Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十三話 牙の森、戻る朝

 ウルガルムの群れが、一斉に跳ねた。

 

 赤い目が、闇の中で尾を引く。

 

 唸り声。

 

 土を蹴る音。

 

 牙が空気を裂く音。

 

 それらが一度に押し寄せてきて、スバルの足は一瞬、地面に縫いつけられたように動かなかった。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 目の前の魔獣は、村で足元をうろついていた小さな獣ではない。

 

 大きい。

 

 速い。

 

 明確に人を喰うための牙を持っている。

 

 その群れが、闇の中から次々と現れる。

 

 スバルは噛まれた腕を押さえながら、子どもたちを背に庇った。

 

 腕が熱い。

 

 傷口が脈打つ。

 

 その奥で、冷たいものがじわじわと広がっていく。

 

 呪い。

 

 発動する前に戻れば助かる。

 

 ベアトリスなら剥がせる。

 

 そうわかっているのに、目の前の状況はそれを許してくれない。

 

「バルス、子どもを下がらせなさい!」

 

 ラムの声が飛ぶ。

 

 風が走った。

 

 スバルへ飛びかかろうとしたウルガルムの一匹が、横から吹き飛ばされる。

 

 木に叩きつけられ、黒い毛並みが闇に沈んだ。

 

「わ、わかってる!」

 

 スバルは振り返り、子どもたちへ叫ぶ。

 

「走れ! 村の方へ! 絶対に振り返るな!」

 

「で、でも……!」

 

「でもじゃねえ! 走れ!」

 

 子どもたちは泣きながら頷き、森の出口の方へ駆け出す。

 

 ラムがその進路を風で切り開く。

 

 レムは前へ出た。

 

 鎖が鳴る。

 

 スバルの体が、反射的に震える。

 

 あの夜の音。

 

 自分を追い詰めた音。

 

 けれど今、その鎖はスバルではなくウルガルムへ向けられている。

 

 鉄球が唸り、巨大な魔獣の一匹を正面から叩き潰した。

 

 肉と骨が砕ける音。

 

 地面が抉れる。

 

 レムの表情は静かだった。

 

 だが、その静けさの奥に、熱がある。

 

 怒り。

 

 殺意。

 

 子どもたちを襲った魔獣への、濃い敵意。

 

 スバルは、それを見て背筋が冷えた。

 

「レム、深追いするな!」

 

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 

 レムは振り返らない。

 

「子どもたちをお願いします」

 

「お前も戻るんだよ!」

 

「レムは、群れを止めます」

 

「そうじゃねえ!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 腕が痛む。

 

 傷口から冷たいものが広がっていく。

 

 だが、そんなことよりも、レムの背中が怖かった。

 

 あの背中は、戻ってこない背中に見えた。

 

 ラムが風を放ちながら舌打ちする。

 

「レム、聞きなさい。あなた一人で突っ込むには数が多いわ」

 

「わかっています、姉様」

 

「わかっている子の動きではないわ」

 

 ラムの声は鋭い。

 

 しかし、レムの足は止まらなかった。

 

 彼女の額に、白いものが浮かび上がる。

 

 角。

 

 短く、しかし確かにそこに生えた鬼の角。

 

 空気が変わった。

 

 森の闇が、さらに重くなる。

 

 レムの体から漏れる力が、周囲の魔獣を圧する。

 

 ウルガルムたちが一瞬たじろいだ。

 

 次の瞬間、レムが消えた。

 

 いや、そう見えるほど速く踏み込んだ。

 

 鉄球が閃く。

 

 ウルガルムの胴が砕ける。

 

 別の個体が飛びかかる前に、レムの蹴りが首を折る。

 

 血が飛ぶ。

 

 土が舞う。

 

 その戦い方は、さっきまでのものとは違った。

 

 強い。

 

 圧倒的に強い。

 

 けれど、危うい。

 

 敵を倒すために、自分の体がどうなるかを気にしていないような動きだった。

 

「レム!」

 

 スバルは叫ぶ。

 

 返事はない。

 

 レムは、群れの奥にいるひときわ大きなウルガルムへ向かっている。

 

 あれを倒せば終わる。

 

 そう思っているのかもしれない。

 

 だが、森にはまだ何匹もいる。

 

 子どもたちの退路も安全ではない。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

 腕が痛い。

 

 体が重い。

 

 寝不足で視界が揺れる。

 

