Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十四話 続いている朝

次に目を覚ました時、スバルはまず、息をした。

 

 吸う。

 

 吐く。

 

 胸が上下する。

 

 痛みがある。

 

 腕にも、肩にも、噛まれた場所の熱が残っている。

 

 喉は乾いていて、体は鉛のように重い。

 

 けれど、痛い。

 

 重い。

 

 苦しい。

 

 それらすべてが、スバルにひとつの事実を突きつけていた。

 

 生きている。

 

「……戻って、ない」

 

 掠れた声で呟いた。

 

 白い天蓋。

 

 薬草の匂い。

 

 ロズワール邸の客室。

 

 ベアトリスに怒鳴られながら呪いを剥がされた記憶。

 

 エミリアの手。

 

 ユイの声。

 

 レムの「眠ってはいけません」という声。

 

 全部が、昨日の続きとして残っている。

 

 死んでいない。

 

 死に戻っていない。

 

 時間は、続いていた。

 

「……っ」

 

 その事実に、胸の奥が詰まった。

 

 泣きそうになった。

 

 けれど、涙が出る前に扉の方から声がした。

 

「起きたのね、バルス」

 

 ラムだった。

 

 扉の前に立ち、いつものように涼しい顔をしている。

 

 手には水差しと、たたまれた布。

 

「……おはよう、ラム」

 

「ええ。寝起きの顔がひどいわね」

 

「目覚めて最初に聞く言葉じゃねえ……」

 

「口が動いているなら十分よ」

 

「無事判定が雑すぎる」

 

「ベアトリス様も似たようなことを言っていたわ。死んでいないなら、あとは寝ていれば治るそうよ」

 

「言い方が乱暴だけど、ベア子らしいな……」

 

「その呼び方を本人の前で言ったら、たぶん治る前に別の怪我をするわ」

 

「肝に銘じます」

 

 軽口を返せた。

 

 それだけで、スバルは少しだけ安心した。

 

 ラムは寝台の横に水を置き、スバルの顔色を見た。

 

「飲める?」

 

「腕が痛い」

 

「でしょうね」

 

「手伝ってくれる感じ?」

 

「仕方ないわね」

 

 ラムは淡々とした手つきでスバルの上体を少し起こし、水を飲ませた。

 

 冷たい水が喉を通る。

 

 それだけで、生き返るようだった。

 

「……助かった」

 

「気のせいよ」

 

「礼くらい受け取ってくれ」

 

「受け取ると癖になるでしょう」

 

「俺は野良猫か何かか」

 

「猫ほど可愛くはないわ」

 

「ひでえ」

 

 スバルが笑うと、肩の傷に響いた。

 

「いっ……」

 

「馬鹿ね」

 

「今のは俺もそう思う」

 

 ラムはたたんだ布を寝台の横に置き、それから短く言った。

 

「子どもたちは無事よ」

 

 スバルは、そこでようやく聞こうとしていたことを先に言われたのだと気づいた。

 

「……そっか」

 

「屋敷で診てもらった子も、村へ戻った子も、命に関わる状態ではないわ。ベアトリス様が確認済み」

 

「よかった……」

 

 息が抜けた。

 

 昨日の森。

 

 泣き声。

 

 牙。

 

 血。

 

 背中に感じた子どもの体温。

 

 全部が頭をよぎる。

 

 助かった。

 

 少なくとも、今回は。

 

「本当に、よかった」

 

「あなたの傷の方がよほどひどいけれど」

 

「俺はまあ、こうして喋れてるし」

 

「喋れるかどうかを基準にするなら、バルスはだいぶ丈夫ね」

 

「丈夫というか、悪運というか……」

 

 そこまで言って、スバルは言葉を止めた。

 

 死に戻り。

 

 その単語が、喉の奥に引っかかる。

 

 言えない。

 

 言ってはいけない。

 

 胸の奥が冷たくなる前に、スバルは無理やり息を整えた。

 

 ラムは、その一瞬の変化を見逃さなかったように目を細めた。

 

 だが、何も聞かなかった。

 

「レムは?」

 

 スバルは少し遅れて尋ねた。

 

 昨日の森で、自分を支えてくれた青い髪の少女。

 

 自分が怖がっていた相手。

 

 それでも、自分を助けてくれた相手。

 

 ラムは一拍置いて答えた。

 

