訓練場へ向かう廊下は、やけに長く感じた。
王選の間から離れていくたびに、スバルの耳に残っていたざわめきが遠ざかる。
けれど、遠ざかれば遠ざかるほど、自分が何を言ったのかが、逆に鮮明になっていった。
エミリアの騎士。
そう言った。
名乗った。
騎士たちの前で。
王選候補者たちの前で。
エミリア本人の前で。
スバルは拳を握る。
違う。
軽い気持ちじゃなかった。
エミリアを守りたかった。
あの場で、彼女が冷たい目を向けられているのが耐えられなかった。
銀髪だから。
ハーフエルフだから。
嫉妬の魔女を思わせるから。
そんな理由で、エミリアが傷つけられるのが嫌だった。
だから、前に出た。
だから、言った。
自分は間違っていない。
間違っていないはずだ。
そう言い聞かせるたびに、エミリアの顔が頭をよぎった。
泣きそうな顔。
「もうやめて」と言った声。
その記憶を、スバルは無理やり振り払った。
「下郎」
背後から、プリシラの声がした。
彼女は当然のように訓練場へ向かう列についてきている。
その横にアル。
少し離れてユイ。
騎士たちも何人か同行していた。
「顔が忙しいぞ。怒ったり、怯えたり、後悔したり。見ていて退屈せぬ」
「見世物じゃねえよ」
「自ら舞台に上がった者が、見られるのを拒むか。笑わせる」
プリシラは扇を鳴らす。
「そなたは自分で火をつけた。ならば燃えるところまで見せるがよい」
「……燃える気なんかねえ」
「ならば、灰になる方か?」
「縁起でもねえな!」
声を荒げたが、プリシラはまるで気にしない。
むしろ楽しげに目を細める。
アルが兜の奥でため息をついた。
「兄弟、姫さん相手に言い返しても疲れるだけだぜ」
「じゃあ止めてくれよ」
「俺が止められると思うか?」
「思わない」
「だろ?」
軽いやり取り。
けれど、スバルの緊張は解けない。
前を歩くユリウスの背中は、まっすぐだった。
隙がない。
歩く姿ひとつで、彼が自分とは違う世界の人間だとわかる。
それが、余計に腹立たしかった。
ユイが隣に歩み寄る。
「スバルくん」
「……止めるなら、今さら遅いぞ」
「ええ。もう遅いわ」
「言い切るなよ」
「でも、まだ選べることはある」
スバルはユイを見る。
ユイはいつものように穏やかだった。
けれど、その声は少しだけ低い。
「負け方は選べるわ」
「負ける前提かよ」
「勝てると思っているの?」
スバルは言葉に詰まった。
勝てる。
そう言いたかった。
けれど、言えない。
ユリウスを見ればわかる。
自分が勝てる相手ではない。
剣を握ったことすらまともにない自分と、王国の近衛騎士。
比べるまでもない。
それでも。
「……負けるって認めたら、何のために受けたのかわかんなくなる」
「そう」
「俺は、エミリアのために立ったんだ」
「ええ」
「だったら、ここで逃げたら……俺は、本当に何もできない奴になる」
ユイは、少しだけ目を伏せた。
「スバルくん」
「なんだよ」
「何もできない自分を認めるのは、逃げることとは違うわ」
スバルの足が一瞬止まりかけた。
けれど、すぐに歩き出す。
「……今それ言うの、ずるいだろ」
「そうね」
「俺、そういうの聞いたら、立てなくなる」
「だから言ったの」
ユイは静かに続ける。
「それでも立つなら、それはあなたの選択だから」
スバルは何も返せなかった。
訓練場へ出る。
広い砂地。
周囲には観覧できるような場所があり、騎士たちが集まり始めていた。
王選の場での騒ぎは、すでに広まっているらしい。
視線が刺さる。
嘲り。
怒り。
好奇。
不快感。
スバルはそれらを肌で感じた。
ユリウスは訓練場の中央へ向かった。
係の騎士から木剣を受け取る。
スバルにも一本が渡された。
手にした瞬間、重さに驚く。
ただの木剣。
刃はない。
それでも、武器を持つことに慣れていないスバルには、ひどく重かった。
「……これでやるのか」
「真剣ではありません」
ユリウスが言う。
「しかし、だから痛くないというわけではありません」
「脅しか?」
「忠告です」
「さっきから忠告ばっかだな、お前」
ユリウスは静かにスバルを見た。
怒りではない。
侮蔑でもない。
それが、逆にスバルを苛立たせる。
「ナツキ・スバル」
「なんだよ」
「今なら、まだ取り下げられます」
「ここまで来て?」
「はい」
ユリウスは迷いなく頷いた。
