竜車は、王城の門へ近づいていった。
白い城壁。
高くそびえる塔。
磨かれた石畳。
門前に立つ衛兵たち。
それらが近づくほど、スバルの胸の奥で心臓がうるさく鳴った。
来てしまった。
エミリアに来るなと言われた場所へ。
待っていて、と言われた場所の外へ。
それなのに、竜車は止まらない。
プリシラは当然のように扇を揺らし、王城の門を自分の庭の門でも見るような顔で眺めていた。
「顔色が悪いぞ、下郎」
「元から怪我人なんだよ」
「怪我人が王城へ来るとは、ずいぶんと見上げた愚かさじゃな」
「愚かって言い切るなよ……」
「では賢いとでも?」
「……言えないけどさ」
プリシラは喉の奥で笑った。
その視線が、スバルの隣に座るユイへ向く。
「ユイ。そなたはまだ、その男を止める気はないのか」
「止める気がないわけではないわ」
「言葉遊びじゃな」
「そうね」
ユイは穏やかに認めた。
「でも、ここまで来たなら、今さら引き返す方が彼にはつらいでしょう」
「甘やかすのう」
「ええ。頼れるお姉さんだから」
スバルが横で小さく咳き込む。
「自分で言うとちょっと恥ずかしくない?」
「事実だもの」
「言い切った」
プリシラは、そんな二人を見て愉快そうに目を細めた。
「よい。下郎は愚かで、白い女は底が見えぬ。退屈しのぎには十分じゃ」
御者台からアルの声がした。
「姫さん、そろそろ着くぜ。兄弟、腹くくっとけよ」
「腹はくくってる」
「そういうこと言う奴ほど、だいたい腹の底が震えてるんだよな」
「なんでわかんだよ」
「経験則だ」
アルの声は軽い。
けれど、その言葉には妙な重さがあった。
スバルは反射的に黙った。
竜車が門前で止まる。
衛兵が近づき、プリシラの紋章を確認すると、すぐに姿勢を正した。
プリシラは窓を少し開け、扇の向こうから言う。
「妾じゃ。通せ」
それだけだった。
それだけで、門の空気が変わる。
衛兵たちは戸惑いを飲み込み、道を開けた。
スバルは思わず呟く。
「すげえな……顔パスってレベルじゃねえ」
「妾の前に門など存在せぬ。あるのは開かれるべき扉だけじゃ」
「言い回しが強すぎる」
プリシラは当然の顔で笑った。
王城の内側に入る。
広い中庭。
整えられた植え込み。
騎士たちの歩く姿。
磨かれた鎧の反射。
スバルは窓の外に目を奪われた。
ゲームや映画で見た城とは違う。
ここは本物だ。
権力があり、格式があり、そこにいる人間たちが当然のように自分たちの世界を作っている。
その中で、自分は明らかに異物だった。
包帯の残る怪我人。
礼儀も知らない。
立場もない。
エミリアに来るなと言われたのに来た男。
「……」
スバルは拳を握った。
ユイがそれを見て、静かに言う。
「まだ降りる前よ」
「わかってる」
「顔が戦う前の顔になっているわ」
「これから戦うわけじゃないだろ」
「そう思っているなら、その顔はやめた方がいいわ」
スバルは言い返せなかった。
竜車が止まる。
扉が開く。
アルが手を差し出す前に、プリシラは当然のように降りた。
スバルも続こうとして、肩の傷が引きつる。
「っ」
ユイがすぐに支えた。
「ゆっくり」
「悪い」
「怪我人が格好をつけると、だいたい悪化するわ」
「今日それ何回言われるんだろうな」
「必要なだけ」
スバルは苦笑しながら、王城の石畳に足を下ろした。
重い。
空気が重い。
そこに立った瞬間、約束を破った事実がよりはっきりと胸にのしかかった。
王城の中へ案内される。
プリシラは堂々と歩く。
まるでここが自分のものだと言わんばかりに。
アルは気楽そうに後ろを歩き、スバルはユイの隣で落ち着きなく周囲を見る。
廊下は広く、天井は高い。
壁には竜と王国の歴史を示す装飾があり、そこを行き交う者たちは皆、背筋を伸ばしていた。
スバルは小さく息を吐く。
「やっぱ場違い感すげえな……」
「場違いでも、来たのでしょう?」
ユイが言う。
「来た」
「なら、顔を上げて」
「……おう」
スバルは顔を上げた。
その時、前方から紫髪の騎士が歩いてくるのが見えた。
ユリウスだった。
昨日、エミリアの手に口づけた男。
完璧な礼節と、整った立ち振る舞い。
