彼が掴んだ朝を、優しい顔で見守っていた。
その日から、ロズワール邸の時間は少しずつ形を変えた。
スバルは、しばらく寝台の上から動けなかった。
当然だった。
ウルガルムに噛まれた傷は浅くない。
呪いはベアトリスが剥がしたとはいえ、体そのものに残った損耗までは一瞬で消えない。
腕を動かせば痛む。
肩を捻れば息が詰まる。
立ち上がるだけで眩暈がする。
それでも、スバルは朝になるたびに呼吸を確かめた。
吸う。
吐く。
胸が動く。
痛い。
生きている。
その確認をしてからでなければ、一日を始められなかった。
それを、誰も知らない。
いや、誰も知らない顔をしていた。
ユイだけは、スバルが毎朝ほんの一瞬だけ天井を見上げ、喉を震わせるのを知っている。
戻っていないか。
続いているか。
その確認をしているのだと、知っている。
けれど、彼女は何も言わなかった。
頼れるお姉さんとして、ただ水を差し出すだけだった。
「おはよう、スバルくん」
「……おはよう、ユイさん」
「今日は昨日より顔色がいいわ」
「ほんとか?」
「ええ。昨日は死体みたいだったもの」
「比喩が怖いんだよなあ……」
「元気になった証拠ね。突っ込めているもの」
「俺の回復判定、みんな雑じゃない?」
そんな会話ができるようになった。
それだけで、スバルは少しずつ日常へ戻っていった。
最初の数日は、ベアトリスの監視下に置かれた。
スバル本人は監視という言葉を使うと怒られる気がしていたが、実際ほとんど監視だった。
部屋から出ようとすれば、扉の向こうにいつの間にか禁書庫の少女がいる。
勝手に歩こうとすれば、どこからともなく声が飛ぶ。
「動くなと言ったはずなのよ」
「いや、ちょっと廊下に」
「廊下に出たら次は階段、その次は庭、その次は村へ行くのが馬鹿の習性かしら」
「俺への理解が深い」
「反省しろなのよ」
ベアトリスはそう言いながら、傷の状態を診た。
口は悪い。
態度も悪い。
けれど、手当ては的確だった。
スバルはそれを少しずつ理解していった。
「なあ、ベア子」
「その呼び方はやめるのよ」
「じゃあ、ベアトリス」
「何かしら」
「助けてくれて、ありがとな」
言った瞬間、ベアトリスは露骨に顔をしかめた。
「気持ち悪いのよ」
「ひどくない?」
「急に素直になるななのよ。調子が狂うかしら」
「俺、感謝して罵倒される流れ多すぎない?」
「お前が罵倒されるようなことばかりするからなのよ」
そう言いながらも、ベアトリスは手を止めなかった。
スバルは、そんな彼女に少しだけ笑った。
死に戻りのことは言えない。
自分がどれだけ救われたかも、全部は伝えられない。
それでも、言える範囲の感謝は言いたかった。
それが今のスバルにできる、ほんの小さなことだった。
やがて、歩けるようになると、スバルは屋敷の仕事を教わり始めた。
初日は散々だった。
「バルス、雑巾の絞り方からやり直し」
「本当にそこからかよ!」
「そこからよ。床を拭く前に床を水浸しにする才能はあるようだけれど」
「才能扱いしないでほしい!」
ラムの指導は容赦がない。
少しでも遅れれば刺される。
間違えれば刺される。
正しくできても、もっと早くできるでしょうと刺される。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
言葉は厳しい。
けれど、ラムはスバルが傷に響かない範囲を見極めていた。
限界を越えそうになる前に、必ず休ませる。
本人は「バルスが倒れると掃除が増えるから」としか言わなかったが。
「姉様は優しいですね」
横で見ていたレムが言った。
その瞬間、ラムが淡々と振り向く。
「レム。余計なことを言うと、あなたにも仕事を増やすわ」
「はい。姉様」
レムはいつもの調子で頷く。
そして、スバルを見ると少しだけ表情を和らげた。
