その重さを受け止めるふりをした。
ユイは何も知らない顔で、スバルの隣に立っていた。
スバルはまだ、床に座り込んだままだった。
ベアトリスが呪いを剥がした子どもは、浅い眠りの中で小さく息をしている。
その息がある。
ただ、それだけでスバルは泣きそうになった。
けれど、終わりではない。
終わってくれない。
ベアトリスは子どもの様子を見下ろし、短く息を吐いた。
「ひとまず、この子はもう大丈夫かしら」
「本当か?」
「疑うなら自分で診ればいいのよ」
「無理だっての。俺にそんな便利機能はねえよ」
「なら黙って信じることね」
不機嫌そうな声。
けれど、その言葉に嘘はない。
スバルは、ようやく深く息を吐いた。
「……ありがとな、ベアトリス」
「礼を言われる筋合いはないのよ。ベティは面倒事を片付けただけかしら」
「それでも、助かった」
ベアトリスは顔を背けた。
少しだけ居心地が悪そうに見えた。
だが、すぐに眉を寄せる。
「ただし、安心するには早いのよ」
その言葉で、スバルの胸がまた冷えた。
「まだ、あるのか?」
「この子が噛まれたなら、他にも噛まれている可能性があるかしら。それに、呪いをかけた魔獣がそのままなら、原因は残ったままなのよ」
原因。
魔獣。
村にいた小さな獣。
森に潜む、大型のウルガルム。
スバルは拳を握る。
答えは見えた。
自分を殺したものの正体は、あの牙だった。
ユイを冷たくしたものの正体も、あの牙だった。
なら、止めなければならない。
いまここで。
次ではなく。
今、この世界で。
レムが静かに言った。
「村へ戻ります。他の子どもたちを確認します」
ラムも頷く。
「そうね。呪いを受けている子がまだいるなら、発動前に見つける必要があるわ」
エミリアが不安そうに子どもを見る。
「私も――」
「エミリアたんは屋敷に残ってくれ」
スバルは、思わず口を挟んでいた。
エミリアが目を瞬かせる。
「スバル?」
「ここにも、運ばれてくる子がいるかもしれない。ベアトリスもここにいる。エミリアたんがいた方が、きっと安心するやつもいる」
自分で言いながら、少し苦しい。
本当は、エミリアを危ない場所へ行かせたくないだけだった。
森へ入れば、何が起きるかわからない。
魔獣がいる。
呪いがある。
レムがいる。
ラムがいる。
そして自分は、まだ何度も失敗している。
そんな場所へ、エミリアまで連れていきたくなかった。
エミリアはスバルを見て、しばらく黙った。
それから、悔しそうに頷く。
「……わかったわ。でも、絶対に無茶はしないで」
「善処する」
「それは無茶する人の言い方よ」
「じゃあ、できるだけ善処する」
「悪化したわ」
そんな会話をして、ほんの少しだけ場が緩む。
だが、スバルの顔色は悪いままだった。
ユイが一歩前に出る。
「私も行くわ」
その瞬間、スバルの心臓が跳ねた。
「駄目だ」
即答だった。
強すぎる声だった。
レムとラムがスバルを見る。
エミリアも驚いた顔をする。
ユイだけが、穏やかに首を傾げた。
「どうして?」
「……ユイさんは、屋敷に残ってくれ」
「でも、人数は多い方がいいでしょう?」
「違う」
スバルは首を振った。
違う。
そういう問題ではない。
ユイが村へ行く。
ユイが森へ行く。
ユイが魔獣に近づく。
それだけで、冷たくなった手を思い出す。
呼吸のない顔を思い出す。
ベッドの上に横たわるユイを思い出す。
また同じことになるのではないかと、喉が詰まる。
だが、それは言えない。
言ってはいけない。
スバルは震える息を吐いた。
「俺が、気にしちまう」
「スバルくん?」
