ウルガルムの群れが、一斉に跳ねた。
赤い目が、闇の中で尾を引く。
唸り声。
土を蹴る音。
牙が空気を裂く音。
それらが一度に押し寄せてきて、スバルの足は一瞬、地面に縫いつけられたように動かなかった。
怖い。
怖い。
怖い。
目の前の魔獣は、村で足元をうろついていた小さな獣ではない。
大きい。
速い。
明確に人を喰うための牙を持っている。
その群れが、闇の中から次々と現れる。
スバルは噛まれた腕を押さえながら、子どもたちを背に庇った。
腕が熱い。
傷口が脈打つ。
その奥で、冷たいものがじわじわと広がっていく。
呪い。
発動する前に戻れば助かる。
ベアトリスなら剥がせる。
そうわかっているのに、目の前の状況はそれを許してくれない。
「バルス、子どもを下がらせなさい!」
ラムの声が飛ぶ。
風が走った。
スバルへ飛びかかろうとしたウルガルムの一匹が、横から吹き飛ばされる。
木に叩きつけられ、黒い毛並みが闇に沈んだ。
「わ、わかってる!」
スバルは振り返り、子どもたちへ叫ぶ。
「走れ! 村の方へ! 絶対に振り返るな!」
「で、でも……!」
「でもじゃねえ! 走れ!」
子どもたちは泣きながら頷き、森の出口の方へ駆け出す。
ラムがその進路を風で切り開く。
レムは前へ出た。
鎖が鳴る。
スバルの体が、反射的に震える。
あの夜の音。
自分を追い詰めた音。
けれど今、その鎖はスバルではなくウルガルムへ向けられている。
鉄球が唸り、巨大な魔獣の一匹を正面から叩き潰した。
肉と骨が砕ける音。
地面が抉れる。
レムの表情は静かだった。
だが、その静けさの奥に、熱がある。
怒り。
殺意。
子どもたちを襲った魔獣への、濃い敵意。
スバルは、それを見て背筋が冷えた。
「レム、深追いするな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
レムは振り返らない。
「子どもたちをお願いします」
「お前も戻るんだよ!」
「レムは、群れを止めます」
「そうじゃねえ!」
スバルは叫ぶ。
腕が痛む。
傷口から冷たいものが広がっていく。
だが、そんなことよりも、レムの背中が怖かった。
あの背中は、戻ってこない背中に見えた。
ラムが風を放ちながら舌打ちする。
「レム、聞きなさい。あなた一人で突っ込むには数が多いわ」
「わかっています、姉様」
「わかっている子の動きではないわ」
ラムの声は鋭い。
しかし、レムの足は止まらなかった。
彼女の額に、白いものが浮かび上がる。
角。
短く、しかし確かにそこに生えた鬼の角。
空気が変わった。
森の闇が、さらに重くなる。
レムの体から漏れる力が、周囲の魔獣を圧する。
ウルガルムたちが一瞬たじろいだ。
次の瞬間、レムが消えた。
いや、そう見えるほど速く踏み込んだ。
鉄球が閃く。
ウルガルムの胴が砕ける。
別の個体が飛びかかる前に、レムの蹴りが首を折る。
血が飛ぶ。
土が舞う。
その戦い方は、さっきまでのものとは違った。
強い。
圧倒的に強い。
けれど、危うい。
敵を倒すために、自分の体がどうなるかを気にしていないような動きだった。
「レム!」
スバルは叫ぶ。
返事はない。
レムは、群れの奥にいるひときわ大きなウルガルムへ向かっている。
あれを倒せば終わる。
そう思っているのかもしれない。
だが、森にはまだ何匹もいる。
子どもたちの退路も安全ではない。
スバルは歯を食いしばった。
腕が痛い。
体が重い。
寝不足で視界が揺れる。
でも、ここで立っているだけなら、また誰かを失う。
「ラム!」
「何よ、バルス!」
「子どもたちは頼む!」
「あなたは?」
「レムを止める!」
ラムの目が一瞬だけ見開かれた。
「馬鹿なの?」
「知ってる!」
「知っていてやるなら、もっと馬鹿ね!」
「それも知ってる!」
スバルは走り出した。
走ると言っても、足は重い。
傷の痛みで腕が熱い。
呪いの冷たさが、体の奥で脈打つ。
それでも、レムの背中を追った。
森の奥へ。
ウルガルムの群れがその姿に反応する。
赤い目が、一斉にスバルを向いた。
ぞわり、と肌が粟立つ。
