Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十八話 紫紺の騎士

 訓練場へ向かう廊下は、やけに長く感じた。

 

 王選の間から離れていくたびに、スバルの耳に残っていたざわめきが遠ざかる。

 

 けれど、遠ざかれば遠ざかるほど、自分が何を言ったのかが、逆に鮮明になっていった。

 

 エミリアの騎士。

 

 そう言った。

 

 名乗った。

 

 騎士たちの前で。

 

 王選候補者たちの前で。

 

 エミリア本人の前で。

 

 スバルは拳を握る。

 

 違う。

 

 軽い気持ちじゃなかった。

 

 エミリアを守りたかった。

 

 あの場で、彼女が冷たい目を向けられているのが耐えられなかった。

 

 銀髪だから。

 

 ハーフエルフだから。

 

 嫉妬の魔女を思わせるから。

 

 そんな理由で、エミリアが傷つけられるのが嫌だった。

 

 だから、前に出た。

 

 だから、言った。

 

 自分は間違っていない。

 

 間違っていないはずだ。

 

 そう言い聞かせるたびに、エミリアの顔が頭をよぎった。

 

 泣きそうな顔。

 

 「もうやめて」と言った声。

 

 その記憶を、スバルは無理やり振り払った。

 

「下郎」

 

 背後から、プリシラの声がした。

 

 彼女は当然のように訓練場へ向かう列についてきている。

 

 その横にアル。

 

 少し離れてユイ。

 

 騎士たちも何人か同行していた。

 

「顔が忙しいぞ。怒ったり、怯えたり、後悔したり。見ていて退屈せぬ」

 

「見世物じゃねえよ」

 

「自ら舞台に上がった者が、見られるのを拒むか。笑わせる」

 

 プリシラは扇を鳴らす。

 

「そなたは自分で火をつけた。ならば燃えるところまで見せるがよい」

 

「……燃える気なんかねえ」

 

「ならば、灰になる方か?」

 

「縁起でもねえな!」

 

 声を荒げたが、プリシラはまるで気にしない。

 

 むしろ楽しげに目を細める。

 

 アルが兜の奥でため息をついた。

 

「兄弟、姫さん相手に言い返しても疲れるだけだぜ」

 

「じゃあ止めてくれよ」

 

「俺が止められると思うか?」

 

「思わない」

 

「だろ?」

 

 軽いやり取り。

 

 けれど、スバルの緊張は解けない。

 

 前を歩くユリウスの背中は、まっすぐだった。

 

 隙がない。

 

 歩く姿ひとつで、彼が自分とは違う世界の人間だとわかる。

 

 それが、余計に腹立たしかった。

 

 ユイが隣に歩み寄る。

 

「スバルくん」

 

「……止めるなら、今さら遅いぞ」

 

「ええ。もう遅いわ」

 

「言い切るなよ」

 

「でも、まだ選べることはある」

 

 スバルはユイを見る。

 

 ユイはいつものように穏やかだった。

 

 けれど、その声は少しだけ低い。

 

「負け方は選べるわ」

 

「負ける前提かよ」

 

「勝てると思っているの?」

 

 スバルは言葉に詰まった。

 

 勝てる。

 

 そう言いたかった。

 

 けれど、言えない。

 

 ユリウスを見ればわかる。

 

 自分が勝てる相手ではない。

 

 剣を握ったことすらまともにない自分と、王国の近衛騎士。

 

 比べるまでもない。

 

 それでも。

 

「……負けるって認めたら、何のために受けたのかわかんなくなる」

 

「そう」

 

「俺は、エミリアのために立ったんだ」

 

「ええ」

 

「だったら、ここで逃げたら……俺は、本当に何もできない奴になる」

 

 ユイは、少しだけ目を伏せた。

 

「スバルくん」

 

「なんだよ」

 

「何もできない自分を認めるのは、逃げることとは違うわ」

 

