
「……ああ」
たったそれだけ。
それだけなのに、声は震えた。
「起きた。悪い、ちょっと……寝起きが悪くて」
「顔色が優れませんが」
「いつものこと……じゃないな。たぶん、昨日の疲れが残ってる」
昨日。
この世界では、王都の盗品蔵から屋敷に来た翌朝。
スバルの中では、何度も壊れた朝。
レムは短く頷いた。
「無理はなさらない方がよろしいかと」
「そうする」
今度は、素直に答えた。
レムが少しだけ目を細める。
怪しんでいるのか。
それとも、ただ様子を見ているだけなのか。
もう、スバルには判別できなかった。
扉の外から、足音が近づく。
スバルの心臓が大きく跳ねた。
エミリアか。
ラムか。
それとも。
扉が開く。
銀色の髪が覗いた。
「スバル、起きたのね」
エミリアだった。
その顔を見た瞬間、スバルの胸が詰まる。
崖の上で見た、恐怖に歪んだエミリアの顔を思い出した。
自分を止めようと伸ばされた手。
届かなかった声。
それも、今の彼女は知らない。
「……おはよう、エミリアたん」
どうにか軽く言った。
声は少し震えた。
だが、言えた。
エミリアは不思議そうに瞬きをして、それから少し安心したように微笑む。
「ええ。おはよう、スバル」
その普通の返事が痛かった。
痛いのに、救いだった。
そして少し遅れて、もうひとつの足音が聞こえた。
スバルは、息を止めた。
ゆっくりと、扉の方を見る。
白い布で脇腹を押さえた少女が立っていた。
穏やかな微笑み。
少し悪い顔色。
頼れるお姉さんの顔。
「おはよう、スバルくん」
ユイだった。
生きている。
呼吸している。
温かい。
立っている。
スバルは、目を見開いたまま動けなかった。
喉が震える。
胸の奥から何かが込み上げる。
ユイが冷たかった。
手首に脈がなかった。
呼吸がなかった。
ベッドの上で、眠ったような顔をしていた。
その記憶が、今の温かい声と重なって、頭の中でぐちゃぐちゃになる。
「……ユイ、さん」
声が掠れた。
「なあに?」
ユイは何も知らない顔で首を傾げる。
その顔を見て、スバルは笑おうとした。
失敗した。
顔が歪む。
涙が落ちそうになる。
でも、ここで泣けばまたおかしい。
また説明できない。
だから、スバルは布団の中で拳を握った。
「いや……その」
言葉を探す。
言える範囲の言葉。
ループを匂わせない言葉。
先を知っていると悟られない言葉。
「顔、見たら……ちょっと安心した」
それだけ言った。
エミリアが柔らかく目を細める。
ユイも、少しだけ微笑んだ。
「そう。なら、来てよかったわ」
スバルは、深く息を吸った。
今度は、間に合わせる。
口には出さない。
出せない。
けれど、胸の奥でそう決めた。
ユイを村へ行かせない。
あの小さな獣に触れさせない。
噛まれたら、すぐにベアトリスに診せる。
呪いだと知っている。
もう知っている。
ただ、それをどう伝えるかだ。
言い方を間違えれば、すべてが崩れる。
だから、考えろ。
泣いている暇はない。
怖がっている暇もない。
この朝だけは、絶対に無駄にできない。
ロズワールとの対面は、また行われた。
同じ応接間。
同じ道化のような男。
同じ報酬の話。
スバルは拳を握り、同じように客人として滞在したいと願った。
働きたいとは言わない。
この屋敷で仕事を覚える必要はない。
村へ行く理由を作る必要もない。
ロズワールは、いつもの間延びした声で了承した。
エミリアはほっとした。
レムは静かに見ていた。
ラムは淡々としていた。
ユイは隣で微笑んでいた。
スバルは、その全部を見ながら、胃の奥が冷えるのを感じていた。
ここからだ。
ここから四日目まで、何をどう変えるか。
まず、レムを過度に怖がらない。
難しい。
無理に近い。
けれど、前のように露骨に怯えれば、また疑われる。
だから、スバルは必死に普通を装った。
レムが水を持ってくる。
「スバル様。お水をお持ちしました」
「あ、ありがとな」
声が震えそうになる。
でも、目を逸らさなかった。
レムの顔を見る。
青い髪。
静かな瞳。
今は武器を持っていない。
今は敵ではない。
今は、まだ。
その「まだ」を飲み込みながら、スバルはどうにか笑った。
