竜車の揺れは、思っていたよりも穏やかだった。
ロズワールが用意した竜車は、アーラム村で見た荷車とは違う。
座席は柔らかく、車輪の軋みも少ない。
地竜の歩みに合わせて風が流れ、車内には不思議なくらい揺れが響かなかった。
それでも、スバルの体には十分だった。
「……っ」
肩の傷が、じくりと痛む。
小さく息を詰めた瞬間、隣のレムがすぐにこちらを向いた。
「スバル君、痛みますか?」
「いや、ちょっと傷が自己主張しただけ」
「それは痛んでいるということです」
「最近、俺の言い換えが全部看破される」
「スバル君がわかりやすいからです」
レムはそう言って、膝の上に置いていた包帯の予備を確認する。
丁寧な声。
けれど、以前のような硬さはない。
スバル様ではなく、スバル君。
それだけで、距離が変わったのだとわかる。
まだ慣れない。
くすぐったい。
同時に、怖い。
近づいた分だけ、失う時の痛みを想像してしまう。
スバルは窓の外へ目を向けた。
ロズワール領の景色が遠ざかっていく。
森。
村。
屋敷。
死んだ場所。
恐怖した場所。
それでも、帰る場所になり始めた場所。
そこから離れて、王都へ向かう。
王都。
最初に異世界へ放り込まれた場所。
エミリアと出会った場所。
フェルトとロム爺と会った場所。
エルザに殺された場所。
何度も何度も、血を流した場所。
「……戻るんだな」
思わず漏れた声に、向かいのエミリアが顔を上げる。
「スバル?」
「あ、いや。最初に王都へ来た時のことを思い出してただけ」
「そういえば、スバルは王都で私と会ったのよね」
「そうそう。あの時は右も左もわからない異世界初心者で」
「いせかい?」
「あー、こっちの話。とにかく、すごーく困ってたところをエミリアたんに助けられたわけです」
軽く言う。
笑って言う。
けれど、胸の内側では別の記憶が疼いている。
盗品蔵の床。
腹を裂かれた痛み。
エミリアの倒れた姿。
ユイの白い髪に散った血。
あの時も、自分は何もできなかった。
今はどうだ。
少しは変わったのか。
スバルが黙りかけた時、ユイが横から声をかけた。
「顔が曇っているわ」
「え、そんなに?」
「ええ。今にも過去の自分と殴り合いを始めそうな顔」
「どんな顔!?」
「少なくとも、怪我人がする顔ではないわね」
「怪我人がしていい顔の基準がわからない」
ユイは穏やかに微笑む。
いつもの頼れるお姉さんの顔。
その笑顔を見て、スバルは少しだけ肩の力を抜いた。
ユイは知っている。
スバルが王都を思い出す時、ただ懐かしんでいるわけではないことを。
あの場所には、彼の死が染みついている。
最初の失敗がある。
それでも、彼はまた向かう。
エミリアの隣に立ちたいから。
彼女を支えたいから。
その気持ちは尊い。
そして、危うい。
尊いものほど、間違えた時によく曇る。
ユイは、内心の甘さを一切表に出さず、ただ優しくスバルを見守った。
王都へ近づくと、竜車は一度街道で速度を落とした。
王都側から迎えに来ていた者たちと合流するためだった。
先頭に立っていたのは、白髪の老紳士。
背筋はまっすぐで、動きに無駄がない。
年齢を重ねているはずなのに、立っているだけで刃のような気配があった。
もう一人は、猫のような耳を持った可愛らしい人物。
軽やかな仕草。
しかし、その視線はスバルの包帯を見た瞬間に鋭くなった。
ロズワールが、いつもの調子で手を広げる。
「やぁ、ヴィルヘルム殿、フェリス。迎え、ご苦労だったねぇ」
「ロズワール卿。道中、ご無事で何よりです」
老紳士、ヴィルヘルムが静かに礼をする。
フェリスと呼ばれた猫耳の人物は、スバルを見て首を傾げた。
「その子が、治療が必要っていうスバルきゅん?」
「スバルきゅん!?」
スバルが反射的に声を上げる。
「初対面でその呼び方!?」
「可愛いでしょ?」
「俺の可愛さを引き出す方向性じゃない!」