 スバルの足が一瞬止まりかけた。

 

 けれど、すぐに歩き出す。

 

「……今それ言うの、ずるいだろ」

 

「そうね」

 

「俺、そういうの聞いたら、立てなくなる」

 

「だから言ったの」

 

 ユイは静かに続ける。

 

「それでも立つなら、それはあなたの選択だから」

 

 スバルは何も返せなかった。

 

 訓練場へ出る。

 

 広い砂地。

 

 周囲には観覧できるような場所があり、騎士たちが集まり始めていた。

 

 王選の場での騒ぎは、すでに広まっているらしい。

 

 視線が刺さる。

 

 嘲り。

 

 怒り。

 

 好奇。

 

 不快感。

 

 スバルはそれらを肌で感じた。

 

 ユリウスは訓練場の中央へ向かった。

 

 係の騎士から木剣を受け取る。

 

 スバルにも一本が渡された。

 

 手にした瞬間、重さに驚く。

 

 ただの木剣。

 

 刃はない。

 

 それでも、武器を持つことに慣れていないスバルには、ひどく重かった。

 

「……これでやるのか」

 

「真剣ではありません」

 

 ユリウスが言う。

 

「しかし、だから痛くないというわけではありません」

 

「脅しか?」

 

「忠告です」

 

「さっきから忠告ばっかだな、お前」

 

 ユリウスは静かにスバルを見た。

 

 怒りではない。

 

 侮蔑でもない。

 

 それが、逆にスバルを苛立たせる。

 

「ナツキ・スバル」

 

「なんだよ」

 

「今なら、まだ取り下げられます」

 

「ここまで来て?」

 

「はい」

 

 ユリウスは迷いなく頷いた。

 

「あなたが謝罪し、騎士を軽んじる発言を撤回するなら、この場はそれで収める余地があります」

 

「……俺に土下座でもしろって?」

 

「そうは言っていません」

 

「言ってるようなもんだろ」

 

「違います。あなたの言葉は、あなた自身だけの問題ではなくなった。エミリア様の名を使い、騎士の誇りに触れた。だから、相応の責任を取る必要がある」

 

「責任、ね」

 

 スバルは笑った。

 

 乾いた笑いだった。

 

「結局、お前らはそうやって綺麗な言葉で俺を見下すんだな」

 

「見下してはいません」

 

「じゃあなんだよ。俺に何がわかるってんだよ。騎士じゃねえとか、未熟だとか、そんなの言われなくても――」

 

 そこまで言って、スバルは止まった。

 

 言われなくてもわかっている。

 

 そう続けそうになったからだ。

 

 わかっている。

 

 自分が弱いことくらい。

 

 何も持っていないことくらい。

 

 エミリアの隣に立つ資格なんてないことくらい。

 

 全部、わかっている。

 

 だからこそ、言われたくなかった。

 

 ユリウスは静かに言った。

 

「私は、あなたをこの場で徹底的に打ち倒します」

 

 騎士たちの間にざわめきが走る。

 

 ユリウスは続けた。

 

「それによって、この件は私とあなたの間の決着とする。他の騎士たちの怒りを、ここで終わらせます」

 

 その言葉に、一部の騎士が不満そうに眉を動かした。

 

 スバルには、意味がうまく飲み込めなかった。

 

 ユイにはわかった。

 

 ユリウスは、スバルを救うために叩き潰そうとしている。

 

 王選の場で騎士を侮辱した少年。

 

 もし放置すれば、騎士たちの怒りは別の形で噴き出す。

 

 陰で報復されるかもしれない。

 

 エミリア陣営にまで火の粉が飛ぶかもしれない。

 

 だからユリウスは、自分が公の場で制裁を担う。

 

 スバルを徹底的に打ち据え、騎士たちの溜飲を下げさせる。

 

 同時に、殺さない。

 

 取り返しがつかない傷は与えない。

 

 それは苦い優しさだった。

 

