Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第十九話 置いていかれた少年

 治療室の空気は、薬草と清潔な布の匂いがした。

 

 カルステン公爵家の屋敷に用意された一室。

 

 広すぎず、狭すぎず、治療に必要なものだけが整然と並べられている。

 

 その寝台の上に、スバルは横たえられていた。

 

 全身が痛い。

 

 肩。

 

 腕。

 

 脇腹。

 

 背中。

 

 太腿。

 

 どこが一番痛むのか、自分でもわからない。

 

 ユリウスの木剣は、確実に急所を外していた。

 

 骨を砕かず、内臓を壊さず、けれど痛みだけは逃がさないように打ち込まれていた。

 

 それが、今になってわかる。

 

 わかってしまう。

 

 ユリウスは、本気で自分を殺すつもりなどなかった。

 

 壊すつもりもなかった。

 

 ただ、叩き伏せた。

 

 騎士たちの前で。

 

 自分が名乗った「騎士」という言葉の軽さを、体に刻み込むように。

 

「……くそ」

 

 唇の端から、掠れた声が漏れた。

 

 フェリスが隣で包帯を巻き直しながら、耳をぴくりと動かした。

 

「文句を言う元気があるなら、まだ平気そうだにゃ」

 

「平気に見えるかよ」

 

「見えないから治してるんでしょ。スバルきゅん、ほんっとに馬鹿」

 

「馬鹿って言うな」

 

「言うにゃ。フェリちゃんの治療を受けたその日に、こんな怪我を増やして戻ってくる患者なんて、馬鹿以外の何者でもないにゃ」

 

 フェリスの声はいつも通り軽い。

 

 けれど、目は笑っていない。

 

 治癒術師として、本気で怒っていた。

 

「ユリウスも嫌な役を引き受けたけど、スバルきゅんもスバルきゅんだにゃ。止まれって言われて、どうして止まれないの」

 

「……止まれなかった」

 

「それは理由じゃなくて結果」

 

「わかってるよ」

 

「わかってないからこうなってる」

 

 フェリスの手が、スバルの脇腹に触れる。

 

 治癒の光が染み込む。

 

 鈍い痛みが少しだけ薄くなる。

 

 だが、痛みが引くほど、別の痛みが浮かび上がった。

 

 エミリアの声。

 

 顔を見るのがつらい。

 

 その言葉が、治療では消えない場所に刺さっている。

 

 スバルは天井を見た。

 

 白い。

 

 何もない。

 

 あの時のエミリアの顔だけが、何度も浮かぶ。

 

「……俺、そんなに悪かったか」

 

 小さく呟いた。

 

 フェリスの手が止まる。

 

「それ、本気で聞いてる?」

 

「……わかってる」

 

「なら、聞かない」

 

「でも」

 

 スバルの声が震えた。

 

「でも、俺はエミリアを傷つけたかったわけじゃない」

 

「うん」

 

「守りたかっただけなんだよ」

 

「うん」

 

「なのに、なんで……」

 

 そこで言葉が詰まる。

 

 なんで、こんなことになった。

 

 そう言いたかった。

 

 けれど、その答えを聞くのが怖かった。

 

 フェリスは、包帯を結び直しながら言った。

 

「守りたいって思うことと、守れることは違うにゃ」

 

 スバルの喉が鳴った。

 

「それに、守られる側が望んでない守り方を押しつけたら、それはもう守るじゃなくて、邪魔」

 

「……」

 

「きついこと言ってる自覚はあるよ。でも、スバルきゅんには今、言わないとわかんない気がするから言うにゃ」

 

「わかってる」

 

「その『わかってる』、さっきから全然信用できない」

 

「……だろうな」

 

 スバルは目を閉じた。

 

 瞼の裏に、エミリアの背中が浮かぶ。

 

 遠ざかっていく背中。

 

 追えなかった。

 

 声も届かなかった。

 

 ユイが近くの椅子に座っていた。

 

 何も言わず、ただスバルの横顔を見ている。

 

 頼れるお姉さんの顔。

 

 心配している顔。

 

 その内側で、彼女は甘く息を潜めていた。

 

 いい。

 

 痛みが引くほど、心の傷がはっきりする。

 

 フェリスの言葉も、エミリアの言葉も、全部スバルくんに刺さっている。

 

 でも、まだ壊れきってはいない。

 

 壊れきらないから、進める。

 

 進んで、また曇る。

 

 ユイは、そんな内心を少しも見せず、穏やかに声をかけた。

 

「水、飲める?」

 

