Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

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第二話 届かない名前

「――その名前で、呼ばないで」

 

 銀髪の少女の声は、静かだった。

 

 怒鳴られたわけではない。

 

 剣を向けられたわけでもない。

 

 それなのに、スバルは胸の奥を冷たい手で掴まれたように硬直した。

 

「え……?」

 

 間の抜けた声が出る。

 

 ついさっきまで、血の海の中で倒れていた少女が、目の前で生きている。

 

 それが嬉しくて。

 

 安心して。

 

 だから、名前を呼んだ。

 

 あの時、彼女が名乗った名前を。

 

 けれど少女の表情は、安堵でも驚きでもなかった。

 

 傷ついた顔だった。

 

 触れてはいけないものに触れられたような、ひどく静かな拒絶。

 

「なんで……」

 

 スバルの喉が震える。

 

「だって、お前、そう名乗って……」

 

 そこまで言って、言葉が止まった。

 

 違う。

 

 それは今じゃない。

 

 あの路地裏で助けられて、二人で徽章を探して、盗品蔵へ向かって、そこで血に沈んだ。

 

 その時の話だ。

 

 今の彼女は、まだ何も知らない。

 

 スバルを助けたことも。

 

 一緒に歩いたことも。

 

 盗品蔵で死んだことも。

 

 何も知らない。

 

 覚えているのは、スバルだけ。

 

 その事実が、遅れて脳に染み込んでくる。

 

「……なんだよ、それ」

 

 スバルは、呆然と呟いた。

 

 銀髪の少女は眉を寄せる。

 

 彼女の肩の近くに、小さな猫のような精霊がふわりと現れた。

 

「君さ、その名前の意味、わかって言ってる?」

 

 柔らかい見た目に反して、声は冷えていた。

 

 スバルはその精霊を見る。

 

「パック……」

 

 言ってしまってから、また気づく。

 

 精霊の目が細くなる。

 

「ボクの名前まで知ってるんだ」

 

「あ……」

 

 スバルの口が開いたまま固まる。

 

 サテラ。

 

 パック。

 

 どちらも、今の世界ではまだ聞いていないはずの名前だった。

 

 自分の中では当たり前の情報が、この場では異常になる。

 

 何を言っても、怪しくなる。

 

 何を黙っても、誤魔化しているように見える。

 

「違う、俺は……!」

 

「何が違うの?」

 

 少女の声は、鋭くはなかった。

 

 だが、そのぶん逃げ場がなかった。

 

「あなた、私のことを知っているみたいに話すけれど、私はあなたを知らないわ」

 

 私はあなたを知らない。

 

 その一言が、スバルの胸に刺さった。

 

 知っている。

 

 自分は知っている。

 

 だが、相手は知らない。

 

 自分だけが知っている。

 

 それを証明する方法がない。

 

 スバルは唇を震わせた。

 

「俺は……俺は、助けようと……」

 

「助ける?」

 

 少女が不思議そうに聞き返す。

 

 スバルは言葉を失った。

 

 何を助けるのか。

 

 盗まれた徽章をか。

 

 これから起きる殺人をか。

 

 それとも、もう死んだはずの彼女をか。

 

 どれも今の彼女には伝わらない。

 

 言えば言うほど、自分だけがおかしくなる。

 

 市場のざわめきが遠くなる。

 

 人々はちらちらとこちらを見ている。

 

 銀髪の少女に、あの名を呼んだ少年。

 

 その視線の意味を、スバルはまだ完全には理解していない。

 

 けれど、自分がとんでもないことをしたらしいことだけはわかった。

 

 その時、横合いから落ち着いた声が入った。

 

「まず、謝りましょう」

 

 スバルは振り向いた。

 

 そこに、ユイがいた。

 

 白に近い淡い髪。

 

 穏やかな目。

 

 頼れる年上の少女のような、柔らかな立ち姿。

 

 間違いない。

 

 一度目の世界で、自分を庇って血を流した人。

 

 腹を裂かれ、肩を斬られ、それでも笑っていた人。

 

 スバルの顔が、くしゃりと歪む。

 

「ユイ、さん……」

 