その瞬間、スバルは理解した。
自分を見ている。
ただの獲物としてではない。
もっと嫌なものに引き寄せられるように。
レムが言っていた。
魔女の臭い。
自分には、それがある。
なら。
使えるのか。
この嫌なものを。
この呪われたような体質を。
スバルは息を吸った。
「こっちだ!」
喉が裂けそうな声で叫ぶ。
「俺はここだ! 噛みたきゃこっち来やがれ、犬ども!」
ウルガルムが反応する。
数匹がレムへの包囲を外し、スバルへ向いた。
怖い。
心臓が破裂しそうだった。
それでも、スバルは後ろへ下がりながら叫ぶ。
「そうだ、こっちだ! お前らが好きそうな臭いがすんだろ! なら来いよ!」
自分で言っていて、吐き気がした。
魔女の臭い。
その正体を、スバルは知らない。
知りたくもない。
けれど、それに魔獣が反応するなら。
レムから引き剥がせるなら。
使うしかない。
ウルガルムが跳ぶ。
「うわっ!」
スバルは転がるように避けた。
牙が肩口を掠める。
布が裂け、皮膚が浅く切れる。
痛い。
だが、まだ動ける。
別の個体が横から来る。
ラムの風がそれを弾いた。
「バルス! 囮になるなら、もう少し賢く逃げなさい!」
「賢い逃げ方とか知らねえよ!」
「なら覚えなさい!」
「実地訓練が過酷すぎる!」
叫びながら、スバルは走る。
ウルガルムの一部がスバルへ向かう。
レムへの圧が少しだけ薄くなる。
その隙に、ラムが風で子どもたちの退路を確保した。
しかし、レムは止まらない。
角を出したまま、群れの中心へ向かっていく。
大きなウルガルムが低く唸り、レムを迎え撃つ。
鉄球と牙がぶつかる。
木々が揺れる。
土が砕ける。
レムの動きは鋭い。
だが、敵も大きい。
普通の個体よりも明らかに強い。
一撃を受け流したレムの足が、地面を抉った。
スバルは息を呑む。
「レム!」
レムは答えない。
鬼の角に力が集まり、さらに踏み込もうとする。
その背後から、別のウルガルムが忍び寄っていた。
スバルの視界に、それが入る。
間に合わない。
でも、声なら。
「後ろだ!」
レムの肩が動く。
鉄球が戻る。
だが、わずかに遅い。
ウルガルムの牙がレムの背へ向かう。
スバルは走った。
なぜ走ったのか、自分でもわからない。
体は限界だった。
腕は噛まれている。
足は震えている。
勝てるはずがない。
それでも走った。
レムの背中と、あの牙の間へ。
「っ、だああああ!」
スバルは体ごとウルガルムへぶつかった。
魔獣の体は重い。
スバルの突進など、本来ならほとんど意味がない。
それでも、ほんの少しだけ牙の軌道がずれた。
牙はレムの背ではなく、スバルの肩へ食い込んだ。
「が、ああああッ!」
激痛。
熱。
血。
さらに呪いが流れ込む感覚。
視界が白く弾けた。
レムが振り返る。
青い瞳が、大きく見開かれていた。
「スバル様――!」
その声を聞いた瞬間、スバルは変な笑いが漏れそうになった。
自分を殺した声ではない。
自分を案じる声。
それが、こんなにも胸に刺さるとは思わなかった。
「……よそ見、すんな」
血の混じった声で言う。
「前、見ろ……!」
レムの目に、揺れが生まれた。
だが、すぐに前を向く。
巨大なウルガルムが迫る。
レムは鉄球を構え直し、真正面から打ち込んだ。
衝撃が森を揺らす。
ラムの風が同時に走る。
ウルガルムの巨体が、わずかに体勢を崩した。
「バルス、伏せなさい!」
ラムの声。
スバルは反射的に地面へ倒れ込む。
風が頭上を駆け抜けた。
鋭い刃のような風が、ウルガルムの前脚を裂く。
レムの鉄球が、その傷口へ叩き込まれた。
巨大な魔獣が、初めて大きく吠える。
森全体が震えた。
群れがざわめく。
だが、まだ倒れない。
むしろ怒りを増したように、赤い目が燃える。
スバルは地面に倒れたまま、荒く息をする。
腕と肩が熱い。
体の奥は冷たい。
相反する感覚が混ざり、意識が揺れる。
発動前なら、ベアトリスが剥がせる。
そう聞いた。
だが、いくつ噛まれた。
腕。
肩。
掠め傷もある。
呪いは、どれだけ入った。
間に合うのか。
考えるだけで、背筋が凍る。
「立てますか」