「あなたが謝罪し、騎士を軽んじる発言を撤回するなら、この場はそれで収める余地があります」
「……俺に土下座でもしろって?」
「そうは言っていません」
「言ってるようなもんだろ」
「違います。あなたの言葉は、あなた自身だけの問題ではなくなった。エミリア様の名を使い、騎士の誇りに触れた。だから、相応の責任を取る必要がある」
「責任、ね」
スバルは笑った。
乾いた笑いだった。
「結局、お前らはそうやって綺麗な言葉で俺を見下すんだな」
「見下してはいません」
「じゃあなんだよ。俺に何がわかるってんだよ。騎士じゃねえとか、未熟だとか、そんなの言われなくても――」
そこまで言って、スバルは止まった。
言われなくてもわかっている。
そう続けそうになったからだ。
わかっている。
自分が弱いことくらい。
何も持っていないことくらい。
エミリアの隣に立つ資格なんてないことくらい。
全部、わかっている。
だからこそ、言われたくなかった。
ユリウスは静かに言った。
「私は、あなたをこの場で徹底的に打ち倒します」
騎士たちの間にざわめきが走る。
ユリウスは続けた。
「それによって、この件は私とあなたの間の決着とする。他の騎士たちの怒りを、ここで終わらせます」
その言葉に、一部の騎士が不満そうに眉を動かした。
スバルには、意味がうまく飲み込めなかった。
ユイにはわかった。
ユリウスは、スバルを救うために叩き潰そうとしている。
王選の場で騎士を侮辱した少年。
もし放置すれば、騎士たちの怒りは別の形で噴き出す。
陰で報復されるかもしれない。
エミリア陣営にまで火の粉が飛ぶかもしれない。
だからユリウスは、自分が公の場で制裁を担う。
スバルを徹底的に打ち据え、騎士たちの溜飲を下げさせる。
同時に、殺さない。
取り返しがつかない傷は与えない。
それは苦い優しさだった。
けれど、今のスバルには届かない。
「いい人ぶってんじゃねえよ」
スバルは吐き捨てた。
「俺をボコボコにする理由を、綺麗に飾ってるだけだろ」
「そう受け取るなら、それで構いません」
「気に食わねえ……!」
スバルは木剣を握りしめる。
手が震えている。
怒りか。
恐怖か。
自分でもわからない。
その時、観覧側からフェリスの声が飛んだ。
「スバルきゅん、無理すると治療費高くつけるにゃ」
「そこ心配すんのかよ!」
「体の心配もしてるよ。だから言ってる。今ならまだやめられるにゃ」
フェリスの声は軽いが、目は笑っていない。
その隣にはクルシュもいた。
彼女は静かに状況を見ている。
介入はしない。
この場の意味を理解しているからだ。
ラインハルトも少し離れた位置に立っていた。
フェルトは不機嫌そうに腕を組んでいる。
「やめときゃいいのによ。勝てるわけねえじゃん」
フェルトの声は遠慮がない。
スバルはそちらを睨む。
「うるせえ」
「事実だろ。無理して突っ込んで、何になるんだよ」
「俺にも引けねえ時があるんだよ!」
「そういうの、だいたい馬鹿って言うんだよ」
フェルトは吐き捨てるように言った。
言葉は荒い。
けれど、その奥には少しだけ心配があった。
スバルはそれに気づけない。
いや、気づく余裕がない。
プリシラは、扇の陰で笑っている。
「よいぞ、下郎。愚か者は愚か者らしく、己の愚かさを晒すがよい」
「応援する気ゼロだな!」
「応援? 妾が下郎を応援する道理がどこにある」
プリシラは視線だけをユイへ向ける。
「ユイ。そなたはどうする。泣いて止めるか?」
「泣いて止まるなら、そうしているわ」
「ならば、黙って見るか」
「ええ」
ユイは静かに答えた。
「彼が選んだことだから」
「薄情じゃな」
「そうかもしれない」
「否定せぬか」
「ええ」
プリシラは楽しそうに笑う。
「やはりそなたは面白い。優しい顔をして、底が冷えておる」
ユイはただ微笑んだ。
否定しない。
できない。
スバルが曇る場所に、ユイは立っている。
頼れるお姉さんとして。
そして、曇りを見届ける者として。
合図が下りた。
最初に動いたのはスバルだった。
「うおおおおッ!」
木剣を振り上げ、真っ直ぐ突っ込む。
技術はない。
読みもない。
ただ、怒りと意地だけで前へ出る。
ユリウスは、一歩だけ横へずれた。
それだけだった。
スバルの木剣は空を切る。
直後、腹に衝撃。
「ぐっ……!」
息が詰まった。
何が起きたのかわからない。
ユリウスの木剣が、スバルの腹を正確に打っていた。