 その呼び方に、ユイは一瞬だけ不思議そうに目を瞬かせた。

 

 自然だった。

 

 あまりにも自然な、初対面の反応。

 

「ええ。私はユイだけど……あなた、どこかで私と会った?」

 

 まただ。

 

 また、知らない。

 

 ユイも覚えていない。

 

 あの血も、痛みも、最後に握った手も。

 

 全部、スバルだけが覚えている。

 

 スバルは口を開いた。

 

 けれど、声にならない。

 

 ユイは、そんなスバルを見て少しだけ眉を下げた。

 

 表面上は、純粋な心配。

 

 だが胸の内では、彼の表情を一つ残らず味わっていた。

 

 サテラの名で拒絶された顔。

 

 パックの名を口にして疑われた顔。

 

 ユイの名を呼んで、また自分だけが覚えていると突きつけられた顔。

 

 いい。

 

 とてもいい。

 

 スバルの世界は、もう一度目とは違う軋み方をしている。

 

 まだ折れてはいない。

 

 だが、確かにひびが入った。

 

 ユイは、そのひびを優しく撫でるように声を出した。

 

「あなたが何か事情を抱えているのは、顔を見ればわかるわ。でも、今は先に彼女へ謝った方がいい」

 

「……謝る?」

 

「ええ。あなたに悪気がなかったとしても、その名前で彼女を傷つけたのは本当だから」

 

 スバルは、はっとして銀髪の少女を見る。

 

 彼女は怒っているというより、傷ついていた。

 

 忌まわしい名で呼ばれたこと。

 

 それを、親しげに口にされたこと。

 

 スバルに悪意はなかった。

 

 だが、悪意がないから許されるわけではない。

 

 ようやく、それがわかった。

 

「……ごめん」

 

 スバルは頭を下げた。

 

「俺、本当に知らなかった。いや、知らなかったで済む話じゃねえんだろうけど……でも、傷つけるつもりはなかった。ごめん」

 

 少女は黙っていた。

 

 パックも、スバルを見ている。

 

 しばらくして、少女は小さく息を吐いた。

 

「もう、その名前では呼ばないで」

 

「……わかった」

 

「それから、私はあなたを知らない。あなたが私を知っているみたいに話されても、困るわ」

 

 スバルは拳を握った。

 

 爪が手のひらに食い込む。

 

 そうだ。

 

 困るだろう。

 

 当たり前だ。

 

 なのに、その当たり前が苦しい。

 

 ユイは、その横顔を見ながら、内心で微笑んでいた。

 

 彼はちゃんと謝った。

 

 それでも救われない。

 

 謝っても、前の記憶は共有されない。

 

 善意だけでは、何も埋まらない。

 

 その噛み合わなさが、スバルを曇らせていく。

 

「……それで」

 

 銀髪の少女は、気を取り直すように周囲を見た。

 

「私は急いでいるの。大事なものを盗まれたから」

 

 スバルが顔を上げる。

 

 今なら言える。

 

 この場で、徽章が盗まれたことは彼女自身が口にした。

 

「金髪の子だろ」

 

 言ってから、スバルはすぐに言葉を足した。

 

「さっき、人混みを抜けてったのを見た。手に何か持ってた」

 

 これは嘘ではない。

 

 実際に、彼は先ほど人混みの中にフェルトの姿を見ていた。

 

 一度目の記憶があるから気づけたのは事実だが、今の情報としても破綻していない。

 

 少女の表情が変わる。

 

「どっちへ?」

 

「たぶん、こっちの路地の方へ」

 

 スバルは指を差す。

 

 その方向は貧民街へ続く道だった。

 

 ユイはそこで、自然に口を挟んだ。

 

「その先は貧民街ね。土地勘がないなら、追うのは難しいわ」

 

 少女がユイを見る。

 

「あなたは詳しいの?」

 

「少しだけ。王都には何度か来ているから」

 

「……どうして手伝ってくれるの?」

 

 もっともな質問だった。

 

 ユイは柔らかく笑う。

 

「困っている子を見かけたら、放っておけない性分なの」

 

 嘘ではない。

 

 放っておけない。

 

 ただし、理由は善意ではない。

 