レムの声が近くでした。
スバルは顔を上げる。
レムが、彼のそばに立っていた。
角はまだある。
目には熱が残っている。
だが、さっきのような危うい前のめりさは少し薄れていた。
「……立てるって言ったら、嘘になる」
「では、立たないでください」
「でも、子どもは」
「ラム姉様が村へ向かわせています」
「レムは」
「ここで群れを止めます」
「だから、それが怖いんだって……」
スバルは苦笑しようとして、痛みに顔を歪めた。
「お前が一人で突っ込むの、見てらんねえよ」
レムが息を呑む。
その言葉には、理屈がない。
根拠もない。
ただの感情。
だが、レムには、それが嘘には聞こえなかった。
「なぜ、そこまでレムを気にするのですか」
低い問い。
疑いとは少し違う。
戸惑いを含んだ声。
スバルは地面に片膝をつき、笑った。
「なんでだろうな」
言えない。
前に殺されたから怖い。
それでも今のレムを見捨てたくない。
そんなことは言えない。
だから、別の言葉にする。
「お前に死なれたら、たぶん俺が後味悪い」
「また、寝覚めの話ですか」
「眠れない男にとっては重要なんだよ」
レムは一瞬、言葉を失った。
そして、わずかに目を伏せる。
「本当に、変な方です」
「よく言われる」
「でしょうね」
「そこは否定してくれよ」
短いやり取り。
その間にも、ウルガルムの群れは距離を詰めている。
巨大な個体が低く構えた。
次に来る。
スバルにもわかった。
レムが前へ出る。
だが、今度は完全に一人で突っ込むのではない。
スバルの位置を気にしている。
ラムの風の射線を見ている。
少しだけ、戻ってきた。
スバルはそれに気づき、息を吐く。
まだだ。
まだ終わらない。
けれど、少しずつ変わっている。
その時だった。
夜空の上から、強烈な魔力の気配が落ちてきた。
森の空気が一変する。
ウルガルムたちが一斉に空を見上げる。
レムも、ラムも、スバルも同じように顔を上げた。
空に、道化のような影が浮かんでいた。
ロズワール。
派手な服を翻し、夜の空に立つように浮かんでいる。
「いやぁ、ずいぶん賑やかな夜になっているねぇ」
いつもの間延びした声。
だが、そこに含まれる魔力の圧は冗談ではなかった。
スバルは、思わず口を開けた。
「ロズワール……」
ロズワールの手が、軽く振られる。
色とりどりの魔法光が、夜空に咲いた。
次の瞬間、森が爆ぜた。
炎。
風。
光。
それらがウルガルムの群れを容赦なく薙ぎ払っていく。
巨大な個体が吠える。
だが、その声も魔法の轟音に飲まれた。
レムが即座にスバルを庇うように下がる。
ラムが風で余波を逸らす。
スバルは地面に座り込んだまま、ただその光景を見ていた。
圧倒的だった。
自分たちが必死に抗っていた群れが、一方的に焼かれ、砕かれ、吹き飛ばされていく。
ロズワールの魔法は、森の中の魔獣だけを的確に撃ち抜いていた。
やがて、巨大なウルガルムが崩れ落ちる。
赤い目から光が消える。
群れの唸り声が、ひとつずつ消えていく。
夜の森に、静けさが戻った。
スバルは、しばらく何も言えなかった。
助かった。
その実感が遅れてやってくる。
同時に、腕と肩の痛みが一気に強くなった。
「っ、ぐ……!」
「スバル様!」
レムが駆け寄る。
スバルは噛まれた腕を押さえた。
血が止まらない。
傷口が熱い。
そして、体の奥がどんどん冷たくなっていく。
「呪い……」
レムの顔が強張る。
「すぐに戻ります。ベアトリス様のところへ」
「子どもは……」
「全員、村へ向かわせました。ラム姉様が確認しています」
「そっか……」
スバルは息を吐いた。
「よかった」
「よくありません」
レムの声が震えていた。
わずかに。
本当にわずかに。
「あなたは、何度噛まれたと思っているのですか」
「数える余裕なかった」
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談言わないと……怖いんだよ」
スバルは正直に言った。
レムが言葉を失う。
「怖い。痛いし、寒いし、死にたくねえ。だから、喋ってないと無理」
死にたくない。