膝が崩れかける。
しかし、スバルは踏ん張る。
「まだ……!」
振り返る。
もう一度斬りかかる。
また外れる。
今度は肩。
次は脇腹。
腕。
太腿。
背中。
ユリウスの打撃は、速いのに見える。
見えているはずなのに、避けられない。
スバルの攻撃は、一度も届かない。
剣が触れるどころか、間合いに入ることすらできない。
木剣が体を打つたびに、痛みが弾ける。
肩の古傷が熱を持つ。
息が荒くなる。
口の中に血の味が広がった。
「っ、くそ……!」
スバルは木剣を振り回す。
雑。
乱暴。
感情そのものの攻撃。
ユリウスはそれを見切り、最低限の動きでかわす。
そして、必要な分だけ打つ。
壊さない。
殺さない。
だが、痛みだけは確実に与える。
フェリスが小さく舌打ちする。
「本当に、嫌な役を引き受けるにゃ……」
その声は小さい。
スバルには届かない。
ユイには届いた。
フェリスもわかっている。
ユリウスがなぜこうしているのか。
だからこそ、顔が苦い。
「見ていられぬなら目を閉じればよい」
プリシラが言う。
フェリスは横目で睨んだ。
「患者が壊れていくのを見て、治癒術師が目を閉じられるわけないでしょ」
「壊れてはおらぬ。あの騎士は壊す場所を選んでおる」
「わかってるから嫌なんだにゃ」
ユイは黙って見ている。
スバルが倒れる。
砂の上に転がる。
それでも、腕をついて立ち上がる。
「まだ……まだだ!」
「もう十分です」
ユリウスが言った。
その声には、ほんの少しだけ疲れがあった。
「あなたの気概はわかりました。これ以上は、体に障る」
「勝手に終わらせんな!」
「あなたに勝機はありません」
「うるせえ!」
スバルは叫び、また突っ込んだ。
何の策もない。
魔法も使えない。
この世界線のスバルは、まだシャマクを知らない。
自分にできるのは、ただ前に出ることだけ。
それしかない。
だから、それを繰り返す。
ユリウスへ向かって、何度も。
何度も。
木剣を振る。
かわされる。
打たれる。
倒れる。
立つ。
また振る。
一度、スバルは木剣を捨てるようにして、ユリウスへ掴みかかった。
剣で届かないなら、体ごと。
そう思った。
だが、腕を取られ、重心を崩され、あっさりと地面へ転がされた。
「がっ……!」
背中を打ち、息が抜ける。
観衆から小さなざわめきが漏れた。
惨めだった。
剣ですらない。
ただの喧嘩のような動き。
騎士の前で、騎士を名乗った少年が、何もできずに地面を這っている。
スバルは唇を噛んだ。
血の味が濃くなる。
「まだ……」
「終わりです」
ユリウスの声。
「あなたはもう立てない」
「立つ……!」
「立っても結果は変わりません」
「黙れ……!」
スバルの声は掠れていた。
自分でもわかる。
みっともない。
惨めだ。
負けている。
手加減されて、負けている。
それでも、認められない。
「俺は……エミリアの……」
騎士。
そう言おうとして、言葉が止まった。
言えなかった。
さっきまであれほど叫んだ言葉が、今は喉に引っかかる。
騎士。
自分が名乗ったそれ。
木剣一本まともに扱えず、ユリウスに触れることもできず、ただ砂の上に転がされている自分が。
エミリアの騎士。
その言葉の重さが、今さら体中にのしかかってきた。
ユリウスは静かに言った。
「本当にエミリア様のためを思うなら、まず己を知りなさい」
スバルの目が見開かれる。
「黙れ」
「力がないことは罪ではありません。ですが、力がないまま、立場も知らず、言葉の重さも知らずに前へ出ることは、主を危うくする」
「黙れよ……」
「あなたが守りたいと思うなら、その思いだけでは足りない」
「黙れって言ってんだろ!」
叫びは、ほとんど悲鳴だった。
訓練場が静まり返る。
ユリウスは、そこで木剣を下ろした。
「終わりです」
その一言で、決闘は終わった。
騎士たちのざわめきが広がる。
最初の怒りは、少しだけ形を変えていた。
ユリウスが代わりに怒りを引き受け、スバルを叩き伏せた。
それで、少なくともこの場の騎士たちは溜飲を下げる。
スバルに直接手を出そうとする者はいない。
ユリウスの狙いは、果たされた。
だが、スバルにはわからない。
ただ、自分が負けたことだけがわかる。
惨めに。
完膚なきまでに。
フェリスがすぐに駆け寄った。
「動かない。スバルきゅん、聞こえてる?」
「……うるせえ」
