治療室の空気は、薬草と清潔な布の匂いがした。
カルステン公爵家の屋敷に用意された一室。
広すぎず、狭すぎず、治療に必要なものだけが整然と並べられている。
その寝台の上に、スバルは横たえられていた。
全身が痛い。
肩。
腕。
脇腹。
背中。
太腿。
どこが一番痛むのか、自分でもわからない。
ユリウスの木剣は、確実に急所を外していた。
骨を砕かず、内臓を壊さず、けれど痛みだけは逃がさないように打ち込まれていた。
それが、今になってわかる。
わかってしまう。
ユリウスは、本気で自分を殺すつもりなどなかった。
壊すつもりもなかった。
ただ、叩き伏せた。
騎士たちの前で。
自分が名乗った「騎士」という言葉の軽さを、体に刻み込むように。
「……くそ」
唇の端から、掠れた声が漏れた。
フェリスが隣で包帯を巻き直しながら、耳をぴくりと動かした。
「文句を言う元気があるなら、まだ平気そうだにゃ」
「平気に見えるかよ」
「見えないから治してるんでしょ。スバルきゅん、ほんっとに馬鹿」
「馬鹿って言うな」
「言うにゃ。フェリちゃんの治療を受けたその日に、こんな怪我を増やして戻ってくる患者なんて、馬鹿以外の何者でもないにゃ」
フェリスの声はいつも通り軽い。
けれど、目は笑っていない。
治癒術師として、本気で怒っていた。
「ユリウスも嫌な役を引き受けたけど、スバルきゅんもスバルきゅんだにゃ。止まれって言われて、どうして止まれないの」
「……止まれなかった」
「それは理由じゃなくて結果」
「わかってるよ」
「わかってないからこうなってる」
フェリスの手が、スバルの脇腹に触れる。
治癒の光が染み込む。
鈍い痛みが少しだけ薄くなる。
だが、痛みが引くほど、別の痛みが浮かび上がった。
エミリアの声。
顔を見るのがつらい。
その言葉が、治療では消えない場所に刺さっている。
スバルは天井を見た。
白い。
何もない。
あの時のエミリアの顔だけが、何度も浮かぶ。
「……俺、そんなに悪かったか」
小さく呟いた。
フェリスの手が止まる。
「それ、本気で聞いてる?」
「……わかってる」
「なら、聞かない」
「でも」
スバルの声が震えた。
「でも、俺はエミリアを傷つけたかったわけじゃない」
「うん」
「守りたかっただけなんだよ」
「うん」
「なのに、なんで……」
そこで言葉が詰まる。
なんで、こんなことになった。
そう言いたかった。
けれど、その答えを聞くのが怖かった。
フェリスは、包帯を結び直しながら言った。
「守りたいって思うことと、守れることは違うにゃ」
スバルの喉が鳴った。
「それに、守られる側が望んでない守り方を押しつけたら、それはもう守るじゃなくて、邪魔」
「……」
「きついこと言ってる自覚はあるよ。でも、スバルきゅんには今、言わないとわかんない気がするから言うにゃ」
「わかってる」
「その『わかってる』、さっきから全然信用できない」
「……だろうな」
スバルは目を閉じた。
瞼の裏に、エミリアの背中が浮かぶ。
遠ざかっていく背中。
追えなかった。
声も届かなかった。
ユイが近くの椅子に座っていた。
何も言わず、ただスバルの横顔を見ている。
頼れるお姉さんの顔。
心配している顔。
その内側で、彼女は甘く息を潜めていた。
いい。
痛みが引くほど、心の傷がはっきりする。
フェリスの言葉も、エミリアの言葉も、全部スバルくんに刺さっている。
でも、まだ壊れきってはいない。
壊れきらないから、進める。
進んで、また曇る。
ユイは、そんな内心を少しも見せず、穏やかに声をかけた。
「水、飲める?」
「……飲む」
ユイが杯を取る。
スバルの上体を少しだけ起こし、唇に近づけた。
スバルは水を飲む。
喉が痛い。
水が通るだけで、自分がまだ生きているのだとわかる。
「悪い、ユイさん」
「謝るところが多すぎて、どれに対してかわからないわね」
「……全部」
「なら、今は受け取っておくわ」
ユイは優しく微笑んだ。
その笑顔に、スバルの胸が痛む。
ユイは見ていた。
全部。
王選の間で叫んだところも。
騎士を名乗ったところも。
ユリウスに打ちのめされたところも。
エミリアに拒まれたところも。
全部見られた。
それが恥ずかしい。
でも、ユイがそこにいてくれたことに、どこかで救われている自分もいる。
その矛盾が苦しかった。
扉が乱暴に開いたのは、その時だった。
「スバル君!」
レムだった。
青い髪が揺れている。
いつもの整ったメイド服。
けれど、息が乱れている。
休んでいたはずなのに、知らせを聞いて駆けつけたのだとすぐにわかった。
レムは寝台の上のスバルを見て、顔色を変えた。
包帯。
打撲。
切れた唇。
砂と血の跡。
フェリスの治療を受けている姿。
レムの瞳が、大きく揺れた。
「なに、これ」
その声は静かだった。
静かすぎて、スバルはかえって怖かった。
「レム……」