「元気そうだけど、顔色は悪いにゃ。あと肩と腕、かなり無茶してるでしょ」
フェリスの声は軽い。
けれど、診る目は確かだった。
スバルは思わず口を閉じる。
レムが小さく頷いた。
「ウルガルムに噛まれた傷です。呪いはベアトリス様が解呪しましたが、体力の消耗と傷が残っています」
「ふうん。あとでちゃんと診るにゃ。ベアトリス様が呪いを剥がしたなら、そっちは安心だけど、体の方は別問題だし」
「王都に着いたら、カルステン公爵家の屋敷で診てもらうことになるよ」
ロズワールが言う。
スバルはフェリスを見る。
「つまり俺、王都到着早々、病院送り?」
「正確には治療にゃ」
「言い方が変わっても中身が変わらない!」
「スバル君は治療を受けるべきです」
レムが静かに言う。
「王都に着いたら、絶対に逃げないでください」
「俺、逃げる前提?」
「逃げないと断言できますか?」
「……善処する」
「では見張ります」
「即決!」
そのやり取りに、エミリアが小さく笑った。
笑ってから、すぐに表情を引き締める。
王都が近い。
王選の場が近い。
彼女もまた、緊張しているのだ。
スバルはその横顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。
守りたい。
支えたい。
自分が何かしたい。
その思いが、すでにスバルの中で膨らんでいた。
王都ルグニカへ入ると、雑踏の熱が一気に押し寄せてきた。
石畳。
行き交う人々。
商人の声。
荷車の音。
果物の匂い。
それらのすべてが、スバルの記憶を揺さぶった。
「……おお」
思わず窓から身を乗り出しかける。
すぐにレムが袖を掴んだ。
「スバル君」
「はい」
「落ちます」
「まだ落ちてない」
「落ちる前に止めています」
「ごもっとも」
竜車は城へ直行せず、まず商店の並ぶ通りで止まった。
ロズワールが王都での用事を分けると言い、エミリアも少しだけ街の空気を見ておきたいと言ったからだ。
スバルは怪我人だから大人しくしていろと言われた。
しかし、王都の空気に触れた瞬間、じっとしていられるはずがない。
レムの監視つきで、短い距離だけ歩くことになった。
そして、すぐに見覚えのある屋台を見つけた。
「おっちゃん!」
大きな体。
強面。
果物を並べた屋台。
リンガ売りのカドモンだ。
スバルは思わず駆け寄りかけ、肩の痛みで足を止める。
「っ、いて」
「走らない」
レムが即座に言う。
「わかってる。今、体が勝手に」
「スバル君の体は信用できません」
「俺の体なのに……」
カドモンはスバルを見て、眉をひそめた。
「なんだ、見ねえ顔……いや、どっかで見たか?」
「前にちょっと世話になったんだよ。リンガ、いくつかくれ」
「金はあるんだろうな」
「今回はある!」
スバルは妙に胸を張った。
エミリアから渡されていた小銭でリンガを買う。
以前は金も文字も常識もなく、ただの迷子だった。
今は少しだけ違う。
それだけで、妙に感慨深かった。
「リンガ、ですか」
レムが興味深そうに見る。
「そう。王都名物……かは知らないけど、俺にとってはわりと記念品」
「記念品を食べるんですか?」
「食べられる記念品ってお得じゃない?」
レムは少し考えた。
「そうかもしれません」
「納得した!?」
ユイはリンガを一つ受け取った。
赤い実を手の中で転がし、静かに微笑む。
「スバルくんにとって、ここは始まりの場所なのね」
「まあ、そうだな」
始まり。
そして死の場所。
その両方だ。
スバルは、リンガをかじった。
甘酸っぱい味。
王都に戻ってきた実感が、ようやく少しだけ湧いてきた。
その時だった。
通りの向こうから、整った足取りで近づいてくる騎士がいた。
紫がかった髪。
整った顔立ち。
優雅な所作。
騎士らしい礼節を自然に身につけた青年。
彼はエミリアを見つけると、静かに歩み寄り、丁寧に一礼した。
「エミリア様。お久しぶりです」