「聞こえてるならよし。文句はあとで聞くから、今は黙って治療されるにゃ」
フェリスの手がスバルの体に触れる。
治癒魔法の光が傷へ染み込む。
痛みが少しだけ和らぐ。
それが、さらに屈辱だった。
負けて、倒れて、治される。
自分では何もできない。
ユイが近づいてきた。
スバルは顔を背ける。
「見るな」
声は掠れていた。
「ユイさんも……見るな」
「見るわ」
ユイは膝をついた。
「あなたがどんな顔をしていても、私は見る」
「……やめろよ」
「やめないわ」
優しい声。
けれど、逃がさない声。
スバルは歯を食いしばった。
見られたくない。
自分の惨めな姿を。
負けた顔を。
立てない姿を。
それでも、ユイは見ている。
頼れるお姉さんの顔で。
ユイは、内心で甘く息を吐いた。
いい。
すごくいい。
怒りが剥がれて、意地が折れて、残ったのは惨めさと恥。
でも、まだ足りない。
スバルくんが本当に折れるのは、ここじゃない。
エミリアさんの前だ。
その時、訓練場の入口に銀の髪が見えた。
エミリアだった。
彼女は、スバルの姿を見て息を呑んだ。
痛々しい打撲。
砂に汚れた服。
切れた唇。
立てない体。
エミリアの顔が青ざめる。
「スバル……」
その声で、スバルは体を震わせた。
見られた。
一番見られたくない相手に。
自分が倒れている姿を。
エミリアは駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。
その表情には、心配と怒りが混ざっていた。
悲しみも。
失望も。
スバルは無理やり上体を起こそうとした。
フェリスが止める。
「動くなって言ってるにゃ!」
「大丈夫だ……」
「大丈夫じゃない!」
「いいから……」
スバルは痛みに顔を歪めながら、どうにか座り込む。
エミリアを見る。
「エミリア……」
真面目な声だった。
いつもの軽い呼び方ではない。
けれど、それで何かが取り戻せるわけではなかった。
エミリアは、静かに言った。
「どうして」
その一言で、スバルは何も言えなくなる。
「どうして、来たの?」
「心配だったんだよ」
絞り出すように答える。
「約束したでしょう」
「でも、あの場でエミリアが――」
「私は、来ないでって言ったわ」
スバルの喉が詰まる。
「私は、スバルに休んでいてほしかった。怪我を治してほしかった。王選の場は、私が自分で立たなきゃいけない場所だった」
「俺は、エミリアを助けたくて」
「私のため?」
エミリアの声が震えた。
「スバルは、私のためだって言うの?」
「そうだよ!」
スバルの声も大きくなる。
「俺はエミリアのために行ったんだ! あんなふうに言われて、黙ってられるわけないだろ!」
「私は、黙っていてほしかった!」
その言葉は、ユリウスのどの打撃よりも鋭かった。
スバルの顔が凍る。
「私が立たなきゃいけなかったの。私が言葉を選んで、私が向き合わなきゃいけなかった。なのに、スバルが勝手に前に出た」
「勝手って……」
「勝手よ」
エミリアの目が潤んでいる。
「私のためだって言いながら、スバルは私の話を聞いてくれなかった」
スバルは息を詰めた。
違う。
そう言いたい。
自分はエミリアを守りたかった。
それだけだった。
でも、エミリアの言葉は胸に刺さって抜けない。
「俺は……エミリアに助けられたから」
「助けた?」
「そうだよ。王都で、俺を助けてくれた。俺はその恩を返したくて」
「私は、恩を返してほしくて助けたわけじゃない」
「わかってる!」
「わかってない!」
エミリアの声が強く震えた。
スバルは怯む。
「スバルは、私のことを見ているようで見ていない。私が何を望んでいるかじゃなくて、スバルがどうしたいかで動いている」
「違う……」
「違わないわ」
「違う!」
スバルは叫んだ。
痛みも、周囲の目も、もうどうでもよかった。
「俺は、エミリアのために何度も――」
言いかけた瞬間、胸の奥に冷たい手が伸びた。
心臓を掴まれる気配。
死に戻りに触れる言葉。
言えない。
言えば、死ぬ。
スバルの喉が詰まる。
目を見開き、呼吸が止まる。
エミリアは、それを見て困惑した。
「スバル?」
「俺は……」
言えない。
盗品蔵で死んだこと。
何度も戻ったこと。
屋敷で死んだこと。
崖から落ちたこと。
ユイが冷たくなったこと。
何も言えない。
言えないまま、エミリアには何も伝わらない。