「助かる」
レムはわずかに目を伏せる。
「何かございましたら、お申し付けください」
「おう」
それだけ。
たったそれだけのやり取りで、背中が汗で濡れた。
レムが去ったあと、スバルは膝から崩れそうになった。
ユイが横から支える。
「頑張ったわね」
その一言に、スバルは息を止めた。
なぜ、わかる。
そう思いかけて、すぐに否定する。
今の自分が必死だったのは、誰が見てもわかる。
ユイが何かを知っているわけではない。
そういうことにしなければならない。
「……頑張った認定されるくらい、ひどかったか」
「少し」
「少しか?」
「かなり」
「正直だな」
「隠しても仕方ないでしょう?」
いつものやり取り。
その柔らかさが、スバルの胸を締めつける。
この手を冷たくさせたくない。
二日目。
三日目。
スバルは眠れない夜を過ごしながらも、前より少しだけ行動を変えた。
部屋に閉じこもりすぎない。
レムを避けすぎない。
ラムに軽口を返す。
エミリアには「まだ変な夢を引きずってる」と言う。
ユイには、できるだけそばにいてもらう。
ただし、縋りすぎないようにする。
できているかは怪しい。
ユイを見るたびに、冷たくなった手を思い出す。
玄関を見るたびに、村へ向かう背中を思い出す。
四日目が近づくたびに、心臓が潰れそうになる。
三日目の夜。
スバルはユイに言った。
「明日、頼みがある」
「なあに?」
「村に行く話が出たら、断ってくれ」
ユイは首を傾げた。
「村?」
「アーラム村。買い出し。たぶん、そういう話が出る」
言ってから、スバルは唇を噛んだ。
まずい。
まだ出ていない予定を知っているように聞こえる。
だが、完全な核心ではない。
屋敷なら買い出しぐらいある。
それくらいの予想は不自然ではないはず。
スバルは、必死に続けた。
「屋敷にいれば、そういう用事はあるだろ。俺、まだ外に出るのが怖いし……ユイさんにも、無理してほしくない」
ユイはじっとスバルを見た。
表情は穏やか。
けれど、その奥で何かを測っているようにも見える。
「私が行くと、心配?」
「心配だ」
即答だった。
「めちゃくちゃ心配だ。理由は……うまく言えない。でも、頼む。明日は村に行かないでくれ」
「……」
「あと」
スバルは、声を落とす。
「犬みたいな小さい獣にも、絶対触るな」
ユイは目を瞬かせた。
「犬?」
「夢に出たんだ」
スバルは、もうその言い訳に縋るしかなかった。
「変な夢だった。小さい獣に噛まれる夢。だから、怖い。馬鹿みたいだろ。でも……怖いんだよ」
これは言える。
夢としてなら。
自分の恐怖としてなら。
ユイはしばらく黙っていた。
そして、柔らかく頷いた。
「わかったわ」
スバルは顔を上げる。
「本当に?」
「ええ。明日は村へは行かない。小さな獣にも触らない」
「約束、してくれ」
「約束するわ」
ユイはそう言って、スバルに小指を差し出した。
スバルは一瞬、呆然とした。
それから、震える手で小指を絡める。
「破ったら、怒るからな」
「ええ。怒られるのは少し怖いわね」
「本気で怒るからな」
「わかったわ」
ユイは微笑む。
頼れるお姉さんの顔で。
内側では、静かに笑っていた。
必死だね、スバルくん。
私を守りたいんだ。
今度こそ冷たくしたくないんだ。
その顔、すごくいい。
けれど、約束は守る。
今回は、まだ。
あなたが答えを掴んだ後に、どう動くかを見たいから。
四日目の朝。
朝食の席で、レムが告げた。
「本日は、村へ買い出しに向かう予定です」
スバルの体が固まる。
だが、今回は先に叫ばなかった。
歯を食いしばり、膝の上で拳を握る。
ユイを見る。
ユイは、スバルと目が合うと、小さく頷いた。
そして、何も言わなかった。
村へ行くとは言わない。
手伝うとも言わない。
ただ、静かに紅茶を飲んでいる。
スバルは、息を吐いた。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、間に合った気がした。
エミリアがスバルを見る。
「スバル?」
「……大丈夫」
「本当に?」
「本当かどうかは怪しいけど、今は大丈夫」
「それ、大丈夫じゃない言い方よ」
「知ってる」