エミリアが少し驚いたように目を瞬かせる。
「ユリウス。あなたも王都に?」
「はい。王選の件で、主に付き従っております」
ユリウス。
その名前を、スバルは知らない。
けれど、彼の立ち振る舞いを見れば、ただの騎士ではないことはわかった。
ユリウスは流れるような動作で、エミリアの手を取った。
そして、礼節として手の甲に唇を落とす。
その瞬間、スバルの中で何かが跳ねた。
「なっ……!」
声が漏れる。
エミリアは特に動揺していない。
周囲も当たり前の礼として受け止めている。
けれど、スバルにはそう見えなかった。
目の前で、知らない男がエミリアの手に口づけた。
それだけで、胸の奥がざわつく。
ユリウスはスバルへ視線を向けた。
「そちらの方は?」
「ナツキ・スバル。エミリアたんの……」
言いかけて、スバルは少し詰まった。
何だ。
自分は何者だ。
使用人見習い。
客人。
助けられた男。
支えたいと思っているだけの少年。
騎士ではない。
まだ、何者でもない。
「……付き添い、みたいなもんだ」
なんとかそう言う。
ユリウスは穏やかに微笑んだ。
「そうでしたか。エミリア様を支える方であれば、どうかご無理をなさらぬよう。お怪我をされているようですから」
丁寧な言葉だった。
悪意はない。
むしろ気遣いだ。
だが、スバルには少しだけ刺さった。
上から見られている。
そう感じた。
「どうも、ご親切に」
皮肉っぽく返してしまう。
エミリアが少しだけ眉を寄せた。
「スバル」
「わかってるって」
わかっていない。
自分でもわかる。
ユリウスはそれ以上何も言わず、エミリアに改めて礼をして去っていった。
スバルはその背中を睨む。
「……なんだよ、あの優男」
「スバル」
エミリアの声が少し厳しくなる。
「今のは失礼よ。ユリウスはちゃんと礼を尽くしてくれたわ」
「わかってる。わかってるけどさ」
「けど?」
「……なんでもない」
嫉妬だ。
そう自覚するのが嫌だった。
ユイは、その横顔を見ていた。
ユリウス。
ここで出会った。
まだ小さな棘。
けれど、その棘はこのあと大きくなる。
スバルが自分の未熟を突きつけられる相手。
騎士とは何かを、身体で教える相手。
ユイは静かにリンガをかじった。
甘い味がした。
街歩きの途中、路地の方から騒ぎ声が聞こえた。
スバルの体が反射的に動く。
レムが止めるより早く、スバルは声の方を見た。
「今の」
「スバル君」
「ちょっと見るだけ」
「その言い方は信用できません」
レムの言葉を聞きながらも、スバルは路地を覗いた。
そこにいたのは、見覚えのある三人組だった。
王都に来て最初に絡んできたチンピラたち。
前のループでは、彼らに殺されたこともある。
その記憶が、スバルの背筋を冷たくする。
だが、彼らが囲んでいる相手を見て、別の意味で足が止まった。
赤い髪。
豪奢な雰囲気。
路地裏にいるのが不自然なほど、圧のある少女。
彼女は追い詰められているはずなのに、恐怖ではなく苛立ちを浮かべていた。
「何をしておる。妾の前に立つなら、相応の価値を示せ」
あまりにも堂々とした声。
チンピラたちの方がむしろ気圧されている。
スバルは思わず呟いた。
「……なんだ、あれ」
「関わらない方がよさそうね」
ユイが静かに言う。
「でも、放っておける空気じゃないだろ」
「スバル君」
レムが呼ぶ。
その声には制止があった。
だが、スバルはもう路地へ踏み出していた。
「おい、お前ら!」
チンピラたちが振り返る。
スバルの体が一瞬だけ強張る。
殺された記憶。
刃。
痛み。
それでも、今は一人ではない。
レムがいる。
ユイもいる。
スバルは震えを押し殺して声を張った。
「女の子相手に三人がかりとか、相変わらず趣味悪いな!」
「なんだてめえ」
「前に会ったような気がする三人組!」
「意味わかんねえぞ!」
チンピラたちが近づく。
スバルは内心でかなり後悔した。