それが、スバルを追い詰めた。
「俺は、こんなに……!」
言葉が歪む。
言ってはいけないものを避けようとして、別の形になる。
「俺は、エミリアのために頑張ったんだよ! 何度も、何度も、死にそうな目に遭って、それでも――」
胸が締めつけられる。
直接は言えない。
だから、言葉は曖昧になる。
エミリアには伝わらない。
ただ、恩着せがましい叫びに聞こえる。
「それを、私に返せって言うの?」
エミリアの声が、静かに冷えた。
スバルの顔が凍る。
「違う」
「違わないわ。スバルは今、そう聞こえることを言っている」
「違うんだよ……!」
「なら、ちゃんと話して」
エミリアは涙をこらえるように言った。
「私は、スバルのことがわからない。どうしてそんなに私を助けようとするのか。どうしてそんなに苦しそうなのか。どうして約束を破ってまで来たのか。ちゃんと話してくれなきゃ、わからない」
ちゃんと話して。
それが、一番できないことだった。
スバルは口を開く。
胸の奥の手が、また近づく。
声が出ない。
言えない。
言えない。
言えない。
「……言えねえんだよ」
ようやく出た声は、かすれていた。
エミリアの表情が痛みに歪む。
「じゃあ、わからないわ」
「エミリア……」
「わからないまま、スバルの言う『私のため』を受け入れることはできない」
スバルは、何も返せなかった。
ユイは、その場面を見ていた。
これだ。
これが、死に戻りの孤独。
言いたい。
でも言えない。
伝えたい。
でも伝わらない。
そのせいで、救いたい相手に拒まれる。
スバルくん。
最高に曇っているよ。
でも、まだ。
まだ折れきらないで。
ここで終わったら、次へ進めない。
エミリアは、最後に小さく言った。
「しばらく、距離を置きましょう」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、重かった。
「王都にいる間、スバルは治療に専念して。私は、私のやるべきことをする」
「待ってくれ、エミリア」
「待てない」
「俺は……」
「お願い」
エミリアは目を伏せた。
「今は、顔を見るのがつらい」
スバルの世界が止まった。
顔を見るのがつらい。
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
ユリウスに打たれた痛みよりも。
傷が開く痛みよりも。
ずっと深く、胸を抉った。
エミリアは背を向けた。
その背中は小さかった。
けれど、スバルは追えなかった。
体が動かない。
声も出ない。
「エミリア……」
呼びかけは、届かなかった。
フェリスが痛ましそうに目を伏せる。
ユリウスは何も言わない。
ラインハルトも、フェルトも、プリシラも、それぞれの距離でその場を見ていた。
プリシラだけが、扇の陰で小さく言う。
「これで、下郎はようやく己の立つ場所を知るか」
ユイは答えなかった。
ただ、スバルへ近づく。
優しく肩に手を置く。
「スバルくん」
スバルは、ゆっくりとユイを見る。
その目は空っぽだった。
さっきまで怒りで燃えていた目が、今は何も映していない。
「俺……」
声が震える。
「何、したんだろうな」
ユイは、優しい顔で答えた。
「間違えたのよ」
スバルの顔が歪む。
ユイは続ける。
「でも、間違えたから終わりじゃないわ」
「……終わりだろ」
「まだ終わっていない」
「エミリアに……顔見るのがつらいって言われた」
「ええ」
「俺、何やってんだろうな」
そこでようやく、涙が落ちた。
痛みより遅れて。
怒りより遅れて。
自分が壊したものに気づいてから、涙が出た。
ユイはスバルの肩を抱いた。
頼れるお姉さんとして。
優しく。
温かく。
内心では、甘く震えながら。
いい。
とてもいい。
守りたい相手に拒まれて、ようやく自分の失敗を見た。
スバルくん。
あなたは今、ちゃんと曇っている。
でも大丈夫。
私は隣にいるよ。
あなたが立ち直るところも、また折れるところも。
全部、見ていてあげる。
フェリスがスバルを治療室へ運ぶよう指示した。
ユイが支える。
スバルは抵抗しなかった。
もう、抵抗する力がなかった。
王選の場で彼は叫んだ。
騎士を名乗った。
決闘に負けた。
エミリアを傷つけた。
そして、エミリアに距離を置かれた。
王都の夜は、まだ終わらない。
けれど、スバルの中では、何かが確かに壊れていた。