「ユイさんが近くにいると、俺はたぶん、ユイさんばっか気にする。子どもを探すのに集中できなくなる。だから……頼む。ここにいてくれ」
それは本当だった。
全部ではないが、本当だった。
ユイはスバルをじっと見る。
頼れるお姉さんとして、心配されている。
守られようとしている。
何も知らない顔の自分を、必死に遠ざけようとしている。
その必死さが、ユイの内側を甘く満たした。
「……わかったわ」
ユイは柔らかく微笑んだ。
「ここで待っている」
「約束してくれ」
「約束するわ」
スバルは、ようやく小さく頷いた。
「ありがとう」
その声は、ひどく真剣だった。
ユイはその声を覚えておく。
次に壊すために。
夜のアーラム村は、昼間の明るさを失っていた。
家々の灯りは少なく、村人たちは不安そうに集まっている。
レムとラムが村人から話を聞いている間、スバルは子どもたちの顔を一人ひとり確認した。
いる。
あの子もいる。
この子もいる。
けれど、足りない。
「戻ってない子がいるんだな?」
スバルが尋ねると、村人が青ざめた顔で頷いた。
「はい。夕方に森の方へ行ったきりで……何人か、まだ」
スバルは奥歯を噛む。
やっぱり。
これで終わりではない。
呪いを受けた子を一人助けただけでは、まだ足りない。
魔獣は、子どもたちを森へ誘っている。
レムの声が低くなる。
「急ぎましょう」
ラムも森を見た。
「夜の森は危険よ。魔獣の群れがいるなら、さらにね」
「俺も行く」
スバルは言った。
レムが振り返る。
「スバル様は村でお待ちください」
「嫌だ」
「危険です」
「知ってる」
「足手まといになります」
「それも知ってる」
スバルは森を見た。
暗い。
怖い。
でも、あの中に子どもがいる。
そして、自分は知っている。
あの魔獣が、ただ噛むだけでは終わらないことを。
噛まれた傷が、時間差で命を奪うことを。
だから、何もせずに待てない。
「子どもの声を探すくらいならできる。名前を呼ぶ。返事があれば、場所がわかるかもしれない」
「声を出せば、魔獣にも気づかれます」
「それでも、何もしないよりいい」
レムは黙った。
その沈黙に、疑いと迷いが混じる。
ラムがため息をついた。
「連れて行きましょう。止める時間が惜しいわ」
「姉様」
「ただしバルス。勝手に走らないこと。勝手に転ばないこと。勝手に噛まれないこと」
「三つ目が一番重要だな」
「全部重要よ」
「ごもっとも」
スバルは乾いた笑いを漏らした。
怖い。
だが、少しだけ息ができる。
森へ入る。
湿った空気が肌にまとわりついた。
木々が月を隠し、足元は暗い。
レムが前を進み、ラムが周囲の気配を探る。
スバルは二人の少し後ろで、必死に耳を澄ませた。
「ペトラ!」
スバルは叫ぶ。
村人から聞いた名前。
行方不明の子どものひとり。
「いるなら返事しろ! 聞こえたら声出せ!」
返事はない。
代わりに、森の奥で葉が擦れる音がする。
レムが低く言う。
「足元に注意を。魔獣は気配を隠します」
「わかった」
声が震えないように答える。
スバルは何度も名前を呼んだ。
喉が痛くなる。
肺が苦しい。
それでも叫ぶ。
しばらくして、かすかな声が返ってきた。
「……たすけて」
スバルが顔を上げる。
「今の!」
レムも頷く。
三人は声の方へ向かった。
木の根元に、小さな子どもがうずくまっていた。
足を擦りむき、震えている。
スバルは駆け寄ろうとしたが、レムに止められた。
「待ってください」
次の瞬間、周囲の茂みが揺れた。
赤い目が、闇の中に浮かぶ。
大型の犬。
いや、狼に近い。
村にいた小さな獣とはまるで違う。
黒い毛並み。
低く構えた体。
剥き出しの牙。
群れで獲物を囲むように、何匹ものウルガルムが姿を現す。
