Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十二話 森に響く名前

 その重さを受け止めるふりをした。

 

 ユイは何も知らない顔で、スバルの隣に立っていた。

 

 スバルはまだ、床に座り込んだままだった。

 

 ベアトリスが呪いを剥がした子どもは、浅い眠りの中で小さく息をしている。

 

 その息がある。

 

 ただ、それだけでスバルは泣きそうになった。

 

 けれど、終わりではない。

 

 終わってくれない。

 

 ベアトリスは子どもの様子を見下ろし、短く息を吐いた。

 

「ひとまず、この子はもう大丈夫かしら」

 

「本当か?」

 

「疑うなら自分で診ればいいのよ」

 

「無理だっての。俺にそんな便利機能はねえよ」

 

「なら黙って信じることね」

 

 不機嫌そうな声。

 

 けれど、その言葉に嘘はない。

 

 スバルは、ようやく深く息を吐いた。

 

「……ありがとな、ベアトリス」

 

「礼を言われる筋合いはないのよ。ベティは面倒事を片付けただけかしら」

 

「それでも、助かった」

 

 ベアトリスは顔を背けた。

 

 少しだけ居心地が悪そうに見えた。

 

 だが、すぐに眉を寄せる。

 

「ただし、安心するには早いのよ」

 

 その言葉で、スバルの胸がまた冷えた。

 

「まだ、あるのか?」

 

「この子が噛まれたなら、他にも噛まれている可能性があるかしら。それに、呪いをかけた魔獣がそのままなら、原因は残ったままなのよ」

 

 原因。

 

 魔獣。

 

 村にいた小さな獣。

 

 森に潜む、大型のウルガルム。

 

 スバルは拳を握る。

 

 答えは見えた。

 

 自分を殺したものの正体は、あの牙だった。

 

 ユイを冷たくしたものの正体も、あの牙だった。

 

 なら、止めなければならない。

 

 いまここで。

 

 次ではなく。

 

 今、この世界で。

 

 レムが静かに言った。

 

「村へ戻ります。他の子どもたちを確認します」

 

 ラムも頷く。

 

「そうね。呪いを受けている子がまだいるなら、発動前に見つける必要があるわ」

 

 エミリアが不安そうに子どもを見る。

 

「私も――」

 

「エミリアたんは屋敷に残ってくれ」

 

 スバルは、思わず口を挟んでいた。

 

 エミリアが目を瞬かせる。

 

「スバル?」

 

「ここにも、運ばれてくる子がいるかもしれない。ベアトリスもここにいる。エミリアたんがいた方が、きっと安心するやつもいる」

 

 自分で言いながら、少し苦しい。

 

 本当は、エミリアを危ない場所へ行かせたくないだけだった。

 

 森へ入れば、何が起きるかわからない。

 

 魔獣がいる。

 

 呪いがある。

 

 レムがいる。

 

 ラムがいる。

 

 そして自分は、まだ何度も失敗している。

 

 そんな場所へ、エミリアまで連れていきたくなかった。

 

 エミリアはスバルを見て、しばらく黙った。

 

 それから、悔しそうに頷く。

 

「……わかったわ。でも、絶対に無茶はしないで」

 

「善処する」

 

「それは無茶する人の言い方よ」

 

「じゃあ、できるだけ善処する」

 

「悪化したわ」

 

 そんな会話をして、ほんの少しだけ場が緩む。

 

 だが、スバルの顔色は悪いままだった。

 

 ユイが一歩前に出る。

 

「私も行くわ」

 

 その瞬間、スバルの心臓が跳ねた。

 

「駄目だ」

 

 即答だった。

 

 強すぎる声だった。

 

 レムとラムがスバルを見る。

 

 エミリアも驚いた顔をする。

 

 ユイだけが、穏やかに首を傾げた。

 

「どうして?」

 

「……ユイさんは、屋敷に残ってくれ」

 

「でも、人数は多い方がいいでしょう?」

 

「違う」

 

 スバルは首を振った。

 

 違う。

 

 そういう問題ではない。

 

 ユイが村へ行く。

 

 ユイが森へ行く。

 

 ユイが魔獣に近づく。

 

 それだけで、冷たくなった手を思い出す。

 

 呼吸のない顔を思い出す。

 

 ベッドの上に横たわるユイを思い出す。

 

 また同じことになるのではないかと、喉が詰まる。

 

 だが、それは言えない。

 

 言ってはいけない。

 

 スバルは震える息を吐いた。

 

「俺が、気にしちまう」

 

「スバルくん?」

 

「ユイさんが近くにいると、俺はたぶん、ユイさんばっか気にする。子どもを探すのに集中できなくなる。だから……頼む。ここにいてくれ」

 