まだ傷が痛む。
戦えない。
そもそも健康でも戦えない。
だが、その時、路地の奥から低い声が響いた。
「邪魔だ」
巨大な影が現れる。
ロム爺だった。
チンピラたちは、その姿を見た瞬間に顔色を変えた。
そして、逃げた。
本当にあっさり逃げた。
スバルはぽかんとする。
「え、俺の啖呵の意味は?」
「最初からありません」
レムが辛辣に言う。
「傷つく!」
ロム爺はスバルを見て、目を細めた。
「お前、徽章の件でいた小僧か」
「ロム爺!」
「馴れ馴れしいな」
「まあ、いろいろあって」
ロム爺は周囲を見回し、それから短く息を吐いた。
「剣聖に連れていかれた嬢ちゃんを追って、王都をうろついとったら、妙な騒ぎにぶつかった。まったく、面倒な日だ」
スバルは頷いた。
そうだ。
ロム爺は、フェルトがラインハルトに連れていかれたことを知っている。
盗品蔵の後、何も知らずに探しているわけではない。
わかっていて、それでも会えない。
剣聖に連れていかれた少女が今どこで何をされているのか、手が届かない場所にいる。
だから、こうして動いている。
「フェルトは、まだ会えてないのか?」
スバルが聞くと、ロム爺の顔が険しくなった。
「王城か、騎士どもの手の中か。場所の見当はついても、こっちが簡単に踏み込めるところじゃねえ」
「……そりゃ、そうか」
「お前も関わりすぎるな。あの赤髪の騎士は、悪い男には見えん。だが、剣聖に見込まれるってのは、普通の幸運じゃ済まねえ」
ロム爺の言葉は重かった。
スバルはフェルトの顔を思い出す。
金髪の少女。
小柄で、口が悪くて、王都の裏通りを駆け抜けていた盗人。
彼女が剣聖に連れていかれた。
その意味を、まだスバルは知らない。
けれど、普通ではないことだけはわかった。
ロム爺はそれ以上長居せず、路地の奥へ去っていった。
その背中には、フェルトを案じる重さがあった。
スバルはしばらく見送る。
そして、赤い髪の少女の視線に気づいた。
彼女はずっとスバルを見ていた。
まるで珍しい道具でも見つけたような目。
「下郎」
「開口一番!?」
「妾の退屈を紛らわせようとしたことだけは認めてやろう」
「助けたことへの礼がそれ!?」
「助けた? 思い上がるな。妾は救われる側ではない」
少女は当然のように言った。
自分が世界の中心だと信じて疑わない声。
スバルは圧倒される。
ユイは、その少女を見て目を細めた。
プリシラ・バーリエル。
王選候補者の一人。
傲慢で、鮮烈で、世界に愛されていると本気で信じている女。
彼女もまた、舞台の役者だ。
プリシラの視線が、スバルからユイへ移った。
「そちらの白い女」
ユイは静かに瞬きをした。
「私?」
「他に誰がいる。名を名乗ることを許す」
「ユイよ」
「ふむ。ユイか」
プリシラは扇を広げ、口元を隠す。
その目は、品定めをするようにユイを見ていた。
「妾の前で、ずいぶんと落ち着いておるな。下郎のように騒ぐでもなく、そこの青い娘のように主を案じるでもなく。ただ、見ている」
レムの眉がわずかに動いた。
スバルも少し身構える。
けれどユイは、いつもの柔らかい顔のまま答えた。
「驚いてはいるわ。ただ、顔に出すのが少し苦手なの」
「嘘じゃな」
即答だった。
スバルがぎょっとする。
「おい、初対面でそれは」
「下郎は黙っておれ」
「下郎扱いが雑!」
プリシラはスバルを一瞥しただけで、すぐにユイへ視線を戻した。
「そなたは妾を見ても怯えぬ。媚びもせぬ。かといって、逆らうわけでもない。退屈な従者の顔ではないな」
「従者ではないもの」
「では何じゃ?」
「今は、怪我人の付き添いかしら」
「今は、か」
プリシラの目が細くなる。
「言葉を選ぶ女じゃな。気に入らぬようで、少し気に入った」
「それは光栄ね」
「妾が褒めているのだ。もっと喜べ」
「ええ。嬉しいわ」
「顔が変わらぬ」
「だから、苦手なの」