スバルは反射的に顔をしかめる。
ユリウスはプリシラに礼を取り、それからスバルに視線を向けた。
「あなたも、来られたのですね」
「……悪いかよ」
「悪いとは言っていません。ただ、エミリア様はご存じなのかと」
その言葉に、スバルは詰まった。
ユリウスはすぐに察したようだった。
「そうですか」
「なんだよ、その顔」
「いえ。どうか、場を違えぬように」
「上から目線かよ」
「忠告です」
ユリウスの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさがスバルを苛立たせる。
ユイは横で見ていた。
棘が刺さる。
昨日の小さな嫉妬が、今日の劣等感に繋がっていく。
ユリウスはスバルを見下しているつもりではない。
むしろ、この場における最低限の注意をしている。
けれど、今のスバルにはそう届かない。
ユリウスはプリシラと短く言葉を交わした後、王選の間へ向かっていった。
プリシラはスバルを横目で見る。
「下郎。あの騎士が気に食わぬか」
「……別に」
「嘘が下手じゃ」
「今日みんなそれ言うな」
「そなたの顔に書いてある。嫉妬、劣等感、反発。実にわかりやすい」
「分析しないでくれません?」
「嫌じゃ」
プリシラは楽しそうだった。
アルが小声で言う。
「兄弟、姫さんの玩具認定されてるぞ」
「嬉しくねえ……」
「まあ、頑張れ」
王選の間の扉が近づく。
その前で、スバルの足がわずかに鈍った。
中から、重い空気が漏れてくるようだった。
声。
足音。
儀式の前のざわめき。
ここから先は、ただの見学では済まない。
そう本能が告げていた。
ユイが小さく言う。
「スバルくん」
「ん?」
「ここから先、あなたが何を言うかで、エミリアさんの立場も変わるわ」
「……わかってる」
「本当に?」
スバルは答えられなかった。
わかっている。
そう言いたい。
でも、本当にわかっているのか。
王選の重さ。
候補者の立場。
騎士の誇り。
貴族の視線。
何も知らない。
何も知らないまま来た。
それでも、エミリアが心配だった。
ただそれだけで来てしまった。
「……気をつける」
やっと言った。
ユイは頷いた。
「ええ」
プリシラが横から笑う。
「気をつける者の顔ではないがな」
「うるせえ」
「その程度で乱れるなら、やはり下郎じゃ」
扉が開いた。
王選の間。
スバルは、一瞬で空気に呑まれた。
広い空間。
高い天井。
整列する騎士たち。
賢人会の老人たち。
各陣営の者たち。
その中心に、王選候補者たちがいた。
クルシュ・カルステン。
緑の髪を揺らし、凛とした姿勢で立つ女性。
王というものを、責務として見ているような強さがあった。
アナスタシア・ホーシン。
柔らかい笑みを浮かべた小柄な少女。
けれど、その目は商人のものだ。
相手の言葉も感情も、値踏みするように見ている。
プリシラ・バーリエル。
今、スバルたちの前を歩いていた赤の女。
自分が遅れて入ったことなど気にもせず、当然のように自分の位置へ向かう。
そして、エミリア。
銀髪を揺らし、緊張を押し殺して立っている。
その姿を見た瞬間、スバルの胸が熱くなった。
同時に、エミリアの顔が変わった。
驚き。
信じられないという表情。
そして、痛み。
「スバル……?」
小さな声。
その声だけで、スバルは自分が何をしたのかを突きつけられた。
約束を破った。
彼女の願いを踏みにじった。
それでも、もう戻れない。
プリシラはそんな空気など意に介さず、スバルを一瞥した。
「下郎、そこで控えておれ。妾の退屈を損なうでないぞ」
「控えてろって……」
「ついてきたのはそなたじゃ。ならば、妾の顔を潰すような無様は慎め」
それは、彼女なりの釘刺しだった。
スバルには半分も伝わっていない。
ユイには伝わった。
プリシラは面白がっている。
けれど、完全に放り投げているわけではない。
自分の連れとして入った以上、あまりに場違いなことをすればプリシラ自身の退屈が損なわれる。
だから釘を刺す。
それが彼女のやり方だった。
スバルは、エミリアの視線から逃げるように少し後ろへ下がった。
ユイはその隣に立つ。