 けれど、今のスバルには届かない。

 

「いい人ぶってんじゃねえよ」

 

 スバルは吐き捨てた。

 

「俺をボコボコにする理由を、綺麗に飾ってるだけだろ」

 

「そう受け取るなら、それで構いません」

 

「気に食わねえ……!」

 

 スバルは木剣を握りしめる。

 

 手が震えている。

 

 怒りか。

 

 恐怖か。

 

 自分でもわからない。

 

 その時、観覧側からフェリスの声が飛んだ。

 

「スバルきゅん、無理すると治療費高くつけるにゃ」

 

「そこ心配すんのかよ!」

 

「体の心配もしてるよ。だから言ってる。今ならまだやめられるにゃ」

 

 フェリスの声は軽いが、目は笑っていない。

 

 その隣にはクルシュもいた。

 

 彼女は静かに状況を見ている。

 

 介入はしない。

 

 この場の意味を理解しているからだ。

 

 ラインハルトも少し離れた位置に立っていた。

 

 フェルトは不機嫌そうに腕を組んでいる。

 

「やめときゃいいのによ。勝てるわけねえじゃん」

 

 フェルトの声は遠慮がない。

 

 スバルはそちらを睨む。

 

「うるせえ」

 

「事実だろ。無理して突っ込んで、何になるんだよ」

 

「俺にも引けねえ時があるんだよ!」

 

「そういうの、だいたい馬鹿って言うんだよ」

 

 フェルトは吐き捨てるように言った。

 

 言葉は荒い。

 

 けれど、その奥には少しだけ心配があった。

 

 スバルはそれに気づけない。

 

 いや、気づく余裕がない。

 

 プリシラは、扇の陰で笑っている。

 

「よいぞ、下郎。愚か者は愚か者らしく、己の愚かさを晒すがよい」

 

「応援する気ゼロだな!」

 

「応援? 妾が下郎を応援する道理がどこにある」

 

 プリシラは視線だけをユイへ向ける。

 

「ユイ。そなたはどうする。泣いて止めるか?」

 

「泣いて止まるなら、そうしているわ」

 

「ならば、黙って見るか」

 

「ええ」

 

 ユイは静かに答えた。

 

「彼が選んだことだから」

 

「薄情じゃな」

 

「そうかもしれない」

 

「否定せぬか」

 

「ええ」

 

 プリシラは楽しそうに笑う。

 

「やはりそなたは面白い。優しい顔をして、底が冷えておる」

 

 ユイはただ微笑んだ。

 

 否定しない。

 

 できない。

 

 スバルが曇る場所に、ユイは立っている。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 そして、曇りを見届ける者として。

 

 合図が下りた。

 

 最初に動いたのはスバルだった。

 

「うおおおおッ!」

 

 木剣を振り上げ、真っ直ぐ突っ込む。

 

 技術はない。

 

 読みもない。

 

 ただ、怒りと意地だけで前へ出る。

 

 ユリウスは、一歩だけ横へずれた。

 

 それだけだった。

 

 スバルの木剣は空を切る。

 

 直後、腹に衝撃。

 

「ぐっ……!」

 

 息が詰まった。

 

 何が起きたのかわからない。

 

 ユリウスの木剣が、スバルの腹を正確に打っていた。

 

 膝が崩れかける。

 

 しかし、スバルは踏ん張る。

 

「まだ……!」

 

 振り返る。

 

 もう一度斬りかかる。

 

 また外れる。

 

 今度は肩。

 

 次は脇腹。

 

 腕。

 

 太腿。

 

 背中。

 

 ユリウスの打撃は、速いのに見える。

 

 見えているはずなのに、避けられない。

 

 スバルの攻撃は、一度も届かない。

 

 剣が触れるどころか、間合いに入ることすらできない。

 

 木剣が体を打つたびに、痛みが弾ける。

 

 肩の古傷が熱を持つ。

 