プリシラは一拍置いて、笑った。
高く、楽しそうに。
「よい。そなたは少し面白い」
「ユイさんがプリシラ様に気に入られてる……?」
スバルが小声で呟く。
レムがさらに小声で返す。
「よいことなのでしょうか」
「わからん」
そこへ、兜を被った大柄な男が現れた。
片腕を覆うような鎧。
どこか軽い雰囲気。
「姫さん、また勝手に歩き回って……って、なんか増えてるな」
「アルか。遅い」
「いやいや、姫さんが早すぎるんだって。で、こっちの兄弟は……ああ、なんか面白そうな顔してんな」
「兄弟?」
スバルが眉を寄せる。
「なんとなくそう呼びたくなった」
「距離感が急!」
アルは肩をすくめ、次にユイを見た。
「で、こっちの嬢ちゃんは?」
「ユイよ」
「へえ。兄弟の連れか?」
「そうね。今は」
「今は、ねえ」
アルは兜の奥で笑ったようだった。
「姫さんが興味持つってことは、見た目より変わった嬢ちゃんなんだろうな」
「変わっているかは、自分ではわからないわ」
「自分でわかってる変人はまだ軽症だろ」
「アル、無駄口が多い」
「へいへい」
アルは肩をすくめる。
プリシラはつまらなそうに扇を揺らした。
「行くぞ、アル。茶番にも飽いた」
「了解、姫さん」
去り際、プリシラはスバルを見た。
「下郎。次に妾の前に立つ時は、もう少し面白く振る舞え」
「無茶振りすぎる」
続いて、プリシラはユイを見る。
「ユイ。そなたは次もその顔でいるがよい。動かぬ水面ほど、石を投げ込む甲斐がある」
「石を投げられるのは困るわね」
「困る顔を見せぬから投げたくなるのじゃ」
「難しい人ね」
「妾を測るな。測る側は妾じゃ」
プリシラはそう言って、当然のように路地を去っていった。
アルは去り際、スバルに軽く手を振る。
「じゃあな、兄弟。姫さんに目ぇつけられたなら、まあ頑張れ」
「不穏な応援を残すな!」
「ユイの嬢ちゃんもな。姫さんに面白がられると、退屈はしないぜ」
「それは良いこと?」
「良いか悪いかは、運次第だな」
アルは笑い、プリシラの後を追った。
スバルはしばらく立ち尽くす。
「王都、濃すぎない?」
「スバル君が自分から濃い方へ向かっているようにも見えます」
「レムさんの分析が鋭い」
「事実です」
ユイは静かに笑った。
この出会いもまた、流れの中にある。
プリシラは、スバルが王城へ向かうための道になる。
彼の約束破りを、派手な形で成立させる女。
そして、プリシラはユイにも興味を持った。
それは大きく流れを変えるほどではない。
けれど、後で効いてくる小さな棘にはなる。
ユイは、何も知らない顔でリンガをもう一口かじった。
その日の夕方、クルシュ邸でスバルはフェリスの治療を受けた。
フェリスは軽い調子で話しながらも、診断は厳しかった。
「はい、結論。スバルきゅん、しばらく大人しくすること」
「やっぱりそれか」
「やっぱりも何も、当然だにゃ。呪いは問題ないけど、体がぼろぼろ。特に肩。無茶したらまた開くよ」
「開くって言い方怖い」
「怖がって大人しくしてくれるなら何度でも言うにゃ」
フェリスの治癒魔法は、不思議な感覚だった。
ベアトリスの解呪のように、体の奥から何かを引き剥がされる痛みではない。
乱れた体の流れを整えられるような、温かくも落ち着かない感覚。
スバルは素直に驚いた。
「すげえな、フェリス」
「フェリちゃんって呼んでもいいよ?」
「それはちょっとハードル高い」
「じゃあフェリスで許してあげるにゃ」
「許可制かよ」
治療の後、フェリスはレムもちらりと見た。
「あと、そっちの青髪メイドさんも少し休むこと」
「レムですか?」
「顔色はいいけど、魔獣騒ぎの後から働きっぱなしでしょ。主の付き添いは大事だけど、倒れたら意味ないにゃ」
レムは少しだけ目を伏せる。
「ですが、スバル君が」
「スバルきゅんはフェリちゃんが診た。ユイちゃんもいる。今夜くらい休むにゃ」
スバルも慌てて頷いた。
