Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十五話 王都へ続く道

 彼が掴んだ朝を、優しい顔で見守っていた。

 

 その日から、ロズワール邸の時間は少しずつ形を変えた。

 

 スバルは、しばらく寝台の上から動けなかった。

 

 当然だった。

 

 ウルガルムに噛まれた傷は浅くない。

 

 呪いはベアトリスが剥がしたとはいえ、体そのものに残った損耗までは一瞬で消えない。

 

 腕を動かせば痛む。

 

 肩を捻れば息が詰まる。

 

 立ち上がるだけで眩暈がする。

 

 それでも、スバルは朝になるたびに呼吸を確かめた。

 

 吸う。

 

 吐く。

 

 胸が動く。

 

 痛い。

 

 生きている。

 

 その確認をしてからでなければ、一日を始められなかった。

 

 それを、誰も知らない。

 

 いや、誰も知らない顔をしていた。

 

 ユイだけは、スバルが毎朝ほんの一瞬だけ天井を見上げ、喉を震わせるのを知っている。

 

 戻っていないか。

 

 続いているか。

 

 その確認をしているのだと、知っている。

 

 けれど、彼女は何も言わなかった。

 

 頼れるお姉さんとして、ただ水を差し出すだけだった。

 

「おはよう、スバルくん」

 

「……おはよう、ユイさん」

 

「今日は昨日より顔色がいいわ」

 

「ほんとか?」

 

「ええ。昨日は死体みたいだったもの」

 

「比喩が怖いんだよなあ……」

 

「元気になった証拠ね。突っ込めているもの」

 

「俺の回復判定、みんな雑じゃない?」

 

 そんな会話ができるようになった。

 

 それだけで、スバルは少しずつ日常へ戻っていった。

 

 最初の数日は、ベアトリスの監視下に置かれた。

 

 スバル本人は監視という言葉を使うと怒られる気がしていたが、実際ほとんど監視だった。

 

 部屋から出ようとすれば、扉の向こうにいつの間にか禁書庫の少女がいる。

 

 勝手に歩こうとすれば、どこからともなく声が飛ぶ。

 

「動くなと言ったはずなのよ」

 

「いや、ちょっと廊下に」

 

「廊下に出たら次は階段、その次は庭、その次は村へ行くのが馬鹿の習性かしら」

 

「俺への理解が深い」

 

「反省しろなのよ」

 

 ベアトリスはそう言いながら、傷の状態を診た。

 

 口は悪い。

 

 態度も悪い。

 

 けれど、手当ては的確だった。

 

 スバルはそれを少しずつ理解していった。

 

「なあ、ベア子」

 

「その呼び方はやめるのよ」

 

「じゃあ、ベアトリス」

 

「何かしら」

 

「助けてくれて、ありがとな」

 

 言った瞬間、ベアトリスは露骨に顔をしかめた。

 

「気持ち悪いのよ」

 

「ひどくない?」

 

「急に素直になるななのよ。調子が狂うかしら」

 

「俺、感謝して罵倒される流れ多すぎない?」

 

「お前が罵倒されるようなことばかりするからなのよ」

 

 そう言いながらも、ベアトリスは手を止めなかった。

 

 スバルは、そんな彼女に少しだけ笑った。

 

 死に戻りのことは言えない。

 

 自分がどれだけ救われたかも、全部は伝えられない。

 

 それでも、言える範囲の感謝は言いたかった。

 

 それが今のスバルにできる、ほんの小さなことだった。

 

 やがて、歩けるようになると、スバルは屋敷の仕事を教わり始めた。

 

 初日は散々だった。

 

「バルス、雑巾の絞り方からやり直し」

 

「本当にそこからかよ!」

 

「そこからよ。床を拭く前に床を水浸しにする才能はあるようだけれど」

 

「才能扱いしないでほしい!」

 

 ラムの指導は容赦がない。

 

 少しでも遅れれば刺される。

 

 間違えれば刺される。

 

 正しくできても、もっと早くできるでしょうと刺される。

 

 しかし、不思議と嫌ではなかった。

 

 言葉は厳しい。

 

 けれど、ラムはスバルが傷に響かない範囲を見極めていた。

 

 限界を越えそうになる前に、必ず休ませる。

 

 本人は「バルスが倒れると掃除が増えるから」としか言わなかったが。

 

「姉様は優しいですね」

 

 横で見ていたレムが言った。

 

 その瞬間、ラムが淡々と振り向く。

 

「レム。余計なことを言うと、あなたにも仕事を増やすわ」

 

「はい。姉様」

 

 レムはいつもの調子で頷く。

 

 そして、スバルを見ると少しだけ表情を和らげた。

 