スバルは苦笑した。
だが、その笑みには前より少しだけ力があった。
レムは、予定通り一人で村へ向かった。
スバルは玄関で見送った。
怖い。
レムが村へ行くことも怖い。
でも、今回はユイは行かない。
それだけで、胸の奥の圧迫が少しだけ軽い。
ユイは隣に立っている。
温かい。
生きている。
そこにいる。
スバルは、彼女の手を見た。
傷はない。
約束は守られている。
「……よかった」
思わず呟いた。
ユイが聞き返す。
「何が?」
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃないわ」
「最近、そればっか言われてる気がする」
「それだけ顔に出ているのね」
「ポーカーフェイスの才能が欲しい」
「あなたには向いていないと思うわ」
「知ってる」
スバルは小さく笑った。
笑えた。
それだけで、少し救われた気がした。
だが、まだ終わっていない。
呪いのことを知っているのは、スバルだけ。
このままでは、村で誰かが噛まれるかもしれない。
子どもたちが危ないかもしれない。
レムが噛まれる可能性もある。
ただユイを止めただけでは、本当の解決にはならない。
スバルは考える。
どうすればいい。
ベアトリス。
あの少女なら、呪いを見抜ける。
前の世界で、ユイの死因を見抜いた。
なら、発動前でも見抜けるかもしれない。
いや、原作の流れを知らなくても、スバルはそこに賭けるしかない。
午後。
スバルは、屋敷の扉をいくつも開けた。
客人としてあちこち歩き回るのは怪しい。
だが、今は構っていられない。
目的はひとつ。
禁書庫。
ベアトリス。
扉を開ける。
客室。
違う。
別の扉。
物置。
違う。
また別の扉。
廊下。
違う。
ユイが後ろからついてくる。
「何か探しているの?」
「……人」
「誰を?」
「小さい、縦巻きの、偉そうな子」
ユイは首を傾げる。
「知り合い?」
「夢で見た」
「また夢?」
「便利なんだよ、夢」
スバルは苦笑する。
その顔は、疲れていた。
けれど、動いている。
前のようにただ震えているだけではない。
何かを変えようとしている。
ユイはそれを見て、少し満足した。
やがて、ある扉を開けた瞬間、空気が変わった。
古い紙の匂い。
高い本棚。
閉ざされた空間。
そして、中央に座る小さな少女。
ベアトリスが、こちらを睨んでいた。
「……なんなのよ、お前。勝手に入ってきて、じろじろ見て。迷惑極まりないのよ」
スバルは息を呑んだ。
見つけた。
ようやく。
「ベアトリス」
名前を呼んでから、スバルはしまったと思った。
この世界では、まだ名乗られていない。
ベアトリスの目が細くなる。
「どうしてベティの名前を知っているのかしら」
スバルの背中に冷や汗が流れる。
やらかした。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
「ロズワールから聞いた」
咄嗟に言った。
完全な嘘。
でも、ありえない嘘ではない。
この屋敷の主なら、禁書庫の少女の名前を話していても不自然ではない。
ベアトリスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あの道化なら、余計なことを言っても不思議ではないかしら」
通った。
スバルは内心で息を吐く。
だが、表には出さない。
「頼みがある」
「嫌かしら」
「まだ内容言ってねえ!」
「お前の頼みなど面倒に決まっているのよ」
「面倒なのは認める。でも頼む。見てほしいものがある」
ベアトリスは目を細める。
「見てほしいもの?」
スバルは、自分の手を差し出した。
「俺を見てくれ」
「は?」
「俺に……変なものがついてないか。呪いとか、そういうやつ」
その単語に、ベアトリスの表情が変わった。
ユイも、わずかに目を細める。
スバルは続けた。
「変な夢を見たんだ。小さい獣に噛まれて、そっから体がおかしくなる夢。馬鹿みたいだと思う。でも、怖いんだ」
夢。
それで押し通す。
ベアトリスは、しばらくスバルを見ていた。
「お前、妙な匂いがするのよ」
スバルの喉が鳴る。
その言葉は、前にも聞いた。
嫌な響き。