「そうだぞ、レム。俺のせいでレムまで倒れたら嫌だし」
「スバル君に言われると、説得力があるような、ないような……」
「そこはある方で頼む」
レムは少し迷ったが、最後には頷いた。
「わかりました。では、今夜は休ませていただきます」
「それがいいわ」
ユイも優しく言った。
「レムさんが休んでくれた方が、スバルくんも無茶しにくいでしょう?」
「それ、俺が見張り不在で無茶するみたいな言い方じゃない?」
「違うの?」
「……否定しきれない」
レムは心配そうにスバルを見る。
「スバル君。約束してください。レムが休んでいる間、無茶はしないと」
「わかった。無茶はしない」
「本当に?」
「本当に」
「……信じます」
その言葉に、スバルは胸が少し痛んだ。
信じます。
その信頼を、これから裏切るかもしれない。
まだこの時点では、そう決めているわけではなかった。
けれど、自分が約束を守れる自信もなかった。
夜、エミリアがスバルの部屋を訪れた。
表情は少し硬い。
スバルは、なんとなく嫌な予感を覚えた。
「スバル」
「お、おう。どうした、エミリアたん」
「明日、私は王城へ行くわ」
「王選のやつだよな」
「ええ」
エミリアは頷く。
そして、まっすぐスバルを見た。
「スバルは、来ないで」
言葉は静かだった。
けれど、はっきりしていた。
スバルは息を詰める。
「……なんで」
「あなたはまだ怪我をしている。それに、王城は簡単に入っていい場所じゃない。明日はとても大事な場なの。私が、自分で立たなきゃいけない場所」
「でも、俺は」
「お願い」
エミリアの声が少しだけ強くなる。
「私のためだと思うなら、待っていて」
スバルは何も言えなくなった。
彼女のため。
そう言われると、反論できない。
エミリアは優しく続けた。
「スバルが心配してくれているのはわかっているわ。でも、これは私の問題なの。私がちゃんと向き合わなきゃいけないことなの」
「エミリア……」
真面目な声で名前を呼ぶ。
エミリアは少しだけ目を伏せた。
「約束して。王城には来ないって」
約束。
スバルの胸が苦しくなる。
約束は重い。
守りたい。
けれど、守れる自信がなかった。
それでも、ここで頷かない選択肢はなかった。
「……わかった」
「本当に?」
「本当に。大人しくしてる」
エミリアは、まだ少し疑わしそうだった。
「スバルの大人しくしてる、は信用できないことが多いわ」
「そこまで言う?」
「言うわ。だって、実際そうだもの」
「返す言葉がない」
スバルが苦笑すると、エミリアも少しだけ笑った。
けれど、その笑顔には不安が残っていた。
「ちゃんと治してね。私が戻ってきた時、また傷を増やしていたら怒るから」
「はい」
「本当に?」
「本当に」
エミリアはようやく頷き、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
スバルはしばらく動けなかった。
行くな。
待っていろ。
エミリアのために。
その言葉は理解できる。
理解できるのに、胸の奥がざわついた。
エミリアが一人で王選の場に立つ。
自分はここで待つ。
それでいいのか。
本当に。
レムは、フェリスに言われた通り、別室で休むことになっていた。
だから、この部屋にいるのはスバルとユイだけだった。
ユイは窓辺に立ち、夜の王都を見ていた。
スバルは約束した。
だが、彼はきっと破る。
エミリアを傷つけるつもりはない。
むしろ、守るつもりで。
そして、その守りたい気持ちが、彼女を傷つける。
ユイは、それを知っている。
だから、何も言わない。
ただ、頼れるお姉さんの顔で振り返る。
「スバルくん」
「ん?」
「眠れそう?」
「……無理かも」
「でしょうね」
「否定してくれよ」
「嘘はよくないわ」
ユイは微笑む。
「でも、横にはなりなさい。眠れなくても、体を休めることはできる」