 スバルが曇っていく過程を、近くで見たいから。

 

 それだけだ。

 

 少女はまだ警戒していた。

 

 パックもユイをじっと見ている。

 

 しかし、今は徽章を追わなければならない。

 

 迷っている時間はなかった。

 

「お願い。案内して」

 

「ええ」

 

 ユイは頷いた。

 

 スバルも慌てて動き出そうとする。

 

 だが、一歩踏み出したところで足がもつれた。

 

「っと……!」

 

 ユイが腕を伸ばし、支える。

 

 触れた瞬間、スバルの体がびくりと震えた。

 

 ユイの手。

 

 前の世界で、血に濡れていた手。

 

 最後に自分の手を握った手。

 

 その感触を、スバルは覚えていた。

 

 だが、今のユイの手は温かく、綺麗だった。

 

「大丈夫?」

 

 ユイは心配そうに聞く。

 

 スバルは、ぎこちなく頷いた。

 

「……大丈夫」

 

「そうは見えないけれど」

 

「大丈夫じゃなきゃ、困るんだよ」

 

 小さな声だった。

 

 ユイだけが、ほとんど唇の動きでそれを拾った。

 

 大丈夫じゃなきゃ困る。

 

 自分が動かなければならない。

 

 自分だけが覚えているのだから。

 

 その思い込みが、もうスバルを締めつけ始めている。

 

 ユイは、あえて何も言わなかった。

 

 慰めすぎてもいけない。

 

 今はまだ、スバル自身に自分を追い詰めてもらう方がいい。

 

 貧民街へ向かう道中、空気は重かった。

 

 一度目のように、スバルは軽口を叩かなかった。

 

 いや、叩こうとはしていた。

 

 何度か口を開き、冗談めかした声を出そうとして、失敗していた。

 

 銀髪の少女も、それに気づいている。

 

「あなた、本当に大丈夫なの?」

 

 少女が問う。

 

 スバルは顔を上げた。

 

 そこには、警戒だけではない心配が少しだけあった。

 

 スバルは笑おうとする。

 

「大丈夫。ちょっと、異世界初日からイベントが濃すぎて処理落ちしてるだけだから」

 

「いせかい?」

 

「あー……こっちの話」

 

 少女は首を傾げる。

 

 パックがため息をついた。

 

「変な子だね」

 

「よく言われ……いや、そんなには言われてねえけど」

 

 軽口は形になった。

 

 だが、声に力がない。

 

 ユイはそれを聞きながら、前を歩いた。

 

 道を選ぶ。

 

 人目の少ない場所を通る。

 

 ただし、盗品蔵へ向かう大筋は変えない。

 

 ここで余計な戦闘を起こす必要はない。

 

 スバルは死ぬ。

 

 だが、それは今ではない。

 

 次だ。

 

 盗品蔵の扉が見えた時、スバルの足が止まった。

 

 古びた建物。

 

 薄暗い入り口。

 

 一度目、ここには血の匂いが満ちていた。

 

 ロム爺とフェルトが倒れていた。

 

 エミリアも死んだ。

 

 ユイも傷ついた。

 

 スバルは、自分の腹を押さえた。

 

 傷はない。

 

 だが、痛みはある。

 

 記憶の中に。

 

「スバルくん」

 

 ユイが横から声をかける。

 

「怖い?」

 

「怖くねえよ」

 

 即答だった。

 

 けれど、声は震えていた。

 

 ユイは笑わない。

 

 からかわない。

 

 ただ、穏やかに言う。

 

「なら、無理をしないで。怖くない人ほど、無理をするから」

 

「……それ、俺が怖がってる前提じゃね?」

 

「違うわ。危なっかしい前提」

 

「もっと悪いだろ、それ」

 

 スバルがほんの少しだけ顔を緩める。

 

 そのわずかな緩みを、ユイは見逃さない。

 

 安心させる。

 

 それから落とす。

 

 希望は、折るために必要だ。

 

 ユイは扉を叩いた。

 

「こんにちは。人を探しているのだけど」

 

 中から、低い声が返る。

 

「誰だ」

 

 扉が開き、巨体の老人が顔を出した。

 

 ロム爺。

 