彼女はエミリアに軽く会釈した。
エミリアは戸惑いながらも、小さく返す。
その瞳には問いがあった。
どうして。
なぜ止めてくれなかったの。
ユイは、何も知らない顔で視線を伏せた。
頼れるお姉さんとして。
けれど、答えはまだ渡さない。
式は進む。
賢人会の老人が王国の現状を語る。
王族の断絶。
竜歴石。
徽章に選ばれた候補者たち。
次代の王を決めるための王選。
スバルは半分も理解できていなかった。
ただ、エミリアがとても大きなものの前に立っているのだということだけはわかった。
候補者たちがそれぞれの態度で場に立つ。
クルシュは堂々と。
アナスタシアは柔らかく。
プリシラは傲然と。
エミリアは緊張しながらもまっすぐに。
だが、場にはまだ一つ空席があるようだった。
五人目。
最後の候補者。
その名が告げられる前に、扉が再び開いた。
赤髪の騎士が入ってくる。
ラインハルト。
その隣に、金髪の少女。
スバルは思わず声を漏らした。
「フェルト……?」
盗品蔵で会った少女。
徽章を盗んだ少女。
ロム爺と共に王都の裏通りで生きていた少女。
そのフェルトが、明らかに場違いな顔で王選の間に立っている。
服装だけは整えられている。
けれど、表情は不機嫌そのものだ。
フェルトは周囲を見渡し、スバルを見つけて目を細めた。
「なんであんたがここにいんだよ」
「それはこっちの台詞だ!」
思わず返してしまう。
広間の視線が一斉に刺さる。
スバルは慌てて口を閉じた。
ユイが小声で言う。
「声」
「悪い」
フェルトはラインハルトを睨みつけた。
「だいたい、あたしはこんなところに来るなんて一言も言ってねえからな」
「フェルト様。あなたは徽章に選ばれました」
「様とかつけんな。気持ち悪い」
ラインハルトは困ったように微笑む。
しかし、その態度は揺るがない。
彼はフェルトを候補者として扱っている。
賢人会も、徽章の反応を確認し、フェルトが五人目の候補者であることを認めた。
場がざわつく。
スラム育ちの少女。
粗野な言葉遣い。
王家の血筋に繋がる可能性。
それらが一気に投げ込まれ、貴族たちは明らかに動揺していた。
フェルトは鼻で笑う。
「王様? あたしが? 冗談じゃねえ。そんな面倒なもん、誰がやるか」
その言葉に、さらにざわめきが広がる。
ラインハルトは静かに説得を試みる。
だが、フェルトは受け入れない。
スバルは、その姿を見て奇妙な感覚を覚えた。
フェルトは変わっていない。
あの盗品蔵で見た少女のままだ。
けれど、彼女は今、国の未来を決める場に立っている。
世界は、本人の意思など関係なく人を舞台に引きずり上げる。
その時だった。
王選の間に、別の騒ぎが起きた。
兵たちの制止を振り切るようにして、巨大な影が飛び込んできた。
「フェルト!」
ロム爺だった。
スバルは目を見開く。
「ロム爺!」
王城に踏み込めないと言っていた老人。
それでも、フェルトのためにここまで来た。
その姿に、フェルトの顔色が変わる。
「じいちゃん!」
だが、王城の警備は甘くない。
ロム爺はすぐに騎士たちに取り押さえられた。
巨体を持つ彼でも、王城の騎士たちを相手に無傷では済まない。
フェルトが叫ぶ。
「離せ! そいつは関係ねえだろ!」
賢人会の空気が冷える。
侵入者。
王選の場を乱した者。
しかも、候補者であるフェルトの関係者。
ロム爺の処遇が重くなることは、誰の目にも明らかだった。
ラインハルトが一歩前に出る。
「フェルト様」
「うるせえ!」
「この場で、あなたが候補者であることを認めてください」
「は?」
「そうすれば、あなたの関係者として、彼を守る余地が生まれます」
フェルトの顔が歪む。
それは脅しではない。
状況の説明だ。
けれど、フェルトには十分に残酷だった。
王になる気などない。
候補者など知ったことではない。
だが、ロム爺を見捨てることはできない。
フェルトは歯を食いしばった。
そして、場を睨みつける。
「……いいぜ」
声が低くなる。
「そんなにあたしを王様にしたいなら、なってやるよ」
広間が静まり返る。
フェルトは、貴族たちを見た。
騎士たちを見た。