「スバル君、腕は痛みませんか?」

 

 その呼び方に、スバルはまだ慣れない。

 

 スバル様ではない。

 

 スバル君。

 

 そこにある距離の変化が、妙にくすぐったかった。

 

「大丈夫。たぶん」

 

「たぶんは信用できません」

 

「俺もそう思う」

 

「なら、痛む前に言ってください」

 

「了解」

 

 丁寧ではある。

 

 けれど、以前のような完全な距離ではない。

 

 レムの言葉は、少し柔らかくなった。

 

 客人へ向けるものではなくなった。

 

 それが、スバルには嬉しくて、同時に怖かった。

 

 近づくほど、失うのが怖くなる。

 

 そのことを、スバルはもう知っている。

 

 ユイは、その変化をそばで眺めていた。

 

 レムがスバルへ向ける視線の温度。

 

 スバルがその視線に照れながら、まだ少し怯える様子。

 

 エミリアがそれを見て、ほっとしたように微笑む様子。

 

 ラムが涼しい顔で全部見抜いている様子。

 

 屋敷の空気は、明らかに変わっていた。

 

 危険な場所だった屋敷が、少しずつ帰る場所になっている。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 スバルくん。

 

 あなたはまた、大事なものを増やしている。

 

 ユイは、そう思いながら何も言わない。

 

 ただ、頼れるお姉さんとして手伝い、時折スバルが重いものを持とうとすれば横から取り上げた。

 

「俺、病人扱い長くない?」

 

「怪我人扱いよ」

 

「似たようなもんじゃない?」

 

「違うわ。病人は寝ているべき人。怪我人は無理をしてはいけない人」

 

「結果、俺が制限されるのは同じでは?」

 

「そうね」

 

「認めた」

 

 ユイが微笑む。

 

 スバルは少し不満そうにしながらも、彼女に逆らい切れない。

 

 それもまた、屋敷の日常になっていった。

 

 ロズワールは、相変わらずだった。

 

 道化めいた声。

 

 軽い振る舞い。

 

 何もかもを冗談に包み、決して核心を見せない笑み。

 

 スバルは、時折その態度に首を傾げた。

 

 エミリアも、ロズワールの言動に振り回されて少し困った顔をすることがある。

 

 レムとラムは、それぞれの距離感で主に従っている。

 

 その中で、ユイだけは違った。

 

 彼女はロズワールを疑ってはいない。

 

 疑う必要がなかった。

 

 ロズワール・L・メイザースがどういう人間なのか、彼女は知っている。

 

 この男が、善意だけで動く存在ではないことも。

 

 エミリアを王選に立たせるために、スバルを盤上へ置くことも。

 

 必要ならば、傷も痛みも犠牲も見逃すことも。

 

 だからこそ、ユイは何も言わなかった。

 

 今ここでロズワールに踏み込んでも意味はない。

 

 スバルくんは、まだ知らない。

 

 エミリアさんも、まだ知らない。

 

 レムさんも、ラムさんも、それぞれの忠誠と役割の中にいる。

 

 ならば、私はただ見ていればいい。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 何も知らない顔で。

 

 この道化が用意した舞台の上で、スバルくんがどんな顔をするのかを。

 

 数日が経ち、スバルが多少動けるようになった頃。

 

 ロズワールがエミリアを呼び出した。

 

 応接間。

 

 いつもの派手な主。

 

 エミリア。

 

 パック。

 

 スバル。

 

 ユイ。

 

 レムとラムも控えている。

 

 ロズワールは、いつもの調子で口を開いた。

 

「さて、エミリア様。王都から正式な呼び出しが来ているよ」

 

 その言葉に、エミリアの表情が引き締まった。

 

「王都から?」

 

「うん。王選に関わる大事な場だねぇ。候補者たちが集う。避けるわけにはいかない」

 

 王選。

 

 その言葉に、スバルは眉を寄せた。

 

 聞き覚えはある。

 

 この国には王がいない。

 

 次の王を選ぶ必要がある。

 

 エミリアがその候補だということは聞いている。

 

 だが、実感はなかった。

 

 目の前のエミリアは、銀髪のハーフエルフで、優しくて、少し不器用で、困っている人を放っておけない少女だ。

 

 その彼女が王になるかもしれない。

 

 それを、スバルはまだうまく想像できなかった。

 

「エミリアたんが王都に行くってことか?」

 

「ええ」

 

 エミリアが頷く。

 

「大事なことだから、行かないわけにはいかないわ」

 

「俺も行く」

 

 ほとんど反射だった。

 

 エミリアがすぐに首を振る。

 

「だめよ」

 

「なんで」

 