「……飲む」

 

 ユイが杯を取る。

 

 スバルの上体を少しだけ起こし、唇に近づけた。

 

 スバルは水を飲む。

 

 喉が痛い。

 

 水が通るだけで、自分がまだ生きているのだとわかる。

 

「悪い、ユイさん」

 

「謝るところが多すぎて、どれに対してかわからないわね」

 

「……全部」

 

「なら、今は受け取っておくわ」

 

 ユイは優しく微笑んだ。

 

 その笑顔に、スバルの胸が痛む。

 

 ユイは見ていた。

 

 全部。

 

 王選の間で叫んだところも。

 

 騎士を名乗ったところも。

 

 ユリウスに打ちのめされたところも。

 

 エミリアに拒まれたところも。

 

 全部見られた。

 

 それが恥ずかしい。

 

 でも、ユイがそこにいてくれたことに、どこかで救われている自分もいる。

 

 その矛盾が苦しかった。

 

 扉が乱暴に開いたのは、その時だった。

 

「スバル君!」

 

 レムだった。

 

 青い髪が揺れている。

 

 いつもの整ったメイド服。

 

 けれど、息が乱れている。

 

 休んでいたはずなのに、知らせを聞いて駆けつけたのだとすぐにわかった。

 

 レムは寝台の上のスバルを見て、顔色を変えた。

 

 包帯。

 

 打撲。

 

 切れた唇。

 

 砂と血の跡。

 

 フェリスの治療を受けている姿。

 

 レムの瞳が、大きく揺れた。

 

「なに、これ」

 

 その声は静かだった。

 

 静かすぎて、スバルはかえって怖かった。

 

「レム……」

 

「無茶はしないって、約束しました」

 

「……悪い」

 

「レムが休んでいる間、無茶はしないって」

 

「悪い」

 

「王城には行かないと、エミリア様にも約束したって聞きました」

 

「……」

 

「どうして」

 

 レムは寝台のそばまで来る。

 

 責める声ではない。

 

 けれど、責められるより痛かった。

 

「どうして、そんな体で」

 

 スバルは顔を背けた。

 

「行かなきゃって思ったんだよ」

 

「エミリア様のためですか」

 

「……そうだよ」

 

「そのエミリア様は、喜びましたか」

 

 スバルの呼吸が止まった。

 

 レムは言ってから、自分でも痛みを受けたように表情を歪めた。

 

 それでも、言葉を止めなかった。

 

「スバル君が傷ついて、約束を破って、倒れて、それでエミリア様は救われましたか」

 

「やめろ」

 

「やめません」

 

 レムの声が震えた。

 

「レムは、スバル君に傷ついてほしくないです。スバル君が誰かのために前へ出る人だと知っています。でも、だからといって、何度でも壊れていいわけではありません」

 

「壊れてなんか」

 

「壊れています」

 

 レムは言い切った。

 

 スバルは言い返せなかった。

 

 レムの目に涙が浮かんでいる。

 

 それを見た瞬間、スバルの胸が潰れそうになった。

 

 まただ。

 

 また、自分のせいで誰かが曇っている。

 

 エミリアだけじゃない。

 

 レムも。

 

 ユイも。

 

 たぶん、みんな。

 

「……悪い」

 

 スバルは小さく言った。

 

「俺、ほんと、何やってんだろうな」

 

 レムは唇を噛む。

 

 しばらく黙ってから、そっとスバルの手を取った。

 

 腫れた指。

 

 木剣を握りしめていたせいで、掌には擦れた跡がある。

 

 レムはその手を両手で包んだ。

 

「スバル君」

 

「……ん」

 

「レムは怒っています」

 

「うん」

 

「とても怒っています」

 

「うん」

 

「でも、それ以上に、心配しました」

 

「……うん」

 

「だから、今はこれ以上言いません。スバル君がちゃんと動けるようになってから、ちゃんと怒ります」

 

 その声は、静かだった。

 

 優しいだけではない。

 

 涙をこらえながら、それでもスバルを甘やかしきらない声だった。

 

 スバルは目を伏せる。

 

「……わかった」

 

「逃げないでください」

 

「逃げない」

 

「約束です」

 

「……ああ。約束する」

 

 レムはスバルの手を握ったまま、深く息を吐いた。

 

 その息が震えているのが、スバルにはわかった。

 

 レムは怒っている。

 

 心配している。

 

 そして、泣きそうになっている。

 

 その全部が、自分に向けられている。

 

 それが苦しかった。

 