「スバル君、腕は痛みませんか?」
その呼び方に、スバルはまだ慣れない。
スバル様ではない。
スバル君。
そこにある距離の変化が、妙にくすぐったかった。
「大丈夫。たぶん」
「たぶんは信用できません」
「俺もそう思う」
「なら、痛む前に言ってください」
「了解」
丁寧ではある。
けれど、以前のような完全な距離ではない。
レムの言葉は、少し柔らかくなった。
客人へ向けるものではなくなった。
それが、スバルには嬉しくて、同時に怖かった。
近づくほど、失うのが怖くなる。
そのことを、スバルはもう知っている。
ユイは、その変化をそばで眺めていた。
レムがスバルへ向ける視線の温度。
スバルがその視線に照れながら、まだ少し怯える様子。
エミリアがそれを見て、ほっとしたように微笑む様子。
ラムが涼しい顔で全部見抜いている様子。
屋敷の空気は、明らかに変わっていた。
危険な場所だった屋敷が、少しずつ帰る場所になっている。
いい。
とてもいい。
スバルくん。
あなたはまた、大事なものを増やしている。
ユイは、そう思いながら何も言わない。
ただ、頼れるお姉さんとして手伝い、時折スバルが重いものを持とうとすれば横から取り上げた。
「俺、病人扱い長くない?」
「怪我人扱いよ」
「似たようなもんじゃない?」
「違うわ。病人は寝ているべき人。怪我人は無理をしてはいけない人」
「結果、俺が制限されるのは同じでは?」
「そうね」
「認めた」
ユイが微笑む。
スバルは少し不満そうにしながらも、彼女に逆らい切れない。
それもまた、屋敷の日常になっていった。
ロズワールは、相変わらずだった。
道化めいた声。
軽い振る舞い。
何もかもを冗談に包み、決して核心を見せない笑み。
スバルは、時折その態度に首を傾げた。
エミリアも、ロズワールの言動に振り回されて少し困った顔をすることがある。
レムとラムは、それぞれの距離感で主に従っている。
その中で、ユイだけは違った。
彼女はロズワールを疑ってはいない。
疑う必要がなかった。
ロズワール・L・メイザースがどういう人間なのか、彼女は知っている。
この男が、善意だけで動く存在ではないことも。
エミリアを王選に立たせるために、スバルを盤上へ置くことも。
必要ならば、傷も痛みも犠牲も見逃すことも。
だからこそ、ユイは何も言わなかった。
今ここでロズワールに踏み込んでも意味はない。
スバルくんは、まだ知らない。
エミリアさんも、まだ知らない。
レムさんも、ラムさんも、それぞれの忠誠と役割の中にいる。
ならば、私はただ見ていればいい。
頼れるお姉さんとして。
何も知らない顔で。
この道化が用意した舞台の上で、スバルくんがどんな顔をするのかを。
数日が経ち、スバルが多少動けるようになった頃。
ロズワールがエミリアを呼び出した。
応接間。
いつもの派手な主。
エミリア。
パック。
スバル。
ユイ。
レムとラムも控えている。
ロズワールは、いつもの調子で口を開いた。
「さて、エミリア様。王都から正式な呼び出しが来ているよ」
その言葉に、エミリアの表情が引き締まった。
「王都から?」
「うん。王選に関わる大事な場だねぇ。候補者たちが集う。避けるわけにはいかない」
王選。
その言葉に、スバルは眉を寄せた。
聞き覚えはある。
この国には王がいない。
次の王を選ぶ必要がある。
エミリアがその候補だということは聞いている。
だが、実感はなかった。
目の前のエミリアは、銀髪のハーフエルフで、優しくて、少し不器用で、困っている人を放っておけない少女だ。
その彼女が王になるかもしれない。
それを、スバルはまだうまく想像できなかった。
「エミリアたんが王都に行くってことか?」
「ええ」
エミリアが頷く。
「大事なことだから、行かないわけにはいかないわ」
「俺も行く」
ほとんど反射だった。