「あなた、まだ怪我が治りきっていないでしょう?」

 

「歩ける」

 

「歩けるのと、王都まで行って問題ないのは違うわ」

 

「でも」

 

「だめ」

 

 エミリアの声は強かった。

 

 スバルは言葉に詰まる。

 

 彼女が本気で心配していることはわかる。

 

 だからこそ、反論しにくい。

 

 それでも、胸の奥に不安が湧く。

 

 エミリアが離れる。

 

 自分の見えない場所へ行く。

 

 その間に何かが起きたら。

 

 何かを失ったら。

 

 戻るのか。

 

 戻らないのか。

 

 どこに戻るのか。

 

 そんな考えが頭をよぎり、スバルは拳を握った。

 

 ユイは、その顔を横から見た。

 

 不安。

 

 焦り。

 

 置いていかれる恐怖。

 

 スバルにとって、見えない場所は安全ではない。

 

 自分が介入できない時間は、失敗の可能性そのものだ。

 

 それも、彼が何度も死を経験したからこその歪み。

 

 いい。

 

 けれど、ここで放置すると壊れ方が早すぎる。

 

 ユイは穏やかに口を開いた。

 

「私も王都へ同行していいかしら」

 

 ロズワールの視線が、ゆっくりユイへ向いた。

 

「ユイくんも?」

 

「ええ。エミリアさんにはお世話になっているし、王都のことも知っておきたいわ。それに、スバルくんを屋敷に残すにしても、彼はきっと落ち着かないでしょう」

 

「俺の扱い」

 

「違う?」

 

「……違わない」

 

 スバルは悔しそうに認めた。

 

 エミリアは迷うようにユイを見る。

 

「ユイまで来るの? でも、あなたもまだ傷が……」

 

「もう大丈夫よ」

 

「大丈夫って言う人ほど無理をするのよ」

 

「それ、私だけの話ではないわね」

 

 ユイがスバルを見る。

 

 スバルは目を逸らした。

 

 ロズワールは楽しそうに笑う。

 

「なら、こうしよう。エミリア様、私、レム、ユイくん。そしてスバルくんも同行する」

 

「ロズワール!」

 

 エミリアが驚いたように声を上げた。

 

「スバルはまだ――」

 

「心配はわかるよ。けれど、王都には治癒術に長けた者もいる。道中はレムが面倒を見る。ユイくんもいる。無茶をしなければ問題は少ない」

 

「その無茶をしない、が一番信用できないのよ」

 

「そこは同感だねぇ」

 

「おい、領主様」

 

 スバルが突っ込むと、ロズワールは肩をすくめた。

 

「ただ、スバルくんがここで留守番して、本当に大人しくしていると思うかい?」

 

 沈黙。

 

 エミリアがスバルを見る。

 

 ユイがスバルを見る。

 

 レムもスバルを見る。

 

 ラムは最初から答えがわかっている顔をしている。

 

「……善処はする」

 

「その言い方が一番信用できないわ」

 

 エミリアがため息をついた。

 

 スバルは反論できない。

 

 ロズワールは軽く手を叩いた。

 

「というわけで、同行を許可しよう。ただし、スバルくん」

 

「なんだよ」

 

「王都では、勝手に動かないこと」

 

「う」

 

「エミリア様の立場を忘れないこと」

 

「うう」

 

「そして、自分がまだ怪我人であることを忘れないこと」

 

「……はい」

 

 スバルは渋々頷いた。

 

 レムが横から柔らかく言う。

 

「スバル君。約束、守れますか?」

 

 その呼び方に、スバルは少しだけ肩を揺らす。

 

「守る。たぶん」

 

「たぶんではだめです」

 

「守ります」

 

「はい」

 

 レムは小さく頷いた。

 

 丁寧だけれど、以前ほど遠くない。

 

 その声が、スバルを少しだけ落ち着かせた。

 

 ユイは、ロズワールの横顔を見た。

 

 ロズワールがスバルの同行を許したことに、驚きはない。

 

 むしろ、そうするだろうと思っていた。

 

 この男は、スバルを盤面から外さない。

 

 スバルが動くことで何かが起こると知っている。

 

 あるいは、起こることを期待している。

 

 ユイは、それを止めるつもりはなかった。

 

 止めれば、スバルが見せるはずの顔が見られなくなる。

 

 だから、彼女はただ優しく微笑む。

 

 何も知らない顔で。

 

 出発の日。

 

 王都へ向かう竜車の前に、荷物が並べられた。

 

 エミリアは少し緊張している。

 

 パックはいつものように軽い調子で彼女の肩に乗っている。

 

 ロズワールは派手な服で、旅装というより舞台衣装のようだった。

 