それは言える。
死に戻りの秘密ではない。
ただの本音。
スバルは笑おうとした。
失敗した。
「戻ろうぜ。ベアトリスなら、なんとかしてくれるんだろ」
「はい」
レムは即座に答えた。
「必ず」
その言葉に、スバルは少しだけ目を細める。
必ず。
レムがそう言った。
それだけで、胸の奥が少し温かくなる。
怖いのに。
まだ、怖いのに。
それでも、今のレムの声は信じたいと思ってしまった。
ロズワールが降りてくる。
「おやおや、スバルくん。ずいぶん派手にやられたねぇ」
「見りゃわかるだろ……」
「うん、よぉーくわかるとも。急いだ方がいい。呪いが回る前にね」
「軽いな、言い方……」
「重く言えば治るなら、そうするけれどねぇ」
「くそ……正論っぽいの腹立つ……」
スバルは悪態をついた。
だが、もう立てない。
レムが彼を支えようとする。
スバルの体が一瞬強張った。
レムはそれに気づいた。
彼女の表情に、ほんの少し影が落ちる。
「……レムが触れても、大丈夫ですか」
その問いに、スバルは息を詰めた。
前なら、反射的に怯えただろう。
今も怖い。
でも。
今、彼女は助けようとしている。
スバルは、震えながら頷いた。
「大丈夫……たぶん」
「たぶん、ですか」
「俺の大丈夫は、だいたいたぶんだ」
「信用できませんね」
「だろうな」
レムは、慎重にスバルを支えた。
スバルは歯を食いしばる。
怖さは消えない。
けれど、逃げなかった。
ラムが戻ってくる。
「子どもたちは全員村へ戻したわ。大きな傷はない」
「よかった……」
スバルの声がかすれる。
その瞬間、視界が揺れた。
力が抜ける。
レムが支える。
「スバル様!」
「悪い……ちょっと、眠い」
「眠ってはいけません」
「わかってる……けど、きつい……」
冷たい眠気。
あの最初の屋敷の夜と同じ感覚。
体の奥から何かが引き抜かれていく。
スバルは必死に目を開けようとした。
だが、瞼が重い。
意識が沈む。
「ユイさん……」
思わず、その名が漏れた。
レムの腕の中で、スバルは薄く笑う。
「生きてるよな……」
その問いは、ここにいないユイへ向けたものだった。
レムには意味がわからない。
けれど、スバルにとっては大事な確認だった。
ユイは屋敷にいる。
生きている。
冷たくなっていない。
今度は、まだ。
「……戻らなきゃ」
スバルは呟いた。
「戻って、顔見ねえと……」
レムは何も言わず、スバルを支え直した。
ロズワールが軽く手を振る。
「急ごうか。ベアトリスに怒られる前にねぇ」
「もう怒ってると思うわ」
ラムが淡々と言った。
「それは怖いねぇ」
ロズワールは笑う。
緊張感のない声だった。
だが、その移動は速かった。
スバルの意識は、屋敷へ戻るまで何度も途切れかけた。
そのたびに、レムの声が聞こえた。
「眠ってはいけません」
「スバル様」
「もう少しです」
その声に、スバルはなんとか意識を繋いだ。
前は、その声が恐怖だった。
今も怖さは残っている。
でも、同時にその声が命綱になっている。
矛盾している。
苦しい。
だけど、手放したくない。
屋敷に戻ると、玄関にエミリアとユイがいた。
スバルの血まみれの姿を見て、エミリアが顔を青くする。
「スバル!」
ユイも一歩前へ出た。
その顔には、表向きの動揺が浮かんでいる。
スバルは、ぼやける視界の中でユイを見た。
立っている。
生きている。
温かそうな顔で、自分を見ている。
「……よかった」
スバルは呟いた。
ユイの眉が震える。
「スバルくん?」
「生きてる……」
そう言った瞬間、スバルの意識はふっと沈みかけた。
だが、すぐにベアトリスの声が飛んだ。
「眠るなと言っているのよ、この馬鹿!」
強い力で、胸元を掴まれる。
スバルは強引に意識を引き戻された。
「ぐえっ……!」
「呪いを何重に受けているのよ。馬鹿にもほどがあるかしら」
「開口一番が……罵倒……」
「罵倒されるだけのことをしているのよ」
ベアトリスはスバルの腕と肩を確認し、顔をしかめた。
「本当に面倒な状態かしら」
「助かる……?」
「助けるのよ。だから黙って耐えなさい」