エミリアがすぐに首を振る。
「だめよ」
「なんで」
「あなた、まだ怪我が治りきっていないでしょう?」
「歩ける」
「歩けるのと、王都まで行って問題ないのは違うわ」
「でも」
「だめ」
エミリアの声は強かった。
スバルは言葉に詰まる。
彼女が本気で心配していることはわかる。
だからこそ、反論しにくい。
それでも、胸の奥に不安が湧く。
エミリアが離れる。
自分の見えない場所へ行く。
その間に何かが起きたら。
何かを失ったら。
戻るのか。
戻らないのか。
どこに戻るのか。
そんな考えが頭をよぎり、スバルは拳を握った。
ユイは、その顔を横から見た。
不安。
焦り。
置いていかれる恐怖。
スバルにとって、見えない場所は安全ではない。
自分が介入できない時間は、失敗の可能性そのものだ。
それも、彼が何度も死を経験したからこその歪み。
いい。
けれど、ここで放置すると壊れ方が早すぎる。
ユイは穏やかに口を開いた。
「私も王都へ同行していいかしら」
ロズワールの視線が、ゆっくりユイへ向いた。
「ユイくんも?」
「ええ。エミリアさんにはお世話になっているし、王都のことも知っておきたいわ。それに、スバルくんを屋敷に残すにしても、彼はきっと落ち着かないでしょう」
「俺の扱い」
「違う?」
「……違わない」
スバルは悔しそうに認めた。
エミリアは迷うようにユイを見る。
「ユイまで来るの? でも、あなたもまだ傷が……」
「もう大丈夫よ」
「大丈夫って言う人ほど無理をするのよ」
「それ、私だけの話ではないわね」
ユイがスバルを見る。
スバルは目を逸らした。
ロズワールは楽しそうに笑う。
「なら、こうしよう。エミリア様、私、レム、ユイくん。そしてスバルくんも同行する」
「ロズワール!」
エミリアが驚いたように声を上げた。
「スバルはまだ――」
「心配はわかるよ。けれど、王都には治癒術に長けた者もいる。道中はレムが面倒を見る。ユイくんもいる。無茶をしなければ問題は少ない」
「その無茶をしない、が一番信用できないのよ」
「そこは同感だねぇ」
「おい、領主様」
スバルが突っ込むと、ロズワールは肩をすくめた。
「ただ、スバルくんがここで留守番して、本当に大人しくしていると思うかい?」
沈黙。
エミリアがスバルを見る。
ユイがスバルを見る。
レムもスバルを見る。
ラムは最初から答えがわかっている顔をしている。
「……善処はする」
「その言い方が一番信用できないわ」
エミリアがため息をついた。
スバルは反論できない。
ロズワールは軽く手を叩いた。
「というわけで、同行を許可しよう。ただし、スバルくん」
「なんだよ」
「王都では、勝手に動かないこと」
「う」
「エミリア様の立場を忘れないこと」
「うう」
「そして、自分がまだ怪我人であることを忘れないこと」
「……はい」
スバルは渋々頷いた。
レムが横から柔らかく言う。
「スバル君。約束、守れますか?」
その呼び方に、スバルは少しだけ肩を揺らす。
「守る。たぶん」
「たぶんではだめです」
「守ります」
「はい」
レムは小さく頷いた。
丁寧だけれど、以前ほど遠くない。
その声が、スバルを少しだけ落ち着かせた。
ユイは、ロズワールの横顔を見た。
ロズワールがスバルの同行を許したことに、驚きはない。
むしろ、そうするだろうと思っていた。
この男は、スバルを盤面から外さない。
スバルが動くことで何かが起こると知っている。
あるいは、起こることを期待している。
ユイは、それを止めるつもりはなかった。
止めれば、スバルが見せるはずの顔が見られなくなる。
だから、彼女はただ優しく微笑む。
何も知らない顔で。
出発の日。
王都へ向かう竜車の前に、荷物が並べられた。
エミリアは少し緊張している。
パックはいつものように軽い調子で彼女の肩に乗っている。