 レムは荷物を確認し、ラムは屋敷に残る準備をしている。

 

 スバルは、まだ包帯の残る腕を見下ろした。

 

「王都、か」

 

 異世界に来て最初に放り込まれた場所。

 

 エミリアと出会った場所。

 

 フェルトとロム爺と出会った場所。

 

 エルザに殺された場所。

 

 ラインハルトに助けられた場所。

 

 あの場所へ、また行く。

 

 今度は違う立場で。

 

 エミリアの付き添いとして。

 

 ロズワール陣営の一人として。

 

 ユイは隣に立ち、スバルの横顔を見た。

 

「怖い?」

 

「……少し」

 

 スバルは正直に答えた。

 

「でも、行く」

 

「ええ」

 

「エミリアたんを一人にしたくないし、レムもいるし、ユイさんもいるし」

 

「私がいると安心?」

 

「する」

 

 即答だった。

 

 言ってから、スバルは少し照れたように目を逸らした。

 

「……まあ、すごく」

 

 ユイは微笑む。

 

「そう。なら、頼れるお姉さんとして頑張らないとね」

 

「そこは本当に頼りにしてる」

 

「ええ。任せて」

 

 内側で、ユイは静かに笑う。

 

 王都。

 

 次の舞台。

 

 人が多く、視線が多く、思惑が多い場所。

 

 スバルくん。

 

 あなたはまた、たくさん間違えるかもしれない。

 

 エミリアのために前に出て、傷つくかもしれない。

 

 誰かに笑われ、誰かに否定され、誰かに叩き伏せられるかもしれない。

 

 その時、あなたはどんな顔をするのかな。

 

 ユイは、その期待を表情に出さない。

 

 ただ優しく、スバルの隣に立つ。

 

 レムが竜車の扉を開けた。

 

「スバル君、足元に気をつけてください」

 

「了解。怪我人待遇、継続中だな」

 

「当然です。無理をした前科が多すぎます」

 

「ぐうの音も出ない」

 

 レムは少しだけ笑った。

 

 その笑顔は控えめだったが、以前より近い。

 

 スバルも小さく笑い返す。

 

 エミリアは、それを見て少し安心したように目を細めた。

 

 ラムは屋敷の前で腕を組む。

 

「バルス」

 

「ん?」

 

「王都で余計なことをしないように」

 

「なんで出発前の餞別が釘刺しなんだよ」

 

「必要だからよ」

 

「否定できない」

 

「レムに迷惑をかけすぎないこと」

 

「努力します」

 

「エミリア様にも」

 

「はい」

 

「ユイにも」

 

「はい」

 

「つまり全員に迷惑をかけないこと」

 

「俺の存在否定に近くない?」

 

「気のせいよ」

 

 ラムは涼しい顔で言った。

 

 スバルは肩を落としながらも、少し笑った。

 

 竜車が動き出す。

 

 ロズワール邸が少しずつ遠ざかっていく。

 

 屋敷。

 

 死の場所だった場所。

 

 恐怖の場所だった場所。

 

 そして今は、帰る場所になり始めた場所。

 

 スバルは窓からそれを見つめた。

 

「……行ってきます」

 

 小さく呟く。

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 屋敷へか。

 

 ラムへか。

 

 ベアトリスへか。

 

 過去の自分へか。

 

 それとも、戻らずに続いているこの時間へか。

 

 レムが隣で静かに言った。

 

「行ってきましょう、スバル君」

 

 スバルは振り向く。

 

 レムは柔らかく微笑んでいた。

 

 まだ少しぎこちない。

 

 けれど、確かな距離の近さがある。

 

「ああ」

 

 スバルは頷いた。

 

「行こう」

 

 ユイは向かいの席で、その二人を見ていた。

 

 エミリアは少し緊張した顔で前を向き、パックがその頬をつついている。

 

 ロズワールは目を細め、何を考えているかわからない笑みを浮かべている。

 

 ユイには、その笑みの意味が少しだけわかる。

 

 盤面は進む。

 

 スバルは王都へ向かう。

 

 エミリアも、王選の舞台へ立つ。

 

 そしてロズワールは、きっとそれを望んでいる。

 

 だから、ユイは何も言わない。

 

 ただ、優しいお姉さんとして同じ竜車に乗る。

 

 竜車は王都へ向かう。

 

 次の舞台へ。

 

 ユイは窓の外を見た。

 

 空は高く、道は長い。

 

 そして彼女だけが知っている。

 

 スバルの朝は続いた。

 

 けれど、続いた朝が優しいとは限らない。

 

 王都には、また新しい曇りが待っている。

 

 ユイは、頼れるお姉さんの顔で、静かに微笑んだ。

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