「――その名前で、呼ばないで」
銀髪の少女の声は、静かだった。
怒鳴られたわけではない。
剣を向けられたわけでもない。
それなのに、スバルは胸の奥を冷たい手で掴まれたように硬直した。
「え……?」
間の抜けた声が出る。
ついさっきまで、血の海の中で倒れていた少女が、目の前で生きている。
それが嬉しくて。
安心して。
だから、名前を呼んだ。
あの時、彼女が名乗った名前を。
けれど少女の表情は、安堵でも驚きでもなかった。
傷ついた顔だった。
触れてはいけないものに触れられたような、ひどく静かな拒絶。
「なんで……」
スバルの喉が震える。
「だって、お前、そう名乗って……」
そこまで言って、言葉が止まった。
違う。
それは今じゃない。
あの路地裏で助けられて、二人で徽章を探して、盗品蔵へ向かって、そこで血に沈んだ。
その時の話だ。
今の彼女は、まだ何も知らない。
スバルを助けたことも。
一緒に歩いたことも。
盗品蔵で死んだことも。
何も知らない。
覚えているのは、スバルだけ。
その事実が、遅れて脳に染み込んでくる。
「……なんだよ、それ」
スバルは、呆然と呟いた。
銀髪の少女は眉を寄せる。
彼女の肩の近くに、小さな猫のような精霊がふわりと現れた。
「君さ、その名前の意味、わかって言ってる?」
柔らかい見た目に反して、声は冷えていた。
スバルはその精霊を見る。
「パック……」
言ってしまってから、また気づく。
精霊の目が細くなる。
「ボクの名前まで知ってるんだ」
「あ……」
スバルの口が開いたまま固まる。
サテラ。
パック。
どちらも、今の世界ではまだ聞いていないはずの名前だった。
自分の中では当たり前の情報が、この場では異常になる。
何を言っても、怪しくなる。
何を黙っても、誤魔化しているように見える。
「違う、俺は……!」
「何が違うの?」
少女の声は、鋭くはなかった。
だが、そのぶん逃げ場がなかった。
「あなた、私のことを知っているみたいに話すけれど、私はあなたを知らないわ」
私はあなたを知らない。
その一言が、スバルの胸に刺さった。
知っている。
自分は知っている。
だが、相手は知らない。
自分だけが知っている。
それを証明する方法がない。
スバルは唇を震わせた。
「俺は……俺は、助けようと……」
「助ける?」
少女が不思議そうに聞き返す。
スバルは言葉を失った。
何を助けるのか。
盗まれた徽章をか。
これから起きる殺人をか。
それとも、もう死んだはずの彼女をか。
どれも今の彼女には伝わらない。
言えば言うほど、自分だけがおかしくなる。
市場のざわめきが遠くなる。
人々はちらちらとこちらを見ている。
銀髪の少女に、あの名を呼んだ少年。
その視線の意味を、スバルはまだ完全には理解していない。
けれど、自分がとんでもないことをしたらしいことだけはわかった。
その時、横合いから落ち着いた声が入った。
「まず、謝りましょう」
スバルは振り向いた。
そこに、ユイがいた。
白に近い淡い髪。
穏やかな目。
頼れる年上の少女のような、柔らかな立ち姿。
間違いない。
一度目の世界で、自分を庇って血を流した人。
腹を裂かれ、肩を斬られ、それでも笑っていた人。
スバルの顔が、くしゃりと歪む。
「ユイ、さん……」
その呼び方に、ユイは一瞬だけ不思議そうに目を瞬かせた。
自然だった。
あまりにも自然な、初対面の反応。
「ええ。私はユイだけど……あなた、どこかで私と会った?」
まただ。
また、知らない。
ユイも覚えていない。
あの血も、痛みも、最後に握った手も。
全部、スバルだけが覚えている。
スバルは口を開いた。
けれど、声にならない。
ユイは、そんなスバルを見て少しだけ眉を下げた。
表面上は、純粋な心配。
だが胸の内では、彼の表情を一つ残らず味わっていた。
サテラの名で拒絶された顔。
パックの名を口にして疑われた顔。
ユイの名を呼んで、また自分だけが覚えていると突きつけられた顔。