ロズワールは派手な服で、旅装というより舞台衣装のようだった。
レムは荷物を確認し、ラムは屋敷に残る準備をしている。
スバルは、まだ包帯の残る腕を見下ろした。
「王都、か」
異世界に来て最初に放り込まれた場所。
エミリアと出会った場所。
フェルトとロム爺と出会った場所。
エルザに殺された場所。
ラインハルトに助けられた場所。
あの場所へ、また行く。
今度は違う立場で。
エミリアの付き添いとして。
ロズワール陣営の一人として。
ユイは隣に立ち、スバルの横顔を見た。
「怖い?」
「……少し」
スバルは正直に答えた。
「でも、行く」
「ええ」
「エミリアたんを一人にしたくないし、レムもいるし、ユイさんもいるし」
「私がいると安心?」
「する」
即答だった。
言ってから、スバルは少し照れたように目を逸らした。
「……まあ、すごく」
ユイは微笑む。
「そう。なら、頼れるお姉さんとして頑張らないとね」
「そこは本当に頼りにしてる」
「ええ。任せて」
内側で、ユイは静かに笑う。
王都。
次の舞台。
人が多く、視線が多く、思惑が多い場所。
スバルくん。
あなたはまた、たくさん間違えるかもしれない。
エミリアのために前に出て、傷つくかもしれない。
誰かに笑われ、誰かに否定され、誰かに叩き伏せられるかもしれない。
その時、あなたはどんな顔をするのかな。
ユイは、その期待を表情に出さない。
ただ優しく、スバルの隣に立つ。
レムが竜車の扉を開けた。
「スバル君、足元に気をつけてください」
「了解。怪我人待遇、継続中だな」
「当然です。無理をした前科が多すぎます」
「ぐうの音も出ない」
レムは少しだけ笑った。
その笑顔は控えめだったが、以前より近い。
スバルも小さく笑い返す。
エミリアは、それを見て少し安心したように目を細めた。
ラムは屋敷の前で腕を組む。
「バルス」
「ん?」
「王都で余計なことをしないように」
「なんで出発前の餞別が釘刺しなんだよ」
「必要だからよ」
「否定できない」
「レムに迷惑をかけすぎないこと」
「努力します」
「エミリア様にも」
「はい」
「ユイにも」
「はい」
「つまり全員に迷惑をかけないこと」
「俺の存在否定に近くない?」
「気のせいよ」
ラムは涼しい顔で言った。
スバルは肩を落としながらも、少し笑った。
竜車が動き出す。
ロズワール邸が少しずつ遠ざかっていく。
屋敷。
死の場所だった場所。
恐怖の場所だった場所。
そして今は、帰る場所になり始めた場所。
スバルは窓からそれを見つめた。
「……行ってきます」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
屋敷へか。
ラムへか。
ベアトリスへか。
過去の自分へか。
それとも、戻らずに続いているこの時間へか。
レムが隣で静かに言った。
「行ってきましょう、スバル君」
スバルは振り向く。
レムは柔らかく微笑んでいた。
まだ少しぎこちない。
けれど、確かな距離の近さがある。
「ああ」
スバルは頷いた。
「行こう」
ユイは向かいの席で、その二人を見ていた。
エミリアは少し緊張した顔で前を向き、パックがその頬をつついている。
ロズワールは目を細め、何を考えているかわからない笑みを浮かべている。
ユイには、その笑みの意味が少しだけわかる。
盤面は進む。
スバルは王都へ向かう。
エミリアも、王選の舞台へ立つ。
そしてロズワールは、きっとそれを望んでいる。
だから、ユイは何も言わない。
ただ、優しいお姉さんとして同じ竜車に乗る。
竜車は王都へ向かう。
次の舞台へ。
ユイは窓の外を見た。
空は高く、道は長い。
そして彼女だけが知っている。
スバルの朝は続いた。
けれど、続いた朝が優しいとは限らない。
王都には、また新しい曇りが待っている。
ユイは、頼れるお姉さんの顔で、静かに微笑んだ。