「ユイさんまで保護者みたいになってきたな」
「頼れるお姉さんだから」
「そこはブレないな」
スバルは寝台に横になった。
天井を見る。
王城。
王選。
エミリア。
約束。
来るな。
待っていて。
その言葉が頭の中で回り続ける。
そして翌朝。
エミリアは王城へ向かった。
ロズワールと共に。
スバルは窓からその背中を見送った。
銀の髪が朝の光に揺れる。
小さく、けれどまっすぐな背中。
彼女は一度だけ振り返り、スバルを見た。
そして、微笑んだ。
待っていて。
そう言われている気がした。
スバルは、拳を握った。
「……待つ」
呟く。
「待つって、決めたんだ」
ユイは窓辺にいた。
レムはいない。
彼女は今、フェリスの言いつけ通りに休んでいる。
だから、ここでスバルを止める声は、ユイしかない。
時間が過ぎる。
十分。
三十分。
一時間。
スバルの足が揺れ始める。
拳が開いたり閉じたりする。
呼吸が浅くなる。
そして、昼前。
屋敷の外から、華やかな竜車の音が聞こえた。
窓から見下ろすと、そこには赤を基調とした派手な竜車が停まっていた。
扉が開く。
中から現れたのは、昨日の赤髪の少女。
プリシラ・バーリエル。
彼女は窓辺のスバルを見上げると、扇を開いて笑った。
「下郎。退屈しのぎに、妾の供を許してやる」
スバルは固まった。
「……は?」
プリシラは当然のように言う。
「王城へ行くのであろう? 顔に書いてあるぞ」
ユイが静かにスバルを見る。
約束。
エミリアとの約束。
行かないと決めた。
待つと決めた。
それでも、胸の奥が叫んでいる。
行け。
エミリアのそばへ。
今行かなければ、何かが間に合わない。
スバルは、ゆっくりと立ち上がった。
「……悪い」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
エミリアへか。
レムへか。
ユイへか。
自分自身へか。
「俺、やっぱり行く」
ユイは、すぐには止めなかった。
ただ、静かに問いかける。
「約束を破ることになるわ」
「わかってる」
「エミリアさんは、怒るわ」
「それも、わかってる」
「それでも?」
スバルは歯を食いしばった。
「それでも、じっとしてられない」
ユイは少しだけ目を伏せた。
そして、外套を取る。
「なら、私も行くわ」
「ユイさん」
「一人で行かせるよりはいいもの」
王城へ行くのは、スバルとユイだけ。
レムは休んでいる。
スバルは少しだけ扉の方を見た。
レムに言えば、止められる。
それでもついてきてくれるかもしれない。
けれど、それでは休ませる約束も破ることになる。
「レムには……言わないで行く」
「いいの?」
「よくない。でも、言ったら止めるだろ。あいつ、休まなきゃいけないし」
「そうね」
「だから、帰ってから怒られる」
「たくさん怒られるわね」
「覚悟しとく」
プリシラの竜車へ向かう。
プリシラは満足げに笑っていた。
「よい。面白い顔をしておる。約束と感情の間で揺れる顔は、なかなか退屈せぬ」
「性格悪いな、あんた」
「妾に向かってよく言った。褒めてやろう」
「褒められてる気がしねえ」
プリシラの視線がユイへ向く。
「白い女。そなたも来るか」
「ええ。スバルくんを一人で行かせるわけにはいかないもの」
「止めぬのか?」
「止めるべきだとは思うわ」
「ほう」
プリシラは楽しそうに目を細める。
「ならば、なぜ止めぬ」
「止めても、きっと行くから」
「それだけか?」
「いいえ」
ユイはスバルを一度見て、それからプリシラへ向き直った。
「約束を破ってでも行かなければならないと思っている人を、ただ閉じ込めても意味がないわ。間違えるとしても、一人で間違えさせるより、隣にいた方がいい」
「綺麗事じゃな」
「そうかもしれないわ」
「そのくせ、そなたの目はずいぶん冷えておる」
スバルが少しだけユイを見る。
ユイは柔らかく微笑んだままだった。