「休んでいるわ。あの子も無茶をしたから」

 

「そっか」

 

「心配?」

 

「……心配だよ」

 

 素直に言った。

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 

 レムが怖い。

 

 それはまだ消えていない。

 

 夜の鎖の音は、記憶の中に残っている。

 

 だけど、心配しているのも本当だった。

 

 ラムは、ほんの少しだけ目を伏せる。

 

「そう」

 

「変か?」

 

「変ね」

 

「即答かよ」

 

「でも、悪い変ではないわ」

 

 ラムはそれだけ言うと、扉の方へ歩き出した。

 

 出ていく前に、少しだけ振り返る。

 

「エミリア様が後で来るわ。ユイも」

 

「ユイさんも?」

 

「ええ。あなたが起きるまで、何度も様子を見に来ていた」

 

「……そっか」

 

 胸が温かくなる。

 

 ユイは生きている。

 

 ちゃんとこの屋敷にいる。

 

 冷たくなっていない。

 

 それだけで、スバルはまた少し息がしやすくなる。

 

 ラムは、そんなスバルを見て、小さく言った。

 

「本当にわかりやすいわね」

 

「何が?」

 

「何でもないわ」

 

 そして、ラムは部屋を出た。

 

 しばらくして、エミリアが来た。

 

 扉を少しだけ開け、控えめに顔を覗かせる。

 

「入ってもいい?」

 

「もちろん。むしろ大歓迎」

 

「大歓迎できるほど元気なの?」

 

「心は大歓迎。体は要相談」

 

「もう」

 

 エミリアは困ったように笑いながら部屋へ入ってきた。

 

 その後ろにはユイもいる。

 

 白い髪。

 

 穏やかな微笑み。

 

 頼れるお姉さんの顔。

 

 スバルは、その姿を見て、無意識に息を吐いた。

 

「ユイさん」

 

「おはよう、スバルくん」

 

「おはよう」

 

「顔色は悪いけれど、目は覚めているみたいね」

 

「俺の生存判定、だいたい雑じゃない?」

 

「昨日の状態を見れば、喋れているだけで十分すごいわ」

 

「そう言われると反論しづらい」

 

 ユイが小さく笑う。

 

 その笑顔を見て、スバルの胸が緩む。

 

 エミリアは寝台の横に椅子を引き寄せ、座った。

 

「スバル。まずは、ありがとう」

 

「……いきなり?」

 

「ええ。子どもたちを助けてくれて。レムを助けてくれて。戻ってきてくれて」

 

 戻ってきてくれて。

 

 その言葉に、スバルは目を伏せた。

 

 戻ってきた。

 

 そうだ。

 

 今度は死んで戻ったのではない。

 

 ちゃんと生きて帰ってきた。

 

「俺だけじゃないよ」

 

 スバルは言った。

 

「レムもラムも、ベアトリスも、ロズワールもいた。俺は……まあ、囮になったり噛まれたりしてただけで」

 

「噛まれるのは手柄じゃないわ」

 

「だよな」

 

「でも、あなたがいなかったら助からなかった子もいる。だから、ありがとう」

 

 エミリアはまっすぐに言った。

 

 スバルは、そのまっすぐさに耐えきれなくなる。

 

 胸が痛い。

 

 嬉しいのに、苦しい。

 

 自分は何度も失敗している。

 

 この人たちを失っている。

 

 ユイの冷たい手を握った。

 

 エミリアの悲鳴を聞きながら崖から落ちた。

 

 レムに殺された記憶もある。

 

 それなのに、このエミリアは何も知らず、ありがとうと言ってくれる。

 

 それが、痛かった。

 

「……どういたしまして」

 

 やっと返した声は、小さかった。

 

 ユイは、その横顔を見ていた。

 

 スバルの顔が、ふっと歪んだのを見逃さない。

 

 感謝されて、傷ついている。

 

 救えたことに安堵して、それでも過去の失敗に刺されている。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 希望を掴んだ少年の顔は美しい。

 

 けれど、希望を掴んだ手に残る傷は、もっと美しい。

 

 ユイは表では何も知らない顔で、ただ優しく言った。

 

「よく頑張ったわね」

 

 スバルは、少しだけ笑った。

 

「子ども扱いされてる?」

 

「怪我人扱いよ」

 

「それなら仕方ない」

 

 その時、扉が控えめに叩かれた。

 