「優しいのか怖いのか……」
「怖い方が効くなら、怖くしてやるかしら」
「やめてください……」
スバルは力なく答えた。
ベアトリスが魔力を流し込む。
傷口の奥に絡みついた冷たいものが、引き剥がされていく。
痛い。
噛まれた時とは別の痛み。
体の内側を爪でこそげられているような感覚。
「っ、ぐ、ああああ……!」
「暴れるなかしら!」
「無理、痛い、これ痛いって!」
「呪いを剥がしているのだから当然なのよ!」
スバルは歯を食いしばる。
涙が滲む。
エミリアが手を握ってくる。
ユイもそばにいる。
レムは少し離れた場所で、じっとスバルを見ている。
ラムは腕を組み、静かに見守っている。
スバルは痛みに震えながら、それでも思った。
いる。
みんな、いる。
ユイもいる。
レムもいる。
エミリアもいる。
誰も冷たくなっていない。
誰も消えていない。
それだけで、痛みに耐えられる気がした。
長い時間のようで、実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。
ベアトリスが最後に息を吐く。
「終わったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、スバルの体から力が抜けた。
「……助かった?」
「今はね」
「今は、か」
「無茶を繰り返せば、次は知らないのよ」
「肝に銘じる……」
「本当に銘じる気がある顔ではないかしら」
「あるよ……たぶん」
「たぶんをつけるななのよ」
ベアトリスは呆れたように言った。
スバルは力なく笑った。
その後、傷の手当てが行われた。
血は止まり、呪いも剥がされた。
体力は限界だったが、命は繋がっている。
子どもたちも、屋敷へ運ばれた者はベアトリスが確認した。
森で救出した子どもたちに致命的な呪いは残っていなかった。
魔獣の群れも、ロズワールの魔法で大半が討たれた。
原因は潰えた。
少なくとも、この夜の危機は終わった。
スバルはベッドに横たえられた。
今度は、眠るのが怖くなかった。
完全に怖くないわけではない。
それでも、あの冷たい眠気とは違う。
ただ疲れている。
ただ、生きている体が休みを求めている。
エミリアがそばに座り、静かに言った。
「スバル、無茶しすぎよ」
「知ってる」
「本当に心配したんだから」
「ごめん」
「謝ればいいってものじゃないわ」
「うん」
素直に頷くと、エミリアは少し困った顔をした。
「そう素直にされると、怒りづらいわ」
「怒られないために素直にしてる」
「ずるい」
「ごめん」
「また謝った」
エミリアは小さく息を吐いた。
でも、その表情は柔らかかった。
ユイが、反対側に立っている。
「生きて帰ってきたわね」
「ああ」
スバルは、ユイを見る。
温かい。
生きている。
今度は冷たくない。
「ユイさんも、生きてる」
言ってから、少しだけ笑う。
「変なこと言ってるな、俺」
「そうね。でも、今は許してあげる」
「頼れるお姉さんだから?」
「ええ。頼れるお姉さんだから」
ユイは微笑む。
その笑顔に、スバルは救われた。
そしてユイは、内側で静かに笑う。
よく頑張ったね、スバルくん。
今回は、ちゃんと救えた。
私も、子どもたちも、自分自身も。
レムのことも少しだけ信じられた。
希望を掴んだ顔をしている。
とても綺麗。
でも、忘れないで。
あなたが掴んだ希望は、守るものが増えたということ。
増えた分だけ、次に失う恐怖も増える。
あなたはこれから、もっと曇れる。
ユイは、そんな内心を一切表に出さない。
ただ、優しくスバルの額に手を置いた。
「おやすみなさい、スバルくん」
スバルは一瞬だけ目を開けた。
眠る。
その言葉に、まだ少し怖さがある。
けれど、今は目の前にユイがいる。
エミリアがいる。
レムも、扉の近くに立っている。
ラムもいる。
ベアトリスの不機嫌そうな声も、少し離れたところから聞こえる。
この朝は続く。
そう思えた。
「……おやすみ」
スバルは、ようやく目を閉じた。
今度の眠りは、死ではなかった。
ただ、生きている者が疲れ果てて落ちる、深い眠りだった。