だが、今は逃げない。
「それも含めて、見てくれ」
「ずいぶん図々しいのよ」
「頼む」
スバルは頭を下げた。
深く。
「俺だけじゃない。屋敷の誰かが危ないかもしれない。村の子どもたちも危ないかもしれない。俺、ちゃんと説明できねえけど……でも、何かあるんだ」
沈黙。
ベアトリスは不機嫌そうに眉を寄せる。
「説明できないことを、信じろと?」
「信じなくていい。確認だけしてくれ」
「……」
「頼む」
ベアトリスは、長くため息を吐いた。
「本当に面倒な男なのよ」
そう言いながら、ベアトリスはスバルの手に触れた。
魔力が流れる。
空気が少し冷える。
スバルは息を詰めた。
しばらくして、ベアトリスは眉をひそめる。
「呪いはないかしら」
「ない?」
「少なくとも、今のお前にはないのよ」
スバルは、肩の力を抜きかけた。
だが、すぐに言った。
「じゃあ、ユイさんも見てくれ」
「は?」
「頼む。念のため」
ユイは、表では驚いた顔をした。
「私?」
「頼む」
スバルの目は真剣だった。
ユイは少しだけ困ったように笑い、手を差し出した。
ベアトリスは不機嫌そうにしながらも、その手に触れる。
「……こっちもないのよ」
スバルは大きく息を吐いた。
今度こそ。
本当に、少しだけ力が抜ける。
ユイに呪いはない。
噛まれていない。
村へも行っていない。
なら、今は助かっている。
「ありがとう」
スバルは言った。
「本当に、ありがとう」
ベアトリスは顔を背ける。
「礼を言われるほどのことはしていないかしら」
「いや、した。俺にとっては、めちゃくちゃ大事だった」
「大げさなのよ」
ベアトリスは不機嫌そうに言った。
だが、追い出しはしなかった。
スバルはそこで、もう一歩踏み込む。
「もうひとつ頼みがある」
「図々しさが天井知らずなのよ」
「村に、魔獣の呪いがあるかもしれない。レムが帰ってきたら、見てくれないか」
ベアトリスの目が鋭くなる。
「なぜ、そう思うのかしら」
「夢」
「便利な言葉ね」
「俺もそう思う」
スバルは苦笑する。
だが、目は逸らさない。
「でも、頼む。俺の勘違いなら、それでいい。笑えばいい。罵ればいい。なんなら蹴ってもいい。でも、もし本当に何かあったら……手遅れになる」
手遅れ。
その言葉に、スバルの声が震えた。
ベアトリスは、それを見逃さなかった。
この男は何かを知っている。
だが、言えない。
嘘と本当の間で苦しんでいる。
ベアトリスは、それを面倒だと思った。
同時に、放置するのもさらに面倒だと思った。
「……帰ってきたら、見てやるのよ」
「本当か!」
「うるさい。大声を出すなかしら」
「ありがとう、ベアトリス!」
「馴れ馴れしいのよ!」
スバルは、それでも少し笑った。
久しぶりに、心から息ができた気がした。
夕方。
レムが村から帰ってきた。
スバルは玄関で待っていた。
レムを見た瞬間、また体は強張った。
だが、逃げなかった。
「レム」
「スバル様?」
「悪い。ちょっと、確認したいことがある」
レムの目が細くなる。
「確認、ですか」
「ああ。俺じゃなくて、ベアトリスが」
その名を聞いて、レムの表情がわずかに変わる。
スバルは慌てて続けた。
「村で、小さい獣とかに触らなかったか? 子どもたちの近くに、犬みたいなやつ」
レムは少し沈黙した。
「……子どもたちの周りにはいました」
「噛まれた人は?」
「レムは噛まれておりません」
スバルは息を吐きかけた。
だが、そこでレムが続ける。
「ただ、村の子どものひとりが、手を噛まれていたようです。大した傷ではないと言っていましたが」
スバルの血の気が引いた。
今度は、子ども。
そうだ。
自分でもユイでもないなら、村の誰かが。
呪いの牙は、まだそこにある。
「レム、頼む。ベアトリスのところへ来てくれ」
「理由を」
「後で説明する。いや、説明できる範囲で説明する。とにかく今は時間がないかもしれない」
「時間?」
レムの視線が鋭くなる。
スバルは歯を食いしばった。
「嫌な予感がするんだ」
また、それしか言えなかった。
だが今度は、ベアトリスがいた。
禁書庫に連れて行くと、ベアトリスは露骨に不機嫌な顔をした。
「本当に連れてきたのね」
「頼む」