 エミリアが振り向く。

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 

 入ってきたのはレムだった。

 

 青い髪。

 

 いつものメイド服。

 

 表情は静かだが、どこか硬い。

 

 手には替えの包帯と、手当ての道具が載った盆を持っている。

 

 スバルは、反射的に体を強張らせた。

 

 ほんの少し。

 

 だが、レムにはわかった。

 

 彼女は扉の近くで足を止める。

 

「……失礼します」

 

 この時の声は、まだいつものレムだった。

 

 丁寧で、距離があって、客人へ向ける声。

 

 スバルは、自分の反応に気づいて唇を噛む。

 

 まだ怖い。

 

 完全には消えない。

 

 それでも、逃げたくはない。

 

「レム」

 

「はい」

 

「来てくれて、ありがとな」

 

 レムの目が少しだけ揺れた。

 

「いえ。手当ての時間ですので」

 

「ああ。そっか」

 

 淡々とした返事。

 

 けれど、レムはすぐには近づかなかった。

 

 スバルが怖がっているのを、わかっているからだ。

 

 その配慮が、逆に胸に刺さる。

 

「大丈夫」

 

 スバルは言った。

 

 自分に言い聞かせるように。

 

「近くに来てくれていい」

 

 レムは一拍置いてから、ゆっくり近づいた。

 

 寝台の横に盆を置き、包帯を確認する。

 

 指先がスバルの腕に触れる直前、彼女は一度止まった。

 

「触れます」

 

「お、おう」

 

 律儀に予告してから、レムは包帯を外し始めた。

 

 傷が露わになる。

 

 噛み跡。

 

 赤黒く腫れた皮膚。

 

 スバル自身でも見たくないほどひどい。

 

 レムの表情が、わずかに曇る。

 

「……痛みますか」

 

「まあ、見た目通りには」

 

「申し訳ありません」

 

「なんでそこで謝るんだよ」

 

 スバルは思わず言った。

 

 レムの手が止まる。

 

「昨日、レムがもっと冷静に動けていれば、スバル様が庇う必要はありませんでした」

 

「違う」

 

 即答した。

 

 レムが顔を上げる。

 

 スバルは、腕の痛みをこらえながら続けた。

 

「俺が勝手に動いた。お前が悪いんじゃない」

 

「ですが」

 

「ですがじゃない」

 

 声に力が入る。

 

 エミリアが少し心配そうに見た。

 

 ユイは黙っている。

 

「俺は弱いし、怖がりだし、正直、まだレムのことも怖い」

 

 レムの瞳が揺れる。

 

 スバルは目を逸らさなかった。

 

「でも、あそこでお前が噛まれるのを見たくなかった。だから動いた。それだけだ。俺の勝手を、お前の罪にするな」

 

 部屋が静かになった。

 

 レムは包帯を持ったまま、動かない。

 

 その表情は読みにくい。

 

 だが、青い瞳の奥に、確かに何かが揺れていた。

 

「……スバル様は」

 

「ん?」

 

「本当に、変な方です」

 

「それ、昨日も言われた気がする」

 

「何度でも言います」

 

「褒めてる?」

 

「わかりません」

 

「そこはわかってくれ」

 

 レムは、ほんの少しだけ息を吐いた。

 

 笑ったのかもしれない。

 

 本当に小さく。

 

 それでも、スバルにはそう見えた。

 

 包帯が巻き直される。

 

 痛い。

 

 だが、その手つきは丁寧だった。

 

 前の記憶のレムとは違う。

 

 同じ人間なのに、違う。

 

 そのことが、まだスバルを混乱させる。

 

 けれど、今この瞬間のレムの手が優しいのは、本当だった。

 

 手当てが終わると、レムは一歩下がった。

 

「終わりました」

 

「ありがとな」

 

「……はい」

 

 短い返事。

 

 そのあと、少し沈黙してから、レムは小さく言った。

 

「スバル様」

 

「ん?」

 

「その……」

 

 珍しく、レムが言葉に迷っていた。

 

 スバルは黙って待つ。

 

 レムは目を伏せ、それからもう一度スバルを見た。

 

「スバル君、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 エミリアが目を瞬かせる。

 

 ラムはいない。

 

 ユイは静かに見ている。

 

 スバルは一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 

「……え?」

 

「嫌でしたら、今まで通りにいたします」

 