 フェリスが二人の様子を見て、小さく息を吐く。

 

「スバルきゅん、ほんと罪作りだにゃ」

 

 スバルは反応しようとして、痛みで眉を寄せた。

 

 レムはすぐに顔を上げる。

 

「動かないでください」

 

「……はい」

 

 フェリスも表情を引き締める。

 

「レムりんの言う通り。今は動かない。スバルきゅん、治療される側って自覚して」

 

「わかってる」

 

「それも信用薄いけど、今は信じてあげるにゃ」

 

 フェリスは治療を続けた。

 

 治癒の光が、打たれた体にゆっくり染み込む。

 

 レムはスバルの手を離さなかった。

 

 ユイはそれを見ていた。

 

 スバルが壊れた時、レムは怒り、泣き、手を取る。

 

 その優しさは救いだ。

 

 そして、救いは鎖だ。

 

 レムが優しいほど、スバルはレムを失えなくなる。

 

 エミリアから距離を置かれた今、その優しさはきっと彼に深く染み込む。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 けれど、今はまだ甘やかしすぎない。

 

 ユイは静かに口を開いた。

 

「レムさん」

 

「はい」

 

「少しだけ、スバルくんと話してもいいかしら」

 

 レムはユイを見た。

 

 そして、ゆっくり頷く。

 

「……はい」

 

 レムは手を離した。

 

 名残惜しそうに。

 

 それでも、ユイに場所を譲る。

 

 フェリスも治療を一段落させ、薬の準備をすると言って部屋の隅へ移動した。

 

 ユイはスバルの横に座る。

 

「スバルくん」

 

「……怒る?」

 

「怒った方がいい?」

 

「怒られることしかしてない気がする」

 

「そうね」

 

「否定してくれ」

 

「嘘はよくないわ」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど、スバルの声には力がない。

 

 ユイは少しだけ身を乗り出した。

 

「スバルくんは、エミリアさんを助けたかった」

 

「……うん」

 

「でも、エミリアさんは助けてほしいとは言っていなかった」

 

「……うん」

 

「そこを間違えたの」

 

 スバルは目を閉じた。

 

「わかってる」

 

「本当に?」

 

「……さっきよりは」

 

「なら、これからどうする?」

 

 スバルは答えられなかった。

 

 これから。

 

 その言葉が遠い。

 

 エミリアに顔を見るのがつらいと言われた。

 

 距離を置こうと言われた。

 

 これからなんて、あるのか。

 

「これからなんて……」

 

「あるわ」

 

 ユイは断言した。

 

「あなたが生きている限り、時間は続く」

 

 スバルの目が揺れた。

 

 続く時間。

 

 死に戻りではない時間。

 

 戻らずに、積み重なっていく時間。

 

 だからこそ、間違いも残る。

 

 傷も残る。

 

 エミリアの言葉も、消えない。

 

「……続くの、きついな」

 

 スバルは笑った。

 

 泣きそうな笑いだった。

 

「戻れないのも、きつい」

 

 その言葉に、ユイだけが反応した。

 

 戻れない。

 

 普通の意味なら、過去に戻れないという後悔の言葉。

 

 けれど、スバルにとっては違う。

 

 死に戻りを知る彼にとって、戻れないことは救いであり、罰でもある。

 

 今回は死んでいない。

 

 だから、間違いは残る。

 

 やり直せない。

 

 エミリアを傷つけた事実も。

 

 騎士を侮辱した事実も。

 

 ユリウスに叩き伏せられた事実も。

 

 全部、続きの中に残る。

 

 ユイは、胸の奥で甘く震えた。

 

「戻れないなら、歩くしかないわ」

 

「歩ける気がしねえ」

 

「なら、這ってでも」

 

「厳しくない?」

 

「優しく言っても、今のあなたは信じないでしょう」

 

 スバルは黙った。

 

 確かに、優しいだけの言葉は今は聞けない。

 

 大丈夫。

 

 間違ってない。

 

 そんな言葉をもらったら、きっとそこに逃げる。

 

 ユイは逃がしてくれない。

 

 でも、突き放しもしない。

 

 その距離が、今のスバルには一番痛くて、一番ありがたかった。

 

 扉の外が少し騒がしくなった。

 

 ロズワールが顔を出したのは、それからしばらくしてだった。

 

 派手な服。

 

 いつもの道化めいた笑み。

 

 けれど、今日はその笑みが少しだけ薄い。

 

「やぁ、スバルくん。ずいぶん派手にやったようだねぇ」

 