 生きている。

 

 血に沈んでいない。

 

 スバルの喉が鳴った。

 

 安堵が顔に滲む。

 

 それを見て、ユイの胸がまた甘く震えた。

 

 生きていることに安心する。

 

 そして、もう一度死ぬところを見る。

 

 その落差が、彼をさらに曇らせる。

 

「なんだ、お前ら」

 

 ロム爺の視線が、ユイ、銀髪の少女、スバルへ順に動く。

 

 ユイは穏やかに言った。

 

「金髪の小柄な子が、こちらに来ていないかしら。盗まれたものを追っているの」

 

「知らんな」

 

 即答だった。

 

 だが、態度は明らかに何かを隠している。

 

 銀髪の少女が前へ出ようとする。

 

 ユイが軽く手で制した。

 

「ここで待たせてもらえない? もちろん、迷惑料は払うわ」

 

 ロム爺はユイをじろりと見る。

 

「嬢ちゃん、見た目より話がわかるな」

 

「そう見えるなら助かるわ」

 

 ユイは微笑む。

 

 ロム爺は少し迷った後、扉を開けた。

 

「入れ」

 

 中は、薄暗かった。

 

 埃と酒と古い木材の匂い。

 

 血の匂いはまだない。

 

 スバルは、恐る恐る室内を見回す。

 

 何も起きていない。

 

 ロム爺は生きている。

 

 フェルトも、まだ来ていないだけ。

 

 今度は間に合った。

 

 そんな安堵が、彼の顔に浮かぶ。

 

 やがて、外から軽い足音が近づいてきた。

 

 扉が開く。

 

「ロム爺、戻ったぞ……って、なんだよこいつら!」

 

 金髪の少女が立っていた。

 

 手には徽章。

 

 銀髪の少女の顔が変わる。

 

「それ、私の!」

 

「げっ、持ち主連れて来やがったのかよ」

 

 フェルトは即座に距離を取った。

 

 スバルが慌てて両手を上げる。

 

「待った! 待った待った! 暴力反対! ここは交渉でいこう!」

 

「交渉?」

 

 フェルトが警戒した目を向ける。

 

 スバルはコンビニ袋を漁り、携帯電話を取り出した。

 

「これと交換だ!」

 

 フェルトとロム爺の視線が、携帯電話に集まる。

 

 ユイも、初めて見るものとして目を細めた。

 

「変わったミーティアね」

 

「だろ? すげえんだぞ、これ。鏡にもなるし、時間もわかるし、暗いところで光るし、あと……まあ今は電波ないから半分くらい死んでるけど!」

 

「最後の説明で価値が下がった気がするんだけど」

 

 フェルトがじとっとした目を向ける。

 

 スバルは慌てる。

 

「いやいやいや、見たことないだろ? 希少価値! 希少価値がある!」

 

 ロム爺は興味深そうに唸った。

 

「ふむ。確かに、見たことのない品ではあるな」

 

 スバルの顔に、少しだけ希望が戻った。

 

 交渉できている。

 

 自分にもできることがある。

 

 今度は、ただ死ぬだけではない。

 

 ユイはその横顔を見ていた。

 

 いい。

 

 希望が戻った。

 

 その時。

 

 扉の外に、冷たい気配が立った。

 

 ユイは剣の柄に指を添える。

 

 スバルの顔から、希望が消えた。

 

 彼も気づいた。

 

 気配ではない。

 

 記憶で。

 

「……来る」

 

 銀髪の少女が振り返る。

 

「来るって、誰が?」

 

 スバルは答えられなかった。

 

 扉が開く。

 

 黒髪の女が、笑みを浮かべて立っていた。

 

「あら。先客が多いのね」

 

 エルザ。

 

 その姿を見た瞬間、スバルの顔が死人のように青くなった。

 

 エルザはそれを見て、楽しげに目を細める。

 

「あなた、私を知っているの?」

 

「お前は……」

 

 スバルの声が震える。

 

「お前は、駄目だ」

 

「駄目?」

 

「みんな殺す。お前は、みんな……!」

 

 言葉が続かない。

 

 言えば、また前の世界の話になる。

 

 だが、恐怖だけは止められない。

 