「いや、嫌じゃない。嫌じゃないけど……急に?」

 

 レムは少しだけ視線を下げる。

 

「スバル様は、客人としてだけ扱うには……少し、難しい方です」

 

「それ褒めてる?」

 

「わかりません」

 

「またそれかよ」

 

「ただ」

 

 レムは続けた。

 

「昨日、森であなたはレムを助けました。レムは、それを忘れません。ですから、その……少しだけ、呼び方を変えたいと思いました」

 

 スバルは黙った。

 

 胸の奥が、じんと熱くなる。

 

 怖い。

 

 まだ怖い。

 

 でも、嬉しい。

 

 その二つが同時に存在して、どう返せばいいかわからなくなる。

 

「……いいよ」

 

 スバルは、やっと言った。

 

「スバル君で」

 

 レムの瞳が、ほんの少し柔らかくなった。

 

 そこから、レムの声が少しだけ変わった。

 

 丁寧さは残っている。

 

 けれど、客人へ向ける硬さは、少しだけほどけていた。

 

「はい。スバル君」

 

 その呼び方は、まだぎこちなかった。

 

 けれど、確かに変わった。

 

 スバルは、くすぐったさに耐えきれず、視線を逸らす。

 

「なんか、照れるな」

 

「やめますか?」

 

「いや、やめなくていい」

 

「はい」

 

 レムは小さく頷いた。

 

 そして、改めて言う。

 

「おかえり、スバル君」

 

 スバルは、昨日の帰還時に聞いた言葉を思い出した。

 

 胸の奥が、また少し熱くなる。

 

「ただいま」

 

 今度は、前より少しだけ自然に言えた。

 

 ユイは、そのやり取りを見ていた。

 

 レムがスバルへ向ける視線が、変わり始めている。

 

 疑いだけではない。

 

 警戒だけでもない。

 

 罪悪感。

 

 感謝。

 

 困惑。

 

 そして、ほんの小さな信頼の芽。

 

 スバルの方も同じだ。

 

 恐怖が消えたわけではない。

 

 でも、逃げていない。

 

 向き合おうとしている。

 

 それは、とても良い。

 

 積み上がっていく。

 

 関係が。

 

 信頼が。

 

 守りたいものが。

 

 ユイは内心で、甘く笑った。

 

 高く積み上がったものほど、崩れた時によく響く。

 

 午後になって、ロズワールが顔を出した。

 

 派手な服。

 

 道化めいた化粧。

 

 相変わらず、何を考えているのかわからない笑み。

 

「やぁ、スバルくん。目覚めたようで何よりだねぇ」

 

「おかげさまで、死にかけたけどな」

 

「生きているなら、結果は上々と言えるだろうねぇ」

 

「軽いな、相変わらず」

 

「重くしたところで、君の傷が早く治るわけでもないからね」

 

「それっぽい正論で流すな」

 

 ロズワールは笑った。

 

 ユイは、その横顔を静かに見ていた。

 

 疑っているわけではない。

 

 少なくとも、ユイにとってロズワール・L・メイザースという男は、疑う対象ではなかった。

 

 知っている対象だった。

 

 道化の仮面。

 

 掴ませない口調。

 

 エミリアを王選へ押し上げる後援者としての顔。

 

 そして、その奥でたったひとつの願いのために、すべてを盤面へ置く男。

 

 昨日、彼が最後に現れたことにも、ユイは疑問を抱かない。

 

 なぜなら、そういう男だと知っているからだ。

 

 偶然ではない。

 

 善意だけでもない。

 

 必要な時に、必要な分だけ手を出す。

 

 駒が生き残る程度に。

 

 盤面が壊れない程度に。

 

 それがロズワールだ。

 

 もちろん、今ここでそれを口にする気はなかった。

 

 ユイはただ、頼れるお姉さんの顔でそこに立つ。

 

 何も知らないふりをして。

 

 ロズワールの演技に、こちらも演技を重ねる。

 

「さて」

 

 ロズワールは、わざとらしく手を広げた。

 

「君の働きには、報いが必要だ。何か望みはあるかい?」

 

「報い?」

 

「もちろん。村の子どもたちを救い、レムを引き戻し、魔獣騒ぎの解決に大きく貢献した。君が自分をどう評価するかはともかく、領主としては見過ごせない功績だよ」

 

「俺だけじゃないけどな」

 