 でも、ここで立っているだけなら、また誰かを失う。

 

「ラム!」

 

「何よ、バルス!」

 

「子どもたちは頼む!」

 

「あなたは?」

 

「レムを止める!」

 

 ラムの目が一瞬だけ見開かれた。

 

「馬鹿なの?」

 

「知ってる!」

 

「知っていてやるなら、もっと馬鹿ね!」

 

「それも知ってる!」

 

 スバルは走り出した。

 

 走ると言っても、足は重い。

 

 傷の痛みで腕が熱い。

 

 呪いの冷たさが、体の奥で脈打つ。

 

 それでも、レムの背中を追った。

 

 森の奥へ。

 

 ウルガルムの群れがその姿に反応する。

 

 赤い目が、一斉にスバルを向いた。

 

 ぞわり、と肌が粟立つ。

 

 その瞬間、スバルは理解した。

 

 自分を見ている。

 

 ただの獲物としてではない。

 

 もっと嫌なものに引き寄せられるように。

 

 レムが言っていた。

 

 魔女の臭い。

 

 自分には、それがある。

 

 なら。

 

 使えるのか。

 

 この嫌なものを。

 

 この呪われたような体質を。

 

 スバルは息を吸った。

 

「こっちだ!」

 

 喉が裂けそうな声で叫ぶ。

 

「俺はここだ! 噛みたきゃこっち来やがれ、犬ども!」

 

 ウルガルムが反応する。

 

 数匹がレムへの包囲を外し、スバルへ向いた。

 

 怖い。

 

 心臓が破裂しそうだった。

 

 それでも、スバルは後ろへ下がりながら叫ぶ。

 

「そうだ、こっちだ! お前らが好きそうな臭いがすんだろ! なら来いよ!」

 

 自分で言っていて、吐き気がした。

 

 魔女の臭い。

 

 その正体を、スバルは知らない。

 

 知りたくもない。

 

 けれど、それに魔獣が反応するなら。

 

 レムから引き剥がせるなら。

 

 使うしかない。

 

 ウルガルムが跳ぶ。

 

「うわっ!」

 

 スバルは転がるように避けた。

 

 牙が肩口を掠める。

 

 布が裂け、皮膚が浅く切れる。

 

 痛い。

 

 だが、まだ動ける。

 

 別の個体が横から来る。

 

 ラムの風がそれを弾いた。

 

「バルス! 囮になるなら、もう少し賢く逃げなさい!」

 

「賢い逃げ方とか知らねえよ!」

 

「なら覚えなさい!」

 

「実地訓練が過酷すぎる!」

 

 叫びながら、スバルは走る。

 

 ウルガルムの一部がスバルへ向かう。

 

 レムへの圧が少しだけ薄くなる。

 

 その隙に、ラムが風で子どもたちの退路を確保した。

 

 しかし、レムは止まらない。

 

 角を出したまま、群れの中心へ向かっていく。

 

 大きなウルガルムが低く唸り、レムを迎え撃つ。

 

 鉄球と牙がぶつかる。

 

 木々が揺れる。

 

 土が砕ける。

 

 レムの動きは鋭い。

 

 だが、敵も大きい。

 

 普通の個体よりも明らかに強い。

 

 一撃を受け流したレムの足が、地面を抉った。

 

 スバルは息を呑む。

 

「レム!」

 

 レムは答えない。

 

 鬼の角に力が集まり、さらに踏み込もうとする。

 

 その背後から、別のウルガルムが忍び寄っていた。

 

 スバルの視界に、それが入る。

 

 間に合わない。

 

 でも、声なら。

 

「後ろだ!」

 

 レムの肩が動く。

 

 鉄球が戻る。

 

 だが、わずかに遅い。

 

 ウルガルムの牙がレムの背へ向かう。

 

 スバルは走った。

 

 なぜ走ったのか、自分でもわからない。

 

 体は限界だった。

 

 腕は噛まれている。

 

 足は震えている。

 

 勝てるはずがない。

 

 それでも走った。

 

 レムの背中と、あの牙の間へ。

 

「っ、だああああ!」

 

 スバルは体ごとウルガルムへぶつかった。

 

 魔獣の体は重い。

 

 スバルの突進など、本来ならほとんど意味がない。

 

 それでも、ほんの少しだけ牙の軌道がずれた。

 