 それは本当だった。

 

 全部ではないが、本当だった。

 

 ユイはスバルをじっと見る。

 

 頼れるお姉さんとして、心配されている。

 

 守られようとしている。

 

 何も知らない顔の自分を、必死に遠ざけようとしている。

 

 その必死さが、ユイの内側を甘く満たした。

 

「……わかったわ」

 

 ユイは柔らかく微笑んだ。

 

「ここで待っている」

 

「約束してくれ」

 

「約束するわ」

 

 スバルは、ようやく小さく頷いた。

 

「ありがとう」

 

 その声は、ひどく真剣だった。

 

 ユイはその声を覚えておく。

 

 次に壊すために。

 

 夜のアーラム村は、昼間の明るさを失っていた。

 

 家々の灯りは少なく、村人たちは不安そうに集まっている。

 

 レムとラムが村人から話を聞いている間、スバルは子どもたちの顔を一人ひとり確認した。

 

 いる。

 

 あの子もいる。

 

 この子もいる。

 

 けれど、足りない。

 

「戻ってない子がいるんだな?」

 

 スバルが尋ねると、村人が青ざめた顔で頷いた。

 

「はい。夕方に森の方へ行ったきりで……何人か、まだ」

 

 スバルは奥歯を噛む。

 

 やっぱり。

 

 これで終わりではない。

 

 呪いを受けた子を一人助けただけでは、まだ足りない。

 

 魔獣は、子どもたちを森へ誘っている。

 

 レムの声が低くなる。

 

「急ぎましょう」

 

 ラムも森を見た。

 

「夜の森は危険よ。魔獣の群れがいるなら、さらにね」

 

「俺も行く」

 

 スバルは言った。

 

 レムが振り返る。

 

「スバル様は村でお待ちください」

 

「嫌だ」

 

「危険です」

 

「知ってる」

 

「足手まといになります」

 

「それも知ってる」

 

 スバルは森を見た。

 

 暗い。

 

 怖い。

 

 でも、あの中に子どもがいる。

 

 そして、自分は知っている。

 

 あの魔獣が、ただ噛むだけでは終わらないことを。

 

 噛まれた傷が、時間差で命を奪うことを。

 

 だから、何もせずに待てない。

 

「子どもの声を探すくらいならできる。名前を呼ぶ。返事があれば、場所がわかるかもしれない」

 

「声を出せば、魔獣にも気づかれます」

 

「それでも、何もしないよりいい」

 

 レムは黙った。

 

 その沈黙に、疑いと迷いが混じる。

 

 ラムがため息をついた。

 

「連れて行きましょう。止める時間が惜しいわ」

 

「姉様」

 

「ただしバルス。勝手に走らないこと。勝手に転ばないこと。勝手に噛まれないこと」

 

「三つ目が一番重要だな」

 

「全部重要よ」

 

「ごもっとも」

 

 スバルは乾いた笑いを漏らした。

 

 怖い。

 

 だが、少しだけ息ができる。

 

 森へ入る。

 

 湿った空気が肌にまとわりついた。

 

 木々が月を隠し、足元は暗い。

 

 レムが前を進み、ラムが周囲の気配を探る。

 

 スバルは二人の少し後ろで、必死に耳を澄ませた。

 

「ペトラ!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 村人から聞いた名前。

 

 行方不明の子どものひとり。

 

「いるなら返事しろ! 聞こえたら声出せ!」

 

 返事はない。

 

 代わりに、森の奥で葉が擦れる音がする。

 

 レムが低く言う。

 

「足元に注意を。魔獣は気配を隠します」

 

「わかった」

 

 声が震えないように答える。

 

 スバルは何度も名前を呼んだ。

 

 喉が痛くなる。

 

 肺が苦しい。

 

 それでも叫ぶ。

 

 しばらくして、かすかな声が返ってきた。

 

「……たすけて」

 

 スバルが顔を上げる。

 

「今の!」

 

 レムも頷く。

 

 三人は声の方へ向かった。

 

 木の根元に、小さな子どもがうずくまっていた。

 

 足を擦りむき、震えている。

 

 スバルは駆け寄ろうとしたが、レムに止められた。

 

「待ってください」

 

 次の瞬間、周囲の茂みが揺れた。

 

 赤い目が、闇の中に浮かぶ。

 

 大型の犬。

 

 いや、狼に近い。

 

 村にいた小さな獣とはまるで違う。

 

 黒い毛並み。

 

 低く構えた体。

 

 剥き出しの牙。

 

 群れで獲物を囲むように、何匹ものウルガルムが姿を現す。

 