「それでも、君も含まれている」

 

 スバルは黙った。

 

 報酬。

 

 望み。

 

 以前なら、勢いでふざけた願いを言ったかもしれない。

 

 エミリアとのデート。

 

 膝枕。

 

 そういう欲がないわけではない。

 

 いや、かなりある。

 

 だが、今のスバルの中には、それ以上にはっきりしたものがあった。

 

「なら、お願いがある」

 

「聞こうじゃないか」

 

「この屋敷で働かせてほしい」

 

 部屋の空気が少し変わった。

 

 エミリアが目を瞬かせる。

 

 レムも、スバルを見る。

 

 スバルは続けた。

 

「俺は、何もできない。文字も読めない。戦えば足手まといだし、魔獣相手には囮になるくらいしかできない。昨日、それを思い知った」

 

 腕が痛む。

 

 森の記憶が蘇る。

 

「でも、何もできないままでいるのは嫌だ。ここにいるなら、ちゃんと役に立てるようになりたい。だから、働かせてほしい」

 

 ロズワールは、細い目でスバルを見た。

 

「それが報酬でいいのかい?」

 

「いい」

 

「君にとっては、苦労を増やすだけの願いにも見えるけれどねぇ」

 

「苦労はするだろうな。でも、何もできないよりはいい」

 

 スバルは、レムを見る。

 

「レムとラムに、仕事を教わりたい」

 

 レムは、少しだけ戸惑った顔をした。

 

「レムたちが?」

 

「ああ。迷惑かけると思うけど、お願いします」

 

 スバルは頭を下げた。

 

 腕が痛んで、顔が少し歪む。

 

 それでも下げた。

 

 レムは、しばらく黙っていた。

 

 そして、静かに頷く。

 

「わかった。できる限り、力になるね、スバル君」

 

 その呼び方と口調に、スバルはまた少しだけ照れた。

 

「……よろしく」

 

 ロズワールは笑った。

 

「よろしい。では、スバルくんには体が治り次第、屋敷の使用人見習いとして働いてもらおう」

 

「助かる」

 

「ただし、今は休むことだねぇ。君が動き回ると、ベアトリスに怒られるのは私だから」

 

「そこ気にするのかよ」

 

「ベアトリスの機嫌を損ねるのは、なかなか面倒だからね」

 

「ちょっとわかる」

 

 ロズワールは笑いながら部屋を出ていった。

 

 その背中を、ユイは黙って見送る。

 

 軽い。

 

 あまりにも軽い。

 

 けれど、その軽さの裏にある重さを、ユイは知っている。

 

 ロズワールは盤面を見ている。

 

 スバルを。

 

 エミリアを。

 

 レムを。

 

 ラムを。

 

 この屋敷にいる者たちを。

 

 そして、自分さえも。

 

 どこまでが想定内で、どこからが想定外なのか。

 

 それを測っている。

 

 なら、ユイも同じように測ればいい。

 

 原作知識という名の、他人には見えない地図を抱えたまま。

 

 ロズワールが描く盤面の上で、知らないふりを続ける。

 

 道化が道化を演じるなら。

 

 こちらは、頼れるお姉さんを演じればいい。

 

 夕方。

 

 エミリアに連れられて、スバルは少しだけ庭に出た。

 

 もちろん、自力ではほとんど歩けない。

 

 レムに支えられ、エミリアに心配され、ユイに見守られながら、ほんの短い距離を移動しただけだ。

 

 それでも、外の空気は気持ちよかった。

 

 庭には花が咲いていた。

 

 陽は傾き、風は柔らかい。

 

 スバルは、ベンチに腰を下ろす。

 

「外に出ただけで大仕事だな」

 

「怪我人なんだから当然よ」

 

 エミリアが隣に座る。

 

「無理をしないって、覚えた?」

 

「覚えた。実行できるかは別問題」

 

「そこを実行して」

 

「善処します」

 

「信用できないわ」

 

「みんなに言われる」

 

 エミリアは呆れたように笑った。

 

 それから、少し迷うようにして、膝の上をぽんと叩いた。

 

 スバルは固まる。

 

「……エミリアたん?」

 

「あなた、ずっと我慢している顔をしているもの」

 

「え?」

 

「怖かったんでしょう? 痛かったんでしょう? でも、みんなの前では笑おうとしていたでしょう?」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 見抜かれている。

 