「わかっているのよ」
ベアトリスはレムの状態を見た。
結果、レム自身に呪いはない。
だが、村の子どもが噛まれたという話を聞いて、彼女は表情を硬くした。
「その子を連れてくるのよ」
短い指示。
レムの顔が変わる。
「魔獣の呪いの可能性があるのですか」
「可能性ではなく、その確認をするのよ。早くしないと手遅れになるかしら」
手遅れ。
その言葉に、スバルの胸が痛む。
だが、今度はまだ間に合うかもしれない。
レムは即座に動いた。
ラムにも話が伝わる。
エミリアも状況を知り、顔を青くした。
「スバル、あなた……」
「説明は後で」
スバルは言った。
「今は、その子を助けるのが先だ」
エミリアは、何かを聞きたそうだった。
だが、スバルの顔を見て頷いた。
「わかったわ」
その夜、レムは村へ戻った。
ラムも同行した。
スバルも行こうとしたが、止められた。
レムの目はまだ警戒していた。
当然だった。
スバルは、不自然すぎるほど先回りしている。
だが、それでも動いてくれた。
それだけで、スバルは床に崩れ落ちそうだった。
ユイがそばに立つ。
「少し、変えられたのね」
その言葉に、スバルは弾かれたようにユイを見る。
ユイはすぐに、表情を柔らかくした。
「怖い夢と違う形に、という意味よ」
「……ああ」
危ない。
一瞬、心臓が冷えた。
でも、言葉は通る。
夢。
それで、まだ誤魔化せる。
「そうだな」
スバルは俯いた。
「まだ、終わってないけどな」
村から子どもが運ばれてきたのは、夜も深くなってからだった。
ベアトリスは診断し、呪いを見つけた。
そして、まだ発動前だと判断した。
解呪の準備が始まる。
スバルは、部屋の外で座り込んでいた。
祈るしかできない。
中から聞こえるベアトリスの不機嫌な声。
レムの短い返事。
ラムの指示。
エミリアの心配そうな声。
ユイの静かな呼吸。
それらを聞きながら、スバルは自分の手を見つめる。
震えている。
だが、前のように何もできなかったわけではない。
ユイは噛まれていない。
自分も噛まれていない。
子どもは、まだ助かるかもしれない。
少しだけ。
本当に少しだけ、運命の首根っこを掴んだ気がした。
やがて扉が開いた。
ベアトリスが出てくる。
疲れたように眉を寄せていた。
「間に合ったのよ」
その一言で、スバルの全身から力が抜けた。
「……そっか」
声が震える。
「よかった……」
涙が出そうになった。
今度は、悲しみではない。
救えた。
少なくとも、ひとつは。
エミリアがスバルのそばに来る。
「スバル」
「うん」
「あとで、ちゃんと話して」
優しい声だった。
けれど、逃がさない声でもあった。
スバルは頷いた。
「言える範囲でなら」
「それでもいいわ」
レムは少し離れた場所で、スバルを見ていた。
その目には、まだ警戒がある。
しかし、前よりも別のものも混じっていた。
疑念。
困惑。
そして、わずかな感謝。
スバルはそれを見て、胸が痛くなった。
まだ何も終わっていない。
村には魔獣がいる。
呪いの元を断たなければ、また誰かが噛まれる。
原作通りなら、この先は森へ行く。
子どもたちを助ける。
魔獣と戦う。
レムとも向き合う。
まだ、夜は続く。
けれど、ユイは生きている。
隣に立っている。
その事実だけで、スバルはもう一度立てる気がした。
ユイは、そんなスバルを横から見ていた。
ああ。
いい顔。
絶望から、少しだけ希望に手を伸ばした顔。
でも、知っているよ、スバルくん。
希望を掴んだ手ほど、次に折れる時は綺麗に震える。
あなたはひとつ救った。
なら次は、もっと多くを背負う。
村の子どもたち。
レム。
エミリア。
私。
守りたいものが増えれば増えるほど、あなたは曇る。
ユイは、表では優しく微笑んだ。
「よかったわね、スバルくん」
スバルは、泣きそうな顔で頷いた。
「ああ」
その声は、かすれていた。
「今度は、間に合った」
胸の奥の冷たい手は動かなかった。
その言葉は、誰にも秘密を明かしていない。
ただ、彼自身の祈りだった。
だが、ユイだけは知っている。
その「今度」が、どれだけ重い言葉なのかを。
そして彼女は、何も知らない顔で、その重さを受け止めるふりをした。