いい。
とてもいい。
スバルの世界は、もう一度目とは違う軋み方をしている。
まだ折れてはいない。
だが、確かにひびが入った。
ユイは、そのひびを優しく撫でるように声を出した。
「あなたが何か事情を抱えているのは、顔を見ればわかるわ。でも、今は先に彼女へ謝った方がいい」
「……謝る?」
「ええ。あなたに悪気がなかったとしても、その名前で彼女を傷つけたのは本当だから」
スバルは、はっとして銀髪の少女を見る。
彼女は怒っているというより、傷ついていた。
忌まわしい名で呼ばれたこと。
それを、親しげに口にされたこと。
スバルに悪意はなかった。
だが、悪意がないから許されるわけではない。
ようやく、それがわかった。
「……ごめん」
スバルは頭を下げた。
「俺、本当に知らなかった。いや、知らなかったで済む話じゃねえんだろうけど……でも、傷つけるつもりはなかった。ごめん」
少女は黙っていた。
パックも、スバルを見ている。
しばらくして、少女は小さく息を吐いた。
「もう、その名前では呼ばないで」
「……わかった」
「それから、私はあなたを知らない。あなたが私を知っているみたいに話されても、困るわ」
スバルは拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
そうだ。
困るだろう。
当たり前だ。
なのに、その当たり前が苦しい。
ユイは、その横顔を見ながら、内心で微笑んでいた。
彼はちゃんと謝った。
それでも救われない。
謝っても、前の記憶は共有されない。
善意だけでは、何も埋まらない。
その噛み合わなさが、スバルを曇らせていく。
「……それで」
銀髪の少女は、気を取り直すように周囲を見た。
「私は急いでいるの。大事なものを盗まれたから」
スバルが顔を上げる。
今なら言える。
この場で、徽章が盗まれたことは彼女自身が口にした。
「金髪の子だろ」
言ってから、スバルはすぐに言葉を足した。
「さっき、人混みを抜けてったのを見た。手に何か持ってた」
これは嘘ではない。
実際に、彼は先ほど人混みの中にフェルトの姿を見ていた。
一度目の記憶があるから気づけたのは事実だが、今の情報としても破綻していない。
少女の表情が変わる。
「どっちへ?」
「たぶん、こっちの路地の方へ」
スバルは指を差す。
その方向は貧民街へ続く道だった。
ユイはそこで、自然に口を挟んだ。
「その先は貧民街ね。土地勘がないなら、追うのは難しいわ」
少女がユイを見る。
「あなたは詳しいの?」
「少しだけ。王都には何度か来ているから」
「……どうして手伝ってくれるの?」
もっともな質問だった。
ユイは柔らかく笑う。
「困っている子を見かけたら、放っておけない性分なの」
嘘ではない。
放っておけない。
ただし、理由は善意ではない。
スバルが曇っていく過程を、近くで見たいから。
それだけだ。
少女はまだ警戒していた。
パックもユイをじっと見ている。
しかし、今は徽章を追わなければならない。
迷っている時間はなかった。
「お願い。案内して」
「ええ」
ユイは頷いた。
スバルも慌てて動き出そうとする。
だが、一歩踏み出したところで足がもつれた。
「っと……!」
ユイが腕を伸ばし、支える。
触れた瞬間、スバルの体がびくりと震えた。
ユイの手。
前の世界で、血に濡れていた手。
最後に自分の手を握った手。
その感触を、スバルは覚えていた。
だが、今のユイの手は温かく、綺麗だった。
「大丈夫?」
ユイは心配そうに聞く。
スバルは、ぎこちなく頷いた。
「……大丈夫」
「そうは見えないけれど」
「大丈夫じゃなきゃ、困るんだよ」
小さな声だった。
ユイだけが、ほとんど唇の動きでそれを拾った。
大丈夫じゃなきゃ困る。
自分が動かなければならない。
自分だけが覚えているのだから。
その思い込みが、もうスバルを締めつけ始めている。
ユイは、あえて何も言わなかった。
慰めすぎてもいけない。