 息が荒くなる。

 

 口の中に血の味が広がった。

 

「っ、くそ……!」

 

 スバルは木剣を振り回す。

 

 雑。

 

 乱暴。

 

 感情そのものの攻撃。

 

 ユリウスはそれを見切り、最低限の動きでかわす。

 

 そして、必要な分だけ打つ。

 

 壊さない。

 

 殺さない。

 

 だが、痛みだけは確実に与える。

 

 フェリスが小さく舌打ちする。

 

「本当に、嫌な役を引き受けるにゃ……」

 

 その声は小さい。

 

 スバルには届かない。

 

 ユイには届いた。

 

 フェリスもわかっている。

 

 ユリウスがなぜこうしているのか。

 

 だからこそ、顔が苦い。

 

「見ていられぬなら目を閉じればよい」

 

 プリシラが言う。

 

 フェリスは横目で睨んだ。

 

「患者が壊れていくのを見て、治癒術師が目を閉じられるわけないでしょ」

 

「壊れてはおらぬ。あの騎士は壊す場所を選んでおる」

 

「わかってるから嫌なんだにゃ」

 

 ユイは黙って見ている。

 

 スバルが倒れる。

 

 砂の上に転がる。

 

 それでも、腕をついて立ち上がる。

 

「まだ……まだだ!」

 

「もう十分です」

 

 ユリウスが言った。

 

 その声には、ほんの少しだけ疲れがあった。

 

「あなたの気概はわかりました。これ以上は、体に障る」

 

「勝手に終わらせんな!」

 

「あなたに勝機はありません」

 

「うるせえ!」

 

 スバルは叫び、また突っ込んだ。

 

 何の策もない。

 

 魔法も使えない。

 

 この世界線のスバルは、まだシャマクを知らない。

 

 自分にできるのは、ただ前に出ることだけ。

 

 それしかない。

 

 だから、それを繰り返す。

 

 ユリウスへ向かって、何度も。

 

 何度も。

 

 木剣を振る。

 

 かわされる。

 

 打たれる。

 

 倒れる。

 

 立つ。

 

 また振る。

 

 一度、スバルは木剣を捨てるようにして、ユリウスへ掴みかかった。

 

 剣で届かないなら、体ごと。

 

 そう思った。

 

 だが、腕を取られ、重心を崩され、あっさりと地面へ転がされた。

 

「がっ……!」

 

 背中を打ち、息が抜ける。

 

 観衆から小さなざわめきが漏れた。

 

 惨めだった。

 

 剣ですらない。

 

 ただの喧嘩のような動き。

 

 騎士の前で、騎士を名乗った少年が、何もできずに地面を這っている。

 

 スバルは唇を噛んだ。

 

 血の味が濃くなる。

 

「まだ……」

 

「終わりです」

 

 ユリウスの声。

 

「あなたはもう立てない」

 

「立つ……!」

 

「立っても結果は変わりません」

 

「黙れ……!」

 

 スバルの声は掠れていた。

 

 自分でもわかる。

 

 みっともない。

 

 惨めだ。

 

 負けている。

 

 手加減されて、負けている。

 

 それでも、認められない。

 

「俺は……エミリアの……」

 

 騎士。

 

 そう言おうとして、言葉が止まった。

 

 言えなかった。

 

 さっきまであれほど叫んだ言葉が、今は喉に引っかかる。

 

 騎士。

 

 自分が名乗ったそれ。

 

 木剣一本まともに扱えず、ユリウスに触れることもできず、ただ砂の上に転がされている自分が。

 

 エミリアの騎士。

 

 その言葉の重さが、今さら体中にのしかかってきた。

 

 ユリウスは静かに言った。

 

「本当にエミリア様のためを思うなら、まず己を知りなさい」

 

 スバルの目が見開かれる。

 

「黙れ」

 

「力がないことは罪ではありません。ですが、力がないまま、立場も知らず、言葉の重さも知らずに前へ出ることは、主を危うくする」

 