 ユイは静かにスバルの前へ出た。

 

「下がって」

 

「ユイさん!」

 

 その声は、悲鳴に近かった。

 

 ユイは振り返る。

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃねえ!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「あんた、また……!」

 

 そこで、止まる。

 

 また。

 

 言ってはいけない言葉。

 

 今のユイは、まだ傷ついていない。

 

 まだ庇っていない。

 

 この世界では、何も起きていない。

 

 ユイは、初めて聞いた顔で首を傾げた。

 

「また?」

 

 スバルの顔が歪む。

 

 説明できない。

 

 止めたいのに。

 

 言えない。

 

 ユイは優しく微笑んだ。

 

「心配してくれてありがとう。でも、今は後ろにいて」

 

 ありがとう。

 

 その言葉に、スバルはまた傷ついた顔をした。

 

 エルザがうっとりと笑う。

 

「素敵ね。守る人と、守られる人。どちらから開くか迷ってしまうわ」

 

 刃が抜かれる。

 

 ユイも剣を抜いた。

 

 次の瞬間、エルザが動く。

 

 速い。

 

 ユイは受ける。

 

 金属音が盗品蔵に響く。

 

 重い一撃。

 

 だが受けられる。

 

 ユイは踏み込み、エルザの手首を狙った。

 

 エルザは笑いながら身体を捻る。

 

 ユイの剣が、黒髪を数本散らした。

 

「あら。本当に強いのね」

 

「褒めても何も出ないわ」

 

「腸なら出るでしょう?」

 

「趣味が悪い」

 

 銀髪の少女が氷を展開する。

 

 パックの魔力で空気が冷える。

 

 ロム爺が棍棒を握り、フェルトが徽章を抱えて後退する。

 

 スバルだけが、動けない。

 

 足が震えている。

 

 目はエルザの刃を追っているのに、体がついてこない。

 

 ユイは、その様子を横目で見る。

 

 恐怖。

 

 焦り。

 

 自責。

 

 それでも、何かしなければという思い。

 

 スバルの中で、それらが絡まり合っていた。

 

 ユイはエルザの刃を弾きながら、わざと強く踏み込む。

 

 勝てそうに見せる。

 

 希望を見せる。

 

 この人なら何とかしてくれるかもしれない。

 

 そう思わせるために。

 

 エルザがスバルへ視線を向けた。

 

 来る。

 

 ユイは半歩早く動いた。

 

 刃がスバルへ届く寸前、ユイが割り込む。

 

 肩が裂けた。

 

 血が飛ぶ。

 

「ユイさん!」

 

 スバルの叫びが響く。

 

 ユイは痛みに顔を歪めながら、それでも笑った。

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃねえだろ!」

 

「大丈夫よ。お姉さんだから」

 

 その言葉に、スバルの表情が壊れた。

 

 前の世界と同じ。

 

 同じように庇って。

 

 同じように血を流して。

 

 同じように笑った。

 

 けれど、今のユイはそれを知らない顔をしている。

 

「なんで……」

 

 スバルの声が震える。

 

「なんで、また俺を庇うんだよ……!」

 

 場が、一瞬止まった。

 

 銀髪の少女がスバルを見る。

 

「また?」

 

 パックの目が細くなる。

 

 フェルトも怪訝そうな顔をする。

 

 ユイは、初めて聞いたようにスバルを見た。

 

「私があなたを庇ったのは、今が初めてでしょう?」

 

 スバルは何も言えなかった。

 

 その通りだ。

 

 この世界では。

 

 でも違う。

 

 違うのに、言えない。

 

 ユイは、その沈黙を静かに受け止める。

 

 表面では心配そうに。

 

 内心では、彼の曇りを噛みしめながら。

 

 エルザが笑った。

 

「あなたたち、本当に面白いわ」

 

 その声と同時に、エルザの狙いが変わる。

 

 フェルト。

 

 ロム爺が庇うように動いた。

 

 ユイも追う。

 

 銀髪の少女の氷が飛ぶ。

 

 しかし、一拍遅い。

 

 ロム爺の巨体が揺れ、床に崩れた。

 

「ロム爺!」

 