今はまだ、スバル自身に自分を追い詰めてもらう方がいい。
貧民街へ向かう道中、空気は重かった。
一度目のように、スバルは軽口を叩かなかった。
いや、叩こうとはしていた。
何度か口を開き、冗談めかした声を出そうとして、失敗していた。
銀髪の少女も、それに気づいている。
「あなた、本当に大丈夫なの?」
少女が問う。
スバルは顔を上げた。
そこには、警戒だけではない心配が少しだけあった。
スバルは笑おうとする。
「大丈夫。ちょっと、異世界初日からイベントが濃すぎて処理落ちしてるだけだから」
「いせかい?」
「あー……こっちの話」
少女は首を傾げる。
パックがため息をついた。
「変な子だね」
「よく言われ……いや、そんなには言われてねえけど」
軽口は形になった。
だが、声に力がない。
ユイはそれを聞きながら、前を歩いた。
道を選ぶ。
人目の少ない場所を通る。
ただし、盗品蔵へ向かう大筋は変えない。
ここで余計な戦闘を起こす必要はない。
スバルは死ぬ。
だが、それは今ではない。
次だ。
盗品蔵の扉が見えた時、スバルの足が止まった。
古びた建物。
薄暗い入り口。
一度目、ここには血の匂いが満ちていた。
ロム爺とフェルトが倒れていた。
エミリアも死んだ。
ユイも傷ついた。
スバルは、自分の腹を押さえた。
傷はない。
だが、痛みはある。
記憶の中に。
「スバルくん」
ユイが横から声をかける。
「怖い?」
「怖くねえよ」
即答だった。
けれど、声は震えていた。
ユイは笑わない。
からかわない。
ただ、穏やかに言う。
「なら、無理をしないで。怖くない人ほど、無理をするから」
「……それ、俺が怖がってる前提じゃね?」
「違うわ。危なっかしい前提」
「もっと悪いだろ、それ」
スバルがほんの少しだけ顔を緩める。
そのわずかな緩みを、ユイは見逃さない。
安心させる。
それから落とす。
希望は、折るために必要だ。
ユイは扉を叩いた。
「こんにちは。人を探しているのだけど」
中から、低い声が返る。
「誰だ」
扉が開き、巨体の老人が顔を出した。
ロム爺。
生きている。
血に沈んでいない。
スバルの喉が鳴った。
安堵が顔に滲む。
それを見て、ユイの胸がまた甘く震えた。
生きていることに安心する。
そして、もう一度死ぬところを見る。
その落差が、彼をさらに曇らせる。
「なんだ、お前ら」
ロム爺の視線が、ユイ、銀髪の少女、スバルへ順に動く。
ユイは穏やかに言った。
「金髪の小柄な子が、こちらに来ていないかしら。盗まれたものを追っているの」
「知らんな」
即答だった。
だが、態度は明らかに何かを隠している。
銀髪の少女が前へ出ようとする。
ユイが軽く手で制した。
「ここで待たせてもらえない? もちろん、迷惑料は払うわ」
ロム爺はユイをじろりと見る。
「嬢ちゃん、見た目より話がわかるな」
「そう見えるなら助かるわ」
ユイは微笑む。
ロム爺は少し迷った後、扉を開けた。
「入れ」
中は、薄暗かった。
埃と酒と古い木材の匂い。
血の匂いはまだない。
スバルは、恐る恐る室内を見回す。
何も起きていない。
ロム爺は生きている。
フェルトも、まだ来ていないだけ。
今度は間に合った。
そんな安堵が、彼の顔に浮かぶ。
やがて、外から軽い足音が近づいてきた。
扉が開く。
「ロム爺、戻ったぞ……って、なんだよこいつら!」
金髪の少女が立っていた。
手には徽章。
銀髪の少女の顔が変わる。
「それ、私の!」
「げっ、持ち主連れて来やがったのかよ」
フェルトは即座に距離を取った。
スバルが慌てて両手を上げる。
「待った! 待った待った! 暴力反対! ここは交渉でいこう!」
「交渉?」
フェルトが警戒した目を向ける。
スバルはコンビニ袋を漁り、携帯電話を取り出した。
「これと交換だ!」
フェルトとロム爺の視線が、携帯電話に集まる。
ユイも、初めて見るものとして目を細めた。
「変わったミーティアね」