「黙れよ……」

 

「あなたが守りたいと思うなら、その思いだけでは足りない」

 

「黙れって言ってんだろ!」

 

 叫びは、ほとんど悲鳴だった。

 

 訓練場が静まり返る。

 

 ユリウスは、そこで木剣を下ろした。

 

「終わりです」

 

 その一言で、決闘は終わった。

 

 騎士たちのざわめきが広がる。

 

 最初の怒りは、少しだけ形を変えていた。

 

 ユリウスが代わりに怒りを引き受け、スバルを叩き伏せた。

 

 それで、少なくともこの場の騎士たちは溜飲を下げる。

 

 スバルに直接手を出そうとする者はいない。

 

 ユリウスの狙いは、果たされた。

 

 だが、スバルにはわからない。

 

 ただ、自分が負けたことだけがわかる。

 

 惨めに。

 

 完膚なきまでに。

 

 フェリスがすぐに駆け寄った。

 

「動かない。スバルきゅん、聞こえてる?」

 

「……うるせえ」

 

「聞こえてるならよし。文句はあとで聞くから、今は黙って治療されるにゃ」

 

 フェリスの手がスバルの体に触れる。

 

 治癒魔法の光が傷へ染み込む。

 

 痛みが少しだけ和らぐ。

 

 それが、さらに屈辱だった。

 

 負けて、倒れて、治される。

 

 自分では何もできない。

 

 ユイが近づいてきた。

 

 スバルは顔を背ける。

 

「見るな」

 

 声は掠れていた。

 

「ユイさんも……見るな」

 

「見るわ」

 

 ユイは膝をついた。

 

「あなたがどんな顔をしていても、私は見る」

 

「……やめろよ」

 

「やめないわ」

 

 優しい声。

 

 けれど、逃がさない声。

 

 スバルは歯を食いしばった。

 

 見られたくない。

 

 自分の惨めな姿を。

 

 負けた顔を。

 

 立てない姿を。

 

 それでも、ユイは見ている。

 

 頼れるお姉さんの顔で。

 

 ユイは、内心で甘く息を吐いた。

 

 いい。

 

 すごくいい。

 

 怒りが剥がれて、意地が折れて、残ったのは惨めさと恥。

 

 でも、まだ足りない。

 

 スバルくんが本当に折れるのは、ここじゃない。

 

 エミリアさんの前だ。

 

 その時、訓練場の入口に銀の髪が見えた。

 

 エミリアだった。

 

 彼女は、スバルの姿を見て息を呑んだ。

 

 痛々しい打撲。

 

 砂に汚れた服。

 

 切れた唇。

 

 立てない体。

 

 エミリアの顔が青ざめる。

 

「スバル……」

 

 その声で、スバルは体を震わせた。

 

 見られた。

 

 一番見られたくない相手に。

 

 自分が倒れている姿を。

 

 エミリアは駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。

 

 その表情には、心配と怒りが混ざっていた。

 

 悲しみも。

 

 失望も。

 

 スバルは無理やり上体を起こそうとした。

 

 フェリスが止める。

 

「動くなって言ってるにゃ!」

 

「大丈夫だ……」

 

「大丈夫じゃない!」

 

「いいから……」

 

 スバルは痛みに顔を歪めながら、どうにか座り込む。

 

 エミリアを見る。

 

「エミリア……」

 

 真面目な声だった。

 

 いつもの軽い呼び方ではない。

 

 けれど、それで何かが取り戻せるわけではなかった。

 

 エミリアは、静かに言った。

 

「どうして」

 

 その一言で、スバルは何も言えなくなる。

 

「どうして、来たの?」

 

「心配だったんだよ」

 

 絞り出すように答える。

 

「約束したでしょう」

 

「でも、あの場でエミリアが――」

 

「私は、来ないでって言ったわ」

 

 スバルの喉が詰まる。

 