賢人会を見た。
王国そのものを見るような目だった。
「ただし、覚悟しとけ。あたしが王になったら、この国をぶっ壊してやる」
その宣言は、乱暴だった。
無礼だった。
けれど、力があった。
スバルは息を呑んだ。
フェルトが王選に立った。
それも、誰かに望まれてではない。
ロム爺を守るために。
そして、自分を縛るこの国そのものへ喧嘩を売るために。
スバルの胸が熱くなる。
フェルトは自分の言葉で立った。
自分の怒りを、自分の宣言に変えた。
それは、眩しかった。
けれど、その直後、場の視線はまた別の候補者へ向いた。
エミリア。
銀髪のハーフエルフ。
その容姿が意味するもの。
嫉妬の魔女を連想させる姿。
直接的な罵倒ではない。
だが、賢人会の一人が懸念として言葉にする。
民が受け入れるのか。
魔女を思わせる姿を持つ者が王となることに、不安はないのか。
場の空気が冷えた。
エミリアは唇を引き結ぶ。
彼女はわかっている。
自分がどう見られるか。
何を恐れられるか。
それでも、立っている。
立とうとしている。
スバルの中で、何かが煮えた。
やめろ。
その子をそんな目で見るな。
エミリアは優しい。
困っている人を放っておけない。
自分を助けてくれた。
何度も。
何度も。
言えない記憶の中で、何度も。
「……ふざけんなよ」
小さな声。
ユイはその声を聞いた。
プリシラも聞いた。
ユリウスも、少し離れた位置で目を細めた。
ユイは手を伸ばせた。
スバルの袖を掴むこともできた。
止めることも、できたかもしれない。
でも、止めなかった。
ここが、彼の踏み外す場所だから。
スバルは一歩前に出た。
「エミリアは、そんなふうに言われるような奴じゃねえだろ」
広間がざわついた。
エミリアの顔が強張る。
「スバル、やめて」
その声は小さい。
けれど、スバルには届いていた。
届いていたのに、止まれなかった。
「エミリアが何をしたってんだよ。銀髪だから? ハーフエルフだから? それだけで、あんたらは最初から決めつけんのか?」
「控えなさい」
静かな声が割って入る。
ユリウスだった。
彼はスバルへ向けて一歩踏み出す。
「ここは王選の場です。候補者の立場に関わる発言は、感情だけで行うものではありません」
「感情だけで何が悪い」
「悪いのです」
ユリウスの声は穏やかだった。
だが、その奥には鋼がある。
「あなたの言葉は、エミリア様を守っているようで、彼女の立場を危うくしている」
「何だと」
「ここで叫ぶことで、彼女が軽んじられる理由を増やしているのです」
スバルの胸に刺さる。
だが、認めたくない。
「俺はエミリアのために言ってるんだよ!」
「スバル!」
今度はエミリアの声が強かった。
スバルは振り向く。
エミリアは悲しそうな顔をしていた。
怒りよりも、痛み。
困惑よりも、失望に近いもの。
「お願い。もうやめて」
「でも、エミリア」
「私のためだと言うなら、今は黙って」
その言葉で、スバルの喉が詰まった。
エミリア。
真面目に呼んだ名前が、胸の奥で空回りする。
彼女のために来た。
彼女のために怒った。
なのに、彼女はそれを望んでいない。
それでも、止まれない。
止まったら、自分が何のためにここへ来たのかわからなくなる。
「俺は……俺は、エミリアの味方だ」
スバルは言った。
震える声で。
「俺は、エミリアを支えるためにここにいる」
「あなたは、どういう立場でそれを言っているのですか」
ユリウスが問う。
スバルは、その問いに食らいつくように答えた。
「俺は、エミリアの騎士だ」
広間が静まり返った。
その静寂は、先ほどまでとは違った。
冷たい。
鋭い。
まるで全員の視線が刃になったようだった。
騎士たちの表情が変わる。
侮辱を受けた者の顔。
誇りを踏みにじられた者の顔。
スバルは、それを理解しきれなかった。
自分は本気だった。
軽いつもりなどない。
エミリアを守りたいという気持ちは、本物だった。
けれど、その本物の気持ちが、他人の本物を踏みつけた。
ユリウスの表情から、穏やかさが薄れる。
「その言葉を、軽々しく口にしてはならない」
「軽くねえよ」