 スバルの喉が鳴った。

 

「あれが……」

 

 レムの鎖が鳴る。

 

 その音に、スバルの体が反射的に強張った。

 

 怖い。

 

 あの夜を思い出す。

 

 レムに追われた夜。

 

 鉄球が地面を抉った音。

 

 だが、今の鎖は自分に向いていない。

 

 魔獣に向いている。

 

 レムが一歩前へ出た。

 

「道を開きます。子どもを連れて下がってください」

 

「わかった!」

 

 レムの鉄球が唸る。

 

 ウルガルムが吹き飛ぶ。

 

 ラムの風が、横から迫る魔獣を裂いていく。

 

 スバルはその隙に子どもへ走った。

 

「立てるか!?」

 

 子どもは泣きながら首を振る。

 

 スバルは迷わず背負った。

 

 体が重い。

 

 自分の足も震えている。

 

 それでも、動ける。

 

「しっかり掴まってろ!」

 

 背後で唸り声が上がる。

 

 ウルガルムが横から飛びかかってくる。

 

 スバルは避けようとしたが、間に合わない。

 

 風が走った。

 

 魔獣が弾き飛ばされる。

 

 ラムの声が飛ぶ。

 

「止まらないで、バルス」

 

「助かった!」

 

「礼は戻ってからでいいわ。今は走りなさい」

 

「了解!」

 

 スバルは子どもを背負い直し、森の出口へ向かった。

 

 息が切れる。

 

 足がもつれる。

 

 それでも、背中の子どもの体温がある。

 

 生きている重さ。

 

 それが、スバルの足を動かした。

 

 村の近くまで戻ると、村人たちが駆け寄ってきた。

 

 子どもを預けた瞬間、スバルは膝をつく。

 

 肺が焼ける。

 

 吐き気がする。

 

 だが、休めない。

 

「他は!?」

 

 村人の顔が青ざめる。

 

「まだ、二人……」

 

「くそっ」

 

 スバルは立ち上がろうとする。

 

 足が震え、うまく力が入らない。

 

 そこへレムが戻ってきた。

 

 服に土がつき、額に汗が浮かんでいる。

 

 だが、大きな怪我はない。

 

「森の奥に、まだ気配があります」

 

「行く」

 

「スバル様はここに残ってください」

 

「行く」

 

 スバルは繰り返した。

 

「足手まといなのはわかってる。でも、声なら拾えるかもしれない。名前を呼べる。子どもが泣いてたら聞こえるかもしれない。だから行く」

 

 レムはスバルを見る。

 

 青い瞳に、疑い以外の色が浮かんでいた。

 

「なぜ、そこまで」

 

 スバルは笑った。

 

 疲れきって、情けない笑いだった。

 

「子どもが助からなかったら、寝覚めが悪すぎる」

 

「眠れていないでしょう」

 

「だから、これ以上悪くしたくねえんだよ」

 

 無茶苦茶な返しだった。

 

 だが、レムは一瞬だけ言葉を失った。

 

 ラムが短く言う。

 

「バルスを説得する時間が惜しいわ」

 

「姉様」

 

「連れていく。遅れたら置いていく。それでいいでしょう」

 

「置いていく前提はやめろ!」

 

「置いていかれたくないなら、遅れないことね」

 

「正論!」

 

 スバルは震える足に力を込めた。

 

 再び森へ入る。

 

 奥へ進むほど、ウルガルムの気配は濃くなった。

 

 唸り声。

 

 木々の間を走る影。

 

 赤い目。

 

 今度は、村の小さな獣のような姿はどこにもない。

 

 森の魔獣は、大きく、速く、明確に獲物を狙っている。

 

「ペトラ! 返事しろ!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 喉が痛い。

 

 それでも叫ぶ。

 

 やがて、かすかな泣き声が聞こえた。

 

「……こっち」

 

 スバルは息を呑む。

 

「あっちだ!」

 

 レムが即座に走る。

 

 ラムの風が茂みを払う。

 

 その先、小さな洞の中に、二人の子どもが身を寄せていた。

 

 周囲には、ウルガルムの群れ。

 

 一匹一匹が大きい。

 

 低い姿勢で牙を剥き、子どもたちへじりじり近づいている。

 

 スバルの顔から血の気が引いた。

 

 レムが鎖を構える。

 

 ラムが魔法を放つ準備をする。

 

 だが、ウルガルムの一匹が、子どもへ飛びかかった。

 

 間に合わない。

 

 そう思った瞬間、スバルは走っていた。

 

 考えるより先に、体が動いていた。

 

「やめろおおおおッ!」

 

 子どもとウルガルムの間に飛び込む。

 