「私は、スバルに休んでいてほしかった。怪我を治してほしかった。王選の場は、私が自分で立たなきゃいけない場所だった」

 

「俺は、エミリアを助けたくて」

 

「私のため?」

 

 エミリアの声が震えた。

 

「スバルは、私のためだって言うの?」

 

「そうだよ!」

 

 スバルの声も大きくなる。

 

「俺はエミリアのために行ったんだ! あんなふうに言われて、黙ってられるわけないだろ!」

 

「私は、黙っていてほしかった!」

 

 その言葉は、ユリウスのどの打撃よりも鋭かった。

 

 スバルの顔が凍る。

 

「私が立たなきゃいけなかったの。私が言葉を選んで、私が向き合わなきゃいけなかった。なのに、スバルが勝手に前に出た」

 

「勝手って……」

 

「勝手よ」

 

 エミリアの目が潤んでいる。

 

「私のためだって言いながら、スバルは私の話を聞いてくれなかった」

 

 スバルは息を詰めた。

 

 違う。

 

 そう言いたい。

 

 自分はエミリアを守りたかった。

 

 それだけだった。

 

 でも、エミリアの言葉は胸に刺さって抜けない。

 

「俺は……エミリアに助けられたから」

 

「助けた?」

 

「そうだよ。王都で、俺を助けてくれた。俺はその恩を返したくて」

 

「私は、恩を返してほしくて助けたわけじゃない」

 

「わかってる!」

 

「わかってない!」

 

 エミリアの声が強く震えた。

 

 スバルは怯む。

 

「スバルは、私のことを見ているようで見ていない。私が何を望んでいるかじゃなくて、スバルがどうしたいかで動いている」

 

「違う……」

 

「違わないわ」

 

「違う!」

 

 スバルは叫んだ。

 

 痛みも、周囲の目も、もうどうでもよかった。

 

「俺は、エミリアのために何度も――」

 

 言いかけた瞬間、胸の奥に冷たい手が伸びた。

 

 心臓を掴まれる気配。

 

 死に戻りに触れる言葉。

 

 言えない。

 

 言えば、死ぬ。

 

 スバルの喉が詰まる。

 

 目を見開き、呼吸が止まる。

 

 エミリアは、それを見て困惑した。

 

「スバル?」

 

「俺は……」

 

 言えない。

 

 盗品蔵で死んだこと。

 

 何度も戻ったこと。

 

 屋敷で死んだこと。

 

 崖から落ちたこと。

 

 ユイが冷たくなったこと。

 

 何も言えない。

 

 言えないまま、エミリアには何も伝わらない。

 

 それが、スバルを追い詰めた。

 

「俺は、こんなに……!」

 

 言葉が歪む。

 

 言ってはいけないものを避けようとして、別の形になる。

 

「俺は、エミリアのために頑張ったんだよ! 何度も、何度も、死にそうな目に遭って、それでも――」

 

 胸が締めつけられる。

 

 直接は言えない。

 

 だから、言葉は曖昧になる。

 

 エミリアには伝わらない。

 

 ただ、恩着せがましい叫びに聞こえる。

 

「それを、私に返せって言うの?」

 

 エミリアの声が、静かに冷えた。

 

 スバルの顔が凍る。

 

「違う」

 

「違わないわ。スバルは今、そう聞こえることを言っている」

 

「違うんだよ……!」

 

「なら、ちゃんと話して」

 

 エミリアは涙をこらえるように言った。

 

「私は、スバルのことがわからない。どうしてそんなに私を助けようとするのか。どうしてそんなに苦しそうなのか。どうして約束を破ってまで来たのか。ちゃんと話してくれなきゃ、わからない」

 

 ちゃんと話して。

 

 それが、一番できないことだった。

 

 スバルは口を開く。

 

 胸の奥の手が、また近づく。

 

 声が出ない。

 

 言えない。

 

 言えない。

 