「あなたは騎士ではありません」
「俺がそう思ってる」
「思うだけではなれない」
ユリウスの声が低くなる。
「騎士とは、名乗れば足りるものではない。仕える主の名誉を守るために己を律し、剣を捧げ、誇りを背負う者です。あなたの今の振る舞いは、エミリア様のためではない」
「違う」
「違いません」
ユリウスの言葉は容赦なくスバルを抉った。
「あなたは、彼女の味方である自分を認めてほしいだけだ」
その瞬間、スバルの呼吸が止まった。
違う。
そう言いたい。
自分はエミリアのために。
エミリアを守るために。
エミリアが傷つけられるのを見たくなくて。
だが、その奥にあるものを、否定しきれなかった。
役に立ちたい。
必要とされたい。
隣に立つ資格がほしい。
自分は無力じゃないと証明したい。
ユリウスは、それを見抜いた。
「違う……!」
スバルは叫ぶ。
声が上ずる。
「俺は、エミリアのために――」
「スバル」
エミリアの声がした。
静かだった。
震えていた。
「もう、やめて」
スバルは振り返る。
エミリアは、泣きそうだった。
その顔を見た瞬間、スバルの胸の中で何かが崩れた。
守りたかった。
彼女のために来たはずだった。
なのに、自分が彼女を傷つけている。
ユイは、その少し後ろで見ていた。
プリシラは扇の陰で笑っている。
アルは黙っている。
フェルトは不機嫌そうに眉を寄せている。
ラインハルトは苦い顔で立っている。
そしてスバルは、もう引き返せない場所に立っている。
止められた。
もっと早くなら、止められたかもしれない。
けれど、ユイは止めなかった。
スバルくん。
いい顔。
あなたは今、自分の優しさでエミリアさんを傷つけた。
守りたい相手に「やめて」と言われた。
それでも引き返せない。
認められたくて、必要とされたくて、足掻くほど沈んでいく。
その曇り方、すごく綺麗。
内心でそう思いながら、ユイは表情だけを曇らせる。
心配している顔。
頼れるお姉さんとして、今にも手を伸ばしそうな顔。
だが、伸ばさない。
まだだ。
まだ、ここで終わりではない。
ユリウスはスバルを見据えた。
「あなたは今、騎士の誇りを侮辱した」
広間の騎士たちの視線が強まる。
その中に、怒りがある。
侮蔑がある。
そして、一部には危険な熱すらあった。
ユリウスは、それを抑えるように一歩前へ出る。
「このままでは、場の収まりがつきません」
「どうするつもりだよ」
スバルは睨み返す。
声は震えている。
それでも睨む。
ユリウスは静かに告げた。
「私が、あなたの言葉の重さを教えます」
それは、決闘の申し出だった。
正確には、制裁の形をとった決闘。
スバルは、引くべきだった。
誰が見ても、勝てるわけがない。
傷も癒えていない。
剣も扱えない。
ユリウスは王国近衛騎士団の中でも名のある騎士。
まともに戦えば、結果は見えている。
ユイは一歩、スバルに近づいた。
「スバルくん」
声は穏やかだった。
しかし、そこでようやく止める響きがあった。
「ここで受けたら、本当に戻れなくなるわ」
スバルはユイを見た。
その顔は、もうぐちゃぐちゃだった。
怒り。
恥。
恐怖。
それでも、引けないという意地。
「……ここで引いたら」
声が震える。
「俺は、何しに来たんだよ」
ユイは何も言わなかった。
答えは、もう出ていた。
スバルはユリウスを睨み返す。
「いいぜ」
言った。
「やってやるよ」
広間の空気が、さらに冷たくなった。
プリシラが扇の奥で笑う。
「愚かじゃな」
その声は小さかった。
けれど、ユイには聞こえた。
「ええ」
ユイは小さく返した。
「でも、彼らしいわ」
「そなたも大概、悪趣味じゃ」
「そうかもしれないわ」
プリシラは楽しげに目を細めた。
そして、王選の間から訓練場へと空気が流れ始める。
スバルは歩き出す。
ユリウスの後を追って。
勝てるはずのない決闘へ。
エミリアは、その背中を見ていた。
泣きそうな顔で。
声をかけられないまま。
ユイはスバルの少し後ろを歩く。
優しいお姉さんの顔で。
内側では、甘く疼く期待を抱えたまま。
さあ、スバルくん。
ここから、もっと曇るよ。