スバルの喉が鳴った。
「あれが……」
レムの鎖が鳴る。
その音に、スバルの体が反射的に強張った。
怖い。
あの夜を思い出す。
レムに追われた夜。
鉄球が地面を抉った音。
だが、今の鎖は自分に向いていない。
魔獣に向いている。
レムが一歩前へ出た。
「道を開きます。子どもを連れて下がってください」
「わかった!」
レムの鉄球が唸る。
ウルガルムが吹き飛ぶ。
ラムの風が、横から迫る魔獣を裂いていく。
スバルはその隙に子どもへ走った。
「立てるか!?」
子どもは泣きながら首を振る。
スバルは迷わず背負った。
体が重い。
自分の足も震えている。
それでも、動ける。
「しっかり掴まってろ!」
背後で唸り声が上がる。
ウルガルムが横から飛びかかってくる。
スバルは避けようとしたが、間に合わない。
風が走った。
魔獣が弾き飛ばされる。
ラムの声が飛ぶ。
「止まらないで、バルス」
「助かった!」
「礼は戻ってからでいいわ。今は走りなさい」
「了解!」
スバルは子どもを背負い直し、森の出口へ向かった。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも、背中の子どもの体温がある。
生きている重さ。
それが、スバルの足を動かした。
村の近くまで戻ると、村人たちが駆け寄ってきた。
子どもを預けた瞬間、スバルは膝をつく。
肺が焼ける。
吐き気がする。
だが、休めない。
「他は!?」
村人の顔が青ざめる。
「まだ、二人……」
「くそっ」
スバルは立ち上がろうとする。
足が震え、うまく力が入らない。
そこへレムが戻ってきた。
服に土がつき、額に汗が浮かんでいる。
だが、大きな怪我はない。
「森の奥に、まだ気配があります」
「行く」
「スバル様はここに残ってください」
「行く」
スバルは繰り返した。
「足手まといなのはわかってる。でも、声なら拾えるかもしれない。名前を呼べる。子どもが泣いてたら聞こえるかもしれない。だから行く」
レムはスバルを見る。
青い瞳に、疑い以外の色が浮かんでいた。
「なぜ、そこまで」
スバルは笑った。
疲れきって、情けない笑いだった。
「子どもが助からなかったら、寝覚めが悪すぎる」
「眠れていないでしょう」
「だから、これ以上悪くしたくねえんだよ」
無茶苦茶な返しだった。
だが、レムは一瞬だけ言葉を失った。
ラムが短く言う。
「バルスを説得する時間が惜しいわ」
「姉様」
「連れていく。遅れたら置いていく。それでいいでしょう」
「置いていく前提はやめろ!」
「置いていかれたくないなら、遅れないことね」
「正論!」
スバルは震える足に力を込めた。
再び森へ入る。
奥へ進むほど、ウルガルムの気配は濃くなった。
唸り声。
木々の間を走る影。
赤い目。
今度は、村の小さな獣のような姿はどこにもない。
森の魔獣は、大きく、速く、明確に獲物を狙っている。
「ペトラ! 返事しろ!」
スバルは叫ぶ。
喉が痛い。
それでも叫ぶ。
やがて、かすかな泣き声が聞こえた。
「……こっち」
スバルは息を呑む。
「あっちだ!」
レムが即座に走る。
ラムの風が茂みを払う。
その先、小さな洞の中に、二人の子どもが身を寄せていた。
周囲には、ウルガルムの群れ。
一匹一匹が大きい。
低い姿勢で牙を剥き、子どもたちへじりじり近づいている。
スバルの顔から血の気が引いた。
レムが鎖を構える。
ラムが魔法を放つ準備をする。
だが、ウルガルムの一匹が、子どもへ飛びかかった。
間に合わない。
そう思った瞬間、スバルは走っていた。
考えるより先に、体が動いていた。
「やめろおおおおッ!」