 フェルトが叫ぶ。

 

 スバルの喉から、音にならない声が漏れる。

 

 まただ。

 

 また死ぬ。

 

 また間に合わない。

 

 エルザの刃が、続けてフェルトへ向かう。

 

 ユイは動いた。

 

 だが、届かない。

 

 届かないようにした。

 

 フェルトの体が床へ落ちる。

 

 徽章が転がる。

 

 スバルの膝が、がくりと折れた。

 

「やめろ……」

 

 小さな声だった。

 

「やめろよ……」

 

 銀髪の少女が息を呑む。

 

 彼女には、スバルの言う“また”の意味がわからない。

 

 ただ、その声に積み重なった絶望だけは伝わった。

 

 ユイは、血の流れる肩を押さえながらスバルの前に立つ。

 

「スバルくん、逃げて」

 

「無理だ」

 

「逃げて」

 

「無理なんだよ!」

 

 スバルが叫んだ。

 

「足が動かねえんだよ! 怖いんだよ! また死ぬのかって、また誰も助けられないのかって、俺、何も……何もできねえんだよ!」

 

 その叫びは、盗品蔵の中に響いた。

 

 ユイは、泣きそうな顔を作った。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 彼の痛みに胸を痛めているように。

 

「それでも、生きて」

 

 優しい声だった。

 

 だからこそ、残酷だった。

 

 次の瞬間、エルザの刃が滑り込む。

 

 ユイの横を抜けて。

 

 スバルの腹を裂いた。

 

「が、っ……」

 

 スバルの体が折れる。

 

 銀髪の少女の叫び。

 

 パックの魔力が膨れ上がる気配。

 

 エルザの楽しげな吐息。

 

 床に広がる血。

 

 ユイは間に合わなかった顔で振り返った。

 

 そして、膝をつく。

 

 スバルの手を取る。

 

 本当は、まだ動ける。

 

 戦える。

 

 けれど、今必要なのは戦うことではない。

 

 彼の最後に残ることだ。

 

「スバルくん」

 

 ユイは声を震わせた。

 

「ごめんね」

 

 スバルの唇が動く。

 

「ユイ、さん……」

 

「うん」

 

「俺……また、何も……」

 

 言葉が途切れる。

 

 ユイは、スバルの手を両手で包んだ。

 

「あなたは、悪くないわ」

 

 スバルの目が揺れた。

 

 救われたい顔。

 

 でも、救われることを拒む顔。

 

 その矛盾が、痛いほど美しかった。

 

 スバルの視線が、銀髪の少女へ向く。

 

 ロム爺へ。

 

 フェルトへ。

 

 最後に、ユイへ戻る。

 

 ユイは、その視線を受け止めた。

 

 やがて、スバルの指から力が抜ける。

 

 世界がほどける。

 

 血の匂いが遠のく。

 

 痛みが消える。

 

 市場の喧騒が、遠くから戻ってくる。

 

「兄ちゃん、買うのか買わねえのか?」

 

 果物売りの声。

 

 王都の市場。

 

 三度目の始まり。

 

 スバルは、今度は動かなかった。

 

 果物屋の前で、腹を押さえたまま立ち尽くしていた。

 

 そこに傷はない。

 

 血もない。

 

 けれど、顔は死人のように青かった。

 

 ユイは少し離れた場所で、それを見ていた。

 

 今すぐ声をかけてもいい。

 

 優しく手を差し伸べてもいい。

 

 けれど、まだ早い。

 

 次は、路地裏。

 

 スバルは人混みから逃げるように歩き、そこでまた死に近づく。

 

 ユイは静かに歩き出した。

 

 遠すぎず。

 

 近すぎず。

 

 助けられそうで、間に合わない距離を保って。

 

 スバルの背中は、小さかった。

 

 最初に見た時の、騒がしくて浮ついた少年とは別人のようだった。

 

 ユイは、その背中を見つめながら、胸の奥で甘く囁く。

 

 もっと。

 

 もっと曇って。

 

 そのたびに私は、何も知らない顔で手を差し伸べてあげる。

 

 頼れるお姉さんとして。

 

 あなたの絶望を、一番近くで見るために。

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