「だろ? すげえんだぞ、これ。鏡にもなるし、時間もわかるし、暗いところで光るし、あと……まあ今は電波ないから半分くらい死んでるけど!」
「最後の説明で価値が下がった気がするんだけど」
フェルトがじとっとした目を向ける。
スバルは慌てる。
「いやいやいや、見たことないだろ? 希少価値! 希少価値がある!」
ロム爺は興味深そうに唸った。
「ふむ。確かに、見たことのない品ではあるな」
スバルの顔に、少しだけ希望が戻った。
交渉できている。
自分にもできることがある。
今度は、ただ死ぬだけではない。
ユイはその横顔を見ていた。
いい。
希望が戻った。
その時。
扉の外に、冷たい気配が立った。
ユイは剣の柄に指を添える。
スバルの顔から、希望が消えた。
彼も気づいた。
気配ではない。
記憶で。
「……来る」
銀髪の少女が振り返る。
「来るって、誰が?」
スバルは答えられなかった。
扉が開く。
黒髪の女が、笑みを浮かべて立っていた。
「あら。先客が多いのね」
エルザ。
その姿を見た瞬間、スバルの顔が死人のように青くなった。
エルザはそれを見て、楽しげに目を細める。
「あなた、私を知っているの?」
「お前は……」
スバルの声が震える。
「お前は、駄目だ」
「駄目?」
「みんな殺す。お前は、みんな……!」
言葉が続かない。
言えば、また前の世界の話になる。
だが、恐怖だけは止められない。
ユイは静かにスバルの前へ出た。
「下がって」
「ユイさん!」
その声は、悲鳴に近かった。
ユイは振り返る。
「大丈夫」
「大丈夫じゃねえ!」
スバルは叫んだ。
「あんた、また……!」
そこで、止まる。
また。
言ってはいけない言葉。
今のユイは、まだ傷ついていない。
まだ庇っていない。
この世界では、何も起きていない。
ユイは、初めて聞いた顔で首を傾げた。
「また?」
スバルの顔が歪む。
説明できない。
止めたいのに。
言えない。
ユイは優しく微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、今は後ろにいて」
ありがとう。
その言葉に、スバルはまた傷ついた顔をした。
エルザがうっとりと笑う。
「素敵ね。守る人と、守られる人。どちらから開くか迷ってしまうわ」
刃が抜かれる。
ユイも剣を抜いた。
次の瞬間、エルザが動く。
速い。
ユイは受ける。
金属音が盗品蔵に響く。
重い一撃。
だが受けられる。
ユイは踏み込み、エルザの手首を狙った。
エルザは笑いながら身体を捻る。
ユイの剣が、黒髪を数本散らした。
「あら。本当に強いのね」
「褒めても何も出ないわ」
「腸なら出るでしょう?」
「趣味が悪い」
銀髪の少女が氷を展開する。
パックの魔力で空気が冷える。
ロム爺が棍棒を握り、フェルトが徽章を抱えて後退する。
スバルだけが、動けない。
足が震えている。
目はエルザの刃を追っているのに、体がついてこない。
ユイは、その様子を横目で見る。
恐怖。
焦り。
自責。
それでも、何かしなければという思い。
スバルの中で、それらが絡まり合っていた。
ユイはエルザの刃を弾きながら、わざと強く踏み込む。
勝てそうに見せる。
希望を見せる。
この人なら何とかしてくれるかもしれない。
そう思わせるために。
エルザがスバルへ視線を向けた。
来る。
ユイは半歩早く動いた。
刃がスバルへ届く寸前、ユイが割り込む。
肩が裂けた。
血が飛ぶ。
「ユイさん!」
スバルの叫びが響く。
ユイは痛みに顔を歪めながら、それでも笑った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃねえだろ!」
「大丈夫よ。お姉さんだから」
その言葉に、スバルの表情が壊れた。
前の世界と同じ。
同じように庇って。
同じように血を流して。
同じように笑った。
けれど、今のユイはそれを知らない顔をしている。
「なんで……」
スバルの声が震える。