 牙が、スバルの腕に食い込んだ。

 

「っ、あああああ!」

 

 熱い痛み。

 

 血が噴き出す。

 

 同時に、冷たい何かが体の奥へ入り込む感覚。

 

 呪い。

 

 スバルは本能で悟った。

 

 噛まれた。

 

 また。

 

 レムの鉄球がウルガルムを吹き飛ばす。

 

 ラムの風が周囲を裂く。

 

 スバルは子どもたちを庇うように膝をついた。

 

「立てるか!?」

 

 子どもたちは泣きながら頷く。

 

「なら、レムたちの後ろに隠れろ! 絶対に離れるな!」

 

「スバル様、腕を!」

 

 レムの声が鋭くなる。

 

 スバルは腕を押さえ、歯を食いしばった。

 

「後でいい! まだ動ける!」

 

「よくありません!」

 

 その声には、焦りがあった。

 

 疑いではない。

 

 殺意でもない。

 

 スバルを死なせたくない声だった。

 

 それが胸に刺さる。

 

 痛みとは別の場所が痛んだ。

 

「呪いが入った可能性があります。すぐに戻る必要があります」

 

「ベアトリスなら……」

 

「はい。発動前なら、ベアトリス様が対処できるはずです」

 

 発動前なら。

 

 その言葉に、スバルは頷いた。

 

 間に合う。

 

 今なら、まだ。

 

 だが、森の奥から、低い唸りが響いた。

 

 周囲のウルガルムたちが、一斉に身を低くする。

 

 その奥に、ひときわ大きな影が現れた。

 

 他の個体よりもさらに大きい。

 

 闇の中で赤い目が光り、濃い獣臭が風に乗って流れてくる。

 

 群れの中心。

 

 呪いの根源。

 

 スバルは、その姿を見て背筋が凍った。

 

「親玉……」

 

 レムが前へ出る。

 

「ラム姉様。子どもたちとスバル様をお願いします」

 

「レム」

 

 ラムの声が少し低くなる。

 

「深追いはだめよ」

 

「はい、姉様」

 

 返事はした。

 

 だが、レムの声には熱がある。

 

 額に力が集まるような気配。

 

 空気が重くなる。

 

 スバルは、危うさを感じた。

 

「レム!」

 

 呼びかける。

 

 レムは振り返らない。

 

 鉄球を握る手に力がこもる。

 

 その背中は、小さな体に似合わないほど強く、そして危うかった。

 

 スバルは腕の痛みを堪えながら、立ち上がろうとする。

 

「待て……一人で行くな」

 

「下がっていてください」

 

「嫌だ」

 

「スバル様は呪いを受けています」

 

「だからだよ」

 

 スバルは荒い息を吐いた。

 

「俺は戻らなきゃやばい。でも、お前も戻らなきゃ駄目だ。ここで突っ込んだら、たぶん駄目なんだよ」

 

 根拠はない。

 

 いや、ある。

 

 レムを失うかもしれないという嫌な予感。

 

 それだけだった。

 

 でも、その予感を無視できない。

 

 レムがようやく少しだけ振り返る。

 

「なぜ、そう思うのですか」

 

「嫌な予感」

 

「また、それですか」

 

「ああ。またそれだ」

 

 スバルは痛みに顔を歪めながら笑った。

 

「でも、今までそれで少しは間に合っただろ」

 

 レムは言葉に詰まった。

 

 ベアトリスに子どもを診せたこと。

 

 村で確認したこと。

 

 結果として、子どもは一人助かった。

 

 スバルの言葉は不審だ。

 

 だが、完全に無視できない。

 

 その間にも、ウルガルムの群れは唸りを上げる。

 

 ラムが鋭く言った。

 

「話している暇はないわ」

 

 風が走る。

 

 レムが鎖を構え直す。

 

 スバルは子どもたちを背に庇いながら、噛まれた腕を押さえた。

 

 血が指の間から滲む。

 

 冷たいものが、体の奥で少しずつ広がっていく気がする。

 

 早く戻らなければならない。

 

 でも、ここでレムを置いていけない。

 

 子どもたちも置いていけない。

 

 ウルガルムの群れが、一斉に動いた。

 

 夜の森が、牙と風と鉄の音で満たされる。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

 ユイは生きている。

 

 子どもたちも生きている。

 

 自分も、まだ生きている。

 

 なら、まだ終わっていない。

 

 終わらせてたまるか。

 

 たとえ腕に呪いを受けていても。

 

 たとえ怖くても。

 

 今度こそ、誰も冷たくさせない。

 

 スバルは、震える足で森の土を踏みしめた。

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