 牙はレムの背ではなく、スバルの肩へ食い込んだ。

 

「が、ああああッ!」

 

 激痛。

 

 熱。

 

 血。

 

 さらに呪いが流れ込む感覚。

 

 視界が白く弾けた。

 

 レムが振り返る。

 

 青い瞳が、大きく見開かれていた。

 

「スバル様――!」

 

 その声を聞いた瞬間、スバルは変な笑いが漏れそうになった。

 

 自分を殺した声ではない。

 

 自分を案じる声。

 

 それが、こんなにも胸に刺さるとは思わなかった。

 

「……よそ見、すんな」

 

 血の混じった声で言う。

 

「前、見ろ……!」

 

 レムの目に、揺れが生まれた。

 

 だが、すぐに前を向く。

 

 巨大なウルガルムが迫る。

 

 レムは鉄球を構え直し、真正面から打ち込んだ。

 

 衝撃が森を揺らす。

 

 ラムの風が同時に走る。

 

 ウルガルムの巨体が、わずかに体勢を崩した。

 

「バルス、伏せなさい!」

 

 ラムの声。

 

 スバルは反射的に地面へ倒れ込む。

 

 風が頭上を駆け抜けた。

 

 鋭い刃のような風が、ウルガルムの前脚を裂く。

 

 レムの鉄球が、その傷口へ叩き込まれた。

 

 巨大な魔獣が、初めて大きく吠える。

 

 森全体が震えた。

 

 群れがざわめく。

 

 だが、まだ倒れない。

 

 むしろ怒りを増したように、赤い目が燃える。

 

 スバルは地面に倒れたまま、荒く息をする。

 

 腕と肩が熱い。

 

 体の奥は冷たい。

 

 相反する感覚が混ざり、意識が揺れる。

 

 発動前なら、ベアトリスが剥がせる。

 

 そう聞いた。

 

 だが、いくつ噛まれた。

 

 腕。

 

 肩。

 

 掠め傷もある。

 

 呪いは、どれだけ入った。

 

 間に合うのか。

 

 考えるだけで、背筋が凍る。

 

「立てますか」

 

 レムの声が近くでした。

 

 スバルは顔を上げる。

 

 レムが、彼のそばに立っていた。

 

 角はまだある。

 

 目には熱が残っている。

 

 だが、さっきのような危うい前のめりさは少し薄れていた。

 

「……立てるって言ったら、嘘になる」

 

「では、立たないでください」

 

「でも、子どもは」

 

「ラム姉様が村へ向かわせています」

 

「レムは」

 

「ここで群れを止めます」

 

「だから、それが怖いんだって……」

 

 スバルは苦笑しようとして、痛みに顔を歪めた。

 

「お前が一人で突っ込むの、見てらんねえよ」

 

 レムが息を呑む。

 

 その言葉には、理屈がない。

 

 根拠もない。

 

 ただの感情。

 

 だが、レムには、それが嘘には聞こえなかった。

 

「なぜ、そこまでレムを気にするのですか」

 

 低い問い。

 

 疑いとは少し違う。

 

 戸惑いを含んだ声。

 

 スバルは地面に片膝をつき、笑った。

 

「なんでだろうな」

 

 言えない。

 

 前に殺されたから怖い。

 

 それでも今のレムを見捨てたくない。

 

 そんなことは言えない。

 

 だから、別の言葉にする。

 

「お前に死なれたら、たぶん俺が後味悪い」

 

「また、寝覚めの話ですか」

 

「眠れない男にとっては重要なんだよ」

 

 レムは一瞬、言葉を失った。

 

 そして、わずかに目を伏せる。

 

「本当に、変な方です」

 

「よく言われる」

 

「でしょうね」

 

「そこは否定してくれよ」

 

 短いやり取り。

 

 その間にも、ウルガルムの群れは距離を詰めている。

 

 巨大な個体が低く構えた。

 

 次に来る。

 

 スバルにもわかった。

 

 レムが前へ出る。

 

 だが、今度は完全に一人で突っ込むのではない。

 

 スバルの位置を気にしている。

 

 ラムの風の射線を見ている。

 

 少しだけ、戻ってきた。

 

 スバルはそれに気づき、息を吐く。

 

 まだだ。

 

 まだ終わらない。

 

 けれど、少しずつ変わっている。

 

 その時だった。

 

 夜空の上から、強烈な魔力の気配が落ちてきた。

 