「なんで、また俺を庇うんだよ……!」
場が、一瞬止まった。
銀髪の少女がスバルを見る。
「また?」
パックの目が細くなる。
フェルトも怪訝そうな顔をする。
ユイは、初めて聞いたようにスバルを見た。
「私があなたを庇ったのは、今が初めてでしょう?」
スバルは何も言えなかった。
その通りだ。
この世界では。
でも違う。
違うのに、言えない。
ユイは、その沈黙を静かに受け止める。
表面では心配そうに。
内心では、彼の曇りを噛みしめながら。
エルザが笑った。
「あなたたち、本当に面白いわ」
その声と同時に、エルザの狙いが変わる。
フェルト。
ロム爺が庇うように動いた。
ユイも追う。
銀髪の少女の氷が飛ぶ。
しかし、一拍遅い。
ロム爺の巨体が揺れ、床に崩れた。
「ロム爺!」
フェルトが叫ぶ。
スバルの喉から、音にならない声が漏れる。
まただ。
また死ぬ。
また間に合わない。
エルザの刃が、続けてフェルトへ向かう。
ユイは動いた。
だが、届かない。
届かないようにした。
フェルトの体が床へ落ちる。
徽章が転がる。
スバルの膝が、がくりと折れた。
「やめろ……」
小さな声だった。
「やめろよ……」
銀髪の少女が息を呑む。
彼女には、スバルの言う“また”の意味がわからない。
ただ、その声に積み重なった絶望だけは伝わった。
ユイは、血の流れる肩を押さえながらスバルの前に立つ。
「スバルくん、逃げて」
「無理だ」
「逃げて」
「無理なんだよ!」
スバルが叫んだ。
「足が動かねえんだよ! 怖いんだよ! また死ぬのかって、また誰も助けられないのかって、俺、何も……何もできねえんだよ!」
その叫びは、盗品蔵の中に響いた。
ユイは、泣きそうな顔を作った。
頼れるお姉さんとして。
彼の痛みに胸を痛めているように。
「それでも、生きて」
優しい声だった。
だからこそ、残酷だった。
次の瞬間、エルザの刃が滑り込む。
ユイの横を抜けて。
スバルの腹を裂いた。
「が、っ……」
スバルの体が折れる。
銀髪の少女の叫び。
パックの魔力が膨れ上がる気配。
エルザの楽しげな吐息。
床に広がる血。
ユイは間に合わなかった顔で振り返った。
そして、膝をつく。
スバルの手を取る。
本当は、まだ動ける。
戦える。
けれど、今必要なのは戦うことではない。
彼の最後に残ることだ。
「スバルくん」
ユイは声を震わせた。
「ごめんね」
スバルの唇が動く。
「ユイ、さん……」
「うん」
「俺……また、何も……」
言葉が途切れる。
ユイは、スバルの手を両手で包んだ。
「あなたは、悪くないわ」
スバルの目が揺れた。
救われたい顔。
でも、救われることを拒む顔。
その矛盾が、痛いほど美しかった。
スバルの視線が、銀髪の少女へ向く。
ロム爺へ。
フェルトへ。
最後に、ユイへ戻る。
ユイは、その視線を受け止めた。
やがて、スバルの指から力が抜ける。
世界がほどける。
血の匂いが遠のく。
痛みが消える。
市場の喧騒が、遠くから戻ってくる。
「兄ちゃん、買うのか買わねえのか?」
果物売りの声。
王都の市場。
三度目の始まり。
スバルは、今度は動かなかった。
果物屋の前で、腹を押さえたまま立ち尽くしていた。
そこに傷はない。
血もない。
けれど、顔は死人のように青かった。
ユイは少し離れた場所で、それを見ていた。
今すぐ声をかけてもいい。
優しく手を差し伸べてもいい。
けれど、まだ早い。
次は、路地裏。
スバルは人混みから逃げるように歩き、そこでまた死に近づく。
ユイは静かに歩き出した。
遠すぎず。
近すぎず。
助けられそうで、間に合わない距離を保って。
スバルの背中は、小さかった。
最初に見た時の、騒がしくて浮ついた少年とは別人のようだった。
ユイは、その背中を見つめながら、胸の奥で甘く囁く。
もっと。
もっと曇って。
そのたびに私は、何も知らない顔で手を差し伸べてあげる。
頼れるお姉さんとして。
あなたの絶望を、一番近くで見るために。