「無茶はしないって、約束しました」
「……悪い」
「レムが休んでいる間、無茶はしないって」
「悪い」
「王城には行かないと、エミリア様にも約束したって聞きました」
「……」
「どうして」
レムは寝台のそばまで来る。
責める声ではない。
けれど、責められるより痛かった。
「どうして、そんな体で」
スバルは顔を背けた。
「行かなきゃって思ったんだよ」
「エミリア様のためですか」
「……そうだよ」
「そのエミリア様は、喜びましたか」
スバルの呼吸が止まった。
レムは言ってから、自分でも痛みを受けたように表情を歪めた。
それでも、言葉を止めなかった。
「スバル君が傷ついて、約束を破って、倒れて、それでエミリア様は救われましたか」
「やめろ」
「やめません」
レムの声が震えた。
「レムは、スバル君に傷ついてほしくないです。スバル君が誰かのために前へ出る人だと知っています。でも、だからといって、何度でも壊れていいわけではありません」
「壊れてなんか」
「壊れています」
レムは言い切った。
スバルは言い返せなかった。
レムの目に涙が浮かんでいる。
それを見た瞬間、スバルの胸が潰れそうになった。
まただ。
また、自分のせいで誰かが曇っている。
エミリアだけじゃない。
レムも。
ユイも。
たぶん、みんな。
「……悪い」
スバルは小さく言った。
「俺、ほんと、何やってんだろうな」
レムは唇を噛む。
しばらく黙ってから、そっとスバルの手を取った。
腫れた指。
木剣を握りしめていたせいで、掌には擦れた跡がある。
レムはその手を両手で包んだ。
「スバル君」
「……ん」
「レムは怒っています」
「うん」
「とても怒っています」
「うん」
「でも、それ以上に、心配しました」
「……うん」
「だから、今はこれ以上言いません。スバル君がちゃんと動けるようになってから、ちゃんと怒ります」
その声は、静かだった。
優しいだけではない。
涙をこらえながら、それでもスバルを甘やかしきらない声だった。
スバルは目を伏せる。
「……わかった」
「逃げないでください」
「逃げない」
「約束です」
「……ああ。約束する」
レムはスバルの手を握ったまま、深く息を吐いた。
その息が震えているのが、スバルにはわかった。
レムは怒っている。
心配している。
そして、泣きそうになっている。
その全部が、自分に向けられている。
それが苦しかった。
フェリスが二人の様子を見て、小さく息を吐く。
「スバルきゅん、ほんと罪作りだにゃ」
スバルは反応しようとして、痛みで眉を寄せた。
レムはすぐに顔を上げる。
「動かないでください」
「……はい」
フェリスも表情を引き締める。
「レムりんの言う通り。今は動かない。スバルきゅん、治療される側って自覚して」
「わかってる」
「それも信用薄いけど、今は信じてあげるにゃ」
フェリスは治療を続けた。
治癒の光が、打たれた体にゆっくり染み込む。
レムはスバルの手を離さなかった。
ユイはそれを見ていた。
スバルが壊れた時、レムは怒り、泣き、手を取る。
その優しさは救いだ。
そして、救いは鎖だ。
レムが優しいほど、スバルはレムを失えなくなる。
エミリアから距離を置かれた今、その優しさはきっと彼に深く染み込む。
いい。
とてもいい。
けれど、今はまだ甘やかしすぎない。
ユイは静かに口を開いた。
「レムさん」
「はい」
「少しだけ、スバルくんと話してもいいかしら」
レムはユイを見た。
そして、ゆっくり頷く。
「……はい」
レムは手を離した。
名残惜しそうに。
それでも、ユイに場所を譲る。
フェリスも治療を一段落させ、薬の準備をすると言って部屋の隅へ移動した。
ユイはスバルの横に座る。
「スバルくん」
「……怒る?」
「怒った方がいい?」
「怒られることしかしてない気がする」
「そうね」
「否定してくれ」
「嘘はよくないわ」
いつものやり取り。
けれど、スバルの声には力がない。
ユイは少しだけ身を乗り出した。
「スバルくんは、エミリアさんを助けたかった」
「……うん」
「でも、エミリアさんは助けてほしいとは言っていなかった」
「……うん」
「そこを間違えたの」
スバルは目を閉じた。
「わかってる」
「本当に?」
「……さっきよりは」
「なら、これからどうする?」
スバルは答えられなかった。
これから。
その言葉が遠い。
エミリアに顔を見るのがつらいと言われた。
距離を置こうと言われた。
これからなんて、あるのか。
「これからなんて……」
「あるわ」
ユイは断言した。
「あなたが生きている限り、時間は続く」
スバルの目が揺れた。
続く時間。
死に戻りではない時間。
戻らずに、積み重なっていく時間。
だからこそ、間違いも残る。
傷も残る。
エミリアの言葉も、消えない。
「……続くの、きついな」
スバルは笑った。
泣きそうな笑いだった。