 言えない。

 

「……言えねえんだよ」

 

 ようやく出た声は、かすれていた。

 

 エミリアの表情が痛みに歪む。

 

「じゃあ、わからないわ」

 

「エミリア……」

 

「わからないまま、スバルの言う『私のため』を受け入れることはできない」

 

 スバルは、何も返せなかった。

 

 ユイは、その場面を見ていた。

 

 これだ。

 

 これが、死に戻りの孤独。

 

 言いたい。

 

 でも言えない。

 

 伝えたい。

 

 でも伝わらない。

 

 そのせいで、救いたい相手に拒まれる。

 

 スバルくん。

 

 最高に曇っているよ。

 

 でも、まだ。

 

 まだ折れきらないで。

 

 ここで終わったら、次へ進めない。

 

 エミリアは、最後に小さく言った。

 

「しばらく、距離を置きましょう」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 だからこそ、重かった。

 

「王都にいる間、スバルは治療に専念して。私は、私のやるべきことをする」

 

「待ってくれ、エミリア」

 

「待てない」

 

「俺は……」

 

「お願い」

 

 エミリアは目を伏せた。

 

「今は、顔を見るのがつらい」

 

 スバルの世界が止まった。

 

 顔を見るのがつらい。

 

 その言葉が、何度も頭の中で反響する。

 

 ユリウスに打たれた痛みよりも。

 

 傷が開く痛みよりも。

 

 ずっと深く、胸を抉った。

 

 エミリアは背を向けた。

 

 その背中は小さかった。

 

 けれど、スバルは追えなかった。

 

 体が動かない。

 

 声も出ない。

 

「エミリア……」

 

 呼びかけは、届かなかった。

 

 フェリスが痛ましそうに目を伏せる。

 

 ユリウスは何も言わない。

 

 ラインハルトも、フェルトも、プリシラも、それぞれの距離でその場を見ていた。

 

 プリシラだけが、扇の陰で小さく言う。

 

「これで、下郎はようやく己の立つ場所を知るか」

 

 ユイは答えなかった。

 

 ただ、スバルへ近づく。

 

 優しく肩に手を置く。

 

「スバルくん」

 

 スバルは、ゆっくりとユイを見る。

 

 その目は空っぽだった。

 

 さっきまで怒りで燃えていた目が、今は何も映していない。

 

「俺……」

 

 声が震える。

 

「何、したんだろうな」

 

 ユイは、優しい顔で答えた。

 

「間違えたのよ」

 

 スバルの顔が歪む。

 

 ユイは続ける。

 

「でも、間違えたから終わりじゃないわ」

 

「……終わりだろ」

 

「まだ終わっていない」

 

「エミリアに……顔見るのがつらいって言われた」

 

「ええ」

 

「俺、何やってんだろうな」

 

 そこでようやく、涙が落ちた。

 

 痛みより遅れて。

 

 怒りより遅れて。

 

 自分が壊したものに気づいてから、涙が出た。

 

 ユイはスバルの肩を抱いた。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 優しく。

 

 温かく。

 

 内心では、甘く震えながら。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 守りたい相手に拒まれて、ようやく自分の失敗を見た。

 

 スバルくん。

 

 あなたは今、ちゃんと曇っている。

 

 でも大丈夫。

 

 私は隣にいるよ。

 

 あなたが立ち直るところも、また折れるところも。

 

 全部、見ていてあげる。

 

 フェリスがスバルを治療室へ運ぶよう指示した。

 

 ユイが支える。

 

 スバルは抵抗しなかった。

 

 もう、抵抗する力がなかった。

 

 王選の場で彼は叫んだ。

 

 騎士を名乗った。

 

 決闘に負けた。

 

 エミリアを傷つけた。

 

 そして、エミリアに距離を置かれた。

 

 王都の夜は、まだ終わらない。

 

 けれど、スバルの中では、何かが確かに壊れていた。

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