 森の空気が一変する。

 

 ウルガルムたちが一斉に空を見上げる。

 

 レムも、ラムも、スバルも同じように顔を上げた。

 

 空に、道化のような影が浮かんでいた。

 

 ロズワール。

 

 派手な服を翻し、夜の空に立つように浮かんでいる。

 

「いやぁ、ずいぶん賑やかな夜になっているねぇ」

 

 いつもの間延びした声。

 

 だが、そこに含まれる魔力の圧は冗談ではなかった。

 

 スバルは、思わず口を開けた。

 

「ロズワール……」

 

 ロズワールの手が、軽く振られる。

 

 色とりどりの魔法光が、夜空に咲いた。

 

 次の瞬間、森が爆ぜた。

 

 炎。

 

 風。

 

 光。

 

 それらがウルガルムの群れを容赦なく薙ぎ払っていく。

 

 巨大な個体が吠える。

 

 だが、その声も魔法の轟音に飲まれた。

 

 レムが即座にスバルを庇うように下がる。

 

 ラムが風で余波を逸らす。

 

 スバルは地面に座り込んだまま、ただその光景を見ていた。

 

 圧倒的だった。

 

 自分たちが必死に抗っていた群れが、一方的に焼かれ、砕かれ、吹き飛ばされていく。

 

 ロズワールの魔法は、森の中の魔獣だけを的確に撃ち抜いていた。

 

 やがて、巨大なウルガルムが崩れ落ちる。

 

 赤い目から光が消える。

 

 群れの唸り声が、ひとつずつ消えていく。

 

 夜の森に、静けさが戻った。

 

 スバルは、しばらく何も言えなかった。

 

 助かった。

 

 その実感が遅れてやってくる。

 

 同時に、腕と肩の痛みが一気に強くなった。

 

「っ、ぐ……!」

 

「スバル様!」

 

 レムが駆け寄る。

 

 スバルは噛まれた腕を押さえた。

 

 血が止まらない。

 

 傷口が熱い。

 

 そして、体の奥がどんどん冷たくなっていく。

 

「呪い……」

 

 レムの顔が強張る。

 

「すぐに戻ります。ベアトリス様のところへ」

 

「子どもは……」

 

「全員、村へ向かわせました。ラム姉様が確認しています」

 

「そっか……」

 

 スバルは息を吐いた。

 

「よかった」

 

「よくありません」

 

 レムの声が震えていた。

 

 わずかに。

 

 本当にわずかに。

 

「あなたは、何度噛まれたと思っているのですか」

 

「数える余裕なかった」

 

「冗談を言っている場合ではありません」

 

「冗談言わないと……怖いんだよ」

 

 スバルは正直に言った。

 

 レムが言葉を失う。

 

「怖い。痛いし、寒いし、死にたくねえ。だから、喋ってないと無理」

 

 死にたくない。

 

 それは言える。

 

 死に戻りの秘密ではない。

 

 ただの本音。

 

 スバルは笑おうとした。

 

 失敗した。

 

「戻ろうぜ。ベアトリスなら、なんとかしてくれるんだろ」

 

「はい」

 

 レムは即座に答えた。

 

「必ず」

 

 その言葉に、スバルは少しだけ目を細める。

 

 必ず。

 

 レムがそう言った。

 

 それだけで、胸の奥が少し温かくなる。

 

 怖いのに。

 

 まだ、怖いのに。

 

 それでも、今のレムの声は信じたいと思ってしまった。

 

 ロズワールが降りてくる。

 

「おやおや、スバルくん。ずいぶん派手にやられたねぇ」

 

「見りゃわかるだろ……」

 

「うん、よぉーくわかるとも。急いだ方がいい。呪いが回る前にね」

 

「軽いな、言い方……」

 

「重く言えば治るなら、そうするけれどねぇ」

 

「くそ……正論っぽいの腹立つ……」

 

 スバルは悪態をついた。

 

 だが、もう立てない。

 

 レムが彼を支えようとする。

 

 スバルの体が一瞬強張った。

 

 レムはそれに気づいた。

 

 彼女の表情に、ほんの少し影が落ちる。

 

「……レムが触れても、大丈夫ですか」

 

 その問いに、スバルは息を詰めた。

 

 前なら、反射的に怯えただろう。

 

 今も怖い。

 

 でも。

 

 今、彼女は助けようとしている。

 