 思ったよりずっと、エミリアは見ている。

 

「少しだけなら、甘えてもいいわ」

 

 エミリアは、頬を赤くしながらも言った。

 

「膝、使う?」

 

 スバルは、冗談を言おうとした。

 

 いつものように軽口で返そうとした。

 

 エミリアたんの膝枕とかご褒美すぎる、などと。

 

 だが、声が出なかった。

 

 喉が震える。

 

 目の奥が熱くなる。

 

 なぜだろう。

 

 その一言だけで、張り詰めていたものが切れそうになった。

 

「……いいのかよ」

 

「ええ」

 

「俺、たぶん、変な顔するぞ」

 

「今さらでしょう?」

 

「ひどい」

 

「でも、本当」

 

 スバルは、ゆっくりと体を横に倒した。

 

 頭が、エミリアの膝に乗る。

 

 柔らかい。

 

 温かい。

 

 死ではない。

 

 戻りではない。

 

 終わりではない。

 

 生きて続いた時間の中で、自分はここにいる。

 

「……っ」

 

 その瞬間、涙がこぼれた。

 

 止まらなかった。

 

 エミリアが息を呑む。

 

「スバル……」

 

「悪い」

 

 スバルは震える声で言った。

 

「ちょっとだけ。ちょっとだけだから」

 

 ちょっとだけ。

 

 そう言いながら、涙は止まらない。

 

 怖かった。

 

 痛かった。

 

 死にたくなかった。

 

 レムが怖かった。

 

 ラムも怖かった。

 

 眠るのも怖かった。

 

 ユイが冷たくなった朝を覚えている。

 

 エミリアの悲鳴を聞きながら落ちたことを覚えている。

 

 誰にも言えない。

 

 誰にも言えないまま、何度も壊れそうになった。

 

 それでも、今は続いている。

 

 みんな生きている。

 

 自分も生きている。

 

 だから、泣けた。

 

 エミリアは何も聞かなかった。

 

 ただ、スバルの髪に手を置いた。

 

 優しく撫でる。

 

「頑張ったわね」

 

 その言葉で、スバルはさらに泣いた。

 

 声を殺しきれず、肩を震わせる。

 

 少し離れたところで、レムが立っていた。

 

 彼女は何も言わない。

 

 ただ、泣いているスバルを見ていた。

 

 そして小さく、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

 

「スバル君……」

 

 その呼び方は、もう客人へのものではなかった。

 

 ユイは、少し離れた場所でそれを見ていた。

 

 表情は穏やか。

 

 頼れるお姉さんとして、傷ついた少年を見守る顔。

 

 だが、内側では違う。

 

 ああ。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 やっと泣けたね、スバルくん。

 

 怖かったね。

 

 痛かったね。

 

 誰にも言えなくて、苦しかったね。

 

 でも、泣ける場所ができた。

 

 甘えられる人ができた。

 

 帰る場所ができた。

 

 それは救いだ。

 

 そして同時に、鎖だ。

 

 失いたくないものが増えるほど、人は弱くなる。

 

 守りたいものが増えるほど、折れた時に深く曇る。

 

 ユイは、静かに目を細めた。

 

 ロズワールの盤面。

 

 スバルの死に戻り。

 

 自分の虚飾。

 

 この屋敷に積み上がり始めた信頼。

 

 それらが絡み合って、これから先、どんな顔をスバルにさせるのか。

 

 想像するだけで、胸の奥が甘く疼く。

 

 それでも今は、何もしない。

 

 今は、ただ見守る。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 スバルが泣き疲れるまで。

 

 エミリアの膝の上で、スバルはようやく声を漏らした。

 

「……怖かった」

 

 小さな声。

 

 誰に向けたのかもわからない声。

 

 エミリアは、ただ頷いた。

 

「うん」

 

「痛かった」

 

「うん」

 

「でも、みんな……生きてる」

 

「ええ」

 

「よかった」

 

 スバルは、涙に濡れた顔で笑った。

 

「本当に、よかった」

 

 その笑顔は、ひどく不格好だった。

 

 けれど、今までのどの笑顔よりも、少しだけ素直だった。

 

 ユイは、その笑顔を胸の奥にしまう。

 

 いつか曇らせるために。

 

 いつか壊すために。

 

 けれど、今だけは。

 

 彼が掴んだ朝を、優しい顔で見守っていた。

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