「……見てたのかよ」

 

「途中からねぇ」

 

「止めろよ」

 

「止められる段階ではなかったからね」

 

 スバルは顔を歪めた。

 

 ロズワールは部屋の中を見回す。

 

 フェリス。

 

 レム。

 

 ユイ。

 

 そしてスバル。

 

「エミリア様は、屋敷へ戻ることになったよ」

 

 その言葉に、スバルの体が跳ねた。

 

「は?」

 

「王都での用件は一段落した。あまり長く滞在する必要もない。エミリア様には、ロズワール邸へ戻っていただく」

 

「俺は」

 

「君は王都に残る」

 

 即答だった。

 

 スバルは息を呑む。

 

「なんでだよ」

 

「治療が必要だからだねぇ。フェリスの診断でも、今の君を長距離移動させるのは望ましくない」

 

「そんなの」

 

「スバル君」

 

 レムが静かに止めた。

 

「今の体で移動は無理です」

 

「でも、エミリアが」

 

「エミリア様は、戻ります」

 

 レムの声は優しい。

 

 けれど、はっきりしていた。

 

「スバル君は、治療に専念してください」

 

「……」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 エミリアが戻る。

 

 自分は残る。

 

 距離を置く。

 

 その言葉が、現実になる。

 

「なお、レムには君の付き添いとして王都に残ってもらう」

 

 ロズワールが続けた。

 

 レムは静かに一礼する。

 

「承知しました」

 

「ユイくんは?」

 

 ロズワールの視線がユイへ向く。

 

 ユイは穏やかに微笑んだ。

 

「私も残るわ。スバルくんを一人にするのは心配だもの」

 

「だろうねぇ」

 

 ロズワールは笑った。

 

 その笑みの奥にあるものを、ユイは知っている。

 

 スバルを王都に残す。

 

 レムを残す。

 

 ユイも残る。

 

 エミリアは屋敷へ戻る。

 

 盤面は動いている。

 

 ロズワールは、それを望んでいる。

 

 ユイは何も言わない。

 

 今は、この流れに乗る。

 

 スバルは呆然としていた。

 

「エミリアは……何か言ってたか」

 

 ロズワールは一瞬だけ沈黙した。

 

 それから、いつもの調子を少し抑えて言う。

 

「しっかり治してほしい、と」

 

「……それだけ?」

 

「それだけだねぇ」

 

 スバルは目を伏せた。

 

 期待していた。

 

 何か。

 

 怒っているでもいい。

 

 謝っているでもいい。

 

 待っているでもいい。

 

 何か言葉がほしかった。

 

 けれど、届いたのはただ、治してほしい。

 

 それは優しさだ。

 

 でも、距離のある優しさだった。

 

「……そっか」

 

 スバルは小さく言った。

 

「そっか」

 

 何度も繰り返す。

 

 まるで、その言葉で自分を納得させようとするように。

 

 ロズワールは用件を伝えると、部屋を出ていった。

 

 フェリスも薬を取りに行くと言って、少し席を外す。

 

 部屋には、スバルとレムとユイだけが残った。

 

 レムが静かに言う。

 

「スバル君」

 

「……置いてかれたな」

 

「治療のためです」

 

「そうだな」

 

「エミリア様も、心配していると思います」

 

「そうだといいな」

 

 声が弱い。

 

 レムは胸が痛むような顔をした。

 

 ユイは、窓の外を見た。

 

 王都の空は高い。

 

 そこに、ロズワール邸へ戻る竜車が出ていく気配がある。

 

 エミリアは去る。

 

 スバルは残る。

 

 二人の距離は、今ここで形になる。

 

 ユイは、優しい顔でスバルのそばに立った。

 

 内心では、甘く囁く。

 

 いいよ、スバルくん。

 

 置いていかれたね。

 

 守りたかった人に、今はそばにいることを許されなかった。

 

 でも大丈夫。

 

 あなたにはまだレムさんがいる。

 

 私もいる。

 

 救いは残っている。

 

 だからこそ、次に失う怖さが増えていく。

 

 スバルは窓の外を見ようとした。

 

 体を起こそうとして、痛みに顔を歪める。

 

「エミリア……」

 

 小さな声。

 

 届かない声。

 

 レムがそっと肩を支える。

 

 ユイが反対側に立つ。

 

 窓の外、遠くで竜車が動き出す音がした。

 

 スバルはそれを聞いていた。

 

 何もできずに。

 

 寝台の上で。

 

 置いていかれる音を、ただ聞いていた。

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