 スバルは、震えながら頷いた。

 

「大丈夫……たぶん」

 

「たぶん、ですか」

 

「俺の大丈夫は、だいたいたぶんだ」

 

「信用できませんね」

 

「だろうな」

 

 レムは、慎重にスバルを支えた。

 

 スバルは歯を食いしばる。

 

 怖さは消えない。

 

 けれど、逃げなかった。

 

 ラムが戻ってくる。

 

「子どもたちは全員村へ戻したわ。大きな傷はない」

 

「よかった……」

 

 スバルの声がかすれる。

 

 その瞬間、視界が揺れた。

 

 力が抜ける。

 

 レムが支える。

 

「スバル様!」

 

「悪い……ちょっと、眠い」

 

「眠ってはいけません」

 

「わかってる……けど、きつい……」

 

 冷たい眠気。

 

 あの最初の屋敷の夜と同じ感覚。

 

 体の奥から何かが引き抜かれていく。

 

 スバルは必死に目を開けようとした。

 

 だが、瞼が重い。

 

 意識が沈む。

 

「ユイさん……」

 

 思わず、その名が漏れた。

 

 レムの腕の中で、スバルは薄く笑う。

 

「生きてるよな……」

 

 その問いは、ここにいないユイへ向けたものだった。

 

 レムには意味がわからない。

 

 けれど、スバルにとっては大事な確認だった。

 

 ユイは屋敷にいる。

 

 生きている。

 

 冷たくなっていない。

 

 今度は、まだ。

 

「……戻らなきゃ」

 

 スバルは呟いた。

 

「戻って、顔見ねえと……」

 

 レムは何も言わず、スバルを支え直した。

 

 ロズワールが軽く手を振る。

 

「急ごうか。ベアトリスに怒られる前にねぇ」

 

「もう怒ってると思うわ」

 

 ラムが淡々と言った。

 

「それは怖いねぇ」

 

 ロズワールは笑う。

 

 緊張感のない声だった。

 

 だが、その移動は速かった。

 

 スバルの意識は、屋敷へ戻るまで何度も途切れかけた。

 

 そのたびに、レムの声が聞こえた。

 

「眠ってはいけません」

 

「スバル様」

 

「もう少しです」

 

 その声に、スバルはなんとか意識を繋いだ。

 

 前は、その声が恐怖だった。

 

 今も怖さは残っている。

 

 でも、同時にその声が命綱になっている。

 

 矛盾している。

 

 苦しい。

 

 だけど、手放したくない。

 

 屋敷に戻ると、玄関にエミリアとユイがいた。

 

 スバルの血まみれの姿を見て、エミリアが顔を青くする。

 

「スバル!」

 

 ユイも一歩前へ出た。

 

 その顔には、表向きの動揺が浮かんでいる。

 

 スバルは、ぼやける視界の中でユイを見た。

 

 立っている。

 

 生きている。

 

 温かそうな顔で、自分を見ている。

 

「……よかった」

 

 スバルは呟いた。

 

 ユイの眉が震える。

 

「スバルくん?」

 

「生きてる……」

 

 そう言った瞬間、スバルの意識はふっと沈みかけた。

 

 だが、すぐにベアトリスの声が飛んだ。

 

「眠るなと言っているのよ、この馬鹿!」

 

 強い力で、胸元を掴まれる。

 

 スバルは強引に意識を引き戻された。

 

「ぐえっ……!」

 

「呪いを何重に受けているのよ。馬鹿にもほどがあるかしら」

 

「開口一番が……罵倒……」

 

「罵倒されるだけのことをしているのよ」

 

 ベアトリスはスバルの腕と肩を確認し、顔をしかめた。

 

「本当に面倒な状態かしら」

 

「助かる……?」

 

「助けるのよ。だから黙って耐えなさい」

 

「優しいのか怖いのか……」

 

「怖い方が効くなら、怖くしてやるかしら」

 

「やめてください……」

 

 スバルは力なく答えた。

 

 ベアトリスが魔力を流し込む。

 

 傷口の奥に絡みついた冷たいものが、引き剥がされていく。

 

 痛い。

 

 噛まれた時とは別の痛み。

 

 体の内側を爪でこそげられているような感覚。

 

「っ、ぐ、ああああ……!」

 

「暴れるなかしら!」

 

「無理、痛い、これ痛いって!」

 