子どもとウルガルムの間に飛び込む。
牙が、スバルの腕に食い込んだ。
「っ、あああああ!」
熱い痛み。
血が噴き出す。
同時に、冷たい何かが体の奥へ入り込む感覚。
呪い。
スバルは本能で悟った。
噛まれた。
また。
レムの鉄球がウルガルムを吹き飛ばす。
ラムの風が周囲を裂く。
スバルは子どもたちを庇うように膝をついた。
「立てるか!?」
子どもたちは泣きながら頷く。
「なら、レムたちの後ろに隠れろ! 絶対に離れるな!」
「スバル様、腕を!」
レムの声が鋭くなる。
スバルは腕を押さえ、歯を食いしばった。
「後でいい! まだ動ける!」
「よくありません!」
その声には、焦りがあった。
疑いではない。
殺意でもない。
スバルを死なせたくない声だった。
それが胸に刺さる。
痛みとは別の場所が痛んだ。
「呪いが入った可能性があります。すぐに戻る必要があります」
「ベアトリスなら……」
「はい。発動前なら、ベアトリス様が対処できるはずです」
発動前なら。
その言葉に、スバルは頷いた。
間に合う。
今なら、まだ。
だが、森の奥から、低い唸りが響いた。
周囲のウルガルムたちが、一斉に身を低くする。
その奥に、ひときわ大きな影が現れた。
他の個体よりもさらに大きい。
闇の中で赤い目が光り、濃い獣臭が風に乗って流れてくる。
群れの中心。
呪いの根源。
スバルは、その姿を見て背筋が凍った。
「親玉……」
レムが前へ出る。
「ラム姉様。子どもたちとスバル様をお願いします」
「レム」
ラムの声が少し低くなる。
「深追いはだめよ」
「はい、姉様」
返事はした。
だが、レムの声には熱がある。
額に力が集まるような気配。
空気が重くなる。
スバルは、危うさを感じた。
「レム!」
呼びかける。
レムは振り返らない。
鉄球を握る手に力がこもる。
その背中は、小さな体に似合わないほど強く、そして危うかった。
スバルは腕の痛みを堪えながら、立ち上がろうとする。
「待て……一人で行くな」
「下がっていてください」
「嫌だ」
「スバル様は呪いを受けています」
「だからだよ」
スバルは荒い息を吐いた。
「俺は戻らなきゃやばい。でも、お前も戻らなきゃ駄目だ。ここで突っ込んだら、たぶん駄目なんだよ」
根拠はない。
いや、ある。
レムを失うかもしれないという嫌な予感。
それだけだった。
でも、その予感を無視できない。
レムがようやく少しだけ振り返る。
「なぜ、そう思うのですか」
「嫌な予感」
「また、それですか」
「ああ。またそれだ」
スバルは痛みに顔を歪めながら笑った。
「でも、今までそれで少しは間に合っただろ」
レムは言葉に詰まった。
ベアトリスに子どもを診せたこと。
村で確認したこと。
結果として、子どもは一人助かった。
スバルの言葉は不審だ。
だが、完全に無視できない。
その間にも、ウルガルムの群れは唸りを上げる。
ラムが鋭く言った。
「話している暇はないわ」
風が走る。
レムが鎖を構え直す。
スバルは子どもたちを背に庇いながら、噛まれた腕を押さえた。
血が指の間から滲む。
冷たいものが、体の奥で少しずつ広がっていく気がする。
早く戻らなければならない。
でも、ここでレムを置いていけない。
子どもたちも置いていけない。
ウルガルムの群れが、一斉に動いた。
夜の森が、牙と風と鉄の音で満たされる。
スバルは歯を食いしばった。
ユイは生きている。
子どもたちも生きている。
自分も、まだ生きている。
なら、まだ終わっていない。
終わらせてたまるか。
たとえ腕に呪いを受けていても。
たとえ怖くても。
今度こそ、誰も冷たくさせない。
スバルは、震える足で森の土を踏みしめた。