「戻れないのも、きつい」
その言葉に、ユイだけが反応した。
戻れない。
普通の意味なら、過去に戻れないという後悔の言葉。
けれど、スバルにとっては違う。
死に戻りを知る彼にとって、戻れないことは救いであり、罰でもある。
今回は死んでいない。
だから、間違いは残る。
やり直せない。
エミリアを傷つけた事実も。
騎士を侮辱した事実も。
ユリウスに叩き伏せられた事実も。
全部、続きの中に残る。
ユイは、胸の奥で甘く震えた。
「戻れないなら、歩くしかないわ」
「歩ける気がしねえ」
「なら、這ってでも」
「厳しくない?」
「優しく言っても、今のあなたは信じないでしょう」
スバルは黙った。
確かに、優しいだけの言葉は今は聞けない。
大丈夫。
間違ってない。
そんな言葉をもらったら、きっとそこに逃げる。
ユイは逃がしてくれない。
でも、突き放しもしない。
その距離が、今のスバルには一番痛くて、一番ありがたかった。
扉の外が少し騒がしくなった。
ロズワールが顔を出したのは、それからしばらくしてだった。
派手な服。
いつもの道化めいた笑み。
けれど、今日はその笑みが少しだけ薄い。
「やぁ、スバルくん。ずいぶん派手にやったようだねぇ」
「……見てたのかよ」
「途中からねぇ」
「止めろよ」
「止められる段階ではなかったからね」
スバルは顔を歪めた。
ロズワールは部屋の中を見回す。
フェリス。
レム。
ユイ。
そしてスバル。
「エミリア様は、屋敷へ戻ることになったよ」
その言葉に、スバルの体が跳ねた。
「は?」
「王都での用件は一段落した。あまり長く滞在する必要もない。エミリア様には、ロズワール邸へ戻っていただく」
「俺は」
「君は王都に残る」
即答だった。
スバルは息を呑む。
「なんでだよ」
「治療が必要だからだねぇ。フェリスの診断でも、今の君を長距離移動させるのは望ましくない」
「そんなの」
「スバル君」
レムが静かに止めた。
「今の体で移動は無理です」
「でも、エミリアが」
「エミリア様は、戻ります」
レムの声は優しい。
けれど、はっきりしていた。
「スバル君は、治療に専念してください」
「……」
スバルは何も言えなかった。
エミリアが戻る。
自分は残る。
距離を置く。
その言葉が、現実になる。
「なお、レムには君の付き添いとして王都に残ってもらう」
ロズワールが続けた。
レムは静かに一礼する。
「承知しました」
「ユイくんは?」
ロズワールの視線がユイへ向く。
ユイは穏やかに微笑んだ。
「私も残るわ。スバルくんを一人にするのは心配だもの」
「だろうねぇ」
ロズワールは笑った。
その笑みの奥にあるものを、ユイは知っている。
スバルを王都に残す。
レムを残す。
ユイも残る。
エミリアは屋敷へ戻る。
盤面は動いている。
ロズワールは、それを望んでいる。
ユイは何も言わない。
今は、この流れに乗る。
スバルは呆然としていた。
「エミリアは……何か言ってたか」
ロズワールは一瞬だけ沈黙した。
それから、いつもの調子を少し抑えて言う。
「しっかり治してほしい、と」
「……それだけ?」
「それだけだねぇ」
スバルは目を伏せた。
期待していた。
何か。
怒っているでもいい。
謝っているでもいい。
待っているでもいい。
何か言葉がほしかった。
けれど、届いたのはただ、治してほしい。
それは優しさだ。
でも、距離のある優しさだった。
「……そっか」
スバルは小さく言った。
「そっか」
何度も繰り返す。
まるで、その言葉で自分を納得させようとするように。
ロズワールは用件を伝えると、部屋を出ていった。
フェリスも薬を取りに行くと言って、少し席を外す。
部屋には、スバルとレムとユイだけが残った。
レムが静かに言う。
「スバル君」
「……置いてかれたな」
「治療のためです」
「そうだな」
「エミリア様も、心配していると思います」
「そうだといいな」
声が弱い。
レムは胸が痛むような顔をした。
ユイは、窓の外を見た。
王都の空は高い。
そこに、ロズワール邸へ戻る竜車が出ていく気配がある。
エミリアは去る。
スバルは残る。
二人の距離は、今ここで形になる。
ユイは、優しい顔でスバルのそばに立った。
内心では、甘く囁く。
いいよ、スバルくん。
置いていかれたね。
守りたかった人に、今はそばにいることを許されなかった。
でも大丈夫。
あなたにはまだレムさんがいる。
私もいる。
救いは残っている。
だからこそ、次に失う怖さが増えていく。
スバルは窓の外を見ようとした。
体を起こそうとして、痛みに顔を歪める。
「エミリア……」
小さな声。
届かない声。
レムがそっと肩を支える。
ユイが反対側に立つ。
窓の外、遠くで竜車が動き出す音がした。
スバルはそれを聞いていた。
何もできずに。
寝台の上で。
置いていかれる音を、ただ聞いていた。