「呪いを剥がしているのだから当然なのよ!」

 

 スバルは歯を食いしばる。

 

 涙が滲む。

 

 エミリアが手を握ってくる。

 

 ユイもそばにいる。

 

 レムは少し離れた場所で、じっとスバルを見ている。

 

 ラムは腕を組み、静かに見守っている。

 

 スバルは痛みに震えながら、それでも思った。

 

 いる。

 

 みんな、いる。

 

 ユイもいる。

 

 レムもいる。

 

 エミリアもいる。

 

 誰も冷たくなっていない。

 

 誰も消えていない。

 

 それだけで、痛みに耐えられる気がした。

 

 長い時間のようで、実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。

 

 ベアトリスが最後に息を吐く。

 

「終わったのよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、スバルの体から力が抜けた。

 

「……助かった?」

 

「今はね」

 

「今は、か」

 

「無茶を繰り返せば、次は知らないのよ」

 

「肝に銘じる……」

 

「本当に銘じる気がある顔ではないかしら」

 

「あるよ……たぶん」

 

「たぶんをつけるななのよ」

 

 ベアトリスは呆れたように言った。

 

 スバルは力なく笑った。

 

 その後、傷の手当てが行われた。

 

 血は止まり、呪いも剥がされた。

 

 体力は限界だったが、命は繋がっている。

 

 子どもたちも、屋敷へ運ばれた者はベアトリスが確認した。

 

 森で救出した子どもたちに致命的な呪いは残っていなかった。

 

 魔獣の群れも、ロズワールの魔法で大半が討たれた。

 

 原因は潰えた。

 

 少なくとも、この夜の危機は終わった。

 

 スバルはベッドに横たえられた。

 

 今度は、眠るのが怖くなかった。

 

 完全に怖くないわけではない。

 

 それでも、あの冷たい眠気とは違う。

 

 ただ疲れている。

 

 ただ、生きている体が休みを求めている。

 

 エミリアがそばに座り、静かに言った。

 

「スバル、無茶しすぎよ」

 

「知ってる」

 

「本当に心配したんだから」

 

「ごめん」

 

「謝ればいいってものじゃないわ」

 

「うん」

 

 素直に頷くと、エミリアは少し困った顔をした。

 

「そう素直にされると、怒りづらいわ」

 

「怒られないために素直にしてる」

 

「ずるい」

 

「ごめん」

 

「また謝った」

 

 エミリアは小さく息を吐いた。

 

 でも、その表情は柔らかかった。

 

 ユイが、反対側に立っている。

 

「生きて帰ってきたわね」

 

「ああ」

 

 スバルは、ユイを見る。

 

 温かい。

 

 生きている。

 

 今度は冷たくない。

 

「ユイさんも、生きてる」

 

 言ってから、少しだけ笑う。

 

「変なこと言ってるな、俺」

 

「そうね。でも、今は許してあげる」

 

「頼れるお姉さんだから?」

 

「ええ。頼れるお姉さんだから」

 

 ユイは微笑む。

 

 その笑顔に、スバルは救われた。

 

 そしてユイは、内側で静かに笑う。

 

 よく頑張ったね、スバルくん。

 

 今回は、ちゃんと救えた。

 

 私も、子どもたちも、自分自身も。

 

 レムのことも少しだけ信じられた。

 

 希望を掴んだ顔をしている。

 

 とても綺麗。

 

 でも、忘れないで。

 

 あなたが掴んだ希望は、守るものが増えたということ。

 

 増えた分だけ、次に失う恐怖も増える。

 

 あなたはこれから、もっと曇れる。

 

 ユイは、そんな内心を一切表に出さない。

 

 ただ、優しくスバルの額に手を置いた。

 

「おやすみなさい、スバルくん」

 

 スバルは一瞬だけ目を開けた。

 

 眠る。

 

 その言葉に、まだ少し怖さがある。

 

 けれど、今は目の前にユイがいる。

 

 エミリアがいる。

 

 レムも、扉の近くに立っている。

 

 ラムもいる。

 

 ベアトリスの不機嫌そうな声も、少し離れたところから聞こえる。

 

 この朝は続く。

 

 そう思えた。

 

「……おやすみ」

 

 スバルは、ようやく目を閉じた。

 

 今度の眠りは、死ではなかった。

 

 ただ、生きている者が疲れ果てて落ちる、深い眠りだった。

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