「そう見える?」
「見える。面白い女じゃ。優しげな顔で、下郎が破滅に向かうのを見届けるつもりか?」
スバルの背筋が、わずかに震えた。
ユイは表情を変えない。
「破滅なんてさせないわ」
「ふん。言葉だけなら誰でも飾れる」
「なら、見ていて」
「そのつもりじゃ」
プリシラは扇で口元を隠し、笑った。
「よい。下郎だけではなく、そなたも乗るがよい。妾の竜車に退屈な者は不要だが、そなたらは多少は退屈を紛らわせそうじゃ」
アルが御者台から軽く手を振る。
「兄弟、ユイの嬢ちゃん、乗るなら早くしな。姫さんの気が変わる前にな」
「変わるのかよ」
「変わる時は秒だ」
「怖いな!」
スバルは竜車に乗り込んだ。
ユイが隣に座る。
向かい側ではプリシラが当然のように扇を広げている。
竜車が動き出した。
カルステン公爵家の屋敷が遠ざかる。
約束を破った。
もう戻れない。
レムはここにいない。
ユイだけが、隣にいる。
プリシラは、揺れる車内でスバルをじっと見た。
「下郎。そなたはなぜ王城へ行く」
「エミリアが心配だからだよ」
「それだけか」
「それだけって……十分だろ」
「十分ではないな」
プリシラは即座に切り捨てた。
「心配だから行く。守りたいから行く。聞こえはよい。だが、相手が望まぬなら、それはただの押し売りじゃ」
スバルは息を詰めた。
「……あんたに何がわかるんだよ」
「妾には大抵のことがわかる。世界は妾に都合よくできておるからな」
「無茶苦茶だな」
「無茶苦茶であっても、事実じゃ」
プリシラは笑う。
「そなたは約束を破った。その時点で、そなたの正しさには傷がついておる。そこから先、何を言おうと、そなたはまず約束を破った下郎じゃ」
言葉が、スバルに突き刺さった。
エミリアとの約束。
待っていて。
来ないで。
それを破った。
エミリアのためだと言いながら。
「……わかってる」
スバルは低く言った。
「わかってるよ。でも、じっとしてられなかったんだ」
「だから下郎なのじゃ」
「本当に容赦ねえな!」
「容赦が欲しければ、容赦されるに足る者になれ」
プリシラの目は笑っている。
けれど、その言葉は妙に鋭い。
ユイは、隣で黙って聞いていた。
プリシラが続ける。
「ユイ」
「なにかしら」
「そなたはどう見る。この下郎は、王城で何をする」
「きっと、前に出るわ」
「ほう」
「エミリアさんを守ろうとして、言葉を選ばず、場を乱すかもしれない」
「わかっていて連れていくのか」
「一人で行かせたら、もっと悪い形になるかもしれないもの」
「それも綺麗事じゃな」
「ええ。私は綺麗事が嫌いではないわ」
プリシラは愉快そうに笑った。
「よい。そなた、やはり退屈せぬ」
「そう言われるのは光栄ね」
「下郎」
「今度は俺かよ」
「王城で無様を晒すなら、せめて妾の退屈を紛らわせる程度には派手にやれ」
「応援の方向性が最悪!」
「応援などしておらぬ。妾は見物するだけじゃ」
アルが御者台から声をかけた。
「兄弟、姫さんなりに気に入ってるんだぜ、それ」
「どこが!?」
「罵倒が長い」
「判断基準が終わってる!」
「姫さん、興味ない相手にはもっと短いからな」
「聞こえておるぞ、アル」
「へいへい、黙ります」
車内に、奇妙な沈黙が落ちた。
王城が近づく。
スバルは窓の外を見る。
白い城壁。
高い尖塔。
そこに、エミリアがいる。
行ってはいけないと言われた場所。
それでも、向かっている。
ユイは隣でスバルの横顔を見た。
不安。
焦り。
罪悪感。
それでも止まれない衝動。
すべてが混ざって、彼の顔を曇らせている。
さあ、スバルくん。
あなたは今、優しさの形を間違えに行く。
約束を破って。
エミリアさんのためだと信じて。
そして、その信じたものに傷つけられる。
私は隣にいるわ。
頼れるお姉さんとして。
あなたが曇る場所へ、一緒に向かってあげる。
竜車は、王城の門へ近づいていった。